2021年03月07日

国立劇場公演「詩歌をうたい、奏でる―中世と現代―」

不可能あるいは非常に難しいだろうと思われたことが実現すると、驚きと感心とともにその成功に拍手することになる。先日の北関東の山火事も消すのは至難だろうと見ていたのだが、本格的な雨天もなかったのに消火に成功したと報道されて驚いた。一体どうやって消したのだろう!?と感嘆するばかりだった。
「みらいらん」7号で記事にした、「ベルリン連詩」(大岡信+谷川俊太郎+H・C・アルトマン+O・パスティオール)の音楽化の企画も、西洋のオーケストラと和楽器のオーケストラを一つの舞台に同居させるのは結構大変だろうと想像していたのだが、昨日その実際の公演があり(「詩歌をうたい、奏でる―中世と現代―」国立劇場小劇場)、緊急事態宣言のただ中だったが折角なので聴きに行き、思いの外、なんでもないことのように両者が溶け合って一緒に演奏していて、2グループが截然と分かれた形を思い描いていたので、こんなふうになるのかと感心した。
テキストが連詩という、どこから来てどこへ行くのか見当もつかない、本質的にとりとめのない断片のいくばくかのつらなりであることが、音楽を過激にアナーキーにする。とりとめのなさが遊びを誘発するのだろうか、作曲家(川島素晴、Marc David Ferrum、桑原ゆうの三名の共作)や音楽家たちがこんなにものびのびとおおらかに遊ぶのは、かつてないことではないか。芸術の道を究めるという厳粛さは感じられず、リズムが立つ部分があまりない雲の流れるようなゆるやかな動きの、和洋楽器の雅やかで悪戯気を含んだ遊戯の響きが展開される中で、詩句が朗誦される。日本語パートは能楽師の坂真太郎、ドイツ語パートはバリトンの松平敬がうたった。能楽師の謡の発声は独特の迫力があり、ぎらぎらしたざらつきを帯び、尖っていて、ナンセンスな断片がナンセンスなままにこちらの心に突き刺さってくる。音楽は、無邪気かつ技巧的に、遊びまくる。水の流れる音がしたので、あらかじめ録音したものを再生してスピーカーから流しているのかと思ったら、オーケストラの最後部の数人が薬缶を傾けて足元に置かれたバケツの中に水を注いでいたのだった。更にはバケツの水の中に手を入れてちゃぽちゃぽさせることまでしていた。これは笑ってしまった。
遊びに満ちているとはいえ、こんな変則的な編成で、練習にどれだけ時間をかけたのか知らないが、大変難しい演奏だっただろうと思う。指揮者を務めた川島素晴をはじめとする演奏メンバーを賞讃したい。言葉はどこからやってきてどこへと我々を導くのかという連詩の問いは、少なくとも純真な音楽へは到達したようだ。
コンサート前半の、中世の部の、乱拍子、今様、乱舞、白拍子などの復元演奏も、なるほどと興味をもって聴いた。
(池田康)
posted by 洪水HQ at 12:59| Comment(0) | 日記
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