ようやく夏も終焉、ひぐらしと入れ替わり秋茜が飛ぶようになった。
今年も内外に騒擾が少なくない。ミャンマーのクーデターが世界中に憂慮の声を沸き上がらせたのは2月だったが、この8月から9月にかけてアフガニスタンで米軍撤退とともに軍事力による政権交代が起こって、蜂の巣を突くような騒ぎになっている。
これらの動きをどう受け止めたらよいのか、正直なところ、受け止めようがない、狂った現実として傍観するほかないのだろうが、なにがどうであれ、まず基本的な指標は、国民の承認を得ているか、だろう。どんなに奇妙な政治形態でもその国の人々がよしとしているのであれば外からとやかく言っても仕方がない。しかしデモ隊を兵士が火器で制圧したり、メディアを理不尽に抑え込もうとしたり、国外へ逃れようとする人が数多くいるという事実があるなら、国民の承認を十分に獲得しているとは言い難い。そもそも武力によって政権を奪取するというやり方は(20世紀を終えた人類の歴史物差しで言えば)百年前二百年前の国盗り物語の作法であり、そんな時代の支配者層の政治感覚は、民草は上手に支配すればよいという考え方であろうから、承認を得るという必要性は感覚できないのではないか。たまたま国政の手綱を握った者が真の統治者になるためには、国土の生命から、そして世界の理性からのフィードバックは必要であるはずだ……制御工学で言うところのフィードバックの機能は、機械が安定して作動するために重要な要素であり、フィードバックを軽視、除去するならば、システムは暴走して地獄の沙汰へと赴いても不思議ではない。
「みらいらん」次号では「恐怖」をテーマにした特集を考えているが、「支配される恐怖」は、われわれが経験する恐怖の無数の可能性のうちでももっとも深刻なものだろう。
(池田康)
2021年09月08日
支配される恐怖
posted by 洪水HQ at 11:26| Comment(0)
| 日記
この記事へのコメント
コメントを書く