
難民の苦難(メカス本人の経歴)、9・11ツインタワービルの惨事、東日本大震災、二十世紀の詩の脈動(ツェランの朗読の声!)。文脈の絡み合いが非常に重層的で、流れに胸苦しい重みが感じられるのは、主題が詩であるからそれを取り逃がすまいと制作者が力を尽くしたのだろう、入魂の編集。文学テキストがスクリーン上にこのように生き生きと乗ってくる、詩が飾り物としてではなく生命として現われてくるのは驚きだ。
井上監督はプログラムに今作の撮影を回想して「一般的にプロが使う撮影スケジュールの体裁を満たしていない」「予定とは偶然を誘うための、壊されるための脆いシナリオにしか過ぎない」と書いている。台本がほとんどない状態で、どんな勝算をもって制作は始められたのだろうか。「眩暈(めまい)」は予定され得ない。ドキュメンタリーは大なり小なりそういうもので、ヴィム・ヴェンダースがキューバの音楽家たちを撮りにいったときも想定された台本などなかっただろう。しかし今作は詩という風か霞に近いようなものを相手にするわけで、詩への全幅の信頼がなければこの映画は成立しようがない。おそらく井上監督は前作「幻を見るひと」(2018)を通して「吉増剛造の詩」への大いなる信頼を培ったのだろうと推測される。映画の成否を詩に賭けるという制作陣の覚悟にこの作品のもっともドラマティックな面があるのかもしれず、詩歌に携わる人間はそこに感応しないではいられない。
構造の点で言えば、能に似ているところもあるだろうか。ワキの旅の僧として吉増さんが登場し、前ジテはメカス氏の息子さん(が語る最後の日々のメカス氏の姿)、そして後ジテの山場はアコーディオンを鳴らしながらうたうジョナス・メカスだ。彼は恨みや執着に苦しんではいないとしても、表現の世界に生きた人間としての特段の心の重さがあるのは間違いない。詩人・吉増剛造は能のシアトリカル・ダイナミクスを体得している、この詩人の魂マギはかならずや幻妖な能舞台を出現させるだろうと、井上監督は確信していたのではないだろうか。
(池田康)
追記
13日の初日の上映後、吉増剛造・井上春生・城戸朱理三氏のトークショーがあり、試写会のときから最終完成形まで作品が手直しされ刻々と変わっていったことなどが語られた。城戸さんは前作「幻を見るひと」のプロデューサーを務めている。