2008年09月21日

三輪ガムラン「愛の賛歌」

19日、おおがきビエンナーレ初日に演奏される、三輪眞弘氏のガムラン作品「愛の賛歌」を聴きに、大垣に行く。浜松までは新幹線で。電車を乗り継ぎ、豊橋から東海道線の大垣行き快速に乗り込む。たまたま一番前の車両に乗ったのだが、これはラッキーだった。この列車は踏み切りや駅を通過するときなどさかんに汽笛を鳴らす。先頭車両だとその音を体全体に受ける衝撃と共に体感できるのだ。巨象がいななくような響きは旅の行程の刻印として真に特別なものとして現れては消えてゆく。東方面から大垣に向かうときはぜひ始発の豊橋から乗るべきである。
「愛の賛歌」は、大垣駅から歩いて10分ほどのところの、大垣城の構内にある武徳殿という百畳をこえるだろう広さの木造のお堂で行われた。アナログという片仮名を使うのもはばかられるほど古風な建物だが、インドネシアのガムラン楽器を置くとこれがなんともしっくりと融けあって見える。この開幕コンサートでは、三曲が大阪のガムラン演奏グループによって演奏されたのだが、他の二曲(松本直祐樹、高橋裕の両氏の作品)は独自の発想はあるもののガムラン音楽度は希薄なように感じられた。それらしく聴こえてこないうらみがある。その点、「愛の賛歌」はガムラン音楽のグルーヴの骨法をしっかり獲得しているように感じられ、耳を向けてなんの難も感じない。この曲の特徴は、まず表現が非常にストレートなこと。単純なあり方がおのずと生み出す美を尊重する志向が全体にわたって感じられる。後半から歌が入り、シンプルな音程で女声独唱と合唱とをおりまぜて延々とうたわれるのだが、その歌詞内容は、聞き取りえた限りでは、タイトルが表すとおりのストレートなもので、それをまっすぐに音楽化している。この言い方は作曲の意図からしたらあるいは単純すぎるかもしれないが、結果としてはそう聴こえる。三輪作品においてこのような素直さ、素朴さが可能なのかと驚きを覚えるほど、スクエアさが際立っている。実はもうひとつの特徴は、かなりプロフェッショナルな技術を要する、男女二人のダンサーによる舞踊を伴うということで、これがこの曲にとって必須の要素なのか、オプショナルなものなのか知らないが、舞踊が加わっていることによって芸能の多次元の立体性が強烈に実現されている。更に、作品を奇異な方向に歪め自傷させるという作為をほどこさず、むしろ素朴であることのうえに更なる甘美さが追求され、まろやかな完成へと導いている。すべての部分が艶やかに輝いている。三輪氏は今回(10/11のために)書かれた文章中で「音楽を愛でる」という表現を使っており、これは「奏でる」の誤植か?と私が質したところ、いや「愛でる(めでる)」でいいのだという回答だったが、氏の感性の中核に音楽をいとおしむ、音楽を愛でしれるという意識された特徴的側面があるらしいことは、この「愛の賛歌」の出来具合の帯びる言い知れぬ芳醇さ、艶やかさによってよく証されるように思われた。鬼才・三輪眞弘の、意想外にスクエアな、ストレートな名品である。各地で続々と演奏され、多くの人がこの濃密にして清楚な「秘儀」を体験してほしいものである。(池田康)
posted by 洪水HQ at 17:31| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記
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