2009年06月28日

VOICE SPACE公演「声の幻」

詩と音楽の融合の可能性をさぐる、東京芸大の学生のグループ「VOICE SPACE」の初めての東京公演を聴きに行く。26日夜、新宿文化センター小ホールにて。遅れて会場に着いたため、第一部は最後の2曲しか聴けず、それも、急いできた心身を鎮めながらだったので、落ち着いて聴けたとは言えない。第二部以降は最後まで聴いた。しかし、後述する理由で、第三部の後半は終演時間を気にしながら聴いていたためやや身が入らなかったかもしれない。第二部は中国人詩人の作品を曲にしたもの。第三部の「子守唄よ」は中原中也の生涯、心情の歴史を、彼の詩を構成して描き出すもの。ヴォリュームのある力作の、立派な演奏。しかし音楽的成果としては第二部の二作品の方が、清新で高度な達成を得ていたように思われた。音の構成の意外性が刺戟的で際立っていた。中也による作品がグループとしての初期の段階で、第二部の作品が最新の段階ということかなとも想像した。第二部と第三部の幕間に佐々木幹郎、谷川俊太郎の両氏(第一部の曲の詩の作者)が短いトークを行った。第一部前半の演奏を聴いていなかったため話の内容を受け止められない部分もあったが、谷川氏の言う「カウンターカルチャー」性は、たしかにあるかもしれない。東京芸大という音楽のエリートの人達が仕事の成果の位置づけがなかなか得られないような場所でこうした企てを実行するのだから面白い。学生とはいえ音楽の専門家集団が真剣に作り込み、立派な演奏をするのだから、こちらの興味を満足させるようなステージになるのは当然といえば当然か。この日、会場に満員!の聴衆も、さだめし聴き応えがあったと思う。更に活動を続けるなら歴史に残るような仕事(作品)も生まれてくるかもしれない。ひとつ、望みを言うとしたら、言葉の表現にもっと濃い陰翳があると嬉しいか。音楽としてはこれで十分なのかもしれないが、詩のリサイタルとしては、もっと言葉の魂と業の表情の深く細かな彫琢がほしい。音楽畑の人間の意識にのぼらないようなレベルで、演劇畑の人間なら細かく鋭敏な表現をするように思う。そのレベルでも聴かせてくれるようになったら、恐るべき存在となるだろう。
さて、コンサートが終わったあとが大変なこととなる。その夜のうちに最終(品川22:07)の新幹線で郷里の名古屋に帰る予定だった。予定を変えて翌朝早くでもさして問題はなかったのだけれど、約束、というほどではないが、今晩帰ると言ってあったので、予定どおり動けるなら動こうとして目を回すことになった(これしきの縛りでもあるとないとでは行動を実行に移すか否かを大いに左右するのである)。第三部終了が9時を大幅に過ぎたあたりから間に合うかどうかの判断を考え始め、最終的に、9時30分までに終れば間に合う可能性があると判断を下した。従って演奏が35分まで延びたら迷う余地なく断念したはずでいっそそのほうが安気だったのだが、ぴったり30分に終ったため、飛び乗りにトライする軌道に入った。これにより、終演後、いろいろな方と話をする余裕がほとんどなくなり、失敬と言わなければならない挙動があったかもしれず、後から思い出して大汗である。ホール前からタクシーに乗り新宿駅東口へ。新幹線の切符を自動券売機で買おうとしたら本日分は終了という表示。ここであきらめる選択肢もあったが、計算上はまだ可能性があったため、とりあえず品川まで行ってみることにする。着いて構内を走り、新幹線改札口前の駅員に聞いたら、間に合うとのことなので、切符を買ってホームへ出た。発車3分前。混雑していて、立ったままの乗車となる。しかし静岡で座ることができた。日付が変わって20分後、なんとか実家に到着した。(池田康)
posted by 洪水HQ at 23:17| Comment(0) | 日記
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: