2009年10月07日

音楽のフィクション性〜「フレディーの墓/インターナショナル」

文芸のあらゆる分野においてフィクション性は機能する。ある種の作為、ある種のずれ、いくぶんかのねじれ、飛躍、過剰な意味づけ、強引な関連づけ……そういった表現の運動が作品に力を賦与する。なんの作為もなく現実生活の一部である現実を差し出して作品ですということはまず成り立たない。作品として成立させられているものにはなんらかのフィクション的な要素が否応なくひそむ。音楽、とくに絶対音楽は音の一義的決定であり決定された音の生成であるからフィクションを含まないかのように見えるけれど、それでもずれやねじれ、飛躍の余地は存在する。文学的フィクションが多く付帯する場合はおそらくロマンティックと呼ばれるような作品世界が生ずることになるだろう。そうでない場合にしても、作曲者が自分の音楽イメージを100%正確に楽譜に記述できるわけではないし、楽譜がつねに作曲者の意図どおり演奏されるわけでもない、という基本的なところですでにずれや飛躍は侵入してくる。テンポ設定、楽曲解釈、奏法などなど、あらゆる点で作曲者の要求を正確にみたす演奏は至難であるし、むしろ作曲者自身、細かいところまでイメージ設定していなくて、演奏の創造的肉付けに期待する、という場合も少なくないだろう。それは演奏に接するさいの楽しみでもあるわけだが、あまりにずれが大きいと、もはやその作曲家の作品とはいいがたくなる場合もある。たとえば演奏技量の十分でないアマチュアの奏者による未熟な演奏は、リズムや音程が狂ったりし、結果として作品の享受は苦痛である割合が大きくなる。
三輪氏の「録楽」批判は、音楽受容の現状にかかわって非常に本質をついているところがあると思われるけれども、生の演奏がすべていい演奏でもなければ本物の音楽と文句なく言えるわけでもないということも考え合わせる必要がある。むしろレコードになっているような演奏は、当たり前の話だが、傷がないという消極的意味であれ「いい演奏」が多く、言い換えれば当代一流の「いい演奏」であることがレコード化される必要条件であって、逆に現実世界のライブの演奏で「いい演奏」に高い確率で出会えるのは大多数の人間には望みがたい相当めぐまれた環境と言わざるを得ない。したがって楽譜を読む訓練をうけていない、つまり楽譜読解から音楽をイメージできない、楽譜書法のリテラシーを欠いた一般の聴衆にとって、いい演奏の収録されたレコード/CDを聴くことは、楽譜を読むことの代替物となる。それを聴くことによって作曲家の音楽思想に迫る効率のよい道、場合によっては唯一の道がそこにはあるのであり、これを否定することは音楽理解や音楽教養の構築をひどく難儀なものとする。そんなことは三輪氏もわかっているはずであり、問題は、過剰の便利さのなかで音楽の本源的体験が見失われていく、ということであるのだろう。一世紀前の地方の町や村で舶来の音楽諸作を聴くことは難しかったに違いない。しかしわれわれの内部の生命の火を燃え立たせる祭りの歌と踊りというもっとも重要な「音楽」を今のわれわれがもっているとは思われない。録楽のフィクション性が見えなくなっている現状に対抗して、あえてそのフィクション性を「見えるようにする」という意図が、三輪氏のある種の活動には含まれているといっていいのかもしれない。「フレディーの墓/インターナショナル」も、「フォルマント兄弟」の本音が若干表出しているような気がしなくもないが、山崎与次兵衛氏の言うとおり、純然たる音楽の楽しみを与えてくれるようなナイーブな音楽作品ではない。むしろ可視化された過剰のフィクション性の工作行為により、現代の音楽受容のフィクションを暴き、見えるようにしている、そんな「コンセプチュアル」な行為のようである。フレディー・マーキュリーが一種の「アイドル」であるならば、その「アイドル」の(人工的に呼び出され作り出された)霊に「インターナショナル」を日本語で歌わせるという言ってみれば「冒涜行為」の過激さにより商業化された音楽の(そして概念的に解釈された歴史の)フィクション性を告発している、ということであるのだろう。
三輪氏の「録楽」批判が、もし実践的にまっすぐの道を行くとしたら、楽譜と演奏のあいだのずれという問題も生じない「フリー・ジャズ・プレーヤー」となって、ステージ上で真正の音楽を創造して堂々と「録楽」に対抗するという形になるのではないか。なぜ三輪氏は「録音を拒否するフリー・ジャズ・プレーヤー」にならないのか。素養と技量の問題があるから、という答えが返ってくるのかもしれないが、本当のところはもっと面倒で逆説や矛盾をふくんだ思考回路が存在しているように想像される。逆、つまり、フィクション性を拒絶するのでなく、むしろ積極的にフィクション性とかかわっていく方向が氏の選ぶところのようだ。鋭敏にフィクションを警戒すると同時に、明らかにフィクションに惹かれてもいる。虚構の物語をでっちあげその物語の中の祭儀として音楽作品を作るという手法もあからさまにフィクションとの戯れである。多くの作曲家がおこなう言語イメージ(タイトル、サブタイトル、その他)を添える等のフィクション操作は、大抵いかにも真剣で本当らしく、それっぽく響くわけだが、三輪氏の場合はときに過剰なまでに虚構的でかえって嘘っぽく聞こえる。フィクション性を嘘っぽいところにまで追いつめ際立たせるのが三輪氏の戦術とも言えるかもしれない。音楽にまつわるあらゆるフィクション性を強調し可視化するという意図がつねに働いていて、時にアイロニカルなその可視化のなか、その奥で、なお生の姿を保つ「音楽」を祝福するということであろうか。(池田康)
posted by 洪水HQ at 20:35| Comment(0) | 日記
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