2012年04月03日

瀬崎祐詩集『窓都市、水の在りか』

今日は全国的に天気が荒れ模様のようだ。こんな雨の日に瀬崎さんのこの詩集を紹介するのは、相応しいような気もする。瀬崎さんも今頃、雨を浴びながら、うっとりと生活の畦道を辿っているのではないだろうか。
「これは詩でございます」というはっきりした顔かたち、硬い自覚の物腰の詩は、ああこれは詩作品なんだなと、受け取りやすい。その点、瀬崎氏の詩は、奇妙に独特な作品の形をしているように見え、独り言のような、夢記述のような、とらえどころのない輪郭の閉じ方をしていて、なんなんだろうと思わせられるところがある。この記述はなんなのかという疑問はすなわちこの詩人の詩の思考でもあり、その思考を追うことでもある。
心理の病理というと言い過ぎだろうが、心の揺れ動き、生理をイメージのなかに探り、そのイメージが夢の舞台のようなものを作り上げていく。つかまえがたいものをつかまえようとする行、それはどんな詩でも追求される道筋ではあるが、その不安定さを不安定なまま提示する作品観は固有のものがある。たとえば「逃げ水ホテルで」という作品は表現の過剰な重畳もなく気持ちよく軽やかに幻想を描くが、これは一体なんの話なのだろうか。逃げ水。水の通り道。忘れていて、思い出す。詩人がつかまえようとしている生命の運動性の提示であると、ひとまず言えるのだろうか。
「水」がひとつのキーワードになっているが、それはときに言葉であり、感情であり、時間であり、生命である。ゆえに水面は意識面であると言っているように思えるのが「水鏡についての断片」だ。「向こう側にいる者もまた自分のかたちであると いつ気づいたのだろうか」「向こう側のあなたに触れようと 水面に手をのばす 水面に波紋が広がり 向こう側のあなたは揺れて壊れてしまう」意識面の下の自分をつかまえたいという願望は、見る視線であり同時に見られもするという、生命であり意識であるこの水の生態の構造を洗い出す。
この「水」は、より大いなる水の場所を求めているようにも見える。それはふるさととも言えるのだろうか。「わたしを溶かした雨はさらに激しくなる あいまいな輪郭の風景に溶けたわたしは 海をもとめて流れはじめる」(「五月雨」)。
あとがきの「切羽詰まったもの」「本当の嘘」「肉体からの湿り気」という言葉にも注目。思潮社刊、本体2200円。
(池田康)
posted by 洪水HQ at 13:52| Comment(0) | 日記
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