テレビなんかで競馬を見ていて、疑問に思うのは、はたして馬は自分がやっているレースのことをどこまで知っているのか、ということだ。陸上競技の選手は、自分がこれから挑むのは100メートル走なのか、10キロなのか、正確に知っている。ゴールがどこにあるのかも。馬にはそういう種類の正確な知識はないにしても、それでも漠然とはわかっているのだろうか。あるいはなにも知っちゃいないのか。寺山修司も『馬敗れて草原あり』で、「これらの馬はレースがいつ終るかがわかっていないから、長距離レースになるとバテてしまうのだ、というのが私の考えである。(中略)馬によっては、四コーナーをまわるまでが助走で、直線へ入ったらレースが成立するのだと思っているのがいるかもしれないし、いつも足を残しながら「他馬の先に出ないで、一緒に行動するのがレースだ」と思っているかもしれない。かなり頭のいい馬でも、直線の四00メートル目あたりの、肉眼でさえあいまいなゴールを目標として全力疾走することは至難のことのように思われるし、それだからこそ、ゴールを過ぎてもまだ競り合っている馬がいたり、ゴール前一00メートルの地点で先頭に立って、レースをやめてしまう馬がいたりするのである。」と書いている。要するに、段取りを考えるのは騎手で、その指示通りに、レースの詳細についてなにも知らない馬を走らせる、ということになるのだろうか。それともたとえば二千メートルのレースだったらその直前に二千メートルの距離ばかりを何回も走らせて距離感を覚えさせるというようなこともするのか。
言葉で作品をつくる作業も、馬のように、多くの場合最終的な「距離」がわからない、つまり詩であったら何行になるか、小説であったら原稿用紙何枚になるか、書いている途中は正確にはわからず、どういうレースなのかはっきりしないというもやもやを抱えながら書き進むことになる。馬よおまえの気持ちはよくわかると言いたくなる。例外的に短歌や俳句はいつも「距離」がはっきりしているから、その点の迷いはないだろう。
しかしだからといって簡単であるわけではないようで、いま、19日の「詩の筏」句会の提出作品を考えているのだが、二つは凡作かもしれないが大体まとまったものの、あと一句がなかなかうまくいかず、どう言葉を組み替えてもなにか釈然とせず、苦労しているところである。
(池田康)
2013年05月16日
レースの距離
posted by 洪水HQ at 22:05| Comment(0)
| 日記
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