2023年01月21日

作曲家エンニオ・モリコーネの仕事

いま、仕事やらなにやらでやたら立て込んでいるのだが、その間隙を縫って、映画「モリコーネ 映画が恋した音楽家」(ジュゼッペ・トルナトーレ)を見た。映画音楽で活躍したイタリアの作曲家エンニオ・モリコーネのドキュメンタリー。このジャンルの映画は鑑賞者を限定しそうだ。しかし映画・ドラマに関心がある人はぜひ見るべきだし、音楽が好きな人も二十世紀の音楽の動向を確かめるために見逃してはいけないだろう。とすると、ほぼすべての人に勧められる映画ということになる!? モリコーネが参加した代表的な作品の音楽のサワリが彼の解説に伴われて次々と奏され、魔法のようにこちらの耳に踊りこんできて魅惑し、音楽のインスピレーションが裸形で立ち現れる、その驚異。今月見るべき最重要の一本。
(池田康)
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2023年01月17日

壁画12号&その他のお知らせ

個人誌「壁画」12号をつくりましたので、次のリンクからご覧下さい。
http://www.kozui.net/artnote/hekiga/hekiga12.pdf

その他の情報、お知らせなど。
杉本徹さんから連絡をいただいたのだが、慶応義塾大学アートセンター(三田キャンパス)で、「西脇順三郎没後40年記念 フローラの旅展」が始まっているようだ。3月17日まで。西脇が野の草木を愛したことを巡る展示のよう。土日祝日は休館。
それから、阿部弘一さんが逝去されたとのこと。ご遺族の方からご連絡をいただいた。お会いしたことはなかったように思うが、弊社の雑誌に何度かご寄稿いただいている。ご冥福をお祈りいたします。
(池田康)
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2023年01月07日

この正月の読書

この正月は久し振りの小旅行に出かけ、気持ちを新たにすることができた。人混みにもまれながらも、どこまでも広がりつづける風景を楽しみ、なつかしさに呼吸が深くなる瞬間もあった。
旅先の本屋で見つけたのが、マルクス・ティール著(小山田豊訳)『マリス・ヤンソンス すべては音楽のために』(春秋社)だ。昨年の夏の刊。この指揮者を贔屓にしていてCDを何十枚も持っている私としては、読まないわけにいかない。
ヤンスンスの音楽家人生が詳細に辿られるのはもちろんだが、オーケストラと指揮者との関係がいかなるものかを知るためにも大変参考になる本。首席指揮者はそのオーケストラの「シェフ」であり、養育者(オーケストラビルダー)であって、誰を「シェフ」に迎えるかについて各オーケストラの責任者・経営陣は本当に真剣に熟考、検討を重ねる。あたかも一国のリーダーを選ぶのと似ているかもしれない。その生理、化学反応、個性にそった成長のありさまがすべての頁にいきいきと描写されていて、活動の奥行きが可視化され、オーケストラ音楽について理解を深くすることができる。
ヤンソンスの音楽家生活で惜しまれることが一つあるとすれば、オペラを振る機会が少なかったことだろうか。とくにワーグナーは断片的に取り上げただけでオペラ作品を一曲通して演奏する機会がなかったようなのはとても残念だ。
そのほか、この正月に遭遇したり情報をもらった出版物について述べると、いりの舎から『玉城徹訳詩集』が出たこと(ゲーテ作品が多い)、南原充士さんが新しい詩集『遡及2022』をアマゾンkindleで出したこと、それから元旦には高岡修句集『蝶瞰図』(ジャプラン)を読んでいた。陽炎のヴァギナ……の句はことに印象に残った。
(池田康)
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2022年12月30日

みらいらん11号

mln11.jpgみらいらん11号が完成した。
小特集「本ってなに?」は本という存在について改めて考える試み。ヨーロッパ古代・中世文学研究の沓掛良彦氏へのインタビューで詩歌の歴史と本の歴史を並行してお話しいただいたほか、エッセイを田野倉康一、高階杞一、松村信人、佐相憲一、高岡修、秋亜綺羅、小川英晴、土渕信彦、宇佐美孝二のみなさんにご寄稿いただいた。さらにアンケートに10名の方々からご回答をいただいた。本の本質と現実について、どれだけ新しい視野が拓けただろうか。
野村喜和夫氏の対談シリーズ、今回はカニエ・ナハ氏と「二十一世紀日本語詩の可能性」。ここ20年ほどの日本の詩のことと、造本の諸面の魅力のことなど。今回を一区切りとして、野村喜和夫対談集『ディアロゴスの12の楕円』(洪水企画)にまとめる予定。
巻頭詩は吉増剛造、渡邊十絲子、添田馨、江夏名枝、小見さゆり、七まどかの六氏。俳句は高山れおな氏に寄稿いただいた。
表紙は國峰照子さんのオブジェ作品「処刑」。
さらに詳しい内容は下記リンク先をご覧いただきたい。
http://www.kozui.net/mln11.html
巻頭の吉増さんの詩についてエピソードを記せば、映画「眩暈 VERTIGO」(12月15日の項を参照ください)の公開初日に東京都写真美術館のカフェで生原稿をいただいたのだが(スキャンしたものを本誌に掲載してある)、いきなり未知の森に迷い込んだようで、ご本人を前にして、読みあぐねる箇所の読み方をおそるおそるお尋ねしながら、手探りで読み進んだ15分ほどの恐怖の神秘は忘れられない。自由気ままに書かれているようにも見えるが、活字に組む際に助詞を一つ間違えていて、校正で直していただき、その一字の違いで脈絡ががらりと変わるのを体験し、しっかりした流れがあるのだと認識をあらたにしたことだった。ご注意いただきたいのが3行目、“ひらなが”となっているところ。これは“ひらがな”を間違えて“ひらなが”と言っているのであり、おさなごの感覚を想起している。言葉の立ち上がる瞬間のあやうい過程をおさなごの感受性でつかまえようとするところに吉増詩の極意の一端があると言えそうだ。「光」というタイトルも特別で、ありがたいことだった。
(池田康)
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2022年12月18日

愛敬浩一著『草森紳一「以後」を歩く』

表紙2.jpg愛敬浩一さんの草森紳一論の第二弾が出る。前の本に続き、〈詩人の遠征〉シリーズ第14巻。タイトルは『草森紳一「以後」を歩く』で、「李賀の「魂」から、副島種臣の「理念」へ」というサブタイトルがつく。税込1980円。
晩年の草森紳一は、明治期の政治家にして漢詩人の副島種臣にこだわって論考的文章を書き続けていた(気が長すぎたのか、未完)。そんな草森を見つめる「副島種臣が隠れていた」「漢字という大陸」ほか、詩人・大手拓次、小説家・島尾敏雄、画家・中原淳一を草森がどう考えたかを論じた諸篇を収める。どの論考においても著者の眼差しは柔軟にして鋭く、草森紳一の思考の根本に迫っていく。
あとがきを紹介しよう。
「走り始めてはみたものの、草森紳一の雑文宇宙≠フ果てしなさを実感して、改めて怖じ気立つ思いである。
前著『草森紳一の問い』と同様に、シリーズ第二弾となる本書も、草森紳一の「人と作品」ではなく、まして「評伝」や「論考」などとは無縁な、思いつきで書かれただけの、何とも雑駁で、ちぐはぐな感想の積み重ねに過ぎない。今はただ、その草森紳一「以後」≠少しのぞき見たことで足れり、としておく。
さて、「理念」とは既知であり、見慣れたものなのであろうが、見慣れたものこそが「認識する」ことが最も難しいと、ニーチェ/村井則夫=訳『喜ばしき知恵』(河出文庫・二〇一二年十月)の三五五番にある。「見慣れたものを問題として見ること、それを未知のもの、遠いもの」としてみなすことこそが、最も困難なことなのであろう。」
愛敬氏はまさに歩く速度で、けっして急がず、寄り道や回り道をしながら、草森紳一の心の核へと少しずつ近づいていく。拙速を避け、いきり立つことなく、注意深く細かいところを見ようとするゆとりをもった姿勢が自然体で頼もしい。興味ある方はぜひご覧いただきたい。
(池田康)
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2022年12月16日

虚の筏30号

「虚の筏」30号が完成しました。
今号の参加者は、生野毅、平井達也、久野雅幸、小島きみ子、神泉薫、海埜今日子、たなかあきみつ、の皆さんと小生。
下記リンクからご覧ください。


虚の筏全体の案内:

(池田康)
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2022年12月15日

映画『眩暈 VERTIGO』

よします映画004s.jpg詩人・吉増剛造が2019年に亡くなった前衛映画作家ジョナス・メカスを悼んで1年後にニューヨークを訪れるドキュメンタリーを主軸にした映画『眩暈 VERTIGO』(監督=井上春生)が今月13日から東京都写真美術館で公開上映されている(25日まで)。すでに国際映画祭で多くの栄誉を獲得しているとのこと。
難民の苦難(メカス本人の経歴)、9・11ツインタワービルの惨事、東日本大震災、二十世紀の詩の脈動(ツェランの朗読の声!)。文脈の絡み合いが非常に重層的で、流れに胸苦しい重みが感じられるのは、主題が詩であるからそれを取り逃がすまいと制作者が力を尽くしたのだろう、入魂の編集。文学テキストがスクリーン上にこのように生き生きと乗ってくる、詩が飾り物としてではなく生命として現われてくるのは驚きだ。
井上監督はプログラムに今作の撮影を回想して「一般的にプロが使う撮影スケジュールの体裁を満たしていない」「予定とは偶然を誘うための、壊されるための脆いシナリオにしか過ぎない」と書いている。台本がほとんどない状態で、どんな勝算をもって制作は始められたのだろうか。「眩暈(めまい)」は予定され得ない。ドキュメンタリーは大なり小なりそういうもので、ヴィム・ヴェンダースがキューバの音楽家たちを撮りにいったときも想定された台本などなかっただろう。しかし今作は詩という風か霞に近いようなものを相手にするわけで、詩への全幅の信頼がなければこの映画は成立しようがない。おそらく井上監督は前作「幻を見るひと」(2018)を通して「吉増剛造の詩」への大いなる信頼を培ったのだろうと推測される。映画の成否を詩に賭けるという制作陣の覚悟にこの作品のもっともドラマティックな面があるのかもしれず、詩歌に携わる人間はそこに感応しないではいられない。
構造の点で言えば、能に似ているところもあるだろうか。ワキの旅の僧として吉増さんが登場し、前ジテはメカス氏の息子さん(が語る最後の日々のメカス氏の姿)、そして後ジテの山場はアコーディオンを鳴らしながらうたうジョナス・メカスだ。彼は恨みや執着に苦しんではいないとしても、表現の世界に生きた人間としての特段の心の重さがあるのは間違いない。詩人・吉増剛造は能のシアトリカル・ダイナミクスを体得している、この詩人の魂マギはかならずや幻妖な能舞台を出現させるだろうと、井上監督は確信していたのではないだろうか。
(池田康)

追記
13日の初日の上映後、吉増剛造・井上春生・城戸朱理三氏のトークショーがあり、試写会のときから最終完成形まで作品が手直しされ刻々と変わっていったことなどが語られた。城戸さんは前作「幻を見るひと」のプロデューサーを務めている。
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2022年12月10日

追悼・山田兼士さん

山田兼士さんが逝去されたとのこと。なんの予期もなかったので驚いた。早すぎるようにも思うのだが、寿命というものは正誤を判じようがない、仕方がない。ご冥福をお祈りする。
洪水企画では山田兼士詩集『月光の背中』を2016年に刊行している。
http://kozui.sblo.jp/article/177167689.html
今回思い出しながら読み返しているうちに、「カヌーの速度とは」という作品を引用紹介したくなった。小野十三郎の詩の引用の部分2ヵ所の字下げがWebでうまく表示されるか、わからないが。次のとおり。


  ゆっくり
  水を切るカヌーの速度で
  言葉さがしをしている。
         (「カヌーの速度で」冒頭)

小野十三郎詩集は『半分開いた窓』大正十五年から
『冥王星で』平成四年まで全二〇冊
昭和最後は『カヌーの速度で』

第一詩集の蘆が
第三詩集の葦になり
詩誌のコスモスになり
やがて詩集の樹木になり
最後にカヌーになり
冥王星まで旅し
生涯を終えた

  時間をとめて
  カヌーよしずかに
  すべるように
  その中にはいっていけ。  (同末尾)

その空間は広く 深く
時間もまた人間を 軽く
はるかに越えていく

言葉さがしには
ちょうどカヌーの速度が
速くも遅くもない たましいの速度が 
必要と 静かに教えてくれた
八十五歳の詩人の声だ

      たましいの速度…細見和之「言葉の岸」より

(池田康)
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2022年11月30日

小特集「本ってなに?」への序曲

うかうかと、いや、みらいらん次号や新刊の本の編集でせわしなくしているうちに、いつの間にか11月が終わってしまった。
この一か月に、なにがあったか。
城戸朱理さんの英訳詩集がワシントンポスト紙に年間優秀詩集ベスト5として紹介されたという知らせに驚いたこと。春から続いていた右肩の痛み(A先輩に五十肩だろうと言われてギクッとした)がようよう治まってきていて、腕を上げる角度によってはまだ引っかかる感覚はあるが、しかしシャツの脱着もままならなかったのがかなり楽になったこと。ガジュマルの鉢を越冬のためベランダから室内に移し、そのため部屋の中がすこしだけ華やいだこと。松本大洋のマンガ作品を何作かまとめて読んで、風がゴオオオと鳴る、男の子たちが生きる原-世界の空気に触れたこと。映画「めぐりあう時間たち」のフィリップ・グラスの音楽に心地よく洗われたこと。そんなところだろうか。
さて、常々イタリアのプッチーニなどのオペラにはまともな序曲や前奏曲がついてないことが多いのを非常に残念に思っていて(オペラファンには序曲など聴いていられないという気短な人が多い?)、そのうらみからでもないが、みらいらん次号の小特集「本ってなに?」に序曲に当たるような詩を作ったので、個人誌「壁画」11号として披露したい。下記リンクからご覧下さい。
http://www.kozui.net/artnote/hekiga/hekiga11.pdf
(池田康)
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2022年11月01日

みのり

DSCF3069.JPG茄子がようやく実をつけた。みらいらん10号で西脇順三郎特集をやった記念というわけでもないが、夏のはじめ、西脇がこよなく愛惜した植物、茄子の苗をホームセンターで購入してベランダに置いた。いくつもいくつも花をつけるが、そのたびに柄のところからもげて落ち、実をなさない。おそらくこれはダメなのだろう、そういう株なのだろうと諦めていたら、10月になって実が生った。やはりこいつは忘れなかったのだとほっとした次第だ。
実が生るといえば、近所の柿の木はすでに色づいた大きな実をたくさんぶらさげているが、いつ花を咲かせていたのだろう。6月に淡黄色の花を咲かせると植物図鑑にはあるが見た記憶はない。ちゃんと目に留るような花を咲かせなさいと柿に要望書を出したいところだ。
「みのり」という語は「いのり」を含んでいるように聞こえる。この錯覚はなかなか良い。小さな茄子が垂れている姿が尊く見える。
(池田康)
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2022年10月23日

詩素13号

siso13.jpg
詩素13表紙裏.jpg













詩素13号が完成した。
今回の参加者は、海埜今日子、大仗真昼、大橋英人、小島きみ子、坂多瑩子、酒見直子、沢聖子、大家正志、高田真、たなかあきみつ、七まどか、南原充士、新延拳、二条千河、野田新五、八覚正大、平井達也、平野晴子、南川優子、八重洋一郎、山中真知子、山本萠、吉田義昭のみなさんと、小生。
ゲスト〈まれびと〉は、望月遊馬さんをお招きした。
特別企画は「追悼・小柳玲子」、この夏に亡くなった小柳玲子さんを追悼するエッセイを集めた。執筆者は吉田義昭、坂多瑩子、野田新五の三氏。
巻頭は、海埜今日子「暗渠通信」、坂多瑩子「今日も誰もきません」、酒見直子「銀歯交信」、高田真「線の話」。
表紙の詩句は、Christina Rossettiの“Song”より。裏表紙は今回も野田新五さんの絵。ぜひご覧下さい。
(池田康)
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2022年10月07日

蝦名泰洋さんの『全歌集』に向けて

昨年夏に亡くなった蝦名泰洋さんの『全歌集』の制作が野樹かずみさんの編集で進められているが、制作資金調達のためクラウドファンディングを開始したとのこと。関心のある方は下記URLでご覧のうえご参加下さい。
https://readyfor.jp/projects/105853

(池田康)
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2022年10月02日

追悼の儀礼

先日、みらいらん次号に掲載予定の、野村喜和夫/カニエ・ナハ両氏の対談を行った。録音や写真撮影はいつもハラハラだが、大きなミスや事故もなく実施できて胸をなでおろした。
そのときの雑談の中で、書肆山田の大泉史世さんのご逝去の話も出た。私は安藤元雄さんの8月刊の詩集『恵以子抄』のあとがきで初めて知ったのだが、先ごろ季村敏夫さんから送られてきた「河口からVIII」の執筆者に大泉さんの名前があって驚いた。巻末の「歩く、歩かされる──あとがきにかえて」を読むと、1993年に発表された散文詩を再録したとのこと。大泉さんはもっぱらの裏方の人ではなく表現活動もされていたのだ(2、3回お会いしたことはあるが、深い話はしなかった)。その作品「しろいくも」の最初の章を引用紹介する。

 ●
 それは、とてもとても、とても不可能なことだと思えた。
 またね、またいつかね──。
 ぼくは、両手をポケットにつっこんで、どうやってもこみあげてきてとめられないルフランを鼻先から逃がしている……アンダ、ライフ、ゴウゾン。
 ──んげなごどえっだっではがなえごどにい。

「アンダ、ライフ、ゴウゾン」は後続の部分によれば「and a life goes on」のことのようである。

それから、弘前市から「亜土」115号が届けられたが、これは市田由紀子という私にとっては未知の詩人の追悼号となっていて、2冊セットで、1冊は故人の作品抄、もう1冊は詩人仲間たちの追悼詩や追悼文を収めている。実に手厚い追悼の儀礼だ。市田作品より少し引用する。

記憶というものにも曲り角があるんだ
いつもあと一歩というところで
角にだしぬかれてしまう
ブラウスの肩パッドのずれを
直したはずみに違った通りに出た
なつかしいような
出会いたくないような通りで

いきなり学校の鐘が聞こえた
前の方には
うまく越えて来たはずの角々が
「通りやんせ」をするように
並んで待ちぶせしている

これは「公園通り」という作品の「1 鬼ごっこ」の章。イマジネーションの動き方が魅力的だ。

鍵をかけて一日すごした
誰もこないのに
心の閂をはずしてみた
誰もこないのに

これは「四行詩のため息」の5の章。孤独の景の鋭さ。

(池田康)
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2022年09月20日

雑誌ふたつ

台風のお見舞いを申し上げます。
さて、発刊されたばかりの「現代短歌」11月号に、エッセイ「批評の書斎を出る」を執筆しておりますので、ご覧下さい。BR賞という書評の賞の発表の号。
それから、田中庸介さん編集発行の詩誌「妃」24号が今月完成、こちらは本文の組みを担当しました。田中さんはなかなか眼光鋭い編集人でした。
(池田康)
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2022年09月06日

ストラヴィンスキーは天才ではなかった?

小さな雑誌を作っていても、毎号、どうにかして目新しさやささやかな地雷を盛りこめないかと苦心する。マスコミ風にいえば「特ダネ」を追求するわけだ。そう言うとさもしい行為のようにも聞こえるが、刊行物をより有意義なものにしたいという熱意はまっとうそのものであり非難には当たらないだろう。
そして特ダネは目立たない場所に隠れていることもある。
4日日曜日のNHKの放送に特ダネが盛りこまれていたとしたら、それはニュースでも科学ドキュメンタリーでもスポーツでもドラマでもなく、Eテレの夜の番組「クラシック音楽館」にあったのではなかろうか。ブラームスとかベートーヴェンとかいったありきたりの曲目だと見過してしまうが、この日は未知の曲が並んでいたので期待するでもなくチャンネルを合わせて流していた。N響第1959回定期公演で、曲目は、バレエ音楽「ペリ」(デュカス)、「シェエラザード」(ラヴェル)、「牧神の午後への前奏曲」(ドビュッシー)、バレエ組曲「サロメの悲劇」(フロラン・シュミット)。コンサートの前半・後半の幕間に当たる時間に、この日の指揮者ステファヌ・ドゥネーヴ(初めて聞く名前…)が各曲について解説をする。ぼんやり聴いていたら、「サロメの悲劇」の音楽の作り方を学んでストラヴィンスキーは「春の祭典」を書いたのだと語るので、びっくりしてしまった。これまで読んだことも聞いたこともない話だが、現役第一線の指揮者がそう言うのだから、確かにそう言える部分があるのだろう。これは私にとっては立派な特ダネだ。ストラヴィンスキーの三大バレエ曲はそれまでの音楽史から考えると突然変異的な要素が多いので、彼はゼロからこれらを創造したのだろうと思い込んでいて、紛うことない「大天才」のイメージがあったのだが、そのイメージが修正を余儀なくされる。「サロメの悲劇」はストラヴィンスキーに献呈されているとのことであり、とするとフロラン・シュミット(初めて聞く名前…)はストラヴィンスキーの作品に影響を受けて作曲したのであろうから、ストラヴィンスキーにしてみれば自分から出ていった影響が自分に戻って来ただけなのかもしれない。しかし「サロメの悲劇」が発表された1907年は「火の鳥」「ペトルーシュカ」が世に出る前なのだ。
とはいえ、創造に影響関係は付きものだ。ピカソはブラックの仕事から大いに刺戟を受けたであろうし、ゴッホも日本の浮世絵を見なければあんな画風にはならなかったかもしれない。ベートーヴェンもハイドンやモーツァルトがいなければ彼独自の作品世界を拓けなかっただろうし、シェークスピアも同時代の劇作家や詩人からさだめし多くを学んでいただろう。ストラヴィンスキーもピカソやゴッホ程度には「人並み」だったのだ、という依然として浮世離れした話に落着くのかもしれない。
余談。窓を開けて聴いていたので、外の虫の声が入り込んできて、そんな中でドビュッシーの「牧神の午後への前奏曲」を聴くのはなんとも幻想的であった。
(池田康)
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2022年08月31日

壁画10号

この夏の記念として、詩「百合の夏」を載せた個人誌「壁画」10号を出します。前回9号が2015年だったので、かなり久し振り。下記URLよりご覧下さい。
http://www.kozui.net/artnote/hekiga/hekiga10.pdf

(池田康)
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2022年08月06日

百合が夏になにかささやいている

はがき002.jpg夏に咲く花といえば、朝顔、向日葵などがすぐに思い浮かぶが、あまりにも当たり前だ。そこで、「百合が咲く夏」という新鮮に感じられそうなイメージを発案してみたい。うちの近所でもあちこちで鉄砲百合とおぼしき白い百合がつぼみをつけたり花開いたりしている。百合のつぼみは特徴的ですぐわかり、いつ咲くんだろうと心の中で尋ねてみたりするのだが、それが開花するとちょっとした感動を覚える。百合が語る夏、この系列に属する風物はどんなものがふさわしいだろうか。ひっそりと涼しげな存在たち。夏の裏街道。
虫ならば、蝉でもカブトムシない。蛍はちょっとよさそうだが、もう今では滅多なことでは出会えないから挙げにくい。玉虫もしかり。なので、カナブン。この昆虫はうちの近所にもいるようで、ときどき見かける。カブトムシより色彩の美しい点もいい。果物では西瓜や桃ではなく、スモモ。貴陽やサマーエンジェルといった品種はことに美味しい。アイスクリームよりも水羊羹、いやトコロテン。飲み物は私の勝手でジンジャーエールにさせていただく。よく飲むので。カフェでオリジナルのジンジャーエールを出すところがあるが、レシピの可能性の幅が広いようで、さまざまな個性的味わいのジンジャーエールが飲めてうれしい。しかし更にふさわしいのは、冷やしたジャスミン茶か。この夏はこれに全面的に頼っている。涼しさをもたらす道具は、クーラーでも扇風機でもなく、団扇。これは壊れやすい、フラジャイルなところもこの系にふさわしい。
歌では誰だろう。声高なかんじがしない、ひっそりした雰囲気の人。現役の人で思いつけるといいが、なかなかぴたっと来ない。だから、久保田早紀。地中海的幻影の南方の光の中に、ひんやりした涼しさが感じられる。「ギター弾きを見ませんか」「幻想旅行」「碧の館」「アクエリアン・エイジ」「25時」「田園協奏曲」「アルファマの娘」「トマト売りの歌」「サウダーデ」「憧憬」など。「星空の少年」もかなり好きだが、オリオン座が出てくるので冬の曲となる。
ところで、百合はキリスト教の受胎告知の花として知られており、それと関係するのかどうか、女性同士の恋愛に百合がシンボルとして使われるようで、そのことを今書いているこの話題に織り交ぜるのは難しいような気がするけれど、それでは、「百合の夏」の文学者として古代ギリシアのサッフォーにお出ましいただこうか。紀元前にまで飛ぶのは涼しさがある。沓掛良彦著『サッフォー 詩と生涯』(平凡社)より、「もっとも美しきもの」という詩。

 ある人は馬並(な)める騎兵が、ある人は歩兵の隊列が、
 またある人は隊伍組む軍船(ふね)こそが、このかぐろい地上で
 こよなくも美しいものだと言う。でも、わたしは言おう、
 人が愛するものこそが、こよなくも美しいのだと。

 このことわりを万人にさとらせるのは、
 いともたやすいこと。げにその美しさで
 世のなべての人々に立ちまさったヘレネーとても、
 いともすぐれた良人(おっと)を捨てて

 船に身をゆだね、トロイアへと去ったことゆえに、
 わが子をも、恩愛のほど浅からぬ両親(ふたおや)をも
 露ほども想うことなしに。[キュプリスさまが]まどわせて
 かのひとを誘(いざの)うていったのだ。

 [女心は]いともたわめやすいもの、
 [それは]今わたしの心に、はるか彼方の地にいる
 アナクトリアーを想い起こさせる。

 ああ、あの娘(こ)の愛らしい歩き振りや
 あの顔のはれやかな耀きをこの眼で見たいもの、
 リューディア人らの戦車や、さては
 美々しく身を鎧うた戦士(もののふ)らなどよりも。

サッフォーの作品は一作をのぞき断片的なものしか残っていないということだが、これはかなり完成形に近いようだ。キュプリスとはアフロディーテーのこと。4行目は今読むと流行歌にもありそうな当たり前のことを語っているようにも思えるが、この本の注によれば、古代ギリシアの価値観からは大きく逸脱した考え方とのこと。トロイア戦争の伝説の妃ヘレネーがうたわれているのが注目される。サッフォーにとってヘレネーは、ほどよく近かったのか、我々が原節子やマリリン・モンローを思い浮かべるような距離感なのだろうか。しかし調べてみると、トロイア戦争は紀元前13世紀とも16世紀ともされていて、そうすると、現在からサッフォーまで約2600年遡り、そこからさらにヘレネーへと1000年近く遡るということになる。この遥かさは、意識をぼんやりかすませるに足る。トロイア戦争のころも百合は咲いていて、〈神話〉を目撃していたのだろう。
追記。画像は、官製はがきの切手の部分。絵柄は「ヤマユリ」とのことだ。
(池田康)

追記2。
『サッフォー 詩と生涯』の論考の部分を読むと、古代ギリシア・レスボス島の女性詩人サッフォーにまつわる実に多くの事柄を知ることができる。後世のイマジネーションの中でサッフォーの伝説がいかに形成されたかを辿る章も興味深いが、より衝撃的なのは、サッフォーの詩文原典の大部分がどうして伝わっていないのかを説明する章で、2000年前くらいの時点では9巻に及ぶ全詩集のような集成文献が存在していたらしいが、その後その90%以上が失われた、しかも自然湮滅ではなく、宗教的理由に基づく焚書によって強制的に消滅させられたという悲劇的な経緯には胸がつぶれる。死後にそこまでの憂き目に遭うとは。世界でもっともタイムマシンを欲する人間はサッフォー研究家であろう。

追記3
元ちとせの歌に「百合コレクション」がある。あがた森魚の詞曲。ひそやかで寂しげな歌世界。隠れた佳曲、という言い方がぴたっときそうな曲だが、至高の名曲とたたえる人もひょっとしたらいるかも。ただ、歌詞に「秋の空」とあるのが(百合を夏のシーンに立たせたい私としては)惜しく、夏にならないものかと駄々をこねたくなるようなもどかしさを覚える。ベースの音が魅力的。
また「夏の宴」という曲(詞・HUSSY_R、曲・間宮工)は、森の中の鬼百合の点景で始まるのだが、タイトルにも明らかなようにまぎれもなく夏であり、安堵とともに傾聴できる。ある種の祭りのスピリット、その幻覚にみちた時空をうたっているようで、「夢の境い目」「眠りについた兵士たち」という部分も気になる。

追記4
道端によく咲いている白い百合は高砂百合という種類らしい。山本萠さんに教えていただいた。確かに葉が細く、図鑑で見る鉄砲百合の葉と違っている。
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2022年07月30日

野の書評に感電する

阿部日奈子著『野の書物』(インスクリプト)が刊行された。1992年から現在に至るまでの30年間に書かれた59篇の書評を時系列で収める。したがって著者のこの間の思考や感性の変化も辿れるのでは、という気がするが、読んでみると阿部さんは阿部さん、若いころから現在まであまり変わっていないような感じもする。ずっと鋭く、ずっと真剣で、ずっと明朗だ。犀利な知性と教養をもって現代社会のあらゆる場所に精緻な問題意識の網を張り、それに引っかかる事件として諸々の本をとても上手に受け止め、読み込む。阿部さんにとって読むとは、気になる論点にメスを刺して血を流させることだ。目指されるのは小手先の書評を越えて、短いながらも、本と刺し違えるような渾身の論考となる。社会構造の問題であっても性の問題であっても眼差しは容赦なく透徹している。随所に露となるこの人の苛烈な気骨にはっとさせられること度々であった。
詩人として著者を知る者にとっては、この詩人の過去の何冊かの詩集に秘められた思いの一部を解き明かす「子供っぽさについて」「フーリエと私」「素晴らしい低空飛行」は必読。舞踊を愛する阿部日奈子という面では「バランシンとファレル」「舞踊家・伊藤道郎の見果てぬ夢」が興味深い。女性の生き方を同性の立場から見つめるという点では高見順「生命の樹」、大原富枝「眠る女」、素九鬼子「旅の重さ」、ルイーゼ・リンザー「波紋」などを論じた章が身体ごとの共鳴が感じられて熱い。
最後にあとがきのように置かれた「野の書物──多感な自然児の系譜」には「そう、官より民、仕官より在野、正当より異端、中心より周縁に惹かれるのは、十代半ばから現在まで変わらない私の好みでる。」という言葉があり、「『美女と野獣』を読んでも、野獣が王子に生まれ変わるラストには、かえってがっかりする。ベルが愛したのは野獣なのに、どうして王子に変身させられてしまうのだろう。」などという軽口まで出てくる。してみると、タイトルの「野」に込められているのは、物語の常套、思想の常軌を逸脱し突き破る精神の真実探求だろうか。そのようにして生まれた言葉を鋭敏に嗅ぎ分け、機関銃ではなく本を手に「快感!」と叫ぶことができるこの文系ヒロインは、本書所収の多くの文章を読むと意想外に戦闘的であることがわかり、読み進むうちに読者はいつしか感電している。
(池田康)
posted by 洪水HQ at 17:07| 日記

2022年07月25日

比べる

AとBを比べるという場合、両者にはなにか共通項がありながら画然とした違いも存在する、という関係にあるはずだ。なにも共通項がないと比べようがない、比較が意味をなさなくなる。比較するにしても、ただ単に優劣をつけるのは味気ない。AとBが互いを照らし合うその関係自体(一時的かもしれないが)を楽しむのが比較のより意義深い形なのではないだろうか。

「みらいらん」9号の野村喜和夫・広瀬大志両氏による対談「恐怖と愉楽の回転扉」に出てきた映画「遊星よりの物体X」(1951、クリスチャン・ネイビー)と「遊星からの物体X」(1982、ジョン・カーペンター)を最近観た。後者は前者をリメイクしたもの、という関係。しかし筋はかなり違っている。オリジナルの方は北極の地での恐怖譚に小気味よいユーモアをまじえて映画製作の腕前が冴えている感じがあり、リメイク版は音楽(エンニオ・モリコーネ)の現代性を噛みしめることができ、バッドエンドにかぎりなく近づこうとする脚本も真剣なサスペンス味がある。エイリアンの造型は植物の生命の理をベースにして理論づけようとする1951年版はよりSF的、1982年版は形状や運動がやたら恐ろしくホラー寄りと言えるか。どちらにしても外宇宙はかならずしも友好的ではないことが示され、不気味な冷気が北極の風景に沁みわたることになる。

ベートーヴェンの晩年のピアノソナタ(作品109〜111)をアンドラーシュ・シフと小菅優という二人のピアニストで聴き比べる(どちらも信頼できるピアニストであり、シフに関してはバッハの或る曲などグレン・グールドよりもシフで聴く方を好むこともある)。しなやかに流れ細かくスイングするシフ版に対して、各所で流れをゆるめながら音を立てるような小菅版は音のドラマの形、遊戯の姿がよりくっきりと見えてきて、私のような素人にはありがたく、耳をそばだてやすい。十分に余白をとって静寂を確保しながら音を鳴らし音に語らせる、不協和音も明瞭に打ち出す、大家然とした落着きと初学者のような素直さを兼ね備えた演奏は、何度でも聴きたいとおもわせる構築の強さがある。これらの曲はピアノ曲の歴史のなかでも一つの絶壁の縁をなすものであり、その危うさと絶景を体験することは特別な音楽秘境探訪である。両人とも付属の小冊子でこれらの曲について雄弁に語っているが、ここでは小菅優のコメントを少し引用紹介する。「作品109はもっとも美しいソナタのひとつだと思います。まるで川がもうずっと前から自然と流れていたような冒頭から始まり、ハーモニーの切なさや弱音の美しさは果てしなく遠いところへ手を伸ばしているかのようです。…(中略)…お客様がいなくても自分で自分のために弾きたくなることはあるかとときどき聞かれることがあります。作品110は私にとってそんな曲のひとつです。自分が慰めを求めているとき、音楽の美しさにすがりたいとき、悩んでいるとき……そんなときにこの曲を弾きたくなるのです。…(中略)…そして作品111。いきなり冒頭から嘆いているかのようで、ずっと最後のハ長調を探す迷路のようですが、人生もそのような迷路に感じることはないでしょうか。私は、人生はいつも見つからないハ長調を探しているようだなと感じることがあります。」

比べる、の究極は自分を自分自身と比べることだろうか。一年前、五年前、十年前、二十年前の自分と、今の自分を比べて、どうか。多くはそれほど変わってない、あるいは少しずつ退化している部分もある。それでも進展や新境地がわずかでも見つけられれば自己弁護の余地が生まれ、ほっとできる。自分が自分に対して不満を抱く、それは前へ進む最も基本的な活力ではあるが、へたをすると不幸の感覚に捕われる原因にもなる、そこがやっかいなところだ。ほどほどにしておくべきなのかもしれないが、といっても、自分の自分自身との比較は意識がある限り止めることのできない行為であり人間のサガと言うしかない。それが反復され重ねられ変奏されて〈人生の意味〉なるものの根幹をつくる(創造するor捏造する)のであろう、たぶん。
(池田康)

追記
マウリツィオ・ポリーニの演奏するベートーヴェンの後期ピアノソナタ(op109-111を含む)のCDも所有していたことに気づいた。このピアニストはそれほど近しく思ってなかったので記憶から消えていたようだ。さすがに上手に弾いている。
posted by 洪水HQ at 11:14| 日記

2022年07月23日

岡崎和郎さん

美術家の岡崎和郎さんが亡くなられたとのこと。92歳。「洪水」6号の特別企画「瀧口修造への小径」で、空閑俊憲・土渕信彦両氏とともに座談会で語っていただいたことが記憶に残る。最晩年までとても元気だったそうだ。岡崎さんの手になる謎をひめたオブジェの数々が目に浮かぶ。ご冥福をお祈りしたい。
(池田康)
posted by 洪水HQ at 14:05| 日記