2021年01月20日

遺作集ふたつ

フランス文学研究家(フィリップ・ジャコテ研究など)の後藤信幸氏は、有働薫さんに紹介していただいたのだが、「洪水」にも「みらいらん」にもご協力いただく機会のないまま、2017年の夏に逝去された。その後藤氏の全句集『葛の空』(邑書林)がこのほど刊行された。生前に全句集は作りたいと語っておられた由だから、趣味道楽というレベルを超えて、文学者としての真剣な創作だったのだろう。すべて一定の水準の句にも見えるのでどれを選んでも可のような感じだが、印象深く読んだ数句を挙げる。

 枯野来るひと消炭のごとくなり
 あの世にもこの世の蝉の聲しかと
 走馬燈美しき闇置きにけり
 春の野をどこまでも子ら誘ひぬ
 丹澤の背に奇怪の冬の富士
 秋風や一穂の家藪の中(一穂は詩人吉田一穂)
 無縁墓地わが屍を埋めるところ
 七夕に捨て猫のゐて眠られず
 朝顔を遠くより見る妻を見る
 天の川堤長うして佇めり
 する墨のかげ圓かなる十三夜

詩人の(同じく仏文研究者でもある)清水茂氏は昨年の一月に逝去された。晩年の詩作の豊穣さには目を見張ったものだが、このほど更に遺作詩集『両つの掌に』(土曜美術社出版販売)が刊行された。その中から「籠いっぱいに 星を」という短い詩を紹介する。

 疲れ果てて 夏が凋むと
 夜が素早くやって来る。仮にそれが
 私にとっての最後の夜だとすれば
 もう秋は私に挨拶をしには来ないだろう。

 向こうで誰かがその秋を収穫する姿が
 幻に見える。私のいなくなった静かな夜、
 その人が手に提げた籠いっぱいに
 星を摘み集めている様子が見える、
 ひとつずつの星を丹念に吟味しながら。

巻末には詩的世界観を語った講演録(2012年)が収められている。
(池田康)
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2021年01月15日

冬のウタビト

ヘビーローテーションを訳すとしたら、どうなるか。蛇円環、じゃなくて、延々反復、諄々循環、徒然なる繰返し、堂々巡りのどつぼ……そんなようなかんじで、近頃、中島みゆきが昨年師走に出した二枚組選集アルバム『ここにいるよ』を聴いている。真冬の底でこの歌手を聴くのは、水を得た魚かどうかわからないがよく合う気もする。知らない曲も何曲か入っているのは新鮮。落涙級に聴き入ったのは「アザミ嬢のララバイ」だった。この最初期の曲について今更書くのは気がひけるが、「時代」といい、このウタビトは二十歳になるやならずの頃に旋律からしてすでに悟り切っている雰囲気がある。「春は菜の花、秋には桔梗」とあって、「夜咲くアザミ」とうたわれるのだが、今の季節に聴いていると、春、秋と来たのだから「冬咲くアザミ」なのだと勘違いしてしまう(実際の花の季とは違うのだが)。私の歌は、いい季節にうかれさわぐ遊興の歌ではないと言われているようなかんじがする。そしてそれは外れてはいないと、このCD全体を聴いて思う。厳しい歌をうたってきた人だ。
(池田康)
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2021年01月05日

みらいらん7号

milyren7.jpg「みらいらん」7号が完成した。この号から表紙を詩人の國峰照子さんの木彫オブジェ作品が飾ることになる。この7号は「交響」という作品。目次頁に載せた國峰さんのコメントをお読みいただきたい。撮影のために昨年10月に御宅にうかがったとき、相当に苦心をしての作品撮影を終えて、LUCKY STRIKEの極細タイプの煙草をいただいて一緒にふかしたことをありありと覚えている。
今号の一番大きな特別企画「いま、なぜビート詩か?」は、中上哲夫さんからビート詩研究会というのをやっているからその座談会をとご提案いただいたのだが、昨今の社会情勢では座談会は無理だろうということで、回覧書簡という形になった。五人の研究会メンバー、中上哲夫・油本達夫・飛松裕太・長田典子・野木京子の各氏がこの順番で手紙をつづる。前編と後編にわかれていて、今号は前編で、それぞれがどのようにしてビート詩に近づいてこの研究会に参加するに至ったかが語られている。後編は次号掲載予定。
そして連詩についての記事を二つ並べて掲載した。一つは、野村喜和夫さんによる「「しずおか連詩」の過去・現在・未来」で、故・大岡信を引き継いでこの連詩の会の捌き手(世話人?)をしているご本人による紹介は核心を捉えていて重みがある。大岡信が現在の連詩の形をどういう論理で構築したかもわかり理解がぐっと深くなる。もう一つは、その大岡信が谷川俊太郎、H・C・アルトマン(オーストリア)、O・パスティオール(ルーマニア)といった詩人たちとともに1987年に試みた「ファザーネン通りの縄ばしご ベルリン連詩」(岩波書店から本になっている)を三人の作曲家が共同作曲で音楽化しようとする国立劇場のプロジェクト(3月5日/6日の公演「詩歌をうたい、奏でる ─中世と現代─」で発表される予定)について、制作者の石橋幹己氏(国立劇場)と作曲家の桑原ゆう・Marc David Ferrum・川島素晴の三氏のお話・文章で制作の内側を語っていただいた。非常に興味深く読んでいただけるものと思う。
それから昨年末に弊社が刊行した『幻花 ─音楽の生まれる場所』(燈台ライブラリ4)の著者の、作曲家・佐藤聰明さんのインタビューを載せる。これも回答をご執筆いただいた。単行本と併せてご味読いただきたい。アメリカの音楽財団から作曲を依頼されたバイオリン協奏曲のエピソードは昨年の世界および佐藤氏ご本人の状況をよく物語るものだ。
巻頭詩は、川口晴美、新倉俊一、大木潤子、大橋英人、永方佑樹の5名の方々(とりわけ川口作品は昨年来の感染症災禍を反映して鋭く、お見逃しなく)。巻頭連載詩はこの号から和合亮一さんが担当(3回の予定)、この長篇詩は我々をどこに導くのだろうという不思議の念とともに辿っていただきたい。俳句は柴田千晶、短歌は野樹かずみの両氏の作品。
その他の内容については、下記リンクから目次紹介をご覧下さい:
(池田康)
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2021年01月02日

新春酔眼放吟


世界はリズムから成る

塔を建てる槌の音ファッションモデルの鋼のハイヒール詐欺師の立て板に水の駄法螺トウモロコシの黄の紡錘整列ジャブとストレートの高等漫才星辰の一億年に一の鼓動セコイアの年輪の時間旅行国語大辞典の蚤のノンブル赤んぼのあきらけき呵々山川草木の種の目覚め心道(ウラミチ)を走る霊気のパルス遮二無二止まらないしゃっくり野良猫の神のパトロール鉄路の正しい読点廃校は虫すだくオーシャン煮られる小豆のキンダータンツタイプライターの騒然たる無学文盲蜘蛛の巣のくすしき設計九十九番まである盆唄甲子園にとどろくへぼペットどぶ川沿いの桜の合唱禰宜のねごとを刻む包丁六日おきにめぐってくる日曜日五時間おきに飲むコーヒーライオンの牙と爪の古代家系図自転車のペダルたんぽぽのペタル夢のあかつきに立つ時計塔の点鍾

世界はリズムから生る


(池田康)
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2020年12月28日

レコードで聴く佐藤聰明初期作品

satosomeirecords.jpg作曲家・佐藤聰明さんの初期作品を収めたLPレコードがこのたびスイスのWRWTFWW Recordsから二点発売された。
一つは、マンダラ三部作と呼ばれる「マンダラ」(1982)、「マントラ」(1986)、「タントラ」(1990)という三曲の電子音楽作品、そして「舞」(2004、ハープとオーケストラの作品)を収録した二枚組の「MANDALA TRILOGY+1」(写真下)、そしてやはり電子音楽「エメラルド・タブレット」(1978)と「エコーズ」(1981)を収録した「EMERALD TABLET/ECHOES」(写真上)。写真の一番下には、大きさの比較のため、マンダラ三部作収録のCDを置いてみた。ジャケットデザインは杉浦康平氏とのこと。
マンダラ三部作は、音楽と音楽以前の中間領域で音が立ち上がっているようで、キャンバスを塗り込めた抽象絵画を思わせ、言葉が生まれる以前百万年の仄暗い精神史が音で描かれているかのように、霊気を帯びて聞える。三作目の「タントラ」になると、人声のような響きも感じられ、大分人間に近づいている気配もある。2004年の「舞」はすでに古代に踏み込んで、音楽らしい音楽になっている。
CDと聴き比べると、レコードはより柔らかく空気感のある音がするように思われた。佐藤聰明音楽の原点がここにあると言えそうだ。
(池田康)
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2020年12月23日

清らかさに賭ける

映画「蜜蜂と遠雷」(2019、石川慶)を見る(映画館でなく自宅で)。清い。若者のごまかしのない清さ、ドキュメンタリ的側面の清さ、音楽という創造物に固有の清さが重なっている。ここまで清らかさに賭ける映画はなかなかない。音楽の初心の歓喜が、その中心軸にあるように思われる。そこにプロコフィエフやバルトークが鳴る新鮮さ。バッハ、モーツァルト、ベートーヴェン、ショパン、ドビュッシー等々の曲の欠片も光を差し込んでいた。母親の死が精神的ダメージとなってステージでピアノが弾けなくなった女の子(松岡茉優)がその困難を克服する話が主筋となり、幼馴染みのエリートピアニスト、野生児のようなピアノ少年、生活者思想を抱く社会人ピアノマンのエピソードが絡み合ってくる。そして青年たちの苦闘に対して、斉藤由貴が大人の極を一手に引き受けコンクールの天空を支配して異彩を放つ。この作品の眼目の一つは、ツンといかめしい斉藤由貴を見ることだろうか。雷や馬や蜜蜂(?)といった象徴系をもう少し巧く物語にゆわえてくれるとよかったのだが。劇中の音楽があるだけで、いわゆる「映画音楽」がほとんどついていないのも特徴の一つだろう。
(池田康)
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2020年12月11日

虚の筏26号

「みらいらん」次号の編集はようやく終わり、印刷所に入れた。あとは無事に誕生してくれることを祈るのみ。
さて、「虚の筏」26号が完成した。今回の参加者は、生野毅、伊武トーマ、神泉薫、たなかあきみつ、二条千河、久野雅幸のみなさんと、小生。下記リンクからご覧下さい。

http://www.kozui.net/soranoikada26.pdf

(池田康)
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2020年12月03日

最近のびっくり四選

アメリカの大統領選挙。「レッド・ミラージュ」なる現象が起こるだろうという予測が報道されていたが、本当に起こってみるとやはり仰天。選挙という行事でこのような現象を目撃したのは初めてだ。次期政権では女性の副大統領の配置が注目されているようだが、この構えの深さは好ましい。
競馬のアーモンドアイ。これは説明不要か。二年前の桜花賞のときは一番人気ではなかったように覚えているが、それがG1=9勝とは、破格の記録。オルフェーヴル、ジェンティルドンナ、ゴールドシップといった過去の名馬たちは横綱の重量級のイメージがあったが、アーモンドアイは軽快な駿馬という雰囲気なのが不思議。
そしてプロ野球のソフトバンク・ホークスの強さ。あいた口がふさがらない。相手チームのふがいなさを言うよりも、ただただホークスが強いのだろう。サッカーの川崎フロンターレにも当てはまるが、確立された戦術の型と自分たちは強いという積極的な自己暗示(自信)が正のスパイラルを描いて手のつけられない“台風状態”を形作っているように感じられた。
平原綾香の今年開催のコンサートをビデオ視聴する機会があり、この人、ここまで巨きな歌手だったっけと驚く。福々しく強く、繊細で凄みがある。たしかに20代から十二分に上手かったが、ここ数年で一段の進境があったのだろうか、5年前の歌唱と聴き比べてもそんな感じがするのだが…。A級を超えた域にS級があるとして、更にそこから出てT級(typhoon)へと豹変かと思わせる瞬間がたびたびあった。今の平原綾香のうたう「BLESSING 祝福」に耳傾けるのは無上の体験だ。
(池田康)
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2020年11月22日

ヤンソンスの最後の演奏会のこと

昨年の11月30日に76歳で逝去した指揮者のマリス・ヤンソンスの遺された演奏を今年になって意識的に聴いているのだが、夏にNHKFMで放送された昨年10月11日のミュンヘンでの演奏会がこの人の最後の公式の演奏とうっかり思い込んでいたのが、このたび「HIS LAST CONCERT」として、11月8日のニューヨーク・カーネギーホールでの、バイエルン放送交響楽団との演奏会のライブ録音CDが発売されたので、入手して聴く。曲目はメインが10月の会と同じブラームスの交響曲4番(その他にR. シュトラウスの歌劇「インテルメッツォ」交響的間奏曲)。全体に、とてもいい演奏と思う。とくに第四楽章の、フルートと弦楽の静かな掛け合い、そのあとの管楽器と弦楽の掛け合いなど、たしかな語り方をしている。音が次第に裏返っていくむずかしい部分も実に上手い。
演奏時間は、10月の公演が43分30秒、11月の公演が42分10秒。
10月のミュンヘン公演と、11月のニューヨーク公演を比べて聴くに、好奇心を刺戟し珍味を堪能できるという意味で面白いのは前者のように思われる。これは録音やミックスの具合にもよるのかもしれないが、舞台の違いも大きいのではないか。カーネギーホールといえば世界の晴れ舞台であるから、一流オケが萎縮することはないにしても、下手なことはできないから、どこかしゃっちょこばる。余計ともいえる遊びや冒険は控えてきれいに立派にまとめることになる。しかし地元ミュンヘンではその点くつろいで肩の力を抜くことができ、好きなように遊び好きなようにうたい、結果、随所で思いきった動きを見せて、その意外さ新鮮さで聴き手の耳をそばだてさせることになる。一種の研究演奏会の面もあるのかもしれない。工作が馬鹿丁寧で、とにかく細かく、切れのある速度感は出てこない。息づきが親密で、部分部分の濃さと妖しさが全体像をぼやけさせる。バランスを崩しかねない優艶ないびつさが気になる人もいるかもしれない。しどけない、という形容詞があるが、悪い意味に転ずることもあるものの、しどけなさの美ということもあり、これがより多く発揮されるのが地元の特権なのではないか。山はその所在地に行かなければ見ることも登ることもかなわないが、オーケストラも山と同じでその本当の歌声は本拠地とする場所に行って聴くものなのかもしれない。
以下、余談。
このヤンソンス&バイエルン放響のコンビで、この秋、ブルックナーの交響曲をあれこれと聴いていた。ベートーヴェンやブラームスは曲によって大きく趣向を変えるのだが、ブルックナーはそういう志向はあまり強く感じない。どれも「あのブルックナーの曲」というかんじで鳴る。一曲だけ選ぶとすればなんだろうか。9番か。7番から9番までの三曲を聴いておけばとりあえずブルックナーは語れる、と言えなくもない。ハイドン、モーツァルトからブルックナーぐらいまでは、晩年になるほど良くなるという傾向が共通してあるが、マーラー、シベリウス、ショスタコーヴィチあたりになると、必ずしもそうは言えず、簡単な話ではなくなる。これらの人達の生涯は、文明の大きな転換期にひっかかり、現代音楽の時代に重なっていて、現代音楽や現代芸術はいい意味でも悪い意味でも「子供の遊戯」という面が少なからずあることも関係しているかもしれない。
(池田康)
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2020年11月19日

佐藤聰明『幻花 ──音楽の生まれる場所』

幻花画像ss.jpg作曲家・佐藤聰明さんのエッセイ集『幻花 ──音楽の生まれる場所』がこのほど洪水企画の〈燈台ライブラリ〉の第4巻として刊行された。新書判・192ページ・本体1300円+税。
以前、雑誌「洪水」に連載された文章やその第10号の特集「佐藤聰明の一大音」のために書かれたエッセイを中心に、未発表の文章も含めて編纂され今回の本となった。世界的に著名なこの作曲家の最近十年ほどの思考の粋がここに凝縮されていると言ってもいいだろう。それとともに、この百年で書かれた最も厳しい音楽論にして芸術論ではないかとも思う。
巻頭に置かれた「幻花 ──音楽の生まれる場所」と最後の「花はなぜ美しい」はこの本の核をなす二篇であり、宗教や人類学の領域にも踏み込みながら音楽の本領を苛烈に探求する。これらを読めば作曲家佐藤聰明の現在の精神の在りかがおおよそ判るのではないか。「詩と呪文」は詩と音楽の関係について考え、「気配ということ」では能という日本独特の特異な演劇ジャンルの魅力の深みを語り、「映画、舞踊、そして音楽」は映画やダンスのために音楽を作曲した経験を回想しながら太古における舞踊と音楽のありようを幻視し、「歌うということ」は音楽創造の真の厳しさを理論でなく実地の位置から伝え、「青春 一」「青春 二」では若い頃の切なくやりきれない思い出を甦らせる。この一冊を読めば、道なき道を歩いてきた一人の音楽家の内側にどんな広大無辺で豊饒な世界が広がっているかがわかり目眩を覚えるだろう。ぜひご注文いただき、手に取ってお読みいただきたい。
(池田康)
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2020年11月13日

音楽の初心を思う

昨夜、「高橋アキ/ピアノリサイタル2020」を豊洲シビックセンターで聴いた。
前半はシューベルトの「4つの即興曲」(Op142, D935)。亡くなる前年、30歳の時に作曲したものだそうで、即興曲はOp90(D899)の方が有名だろうが、こちらもシューベルトらしい愛すべき素朴さ、無垢、あどけなさがよく感じられる。音楽の純真をここまで維持できるというのは驚異だ。なにげない構成がささやかな興を作るところも耳を素直に楽しませる。4曲目はリズムと音型の強い緊張、響きのちょっとしたエグミで聴く張り合いを与えられた。高橋アキがシューベルトを熱心に弾くことについては何故だろうと不思議に思うところもあるが、おそらく道でばったり出会って、なんとなく言葉を交わしているうちに友だちになったのだろうと想像する。シューベルトを通じて音楽の初心をおさらいできるとともに、「古き良き西洋音楽」に接続することは、現代音楽というおぼつかない大海を放浪してきたこのピアニストに優しい安堵をもたらすのだろう。
後半は、ピーター・ガーランド「発光(疫病の年からのメモ)」(世界初演)、八村義夫「インティメイト・ピーセス」、バニータ・マーカス「角砂糖」、ジョン・ケージ「スウィンギング」「果てしないタンゴ」、ヤニス・クセナキス「ピアノのための6つの歌」、という内容構成。聴いていて思うのは、アメリカの作曲家は音楽における原始的単純さを大切にして作曲する傾向があるようだということ。音楽の素心の発露というか。ガーランドにしてもマーカスにしても、シンプルな素材をシンプルに活かして組み立ててゆくという方法をとっており、楽想の表現欲は薄い。あたかも木に繁る多数の葉が陽に当たり風に揺れてちらちら輝くとか、流れる水が刻々に表情を変えるとか、そんな自然現象を眺めているような感じの音楽で、淡い清らかさがある。和音進行という音楽思考が行われていても、どこへ行きつくでもないあてどなさはいつしか環境音楽へと近づく方向とも思える。ここにはシューベルトの音楽の初心に通じるものがあるのかもしれない。ジョン・ケージ作品については、「敬愛していたエリック・サティの作品から「スポーツと気晴らし」の中の2曲を用いて、ケージ独自の不確定性の作品にしました。その指示に従って演奏家が音作りをします」という説明がプログラムに書かれているが、その楽想に表現欲は皆無!?で、音楽よりも感銘をおぼえたのは、ケージに親炙したこのピアニストがなんの構えるところもなく当たり前のように作品に入っていくその自然さであり、また曲が終わったあと拍手もなく次の曲に移っていくという、〈作品〉であることをとくに欲していない特異なジョン・ケージらしさだ。ジョン・ケージが其処にいたようだった。
こうしたアメリカ現代音楽の中に置かれて、八村作品は楽想の表現欲が濃厚で、その差異は顕著、妙なリズムをもって犇めき合い錯綜する不穏な音たちを的確に捌く演奏の手際は鮮やかだった。
クセナキスの曲は、若い頃の仕事ということだが、この作曲家としては意外な、メロディアスな曲で、やはり音楽の初心のみずみずしさが感じられた。
アンコールは武満徹「死んだ男の残したものは」とサティの「ジムノペディ」。
高橋アキさんのステージ上での話によれば、この日、テリー・ライリー氏が会場に聴きに来ていたとのこと。ピーター・ガーランドの「発光」の第二楽章がライリーにちなんでいるという機縁からだと思われるが、この大変な時期によくぞ、と思わないではいられない。
(池田康)

追記の注:
アンコールのサティの曲ですが、「ジムノペディ」ではなく「ジュトゥヴー」だそうです。お詫びして訂正いたします。
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2020年10月30日

「詩と思想」の四季派特集

「詩と思想」11月号(土曜美術社出版販売)の「特集 四季派の遺伝子」にエッセイを寄稿しましたのでご覧下さい。
なおこの特集の内容構成は、対談=荒川洋治+小川英晴、座談会=城戸朱理+竹山聖+小川英晴、エッセイ=國中治・小島きみ子・布川鴇・岡田ユアン・鹿又夏実、四季派アンソロジー、といったあんばいになっている(敬称略)。
(池田康)
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2020年10月27日

「詩素」9号完成

siso09.JPGこのところいい日和が続いていて、ほっとする。なんだか無重力の中にいるような、子宮の中にいるような、優しい、しごくなごやかな空気だ。
さて、「詩素」9号が完成した。今回の参加者は、小島きみ子、山本萠、大家正志、二条千河、南原充士、たなかあきみつ、沢聖子、平野晴子、高田真、酒見直子、八重洋一郎、吉田義昭、八覚正大、野田新五、南川優子、菅井敏文、坂多瑩子、海埜今日子、平井達也、山中真知子、大仗真昼のみなさんと小生。まれびととして特別参加いただいたのは、神原芳之さん。巻頭トップは、大仗真昼さんの「夏草」。まだ残部ありますのでご注文下さい(500円)。
そして重大発表。
「詩素」では、来年春の10号を記念して投稿詩を募集します。年齢制限は40歳以下。締切は2021年2月28日。詳しくは応募要項をご覧下さい。
応募要項:
http://www.kozui.net/sisotokosiboshu.pdf
多くの方のご応募をお待ちしております。
(池田康)
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2020年10月15日

内在的評価と外野の勝手な感想

土曜日の午前はNHKFMの音楽番組を聴くことが多く、その流れでたまに11時からの邦楽(ポップスではなく伝統楽器の)の番組も聴くことがあり、そして更にたまに、あ、いいなあと思うことがある。以前、箏の友渕のりえが「夢の手枕」を演奏していたのを聴いて、これは本居宣長が源氏物語を真似て書いたものらしいが、古日本語の語り詠いがとても美しくて、同曲を収録したCDを探して手に入れたものだ。先日もやはり箏の藤井泰和の「秋風の曲」「融」の演奏がよくて、翌日日曜日早朝の再放送をがんばって録音した(一部失敗)。ただ、心細いのは、邦楽の場合、こちらがいいと思うのと、邦楽の内部での評価といくらかでも呼応しているのかどうかさっぱりわからない、ということがある。他の音楽ジャンルでも同じようなことがあるとしても、ここまでの心細さはない。邦楽の場合の内在的評価は、どういうことになっているのか、雲をつかむようだ。NHKFMで放送されるくらいだからもちろん一流とされているのだろうが。
ジャズピアニストの上原ひろみについても、別の意味でになるかもしれないが、内在的評価が気になる。昨年のピアノソロのアルバム『Spectrum』を聴いているのだが、とても刺戟的で随所に驚きがあり非常に面白く聴けるのだけれど、このピアニストはジャズの既成の領域から出たところで新しい音楽を創ることが多いような気がして、これをジャズの本領を大事にするジャズファンがちゃんと聴けているのかということがいささか気になったのだ。全く余計なお世話というもので、ジャズの聴き手はそんなにナイーブでも狭量でもないだろう。それでも、ジャズの従来の評価尺度にのらないような魅力が生じているとすればこれを言語化するのは難しいかもしれない。
そもそも上原ひろみは位置的にジャズのメインストリームにいるのか、外野からはよくわからない。生の理不尽に由来する強いブルーを音に刻む、といったような面はあまりなくて、むしろ音の運動の喜びを追求する面が特徴的で、哀愁を感じさせるしっとりとした曲調の場合も、苦さではなく郷愁のような繊細なスイートさが味わいになっているように思われる。もっとシンプルに言えば、昔ながらのジャズ的ワビサビは薄めなのだ。なにをやらかすかわからない驚異の元気、と見えて多くの場面で意外と理路整然と音の運動を推進する。外野のわれわれはそれをなんの頓着もなく嬉々として聴くわけだが、本式のゴリゴリのジャズ信奉者がなんと言うのか……しかしこれも杞憂なのだろう。そもそものそもそも、現役の若い世代のジャズミュージシャンで強烈なブルーを胸に抱いてそれをジャズ本然のレトリックで音に刻むということをしている人は滅多にいないだろう。新鮮でいきのいい音楽がもたらされるのであれば外野はなんの文句もない。
2009年のソロアルバム『PLACE TO BE』の初回限定版にはタイトル曲のライブ演奏を収録したDVDがついているのだが、その演奏の音の躍動感と細やかな響きのニュアンスはすばらしい。『Spectrum』の限定版には『PLACE TO BE』所収の諸曲のライブ演奏のCDがついていて、こちらも非常に生気があり貴重だ。
(池田康)
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2020年09月17日

清水茂さん

一昨日部屋の中の整理をしていたら、そこここに積んだり散ったりしている本の山の中に、清水茂詩集『古いアルバムから』(土曜美術社出版販売)が目にとまった。清水さんを偲んで、読む。清水茂氏は今年一月に逝去された。かつて「洪水」誌にインタビューを掲載するなど大変お世話になった方であり、また今年初頭に刊行した「みらいらん」5号のなかで私は学校教育の非などという乱暴な論を書きなぐっていて、長く大学で教壇に立っておられた心優しい氏を深く悲しませはしなかったかと気にもなった。それでいながら、「みらいらん」6号で追悼のページは作ったものの、自分で追悼の言葉をつづっていないのは不義理であるので、この詩集『古いアルバムから』を手に取ったことをきっかけに、少しばかり書き留めたい。
清水さんは独自のつかみ難い人格の構えがあった。大抵は、この人はこういう詩人だという型嵌めがある程度できるように思うのだが、清水さんは既成の「詩人」のイメージからはみ出す部分が多く、それが魅力でもあり、お会いして言葉を交わすたびに知らない森に足を踏み入れたような感じがして、声の奥の声の谺に耳を澄ますことになった。
『古いアルバムから』は生涯で出会ったさまざまな「あなた」にあてて書かれている。幼くして亡くした自分の娘もふくめて。ヨーロッパの詩人たちについての詩が多いのだろうか。次の引用は「最初の日々」の冒頭より。これは長い詩で、自らの生涯を幼時から辿り直している。

 時間の水脈が消えてゆくと
 後にはなにも残らない。
 六十、七十、と数えられるのは
 水路図の上の数字だけで
 久しい歳月が宿したはずのものを
 私に語るどんな徴もそこにはない。
 水面には何も浮かんでいない。
 水辺の風景の影さえも揺れず、
 水面すらももう見えない。在るのは
 ここまで搬ばれてきた私の影だけだ。

    *

 母に手を引かれて歩いた道があった。
 黒くて、熱く、粘りっ気のある
 コールタールの臭気がまだ流されるまえの
 荷馬車の轍のある土を踏んで歩いた。
 路傍には ところどころに
 クヌギやコナラの木立が残っていて、
 私たちはそれを森と呼んでいた。(後略)

(池田康)
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2020年09月11日

佐藤聰明コンサートin東京「死にゆく若者への挽歌」

昨日、東京・南青山のMANDALAで開かれた、作曲家・佐藤聰明さんの作品を集めた上記コンサートを聴きにいった。都内へ赴くのは三ヶ月ぶり。こんな紛れもない都心に足を踏み入れるのは半年以上ぶりかもしれない。
第一部はピアノ曲二曲。ピアノ=佐藤慶子。最初の曲「星の門」は1982年の作品で、「この曲を書くまではわたしのピアノ曲といえば二台のピアノを多重録音したり、エレクトロニクスを用いた大音量の曲が多かったのですが、この曲を境に極端に音の少ない微弱な響きの音楽に一変しました。私にとって記念すべき曲です。」という作曲家自身の説明通り、音のまばらさに迷子になりそうな、幻のような浮遊感がある。
二曲目「藤田組曲」は映画「Foujita」(小栗康平監督)のために佐藤さんが作ったオーケストラ音楽をピアノ用に編曲し、組曲にしたもの。以前ある小さな会でこのピアノ版の一部を聴いたことがあり、そのときは鋭敏で透明な神経がすうっと伸びていって一本の樹木になるようなインスピレーションにみちた感覚があったが、今回は少し違っていて、冷静に用心深く音を置き重ねていく精密な創造活動というふうに聴こえたのは、組曲全体という絵巻を広げるためのデザイン的制御、すべてを予見する心配りが働いたからだろう。音を強く打ち出してその響きを十秒くらい聴いているといった箇所も印象的だった。重音の激しいフォルテシモの、パッションの爆発する瞬間があり、おそらく原曲のオーケストラ演奏では多数の楽器の音が豊かに重なって鬱蒼と鳴るところなのだろうが、ピアノだとその奥にひそむ作曲者のパッションの激した熱塊が前面に出てくる。オーケストラがコズミックなのに対して、ピアノは第一人称性が強いとも言えるだろうか。演奏する慶子さんは佐藤聰明氏の奥方だからさすがに曲に対する理解が深い。
第二部は歌曲集「死にゆく若者への挽歌」。バリトン=松平敬、ピアノ=中川俊郎。四曲からなる。一曲目はタイトル曲「死にゆく若者への挽歌」、これはWilfred Owenの詩で「どんな弔いの鐘があるというのか 家畜のように死にゆく者たちに」という詩句から始まる歌。もちろん英語でうたわれる。松平氏の質実剛健の歌声は、華麗に歌い上げるというよりも、歌声を石か煉瓦のように積み上げて堅牢な歌の建築をつくるような趣きがある。この曲は新しく作曲されたもので、あとの三曲はかつてニューヨークの音楽財団のために作られたものとのことだ。
二曲目は「凶器と少年」。やはりWilfred Owenの詩で、「さあ君にこの銃剣を触らせてやろう」から始まる。ピアノ伴奏のユニークな形のアルペジオ(分散和音)がとても魅力的で、きわめて美しい音の遊戯であり、いつまでも聴いていられる。しかし詩の内容は残酷で陰惨だ。
三曲目は「草」、これはCarl Sandburgの詩で、「高く積み上げよ アウステルリッツの死体と ワーテルローの死体を」で始まる。この曲のピアノは、佐藤さんの初期の曲を思わせるトレモロのような連続打鍵に終始し、その上に歌声が乗ると、やるせない、胸が塞がれるような感覚になる。
四曲目は「今日は死ぬのにとてもいい」、Nancy Woodの詩で、「今日は死ぬのにとてもいい」から始まる。この「Today is a very good day to die.」の部分が冒頭と中程と最後と三度にわたって繰り返され、素晴らしくよく響く。なだらかに上がっていくだけの単純な旋律なのに、なぜこんなにも感銘をもたらすのか、どうしたらこんなふうに訴求力強くうたえるのか。この夜の絶唱のピークをなしていた。
この歌曲集は戦争での若者の死をうたっているが、つい最近、S・キューブリックの「フルメタル・ジャケット」を見たばかりであり、またこのごろイタリアの詩人ウンガレッティが第一次大戦最中に戦場で書いた詩を読んでいたところだったので、相乗して余計に重く響いたように思われる。
(池田康)
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2020年09月02日

大橋英人詩集『パスタの羅んぷ』

パスタの羅んぷ画像s.jpg大橋英人さんの新しい詩集『パスタの羅んぷ』が完成した。洪水企画刊、四六判上製、88ページ。定価1800円+税。装丁は著者自身の手による。
帯文「寒いから死んでやる/サイレンも骨も知らず、ぼくは長くゴムのように時代を生きて来た。空き缶のように渇いた咳を声を宙へ 花と人と命の絵空ごとを旅してその伸縮を楽しんだ、言葉の詩空間。証明を生きる理由の珠玉の最新作17編。(川上明日夫)」
このベテラン詩人の最近5年の作品17篇を集める。子供時代に遡っての身近な人々にちなむ物語で第一部を、ダリ、ピカソ、ゴッホなどの画家やドン・キホーテなど小説上の人物をモチーフに、骨灰・砂・鉛などややネガティブな世界に多く足を向けたもので第二部を構成する。
詩集名の「羅んぷ」は、もともとは、作品「ピカソの、らんぷと仮面」に出てくる、ピカソの代表作「ゲルニカ」に描かれるランプに由来するのだろうと推測されるのだが、それが大橋さんの頭脳の中で高度にアクロバティックな化学反応を起こして「パスタの羅んぷ」となった模様だ。
読者はまず第一部の悲しいまでに重たい回想風景に胸が苦しくなり、次に第二部の、世界の現代に目を向けた、文明批評の要素も秘めたざらざらした諸篇に歩行の苦悩を経験することになるだろう。
作品引用は第一部の作品から取るのがいいような気もするのだが、この限りなくパーソナルな詩を気軽に引用していいのかという畏れも覚えるので、ここでは先に挙げた「ピカソの、らんぷと仮面」を紹介する。

 火じゃない
 炎じゃない
 私が問うのは
 ピザのようななまぐさいひづめ
 そのとっ先 ダチョウの足のような靴が
 闊歩する
 やわらかなこの世の、きしみ
 あらい砂
 爪とは
 やはり あつくておもいブリキのようなかさぶたであろうか
 こげるほど焼きすぎたかたいピザ
 ひづめも
 靴も
 その、膝がしらほどのはざま
 空きカンやビンであっても
 フライパンのように
 ランプのように
 ピザもパスタも
 笛の一つも 凶器のようなものだから

   アーちゃん、ボクはきっと
   ピカソのような 大きなおなかを
   まっかな空に描いてみせるよ

 あおむけの人形のような
 土かもしれない
 手足のような
 花かもしれない
 リアルなひまわりと凶器のらんぷ
 みぞとはいわぬ 人骨とはいわぬ
 さだかでない二つのらんぷ
 ま昼から
 いくたの仮面
 私は ただ
 その、とがったひづめの鼻で
 あまたの靴の、
 ピザとパスタを

(池田康)
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2020年08月21日

南原充士さんの小説

猛暑の山脈はそろそろ高度を低くしていくのだろうか。しかし今日も並大抵でなく暑かった。汗をバケツ一杯くらい出したような気がする。
さて、南原充士さんが小説「喜望峰」をAmazonでデジタル刊行した。下記のURLよりご覧下さい。
https://www.amazon.co.jp/gp/product/B08G4PM9W1/ref=dbs_a_def_rwt_bibl_vppi_i1
紹介文によると、大手商社勤務の主人公がある資源開発プロジェクトにかかわり苦労するという話のようだ。394ページとあるから相当な長編だろうか。

(池田)
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2020年08月20日

自然の多層を撮る

先日、カリフォルニアで夢のような農場を作るドキュメンタリー映画「ビッグ・リトル・ファーム 理想の暮らしのつくり方」(監督=ジョン・チェスター)を見た。広大な荒蕪地で夫婦が一から農園を作る困難な過程を描く。土を糞やミミズといった有機肥料とともに整備し、さまざまな種類の果樹や野菜を植えて、羊や豚や牛や鶏を飼い、という絵本の中の話のような農の生活で、商売的には大儲けできそうな農法とは思えないが、生命の循環が具合よく組み合わさり融け合った、まさしく「理想的」なあり方のように見える。これを何十年かけてというのではなく7年ほどで達成しているのが信じられない。いい導師を得たということだろうか。さらに、コヨーテや鷹や蛇までもを生活の仲間として迎えようというところまで農業生活思想が短期間に発展成熟していくところ、これも予想を上回った。監督がカメラマンということもあって、生きものたちの映像が美しい。
自然の驚異を伝える映像作品ということで言えば、ややスケールが小さくなるが、「さわやか自然百景」というNHKの小さな番組をよく見る(日曜朝)。特定の地域に住む小動物を追うのだが、見せ方が大仰でなく、さりげないところがいい。このあいだは北海道の森の粘菌の生態を紹介していて、南方熊楠はこういうモノを調べていたのかと、イメージとイメージがつながった。
(池田康)
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2020年08月13日

『八重洋一郎を辿る』の書評4

鹿野政直著『八重洋一郎を辿る』の書評が新しく出た(「けーし風」107号)。新城郁夫氏による一文「鹿野政直氏の新著から考えること」。A5判の2ページ分だからかなりの分量だ。鹿野氏の思考方法、論じ方は、沖縄という既成イメージの陥穽におちいらないよう努力をしていて、それゆえの苦難や痛みもともなう、という指摘が重要ポイントか。以下は抜粋である。
「敵を指弾していれば沖縄「を」考えなくて済む。沖縄「を」問わないために問わせないために、必死になって沖縄「で」語るのである。このとき、沖縄は実に便利な方便となる。ところが、こうした書き方をこそ鹿野氏は遠ざける。あえて言えば、鹿野氏の沖縄に関する膨大な仕事の全てが、沖縄「を」沖縄「で」語ることへの抗いとして読みかえしていくことができると思うのである。」
「鹿野氏は、沖縄「を」語ろうとする自らの思考のなかに、沖縄「で」語ることのできない闇を抱え込む。しかし、この困難を迎え入れるときはじめて、沖縄「で」語ることのできない沖縄「を」予感していくことが可能となるだろうし、沖縄を生きようとする私たちのいのちのあり方が発見されていくことになるのかもしれない。八重洋一郎という「闇」を抱え込みながらいのちを問う鹿野氏の新著を読みながら、そうしたことを感じている。」
それから「図書新聞」3457号(7/25)の「2020年上半期読書アンケート」で鶴見太郎氏が本書を挙げて下さっている。
(池田康)
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