2020年09月17日

清水茂さん

一昨日部屋の中の整理をしていたら、そこここに積んだり散ったりしている本の山の中に、清水茂詩集『古いアルバムから』(土曜美術社出版販売)が目にとまった。清水さんを偲んで、読む。清水茂氏は今年一月に逝去された。かつて「洪水」誌にインタビューを掲載するなど大変お世話になった方であり、また今年初頭に刊行した「みらいらん」5号のなかで私は学校教育の非などという乱暴な論を書きなぐっていて、長く大学で教壇に立っておられた心優しい氏を深く悲しませはしなかったかと気にもなった。それでいながら、「みらいらん」6号で追悼のページは作ったものの、自分で追悼の言葉をつづっていないのは不義理であるので、この詩集『古いアルバムから』を手に取ったことをきっかけに、少しばかり書き留めたい。
清水さんは独自のつかみ難い人格の構えがあった。大抵は、この人はこういう詩人だという型嵌めがある程度できるように思うのだが、清水さんは既成の「詩人」のイメージからはみ出す部分が多く、それが魅力でもあり、お会いして言葉を交わすたびに知らない森に足を踏み入れたような感じがして、声の奥の声の谺に耳を澄ますことになった。
『古いアルバムから』は生涯で出会ったさまざまな「あなた」にあてて書かれている。幼くして亡くした自分の娘もふくめて。ヨーロッパの詩人たちについての詩が多いのだろうか。次の引用は「最初の日々」の冒頭より。これは長い詩で、自らの生涯を幼時から辿り直している。

 時間の水脈が消えてゆくと
 後にはなにも残らない。
 六十、七十、と数えられるのは
 水路図の上の数字だけで
 久しい歳月が宿したはずのものを
 私に語るどんな徴もそこにはない。
 水面には何も浮かんでいない。
 水辺の風景の影さえも揺れず、
 水面すらももう見えない。在るのは
 ここまで搬ばれてきた私の影だけだ。

    *

 母に手を引かれて歩いた道があった。
 黒くて、熱く、粘りっ気のある
 コールタールの臭気がまだ流されるまえの
 荷馬車の轍のある土を踏んで歩いた。
 路傍には ところどころに
 クヌギやコナラの木立が残っていて、
 私たちはそれを森と呼んでいた。(後略)

(池田康)
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2020年09月11日

佐藤聰明コンサートin東京「死にゆく若者への挽歌」

昨日、東京・南青山のMANDALAで開かれた、作曲家・佐藤聰明さんの作品を集めた上記コンサートを聴きにいった。都内へ赴くのは三ヶ月ぶり。こんな紛れもない都心に足を踏み入れるのは半年以上ぶりかもしれない。
第一部はピアノ曲二曲。ピアノ=佐藤慶子。最初の曲「星の門」は1982年の作品で、「この曲を書くまではわたしのピアノ曲といえば二台のピアノを多重録音したり、エレクトロニクスを用いた大音量の曲が多かったのですが、この曲を境に極端に音の少ない微弱な響きの音楽に一変しました。私にとって記念すべき曲です。」という作曲家自身の説明通り、音のまばらさに迷子になりそうな、幻のような浮遊感がある。
二曲目「藤田組曲」は映画「Foujita」(小栗康平監督)のために佐藤さんが作ったオーケストラ音楽をピアノ用に編曲し、組曲にしたもの。以前ある小さな会でこのピアノ版の一部を聴いたことがあり、そのときは鋭敏で透明な神経がすうっと伸びていって一本の樹木になるようなインスピレーションにみちた感覚があったが、今回は少し違っていて、冷静に用心深く音を置き重ねていく精密な創造活動というふうに聴こえたのは、組曲全体という絵巻を広げるためのデザイン的制御、すべてを予見する心配りが働いたからだろう。音を強く打ち出してその響きを十秒くらい聴いているといった箇所も印象的だった。重音の激しいフォルテシモの、パッションの爆発する瞬間があり、おそらく原曲のオーケストラ演奏では多数の楽器の音が豊かに重なって鬱蒼と鳴るところなのだろうが、ピアノだとその奥にひそむ作曲者のパッションの激した熱塊が前面に出てくる。オーケストラがコズミックなのに対して、ピアノは第一人称性が強いとも言えるだろうか。演奏する慶子さんは佐藤聰明氏の奥方だからさすがに曲に対する理解が深い。
第二部は歌曲集「死にゆく若者への挽歌」。バリトン=松平敬、ピアノ=中川俊郎。四曲からなる。一曲目はタイトル曲「死にゆく若者への挽歌」、これはWilfred Owenの詩で「どんな弔いの鐘があるというのか 家畜のように死にゆく者たちに」という詩句から始まる歌。もちろん英語でうたわれる。松平氏の質実剛健の歌声は、華麗に歌い上げるというよりも、歌声を石か煉瓦のように積み上げて堅牢な歌の建築をつくるような趣きがある。この曲は新しく作曲されたもので、あとの三曲はかつてニューヨークの音楽財団のために作られたものとのことだ。
二曲目は「凶器と少年」。やはりWilfred Owenの詩で、「さあ君にこの銃剣を触らせてやろう」から始まる。ピアノ伴奏のユニークな形のアルペジオ(分散和音)がとても魅力的で、きわめて美しい音の遊戯であり、いつまでも聴いていられる。しかし詩の内容は残酷で陰惨だ。
三曲目は「草」、これはCarl Sandburgの詩で、「高く積み上げよ アウステルリッツの死体と ワーテルローの死体を」で始まる。この曲のピアノは、佐藤さんの初期の曲を思わせるトレモロのような連続打鍵に終始し、その上に歌声が乗ると、やるせない、胸が塞がれるような感覚になる。
四曲目は「今日は死ぬのにとてもいい」、Nancy Woodの詩で、「今日は死ぬのにとてもいい」から始まる。この「Today is a very good day to die.」の部分が冒頭と中程と最後と三度にわたって繰り返され、素晴らしくよく響く。なだらかに上がっていくだけの単純な旋律なのに、なぜこんなにも感銘をもたらすのか、どうしたらこんなふうに訴求力強くうたえるのか。この夜の絶唱のピークをなしていた。
この歌曲集は戦争での若者の死をうたっているが、つい最近、S・キューブリックの「フルメタル・ジャケット」を見たばかりであり、またこのごろイタリアの詩人ウンガレッティが第一次大戦最中に戦場で書いた詩を読んでいたところだったので、相乗して余計に重く響いたように思われる。
(池田康)
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2020年09月02日

大橋英人詩集『パスタの羅んぷ』

パスタの羅んぷ画像s.jpg大橋英人さんの新しい詩集『パスタの羅んぷ』が完成した。洪水企画刊、四六判上製、88ページ。定価1800円+税。装丁は著者自身の手による。
帯文「寒いから死んでやる/サイレンも骨も知らず、ぼくは長くゴムのように時代を生きて来た。空き缶のように渇いた咳を声を宙へ 花と人と命の絵空ごとを旅してその伸縮を楽しんだ、言葉の詩空間。証明を生きる理由の珠玉の最新作17編。(川上明日夫)」
このベテラン詩人の最近5年の作品17篇を集める。子供時代に遡っての身近な人々にちなむ物語で第一部を、ダリ、ピカソ、ゴッホなどの画家やドン・キホーテなど小説上の人物をモチーフに、骨灰・砂・鉛などややネガティブな世界に多く足を向けたもので第二部を構成する。
詩集名の「羅んぷ」は、もともとは、作品「ピカソの、らんぷと仮面」に出てくる、ピカソの代表作「ゲルニカ」に描かれるランプに由来するのだろうと推測されるのだが、それが大橋さんの頭脳の中で高度にアクロバティックな化学反応を起こして「パスタの羅んぷ」となった模様だ。
読者はまず第一部の悲しいまでに重たい回想風景に胸が苦しくなり、次に第二部の、世界の現代に目を向けた、文明批評の要素も秘めたざらざらした諸篇に歩行の苦悩を経験することになるだろう。
作品引用は第一部の作品から取るのがいいような気もするのだが、この限りなくパーソナルな詩を気軽に引用していいのかという畏れも覚えるので、ここでは先に挙げた「ピカソの、らんぷと仮面」を紹介する。

 火じゃない
 炎じゃない
 私が問うのは
 ピザのようななまぐさいひづめ
 そのとっ先 ダチョウの足のような靴が
 闊歩する
 やわらかなこの世の、きしみ
 あらい砂
 爪とは
 やはり あつくておもいブリキのようなかさぶたであろうか
 こげるほど焼きすぎたかたいピザ
 ひづめも
 靴も
 その、膝がしらほどのはざま
 空きカンやビンであっても
 フライパンのように
 ランプのように
 ピザもパスタも
 笛の一つも 凶器のようなものだから

   アーちゃん、ボクはきっと
   ピカソのような 大きなおなかを
   まっかな空に描いてみせるよ

 あおむけの人形のような
 土かもしれない
 手足のような
 花かもしれない
 リアルなひまわりと凶器のらんぷ
 みぞとはいわぬ 人骨とはいわぬ
 さだかでない二つのらんぷ
 ま昼から
 いくたの仮面
 私は ただ
 その、とがったひづめの鼻で
 あまたの靴の、
 ピザとパスタを

(池田康)
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2020年08月21日

南原充士さんの小説

猛暑の山脈はそろそろ高度を低くしていくのだろうか。しかし今日も並大抵でなく暑かった。汗をバケツ一杯くらい出したような気がする。
さて、南原充士さんが小説「喜望峰」をAmazonでデジタル刊行した。下記のURLよりご覧下さい。
https://www.amazon.co.jp/gp/product/B08G4PM9W1/ref=dbs_a_def_rwt_bibl_vppi_i1
紹介文によると、大手商社勤務の主人公がある資源開発プロジェクトにかかわり苦労するという話のようだ。394ページとあるから相当な長編だろうか。

(池田)
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2020年08月20日

自然の多層を撮る

先日、カリフォルニアで夢のような農場を作るドキュメンタリー映画「ビッグ・リトル・ファーム 理想の暮らしのつくり方」(監督=ジョン・チェスター)を見た。広大な荒蕪地で夫婦が一から農園を作る困難な過程を描く。土を糞やミミズといった有機肥料とともに整備し、さまざまな種類の果樹や野菜を植えて、羊や豚や牛や鶏を飼い、という絵本の中の話のような農の生活で、商売的には大儲けできそうな農法とは思えないが、生命の循環が具合よく組み合わさり融け合った、まさしく「理想的」なあり方のように見える。これを何十年かけてというのではなく7年ほどで達成しているのが信じられない。いい導師を得たということだろうか。さらに、コヨーテや鷹や蛇までもを生活の仲間として迎えようというところまで農業生活思想が短期間に発展成熟していくところ、これも予想を上回った。監督がカメラマンということもあって、生きものたちの映像が美しい。
自然の驚異を伝える映像作品ということで言えば、ややスケールが小さくなるが、「さわやか自然百景」というNHKの小さな番組をよく見る(日曜朝)。特定の地域に住む小動物を追うのだが、見せ方が大仰でなく、さりげないところがいい。このあいだは北海道の森の粘菌の生態を紹介していて、南方熊楠はこういうモノを調べていたのかと、イメージとイメージがつながった。
(池田康)
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2020年08月13日

『八重洋一郎を辿る』の書評4

鹿野政直著『八重洋一郎を辿る』の書評が新しく出た(「けーし風」107号)。新城郁夫氏による一文「鹿野政直氏の新著から考えること」。A5判の2ページ分だからかなりの分量だ。鹿野氏の思考方法、論じ方は、沖縄という既成イメージの陥穽におちいらないよう努力をしていて、それゆえの苦難や痛みもともなう、という指摘が重要ポイントか。以下は抜粋である。
「敵を指弾していれば沖縄「を」考えなくて済む。沖縄「を」問わないために問わせないために、必死になって沖縄「で」語るのである。このとき、沖縄は実に便利な方便となる。ところが、こうした書き方をこそ鹿野氏は遠ざける。あえて言えば、鹿野氏の沖縄に関する膨大な仕事の全てが、沖縄「を」沖縄「で」語ることへの抗いとして読みかえしていくことができると思うのである。」
「鹿野氏は、沖縄「を」語ろうとする自らの思考のなかに、沖縄「で」語ることのできない闇を抱え込む。しかし、この困難を迎え入れるときはじめて、沖縄「で」語ることのできない沖縄「を」予感していくことが可能となるだろうし、沖縄を生きようとする私たちのいのちのあり方が発見されていくことになるのかもしれない。八重洋一郎という「闇」を抱え込みながらいのちを問う鹿野氏の新著を読みながら、そうしたことを感じている。」
それから「図書新聞」3457号(7/25)の「2020年上半期読書アンケート」で鶴見太郎氏が本書を挙げて下さっている。
(池田康)
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2020年08月01日

遊音倶楽部 2nd grade その文学性

コロナウイルスの感染者がまた増えているそうな。もう「おしゃべり禁止」にするしかない。くだらない雑談も重要な打合せも直接面と向かってはダメ。会話は電話かメールか手紙でしてください。あるいは手話かテレパシーか伝言板か。沈黙は金、という格言をヴァージョンアップして、沈黙はダイヤモンド、にしよう。沈黙は純愛、でも、沈黙は仁義、でもよい。効果があるのなら。口に釦、舌に鎖。怪奇童話の世界だ。
余談はさておき。
絢香のカバーアルバム『遊音倶楽部 1st grade』はわが愛聴盤だが、このほど7年ぶりの第二弾『遊音倶楽部 2nd grade』が出た。聴いてみて全体的に感じるのは(この表現で射当てているか心許ないが)「文学性」への傾きである。それを説明するために、たとえばということで、中島みゆきの曲を挙げたい。『1st grade』には「空と君のあいだに」が入っていて、私としてはオリジナルの中島みゆきの歌唱よりも絢香のヴァージョンの方が好ましいように感じたのだが、それはなぜかというに、中島は芝居の感じで演じてうたっているのに対し絢香は真剣にその詞世界に没入してうたっているように聴こえるのだ。この曲はドラマ「家なき子」の主題歌だったから、フィクションですよという条件付けが中島の側にあるのだろう。絢香にはそういう意識はなさそうで、まさに「I mean it」というかんじでうたっている。そして今回の『2nd grade』には「糸」が収録されていて、やはりオリジナルと絢香ヴァージョンとは相当違っている。その違いが、今回の場合、文学性の方向への深彫りというふうに聴こえた。中島みゆきは歌詞を書く段階では言葉に寄り添って考え抜いて書いているだろうが、うたう段階では躊躇なく音楽的な美しさの高みを目指してうたい上げている。対するに絢香は朗誦風というか、音楽性への欲動を少し抑えて言葉をできるだけ裸形で表すように努力しながらうたっているように聴こえる。
「アポロ」や「フレンズ」でも同じようなことが言えそうだ。ポルノグラフィティの「アポロ」は、絢香がうたい始めたとき、「弱いな」と感じた。オリジナルの歌唱と比べ、楽曲の運動の速度も重量も抑えられている。この曲は難しいかと思いながら聴いていると、そのうちに説得され、聴き入ってしまっていた。そして何回か聴くうちにこのヴァージョンが「アポロ」だと思えてくる。純音楽的な強度を緩めながら、言葉をくっきりと立て、朗誦のゆとりの中に文学的なコメンタリーを刻み込むかのようだ。レベッカの「フレンズ」は、日本語でロック音楽は可能や否やの論争が激しかった時期を経て、自然に日本語ロック曲が作られ、うたわれ、流行歌としてロック愛好者のサークルを越えた大衆に浸透するようになる、そんな次の時期を代表するシンボリックな曲の一つであり、この曲をうたうとはその(ようやく自然に走れるようになった)ロックの疾走感とともにうたうことであるはずなのだが、絢香は走らせない。「脱ロック」を企てる。リズム感のやや乏しい弦楽中心の伴奏をバックに歩くモードでうたう。音楽の身体的運動性よりもむしろ言葉を彫り上げ刻みつけることに腐心するかのようだ。
ロックの身体運動重視に対してフォークシンガーは文学性が勝るとするも、絢香がフォークシンガーだというのは違うだろうが、言葉が言葉としてまざまざと立ち上がってくるうたいざまはフォークシンガーの理想型とも思える。島津亜矢もカバーアルバムを多く出しているが、この歌手は歌唱能力をポジティブに活かして音楽性の方向に思いきりアクセルを踏む仕方で独自色を作る。それに対してこのアルバムでの絢香は音楽性の方向へは適宜ブレーキをかけながら(グルーヴを殺して)、文学性とでも言うべき要素をそのゆとりの虚の部分に凝集させることによって自分の「自由研究」を営んでいるように見える。言葉と対話する歌唱。ポップソングを言語芸術として再誕生させようとする企図とも言えるだろうか。
(池田康)
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2020年07月23日

二冊の小説

最近、二人の女性作家の小説を読んだ。
まず、評判になっていた、ラーラ・プレスコット『あの本は読まれているか』(東京創元社、吉澤康子訳)、これはソ連の禁書『ドクトル・ジバゴ』の出版をアメリカ側が冷戦時の作戦とした話。CIAに勤める女性たちのもろもろの喜怒哀楽のエピソードも興味を引かないではないが、やはり作家ボリス・パステルナークとその周りの人々の法外な苦悩が胸に迫る。
もう一つは、ルシア・ベルリン『掃除婦のための手引き書』(講談社、岸本佐知子訳。フランス装が贅沢)、これはラジオだか雑誌だかで紹介されていたのをかすかに覚えていて、たまたま書店で見つけたので買って読んでみた次第。24篇の短篇小説のアンソロジー。重そうな鑿でためらいなくどんどん彫り刻んでいく豪快な筆致が魅力か。シニカルな意地悪い目、いや、なにも怖れない無敵の目の異様な輝き。タイトル作は、なるほど、ふてぶてしくて面白い。「いいと悪い」はこの難問の話にどうやって結着をつけるのだろうと思いながら読んでいったが、この作者らしくあっけなく現実的な、ゴルディアスの結び目を切るような終わり方になっていた。とりとめのない(詩のような?)小品もいくつもあるが、自伝的要素の濃い諸篇も並んでいて、この人の円満さを欠いた、無茶な傷だらけの人生が垣間見えてくる。暗転という舞台用語は実人生では無限のニュアンスをはらんで地獄の書き割りを動かすことがわかる。
(池田康)
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2020年07月14日

「虚の筏」25号

「虚の筏」25号が完成した。参加者は、酒見直子、海埜今日子、平井達也、たなかあきみつ、小島きみ子、二条千河、久野雅幸のみなさんと、小生。下記リンクからご覧下さい。
http://www.kozui.net/soranoikada25.pdf
(池田康)
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2020年07月12日

「一度も撃ってません」のことなど

雨が続いている。全国各地でひどい水害が発生しつつある。冬からのウイルスの大波と合わせ、一難去らずにまた一難で、2011年についで生きづらい年になっているようだ。
この一週間の水害報道で印象に残ったのが、濁流に破壊される橋の映像だ。一つだけでなくいくつも見たように思う。橋と言えば「troubled water」の上に雄々しく架かる頼もしいものというイメージがあっただけに、経年の傷みもひそんでいたのかもしれないが、もろく崩れ流される映像の悲痛さには言葉を失った。
やまない雨のたまさかの小休止の時間帯をとらえ、映画「一度も撃ってません」を見に出かけた。石橋蓮司主演作。監督・阪本順治、脚本・丸山昇一。昨年「あらかじめ失われた恋人たちよ」(1971)をDVDで見て一文をしたためた者としては、その主演二人が出ている今作は見逃せない。同窓会的な遊びの一本かとも予想したが、そうではなく、集中力をこらした本気が漲る。一つ一つのシーンが通常の映画とはちがう艶あるいはリズムを帯びているような微妙だが異様な感覚があり、映画は光でできているわけだが光が蜜やアルコール成分を孕むこともありうるのか、特別な被写体にカメラが感応することもままあるのかもと埒もないことを考える。変な言い方だが、「人間」が存在しているという否み難くしたたかな感じがあり、それは1960年代、70年代の真ん中をくぐり抜けてきた人間たちであり、その空気がスクリーン上に濃く現われている。地下バー「y」(原田芳雄にちなむ命名)での場面はことにその傾きが顕著だ。石橋蓮司、桃井かおり、岸部一徳、大楠道代のぶつかり合う演技の瞬間は、感心とか感銘とかを越えて、なにかガツンとくるものがある。このバーのカウンターに腰かけて桃井かおりが「サマータイム」をうたう場面はみごとで、ここだけ切り取って額縁に入れておきたいくらい。この前後の一連は今年の日本映画の一番の見モノとなるだろうと憶測するがどうだろうか。最初から最後までジャズが鳴っているのは60年代への懐旧か、そのスピリットを召喚しようとしているのか。「troubled people」ばかりが登場する映画で、その上に壮麗で立派な橋が架かるのかどうかわからないが(なさそうに見えるが)、それがないところでのジャズ祭的右往左往の放浪がこのpeopleの生きる本領なのだろう。
パンフレットはインタビューや座談会も収録されていてありがたく、金澤誠の文章「アウトローたちの50年/彼らの矜持が生み出した余裕のコメディ」は役者たちや映画制作者たちの歩んで来た道のりとその交差の歴史図を簡潔に描き出して、とても参考になる。

(池田康)
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2020年07月04日

みらいらん6号完成

milyren6.jpgみらいらん6号が完成した。疫病禍で大変だった今年前半を制作時期としながら、なんとか完成にこぎ着けることができてほっとしている。
巻頭詩は谷川俊太郎、八木幹夫、堀場清子、山中真知子、神泉薫、長谷部裕嗣の各氏、俳句は松本邦吉氏、短歌は川崎勝信氏にお願いした。河津聖恵さんの連載詩は今号が最終回。
特集は「吉岡実」。城戸朱理さんの提案と導きにより、動き出した企画。朝吹亮二・城戸朱理両氏の対話(外出自粛期間中の4月にメール交換で作られた!)を頭に置き、批評エッセイは高岡修、小林一郎、田野倉康一、松尾真由美、小笠原鳥類、松本秀文、菊井崇史、生野毅の8氏にご寄稿いただき、アンケートは嶋岡 晨、安藤元雄、八木忠栄、広瀬大志、野田新五、小池昌代、米山浩平、たなかあきみつ、渡辺玄英、有働 薫、宇佐美孝二、江夏名枝、福田拓也、國峰照子、中本道代、渡辺めぐみ、浜江順子、神山睦美、和合亮一、岡本勝人の20名の方々からご回答をいただいた。あと小生の勝手気ままな特集おぼえがき。
野村喜和夫さんがホストのシリーズ対談記事〈対話の宴・野村喜和夫の詩歌道行〉は今回は歌人の江田浩司さんをゲストに迎え、江田さんんご自身の本のこと、吉岡実や岡井隆のこと、今回のコロナウイルスパンデミック下での詩歌の動向のことなど、幅広く語っていただいた。緊急事態宣言が長引いてなかなか直接会っての実施の目処が立たなかったが、6月に入ってようやく収録することができた次第。
今年1月に逝去された清水茂氏の追悼文を厚誼を得ていたのでぜひ掲載したく思い、小島きみ子さんに執筆していただいた(小島さんは「洪水」13号で聞き手になって清水氏にインタビューしている)ほか、山本萠さんが「詩素」8号に発表された詩が清水さんの死を悼んでのものだったとのことで、その作品を転載させていただいた。
あと、特別寄稿として、「海外通信」と題して英国在住の南川優子さんに英国の現状を伝えていただいた。
全体で184ページ。ぜひ書店でお買い求めいただきお読みいただきたい。
(池田康)
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2020年06月28日

汽車と電車

真心ブラザーズの「アイアンホース」という曲を聴く。ちょっと愉快。アイアンホース(iron horse)、鉄の馬とは、機関車を意味する英語で、そういうタイトルの映画もある。鉄の重さを思わせる低音がひびき、リズムはあくまで前進する。ひねりが利いた言葉がそっけなく鉄道をたたえる。ブルーハーツの「TRAIN-TRAIN」が自由を希求する観念性がまさった青春のつっぱり歌だとしたら、この「アイアンホース」はより鉄道の現実の姿に寄り添う、もみじの秋のあそび歌だろうか。曲最後の5音に注目。
鉄道をうたった歌はどんなものがあるか。唱歌・童謡では、歌詞の長さがもの狂おしい「鉄道唱歌」や、懐かしい「汽車」とか「線路は続くよどこまでも」などがある。歌謡曲・ポップスだと、「津軽海峡冬景色」、「あずさ2号」、「哀しみ本線日本海」、「駅」などがよく知られているか。「さらばシベリア鉄道」もただちに念頭にあがってくる。スケールの大きさという点では「アイアンホース」も「TRAIN-TRAIN」もこの曲にはかなわないだろう。大瀧詠一の旋律はどの曲もこせこせせず音を大きく動かすところがあり、気分の雄大さや夢成分が分泌する恍惚が感じられる。この曲も例外ではない(近視がどうのという珍妙な歌詞も含まれているが)。
「いい日旅立ち」は国鉄由来の曲だったはずだが、詞の中に鉄道を直接に表す言葉はないようだ。はっきりと鉄道の歌にするためには、たとえば「私を待ってる人がいる」のところを「私を待ってる駅がある」とすれば鉄道ファン公認の鉄道歌になるのではないかとも愚考するが……顰蹙を買いそうだ。
「なごり雪」は「汽車を待つ君の……」と始まる。しかし現在ではもう「汽車」は生活に合わない。子供のころはまだ「汽車」は立派に現役の言葉だったが、今や、使うと笑われかねない。この歌が現役として留まるためには「電車を待つ君の……」に変えるほうがよいのだろうか? しかし語呂が悪いのがつらい。2文字を3文字に変えるだけだが抵抗があるし、「汽車」の「き」の字も「君」と通じていて捨て難いのだ。
「銀河鉄道999」はゴダイゴの歌が有名なのだろうが、個人的にはこの漫画のテレビアニメ番組の主題歌も心にしっかり刻まれている。平尾昌晃の旋律造形力に敬礼。この曲も「汽車は……」で始まるが、この漫画に出てくる鉄道は見るからに蒸気機関車の形をしており永遠にそうだろうから、これは「汽車」でなければなるまい。
外国の曲ですぐに思いつくのは「A列車で行こう」「500マイル」あたりか。前者はデューク・エリントン楽団の看板曲。後者はフォーク系のスタンダードナンバー。「涙の乗車券」は比喩として使われているに留まるという気がする。鉄道ファンの公認はもらえそうにない。
19世紀、鉄道は驚異だった。20世紀前半もその感覚はかすかに残っていた。しかし夜汽車に乗ってとついでいく花嫁はもういない。新幹線のような高速交通システムまでできて電車がすっかり日常生活に溶け込んだ今、鉄道に特別な驚異の感覚はない。さすれば、この項の次なる課題は、「電車」という言葉を詩語として完全に消化し、そこに旅情あるいはなんらかの抒情の響きを乗せることに成功した歌がないか探すことだろうか。
(池田康)
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2020年06月24日

山本萠詩集『猫たちは 風に吹かれ』

前項から猫つながりで、山本萠詩集『猫たちは 風に吹かれ』(書肆夢ゝ)を紹介する。猫たちとともに過ごす日々をつづった詩を集めた詩集。冒頭に置かれた「猫のうたたね」を引用する。

 人が座ると ギィと悲鳴を上げる
 古ぼけた椅子に
 軽業のごとく 飛び乗って

 老猫が 惰眠をむさぼる
 前肢をていねいに揃え
 尖った顎を その上にそっと
 のせる
 それから
 大事なことを忘れていた!
 というふうに 突如起き上がり
 ぶるん と身震いをひとつ

 (瞬間 この世のチリアクタは霧散し)

 そうして
 再び 穏やかにおだやかに
 細い顎を そおっと
 地球の上 にのせる
 その〈平和〉
 の上に

内容的にはなんてことない一篇だが、抑えられた手数のデッサンが冴えていて、ちょっといい音楽を聴いた気持ちになる。このような淡々とした作品から、思念の濃密なものまで色合いの多様な詩が集まっているが、もっとも濃く悲哀のこもった作品は猫の死を悼んだ「宇宙の野へ」「これ以上なく透き通り」だろうか。「アフガン・グラス」は「みらいらん」2号の表紙に載った散文詩をタイトルを付けて行分けにしたもの。なつかしい。詩集最後に置かれた「ひとつの丸い塊になって」も引用したいところだが、長くなるのでやめておくが、作者の命と猫の命とがひとつになる感覚がよく表現されていて、この詩人の死生観を一幅の絵にしたようで、もしこの詩集を手に取ることができたら是非お読みいただきたい。
(池田康)
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2020年06月21日

禁断のネットフリックス

昨年来、志田未来作品を追跡している者としては、新しい主演作は見逃せない。劇場公開が中止になりネットフリックスで先日公開されたアニメーション映画『泣きたい私は猫をかぶる』(監督=佐藤順一・柴山智隆)を見た。少女が魔法の仮面をかぶって猫になるという設定のファンタジー。志田熱演、変転し変幻する声の技で“リードボーカル”として躍動していた。主人公ムゲとその友だち頼子との琴瑟とも称したくなるマブダチぶりはじーんとくる。物語は、主人公の家の猫(義母が連れてきた)が本格的に筋にかかわってくるあたりからぐっと面白くなる。祭りの夜の猫世界はすばらしく凝っていて悪夢風にマジカル。最後は厭世的な幻想文学ならばムゲも日之出(ムゲの恋の相手)も猫になってしまって終わるというエンディングも展開の選択肢としてあり得るのだろうが、健全な商業作品としてはそんなあらぬ方向のお話は子供に向かって差し出しにくいだろう。舞台となっているのは常滑。小生の郷里の近くで少し懐かしさを覚える。しかし行ったことはなかったはず(瀬戸なら行ったことあるのだが…)。常滑焼きの里はこんなふうに窯の煙突が林立しているのかと実際の町を見てみたくなった。
ネットフリックスという「禁断の苑」はそこに所蔵されるタイトルなら簡単に視聴できる竜宮城のような場所で、うかうか過ごしているとあっという間に時間が経過して外の世界に戻ったら百年経っていたなんてことにもなりそうだ。思案するに、劇場にわざわざ足を運ぶとか、テレビでやっと放映されたのを逃さずに見るとか、レンタル店で探して借り出すとか、視聴するのに若干の手間や負荷がかかるほうが現実感を伴った苦労が下敷きになっていてよいと思うのだが、今はこういう無重力の恐ろしくストレスフリーな鑑賞サービスの場が主流になりつつあるのだろう。映画やテレビドラマのほか、音楽作品もあり、宇多田ヒカルの2018年のコンサートも視聴できるのはラッキーな気がした(アルバム『Fantome』の曲がいろいろうたわれるほか、又吉直樹との恐怖コント対談も挿入されている)。アメリカのミュージシャンのコンサートやドキュメンタリーはたくさんあるようだ。
(池田康)
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2020年06月18日

みらいらん6号編集完了

「みらいらん」6号の編集が完了し、印刷所に入れた。今号の特集は「吉岡実」。4号の田村隆一特集同様、城戸朱理さんの導きによる企画だ。朝吹亮二・城戸朱理両氏の「対話」のほか、8本の批評エッセイ、20名の方々にご回答いただいたアンケートなど。
野村喜和夫さんの対談シリーズについては、6月8日の項に記した通り。
また今号の巻頭には谷川俊太郎さんに詩作品を御寄稿いただいており、そちらも楽しみにしていただきたい。来月上旬完成予定。
(池田康)
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2020年06月08日

霧にとざされた日々を抜けて

「みらいらん」次号の「対話の宴/詩歌道行」のための対談を先日世田谷の詩とダンスのミュージアムで行った。野村喜和夫さんがホストとなるこの連載企画の今回のお相手は、小誌に連載で批評文を寄せて下さっている歌人の江田浩司さん。詩と短歌のかかわりについて、吉岡実や岡井隆について、江田さん自身の近年の詩歌の仕事について、そして現在のコロナウイルスパンデミックの状況について、細やかに語り合っていただいた。感染の危険性を考慮してこのたびは無観客で実施した(これは少々残念)。5月中旬に一度日程が決まっていたのだが、緊急事態宣言が出たので、それを白紙に戻し、状況が落ちついてから再設定して、ようやく実現にこぎつけることができた次第で、ほっとした。次号をご期待いただきたい。
野村さんは今、白水社のウェブマガジン「ふらんす」で詩の連載をしている。コロナ危機の不安にみちた日々の想念を主に綴る形で、なんと週に一回の更新とのこと。詩・野村喜和夫×音楽・小島ケイタニーラブ×写真・朝岡英輔「花冠日乗」、というコラボ作品になっている。

 さかのぼるが
 3月6日
 愛犬ガブリエル旅立つ

 だがいまも霊獣ルーアッハとなって
 深夜、私を護るように
 家のまわりをまわっている、みえないが
 遊星のように、錆びた自転車
 薔薇のための土
 らとともに

 3月31日
 告別の儀式も許されないまま
 世界中で
 柩が発ちつづけている

という哀切で戦慄すべきフレーズも出てくる。URLは次のリンクから。
雑誌ふらんす:
https://webfrance.hakusuisha.co.jp/
詩のページ:
https://webfrance.hakusuisha.co.jp/posts/3516
(池田康)
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2020年06月02日

マリス・ヤンソンス その2

マリス・ヤンソンスはライブ演奏でのエネルギーの凝縮爆発を重視していたようで、コンサートライブをそのまま収めたCDをたくさん残している。これらのライブ録音は表面で運動する音の奥にあやしい神秘の闇がうずくまっていて、艶かしい空気を作り、去来するすべての瞬間に魔法をかけ、輝かせるのであり、歪みまで魅力と化すその本物感がたまらない。とにかく生彩があり、単純な旋律やパッセージを管弦が朗々と奏しているだけでも、茫然、陶然としてしまう。一曲毎に拍手で区切られるから気づかないうちに次の曲に移っていたということがないというメリットもあるがこれは蛇足だろうか。晩年の本拠地となっていたバイエルン放送交響楽団とロイヤル・コンセルトヘボウのそれぞれのライブ録音を集めたボックスセットが一枚当たりにすると数百円という廉価で販売されている。そういうものを入手して聴くと、ブラームスからマーラー、ストラヴィンスキー、シェーンベルク等々、19世紀後半から20世紀前半にかけての音楽がレパートリーの中心になっていることがわかる。しかし戦後の作曲家の曲も積極的に手掛けていて、たとえばルチアーノ・ベリオの「4 Dedicaces」はまさしく現代音楽ぽい曲だが、脈絡がよくつかめなくても音が生々しく輝くからそれを眺めているだけで新鮮な時間になる。ソフィア・グバイドゥーリナの「Feast during a Plague(ペスト時の酒宴)」という変な曲も入っていた。曲の後半はとくに不気味に変。印象的な打楽器の四つ打ちのリズムモチーフは三つめにアクセントがあり、ロックのリズムを想起させる。調べると、この曲の日本初演が今年の2月に行われていた(下野竜也指揮、読売日本交響楽団)。偶然の成り行きからそうなったのだろうと思うが、このウイルスパンデミックの時期にどんぴしゃの出現だったと言えそうだ。以上はロイヤル・コンセルトヘボウのCD収録曲だが、もう一つ書き置くなら、マーラーの交響曲7番はこれまで楽しく聴けたためしがなかったが、今回は楽しく面白く聴くことができてありがたいことだった。
バイエルン放送交響楽団との演奏でのベートーヴェン交響曲全集(2013年)は2012年に来日してサントリーホールで行ったベートーヴェンチクルスをベースに、ミュンヘンでのコンサートを織り交ぜて構成したもので、シチェドリン、望月京など現代音楽6曲(ベートーヴェンをテーマに作られたもの:Reflection)も一緒に収録されていて、現実のコンサートに近づけるという意図なのか、風変わりな「全集」だ。中ではカンチェリの「Dixi」が〈荒野の電気〉を感じさせて印象的だった。またこれはベートーヴェンの交響曲セットの収録曲ではなく別のセットの収録になるが、シチェドリンのピアノ協奏曲5番(ピアノ:デニス・マツーエフ)は異彩を呈してとても面白く聴ける。
さて、この指揮者については、重大な見落としに気づいた。以前、ショスタコーヴィチの交響曲をまとめて聴いたときに、お世話になったボックスセットの全集が、マリス・ヤンソンス指揮のものだった。ただしライブではない(小生としては残念)。オーケストラはバイエルン放響、ベルリンフィル、ロンドンフィル、オスロフィルなどさまざまで、全集としてはややとりとめないか。付録の小冊子には短いインタビューもあり、子どもの頃、指揮者だった父親(Arvid)とムラヴィンスキーがショスタコーヴィチの音楽について議論するのをはたで聞いていたのだそうだ。英才教育そのもの。この交響曲全集の恩恵を受けていたからには、5月6日の項とこの項はやはり追悼文ということになるだろうか。
(池田康)
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2020年05月26日

食べ物の話、SFから地産まで

緊急事態宣言が解かれて、一息つくような気持ちのゆるみ加減がなにやら心地良い。
一番緊張感が高まっていたころ、心配して下さったある方から食料の支援をいただいた。届いた箱にはレトルトカレーから生の野菜までいろいろ入っていたが、その中にインスタントの味噌汁もあり、個包装をあけるとおもちゃの煉瓦のような茶色の固形物が入っており、これをお椀に入れ、湯を注ぐとたちまち広がって溶けて味噌汁になる。卵スープなどではこういう形のドライ加工の即席食品を経験していたが、近頃は味噌汁もこれになったんだと一通り感心したあと、「しじみ味噌汁」というのを試してみてびっくり。本物の貝殻に入ったシジミが十個ほども出現した。あらあら、あの固形物のなかにこいつらが入っていたのかと、おったまげる。とうとう味噌汁までSF化する時代なのだ。
食べ物と言えば、最近感心したものに茨城産の野菜がある。某日、ほうれん草を買って食べてみたら味がしっかりしていて非常においしいので、どこの産かと見直すと、茨城産とあった。ピーマンについては、近年この野菜は彩りのほかに食材としてどんな存在意義があるのだろうと疑わしく思っていたが、茨城産のピーマンを食べてみると、非常に味が濃くて、むかし子どもの頃感じたような「ピーマンの味」がして、嬉しいことだった。土とか風土とか栽培法とか、なにか違いがあるのか。果物や米と違って、野菜はブランドものが少ないように思うが、「茨城野菜」は私のなかでは一つのブランドとなりつつある。
一方これはブランドにはなり得ないが、スーパーマーケットには近隣の農家が栽培する少々ぶかっこうな野菜を置いたコーナーがあり、トマトや胡瓜を買うときなどよく利用する。商品という感じがしない不揃いな形状と利幅とか考えてないようないかにも率直な安さに、細かいことは気にしない、近所付き合いのような親近感を覚えるのだ。
ベランダで冬から育てていた空豆が実をつけた。一株につき一粒という貧しさ。植木鉢では限界があるのか。病気になったものや小さいままのものもあり、まともに食べることができたのは、一粒だけ。残念というべきか、めでたいというべきか。
(池田康)
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2020年05月22日

『八重洋一郎を辿る』の書評3

「図書新聞」3449号(2020年5月30日号)に、鹿野政直著『八重洋一郎を辿る』の書評が出た。評者は葛綿正一氏。これだけ周到な紹介・批評はなかなかないのではないか。とくに終盤、「かくして、詩人論は思想史研究において危険な位置を占めるといえる。詩の言葉は「毒」となってしまう可能性が残るからである」以降の部分、「衝く」という言葉をめぐっての考察は深く鋭く、心に刻まれる。是非ご覧いただきたい。
なお、同号には詩歌関係では原成吉著『アメリカ現代詩入門』の書評もある。
(池田康)
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2020年05月06日

マリス・ヤンソンス

ここ三日ほど、寸暇を活用して、録ったまま未整理だったMDを調べ直して整理していた。現在の住所はラジオの電波がいまいちきれいに入らないのでやめてしまったが別の土地で暮らしていた頃はよくFM番組をエアチェックしていたのだ。作業をしながら、シューマンの交響曲を聴きたくなり、4曲をでたらめな順番で聴いていたのだが、最後に追加でかけた彼のピアノ協奏曲の次に、ベートーヴェンの交響曲第7番が録音されていて、ついでに聴いた(ライブだが演奏日不明)。力強い、非常に説得力のある演奏で、心動かされ、演奏者の名前を見たら、バイエルン放送交響楽団で指揮者はマリス・ヤンソンスとなっていた。この名前、最近ニュースで聞いたような気がして、ネットで検索したら、昨年11月死去と出ていた。一流の指揮者と目されていることは知っていたが、ひょっとしたら本当に素晴らしい才能なのかもと思い、この人の演奏を録ったMDがほかにあるか調べてみると、三つほど出てきたのでそれらも聴いてみた。
まず、シベリウスの交響曲1番とブラームスの交響曲1番、これはウィーン・フィルの演奏で、2005年3月6日にウィーンから国際生放送されたもの(NHKFM)。それからブラームスのヴァイオリン協奏曲(Vn:ジュリアン・ラクリン)と交響曲3番、R.シュトラウスの交響詩「ティル・オイゲンシュピーゲルの愉快ないたずら」。これはロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団の演奏で、2008年11月12日NHKホールにて(NHK音楽祭2008)。さらにマーラーの交響曲5番、これはバイエルン放送交響楽団の演奏(2006年3月10日、ミュンヘン)。
ライブ演奏だからより強く印象づけられるのかもしれない。ヤンソンスの指揮は、すべての音やフレーズを「科白」のように立て、楽想の流れの理を繊細に見きわめ活かしながら劇的に音楽の世界を作っていくところ、ちょっとオペラのような趣きがあり、それが魅力と説得力になってくるようだ。丁寧で、緻密で、聞き逃さず、弾き流さない。神経をともなった卓抜な展開力で、何度も聴いたはずの曲がとても面白く聴ける。楽譜の音を実際の歌声にするために、ヤンソンスは「必要な人」だった、と言えそうだ。
略歴を見ると、1943年ラトヴィア生まれ。この小国はバルト海に面したバルト三国の一つで、リトアニアとエストニアにはさまれ、ロシアにも隣接している。カラヤンとムラヴィンスキーに師事したとあるから本流の人のようだ。私の所有するCDでは、五嶋みどりのメンデルスゾーンとブルッフのヴァイオリン協奏曲の演奏でベルリン・フィルとともに共演している(ライブ録音)。ただしこれは、ヤンソンスが晩年率いることになる二つの名門オケ、バイエルン放送交響楽団とロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団の指揮者に就任する以前の録音。逆に貴重か。
生前この指揮者に特別の思い入れはなかったからこの一文は追悼文という種類のものではないが、今後はこの人の残した演奏は意識して聴くことになりそうだ。
(池田康)
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