2022年01月20日

大寒のおぼえがき

忘れないうちに最初に書いておくが、宇佐美孝二著『黒部節子という詩人』の第2刷ができ上がってきたので、興味のある方はぜひご注文いただきたい。
さて新年になって詩歌関係では、吉増剛造著『詩とは何か』(講談社現代新書)、三木卓著『若き詩人たちの青春』(河出文庫)の2冊をそれぞれ面白く読んだ。前者は2016年の『我が詩的自伝』の続編という位置づけで、大事に思う詩人たちを紹介しながら、詩という営為の本質を考える試み。ディラン・トマス、エミリー・ディキンソン、田村隆一、吉本隆明、吉岡実、フランツ・カフカ、パウル・ツェラン、石牟礼道子、黒田喜夫など、作品を挙げてかなり踏み込んで論じており、吉岡実の芸術至上主義の作品は嫌いとか、西脇順三郎はエロスの面で弱いとか、はっきりものを言っているところも実に興味深い。本の最後の部分に入っている、林浩平氏の質問による39のQ&A「実際に「詩」を書くときのこと」も、この神秘的な詩人の詩作の現場を開陳するとともに、本の前半で述べられた事柄をさらに深く追求していて重みがある。林さんのブログには次のように舞台裏が記されている。「今回も僕は制作のお手伝いをしました。全篇が話し言葉での語りによる展開、講談社の最上階のフロアの座談会用のスペースに座って担当編集者の山崎比呂志さんともども吉増さんのお話しを聴いた次第です。一回はだいたい二時間ほど、さあもう何度集まったことでしょうか。(中略)いったん体内化された言葉でもって、現代詩をめぐる言語哲学的な問題を具体的に語ったこの本、これは大きな収穫だと思います。」
『若き詩人たちの青春』の方は、昨年末から読んでいたのが最近読み終えたという形だが、著者が詩を志した若い頃に出会った詩人たちの姿が生き生きと活写されていて楽しく読めた。長谷川龍生、黒田喜夫、鮎川信夫、関根弘、堀川正美、谷川雁、木原孝一、清岡卓行、岩田宏……。戦後を代表する詩人たちであり、これを読めば戦後詩史のなまの風景を目の当たりにするような気になる。解説で小池昌代氏も「文学史を繙けば、当時のありようは、知識や情報として知ることはできる。だがその事実を生きることはかなわない。しかし本書は、あの時代の熱気、詩人たちの表情を、作品とともに伝えてくれる。読者はここに飛び込み、経験してみる他はない。/詩人たちは、人間臭さを存分に発揮しながら、詩を求めることにおいては極めて純粋だ。個を超えて、詩の未来を請け負って立とうという意気込みで、全身から湯気を立てている。」と書いている。当時の生活のありようがどうだったかも切々と伝わってくる。もともと単行本として2002年に出た本。
さてそれから、イギリスの作曲家、ヴォーン・ウィリアムズ(1872-1958)の交響曲全集のCDBox(通常の新譜一枚分ほどの値段!)を入手して少しずつ聴いている。去年の暮れに昔MDに録音した交響曲5番と6番を聴き返して、おや?と興をそそられてのこと。この作曲家の存在をはじめて知ったのはたしか篠田一士の音楽エッセイを読んだときだったように覚えている。その本をとり出して確かめてみると、平穏無為と言われても仕方ないところもあるが、その交響曲については、「はっきり言えば、全九曲のシンフォニーをじっくり聴きこむことが、イギリス音楽の魅力を知るうえでも一番の早道ではないかと思う。つまり、エルガーから始まる近代イギリス音楽を支配する、もっとも根源的なものはシンフォニーによる音楽思考で……(後略)」とも書いている(「平穏無為の音楽のために」「いささか途方に暮れるけれど……」=『音楽に誘われて』所収)。私としては1番はパスしたい気もするが、2番以降はゆっくり繰り返し聴けそう。ヴォーン・ウィリアムズには活発に劇的に動く曲もあるのだが、目的地なき逍遥、音楽的瞑想ともいうべき、穏やかで優しげな曲の方がいかにもこの作曲家を聴いているという感じになるのは妙なものだ。小品では、「タリスの主題による幻想曲」「揚雲雀」など、聴き甲斐がある。付属の解説冊子によると、彼はモーリス・ラヴェルに師事したが、ラヴェルは彼のことを「私(Ravel)の音楽を書かなかった唯一の生徒」と称したそうだ。
最後に、いただいたばかりのお知らせ。南原充士さんが新しい詩集『滅相』をアマゾンのkindle版で刊行したとのこと(343円)。下記よりご確認下さい。
https://www.amazon.co.jp/gp/product/B09QMC28Q7/ref=dbs_a_def_rwt_bibl_vppi_i4
(池田康)
posted by 洪水HQ at 16:30| Comment(1) | 日記

2022年01月17日

愛敬浩一著『遠丸立もまた夢をみる』

遠丸立もまた夢をみる画像s.jpg〈詩人の遠征〉シリーズの12巻として、愛敬浩一さんの評論書『遠丸立もまた夢をみる ──失われた文芸評論のために』が刊行された。四六変形判小口折り、208頁、税込1980円。発行日は2月1日。
遠丸立(読み=とおまるりゅう)は1926年生まれの文芸評論家であり、『吉本隆明論』を最初期に刊行した一人で、詩も書く。「詩人としての林芙美子」の評価にも意欲的であった。同人誌『方向感覚』を主宰し、一般的な作家論や書評などとは一線を画す、自らのこだわりに従った批評活動を続け、2009年に没した。代表作に、『恐怖考』『無知とドストエフスキー』『永遠と不老不死』等々。本書は、遠丸立の批評を導きの糸として、文芸評論の可能性を探究する試みである。
著者の愛敬浩一氏は日本近現代の文芸評論に非常に詳しく、幅広く読み込んでいるが、若い頃から親しんだ遠丸立の評論の特色を、理論的で普遍的な思索へと向かい包括的なテーマの著作をあらわした点に認め、文芸評論家は多くいるがそうした方向に歩を進めた者は吉本隆明以外はほとんどいない、と語る。そして後半に展開される「恐怖」と「ユートピア」の対比が本書の思考の最高地点となると言えるように思う。その傍らでは、テレビドラマの話が出てきたり、遠丸立の詩作品が紹介されたり、広い視野で論が進められていて、論考の道のりの豊かさが感じられる。
あとがきで著者は、
「今、こうして書き終わって、この文章の中身に一番驚いているのは私自身である。
私は遠丸立に対して、これまでずっと、基本的には親しみの思いしか持っていなかった。ところが、久しぶりに彼の文章を系統的に読み返し、それを論評しているうちに、オマージュになるはずだった私の言葉が、いつの間にか鋭角的になり、しだいに非難じみたものになってしまった。」
と語っており、その通りで、遠丸立をひたすら崇拝する書にはなっていないのだが、同じ時代を懸命にやみくもに生きてきた、境遇も姿勢もちがう二人であるからには考えのズレは当然のことだろう。そこにかえって文芸評論という営みに対する愛敬浩一氏の真摯さが現れているように思われる。そして死よりも生のことを考えなければならないというその言葉には並々ならぬ重みを感じる。
(池田康)
posted by 洪水HQ at 11:38| Comment(0) | 日記

2022年01月12日

オペラ「アクナーテン」

フィリップ・グラスのオペラ「アクナーテン」をメトロポリタン歌劇場ライブビューイングで見た。現代音楽にこのような壮麗なシーンがあるとは(あったとは)、と驚く。ミニマル音楽の巨匠と承知はしていたが、シンプルな音型の反復というその原始的な手法で3時間のオペラの巨大な果実をみごとに実らせたのは作曲家の並外れた構想力の賜であろう。ミニマル音楽の可能性の射程がここまでカバーしていたのは意想外なことだった。ヨーロッパの音楽界ではミニマル音楽の作曲家は野人扱いされているという話を聞いたことがあったように覚えているが、こんな作品が現れたら認めざるを得ないだろう。「現れた」──この過去形には浅からぬ含意があり、つまり私が見たのは今年に入ってからだが、実際の上演は3年前に行われており、さらに作曲は1980年代というはるか昔のこと。このズレにたじろぐ(この文章の立て方がおぼつかなくなる)。だから「新作が現れた」というのとは違っているのだが、このメトロポリタン歌劇場の3年前のプロダクションは相当話題になったということだから、再演と言ってもよく知られた作品を装い新たにまた上演するという程度の目新しさではない、より重い意味合いがあるのも事実らしい。出演した歌手たちは各シーンを作る音楽の細かいはてしない波に呑み込まれて恍惚、トランス状態になると語る。その通り、マジカルであり、音楽の原始の神秘にひたされるような感じだ。登場人物たちの極度にのろい動作、何語とも分らない古代言語の意味不明のひびき、音符の図像化として多用されるジャグリング遊戯といった舞台を作る主要素も、儀式性を強め、このステージを光り輝く大壁画として屹立させるのに寄与している。オーケストラはヴァイオリンパートを省いているのだそうで、その点も異例な特色と言えるだろう。
物語の内容は、紀元前14世紀のエジプト王アクナーテン(アメンホテプ4世)が従来の多神教を廃して太陽神のみを崇める一神教を制定した事蹟を追う。カズオ・イシグロの小説「クララとお日さま」(最近読んだ)も少女ロボが太陽信仰のごときものを抱く話だったが、絶対神として太陽を観ずることは、宇宙物理学的に定義された恒星という物質的存在として太陽を認識している知性には、きわめて難しい。はるか未来のAI人形にとっても、三千年前のエジプト人にとっても、太陽は神秘そのものなのであり、ポエジーの夢幻空域を過ってクララからアクナーテンへと細い光の道が走る。舞台上でバケモノのように七変化し百変化する太陽のイメージもその把捉しがたい夢幻性をよく表現している。指揮者カレン・カメンセックの語るところによると、ミニマル音楽の方法で作られたこの曲の演奏は数え間違いなど起こりやすく非常に難しいのだそうだ。嬉しいことに、それなりの長さの堂々とした前奏曲がついているので、試しにそこだけ聴くのも有意義かもしれない。
(池田康)
posted by 洪水HQ at 11:26| Comment(0) | 日記

2022年01月03日

みらいらん9号

みらいらん9画像S.jpg「みらいらん」9号が完成した。
今号の特集は「恐怖の陰翳」。2020年からのコロナウイルス跋扈、そして野村喜和夫さんの対話シリーズの候補の一つとして広瀬大志さんとの恐怖対談が挙がったこと、さらに表紙を飾るオブジェに今回國峰照子さんの「悪夢」をもちいる予定だったので、これらから総合して、ほぼ必然的に「恐怖」という特集テーマになった。「陰翳」とつけたのは、はっきりした恐怖だけでなく、その予兆や可能性、潜勢態をも視野に入れたいという考えからである。野村・広瀬対談「恐怖と愉楽の回転扉」(広瀬さんがとても張り切って語って下さった)を軸として、エッセイや詩を神山睦美、望月苑巳、生野毅、瀬崎祐、田中庸介、愛敬浩一、山田兼士、細田傳造、八覚正大、添田馨、田中健太郎、北川朱実、浜江順子、菅井敏文、今井好子の諸氏に寄稿していただいた。さらに海埜今日子さんの連載掌編も恐怖のテーマにあたると思われたので特集の枠の中に入れた。記事の隙間には「恐怖十七景」と称して小説や詩作品などから恐怖シーンを引用した。
巻頭詩は中本道代、宇佐美孝二、高田真、二条千河、高橋馨のみなさん。短歌は、山川純子さん、そして蝦名泰洋さんの遺作。和合亮一さんの連載詩は今号が最後となる。
新倉俊一先生の追悼としては、八木幹夫さんの追悼詩「フェト・シャンペエトル」のほか、詩集『ビザンチュームへの旅』の書評を宮沢肇さんが執筆して下さっている。
なお、この号から美術コラム頁の担当が宇田川靖二さんから柏木麻里さんに替わった。
ぜひご覧いただきたい。
(池田康)
posted by 洪水HQ at 09:11| Comment(0) | 日記

2022年01月01日

2022年元旦

新春のおよろこびを申し上げます。
快晴の元旦、近所の小さな山(湘南平)へ登り、海と山を眺めた。毎年やっていることながら、この2年はこもりがちの日々で運動不足の気味があり、予想通り非常にくたびれた。山頂で見はるかしての一つの発見は、山も青いということ。海や山が青いのは当然のことだが、遠くの山の影も青い。富士山も雪をかぶっていない部分は青い。青・青・青。そのことに気づいた朝だった。
本日届いた、中原秀雪さん主宰の詩誌「アルケー」に、宇佐美孝二著『黒部節子という詩人』(洪水企画)についての同人諸氏の感想エッセイを集めたものが挟みこまれていた(「アルケー通信」25号)。宇佐美氏も同人のようだからこうした手厚い特集風の編集がなされたのだろうが、詩人仲間の仕事に対するここまで念入りの好意はなかなか実現できることではないように思う。宇佐美氏のエッセイ「『黒部節子という詩人』出版前後」には、「反響は思った以上に好意的で、あちこちに“隠れ黒部ファン”がいたことに改めて確信を深めた。」とある。私の近辺でもNさんが黒部節子という詩人は前から知っているので是非読みたいと注文して下さった。何色の糸か知らないが、見えないところでつながっている文業の不思議。
前に、注文したCDが届かないと嘆いたあのCDが、問合せをしてみた結果、今日届いた。これを正月に聴けてありがたい。
(池田康)
posted by 洪水HQ at 16:36| Comment(0) | 日記

2021年12月28日

のんびりしたはなし

「みらいらん」9号が完成した。この号については新年になってから改めて紹介するつもりだが、ともかくもゴールまで辿り着けてほっとしている。半年に一冊のゆったりとしたペースだが編集終盤の11月下旬から12月上旬にかけては非常に気ぜわしかった。その反動で今はやたらのんびりした気分になっている。雑誌の発送作業も基本のんびりやるのがコツで、必要以上に急がなければストレスにならず疲れない。
さて、二週間以上前に注文したCDがまだ届かないのだが……、ひょっとして海外から取り寄せている? インターネットでどんなことも瞬時に解決するこの時代でもモノのやりとりとなるとときにえらく時間がかかる。二週間を経ても届かないというのは全くのんびりした話で、このまま永久に届かないままなのではないかと疑い始めている。
小田和正が主催する祝祭コンサート「クリスマスの約束」(テレビで24日深夜に放映)を録画して2度視聴した。一年かけて準備するゆったりとしたリズムの企画なのだが、よく考えられ練られていて中身が濃く、桂冠シェフによるコース料理のよう。こうした音楽番組を2度通して見るというのは珍しいことで、師走は大型の音楽番組がいくつもあるが、かように上等なコース料理になっている番組はほかにないだろう。奏される音楽に慈しみがこもっている。ことに終盤の数曲に心打たれた。
夏に刊行した宇佐美孝二著『黒部節子という詩人』(シリーズ詩人の遠征11巻)も、著者の宇佐美さんが2003年から同人誌で発表し始めた論考をまとめたもので、18年間の積み重ねという長い時間があってはじめて生まれうるものだ。予想外の反響があり、在庫切れとなってご迷惑をおかけしたが、年明けには増刷ができてくるはずなので、ぜひご注文いただきたい。なお、昨日の公明新聞紙上で、小池昌代さんが本書を「2021年 私の3冊」に選んで下さった。こちらもぜひご覧下さい。
(池田康)
posted by 洪水HQ at 14:59| Comment(0) | 日記

2021年12月17日

虚の筏28号

虚の筏28号が完成しました。
下記のリンクよりご覧下さい。


今回の参加は、平井達也、神泉薫、久野雅幸、たなかあきみつ、小島きみ子、生野毅の皆さんと、小生です。
(池田康)


追記
下記の一篇は今号の画像を見ていて浮かんできた詩想のスケッチです。

傘の下には静かさがある
余計なことをしゃべらない安らぎ
なにも考えなくていい放下がある
天から降ってくるものを受け止め
そしてやさしく落とす──
それは宗教行為だろうか
傘の下
ひらかれつつ閉じる
小さな空間の秩序
の歩行
と静止
傘が美しいのは
柄を握る手に
天のかたことを伝えるから
地上の命の慄えを
見えない天にうったえるから

posted by 洪水HQ at 12:37| Comment(0) | 日記

2021年12月10日

英語のお勉強?

ラジオを聞いているとたまに英会話教室のCMが流れる。そういえば自分も若いころ一時期英会話教室に通ったことがあったなあと思い出す。中学・高校で勉強する英語と、英会話教室で出会う英語とは不思議に手触り肌触りが違ったものだ。あの微妙だが決定的な違いはなんだったのか。
最近、メトロポリタン歌劇場のライブビューイング(オペラ上演を収録した映像作品)をよく視聴するのだが、オペラ作品そのものの華のほかに、幕間で歌手や演出家、指揮者、その他のスタッフがインタビューを受けて話すのも興味深く、もちろん英語でのやりとりで、文化芸術の創造についてどのような表現で説明し、賞讃し、批評するのか、具体的な言い回しを実地に学ぶこともでき、生彩があって楽しい。字幕が逐語訳にはなっていない、そのズレもなるほどと思う。
そういえば今のNHKの朝ドラは、ラジオ英語講座の物語だそうで(まったく見ていないが…)、話の作り方によっては深刻なテーマとその掘り下げになりそうな気もする。それでわれわれの英語に対する苦手意識がいくらかでも克服できるとは思えないけれど。
文学ではまだまだ母国語が主流だが、流行歌では(こんなに英語が苦手な国なのに)英語表現を取り入れることが非常に多く、一時期さかんに話題になった(今でももちろん有効だろう)ポストコロニアルとかクレオール文学の問題、その苦楽を、われわれも、1/3か1/4か、あるいは1/10か1/100かわからないが、実は知っている、くぐっているのだと言えなくもない。あわれな劣等生として。
蛇足のおまけに。近所のマクドナルドハンバーガーがいま建替え中で、今日工事現場の傍らを通ったら、黄色い巨大な「M」の看板を巨大なクレーンで持ち上げようとしていた。クレーンの腕がまっすぐ高く伸び、青空にそびえていた。
(池田康)
posted by 洪水HQ at 16:39| Comment(0) | 日記

2021年12月01日

四人組とその仲間たち2021コンサート

昨夜、上野の東京文化会館小ホールで「四人組とその仲間たち2021」コンサートを聴いた。全音楽譜主催。
1曲目、金子仁美「H2O ―3Dモデルによる音楽VIII―」(vn.甲斐史子、pf.大須賀かおり)。水の分子構造を素材として作曲したとのこと。両楽器が高音でとても細かく動く部分、そして低音で大きな音塊を切り出す部分、どちらも音楽にするのが難しそう。演奏者はおぼつかなさを覚えながら演奏に臨んでいたのではと推察する。しかし力を込めてうたうような部分も終盤にあり、そこは熱いものが押し寄せてきた。
2曲目、西村朗「極光」(トランペット 菊本和昭、pf.新居由佳梨)。オーロラ(太陽風の残光)をめぐる幻想曲。こちらは楽譜通りにちゃんと弾けば間違いなく音楽になる曲。ただ、ピアノはともかく、トランペットは名手が必要とされそうだ(今回の演奏は申し分ない)。名手であればあるほど曲は輝くだろう。トランペットが非常に低い音域に行ったときホルンのような音色をひびかせるのは、普段なかなか目にできない相貌で、新鮮だった。
さて、この二曲を比べるに、金子氏が、この構築で音楽は離陸するだろうかと実験的に挑戦する学究派なのに対し、西村氏は音楽は飛んでなんぼだと確信犯的に佳曲を書いているようにみえる。これは西村氏が創造の可能性を見切れる円熟に達しているということに加え、全音楽譜主催というコンサートの性格上、演奏家や聴衆に喜ばれ何回も繰り返し演奏される曲が生まれることが望ましいという事情によるところもあるに違いない。トランペッターにとっては嬉しい一曲だろう。
3曲目、鷹羽弘晃「ガンマ・コレクション」(マンドリン 望月豪、ギター 山田岳)。デジタル映像の明暗補正技術から着想したとのこと。ミニマル音楽風の、比較的単純な音型で、さほどの強弱の変化もなく、一定のテンポ&リズムを刻み続ける曲。作品を成立させるためには、厳密に正確な進行が必要で、ギターとマンドリンという撥弦楽器では乱れが生じるとすぐにわかり相当大変だろう。六人とか十人とかのグループでガムランのように勢いをつけてのりのりの忘我状態で演奏するのがよいようにも思うが、それでは作曲者の意図とずれることになるのかもしれない。私にとっては懐かしい楽器たちで、その分楽しく聴けた。
4曲目、新実徳英「ソムニウム」(クラリネット 板倉康明、pf.中川俊郎)。夢(somnium)の狂気、不条理をイメージした曲。クラリネットが意識主体の有頂天、沈潜、彷徨、逡巡 etc.を表すとしたら、ピアノは夢に出てくるさまざまな奇怪な風景、シーンを表すと言えるだろうか? 両者の間のぎこちない対話のような部分も出てきて、そこが狂気や不条理の棲息するエリアをなすのかもしれない。悪夢か、いい夢かというと、そんなに悪くはなさそうだ。詩であれば、今の時代の集合無意識ならぬ集合夢的なものを作るとしたら、不気味で陰鬱な作品が出てきそうだが、音楽は強く逞しい、ということなのかもしれない、驚かされもするが気持ちよく聴ける夢だった。
5曲目、池辺晋一郎「バイヴァランスXVI」(ファゴット 長哲也・福士マリ子)。同じ楽器のデュオのシリーズ第16番。異なる性格の5章から成るので概括しにくいが、4・5章の旋律が出てくる場面も楽しく聴けるが一番興味深く思ったのは1章だった。ファゴットは曲面をつくる。一音一音区切って弾いていた2章ではそんなことはなかったが、1章では区切らず連続して違う音を行き来していたのでファゴットの音が曲線、曲面を生み出していた。ピアノでドレミレドレミレ……と弾けば階段状の形になるが同じことをファゴットでやると聴覚上のかんじでは段差のまったくない滑らかな曲線、曲面になるようなのだ。二本のファゴットが生み出す音の曲面空間の妖しくはてしない変幻変容を化かされたように聴き入っていた。
(池田康)
posted by 洪水HQ at 13:13| Comment(0) | 日記

2021年11月11日

今日の毎日新聞夕刊に……

今日の毎日新聞夕刊文化欄のコラム「詩歌の森へ」にて、秋元千惠子作品集『生かされて 風花』が紹介された。「上田三四二の抒情性と玉城徹の批評性を兼ね備えた短歌、評論、小説などを記録する一巻は貴重だ。」評者は、酒井佐忠氏。ぜひご覧下さい。
(池田康)
posted by 洪水HQ at 17:57| Comment(0) | 日記

2021年11月04日

『亡骸のクロニクル』が北海道新聞文学賞詩部門佳作に

二条千河詩集『亡骸のクロニクル』(洪水企画)が第55回北海道新聞文学賞・詩部門の佳作に選出され、今日の紙面に発表された。選考委員は、阿部嘉昭、工藤正廣、松尾真由美の三氏。今回本賞は該当無しだったようだ。以上、速報として。
(池田康)
posted by 洪水HQ at 11:11| Comment(0) | 日記

2021年10月30日

「詩素」11号

詩素11002.jpg「詩素」11号が完成した。今回の参加者は、海埜今日子、大仗真昼、大橋英人、小島きみ子、酒見直子、沢聖子、菅井敏文、大家正志、高田真、たなかあきみつ、七まどか、南原充士、新延拳、二条千河、野田新五、八覚正大、平井達也、平野晴子、南川優子、八重洋一郎、山中真知子、山本萠、吉田義昭のみなさんと小生。
巻頭トップは、酒見直子さんの「種」。これは、雑誌完成後の酒見さんからのメールでの裏話によれば、菊田守さんとの思い出をベースに書いたとのことだ。
そのほかに、野田新五・新延拳の両氏の作品が巻頭に入っている。
〈まれびと〉コーナーは山田隆昭さんをお招きした。
また、南原充士さんの企画で、詩の推敲についての、谷川俊太郎さんへの書簡インタビューを掲載している。
表紙は、11号から第二ラウンドということで色調をあらため、外国詩の詩句を載せることにして、今号はイエイツの「He wishes for the Cloths of Heaven」より引用している。
まだ残部ありますのでご注文下さい(500円)。
(池田康)
posted by 洪水HQ at 08:45| Comment(0) | 日記

2021年10月23日

この秋のはまりごと

この秋は、紀州有田産のみかんを試している。たまたまこの産地のSサイズのみかんを買ったら、よかったので。外皮をむけば、あとは薄皮ごと食べられる。薄くて脆い、あるかなきかの薄皮なので、これをいちいちむいて食べる方が難しい。というわけで、この産地のMサイズのもの、Lサイズのものと、順に試しているが、大きくなるにつれ薄皮も存在感が出てくるようで、上記の体験をより理想的な形で期待するなら小さめのものを選ぶのがよさそうだ。みかん三昧の季節がくる。
また、最近なぜか、米国のTVドラマ「ツイン・ピークス」(1990年。デイヴィッド・リンチが監督している。タイトルは日本語でいえば二上山のような意味か)を見返し始めている。なぜか……特別なきっかけがあったということでもないのだが、前世紀の末頃に見ていて、背筋が凍るようなシーンに出くわして、怖くなって途中で見るのを止めたようにおぼろげに覚えていて、それがどういうことだったか、「みらいらん」次号で恐怖を特集することもあり、確かめてみようという考えなのかもしれない。まだエピソード3まで見ただけだが(見たことのない人のために付言すれば、エピソード1の前に一時間半のパイロット版というものがあり、これから見ないと話がわからない)、登場人物がいずれも生彩があって魅了される。影のつけ方が巧み。余談になるが、映画「ノマドランド」で使われていたシェークスピアのソネット(あなたを夏の日にたとえようか…)がこのドラマでも出てきて(町の大立者が悪所で口ずさむ)、おやおやと思った。この詩は英語圏では誰でも知っている有名なものなのだろう。
もう一つ、夏から秋にかけて秋元千惠子作品集『生かされて 風花』の制作にかかりきりになっていて、それが終わった後も、蝦名泰洋・野樹かずみ両吟歌集『クアドラプル プレイ』、福島泰樹歌集『天河庭園の夜』、加藤治郎著『岡井隆と現代短歌』と、短歌に向かい合う時間が続いている。これらの本のことは「みらいらん」次号に書くと思うが、最後の『岡井隆と現代短歌』で歌人独特の言語感覚を感じた箇所があったので紹介したい。岡井隆の歌、

 ホメロスを読まばや春の潮騒のとどろく窓ゆ光あつめて

について、「この歌の核心は、ホメロスでも春の潮騒でもない。「ばや」という助詞の明るい音韻とほのかな願望が一首の要なのである」と解説している。専門家はそんなところに目がいくのかと驚いた。一般読者としては、ホメロスぐらい読もうじゃないか視野の狭い諸君よ見えない監獄の中のわれわれよ、と教養人岡井隆がやさしく慫慂している面は確かにあるように思うわけだが。もう一首、

 蒼穹は蜜かたむけてゐたりけり時こそはわがしづけき伴侶

「蒼穹」には「おほぞら」とルビがある。この歌については(宮沢賢治の詩との関連が指摘されたあとで)「この豊かで複雑な「蒼穹は蜜かたむけて」という像は「ゐたりけり」という強烈な韻律に引き絞られる。「ゐたりけり」こそ一首の要であり、短歌の存在証明なのである。風景は鋭くえぐり取られ、下句に手渡される。」と語られる。イメージより措辞に注目するところ、短歌の専門家は違うなと痛感するのだ。
(池田康)
posted by 洪水HQ at 11:04| Comment(0) | 日記

2021年10月13日

秋元千惠子作品集『生かされて 風花』

生かされて風花帯付きs.jpgこの一夏かけて制作していた秋元千惠子作品集『生かされて 風花』が完成した。発行=現代出版社、発売=洪水企画。A5判上製、776ページ(!)、発行日10月5日、定価税込8800円。
歌人・秋元千惠子の主要な文業の集大成であり、既刊歌集を網羅した全歌集のほか、主要評論、小説作品を収め、この歌人の世界を一冊で展望する。
帯には、
「時代の傾斜を幻視する、悲憤の祈りの行である歌と散文。
半世紀を超える短歌・評論・エッセイ・小説の多彩な文業がここに集結して一冊となり、鏡のように互いに照らし合うことで、自分の道を生き切る文学者の全貌が示される。文明の病いと戦う孤高の母性、昭和の生き証人の自負と責任は、言葉の重さ、調べの高貴さ、想の深さとなって短歌に凝縮され、散文においては切なる生命論として雄弁に語られる。比類なく真率なエレジーがここにはある。」
とある。
全歌集は歌集『吾が揺れやまず』、『蛹の香』、『王者の晩餐』、『冬の蛍』、『鎮まり難き』に加えて2016年以降の歌集未収録作品も収録する。評論集3冊『秋元千惠子集 自解150歌選』、『含羞の人 歌人・上田三四二の生涯』、『地母神の鬱 詩歌の環境』もすべて完全収録。そして若い頃に書いた短篇小説の中から5篇「霧の中」「ぶらんこ」「白い蛾」「すず虫」「花影」を収める。ほかに、上田三四二論の拾遺、山崎方代を論じた諸文章、エッセイ、書評の類で構成される。

昨年末から今年にかけての秋元貞雄作品集『落日の罪』の編集も大変だったが、今回の本は膨大なページ数のこともあり更に二倍も三倍も難儀だった。制作期間がおよそ3ヵ月半しかなく、その中で歌集5冊、評論集3冊、短篇小説5篇、その他のたくさんの既発表文章をまとめ上げる編集作業は、時間的余裕がまったくなく、ほかの用事は棚に上げてこれに全力集中するよりなかった。なんとか予定日付近に完成に至ることができて、胸をなでおろしている。
全歌集を編集するのは神聖さを帯びた特別な経験で、この本の中でも一番重要な部分であり、間違いがないか、何度も校正したが、どうだろうか、誤字などが残っていないことを祈るのみ。
巻末には、秋元千惠子年譜と、酒井佐忠氏の批評文「環境詠から宇宙的文明論へ」(「ぱにあ」104号掲載のもの)、そして小生が書いた解説「終末を幻視する歌」を収めてある。その解説の最後の部分を紹介する。(すこし前のところで「私はこの歌人の最終到達点を終末思想の歌に見出したいと考える。もっとも真正な終末観を示す歌人、それが秋元千惠子だと言ってみたい。」と書いていて、そのことを念頭においてお読みください)

「甲村下黒澤の沢の蟹 われら人類ほろぶとも生きよ

歌集『王者の晩餐』所収。これは終末歌の絶唱だろう。故郷を蟹に託す。この「愛」をどう形容したらよいのだろう。終末歌が望郷歌でもある未踏の境地だ。

まぼろしか 水清からぬ川の辺の茅の枯葉に冬蛍ひとつ

歌集『冬の蛍』のタイトル作。これは「まぼろし」である。冬に蛍はあり得ないのであってみれば、あえて反語的に描かれた幻想画。『秋元千惠子集 自解150歌選』にはこの歌の項に「終末を思わせる冬枯れの川、そこに光る一匹の蛍に、私はまだ望みを託している」と記されているが、望みというよりも、蛍の姿を借りた〈生命〉の霊が大地の死に対して読経しているかのような印象を受ける。世界像でもあり自画像でもある。初句の疑問形の微妙さが歌全体の虚実を揺動させる。秋元千惠子は初句で鋭い切れを作るような歌をときどき書くが、これはその中でも最高作だろう。

老い扨ても冬こそ相応うこのわれに地磁気狂えと烈火もたらす

これは歌集未収録の、二〇一九年の作。予言者の裂帛の気が感じられる。秋元千惠子の終末観をうたう歌は、レトリックの一環として、あるいは珍しい味付けとして、あるいはおどろおどろしい影をつけたいがために、終末的要素を用いるといったような表層的なものではなく、真正の終末図・終末歌たり得ている。それはこの歌人が自分のやむにやまれぬ文明論的思考を愚直にひたに貫いてきて、同時に「故郷」への愛を普遍的なまでに育んできた、その結果だと思われるのだ。峻厳な終末を詠む権能を獲た希有な歌人である。」

そして著者・秋元さんのあとがき(─蘇れ詩魂─)から、最後の部分を。

「夫の生れた満州でも、私の山梨でも、風花は儚いが懐かしい。希有にして出会った二人の先祖をおろそかにしてはならない。感謝を込めて両家の家紋、秋元の「揚羽蝶」、輿石の「左三つ巴」を、この秋元千惠子作品集『生かされて 風花』の表紙の装丁に戴いた。秋元貞雄作品集『落日の罪』と「比翼作品集」にした。ふたりの、ささやかな文学の営為も、父母、兄弟、友人の声援あってのことであり、感謝の念はつきない。
余談になるが、胃ガンの手術直後「いくつになってもお母さんは恋しいものですね」と看護師さんに言ったとか…記憶にない。

わが洞に羽音とよもすは始祖鳥か声ありて詩魂の蘇りたり   千惠子」


大冊で値段も張るが、是非入手してゆっくり繙いていただきたい。
(池田康)
posted by 洪水HQ at 09:33| Comment(0) | 日記

2021年10月02日

『ビザンチュームへの旅』の新聞記事

新倉俊一詩集『ビザンチュームへの旅』が9月19日の神奈川新聞にて紹介されました。「西脇順三郎に師事しただけに、本書の題材も幅広い」「全編に海の香りが漂う」「好奇心や遊び心がさりげなく表出している」など。巻末に収められたエッセイ「詩人の曼荼羅」への言及も嬉しい。ぜひご覧下さい。
また、城戸朱理氏も共同通信の記事「詩はいま」にて紹介して下さったようで、幾つかの新聞に掲載されたはずだ。城戸さんに見せて頂いたテキストによれば、二十世紀のアメリカ詩の源流とされるエズラ・パウンドを日本に紹介してきた業績から追悼を始め、本詩集所収の「ニケ」を引用した上で、「新型コロナウイルス禍についての言及も目につくのだが、最後にたどり着くのは「ニケ」に見られるような絶対的な自由であったことに注意しよう。それこそ詩の力にほかならない。」と結ばれる。
広く読まれることを期待したい。
(池田康)
posted by 洪水HQ at 15:44| Comment(7) | 日記

2021年09月10日

新聞の記事のこと など

宇佐美孝二著『黒部節子という詩人』(詩人の遠征シリーズ11巻)が、8月23日の中日新聞夕刊〈中部の文芸/詩〉と、8月30日の同紙夕刊〈中部の文芸/小説・評論〉にて紹介、論評された。
また、秋元貞雄作品集『落日の罪』が6月24日山梨日日新聞にて紹介された。ぜひご覧下さい。
さらに。神泉薫著『十三人の詩徒』(七月堂)が刊行されたが、これはかつて「洪水」誌に連載された詩人論に2篇を加えて一冊としたもの。こちらもご注目下さい。
(池田康)
posted by 洪水HQ at 11:49| Comment(0) | 日記

2021年09月08日

支配される恐怖

ようやく夏も終焉、ひぐらしと入れ替わり秋茜が飛ぶようになった。
今年も内外に騒擾が少なくない。ミャンマーのクーデターが世界中に憂慮の声を沸き上がらせたのは2月だったが、この8月から9月にかけてアフガニスタンで米軍撤退とともに軍事力による政権交代が起こって、蜂の巣を突くような騒ぎになっている。
これらの動きをどう受け止めたらよいのか、正直なところ、受け止めようがない、狂った現実として傍観するほかないのだろうが、なにがどうであれ、まず基本的な指標は、国民の承認を得ているか、だろう。どんなに奇妙な政治形態でもその国の人々がよしとしているのであれば外からとやかく言っても仕方がない。しかしデモ隊を兵士が火器で制圧したり、メディアを理不尽に抑え込もうとしたり、国外へ逃れようとする人が数多くいるという事実があるなら、国民の承認を十分に獲得しているとは言い難い。そもそも武力によって政権を奪取するというやり方は(20世紀を終えた人類の歴史物差しで言えば)百年前二百年前の国盗り物語の作法であり、そんな時代の支配者層の政治感覚は、民草は上手に支配すればよいという考え方であろうから、承認を得るという必要性は感覚できないのではないか。たまたま国政の手綱を握った者が真の統治者になるためには、国土の生命から、そして世界の理性からのフィードバックは必要であるはずだ……制御工学で言うところのフィードバックの機能は、機械が安定して作動するために重要な要素であり、フィードバックを軽視、除去するならば、システムは暴走して地獄の沙汰へと赴いても不思議ではない。
「みらいらん」次号では「恐怖」をテーマにした特集を考えているが、「支配される恐怖」は、われわれが経験する恐怖の無数の可能性のうちでももっとも深刻なものだろう。
(池田康)
posted by 洪水HQ at 11:26| Comment(0) | 日記

2021年09月01日

高橋馨詩集『それゆく日々よ』

それゆく日々よ002.jpg高橋馨詩集『それゆく日々よ』が洪水企画より刊行された。A5判並製、88ページ、定価税込1980円。この本は春から編集を開始していて夏に入る前にすでに仕上がっていたのだが、予定していた発行日(9月8日)に合わせて印刷しようと、一ヵ月ほど寝かせていたのだ。そうやって思考の連続が途切れると、どの紙をどう使って一冊を構成するかという思い描いていたバランスの感覚を忘れかけてしまい、再開するときに少々慌てたが、完成してみると割合うまくいっており、ほっとした次第。
1938年生まれの著者はすでに傘寿を越えており、老年の日々に浮かぶ切実な(ときにとりとめのない)詩想を書きとめた26篇が集められている。帯文には、
「招かざる客のあてどなき彷徨
詩を重いものにしない精神の軽やかさ、ささやかなことを面白がる好奇心。ユーモアと諦念の混ざり合う老境の心象は日常的で彼岸的な絵をえがく。生まれてくる奇妙にこんぐらがった描線を真の自画像として読み解く鍵をさがしながら。エッセイ「映画〈異端の鳥〉と戦後少年」が付される。」
とある。自らの存在を「招かざる客」と見定めているところに、感じておられる刻々の危うさ、世界との関係の覚束なさが表出されている。
装丁(装画も含め)は高橋さん自身の手によるもので、シンプルに美しくまとまっているように見えるが、相当な試行錯誤を経ている。本文中には詩と連繋する形で著者撮影の写真が数葉はさみ込まれていて、この詩集の特色になっている。
帯の裏側には作品「アブストラクトな散歩」の末尾の部分が引用されているが、その同じ部分をもう少し前から長めに引用紹介しよう。

 川の名は知らない
 橋の名も知らない
 ひっきりなしに行き交う
 産廃ダンプやライトバンや乗り合いバス
 国道の名も知らない。
 川沿いの散歩道
 ときどき足を止めて川面を眺めている
 この男は何者
 澄んでいるとはいえない川を遡って
 どこまでやってきたのか
 どこにも通りの名は見あたらない
 無名の街に
 無名のものであふれかえっている。
 八一の男は相変わらず
 水藻の揺らぐ川底を眺めている
 どこまで来たのか
 迷っているのかも知れない。
 亀のような塊を胸に抱え
 鴨の詠嘆の響きはなく
 まして鯉は
 遠くで尾びれが 微かに揺れている。
 しかし、なぜ
 流れはいつも一方通行なのか
 明日は逆に流れないのか
 呼気と吸気が
 いつもセットなのに。
 亀も水鳥も鯉も
 生きとし生けるものは
 流れに逆らって生きている
 力尽きたものだけが
 女の髪のような水草から
 しがみつく手を離して
 悲鳴もあげずに流れていく
 男は知らずにため息をつき
 何時までも
 川面を見つめている
 もうそろそろ
 巣穴に引き返す コロあいかナ
 ひろった石を
 ぽとんと投げてみる
 ピリオドのように。

(池田康)
posted by 洪水HQ at 09:01| Comment(0) | 日記

2021年08月28日

訃報・新倉俊一さん

新倉俊一さんが8月23日に逝去された由、八木幹夫さんが知らせて下さった。享年91。(新倉家への電話はしばらくの間おひかえ下さいとのこと)
7月に弊社で詩集『ビザンチュームへの旅』を作ったばかりだったので、驚き、茫然とした。詩集が完成したとき電話でお話ししたのだが、お元気そうで、とても喜んでおられたのが思い出される。詩集制作の打合せのとき、自分の最後の詩集だからということを言われて、どういう気持ちでそんなことをおっしゃるのだろう、半分は冗談なのだろうかといぶかしんだのだったが、結果的にその通りになった。清らかな詩の奥津城をご自身で用意して逝かれた、みごとと言うほかない。コロナウイルス感染症の社会事情で直接お会いすることが叶わなかったのが残念だ。
6篇を集めた組詩「ヘレニカ」から「ニケ」を引用紹介する。

  ニケ

 鴎は風に翼を任せて
 自由に空を翔けていく
 もし風が私の運命なら
 風の力が駆るままに
 水半球を自在に私も
 駆け巡るだろう
 私は風の器または竪琴
 たとえば天界に昇る
 ベアトリーチェのように
 体と離れた霊を知らない
 風が好むところに吹く
 ように私の霊もまた
 気ままに私の体を駆って
 四海を支配する
 自然はいつも豊かな
 神の祭壇であり私は
 その自由な巫女だ
 私には過去と未来はない
 つねに生気に満ちた
 現在があるだけだ
 今日も風は私を駆って
 新たな海と立ち向かう


(池田康)
posted by 洪水HQ at 09:05| Comment(0) | 日記

2021年08月23日

訃報・蝦名泰洋さん

歌人の蝦名泰洋さんが7月26日逝去されたとのこと、兄妹のように親しかった野樹かずみさんから知らされた。昨年後半から病気に苦しんでおられたのは知っていたが、これは早すぎる、と恨み言をいいたい気分だ。
「洪水」の時代には毎号批評文を書いていただき、とてもお世話になった。鏤骨の走り書き、とでもいうべき独特の文章で、携帯電話を使って苦心惨憺書いておられたようだ。時々一緒に食事をして近況を聞いたり、それなりの友達付き合いも許してくれたのだが、一番の思い出は競馬だろうか。彼はそうとう好きだったようで、G1レースの感想などメールで交換したりもしていたが、一度だけ一緒に馬券を買ったことがある。2015年5月3日、この日は天皇賞があり、私はすみだトリフォニーホールでのコンサートを聴きに行く予定があったので、開演前の時間に錦糸町駅の近くで落ち合って、馬券売場(ウイング)で購入したのだ。私はゴールドシップの単勝を買って当たり、蝦名さんはキズナに賭けて負けていたことを思い出す。主に三連単を買うバクチの人で、当たることは少なかったのではなかったか。
今年1月に出した「みらいらん」7号に巻頭の短歌作品を依頼していたのだが、結局、病気で苦しくて書けないという返事だった。すでにそうとう進行していたのだろう。したがって小誌に最後に寄稿していただいたのが、5号の小特集・童心の王国のためのエッセイ「僧ベルナール ─季語の誕生」で、以下にそれを部分的に引用紹介する。

 * * * * *

  古池や蛙飛び込む水の音

松尾芭蕉の有名な俳句ですが、あまりいい句ではないのにどうして有名なのかなとずっと思っていました。
同じように考える人が少なくないらしく、いろいろな人がいろいろの解釈をしてきたようです。何か深い意味があり何か謎めいた意図が想像され、それがわかれば句の魅力が理解できるというような何かを探して。
どんな池なのか、ほかに人はいるのか、かえるは一匹なのか二匹なのかもっとなのか。いなかったのか。かえるは一度飛び込んだのか。飛び込まなかったのか。最近の流行は、飛び込まなかったという解釈らしい。
  〈〈中略〉〉
ならばどう読めばいいのでしょう。
この句に息づいているものはなんなのか、と思うのです。芭蕉がなにを意図したのか。どんなものを大事にして書いたのか。ふだんから俳諧に求めていたもの、ひるがえって俳諧が詩人に求めているものはなにか。そのように考えますとフォーカスは春の季語「蛙」に合焦します。
  〈〈中略〉〉
芭蕉は、俳諧は三尺の童にさせてみたらいいと述べています。おおまかに言って素直な五感でものを感じるのがいいということでしょう。芭蕉の想いが蛙に凝縮したとき三尺の童が発動した。ベルナールのようにわたわた走り回って叫びたいんだけれども、そこは黒船来航前の日本人のこと、抑えたのです。しかももの言えば唇が寒い。この句はわびさびに通じる地味な表現になっていますが、詩人の心は逆にうれしく晴れがましさが勝っていたと想像されます。それを季語に託してみようという詩人の動作に見えます。
出光美術館に「古池や」の句が書かれた懐紙があります。ところがその懐紙にはもう一句
  永き日も囀り足らぬ雲雀哉
という作品も並べて書かれています。古池の句よりわかりやすく直接的に春の喜びが表現されており、二句を並べたところに芭蕉の意図が見えるようです。どちらも十中八九フィクションでしょう。しかし、とうとう春が到来したといううれしさは写実的に表現されていると感じます。死生観は考えなくてもいいんじゃないかな。
芭蕉たちは、季語が大切なんだと想いつづけたのだろうと思います。季語の背後には巨大な季節が控えている、そのことを忘れないでいようと想いつづけたのではないでしょうか。俳諧からの詩人への期待もまたそうだと私は考えます。
季語は歳時記に載っているだけでは季語として十分だと言えません。季語はある言葉が俳句作品の中で季語として生まれ変わったときにはじめて季語と呼ばれるべきです。季語の誕生日と該当の俳句の誕生日は、一致します。
あまり良い句ではない、いいではないですか、蛙という季語が生まれ芭蕉の童心に春が来たのですから。

 * * * * *

5号のこの小特集を編集していた当時は、この原稿をもらって、何が言いたい文章なのだろうと首をひねった覚えがあるが、今読み返すと、少しわかる気もする。
詩歌人の玄人式の良し悪し判定の批評眼とは違う種類の、作品の重量(生きる風景の中の山となり川となるような重さ)をなさしめる軸があるのであり、その軸の一方の端は童子の感性が輝き、他方の端は言葉の営みが織り上げる人間の歴史=文化=季の世界の生成に向うのもであり、「芭蕉の童心に春が来た」とはある刹那この軸を握ることを得た詩人の「真実」なのだろう。この文章を書いた蝦名さんは晴れ晴れとしているように感じられる。
(池田康)
posted by 洪水HQ at 16:53| Comment(0) | 日記