2021年06月01日

きまぐれ掲示板

いろいろ催しなどの情報が届いているので、簡単に紹介しましょう。

★吉増剛造展〈Voix〉
5月22日〜6月20日、artspace&cafe 栃木県足利市通2丁目2658(電話0284-82-9172)
月曜火曜休廊

★吉村七重ほか 箏リサイタル
6月13日14時〜、東京オペラシティリサイタルホール

★Ayuo〈2021年夢枕公演〉
6月24日19時〜、めぐろパーシモンホール 小ホール
予約 yumemakura2020@gmail.com

★吉岡孝悦作曲個展
7月17日14時〜、東京文化会館小ホール
(…生野毅さんの詞による合唱と打楽器の曲が演奏されると生野さんから案内あり…)

★南原充士さんの新しい詩集(電子版)
https://www.amazon.co.jp/gp/product/B0965MSJZD/ref=dbs_a_def_rwt_bibl_vppi_i3


(池田康)
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2021年05月25日

『風の音』の記事

弊社刊の泉遥歌集『風の音』が先日、南信州新聞で紹介された。読者からも反響があったようで、著者の泉さんも喜んでおられたのだが、その記事コピーを見せてもらうと、詩歌の作品集が新聞などで批評・紹介される記事としてはあまり見られないくらいに理解深く丁寧に細心に寄り添っていて、これなら読者の心にも素直に響くだろうと感心した次第。下記リンクからご覧いただきたい。
http://www.kozui.net/image/20210509minamishinshu.jpg

(池田康)
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2021年05月13日

映画「タクシー運転手」から考える

数年前にかなり評判になっていた韓国映画「タクシー運転手〜約束は海を越えて〜」(チャン・フン監督、2017)が先日テレビで放映されていたので、見た。1980年の光州事件を扱った作品。軍隊が学生など民衆を武力弾圧するシーン、流血と蹂躙が生々しくて恐ろしい。現在のミャンマー情勢ともダブってきて、さらに重苦しい気分になる。
水野邦彦著『韓国の社会はいかに形成されたか』(日本経済評論社、2019/水野氏はかつての学友で、この一冊は彼がめぐんでくれたもの)の光州事件を解説した章にはこうある。

「朴正煕が暗殺されたのが一九七九年一〇月二六日、その後一二月一二日にクーデターによって実権をにぎった全斗煥を中心とする陸軍士官学校一一期の軍人たちは、軍部のみならず社会の全分野を掌握した。軍部は兵営復帰の意思を表明しながらもクーデターののち翌一九八〇年五月はじめまで影響力を増大させていった。一九八〇年四月一四日には全斗煥が中央情報部長まで兼任することが公にされ、これで全斗煥が政治的野望をもっていること、軍部が強硬に権力掌握をくわだてるであろうことは、だれの目にもあきらかになった。軍部によって占拠された政権における再度の非常事態発生を憂慮した民衆勢力は、朴正煕暗殺以来しかれていた戒厳令の解除のために組織的な活動をすすめた。」

このような成りゆきの中で、首都ソウルでの衝突は回避されたのに対し、光州においてとりわけ緊張は高まり、5月18日〜27日、大規模な衝突の流血沙汰となった、ということだ。この本の知見を踏まえると、この映画が事実に基づきながらも、フィクション作品であり、話を最大限にわかりやすく感動的にするために、描かなかったり手を加えたりしている部分があることにも気づく。たとえば民衆はけっして徒手空拳ではなかったのだし、主人公の運転手がのんきに不思議そうに光州を見ているのもクーデターで全国が戒厳令下にあった状況でそんな訳はないだろうと思われるし、米国の動向も省かれている。細部ではそうした気になる点が出てくるのだが、大まかなところではどんなひどいことが起こったか、スクリーンの上で再現してみせてくれるので、「韓国社会に決定的刻印を残した」と言われる光州事件を直に目の当たりにするような思いになり、粛然とする。ここからいくらかでも良い方向に向かい立て直すのに、韓国は80年代いっぱい、つまり十年かかったもののようだ。それとも十年で回復できたのは幸運というべきなのだろうか……。
「詩素」10号巻末の雑文コーナー「端切れヴゅう」に、統治論と法秩序のことについて短い文を書いたが、その続きのような形で、きわめて原理的な次元で考えるなら、法秩序と独裁者とはしばしば敵対的であり、決していい関係にはない。一般市民レベルでは、法の番人がそれなりに仕事をしていれば法秩序は公正と治安のために力をもつのだが、権力の上部に行けば行くほど法秩序のメルトダウンの危険が現実化してくる。独裁者とは、立法と行政と司法の全部門の手綱を握っている自分は法秩序をねじ曲げることも都合のいい法を作り発効させることもできる、殺人も強奪も易々と合法的に行う権限があると考えている人間だ。マーシャル・ローをふりかざす軍政をふくむ独裁政権は結局はそういうところまで行くだろう。そこまで行かなくても、良識を持ってはいても、最高権力者というものは法をないがしろにし政を恣にしたいという誘惑にもっとも近接したところにいる存在であり、その誘惑から距離を置くのは簡単ではない。そして最高権力者が法秩序やルールをないがしろにする素振りや気配を見せると、全国民はそれを鋭敏に感じ取り、その国あるいは共同体は重苦しい空気に包まれる。
1980年5月の光州のような場所へは実は案外あっけなく行ってしまうのかもしれないと思うと、揺れていない地面がいまにも揺れ動きそうに見えてくる。
(池田康)
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2021年05月09日

フランスの文芸誌「A」

literatureAction.jpg「洪水」6号(2010年)に掲載された、岡崎和郎・空閑俊憲両氏が語り手、土渕信彦氏が聞き手となった座談会記事「瀧口修造を語る 〜人差し指の方角〜」が、このたびフランスの文芸誌「A」に翻訳転載された。「ECHANGES AVEC JAPON(日本との交易)」という特集の「日本のシュルレアリスム」を扱う章の一項目として。これは土渕氏のお仕事で小生は実務的にはなにもしていない。
「A」とは、表紙に「LITERATURE-ACTION」とあるから、「ACTION」のAのことのようだ。205×208ミリ、212ページ。価格は20ユーロ(けっこう高価?)。私はフランス語がだめなので残念だが、手に取って漫然とページを繰っていると、ところどころにカラー写真が載っている。まとまった数ページがカラーになっていることはよくあるが、この雑誌は規則性のない任意のページをカラーにしているように見え、印刷の基本からいうとこれは不思議なことで、どういう仕組みになっているのだろうと泰西の高等技術?に首をひねった。
(池田康)

追記
67ページからのロラン・ドゥーゼ氏の詩が面白い。フランス語と対訳で日本語訳も並んでいて、その日本語の組み方のギクシャクしたぎこちなさも微笑ましいのだが、日本を旅行しながら綴ったと思われる詩行の率直なかんじがこころよい。
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2021年05月03日

「詩素」10号完成

siso10.jpgゴールデンウィークに突入したが、去年に引き続き、なにか暗雲立ちこめているような鬱々とした世の中で、早く浄めの風が吹いてほしいと切に望むところ。
さて、「詩素」10号が完成した。今回の参加者は、海埜今日子、大仗真昼、大橋英人、小島きみ子、酒見直子、沢聖子、菅井敏文、大家正志、高田真、たなかあきみつ、南原充士、新延拳、二条千河、野田新五、野間明子、八覚正大、平井達也、平野晴子、南川優子、八重洋一郎、山中真知子、山本萠、吉田義昭のみなさんと小生。巻頭トップは、海埜今日子さんの「木箱」。
そして10号到達記念の特別企画として投稿詩を募集し、選考会を経て、次の三作品が受賞した。
〈最優秀賞〉
鹿又夏実「赤い電車に乗って」
〈優秀賞〉
鳴海幸子「360°」
七まどか「漆黒」
これらの作品と、選評、そしてほかの最終候補作についての選考委員のコメントを掲載している。
表紙は、草野心平「ヤマカガシの腹の中から仲間に告げるゲリゲの言葉」より。この詩に合わせて満月の日に完成させたかったところだが、数日ずれたのはちょっと惜しかった。
まだ残部ありますのでご注文下さい(500円)。
(池田康)
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2021年04月14日

泉遥歌集『風の音 私の来た道』

風の音画像3.jpg泉遥さんの第一歌集『風の音 私の来た道』(洪水企画)が出た。四六判並製320ページ。税込2000円(本体1819円+税)。
泉さんは長野県飯田市に在住で、1938年生まれの83歳。戦争をくぐり、持病の心臓病を克服し、長年保育士の仕事をつづけてきた、その生涯を彩り、つぶさに語る歌たちは、真情に貫かれている。
帯の文は、泉さんも所属するぱにあ短歌会の代表秋元千惠子さんによる:
「戦時を生き抜いた厳しくも優しい父母との確かな家族の絆が心に沁みる歌集である。伊那谷、天竜川の風土に磨かれた詩情は、二十歳で斎藤史の強靭な精神と自在な作風に出会って独自の開花を遂げている。若くして病いの死線を越え、子を成してからも、三十八年間保育士を勤め、夫君を老老介護、看取りも終えた。人生の苦を全て前向きに歌い続ける八十代の快挙。この『風の音』は、国の礎となった後期高齢者の心の力にもなる。」
帯の裏側に載せられている代表歌五首は:

 雑沓を知らぬ大きな翼なり草原わたるコンドルの唄
 仄青き山脈の裳裾霧白くたなびく辺り天龍の川
 見るほどに愛し尊し書き置きの文字ふるえたる「ありがとう」は
 ふきを煮る香りただよい涙あふる「いいにおいだ」と言いし夫はも
 色も香も姿さえなき風なれど百歌を唄う千歌を歌う

三首目、四首目は、逝去した伴侶への挽歌。
上の五首には入ってないが、戦後生まれの読者にとっては、著者の子ども時代の、戦争時の歌が印象深いので、少し紹介する。

 ゲートルと言うをはじめて巻く父の手元をかの夏見つめておりき
 ゲートルを何故に巻くのかと問うわれに母は答えき「忙しいからよ」
 ゲートルを巻き自転車を漕ぎて行く父を見送りきエプロンの母と
 桑の皮を何にするのかと母に問う 軍服にするらしいと聞きておどろく
 薩摩芋ならいいのにと思えども芋はないのだ 戦地行きか
 庭先に正座で玉音放送を待ちき八月十五日 暑かりき
 農良着の男ら寄り合う中ほどよりふわふわと聞えし玉音放送
 地に伏せる男ら声を押しころし泣くを見つめし六歳の夏
 敗戦を告げられしあの日大人らの神妙なるが訝かしかりき
 駅前の柳の元を忘れない片足で立ちつくす傷病兵と募金箱

80年を越える波乱にみちた生涯をうたった短歌作品を一冊にまとめたもので、その重量感は相当なもの。斎藤史ゆずりの破調もところどころ現われてアクセントになっている。装丁も著者の手による。
(池田康)
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2021年04月09日

『幻花』の書評、佐藤聰明新作CD

今日発売の「週刊読書人」に佐藤聰明著『幻花──音楽の生まれる場所』(洪水企画)の書評が出た。評者は志賀信夫氏。ぜひご覧下さい。
さて、最近佐藤聰明さんの新しい作品集CD『水を掬えば月は手に在り/FOUJITA』(ALM RECORDS、3080円)が出たので、これも紹介しよう。このCDには二本の映画につけられた音楽作品が収録されている。サウンドトラックといえるものなのか、若干は仕立て直されているのかは不明。藤田嗣治の生涯を描いた映画「FOUJITA」(小栗康平、2015)についてはこのブログでも以前書いた(2015年11月21日)。もう一つの作品はごく最近のもののようで、私は未見だが、CD付属のブックレットに簡単な紹介文があるので引用する。
「陳傳興監督の中国映画「掬水月在手」(2020)は、伝説的な詩人であり中国文学者の葉嘉瑩(1924〜)の生涯を追ったドキュメンタリー・フィルム。葉嘉瑩は唐の詩人杜甫の研究者としても著名であり、陳傳興は佐藤にこの映画音楽に、杜甫の詩「秋興八首」にもとづく歌曲を依頼した。そして中国では滅んだ唐代の雅楽の楽器、笙と篳篥を用いるよう求めた。この映画は、中国のアカデミー賞といわれる第33回(2020年度)中国映画金鶏賞のドキュメンタリー部門で、最優秀賞を獲得した。」
音楽は「八首」を音楽化した8曲の歌曲からなり、ソプラノとバリトンにより歌われる。このCDでの演奏は(そのまま映画に使われた演奏ということになるか)工藤あかね(ソプラノ)、松平敬(バリトン)。伴奏は、篳篥・笙のほか、二十絃箏、ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ。漢詩をこよなく愛するこの作曲家にとって、杜甫の詩を作曲する機会は天からの褒賞のような願ってもないものだったのではないか。音による杜甫の肖像が立つ思いがする。地方を流浪しているのか、詩で自らの薄幸を述べ立てている面も興味深い。「其四」は戦乱を叙していて目が留まるので和訳を引用してみよう。
「聞けば長安の戦況は囲碁の如しと。百年の世事は悲しみ絶えず。王侯の邸宅の主はみな新しく、文武の衣冠は昔時とは異なる。直北の国境は戦の鐘と太鼓が天地を震わし、西征の車馬からは急を告げる伝令が馳せ帰る。魚竜は底に潜んで秋江は冷たく流れ、故国への常なる思いが深まる。」
どの曲も悠然とした旋律の中に悲哀を染み通らせている。二人の歌い手はそれをしんみりと、あるは堂々と、迷いなく確信をもってうたう。中国語でうたわれるのだが、演奏者側の事前の準備が周到で全く問題がなかったようだ。玄宗皇帝と往時の長安をしのんだ「其六」は伴奏なしのソプラノ独唱で、ことに印象深い。工藤あかねさんはこの歌を持ち歌にしてしまってすべてのステージでアンコールでうたってほしいものだ。さらに詩の想念が広がる「其七」「其八」(ともにバリトン曲)も切迫感と重みがある。このお二人の歌手はご夫婦とのことで、どちらの方とも私はかつて言葉を交わしたことがあるのだが、あちらは覚えておられないだろう。
CDの後半に入っている「FOUJITA」の音楽だが、映画を見ながら聴いたときよりもちゃんと聴けた感じがあり、こうして聴いてみると映画音楽とは思えない独立の存在感がある(「掬水月在手」についてもそれは言える)。ゆるやかな勾配の上昇階段と下降階段が交互に不規則に続く、海山の気の動きのようなゆったりとしたリズムがあって、そこから外れる異様な和音奏やハープの細かな動きが時おりなにかの通信、碑文、魂魄の息のような衝撃を作る。我々の今日の計算ずくの日常生活にきっかり嵌るような音楽ではなく、たとえば住所表記もできないような山奥に茶室がありそこで過ごす時間があれば相応しいかもしれない響きと調べだ。演奏は、杉山洋一(指揮)、仙台フィル、篠崎史子(ハープ)。
(池田康)
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2021年04月01日

少年感覚なるもの

先日、NHKEテレで吉増剛造+佐野元春の対談の番組があり、興味深く見ていたが(佐野の詩文学に対する造詣の深さは並大抵ではない)、虚心の視覚に印象深く残ったのは佐野元春の喜びに満ちた若々しい面貌で、詩とビートを熱く語るその情熱とともに、永遠の少年性のようなものを感じさせた。
映画「アメリ」(2001年、ジャン=ピエール・ジュネ)を最近見たが、これも少年感覚にあふれるものだった。世界を大胆に横断し悪戯心をもって切り刻む歩行ぶりは、稲垣足穂の「一千一秒物語」を思わせる硬質なきらめきを発して少年感覚そのものなのだが、それなのにあえて女の子を主人公にするという捻れがこの作品の魅力の特異さを生んでいるように思われた。
春に桜をめでるのは大人の成熟した悲哀の嗜好であって、少年の琴線は、花を散らして遊ぶ気まぐれな風、床を裸足で歩くひんやりとした感覚、高い建築の屋上にのぼり空を触ろうとする透明な欲望、紙飛行機の実利ゼロのきれいな宙返り、たまさか路上に生じた水たまりの水鏡の風情、……そんなものに反応する。世間の流れ、生活の成り立ちに無頓着に発動する幼い乱暴な無垢の美意識。それはある種の詩の原基ともなりうる。
清浄な敬虔さで知られる八木重吉の詩も少年感覚を主要成分として含んでいるように思われる。

 空よ
 そこのとこへ心をあづかつてくれないか
 しばらくそのみどりのなかへやすませてくれないか

「秋の空」より。せっかくだから春の詩を引用しようと思ったのだが、秋の詩になってしまった。
(池田康)
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2021年03月30日

銀河洪水の書評

八重洋一郎詩集『銀河洪水』(洪水企画)の書評が公明新聞の3月29日の紙面に出ましたので、よろしければご覧下さい。評者は野村喜和夫さん。最後の部分を引用すると:
「要するに八重は、人ひとりの生を超えたリズムの発現として詩を捉え、宇宙それ自体が発する「変幻自在の妙なるリズム」と交響させながら、「(人類を超えた)思いがけない/くすしき未来」を垣間見ようというのである。コロナ禍で息苦しい生存を強いられている私たちに、こんな清浄な別天地への誘いを運んでくるとは、まさにマレビトにほかなるまい。」
(池田康)
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2021年03月16日

秋元貞雄作品集『落日の罪 ─青春の苦悩と叛骨─』

落日の罪003.jpg本書は昭和7年に満洲に生まれ、戦後引揚げて、一出版人として生きた秋元貞雄の遺した小説とエッセイ、そして写真による作品集であり、二十世紀という大きな時代の文学そしてドキュメントによるささやかな証言としての意義を包蔵する。発行=現代出版社、発売=洪水企画。A5判上製カバー、250ページ、定価2400円+税(税込2640円)。
著者の秋元貞雄氏は、短歌文芸誌「ぱにあ」の制作などで懇意の、歌人の秋元千惠子さんの夫君で、昨年6月に逝去された。死後、遺されたものを整理していたら、若い頃に書いた小説の原稿が出てきて、読んでみるとそれなりによく書けていて面白く、時代の証言ともなっており、秋元貞雄の最重要の形見とも言えるものなので、本にしたいというお話があり、今回の出版に結実した。
実際に作業を始めたのが11月に入ってからで、3月には完成させたいとのご希望があり、しかし原稿は雑然とした状態の手書き原稿が多く、時間的に非常な困難が予想されたので、小説原稿は数人で手分けして打ち込み作業をしてデータ化し、十日ほどでラフな第一稿を作り、何度にもわたる校正、校閲をして仕上げた。仮名遣いは歴史的仮名遣いと現代仮名遣いが混在していたが、小説作品に関しては歴史的仮名遣いに統一することとし、このための修正作業も絶望的に大変だった。小説は「運命」「落日の罪」「ある青春」「遠くの花火」「悲しき慕情」「醜女との関係」「恋情」「自惚れ成佛」の8作が収録されていて、このうち死んだお姉さんの悲運を物語る「運命」は生まれ故郷の満洲を舞台としていて注目されてよく、またタイトル作「落日の罪」も戦争を必然の背景としていて文学者秋元貞雄を証する重要作となっている。他の作品では戦後の青年の生きる姿がおもに恋愛感情を軸に描かれており、世相、風俗などの点でも興味深い。すべて高校・大学時代(1951〜55年)に書かれたもので、社会人となった時点で筆を擱いたことが惜しまれる。
第二章は同じ青年期の文芸評論と日記の抄からなっている。日記は二冊の大学ノートと断片が遺されていて、全部活字にするわけにもいかず、抄出とした。ノートに細かい文字で書かれているのを読むのは骨が折れたが、幸い読めない箇所はほとんどなく(秋元貞雄がどういう字を書いたかは、写真の章の232〜233ページに2通の手紙が収めてあるのでそちらをご覧いただきたい)、その時代の日々の生活が小説以上によくうかがい知れて、日記というもののドキュメント的位置を改めて学んだ思いだった。
第三章は晩年に書かれたエッセイが収録されている。壮年期に取り組んだ自然食の店の理念や主張を述べた文章のほか、子供時代の満洲での思い出、引揚げのときの苦難の物語を書いたものがあり、非常に貴重だ。
略年譜は8ページを占め、周到な詳細さと取りこぼしを許さない細やかな愛情で重要項目が記される。
付録の章「晩年の周辺」には、著者最晩年の闘病の日々につきそいながら書かれた妻・秋元千惠子さんの文章と短歌作品が収められている。
そして巻末のカラー写真の章「写真で辿る叛骨の生涯」(24ページ)は、誕生から死の直前までの秋元貞雄の生きた足跡を示す肖像や光景が多数掲載されていて、視覚イメージからその生涯をたどることを可能にしている。
本文の略年譜の次に、俳人・北大路翼氏の批評文「戦後の焦燥を背負って」、小生のつたない解説文「王道も楽土もない時代を生きる」が挿入されていて、秋元千惠子さんによるあとがきの文章「「秋元貞雄作品集」刊行について 「女房慕何」の記」に続くことになる。
帯文は、北大路翼氏の言葉:
「多感な青年期を敗戦の満洲で迎えた男が背負った「責任」とは。愚直なまでに国を問い、愛を問い、己を問い続ける態度が落日を赤く燃え上がらせる。己を律することから生まれる叛骨精神こそ、軟弱な時代の僕たちが触れるべき作品であろう。」
ついでに小生の解説文の最後の一節:
「戦争は人の生きる道について大いなる矛盾を形成する。昭和初期に生を享けたすべての人間の魂には戦争の悲痛な割り切れなさが必然的に刻印されていると言えるが、幸運にもなんとかそれを誤摩化してひどく苦しむことなく生きながらえることができる人もいる。しかし満洲に生まれ、終戦後に引き揚げてきて「異郷の地・日本」で暮らすことになる秋元貞雄には、その根本的矛盾を摩滅解消させることは最後まで不可能だっただろう。その精神的苦悩が彼の“歌”となってここに遺る。」
そして秋元千惠子さんのあとがきの最後の一文:
「秋元貞雄の故郷「満洲国」は終戦で滅びた。いまや満洲を語れる昭和の証言者は少ない。一庶民貞雄の無垢な心に刻まれた時代の真実だからこそ、次世代に伝え後世に遺したい。お目通し頂ければ幸いに存じます。」
幾多の難儀を経て生まれたこの本を、ぜひ手に取ってご覧いただきたい。
(池田康)
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2021年03月15日

洪水5号、6号、7号のこと

久しく品切れとなっていた「洪水」5号、6号、7号ですが、最近在庫の整理をしていたら、見つかりましたので、ご希望の方はご注文下さい。それぞれ、5号=特集「新実徳英の自然」、6号=特集「佐々木幹郎、音に遊ぶ」、7号=特集「瀧口修造の息吹」、となります。
(池田康)
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2021年03月07日

国立劇場公演「詩歌をうたい、奏でる―中世と現代―」

不可能あるいは非常に難しいだろうと思われたことが実現すると、驚きと感心とともにその成功に拍手することになる。先日の北関東の山火事も消すのは至難だろうと見ていたのだが、本格的な雨天もなかったのに消火に成功したと報道されて驚いた。一体どうやって消したのだろう!?と感嘆するばかりだった。
「みらいらん」7号で記事にした、「ベルリン連詩」(大岡信+谷川俊太郎+H・C・アルトマン+O・パスティオール)の音楽化の企画も、西洋のオーケストラと和楽器のオーケストラを一つの舞台に同居させるのは結構大変だろうと想像していたのだが、昨日その実際の公演があり(「詩歌をうたい、奏でる―中世と現代―」国立劇場小劇場)、緊急事態宣言のただ中だったが折角なので聴きに行き、思いの外、なんでもないことのように両者が溶け合って一緒に演奏していて、2グループが截然と分かれた形を思い描いていたので、こんなふうになるのかと感心した。
テキストが連詩という、どこから来てどこへ行くのか見当もつかない、本質的にとりとめのない断片のいくばくかのつらなりであることが、音楽を過激にアナーキーにする。とりとめのなさが遊びを誘発するのだろうか、作曲家(川島素晴、Marc David Ferrum、桑原ゆうの三名の共作)や音楽家たちがこんなにものびのびとおおらかに遊ぶのは、かつてないことではないか。芸術の道を究めるという厳粛さは感じられず、リズムが立つ部分があまりない雲の流れるようなゆるやかな動きの、和洋楽器の雅やかで悪戯気を含んだ遊戯の響きが展開される中で、詩句が朗誦される。日本語パートは能楽師の坂真太郎、ドイツ語パートはバリトンの松平敬がうたった。能楽師の謡の発声は独特の迫力があり、ぎらぎらしたざらつきを帯び、尖っていて、ナンセンスな断片がナンセンスなままにこちらの心に突き刺さってくる。音楽は、無邪気かつ技巧的に、遊びまくる。水の流れる音がしたので、あらかじめ録音したものを再生してスピーカーから流しているのかと思ったら、オーケストラの最後部の数人が薬缶を傾けて足元に置かれたバケツの中に水を注いでいたのだった。更にはバケツの水の中に手を入れてちゃぽちゃぽさせることまでしていた。これは笑ってしまった。
遊びに満ちているとはいえ、こんな変則的な編成で、練習にどれだけ時間をかけたのか知らないが、大変難しい演奏だっただろうと思う。指揮者を務めた川島素晴をはじめとする演奏メンバーを賞讃したい。言葉はどこからやってきてどこへと我々を導くのかという連詩の問いは、少なくとも純真な音楽へは到達したようだ。
コンサート前半の、中世の部の、乱拍子、今様、乱舞、白拍子などの復元演奏も、なるほどと興味をもって聴いた。
(池田康)
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2021年02月22日

詩素10号記念投稿詩募集について、ふたたび

詩誌「詩素」10号記念投稿詩募集の応募締切が迫っていますので、あらためて告知したいと思います。次のような形での募集となりますので、すべての意ある皆様はぜひ大胆に詩嚢の紐をほどいてご応募下さいますよう。お待ちしております。
________________________

詩素10号記念・投稿詩募集

本誌が10号に達することを記念して、若い世代の詩人を対象に、詩作品の投稿を募集します。要項は下記の通りです。清新な作品の到来を期待します。

〈応募資格〉
40歳以下(締切日を基準として)

〈応募作品規定〉
一人一作。本文40行まで(空行含めて)。一行の字数は40字まで。

〈締切〉
2021年2月28日(日)

〈応募先〉
下記のメールアドレスにメールにて応募のこと。

siso-obo■kozui.net
(■にはアトマークを入れて下さい)

作品原稿はメールに直接書き込むか、テキストファイルあるいはワードファイルを添付する(一太郎は不可)。
氏名、郵便番号、住所、年齢を明記のこと。
郵送・ファックスは不可。

〈賞〉
最優秀賞=1篇、優秀賞=2篇
選ばれた作品は、詩素10号に掲載される。粗品進呈。

〈選考委員〉
南原充士(委員長)・海埜今日子・冨上芳秀・野田新五・南川優子

〈発表〉
詩素10号誌上

★「詩素」については、
をご覧下さい。
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2021年02月17日

八重洋一郎詩集『銀河洪水』

八重洋一郎さんの新しい詩集『銀河洪水』が洪水企画から刊行された。A5判並製、96ページ。本体1800円+税。
八重氏は昨年詩集『血債の言葉は何度でも甦る』を出したばかりであり、ここにきての意力と創造力の漲りに目を見張らされる。以下、帯文。

爆発。私は核爆発のように自らの存在の『核』に触れ、自爆したかった。そして一切をわが身もろともふきとばしたかった。(「ある序文」より)
詩人のリズムが生の謎を解こうとする、その戦慄が根源的抒情の氾濫を導く。

あとがきでは次のように語られる。

コロナウイルスが跳梁し、ついにWHO(世界保健機関)がパンデミック(世界的流行)を宣言する事態となった。その不安の中で日々を過ごしていたが、ある時、ふと「メメント・モリ(死を銘記せよ)」という言葉が頭に浮かび、日が経つにつれて、それが重く伸しかかってきた。
私はこれまで歴史や思想や文学などについて非力ながらも自分の考えを詩の形で発表してきたが、「メメント・モリ」というこの言葉はこれまでの一切を総点検せよと迫ってきたのである。

「総点検」という言葉の通り、氏の社会思想と地誌と人生論と宇宙論と詩論とが渾然一体となった集大成的な詩集となっている。過去の詩業から余韻をとりこんでいる点もその印象を強くする。「豊饒」「まゆんがなす」などのその土地独特の生活の色彩が神々しい詩篇はことに重みがある。「浄夜」の最後の部分を引用紹介したい。

 漆黒深い闇の
 森
 うすよごれ ギリギリにやつれはてた骨と皮
 風は破られ
 すべてを棄ててこもり身の祈る人の魂は
 蝶となって森の上を
 ただよい浮かび その
 羽根は
 天降りくる「言葉」によって光の星座がやきつけられる
 いのりとは?
 ことばとは?
 ひかりとは?
 「わからない」
 もぬけのからとなった人はたおれ
 蝶は森じゅうひらひらとんで
 (すべての星はすべての星と七宝飾りにつながって)
 闇をぬい ひらひらひらひら とぶ
 たびに
 蝶の羽根から ひとすじ ふたすじすじをひき
 星々が 分厚い
 りんぷんとなって
 こぼれふる
 しげりあう枝々ひかり したくさひかり 土さえひかり

 やがて
 森は
 銀河洪水

(池田康)
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2021年02月14日

『八重洋一郎を辿る』読売新聞の書評欄に

本日の読売新聞の書評欄で鹿野政直著『八重洋一郎を辿る』(洪水企画)が紹介されたので、ぜひご覧いただきたい。評者は、大原哲夫氏。シーサーにはさまれた本の写真の下に「歴史の重圧に踏みにじられ、さいなまれ続けた者にとって「生」とはなんであったか。石垣島に生まれた詩人の魂に触れる。地球より重い一冊。」との言葉がある。
鹿野氏の専門は日本近現代思想史。歴史研究ではあるが、特段の意図をもって思想を研究するという点で通常の歴史学とは違っているようで、いかなる考えと価値意識と戦略がそこに動いているかを調べながら歴史の推移を分析するところに氏の特異性が出てくる。思想とは、ある正義(価値観)を組み上げる建築術であり、けっして絵に描いた餅ではなく、思想が最大限に発動するとき社会全体の人間の生活が根底から左右される。従って思想史研究は常に危険区域に足を踏み入れ、ときには大変な修羅場に身を置くことにもなる営為なのだ。強者の思想は弱者をものの数ではない存在として虐げる。いい加減な国策思想は国をあらぬ方向へ導き座礁破綻させる。イデオロギーが無辜の脳を焼く。マジョリティの無自覚な〈普通〉なる思想は少数者を圧迫する。支配者の強引な思想には、民衆は奇想天外のゲリラ的思想をもって搦め手から立ち向わねばならないときもある。正義の建築術としての思想のさまざまな諸相、法的正しさの名の下に生起する有象無象の理不尽が、たとえば氏の『沖縄の戦後思想を考える』(岩波現代文庫)などを読んでいると判然と見えてきて、戦慄しため息をつく仕儀となる。
そして鹿野氏は思想の生々しい発露を文学作品に認めることが多く、この『八重洋一郎を辿る』はその追跡が思いの外の遠路となり一冊の本に実ったものだ。
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2021年01月20日

遺作集ふたつ

フランス文学研究家(フィリップ・ジャコテ研究など)の後藤信幸氏は、有働薫さんに紹介していただいたのだが、「洪水」にも「みらいらん」にもご協力いただく機会のないまま、2017年の夏に逝去された。その後藤氏の全句集『葛の空』(邑書林)がこのほど刊行された。生前に全句集は作りたいと語っておられた由だから、趣味道楽というレベルを超えて、文学者としての真剣な創作だったのだろう。すべて一定の水準の句にも見えるのでどれを選んでも可のような感じだが、印象深く読んだ数句を挙げる。

 枯野来るひと消炭のごとくなり
 あの世にもこの世の蝉の聲しかと
 走馬燈美しき闇置きにけり
 春の野をどこまでも子ら誘ひぬ
 丹澤の背に奇怪の冬の富士
 秋風や一穂の家藪の中(一穂は詩人吉田一穂)
 無縁墓地わが屍を埋めるところ
 七夕に捨て猫のゐて眠られず
 朝顔を遠くより見る妻を見る
 天の川堤長うして佇めり
 する墨のかげ圓かなる十三夜

詩人の(同じく仏文研究者でもある)清水茂氏は昨年の一月に逝去された。晩年の詩作の豊穣さには目を見張ったものだが、このほど更に遺作詩集『両つの掌に』(土曜美術社出版販売)が刊行された。その中から「籠いっぱいに 星を」という短い詩を紹介する。

 疲れ果てて 夏が凋むと
 夜が素早くやって来る。仮にそれが
 私にとっての最後の夜だとすれば
 もう秋は私に挨拶をしには来ないだろう。

 向こうで誰かがその秋を収穫する姿が
 幻に見える。私のいなくなった静かな夜、
 その人が手に提げた籠いっぱいに
 星を摘み集めている様子が見える、
 ひとつずつの星を丹念に吟味しながら。

巻末には詩的世界観を語った講演録(2012年)が収められている。
(池田康)
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2021年01月15日

冬のウタビト

ヘビーローテーションを訳すとしたら、どうなるか。蛇円環、じゃなくて、延々反復、諄々循環、徒然なる繰返し、堂々巡りのどつぼ……そんなようなかんじで、近頃、中島みゆきが昨年師走に出した二枚組選集アルバム『ここにいるよ』を聴いている。真冬の底でこの歌手を聴くのは、水を得た魚かどうかわからないがよく合う気もする。知らない曲も何曲か入っているのは新鮮。落涙級に聴き入ったのは「アザミ嬢のララバイ」だった。この最初期の曲について今更書くのは気がひけるが、「時代」といい、このウタビトは二十歳になるやならずの頃に旋律からしてすでに悟り切っている雰囲気がある。「春は菜の花、秋には桔梗」とあって、「夜咲くアザミ」とうたわれるのだが、今の季節に聴いていると、春、秋と来たのだから「冬咲くアザミ」なのだと勘違いしてしまう(実際の花の季とは違うのだが)。私の歌は、いい季節にうかれさわぐ遊興の歌ではないと言われているようなかんじがする。そしてそれは外れてはいないと、このCD全体を聴いて思う。厳しい歌をうたってきた人だ。
(池田康)
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2021年01月05日

みらいらん7号

milyren7.jpg「みらいらん」7号が完成した。この号から表紙を詩人の國峰照子さんの木彫オブジェ作品が飾ることになる。この7号は「交響」という作品。目次頁に載せた國峰さんのコメントをお読みいただきたい。撮影のために昨年10月に御宅にうかがったとき、相当に苦心をしての作品撮影を終えて、LUCKY STRIKEの極細タイプの煙草をいただいて一緒にふかしたことをありありと覚えている。
今号の一番大きな特別企画「いま、なぜビート詩か?」は、中上哲夫さんからビート詩研究会というのをやっているからその座談会をとご提案いただいたのだが、昨今の社会情勢では座談会は無理だろうということで、回覧書簡という形になった。五人の研究会メンバー、中上哲夫・油本達夫・飛松裕太・長田典子・野木京子の各氏がこの順番で手紙をつづる。前編と後編にわかれていて、今号は前編で、それぞれがどのようにしてビート詩に近づいてこの研究会に参加するに至ったかが語られている。後編は次号掲載予定。
そして連詩についての記事を二つ並べて掲載した。一つは、野村喜和夫さんによる「「しずおか連詩」の過去・現在・未来」で、故・大岡信を引き継いでこの連詩の会の捌き手(世話人?)をしているご本人による紹介は核心を捉えていて重みがある。大岡信が現在の連詩の形をどういう論理で構築したかもわかり理解がぐっと深くなる。もう一つは、その大岡信が谷川俊太郎、H・C・アルトマン(オーストリア)、O・パスティオール(ルーマニア)といった詩人たちとともに1987年に試みた「ファザーネン通りの縄ばしご ベルリン連詩」(岩波書店から本になっている)を三人の作曲家が共同作曲で音楽化しようとする国立劇場のプロジェクト(3月5日/6日の公演「詩歌をうたい、奏でる ─中世と現代─」で発表される予定)について、制作者の石橋幹己氏(国立劇場)と作曲家の桑原ゆう・Marc David Ferrum・川島素晴の三氏のお話・文章で制作の内側を語っていただいた。非常に興味深く読んでいただけるものと思う。
それから昨年末に弊社が刊行した『幻花 ─音楽の生まれる場所』(燈台ライブラリ4)の著者の、作曲家・佐藤聰明さんのインタビューを載せる。これも回答をご執筆いただいた。単行本と併せてご味読いただきたい。アメリカの音楽財団から作曲を依頼されたバイオリン協奏曲のエピソードは昨年の世界および佐藤氏ご本人の状況をよく物語るものだ。
巻頭詩は、川口晴美、新倉俊一、大木潤子、大橋英人、永方佑樹の5名の方々(とりわけ川口作品は昨年来の感染症災禍を反映して鋭く、お見逃しなく)。巻頭連載詩はこの号から和合亮一さんが担当(3回の予定)、この長篇詩は我々をどこに導くのだろうという不思議の念とともに辿っていただきたい。俳句は柴田千晶、短歌は野樹かずみの両氏の作品。
その他の内容については、下記リンクから目次紹介をご覧下さい:
(池田康)
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2021年01月02日

新春酔眼放吟


世界はリズムから成る

塔を建てる槌の音ファッションモデルの鋼のハイヒール詐欺師の立て板に水の駄法螺トウモロコシの黄の紡錘整列ジャブとストレートの高等漫才星辰の一億年に一の鼓動セコイアの年輪の時間旅行国語大辞典の蚤のノンブル赤んぼのあきらけき呵々山川草木の種の目覚め心道(ウラミチ)を走る霊気のパルス遮二無二止まらないしゃっくり野良猫の神のパトロール鉄路の正しい読点廃校は虫すだくオーシャン煮られる小豆のキンダータンツタイプライターの騒然たる無学文盲蜘蛛の巣のくすしき設計九十九番まである盆唄甲子園にとどろくへぼペットどぶ川沿いの桜の合唱禰宜のねごとを刻む包丁六日おきにめぐってくる日曜日五時間おきに飲むコーヒーライオンの牙と爪の古代家系図自転車のペダルたんぽぽのペタル夢のあかつきに立つ時計塔の点鍾

世界はリズムから生る


(池田康)
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2020年12月28日

レコードで聴く佐藤聰明初期作品

satosomeirecords.jpg作曲家・佐藤聰明さんの初期作品を収めたLPレコードがこのたびスイスのWRWTFWW Recordsから二点発売された。
一つは、マンダラ三部作と呼ばれる「マンダラ」(1982)、「マントラ」(1986)、「タントラ」(1990)という三曲の電子音楽作品、そして「舞」(2004、ハープとオーケストラの作品)を収録した二枚組の「MANDALA TRILOGY+1」(写真下)、そしてやはり電子音楽「エメラルド・タブレット」(1978)と「エコーズ」(1981)を収録した「EMERALD TABLET/ECHOES」(写真上)。写真の一番下には、大きさの比較のため、マンダラ三部作収録のCDを置いてみた。ジャケットデザインは杉浦康平氏とのこと。
マンダラ三部作は、音楽と音楽以前の中間領域で音が立ち上がっているようで、キャンバスを塗り込めた抽象絵画を思わせ、言葉が生まれる以前百万年の仄暗い精神史が音で描かれているかのように、霊気を帯びて聞える。三作目の「タントラ」になると、人声のような響きも感じられ、大分人間に近づいている気配もある。2004年の「舞」はすでに古代に踏み込んで、音楽らしい音楽になっている。
CDと聴き比べると、レコードはより柔らかく空気感のある音がするように思われた。佐藤聰明音楽の原点がここにあると言えそうだ。
(池田康)
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