2019年12月14日

〈しなやかな戯れ〉を聴く

昨夜、東京文化会館小ホールで「四人組とその仲間たち 室内楽コンサート〈しなやかな戯れ〉」を聴いた。勝手な覚え書きは次の通り。
1曲目は、薮田翔一「祈りの華」、ピアノそしてソプラノのヴォカリーズによる構成。ソプラノが驚異的な高い音を出していた。4曲目で〈夢〉というキーワードが出てくるが、この曲も歌なるものの母型を夢の空間の中に浮かべてみたといった感じがした。ソプラノ=小川栞奈、ピアノ=黒岩航紀。
2曲目は、金子仁美「ビタミンC─3Dモデルによる音楽V─」、サクソフォン2台で演奏。リズムや音程のちょっとした差異やずれを梃子に音の道程を活気づけていく。この作曲家はストイックに求心的に厳しい音楽を作る印象があったが、この曲はバイタリティと猥雑さも具えていて雰囲気が開放的で愉快。腐れ縁の二人組がとくに何をするという目的もなくじゃれ合いながらとぼとぼと歩いていく風で、ありふれた偶然の景の面白さが味となっており、この調子で最後までとぼとぼと進行するのかと思ったら、最後のところで意想外に華麗なクライマックスが構築されていてアッと言わされた。現代音楽としての独創性という点では(そういう視点が重要かどうかはまた別の問題だが)この曲が突出していそうだ。サクソフォン=須川展也、大石将紀。
3曲目は、西村朗「氷蜜(ひみつ)」、独奏フルートの曲。しわがれた低音からよく通る高音まで、光の囀から地を薙ぐ突風まで、さまざまな様相の音を奏者に要求する難曲で、尺八の領土を簒奪しようとするかのような瞬間もあった。細い芯の貫きが幻視される。タイトル「氷蜜」とは、蜜が氷ったのがフルートという楽器だという意味もあるのだろうか。蜜というより、プリズムを舞台にしたアクロバティックな舞という印象もあった。フルート=若林かをり。
4曲目は、新実徳英「ソニトゥス・ヴィターリスVI─Somnium─」、独奏ヴァイオリンの曲。「今回の無伴奏曲は、夢にも似た、摩訶不思議と言っても良いようなイメージの連続体となった」と作曲者はプログラムに書いている。強く印象されるのが中低音域での重音(複数の弦を同時に弓で鳴らす)で、自らヴァイオリンを弾く新実さんはどういう重音がどう鳴るかよく知っているのだろう、私もこの楽器の音の重ね合わせの繊細な豊饒に魅了される方なので、その動きを見つめた。ヴァイオリンはミステリーの城であり、それは夜と夢に親近しており、悦楽もありうるが罪悪もありうる。夢とは必ずしもきれいで美しいものばかりではなく、重く苦しい場合もある。夢は「眠れない眠り」であり、肯定と否定が相克する不条理さを抱えている。力強いヴァイオリンから出てくる重音の断想は、ワイン樽の囈言、冬眠獣の腸(はらわた)の音楽のような、重さのほうに傾いた夢を思わせた。我家のガジュマル(背丈一尺ほど)は枝からさかんに細い根を出して地に向かってつっこんでいて、実に奇妙な生態なのだが、昼の世界からダイレクトに夜に還ってゆこうとする倒錯の夢路の形もある、そんな連想もちらりと浮かぶ。今回の曲目のうち、もっとも「飛び道具」を使わない、質実にして謎めいた暗さを包含した曲。ヴァイオリン=渡辺玲子。
5曲目は、池辺晋一郎「ハーモニカは笑い、そして沸騰する」、独奏ハーモニカのための曲。なかなかなさそうな楽器選択で、近くで聴いていた伊藤弘之氏も、これは珍しい!と感じ入っておられた。こういう場では滅多に出てこない楽器を登場させるからには、その楽器の特長がもっともよく発揮され呈示されるように曲を作るのが上策となる。激しい跳躍やダイナミズムもありつつ、ハイドン・モーツァルト的明朗さも具えた音楽で、ボブ・ディランのようなフォーク歌手が吹くハーモニカは荒々しくデモーニッシュだが、この曲では正調にして典雅なハーモニカを聴くことができた。なにより東京文化会館小ホールのステージに独奏ハーモニカが立ったというそのことが画期的と思われた。ハーモニカ=和谷泰扶。
(池田康)
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2019年12月06日

吉村七重 二十絃箏で紡ぐ「音の詩・ことばの詩」

昨夜、霞が関ナレッジスクエアにて、箏の吉村七重さんの上記タイトルのリサイタルがあり、聴きに行った(MuCuL主催)。曲目は、佐藤聰明「神招琴」、八橋検校「乱」、三木稔「お種の箏歌」(オペラJORURIより)、久田典子「森の声」、木下正道「石をつむT」、佐藤聰明「櫻」。「お種の箏歌」「石をつむT」の二曲はソプラノの工藤あかねさんとの共演。小さめのスペースで音がくっきりと響いた。客数は百+αほど。
佐藤聰明さんの二曲について言うと、「神招琴」が1989年、「櫻」が2017年の作曲で、30年近い時間的隔たりがあるのだが、そうは感じさせず、ごく近いところに位置しているように思われるのは、1989年の時点ですでに作曲家・佐藤聰明の方法が確立していたということになるのだろう。世の中の大抵の曲では音は滑らかにあるいは多少不器用に〈流れ〉を作り、勢いを生み出して形を成すのであり、音楽とは基本的にそういうものだが、佐藤聰明作品では音は容易に〈流れ〉をつくらない。ぽつんと呟いて、石庭の中の石のように孤立した存在を示しつつ、間をはかって他と牽制し合い、そのことによって緊張した静寂の広がりを生み出す。その静寂の気配にじっと聴き入るというのが聴く側の接近の作法になるようで、この夜も張りつめた空気の中に箏の澄んだ音が見えるか見えないかの舞の線を刻みつけていた。佐藤さんによれば「琴は古来より神を招く神聖な楽器といわれ、霊媒や巫女は琴を弾いて神憑りしました」ということで、「神招琴」はそんな特別な眼差しを含んだ曲のようだ。「櫻」については、バスクラリネット協奏曲を書いたあと、「急に邦楽器の曲が書きたくなり」作曲したという、優れて自発的な作品と言える。
実は夏頃、体調を崩したという便りをいただいていたので、どうしたのかと心配して今回足を運んだのだが、普段と変わらぬ元気さでとうとうと語る佐藤さんがいて、少し安心したという次第。
(池田康)
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2019年12月03日

塚田恵美子著『風を起こす』

風を起こす画像blog.jpg塚田恵美子さんのエッセイ集『風を起こす』が洪水企画から刊行された。四六判194ページ、並製カバー、1800円+税。
先に刊行された歌集『ガーコママの歌』の姉妹作で、短歌文芸誌「ぱにあ」に2015年から今年まで連載された文章をまとめたもの。写真をふんだんに入れ、自作の短歌作品もところどころに引用し、また各章の扉には著者が撮影したカラー写真を載せ、にぎやかな構成になっている。長野県大町市での合鴨農法による米作りの実際がこまかく紹介され、合鴨との悲喜交々のつき合いが詳述されるのだが、その語り口の軽やかさが爽やかで楽しく、なんの苦労もなく読み進むうちに、農家でない人間には未知の米作りの季節ごとの諸々の仕事にいつの間にか親しくなっている。
地元の小学校で生徒たちに合鴨農法や短歌を教える機会があったときの子供たちとの交流もみずみずしく感慨深く回想される。かと思うと、血縁の人たちが先の戦争をどうくぐり抜けたか、いかに傷ついたり命を落としたかも大切なこととして語られ、エッセイ集としての奥行きを広げている。塚田さんは言う「私の右手は、飢えや戦火、殺し合いという苦しみ・悲しみを背負ってきた人たちと手を繋いできました。左手は、私の次の世代の子供と手を繋いでおります」。さらには、猿、鷹、鹿、熊など獣との戦い(苦戦続き)も息詰まる思いで読むことになり、この世界はからなずしも人間の専有物ではないことがしかと思い知らされる。
夫の塚本伸一さんによる、戦後いかにこの地で田畑を開拓してきたかを語る文章も跋文のかわりとして収録され、ささやかな家族史が完成した観がある。信州の自然に包まれた農の生活が、かけがえのない魅力とともに立ち現われてくる、貴重なエッセイ集だ。
(池田康)
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2019年11月27日

「二十四の瞳」のことなど

「みらいらん」次号で小特集「童心の王国」を組むことになっているその連想で、そういえばまだ見てなかったなと思い、DVDで映画「二十四の瞳」(木下恵介監督、1954)を見た。昭和3年から始まる、小豆島が舞台の物語。中心となる大石先生(子供たちからは小石先生と呼ばれる)を高峰秀子が演じるのだが、キャストの名前が並ぶ順から言うと子供たちが主人公のようだ。今から百年近く前の、都会から遠く離れた地方の生活が映し出されるわけで、眼福ともいえるシーンがたくさん出てくる。とりわけ和式の着物に身を包んで走り回る子供たちがまぶしく、なにか羨望のような気持ちを抱いた……自分もあんなふうに着物を着て田園風景の中で遊ぶ子供時代を送りたかったなと……なにとぼけたこと言ってるかと怒られることはわかっているが。戦中の暮らしづらい様子も描かれ、終戦まで話は進むのだが、十二人の子供たちのうち男の子の何人かは出征して戦死し、墓がずらりと並ぶという、学校ドラマとしては破格の大きな悲劇で幕となる。大石先生は、いい先生なのだが、テレビドラマの学園ものでよくあるようなスーパーヒーロー教師ではなく、それぞれの子供の苦境に際してもとくに卓抜な解決策を出して助けるわけでもなく悲しげに見守るだけの、どこにでもいそうな普通の人間として描かれていて、そのさりげなさが物語を堅牢にしていると思われた。
話が飛ぶようだが、「みらいらん」次号の〈対話の宴・野村喜和夫の詩歌道行〉でゲストとして登場して下さった阿部日奈子さんの新詩集『素晴らしい低空飛行』(書肆山田)の前半で描かれるのも、どこにでもいそうな(自分と同じだと共感できる)はぐれ者の処世の四苦八苦であり、小説でも描きにくいだろう生活のありふれた底部を露出させたところが特色となっている。この本については今回の対談で詳しく語られるので、ご期待いただきたい。
(池田康)
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2019年11月16日

Echo after Echo

東京都現代美術館(江東区三好)でひらかれる展覧会「Echo after Echo 仮の声、新しい影」(11.16〜2020.2.16)の内覧会があったので拝見しに行ってきた。吉増剛造さんの展示があったため。詩人・吉増剛造はここでは映像作家の鈴木余位、音響チームのKOMAKUSと組んで「表現活動を記録・共有する」ことの作品化を試みている。この夏から秋にかけての宮城県石巻市でのReborn Art Festivalの、牡鹿半島・鮎川で制作した詩も出てきて(マドモアゼル・キンカ……)、そこを訪れた日をありありと思い出した。ここ数年頻繁に美術館に登場する吉増氏の仕事、いまや詩の世界の人たちよりもむしろ美術の世界の人たちの方がよく見えているのかもしれない。
この展覧会ではほかに、THE COPY TRAVELERS(複製、コラージュを用いたにぎやかなタッチの作品)、PUGMENT(ファッションを題材にしたインスタレーション)、三宅砂織(カメラを使わない印画紙撮影)、鈴木ヒラク(洞窟壁画のようなドローイング)の作品が見られる。一見へんちくりんな姿形でも、作品として重みを感じさせるものがあるのは、並ならぬ本気度が大事なのだと気づかされる。
同時期にあと二つ、展覧会があり、一つは「DUMB TYPE ACTIONS+REFLECTIONS」これはメディアアートの制作集団ダムタイプの35周年の回顧展的な展示。現代を領する冷気が伝わる。もう一つは美術館の新しい収蔵作品を紹介する「いま─かつて 複数のパースペクティブ」で、草間彌生の(強い美術作家になる前の)初期の素朴さが残る作品、岡本信治郎の「ころがるさくら 東京大空襲」、秀島由己男のメゾチント作品など、よかった。
この美術館は広くて立派だが、地下鉄の駅から遠いのが弱点だ。迷子になりそうで心細い。舗道に特別のタイルを埋め込むとか道しるべとなる彫刻を並べるとか美術的に工夫された道標があるとよいのにと思う。
(池田康)
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2019年11月13日

詩素7号

siso07.jpgすっかり秋になり、過ごしやすく、昨日の満月はみごとだったが、これから冬に向かうと思うと、一難さってまた一難かとため息が喉もとまで出かかる。
さて「詩素」7号が完成した。今回の参加者は、海埜今日子、大仗真昼、北爪満喜、小島きみ子、坂多瑩子、酒見直子、沢聖子、菅井敏文、大家正志、たなかあきみつ、南原充士、二条千河、野田新五、八覚正大、平井達也、平野晴子、南川優子、八重洋一郎、山中真知子、山本萠、吉田義昭のみなさんと小生。特別寄稿「まれびと」コーナー登場は吉田博哉さん。巻頭トップは平野晴子さんの「秋の柩」。定価500円。しかし洪水企画ではすでに品切れなので、入手ご希望の方はメンバーにあたっていただくか、七月堂にもしかしたら残部があるかもしれない。(池田康)
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2019年11月05日

野村喜和夫+阿部日奈子 トークイベント

IMG_7366.JPG2日(土)午後に、〈対話の宴/野村喜和夫の詩歌道行3〉が「未知への痕跡〜読む行為が書く行為に変わる瞬間」というタイトルで阿部日奈子さんを招いて、詩とダンスのミュージアム内ブックカフェ「エル・スール」で開催された。
前半は野村さんの手によって刊行された『ルネ・シャール詩集 評伝を添えて』をもとにルネ・シャールについて率直に議論され、後半は阿部さんの第一詩集『典雅ないきどおり』からこの秋刊行された新詩集『素晴らしい低空飛行』に至る道のりを辿る形で対話が交わされた。詩人・阿部日奈子という眩い稲妻が天から飛来し周囲をしたたか焼いて駆け抜けていったという感じの二時間だった。この対談は「みらいらん」次号に掲載の予定。ご期待下さい。(池田康)
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2019年10月28日

スタシス・エイドリゲヴィチウス展ほか

昨日は、野田新五さんのご教示に従い小平市小川町の武蔵野美術大学にスタシス・エイドリゲヴィチウス展を見に行き(芸術祭開催中で美術家の卵とその友だちでキャンパスはとても混雑していた)、その近くの小川西町のNMCギャラリーでの山本萠さんの個展に寄り(今回は書の作品中心。八木重吉の詩が多く取り上げられていて、先日の江田さんの歌集が思い出され、符合を感じた)、ついでに初訪問、府中の東京競馬場に足を運んでアーモンドアイの無敵の韋駄天ぶりを目撃した。
ポーランドの画家スタシス・エイドリゲヴィチウス、絵が上手すぎるくらい上手い。それぞれの絵に働いている奇想がどれも面白く、それを易々と実に巧みに構図にしてしまうところ、憎いくらいの自在さだ。そして、まん丸のつぶらな「目」が印象的。蔵書票などごく小さい絵もいいものがたくさんあった。図録が完売になっていて、残念。展覧会は11月9日まで。この画家について、野田さんがとても興味深いエッセイを「詩素」次号に書いている(近日中に完成の予定)。ぜひご覧いただきたい。
(池田康)
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2019年10月25日

高橋アキ/ピアノリサイタル2019

昨日は豊洲シビックセンターホールでの高橋アキさんのピアノリサイタルを聴きに出かけた。曲目は、シューベルト「ヒュッテンブレンナーの主題による13の変奏曲」「4つの即興曲」、一柳慧「ピアノ・メディア」、間宮芳生「家が生きていたころ」、鈴木治行「句読点VIII」、クセナキス「ヘルマ」。
シューベルトは、なぜこんなに傾倒して集中的に取り組むのだろうと不思議に思わないでもなかったが、ショパンに代表されるピアニズムの精緻とはちがった、ある音型やフレーズの素朴な繰り返しを多用して曲を築いていくところが、高橋アキさんが専門にしている現代音楽曲に通じるところがあるのかもしれない。「4つの即興曲」にこもる内向的な熱には圧倒された。一柳慧「ピアノ・メディア」は有名な曲だが、今回、前から2列目の席という間近で、至妙の手の動きを見ながら聴くことができ、特別の興奮があり、大幸運だった。間宮作品は朗読付き(イヌイットのファンタジックな物語)、ピアノの響きのユニークに美しい瞬間が不意を打つようにちりばめられる。鈴木作品はタイマーを使った、主知的な曲と聴いた。「コンセプトは、音楽の自然な流れの切断、脱臼」と作曲者は解説する。クセナキス「ヘルマ」はとんでもない音の爆発で、ピアノ演奏の一つの極限に挑むものか、指が飛んでいた。アンコールでは湯浅譲二作品(小品二つ)とともに、武満徹編曲の「ゴールデンスランバー」が、最近亡くなられた武満夫人を悼んで演奏された。
(池田康)
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2019年10月22日

歌集『重吉』書評会

先週末の土曜日、江田浩司さんの歌集『重吉』の書評の会があり、参加した。文芸評論家の神山睦美氏が主宰する勉強会で、十余人が集まる。私のような新参の飛び込み参加も意に介さない開放的な空気は心地よくありがたい。歌人と詩人が半々くらいで来ていたか。神山氏の話は構えの大きな序の論の運びも参加者の発言の受け取りもとても丁寧で慮りが深く、感服した。『重吉』は、前にも少し紹介したが、詩人の八木重吉を思慕し讃仰する、歌集としてはきわめて特異な作品集であり、激賞から当惑まで多様な反応をもらっていると江田さんは語っていたが、この日は八木重吉の抱く本質的な悲しみ、キリスト教的要素のこと、重吉の詩とこの歌集の短歌の世界の違い、弱さのしなやかさの精霊的なもの、宗教文学の季節外れの霹靂、等々のテーマが出て各々さまざまに違う意見やら感想やらを開陳し、おおいに勉強と刺激になった。こういう気持ちの良い、質の高い充実をおのずと達成する研究会はなかなかないように思った。
この日はまた京橋のギャルリー東京ユマニテに立ち寄り、加納光於さんの個展を拝見した。1994年作の《巡りあう種子のように》連作とともに、最新作であろう、2019年作の《夜狐―六庭譜》連作が展示されていた。A4の大きさ程度の絵が6枚一組でまとめられている。三幅対の倍の構成だ。どういう考えからこのような構成に至ったのか、ゆかしい。加納さんは来月より富山県美術館で大きな展覧会も控えていて、にぎやかに多忙を極める秋のようで、喜ばしいことだ。
(池田康)
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2019年10月10日

トークイベント 野村喜和夫×阿部日奈子「未知への痕跡〜読む行為が書く行為に変わる瞬間〜」のお知らせ

洪水企画&エルスール財団共同企画トークイベント
野村喜和夫の詩歌道行B
野村喜和夫×阿部日奈子
未知への痕跡〜読む行為が書く行為に変わる瞬間〜

阿部さんは主知的にして想像力あふれる詩人ですが、この秋、詩集『素晴らしい低空飛行』を上梓されました。一方私も、訳著『ルネ・シャール詩集 評伝を添えて』を刊行しました。この二冊を起点に、読む行為と書く行為のダイナミズムが浮かび上がればと思います。(野村)

日時:2019年11月2日(土曜日)15:00〜17:00 (14:30開場)
場所:ブックカフェ「エル・スール」(詩とダンスのミュージアム内)
(世田谷区羽根木1−5−10)
入場料:2500円(+1drink order)
申し込み方法:メールで。エルスール財団info@elsurfoundation.com

※ 会場への地図はこちらをご覧ください。

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2019年10月06日

カワセミ

今月から消費税が上がった。気が滅入るが、先ごろ石巻へ行って心の体重が10%ほど軽くなったような気がしていて、その「石巻効果」で相殺され今のところイーブンを保っているようにも思う。このありがたい効果がどれだけ続くかわからないが。
遠くへ赴くことはそれだけで生活意識の刷新のきっかけになるのかもしれず、最近出た、そんな気分にどこか通じていそうなCD、Ayuo「Outside Society」と、Marewrew「mikemike nociw」(アイヌの合唱アンサンブル)を入手して聴いたりもしていた。
そして今日、昼食のために散歩に出たら、近所の小川でとても珍しいもの、艶やかな青と緑のカワセミを見つけた。この鳥に出会ったのは初めて。こんな美しい生物がこの世に存在するのかと驚く。造物主か、進化論か、なにか知らないが、不公平じゃないか……と言いながらも、みごとに美しい鳥を見れば心も鳥の体重分くらいは軽くなる。
今日はまた遊ぶ少年をたくさん見た。グラウンドで野球やサッカーをする少年達、自転車をりんりんと乗り回す少年達、川遊びする少年達。躍動する彼らの姿のかがやかしさ。(池田)
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2019年09月27日

「詩人の家」のこと

24日から25日にかけて、石巻で開催されているReborn Art Festivalの一環である、吉増剛造さん主催の「詩人の家」(牡鹿半島の鮎川というところにある)に生野毅さんと宿泊の形で参加してきた。この旅の詳細については生野さんが「みらいらん」次号に書くと思うので、差し控えるが、少しだけ。
吉増さんが作品制作を進めているホテルニューさか井の一室を訪ねたのだが、机には詩稿の下書きと浄書の紙の束があり、海に面した窓のガラスには「鯨(いさな)」を中心とした詩のフレーズや黄色・黄緑色(ブラジルの色)の線が描きこまれてガラス絵のようになっていて、生々しい詩の生成の現場を呈していた。部屋にはヴァレリー・アファナシエフの弾くベートーヴェンのピアノ曲が流れ、壁の片隅にはゴッホの「カラスのいる麦畑」の写真版が飾られていた。ベートーヴェンは「むきだしの本気」の人であり、ゴッホもそう。吉増さんもここで「むきだしの本気」のモードに入っているのだろうか。
桃浦の小学校の展示や島袋道浩作品「白い道」など印象的な経験をへて、この「詩の部屋」は強烈なクライマックスであった。そして旅を通して石巻が幻めいて優艶に発光しているかのような感覚があった。
(池田康)
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2019年09月21日

背筋が伸びる

先日、仕事で信州に足を運んだ。空気がいいとか食べ物がうまいとか風景の(物語がまどろんでいるような)濃厚なのどかさとか魅力はたくさんありそうだが、なによりも北アルプスの堂々たる山容が素晴らしかった。ただただ高い。眺めているだけで、背筋が伸びる気がする。
育てている朝顔に白い花が咲いた。その株は遅れて芽を出したもので、他の先に大きくなった株に栄養を奪われるためかいつまでもひょろっとして貧弱で蔓もさほど伸びず蕾を用意する気配もなくこれはだめだと諦めていたのだが、9月も中旬になってやっと花をつけた。それが雪のように真白の花で、いきなりの出現に息をのんだ。もともと白い花の血筋なのか、それとも栄養不足で色素を作る力がないのか、それはわからないが、真白の朝顔はなんとも清らかだ。
ラグビーのW杯が始まった。ラグビーの魅力をわかりやすく紹介してくれるのでドラマ「ノーサイド・ゲーム」は途中から見ていたが、最終回、親会社の社長がどこかの外国のチームの試合前の儀式を解説するなかで詩(?)の朗読をして、ラグビーという競技の単なるスポーツを超えた、相撲に似た神聖な祝祭の性格を明らかにする一幕があり、これも心身に厳粛な感覚が流れた。
以上、背筋が伸びる話いくつか。
(池田康)
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2019年09月11日

修行僧よりも強い草木や虫

台風15号は一晩中吹き荒れていて、やたらと建具がきしみ、本当に恐かった。気象記録的にも強大な台風だったそうな。外に出していた朝顔がなんとか形と命を保っていたのは不思議なほどだ。翌日は台風一過の晴れで気温も上がり、世の中はもう正常に戻っているだろうと過信したのが間違いで、鉄道で近隣の街へ行ったら下りの電車はまともに動いておらず、満員のバスで長時間かけ苦労して帰ってくるはめになった。その疲れで頭痛を発症し、まだ余韻が続いている。停電などで困っているエリアもまだあると聞く。襲来の最中も恐怖の野分だったが、去った後に思いがけない諸々の困難が待ち伏せていたという次第。近所の木々は、たくさん枝葉をもぎ取られたものの、倒れた木はなさそうだ。夜になるとすだいていた虫のことも気になり、五分の魂の輩は軽く一掃されてしまったのではないかと心配したが、昨日の晩は何事もなかったかのように鳴いていた。生き延びたらしい。彼らはそれなりに強い。あの風雨に打たれて一晩立っているのは中世の不撓不屈の修行僧でも困難だろう。
(池田康)
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2019年09月04日

兄弟、姉妹、双子と父母

先月の九州旅行で伊万里〜柳川あたりを車で走っていたときに、そういえば九州を舞台にした「奇跡」(是枝裕和監督、2011)という映画があったねという話になった。主人公の兄弟(前田航基・前田旺志郎演じる)は、離婚した両親に一人ずつつきそい、兄は母と鹿児島に、弟は父と福岡に住んでいる。九州新幹線開通の日、上り下りの一番列車がすれ違う瞬間を目撃したら奇跡が起こるという説を信じ、仲間とともに北と南から出発し、熊本あたりの中間地点で落ち合い……という少年少女冒険譚。兄弟が願っていたのは再び一家四人で一緒に暮らすことだったはずだが(「世界か家族か」というけったいな二択に陥ってしまい願掛けせず)、結局その「奇跡」は起きなかったようだ。この結末のありかたが気になったのは、最近読んだ『ふたりのロッテ』(ケストナー著)が似たストーリー設定で絵に描いたようなハッピーエンドだったのを思い出したから。両親の復縁の糸口までもっていけば作品の感動の要素も増して下世話な話だが観客動員の面で当たりも一層とれただろうに、そうしなかったのは、納得できる形でそこまでもっていく脚本を作るのが難しいということもあったやもしれぬが、監督のあざとさを嫌う映画思想から来ているのかもしれない。あるいは『ふたりのロッテ』を意識して、なぞるのではなくひねりを加えたということか。父親から兄に伝えられた「世界」の観念はさらに兄から弟へと伝わる、しかし帰宅した弟が「とうちゃん、世界ってなんなんやろな」と訊くとお父さんはボケに走り、答え合わせの答えが合わないところ、可笑しすぎる。
『ふたりのロッテ』は(『エミールと探偵たち』を読んだ勢いで同じ作者のこれも楽しんだ次第)、双子のロッテとルイーゼが主人公で、両親は双子姉妹がもの心つかない頃に離婚して、ロッテは母とミュンヘンに、ルイーゼは父とウィーンに住んでいる。夏休みの子供休暇村で偶然出会った二人は両親をもう一度一緒にさせようと、ロッテはルイーゼになり切ってウィーンへ、ルイーゼはロッテの振りをしてミュンヘンへ行く……という話。いろいろ波乱はあるものの、最後は父と母が仲直りするというハッピーエンドで終わる。児童文学ゆえの常套で、そうでなければ子供の読者からやだやだときびしく文句を言われかねない。子供のための物語だからそうしてあげたいというやさしい要請のほかに、ただの兄弟というのではなく双子であることで互いの思い入れ、協力体制がより強いのかもしれず、さらにロッテたちは「奇跡」の子供たちよりも実際的で踏み込んだ大胆な作戦を遂行している。運命の大きな地形図を変えてしまう双子マジックおそるべし。
双子と言えば、川端康成の『古都』がある。京都を舞台にし、四季の祭を要所に配した、われわれ田舎庶民には手も足も出ない京都の審美感が随所に光る小説。千重子と苗子は双子だが、千重子は捨て子で、中京の呉服問屋の夫婦に拾われて育ち、苗子は父の生業である林業の仕事につき北山で暮らしている。二人は祇園祭の夜に出会い……という話。「奇跡」や『ふたりのロッテ』で考えたハッピーエンドという問題について言えば、千重子たちの実の両親は既に死んでいて、パーフェクトな一家団欒の可能性はあらかじめ無惨に刈り取られている。では二人の行く末はどうなるのかというと、それを描く前のところで物語は終わっている。男女のやりとりなど恋愛物的な展開もあるにせよ、それがどうなるかという興味よりもむしろ、古都の風物を描き込むとともに、捨て子だからだろう、千重子の結婚についてもなんについても「両親には絶対服従」という苛烈な覚悟や、苗子の感じる千重子との「身分差」、千重子の幸福の邪魔には絶対になるまいという寂しい決意がひびかせる抒情を感じることが小説にとって大事だったのだろう。最後の場面、千重子の部屋で苗子が一夜を過ごす、雪が降ってくる、というシーンは、三好達治の詩「雪」の引用のようにも思われる。この詩は与謝蕪村の「夜色楼台雪万家図」につながっているというエピソードを今の我々はどこかで聞き知っているのだが、川端が執筆時にそのことを知っていたかどうかわからない、しかしこの雪景色の絵は京都の風景であろうし、この絵、そして詩「雪」にインスピレーションを得て、そこから逆算して作家は京都の太郎・次郎の物語を組み立てていったのではないかと想像してみるのも一興だ。引用と言えば、小説のはじめの方で谷崎潤一郎の『細雪』の一節も引用されている。しかし谷崎の描く女人と川端の描く女人はずいぶん違う。『細雪』の主人公の雪子はでしゃばるでもなく姉や妹と比べても大人しい性格だが、それでも見合い話を幾度となくつっぱねるなど我を通すところは遠慮なく通す。谷崎にとって女はエゴイスティックで肯定的な、地上の幸福を体現する存在だ。しかし『古都』の千重子は義理の両親に「絶対服従」と言うし、苗子は千重子とは身分が違うから「お嬢さんの、おしあわせに、ちょっとでもさわりとうないのどす」と誓う。この古いと言えば古い、今どきの女性からすれば頭が変なんじゃないということになるのかもしれない、そのような峻厳な覚悟を心に抱くパセティックな女性は、この『古都』に限らず川端の他の作品にもよく出てくるような気がする。ある型の心性の人間はこういう希有な女性像に近づき難い崇高なものを感じるのだ。両作家の志向や感性の違いがゆかしく考えさせられる。
『古都』は何度か映画化されているようだが、監督・中村登、主演・岩下志麻のヴァージョン(1963)は小説の発表からあまり間を置かずに撮られたので、呉服店の内部の様子や京都の街の雰囲気など小説でイメージされているほぼそのままを目にすることができる。湯豆腐の装置、帯の図案の案配、平安神宮の庭の池におかれた飛び石の具合、機織りの作業風景、北山杉の整然とした景観など細部にも目が留まる。音楽は武満徹で、こういう鬼火のような音楽をつける人はもういなさそうだ。
(池田康)
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2019年09月01日

伊勢物語の合唱オペラ

31日午後に渋谷・さくらホールで行われた、合唱団樹の会のコンサート「新実徳英の合唱世界II 二つの愛の物語」を聴いた。作曲家の新実徳英さんの曲だけで構成した会。指揮・藤井宏樹、ピアノ・浅井道子。この合唱団の声のブレンドは、男声陣がしっかりしていることもあって大変力強く、鋼あるいは巌のようなたくましい響きを特色としているようだ。
前半は「三つの愛の歌」、この曲は以前にも聴いたことがあったが、柿本人麻呂の長歌、旧約聖書の雅歌、キーツの詩「ギリシアの壺に寄せるオード」にそれぞれ作曲した三曲からなる。二曲目と三曲目は外国語でうたわれ、聴いていても言葉がよく分からないということもあり、やはり柿本人麻呂の長歌の曲が一番面白く聴ける。この長歌も本の上で黙読するかぎりでは一本調子のリズムで最初から最後まで読んでしまうのだが、これを音楽にすると多彩な変化が加わってきてドラマティックで、ことに最後の「妹の門見む 靡けこの山」の部分の大きな展開は心が高揚する。全体に、細かい技巧で勝負するというよりは、大きな模様、大きな流れ、大づかみなバランスと構えで考えられていて、聴く側もゆったりと寛いで聴くことができる。有名な作曲家ではブルックナーなどもそうだろうが、耳の尖端で聴くのではなく身体を委ねるように聴くことになるのだろう。
後半の「二つの愛の物語」は今回の委嘱初演の合唱オペラ曲で、伊勢物語を題材にした二章の構成になっている。台本・和合亮一、演出・しままなぶ。第一曲「梓弓」は男を三年待っていたが諦め今や別の人に会おうとしているところに昔の男が帰ってきて、これを拒んだのにその衝撃で落命する女の話。二曲目「筒井筒」は、幼馴染みの男女が相思相愛で結婚したが女の家が没落して生活が厳しくなり(古代の男女関係は今と違っていたようだ)男が別の女を求めようとするのだが男の身を案じる留守居の女の姿を物陰から盗み見て男が改心する、という話。激しさの違いはあれ、どちらも哀切な話で、しかも匿名の男と女の話は影絵芝居のようで、雲の上のお伽話でも異国の物語でもなく、我々自身の愛の消息として見ることができる。見る、と書いたが、演出によって合唱団員たちの配置や身振り手振りも細心な注意で構築されていて、オペラとしての絵の面白味は十分にあった。普通のオペラと比べて、合唱オペラはオーケストラはないもののコロスの声が遍在して絶えず動き、物語を包み込み、充溢している点で、トーンの色彩感は乏しくてもより一層音楽的に濃く深遠であるようにも思われた。この合唱団の男声パートの充実ぶりにより恋愛劇としての立派さが際立った。この古雅で普遍的なラブストーリーの合唱オペラは多くの合唱団がやりたいと思うだろう。
伊勢物語を扱うなら、ぜひ、男(在原業平)がどこぞの家の姫を誘拐しようとする話、例の「白玉かなにぞと人の問ひし時露と答へて消えなましものを」の歌、日本の詩歌史上もっとも異界の妖気を強く帯びた名歌をふくんだあの話も、曲にしていただきたいもの。
和合さんによれば、台本・和合&作曲・新実のコンビで別の曲のプロジェクトも進行中で、近く別の合唱団の演奏会で発表される予定だそうだ。期待したい。
(池田康)
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2019年08月26日

菅井敏文詩集『コラージュ II』

collage2.jpg菅井敏文さんの新詩集『コラージュ II』が洪水企画から刊行された。A5判96ページ、1800円+税。前作『コラージュ』(2016)の続編という位置付けであり、詩誌「詩素」に発表されたものを中心に前衛的手法の詩から身辺を語るような詩まで様々なタイプの詩作品37篇が収録されている。この集合体を「コラージュ」と題しているところが肝のようで、一篇一篇の詩作品の表現もさることながら、それら詩表現の多様性をバランスさせ掛け合わせる中で世界をつかまえようとするところに菅井氏の観法としての詩の探求があるように思われる。そういうこともあり、帯には「純粋な詩的奇想と実生活の中から生まれる抒情とが出会う場所〈コラージュ〉、この混沌のマーケットの雑踏のどこかにこの世のすべてを美しくバランスさせる一点がきっと存在する。」という紹介文を載せた。私個人としては最後に収録されている「セールス」がもっとも深く印象に残る作品なのだが、長いので、ここでは「P」という詩を引用紹介する。

 Pドールは踊れない
 踊らない
 眠れない
 眠らない
 濁った眼で
 固くこぶしを握り
 取り戻せない夢を見ている

 Pドールは戦えない
 戦わない
 進めない
 進まない
 雲の小部屋に住んでいる
 見えない自意識を
 放り出せないでいる

 Pドールは考えられない
 考えない
 笑えない
 笑わない
 石を積み上げて
 その上に小便をしている

 Pドールは逃げられない
 逃げない
 求められない
 求めない
 あいまいな表情をして
 まだらな記憶をフラッシュバックさせる

 Pドールは応えられない
 応えない
 動けない
 動かない
 白いブドウを口に放り込み
 ルサンチマンに蓋をする

(池田康)
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2019年08月23日

伊万里のことなど

IMG_7193.JPG3日かけて九州を旅行した。長崎・伊万里・柳川。長崎の原爆関連の場所や柳川のどんこ舟川下り・白秋記念館などについてはガイドブックの類にも詳しく紹介されていて周知のことと思うので、ここでは伊万里について書きたい。
この地を訪れたのは、以前洪水企画の刊行物の発売を委託していた草場書房の社主の草場氏の故郷であり、現在氏はここに戻って暮らしているので遊びにいき、氏の案内でいろいろな名所や急所を見聞することができたという次第。
伊万里で有名なのは伊万里焼だが、大川内山なる山あいの場所に窯元がたくさん集まる村があり、たまたま夏ということで「風鈴祭り」が開催されていた。店の軒先につるされた磁器の風鈴が風を受けていい音で鳴っていて、ことに大振りの風鈴の低い響きが神秘的だった。写真は伊万里焼の器を焼く登窯。青磁を得意とする窯元の店にも寄る。また鍋島藩御用窯の店の焼きものは伝統の重み、独自の風格が感じられる。
江戸時代、伊万里の津から国内外に出荷された磁器が古伊万里と称されるそうで(隣町の有田の産物も含めて)、伊万里が海に面しているという観念は私の頭の中にはなかったのだが、伊万里湾の方向に行ってみると文字通り風光明媚な景観の連続で、造船所もあり、また生きているカブトガニも見ることができ、魅力にみちていた。築二百年におよぶ焼きもの問屋の古い家屋も見学することができて、当時の生活空間に自分の身を置く経験は玄妙。
竹の古場公園という海抜380メートルの山頂からは伊万里全体を海の方まで眺めることが可能で、絶景の形容を献上するのにためらいはない。物語の舞台にもなりそうな、地形についても生活文化の面でもメリハリのある土地柄だ。
長崎から伊万里までは鉄道で来たのだが、大村湾沿いを走る大村線のルートは快適で、このほとんど閉じられた湾の、波があるようでない、ないようである、機嫌のよい静謐さを心ゆくまで味わうことができる。
(池田康)

このたびの記録的大雨、お見舞い申し上げます。
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2019年08月19日

媒体の生死

あいちトリエンナーレでの騒動についてはいろいろ議論があるのだろうけど、一般論の範囲で考えても発表作品と発表媒体との関係は相当に悩ましい。決して一枚岩ではない。そこでは「表現の自由」よりもむしろ「表現の幸運」が問題になってくるのだ。
発表媒体は大なり小なり公の要素、パブリックな性格を持っており、そこに出ることではじめて作品は発表されたと言える。どんな作品でも望む媒体に発表できるかというとそんなことはない。一介の詩人が自作を大手全国紙に載せてくれと送っても採用される可能性は芥子粒よりも小さいだろう。そこには表現の自由が踏みにじられたとかいった問題はない、媒体は独自の編集権限を有する。少年漫画雑誌は性描写の激しい作品を受け入れないし、シュルレアリスム展にルノアールの絵は入らないし、クラシックの演奏会にはフリージャズの曲を入れにくい。夏目漱石の「吾輩は猫である」が俳句雑誌「ホトトギス」に載ったのは例外的で、人気を博して成功した稀な事例だろう。数限りない拒絶やすれ違いの中、ある作品がある媒体に掲載・発表され一般の鑑賞者に届いたなら、そこには「表現の幸運」が成立しているのだ。
しかし掲載してみても、いまいちだなとかテーマに照らして的外れだなとか批判や主張が過激すぎるなとか、媒体の運営側が不満や不安を抱く場合もよくあるのであり、往々にして「表現の幸運」の中に「表現の不運」が兆す。凡作にとどまるだけなら平穏無事だが、作品の掲載が媒体の評判・存立を揺るがし危ういものにする場合もときにはあり、そこで「表現の不運」が無視できない大きさに至る。問題を処理しきれず廃刊を余儀なくされた雑誌なども過去にあったはずだ。賭けに出てでも大いに意義ある表現を世に出したいという思いが一方にはあり、媒体を崩壊させたくないという防衛感覚が他方にあり、運営は神経をつかうものだ。私自身、いろいろな理由から雑誌「洪水」をたたんだ経験があり、雑誌の命がはかないものであることは肌身で知っている。媒体=メディアは多くの人が考えるほど堅固なものではない。案外脆いものなのだ。そしてただ無闇に専一に守ればいいというものでもない。予定外の力が働き、脆さが露呈すれば崩れる、それは自然なことであり、そこに意味がないわけではなく、媒体(という特殊な作品/運動の)固有の一期一会のドラマとも言える。
(池田康)
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