2018年07月11日

水の豊かさの怖さ

タイでは洞窟内の13人が救出されたが……。先週中国地方を襲った大雨の猛威は予想外に強大で驚いた。地震とか台風とか言われると身構えるが雨がたくさん降るというだけではなかなか警戒心が立ち上がりにくいのだろう、一つの町が一夜にして泥水に浸かるというのは悪夢だ。「治人」とか「治獣」という表現は聞かないが、「治水」という言葉は十分に熟していることからみても、治水は古来国政の重要なテーマだったのだろう。陽光の豊かな地域は陽光を恐れなければならず、水が豊かな地域は水を恐れなければならない。ナイル川の氾濫はエジプトの地に豊穣をもたらしたが、それはそうした自然の変化をカレンダー上に予定し柔軟に順応できる生活様式を確立した上でのことだ。
「みらいらん」2号のインタビューで人類学の篠田謙一さんが、文明の衰滅する要因として、社会学的なことよりもむしろ自然の脅威を第一に考えると発言しておられたが、本当に、我々は安定した自然環境をアテにして生活しているけど、それは常に100%恵まれ満たされるわけではないのだと、こういう災害があると思い知らされる。
(池田康)
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2018年07月09日

ジュール・シュペルヴィエル(嶋岡晨訳)『悲劇的肉体』

higekitekinikutai.jpgシリーズ〈詩人の遠征〉の第10巻として、上記の本を刊行した。
シュペルヴィエル(1884-1960)が1959年に出した最後の詩集『悲劇的肉体』のきわめて貴重な本邦初の全訳(嶋岡晨氏の渾身の訳業!)。天性のイマジネーションののびやかさと死を目前にした観自在とが交錯し豊穣な詩世界が展開されており、内省的で幻想的な抒情から、孫娘に捧げる暖かい長篇詩や色華やかなシェエラザード讃まで、詩人の内面を構成する多くのモチーフが入り乱れて、二十世紀という地球時代を雄弁に精緻に物語る。一読すると、精神の大きさというものを圧倒されるように感じるのだ。
巻末に収録した、翻訳者の嶋岡晨さんの「解説風の覚え書」のエッセンスをまとめて次のような短文にし、本の袖に載せた。
「二十世紀フランスの代表的詩人ジュール・シュペルヴィエルの最後の詩集『悲劇的肉体』。持病の心臓疾患を介して死と対話するその詩の思考において、精神は肉体を蔑視せず外の世界を敵視せず、生と死が共棲し、可視と不可視が重なる、複雑で奥深いナルシシスムを伴った悲劇性が顕現し、さらに人類的イメージへと広がる。「精神が夢と混じりあうとき、対立物はもはや存在しない」──日常の魔法、言葉の幻術は最後をたやすく最初の詩の〈誕生〉に変えるのだ。」
過度に凝縮したのでやや難しい表現になっているが、シュペルヴィエルの詩がどういう広く深い時空で動いているかが察せられ、本書の重要度は伝わるかと思う。季節を超越したこの貴重な詩集をぜひ手に取って熟読いただきたい。
184頁、本体1800円+税。
(池田康)
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2018年07月07日

「みらいらん」 第2号

milyren2.jpg「みらいらん」2号が完成した(1000円+税)。野村喜和夫さんをホストとする恒例の企画「対話の宴」は画家で映像作家の石田尚志さんをゲストを迎えての「書くこと、描くこと、映すこと」。現代美術における石田氏独自の表現の追求の仕方、吉増剛造さんとの交流、子供の頃の体験など語られる。独特の映像作品の制作の経緯や方法が興味深かった。インタビュー〈手に宿る思想〉はDNA解析をつかって人類学を研究する篠田謙一さん(国立科学博物館副館長)、ホモ・サピエンス6万年の旅のことなどをうかがった。そのお話に出てくる古代アンデスの社会が文字を持たなかったということにちなんで、小特集「文字のない世界」を組んだ。ご参加いただいたのは、山田兼士、金井雄二、江夏名枝、八潮れん、八覚正大、松尾真由美、渡辺めぐみ、藤田晴央のみなさんで、エッセイと創作とで構成されている。新しく始まった嶋岡晨さんの連載詩「びっくり動物誌」は生物の奇妙な生態に光を当てて命の形の可能性を描く試み、注目していただきたい。巻頭詩は佐々木幹郎、古内美也子、新延拳、河原修吾、小笠原鳥類、藤原安紀子のみなさん。林浩平さんの「Hidden Treasure」、今回は安東次男を取り上げている。その他の内容の詳細は下記リンクでご確認下さい。
私が書いている「深海を釣る」は、前々からラジオのDJ番組のような記事を作りたくて何人かの方に相談していたのだが実現しなくて、では自分でやってみようかと試みているものだが、ラジオ番組のしゃべりの軽やかさで書くのは至難だ、懸命に書き込んでいるとだんだん重さが加わってくる。深海とDJ番組は水と油なのかもしれない。
それから表紙の画像(下の方)のプテラノドンはぜひ調べてみていただきたい。どこかに復元想像図が見つかるはず。これがあの骨かと、驚くことになるだろう。今から8千万年前の生物。
(池田康)

追記1
篠田謙一さんのインタビューで言及されている「古代アンデス文明展」は現在山梨県立考古博物館で開催されており(今月16日まで)、7月27日から9月30日まで仙台市博物館での開催が予定されています。

追記2
本書のご注文は、書店でしていただくか、直接洪水企画にご注文いただければ幸甚です。ネットショップをご希望の方は、下記の準公的な書籍検索サイト
で検索していただき、右側に出てくるショップ各店を当たっていただければと思います。
『悲劇的肉体』についても同様の手順でお願いいたします。

追記3
奥付のページのなにかの立体の展開図の一面一面に文字が書いてある謎の図について、これはなんなのかというお尋ねが複数きておりますが、解読のポイントを示すなら、第一は、万葉仮名を使っていること、第二は、白い五角形の並び、黒い六角形の並び、灰色の六角形の並び、それぞれを別々に読む、ということです。挑戦してみて下さい。
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2018年07月05日

虚の筏21号

「虚の筏」21号が完成しました。次のURLからご覧下さい:
http://www.kozui.net/soranoikada21.pdf

今回の参加者は、海埜今日子、二条千河、たなかあきみつ、神泉薫、酒見直子、平井達也、そして小生です。
空いたスペースに入れている画像もちょっと面白いので、ぜひご覧下さい。
(池田康)
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2018年06月27日

今週の予定など

気候が夏のようになってきて、涼風や氷菓子を恋しく思うようになった。今週は歯医者で抜歯のしんどい治療があり、週末には「みらいらん」と新刊単行本の納品が予定されており、なかなかにせわしい。サッカーのW杯も佳境になりつつあるが、深夜の時間帯まで誘われるのはきついなあとこぼす程度の薄情な見物客だ。今は本の発送準備をしながら「虚の筏」の新しい号を作っている。この詩誌も21号を数えるまでになった。これくらいまで来ると歴史を感じる。バックナンバーをクリアファイルに収納しているが、それをめくって各号いろいろ遊んでいるのを眺めるのも楽しいものだ。21号でもちょっと斬新な新しい遊びを考えている。さて、近く出る新刊書とは、嶋岡晨さん翻訳によるジュール・シュペルヴィエルの最後の詩集『悲劇的肉体』。また改めて案内するつもりだが、この詩人の老年を酒樽としてとても豊穣な詩世界が醸造されている。必読ですとお勧めしたい。
(池田康)
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2018年06月25日

うつつの冥府 番外編

「みらいらん」2号と新刊単行本を印刷所に入れ、気持ちに余裕ができ、なにか読むものはと本棚を眺めていたら、「わたしを読んで」と背で訴えてきたのがカズオ・イシグロ著『わたしを離さないで』(ハヤカワ文庫、土屋政雄訳)だ。いつか読むべきだよなと思いつつも、どういう話か聞かされると背筋が寒くなるようで無性に怖くて敬遠していた本。読み始めたら語り口の親密さに導かれてすぐに入り込んでどんどん読んでいけるのだが、読み終わるとみごとに救いがなく荒涼としていてやはり怖い本だった。
どんどん読んでいける、その青春小説的なみずみずしい展開を繊細緻密な筆で描くところにこの小説家の力量のABCがある(これだけ緻密な書きぶりなのに渋滞することなくスムーズにページをめくれるのは翻訳の良さだろうか)。ちょっといやらしい性格のルースという女性をこれだけ丁寧に(愛情をもって?)描き出せるというのも驚きだし、若者にありがちな自然にこぼれ出る滑稽さがいろんな場面で発現しているところもこの作家ならではの配色だろう。「臓器提供のために生かされている人間たち」という尋常でない恐ろしい設定からはどぎつい黒の支配と主張が予想されるのだが、実は美しい淡い灰色のグラデーションが基調であり、その中にはブルーや薔薇色や真紅の模様も出てくる、実に繊細な(繊細であるが故にときにコミカルでもある)喜怒哀楽、そしてほんのちょっとしたシーンが主人公と親友二人の運命を変えていくバタフライ・エフェクト的ダイナミズムが、この小説の一番の読みどころとなっている。彼らはその使命からして生きながら冥府にいるようなものなのだが、その絶望の中でもこんなにいきいきと多彩な生が展開されうることを示す、作家イシグロの魔法の杖。冥府の内部のきわめて精密でつややかな造型。最終的には悲劇の構図がものを言って寒々とした余韻で終わるのだが、彼らも、我々の生も、そんなに違わないのではないかと思わされる、SFの設定なのにSFになっていない、妙なリアルさ、そこもまた驚きだし怖いところなのだ。実に生気にみち、そして恐ろしい物語。カズオ・イシグロの基本は、『日の名残り』や『夜想曲集』でも感じたのだが、弱い人々、敗北した側、虐げられる組の繊細な抒情ということであるように思うのだが、この作ではその特徴が最大限に出ている。
映画化もされているようだが、見ていない。日本でもテレビドラマ化されたことがあったが、それほど評判にならなかったのは、(私も含めて)多くの人は怖くてチャンネルを合わせられなかったのだろう。サスペンスはさかんに作られるが、視聴者を真に恐怖させるドラマはテレビには不向きなのかもしれない(テレビドラマで本当に怖い思いをした記憶があるのは横溝正史シリーズくらいか……)。
(池田康)
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2018年06月23日

ラジオでブルネロを聴く

何日か前、N響のコンサートをNHKFMで中継していて、チェロのマリオ・ブルネロが出演すると知り、聴いた。この人の演奏は聴く価値があると思うのだ。番組内の説明によるとN響との共演は15年振りぐらいとのこと。あらかじめこのコンサートのことを知っていたらホールまで聴きにいこうかという気に少しはなったかもしれない。実際は余裕がなく行けなかったと思うが、一応「迷う」くらいはしただろう。曲はカバレフスキーのチェロ協奏曲第2番。この作曲家、ロシアの人とか、聞いたことがあるようなないような。音の活発な動きによる華やかさも有する曲。ブルネロの演奏はドライブと説得力、音楽の楽しさがある。手元に彼がバッハの無伴奏チェロ組曲を全曲演奏したCDがあるのだが、その弾きぶりも奔放で気儘で、俺はしゃべりたいようにしゃべるんだといった感じで、謹厳実直な音大の先生なら顔をしかめるかもしれないが、教科書的でないバッハが好ましく、音楽はこうでなくちゃと思う。今回のカバレフスキーの協奏曲もブルネロの演奏があるだけで楽に成立しているように思った。このラジオ中継があることは当日新聞のラジオ欄で知ったので、聴けて幸いだった。ラジオ(テレビ)は聴けたり聴けなかったりする。作曲家の新実徳英さんからNHKFMのコーラス音楽の番組で近く自分の作品の特集があるとの案内をもらっていて、それが実は今日の早朝だった。コーラスの番組は日曜日だと思い込んでいたので、たまたま7時前に目が覚めてラジオをつけるとこの番組の最後の部分をやっていて、びっくりし、あららと心の中でつぶやいた。
(池田康)
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2018年06月20日

なぜそれができないのか

大阪方面でかなり大きい地震があり、被害も相当な規模だったとのことで、近畿は友人・知人も少なからずいる地域だから気にかかる。皆さん無事でいることを祈りたい。
こういう災害のときによくあることだが、電車やエレベーターに閉じ込められて数時間を過ごした人がたくさんいたらしい。15分でも耐え難いのに、4時間も5時間も出られないのは地獄だ。なぜすぐに出られるようにしないのだろうという素朴な疑問が浮かぶ。なにも地球を貫通して裏側へ避難しようという話ではない。空を飛んでいるわけでも海を航行しているわけでもないのだ。「なぜそれができないのか?」…なぜエンジニアやシステム設計者や運営責任者はそれができるようになんらかの工夫をしないのか。ドアが開けられる場所や状況まで慎重にもっていき、ドアを開ければいいだけだ。私は4時間級の閉じ込めの憂き目に遭ったことはないので実際それがどういう恨み言の感想になるのかわからないが、悪気の有無にかかわらず“監禁”されることは苦痛であり不都合でもあり健康面のマイナスもあり、つまり良くないことであり、地震のたびに無策のままの繰り返しで無数の不運で不憫な閉じ込めが発生することをいつまでも看過していいとは思えない。
(池田康)
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2018年06月15日

うつつの冥府 その3

うつつの冥府に入るべくして生まれてきた、と言ってはオーバーかもしれないが、自らの科はなにもないのに虐げられ地獄を舐めさせられる、それが公開されたばかりの映画「万引き家族」(是枝裕和監督)に出てくる少女じゅりだ。「誰からもかわいがってもらえ守ってもらえる幼い女の子」の役柄を両親によって根本から剥奪廃棄され、生まれながらにうつつの冥府にいる少女。そこから彼女を救い出した家族は、本物の家族ではないのだが、ヴァイタリティに満ちており、厳格な主従関係のないアナーキーな自由さがパラダイスとなって恐怖にすくみ切っていた幼い心をほぐす。しかしこの神の家の聖家族は存在自体が凡庸な観客にとってはショッキングで、どのシーンにおいても本音のえげつなさが凶器のようにきらめいて恐怖と快感の目眩を覚える。戦後の闇市時代のような、どんなことがあっても、どんな手段を使っても生き抜いていくという生命力の強さが、ここでは犯罪という形までとってしまう。この映画の本質的な尖りのヤバさ。警察の取り調べを受け、妻と息子はそれぞれ別の道を歩き出し、父親だった男は解放されたとはいえ一人取り残される。自分にとって一番大事な作品だったフィクション家族が崩壊し、懸命に獲得しようとしていた父親の役割を喪失し、男はうつつの冥府の入口に立ったのかもしれない。
戦前の家族の厳しい家長としての男のイメージとこの主人公の男のすべての宝を奪われて茫然自失している姿とを重ね合わせると時を経てここまで来たのかと雷の一閃を錯覚するが、いや、対立はむしろ日常安住者vs越境憧憬者であり、この男の無責任な放縦と遊戯心は芸術家と呼ばれる嘘つき(フィクションを愛でる)種族の歪んだ鏡像かもしれないとも夢想する。現実社会の規範の重さに抗い、異常な軽やかさで跳梁し、いかがわしい作品制作にいそしむ似非芸術家。しかし今の時代において芸術家と似非芸術家の間にさほどの距離はない。彼らにとっては心の冥府も冒険に値する地図なき森だろうか。
蛇足だが、常々思うことだが、幼女の肩くらいまで伸びたかすかに柔らかくカーブした髪は本当に見惚れるくらい神々しい。年齢が高くなるとあんな素直な髪をした女性はいなくなる。祈願を最小限のそのまた最小限に絞るとしてもこういう自然にウェーブする髪をまだ有している幼い女の子は理不尽な目に遭ってほしくないものだ。禁句かもしれないが、冥府から出る可能性の光を一条でも感じるために、5年ないし10年後の続編を所望したいような気もした。
この作品の撮影を担当している近藤龍人は「海炭市叙景」に始まる“函館三部作”でも撮影を行っている。
(池田康)

追記
なにか見逃しがあったような気がして、また映画関連商品で水玉のような模様が多用されているのはなぜだろう、あれは何だったか、どこで出てきたっけかという疑問もあり、もう一度見た。そして深い納得が得られたように思った(また辛い現実に戻るにしても、少女はこの「神の家」このアリスの不思議の国で、「宇宙」を、もしくは無償の愛の原液の海を見つけたのだ)。最後の20分ほどの間、情報やら重要発言やら立て続けに発せられ、受け止めて一つの絵にまとめるのが大変で、さりげない重要な部分を見過ごしてしまうのだが、二回目に注意深く見届けて、これはこれでいい、不足は感じないと思うようになった。
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2018年06月13日

うつつの冥府 その2

人は自分がもっとも大事にする、それをもって自分の存在意義とする主要な役割を失ったときに、うつつにいながらある種の冥府に入り、心的な死に囚われる。そこから出てこられるかどうかは大雑把にいって五分五分というところだろうか。プロ野球の松坂投手のようになんとか復活する幸運なケースもあれば、別の天地に光明の可能性を目指して移動しつつ出ていく場合もあるだろう。結局抜け出すことができずに冥府に囚われたまま心の壊死を迎える不幸な場合もあるだろう。
先ごろ公開された映画「妻よ薔薇のように 家族はつらいよ3」(山田洋次監督)では、長男の妻・史枝が家出をするのだが、夫・幸之助の無理解に耐えられなくて喧嘩の果てに、というよりも、自分のうちの重要ななにかを喪失して、という面が強いように思われた。史枝は一人で留守番をしていたときに泥棒に入られ、冷蔵庫の奥に隠していたへそくりを盗まれる。びっくり仰天のシーンで、昼寝から目覚め二階から降りてきて盗人の男を見つけ、目が合ってしまう。このとき、彼女はもっとも大事な「平安な日常」を盗まれたのではなかったか。自分の主要な役割である「主婦」の面目が傷つけられ、奥方の仮面がひび割れる。弁解の余地乏しく、夫の面罵によりその資格喪失は決定的となり、心はうつつの冥府に入る。それは故郷の信州の町に行き、今は両親もいない生家に隠れるという形をとる。夫は弟の忠告に従い、妻を迎えに……。こうして物語は冥府に行ってしまった妻を取り戻しにいくというオルフェウス神話に似通ってくる。奪還は成功するかどうか、それは難しいだろうと義父の周造の予想するようにけっして簡単ではないはずで、なんとか帰還を果たしたのは(この作品が喜劇のフォーマットで作られているからという決定的事情を措けば)、たまたま土砂降りの雨が降っていて非常事態の空気がいい具合に生じた、モーゼの海の道ではないが、マジックのように「道ができた」からだというのが観ていての素直なところだ。彼女の「冥府」の具体的な形となった山奥の町(茂田井?)も古風で雅びな美しい風景で、見とれた。
(池田康)
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2018年06月11日

うつつの冥府 その1

山下敦弘監督小研究の一環で「オーバー・フェンス」(2016)を観たのだが(主人公たちの年齢がそれまでの作品より上がっていた)、これは佐藤泰志の小説をもとにした“函館三部作”のうちの一つだということだったので、舞台として映される函館の街が魅力的なこともあり、もう少し味わってみたくて残りの二本を観た。「海炭市叙景」(熊切和嘉監督、2010年)と「そこのみにて光輝く」(呉美保監督、2014年)。三人の監督は同級生的な間柄らしいのだが、この三本、どれも明るい映画ではなく、物語の色調は(控えめな言い方をしても)くすんでいる。とくに「海炭市叙景」は暗澹としており、いくつかの短編のオムニバスの形をとっているのだが、そのどれをとっても救われるような気持ちになる瞬間に乏しい、閉塞感に満ちた世界だ(エンタテインメントであるより先に真実の表現でありたいという願いがあるのか)。これがこの一連の函館物語の基調になっているのだろうし、われわれが暮らすこの現実世界の空気に直結している感じもある。転げ落ちそうになっている人々。暗い穴にはまってしまった人々。東京のようなにぎやかな場所だったらそれでもいろいろ誤魔化しようがあるのかもしれないが、函館という土地は窮状をむき出しにする趣きがある。「そこのみにて光輝く」の主人公と彼がつきあう姉弟も虚ろ、悲惨の度合いが相当に深い。「オーバー・フェンス」の所在なげな感じ(離婚して失意とともに故郷函館に戻ってきた)の主人公は他の二作に出てくる男女と比べて軽症なのかもしれないが、それでも人並みの生活に失敗した、大袈裟に言えば“人間失格”の感覚に苦しんでいるかのようだ。
肉体的には死なないにしても、自分の大事な部分が破壊されて、精神的に死の状態に入るときがある。野球選手が大きな怪我をして野球生活を断念しなければならなくなったら、本当の死ではなくても、生きる意味があるのかというところで死に近い絶望を味わうだろう。シューマンのように手が動かなくなったピアニストもしかり。これが俺だと自認する役割を喪失したとき、ある種の死が訪れ、身はうつつに留まりながらも絶望の冥府に入ることになる。
これら函館三部作は、鬱屈した気分が赴く先の、そうした冥府の色が相当に濃い。そんな中で、「そこのみにて光輝く」の菅田将暉のいつも陽気にはしゃいでいるちんぴら振り、「オーバー・フェンス」の蒼井優の生気あふれる奇抜な鳥踊りはポジティブな生の輝きを発していた。
(池田康)
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2018年06月05日

漬物の妙味

先日ある食堂で生姜焼き定食を食べたのだが、さほどおいしいとは思わなかった。これなら家で焼いて食べるほうがずっとうまいだろうとも……。別に珍しい体験というわけではなく、外食して「美味い!」と叫びたくなるようなことは(高級店に行かないということもあるが)滅多にあるものではない。二年に一度あるかないかというところではないか。そもそも味覚における特上の経験は平常の食事のための料理ではなかなか得られないような気もするのだ。果物だと特上に近い味覚体験をもう少し頻繁にさせてもらえる。酒もおそらくうまい物はうまいだろう、私はあまり飲めないから残念だが。案外盲点なのは漬物で、梅干も最近はびっくりするくらいおいしいものがあるし、奈良漬の類もときどき唸るようなものに出くわす。ぬか漬けにした胡瓜や茄子や人参も案外に悪くない(自宅で漬けているわけではありません)。火や調味料を使って人為的に調理するよりも、発酵など自然のプロセスの手を借りて味を作り出してもらうほうが良い結果が生まれると言えるだろうか。言葉の断片をある種のぬかに漬けておけばフレーバー薫じて一篇の詩のごときものが生まれる、という仕掛けもありそうな気がするのだが……これは食文化とちがい方法論が発見も確立もされていないようだ。
(池田康)
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2018年05月28日

日本の詩祭2018

昨日は飯田橋のホテルメトロポリタン・エドモンドで日本現代詩人会の「日本の詩祭2018」があり、ちょっとした雑用を言われていたこともあり参加。第一部は詩賞の授賞式。H氏賞は十田撓子詩集『銘度利加』、現代詩人賞は清水茂詩集『一面の静寂』、先達詩人表彰は八木忠栄氏。第二部は現代音楽特集で、前半は作曲家の近藤譲、松尾祐孝の両氏に詩人の一色真理氏を加えてのディスカッション。後半はコンサートで、福士則夫「手のための〈ていろ〉」、橋本信「犀川」「町」、蒲池愛「風の城」、小川類「《NUBATAMA》」、松尾祐孝「季寄せ」「じゃあね」。演奏者は松平敬(バリトン)、工藤あかね(ソプラノ)、中川俊郎(ピアノ)、甲斐史子(ヴァイオリン)、古川玄一郎(打楽器)、洗足音楽大学学生のみなさん。ユニークな面白みがあって刺激的だったのは、「手のための〈ていろ〉」(ガムランや韓国の太鼓重奏を思わせるパーカッションアンサンブルの妙)、それに「季寄せ」(12の月に合わせて俳句を十二句選び、その12曲をそれぞれ違った趣向で仕立てあげていて意想外の変化があり、伴奏のヴァイオリンも尺八を思わせるところもあって良い取り合わせのように聴こえた)だった。終演後にバリトンの松平さん、ヴァイオリンの甲斐さんと少し話す機会もあって嬉しいことだった。
(池田康)
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2018年05月22日

日常の延長を歩く

カンヌで栄誉を授かった是枝裕和監督の新作が近く公開されるのも楽しみだし、大林宣彦・山田洋次といった大ベテラン監督の近作・新作も拝見したいと思うのだが、最近DVDを借りて観ていたのは、もう一回りか二回り若い世代の作品だった。とあるきっかけで「天然コケッコー」(前から気にはなっていた)を観て、激することなく小さな世界を落ち着いてまとめ上げる手腕と審美感に興味を覚え、この山下敦弘という監督の作品をもう一つ知っておこうと、「リンダ リンダ リンダ」も観た。どちらかというと低いテンションの中にせり上がってくる学生生活というわけのわからないものの倦怠感&寂しさのリアリティ、意味ないと言いながらなぜか一生懸命やるニヒリスティックさを帯びた情熱がこの作品のユニークさを作っていて印象深い。主人公の女の子たちは日常の延長を歩いており、出てくる男の子たちも大きくはじけることはない。日韓の人間が交わるという点では共通する同じ2005年公開の「パッチギ!」がとても熱いのに対し、「リンダ リンダ リンダ」はどこか日常という生活地盤と調和する堅く醒めた感じを保っていた。ただし音楽は、練習風景も含めて、熱い。コード進行というものの意義や効果もよく感じさせてくれるところも嬉しいことだった。
(池田康)

追記
「苦役列車」「もらとりあむタマ子」も観る。山下監督は映画界のアンチロマンの旗手だろうか、やさぐれと鬱屈、主要登場人物それぞれの生の底をさまよう陰の質感がじんわりと訴えてくる。
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2018年05月15日

Facebookのこと

このたびFacebookのアカウントを削除した。ある時期からまったくログインしなくなり、5年に一度しか利用しない別荘同然の放ったらかしの状態となっていたのを、ようやく正式に閉ざしたという次第。留守の間に各種の連絡をいただいた方々にはまったく応答せず多大なご迷惑をおかけしたことと、忸怩たる思いであり、まことに申し訳なく、心より陳謝いたしたく存じます。
(池田康)
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2018年05月13日

ペンの効用

図書館で片岡義男著『万年筆インク紙』(晶文社)という本を見つけ、私も万年筆党なので手に取って漫然と読んだ(もっと読むべき重要な本があるだろうにというお叱りの声が聞こえてきそうで恐縮だが)。様々なメーカーの様々なタイプの万年筆にこれまたいろいろなメーカーの文字通り色々な色のインクを入れて試し書きする実験が楽しそうで思わず観客になってしまう。製造中止になったパーカーのウォッシャブル・ブルーのインクをさして重要な理由があるわけでもなく探す話、万年筆による筆記に合ったノートを見つけるべくテストを重ねる話も楽しい(この部分を読んでいて疑問に思ったがなぜ世の中のノートは罫線の幅が7ミリとか8ミリとかえらく狭いのだろう。そんなに小さな文字を書く人が過半数に届くほどたくさんいるのだろうか。10ミリとか12ミリを標準とすればもっと世の中が呼吸容易に暮らしやすくなるような気がするのだが)。黒インクは公用の書類を書くための色であり、個人的使用にはブルーかブルーブラックが望ましいという意見も、そうだろう、そうなるよなとうなずいてしまう。
私も安物ばかりだが数本の万年筆と数種類のインクを使って書きものをする。インクで言えば、ブルーはパイロット、ブルーブラックはパーカー、黒はプラチナを使うという節操のなさ(セーラーの「青墨」というすぐれもののインクも所持しています)。ほかに推敲をするときの赤は冬柿という名のパイロットのインク。たまに気分によってはエルバンの紫(ヴィオレット・パンセ)やペリカンのターコイズ(水色ぽく明るい青)で遊んだりする。
なにを書くかというと、手紙や葉書ももちろん書くが、最近はメールが多用されるから郵便で出す必要や機会は少なくなっている。だから主には詩や散文作品の下書きのためだ。紙とペンを使っての下書きをせずに直接パソコンに向かう方も多いだろうが、私はペンによる下書きの作業が好きだし、この作業があった方がよいという意見だ。頭の中→紙の上→パソコンのモニター→プリントアウト、というふうに制作の段階が多くなるほど、一つの段階からもう一つの段階へと移行するタイミングで考える機会が多くなり、ちがった視点が得られ、いい方向や面白い形に変化する可能性が増えると思うわけだ。それで紙切れやノートに下書きをするのだが、下書きと言ってもできるだけ本気で書きたいから、万年筆を使う。万年筆常用者にとって鉛筆やボールペンは本気度が下がるのだ。というわけで、ちょっと万年筆の宣伝ぽくなるが、たくさん下書きがなされより多くペンが使われることを願ってやまない。
(池田康)

追記
私がよく使うノートは5ミリ方眼のものだが、この罫の良さは縦書きにも横書きにも使えるところだから、表紙も左右どちら側から使っても立派な表紙になるように工夫してほしいもの。セブンイレブンで売っている、コクヨ製造のA5判のノートはなかなか良いように思う。
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2018年05月04日

詩素4号

siso04.jpg詩素4号が完成した。今号の参加者は、海埜今日子、小島きみ子、酒見直子、沢聖子、菅井敏文、大家正志、たなかあきみつ、南原充士、二条千河、野田新五、八覚正大、平井達也、平野晴子、南川優子、八重洋一郎、山中真知子、山本萠、吉田義昭のみなさんと、小生。〈まれびと〉には山田兼士さんをお招きした。巻頭トップは、南川優子さんの「夏」。定価500円。洪水企画までご注文下さい。
http://www.kozui.net/siso.html
(池田康)
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2018年05月02日

小栗康平の場の論理

前項で、石田尚志さんがイギリスに渡ってその地特有の赤や青や黄色を見つけて風土につながることによって作品制作ができるようになったというエピソードを紹介したが、小栗康平著『じっとしている唄』(白水社)にもそれに通じるようなことが説かれている。「泥の河」「眠る男」などで有名なこの映画監督は、「場」というキーワードを提示して、これを中心に放射状に思考をめぐらす。
「映画にとって「場」というものは、人物と同等に、あるいはそれ以上に表現の核心なのだと、私は考える。俳優さんを見て、ストーリーを楽しむ、だけではじつにもったいないのである」
頭脳、言葉のレベルでの構築では、表面的な、上滑りの作品になりやすい。その傾向に逆らうためには、場に立つ、場をつかむ、場の文脈に連なる、という、いわば身体の腰を据えての位置取りが大事だ、と考える。それは、ある地域特有の色彩を発見するという風土との出会いともつながることだ。この「場」の重要性の主張は著者の「近代批判」でもあり、モダンな思考法が忘れがち、見落しがちな生存の要所、生きられる時間のコアを注意深く見定めようという配慮から来ているように思われる。
「もの、あるいは人がそこに在ることそのものを描写しているかといえば、そんな強さをもった映画などめったにあるものではない。映画は喋り言葉をそこにもち、時間と動きをもつ。物語られることで、具象が具象のままにありつづけることはむずかしい。なにがしかの観念がもちこまれて、具象が変容する」
つまり映画は物語の動向・展開(言葉で説明できること)に目が行きがちで、そうすると「在ることそのもの」、被写対象の核を取り逃がしてしまうことになる。横に広がる構図ではなく縦の構図を大事にするという言い方もされる。横の広がりは物語のシーンのにぎやかさをもたらすが、縦の意識は画そのものの重さ、真摯さを促進するのだろう。歌でいえば肚から出る歌声にあたるか。
映画作品は作り物、フィクションであるから現実とは離れているのだけれど、全くの空中楼閣では脆弱な作品世界しか創れない。それを強靭なものたらしめるためには、場、風土、日々の日常とのなんらかの(細いかもしれないが)確固としたつながりの上に立つことが必要となる。
「映画は演劇とはちがって、ただの人為、人工そのままでは、生身の役者が生きていける時間が生まれてこない。自然のかけらでもいいから、画像に入ってくれないと、映画としての「場」が現われない」と語られる。ただ、なんでもいいというわけではなくて、あるべき「場」をひらく鍵になるようななにか強いもの、決定的なリンクを発見しそれを介することが重要のような気もする。それは運河や道や樹といった舞台の中心となるものの場合もあれば、もっとささやかな形象の場合もあるだろう。
石田氏の色の話に近似する叙述としては、アルメニアの首都エレバンについてこんなことが書かれている。
「街はうつくしい。どの建物も外壁が凝灰岩といわれる柔らかな石でできていて、この石の色がなんともいいのである。薄い赤、というよりもっと薄い赤紫、石によってそれぞれの濃淡があり、それが朝、昼、暮れぎわ、夜と、ときどきの光とともに表情を変えて行く。水彩のようでもありパステルのようでもある。薔薇の花にこんな色があっただろうか」色が地域の空気感を具体的に作り、場のアイデンティティを確立する重要な要素となる、そんな一例だ。
なお、この本のタイトルは、陶芸家・河井寛次郎の「形はじつとしてゐる唄、飛んでゐながらじつとしてゐる鳥、」という言葉から取ったということだ。
(池田康)
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2018年04月29日

野村喜和夫×石田尚志 対談

IMG_6490.JPG昨日午後、詩とダンスのミュージアム(世田谷区)にて、エルスール財団と洪水企画の共催で、野村喜和夫・石田尚志両氏の対談イベントが行われた。石田氏は現代美術分野での映像作家としての創作(抽象アニメーション)が最もメインになっているとのことで、作品上映も行った。その準備が大変だったようで、石田さんの家はミュージアムから近いところにあることもあり、映写機やアンプといった機材を自ら運んできて、スクリーンもホワイトボードの上に手作りした大きなキャンバスを重ねてうまく映るようにするなど、もしかしたら本番よりも事前の準備の方が大変だったのではないかと心配してしまった。
「部屋/形態」など三作が上映される。どれも5分〜10分ほどの短いものだが、制作法は描画の生成の過程を一コマ一コマ撮影するという気の遠くなるやり方で、何ヵ月もかけての忍耐強い作業の結晶がこれかと思うと、眼が強く緊張する。沖縄で出会った吉増剛造氏とのやりとりで映像に開眼したとか、イギリスに渡りその地特有の「赤・青・黄」を発見し風土につながることによって制作作業を始めることができたとか、音楽を描きたいという根本の願望とか、ご本人によって語られるヒントも作品と対面する良い手掛かりとなった。具体的な物象をつかっての抽象的構成が、恐怖、不安、恍惚、欲情、歓喜、眩惑、等々さまざまな感情を喚起する、動く絵の摩訶不思議の楽しさと魔境。
野村さんによる“座標軸”の形がここにあるという慧眼の指摘など、ご両人の間で石田作品をめぐって縦横に議論が交わされた、その様子については「みらいらん」次号(7月刊行予定)にこの対談を収録する予定なので、是非ご覧いただきたい。
(池田康)
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2018年04月23日

変身の驚異

仮面ライダーではないが変身という所作は心が踊る。新聞記者がスーパーマンになったり、お嬢様が夜の女になったり、ピッチャーが四番バッターになったり、しがない工員がダンスチャンピオンになったり、金持ちの男が毒虫になったり、映画やドラマの世界ではさまざまな華麗な変身を見せて観客を驚かせ喜ばせる。フィクションに赴くまでもなく、蛹が蝶になるとか、蕾が花となるとか、水蒸気が雪になるとか、自然界にも無数の変身譚がある。自然と人間の生活が接する面でも数多の変身が遂げられてわれわれの生活を彩っているのであり、楮が紙になる、馬の毛が筆になる、牛の舌が料理の主役になる、オリーブが油になる、海亀の甲羅が櫛になる、鰐の皮が財布になる、水牛の角が印鑑になる、鳥の羽毛が布団になる、狐の毛皮がマフラーになる、土が皿になる、孔雀石が絵具になる……これらも密かな華麗な変身と言えるだろう。こんなことを書いてみたのは、貝からできた釦がごく普通にあることを知ったからで、そう知った上で眺めてみるとなるほどプラスチック製とは艶が違っており、この繊細で高貴な艶の中に海の伝説が隠れていると思うと、小さな釦でも愛しく思えてくる。綿からできたコットン生地に貝の釦がついた服を着ていると一見当り前の恰好なのだが自分もさりげなく変身しているような気がしてくるのだ。
(池田康)
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