2017年11月19日

「リュミエール!」

「リュミエール!」はフランスのルイ&オーギュスト・リュミエール兄弟が19世紀から20世紀への端境期に自ら発明した〈シネマトグラフ〉で撮った1422本もの掌編映像作品から108本を選んで編集し90分にまとめたもの。当時は1本50秒しか撮れなかったので、短歌のような一口サイズの作品で、その限界が生み出す独特の味がある。消防馬車、蒸気機関車、子供曲芸団、水泳や登山、鉄球遊び、油田火災、カメラを動かしてのパノラマ撮影、大きな船の進水式、洗濯女、自転車、子供の表情、コメディ寸劇など題材は多岐にわたり、当時のフランスの生活風景がよくわかる。エジプト、メキシコ、ベトナム、中国や日本など世界各地に赴いての撮影も好奇心が動いていて面白い。ナレーションが構図の良さを力説していたがなるほどたしかにと納得する、絵心とエンタテイナー気質を具えた撮影者たちだ。ファインダーもなかったとのことで、それでこんなに上手に撮れるのかと驚く。サン=サーンスの音楽も柔らかくしなやかで、合理主義を眠りに誘うような曲線の蠱惑があり心地よい。映画の元祖の称号をめぐるエジソンとの確執もあったようだが(それをテーマにして笑いのめした一編もあった)、映画史の原点を確かめる驚異(百二十年前に初めて映画を目にした人々のそれに通じる)と意義深さはしかと感じられた。監督と編集はティエリー・フレモー(カンヌ国際映画祭のエラい人らしい)。
この映画は先日横浜のシネマ・ジャック&ベティで見たのだが、そこでそう言えばと思い出し、この映画館発行の映画雑誌『ジャックと豆の木』2号を購入した。前に作曲家の佐藤聰明さんがこの雑誌のインタビューを受けたと話しておられた記事がこの号に載っていたので。映画作品のきらびやかな面よりも、映画館事情など、産業を成立させている日陰の部分にも目を向けているのが特色か、「映画と映画館の本」という副題もついている。現在4号まで出ているらしいが、この2号には佐藤さんのインタビューの他に、ATG映画特集(佐藤忠男×篠田正浩の対談ほか。さほど遠くない過去に制作費一千万円で歴史に残る名作映画を作っていた時代があったのだ!?)とか、杉野希妃インタビューとか、ドキュメンタリー映画についての座談会とか、横浜のミニシアターの紹介などなどの記事が載っている。カラーページもふんだんにある立派な作りで、多く掲載されている映画のポスター、ちらし、パンフレットの魅力が目を引く。
(池田康)
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2017年11月13日

音の劇場をさまよう ...gray sound storm...

この秋公開の「ブレードランナー2049」は劇場で観るのがよい。音楽・音響の凄まじさ、はるか遠くから包み込んで身体の全細胞を襲い酸性雨のようにグレーの音を染み込ませてくる猛威を体感するにはスクリーンの前に行くしかない。DVDでは無理だろう。この映画作品でなにが一番「仕事をしている」かというと、脚本や美術と並んで音楽・音響なのではないかとさえ思う。たしかに主人公Kは“悪い冗談”に弄ばれいくつもの試練をくぐるし、老デッカードは殴られたり爆発に吹き飛ばされたり水に沈んだりの憂き目をけなげに耐えているが、巨大な盤上の小さな駒のように見える。日常では味わえない音響の渦に飲み込まれる2時間40分は聴覚的にすごぶる濃く、大空間を構築する一種シアターピース的な音楽作品として「聴く」ことができるのではないか。SF小説やSF映画があるようにSF音楽というものもありうるのだろうか。最近は音で攻めてくる映画が多いような気もするのだが、音楽や音がここまでフィクションの天地をつくるなら、今後、ワーグナーのように、音楽家が主導的立場に立って映画作品を制作するということもあるのかもしれない。
(池田康)
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2017年11月08日

風土的アナキスト

このあいだNHKFMの土曜朝の番組(ピーター・バラカン/ウィークエンドサンシャイン)で、高知在住のブルースシンガーの藤島晃一が紹介されていて、その歌がかもす独特のアナーキーな気分に触れ、大家正志さんが「詩素」に発表している詩が帯びるアナーキーな感じとどこか通じているとふと思った。大家さんも高知だ。同じく高知出身の嶋岡晨さんの詩にも時折同じような虚とむつぶアナーキーさを味わうときがある。「高知アナーキズム」とでも言うべき風土的なアナーキー性が存在するのだろうか。もちろんアナーキーといっても特に政治的なそれではなく感受性レベルでのことだが。大家さんによれば故片岡文雄も藤島晃一を贔屓にしていたそうだ。
一ヶ月か二ヶ月前にNHKBSのフォークソング特集番組で沖縄の佐渡山豊の歌を聴くことができ、ロックバンド仕様の演奏だったが、今時の若者のバンドにはない剥き出しの気迫があり、荒々しい風を引き連れた、裸の精神の独立独歩を主張する力強いものだった。統一システムとしての国(とあえて無造作に言ってしまうが)の中心からはるか離れた地では人工的ではない天然のアナーキーな気風が生ずるのかもしれない。
魂の原郷は変なものによって占領されることなくアナーキー風が吹き荒んでいるのがあらまほしき様態なのだろうとも思う。
(この話の流れで言及していいのかどうかわからないが、木村充揮(憂歌団)もちょっと似たような雰囲気があり、何ヶ月か前にやはりNHKFMの番組(赤坂泰彦/ラジオマンジャック)の中でライブで歌を披露していたが腸に噛みつかれるような感じがした)
(池田康)
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2017年11月06日

三尾みつ子詩集『花式図』

mio-kasikizu.jpg三尾みつ子さんの詩集『花式図』が洪水企画から出た(1800円+税)。「花式図」とは花の構造を表すシンプルな線描の絵図で、紋様のような魅力もある。タイトル作は子供のころ生物の先生からそれを習ったという体験を語っている。ほかに、家族の詩、友人や恩師の詩、今の生活の経験をもとにした詩などを収める。三尾さんの詩の特徴は、レトリック的な飾りを最小限に留めたさりげない寡黙な語り口で、それが逆に読者に訴える力になっているように思われる。帯には「詩はひたすらに静かであっていいと詩人は考える。飾りを不要とするシンプルな佇まいの中に固有の生の哀歓がこまやかに彫琢され、鎮まることの凄みが楚々としかし不屈に底光りしている。」と記した。合唱を長くやっておられるそうで、声を荒げない美学が人となりを作るところまでいっているのかもしれない、どの詩にも独特の沈黙の表情が感じられる。収録作品のなかで風変わりな強い印象を残すのが「まんなかをあるいていた」で、これを代表とするのがこの詩集の紹介としてふさわしいかは分からないが、以下に引用したい。

 マツ子とタケ子は双子の姉妹です
 わたしが二人と遊ぶのを大人は感心しません
 秋の農繁休み
 三人で
 営林署の作業場にいきました
 午後の陽は心地よく
 マツ子 わたし タケ子
 ゴンネ山の裾野の軽便道を
 谷川の瀬音を聞きながらあるきました
 作業場のおじさんと
 二人は顔見知りのようで
 ──おざきせんせいのこだよ
 二人同時に言いました
 おじさんは驚き
 キャラメルを一箱くれました
 三等分し
 一粒ずつ食べながら
 マツ子 わたし タケ子
 谷川の瀬音を聞きながらかえりました
 夕飯の時は何も話しません
 もしも話したら
 二人の様子を
 作業場の場所を
 日暮れまでに帰れなかったらどうしたのかを
 母はうるさく聞くだろう
 まんなかをあるいていた
 マツ子とタケ子のまんなかにいた
 わたしが母に言いたかったのは
 ただそれだけだったのです

(池田康)
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2017年11月05日

詩と音楽の対話の意外性にみちた隘路

IMG_6153.JPG昨日、洪水企画も共催に加わった、野村喜和夫・篠田昌伸両氏の対談イベント「〈詩と音楽のあいだ〉をめぐって」が、詩とダンスのミュージアム(世田谷)で行われ、20名を超える聴衆の方々に参加いただいた。篠田さんは最先端の現代詩をテキストにして合唱曲などを作曲することが多く、あえて意図的に他人があまりやらないことをやっているそうで、これまで朝吹亮二、平田俊子、廿楽順治、野木京子、渡辺玄英などといった数々の詩人の作品に取り組んできた。野村さんの詩は「街の衣のいちまい下の虹は蛇だ」「平安ステークス」の二作を取り上げていて、今年三作目として新作「この世の果ての代数学」を12月に発表することになっている(これも奇天烈なテキストだ)。今回の会では過去二作の冒頭部分をCDで聴き、野村さんの朗読もまじえて、創作の内実、詩との接し方、どういうポイントで詩を選ぶかなどについて語られた。「なんでこんな変な詩を取り上げるのでしょう」という作者自身の素直な疑問を、野村氏の朗読を通して会場に集った全員も共有したわけだが、篠田氏はそのときどきに作曲しやすいと感じた詩を取り上げるだけで、わかりやすい素朴な抒情詩が必ずしも音楽化しやすいわけではないと語る。詩を受信するアンテナがユニークに鋭敏なのだろう。「平安ステークス」では平安遷都のモチーフと競馬のモチーフが解きほぐしがたく織り合わされているのだが、音楽化されるとそれがきれいなポリフォニーの中にみごとに立体化されて驚いたと語る野村さんの言葉は、詩が音楽化されるときのもっとも幸福なケースを証明しているように思われた。「街の衣のいちまい下の虹は蛇だ」もそうだが、洗練されたきれいな音楽の織物となっているところと言葉のごつごつした顔が岩場のように顔を出すところとの対照が印象的に構成されているように思われ、しかも篠田氏の音楽構築のロジックは非常にしっかりしたものがあり、それぞれ曲のごく一部、5分ほどしか試聴できなかったが可能なら全部聴きたいという気がした。
そしてサプライズゲストとして四元康祐さんが登場(ドイツ在住だが静岡での連詩の催しのため来日されたとのこと)。四元さんの詩「言語ジャック」が篠田さんの手で今年音楽化されたばかり。それも踏まえて、現代詩テキストに対してより幅広い、クラシックの上品さを超えた生命感ある表現を演奏者に望みたいという趣旨のことを語った。
その「言語ジャック」は12月14日の東京混声合唱団の定期演奏会(東京文化会館小ホール)で再演される。また野村作品「この世の果ての代数学」は12月24日に女声合唱団暁の第10回演奏会(JTアートホールアフィニス)にて初演される予定。ぜひ足を運んでいただきたい。
(池田康)

追記
当日の録音データを聞き返してみると、上の記述がすこし不正確なのがわかった。大筋では間違っていないのだが、私の記憶のずぼらさから打ち合せや二次会で話されたことがまじり込んでいるらしいのだ。本番のトークだけを聴いた人はこことあそこは違うと指摘するかもしれない、恐縮です。
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2017年11月03日

道順あんない

いよいよ明日、野村喜和夫・篠田昌伸両氏の対談イベントが「詩とダンスのミュージアム」で開かれる(10月7日の項を参照)。初めて行く方のために、道順案内を試みたい。
京王井の頭線の新代田駅を出ると環七通りで、正面に信号があるのでそれを渡って向こう側に移り、右の方へ歩いてゆく。150メートルほど行くとガソリンスタンドがあり、それを過ぎたところの角を左に曲がり細い道を進んでゆく。童謡をひとつ歌い終わらないうちに左側にミュージアムが見つかります。
以前、神品芳夫さんのインタビューをしに御宅にうかがったとき、こんなふうに言葉での道順説明をもらって、とてもわかりやすく感動したので、真似てみたという次第です。
もう一度復習すると、駅正面の信号を渡り、右方向へ進み、ガソリンスタンドを過ぎたところを左折、百歩歩けば到着、以上です。無事辿りついていただけることを祈っております。
(池田康)
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2017年11月01日

野村喜和夫詩集『デジャヴュ街道』

野村喜和夫さんとは、11月4日に対談イベント(作曲家の篠田昌伸さんと野村さんとの。このブログの10月7日の項を参照)を共催する計画があって近ごろよくお話しする機会があり、このイベントで話題になるだろう、篠田さんが野村作品のテキストに作曲した三曲のうちの一つが詩集『街の衣のいちまい下の虹は蛇だ』(河出書房新社、240頁!)を題材にしているということなので、この詩集も最近読んだのだが、野村喜和夫という詩人は、詩の可能性についての考え深さや果敢にエロスの道を拓く四通八達の感性・志向は別にしても、言語エンジンが高性能で、統御力、駆動力、空間構築力が並外れているという印象が強くする。作り出される作品の柄の大きさは、あたかも巨大な建築を目の当たりにするようで、驚愕とともに茫然と見上げ、踏み込めば内部の迷宮に酔うことになる。
さて、今年六月に刊行された詩集『デジャヴュ街道』(思潮社、232頁!)だが、空に道が見えたという二十代の幻視に起源を持ち、その十数年後に「デジャヴュ街道」という詩が生まれ、さらに五十代の旅先で「空いちめんに多数多様な道の浮かび上がるのがみえた」という経験があって今度の詩集に収められた作品群が誕生してきたということらしい。直接うかがったところによると、金子光晴の足跡をたどるアジア各地への紀行が発想のベースにあるそうだ。どの作品も強靭なリズム、狼藉を働くとでも言いたくなる無法の生命の荒々しさでつねに躍動している。音楽的、と評したい面も多分にあり、ことに「炎熱街道」にはそれを強く感じ、書かれながら同時に作曲もなされているかのようで、この詩なら素人の私でも一晩で作曲できるのではないかとさえ思った。ランボーとともにニーチェへの言及的示唆も目立つのは、この詩の旅は生の価値の極限を問う旅だという意識があるからだろうか。
もう一篇、忘れ難いのは本の最終章にある「エデンホテル」だ。今年の名古屋での中日詩賞授賞式に訳あって参加することになったのだが、その中の講演の講師が野村さんで、一時間にわたってこの詩篇「エデンホテル」の成り立ちを説明するという話の構成だったので、作者の補足説明を含めたっぷりと深くこのテキストを読んだ気分になったのだった。イスラエルのガラリヤ湖の近くのホテルに泊まった実体験を元に書かれたとのことだが、前に進む旅ではなく省察が深く沈潜していくようで、現代の精神的荒廃も描写に刻印され、この詩集中の位置付けにおいても「旅の果て」の、最終的に生の意味を問う場所をなしているような印象がある。一部を引用する。

 エデンホテルに、ひとはだから、長くとどまるべきではない、
 地の底に沈み込むような、劣悪なベッドのうえで、
 数泊もしないうちに、私たちは、
 いうなれば、生の基底にまでふれてしまう、
 するとあらゆる言葉を、たとえ睦言であっても、
 遠く、湖を越えてゆく音のように聴く、

 「わたしが死ぬときには、蠅が窓から入ってきて、
 ぶーんと、暗い唸りをあげるの」

 心の内奥などというものは、もはや自律的には、
 蠅である、したがって滞在とは、
 私たちがすでに、使い回された実在であると知ること、
 にひとしい、イヴよ、
 たまらなくひとしい、
   (「エデンホテル」より。括弧内はエミリー・ディキンソンの引用)

(池田康)
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2017年10月31日

作曲家の個展II 2017 一柳慧・湯浅譲二

サントリーホールにて開催された上記のコンサートを、昨日、人類学者の川田順造さんのお誘いとお計らいで聴くことができた。東京都交響楽団、杉山洋一指揮。ソリストは、木村かをり(Pf)、児玉桃(Pf)、成田達輝(Vn)、堤剛(Vc)。
曲目は、湯浅譲二作品が「ピアノ・コンチェルティーノ」(1994)、「クロノプラスティック II」(1999/2000)。前者はペールというか少し暗い色合いの響きに惹かれた。コンチェルティーノと聞くと明るい小品というイメージを安易に抱いてしまうが、その裏を行くような独特の重たさのある曲調で、プログラム解説にはショパン云々の記述もあったが、打楽器的なピアノの使い方も印象に残った。「クロノプラスティック II」は湯浅さんが若いころ強い影響を受けたエドガー・ヴァレーズへの讃美の曲で、湯浅さん独自の音の造型の至芸が顕現する。湯浅譲二という作曲家は(大多数の作曲家のように)単純な足し算だけでなく特別の演算を用いて音を綴るのだというのが私の持論だが(それがシュルレアリスティックにも聴こえるわけだが)、この曲もまさにそんな特徴が出ていて、瞬間から瞬間へなにがどう動くか、精妙に変幻するかわからないアモルファスな発展の軌跡をどきどきしながら聴いていた。たまたま二日前に下北沢の本屋B&Bでポール・ウィリアムズ著『フェリップ・K・ディックの世界』(河出書房新社)を手に入れていたのだが、ディックの小説もフィクションの枠組み自体がきしみ捻れていく感覚がある、それに似ていると言えるのかどうかわからないけれど、湯浅作品も尋常な音楽進行を超えた不思議に生命的な形態変化をしていく。それがタイトル「クロノプラスティック」の意味するところでもあるのだろう、一様でない時間進行の創造という……。
未完成の新作「ローカス・オブ・ジ・オーケストラ」の冒頭二分ほどの断片も演奏され、これも印象鮮烈だった。本当はこのコンサートではこの新作が演奏されるはずだったのだが、今年前半の病気のため完成させるのが不可能となり、「クロノプラスティック II」が演奏されたのだった。新作の継続制作と完成を期待したい。
一方、一柳慧作品は「ピアノ協奏曲第三番〈分水嶺〉」(1991)、「ヴァイオリンとチェロのための二重協奏曲」(2017、世界初演)の2曲。どちらも緻密に巧みに大小の枝ぶりよく組み上げられているように聴こえた。ジョン・ケージなどの影響を受け前衛をひたすら追求した若いころに比べて歳をとってからは自由に自然体で作曲するようになってきているとのことだったが、一柳慧初心者としては若いころの代表作、たとえば「ピアノ・メディア」なども同じステージで聴かせてもらって、そのライフキャリアを通じての大きな変化を知りたい気もした。しかしサントリーホールにこの日集った現代音楽通の聴衆はそんなことはイロハのイ、周知の基礎知識なのだろう。
これは川田さんから教示を受けたことだが、一柳さんは朝日新聞に今年6月19日から15回にわたって自伝的インタビュー記事(語る─人生の贈りもの─)を連載している。
(池田康)
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2017年10月29日

『白石かずこ詩集成』出版記念会、『中原中也』刊行記念イベント

20171028siraisi.JPG昨日、詩人の白石かずこさんの『白石かずこ詩集成 I 』と『Sea, Land, Shadow』の出版記念会が第一ホテル東京(新橋)で開かれた。前者の本は書肆山田からの刊行で全三巻、今回の「I」は名高い『聖なる淫者の季節』も含み、第一詩集『卵のふる街』から第七詩集『紅葉する炎の15人の兄弟日本列島に休息すれば』までと初期の詩集未収録詩篇を収める。612頁、5500円+税(この種の全詩集の本としては手を伸ばしやすい有難い価格設定だろう)。「II」は来年2月、「III」は来年5月刊行予定とのこと。今は入手困難な詩集も多く、この詩人に深い関心をもつ人にとっては必携の書だろう。後者の本はニューヨークの出版社New Directions社から刊行された、第四冊目の英訳詩集。タイトル作「海・陸・影」は2011年に書かれた、大震災にちなんだ長い詩で、この日もサックスの梅津和時さんの演奏とともに力強く朗読された。生命の高い波立ち、真直ぐで強い精神力は健在。司会は高橋睦郎氏で、時代を共に歩いてきた詩人たち、親しく交わった友人たちが祝いのスピーチを披露した。なかでも、自分はテキストに全力集中する碑(いしぶみ)派だが白石さんはパフォーマンス派の巨頭だという安藤元雄さんの話は詩人のあり方を考える上で示唆に富むものだった。

会終了後、佐々木幹郎さんに誘われ、下北沢の本屋B&Bへ。この夜ここで佐々木さんの新著『中原中也 沈黙の音楽』(岩波新書)の刊行を記念しての、佐々木さんと蜂飼耳さんの公開対談が開催されることになっていたのだった。本書中でも多くの紙数を費やして読解されている「サーカス」について、あれやこれやの視点から熱く討論され、描かれるイメージの現実の枠組みをこえた抽象度の高さが指摘されたのだが、そこでなぜかパウル・クレーの絵が連想された(クレーの作品も音楽性豊かだ)。さらにこの詩が音楽化された2ヴァージョン、すなわち小室等フォークソング作品と合唱オペラ「中也!」(佐々木幹郎・台本、西村朗・作曲)中の該当部分を聴き比べるという興味深いアプローチもなされ、この夜のハイライトの時間をつくった。中也関係の写真資料をスライドで映しながらの話も種がつきず、2時間では短すぎる、夜を徹してやってほしいという声もあった。総じて、中原中也の詩の音楽性という点にすべてが収斂していく構図は本の主旨と合致し、なにをどう考えていっても草野心平のいうところの「幼子の歌心」につながっていくという趣があった。
このB&B(bookとbeerと、という意味らしい)という本屋は裏通りの目立たないところの2階にある小さいスペースの店だが、品揃えは瞠目すべきもので、棚を眺めながら店内を歩いているだけで精神が清々しく刷新される思いがする、おみごとの仕事ぶり、店主の寺島さんの眼力がしのばれる。この晩のようなイベントも頻繁に行われているようで、是非一度訪れていただきたい。
(池田康)
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2017年10月27日

しかし満天の星だった

昨日は夕方に山本萠さんの個展を訪れる。詩人だが絵も書も創作する方で毎年自作の絵と詩のフレーズを配したカレンダーを作る、その2017年版原画展。今年はクレパス画で、少女?を描いて印象的な「青衣のひと」はもう売約済の印が打ってあった。山本さんは「詩素」にも参加しているので、できたばかりの3号の話をいろいろとする。会場のNMCギャラリーは小川駅から徒歩数分のところにあるが、この小川駅は国分寺駅から西武国分寺線で三駅目。この界隈は初めて来る。関東圏は広いから五十年住んだとしてもまだ知らない場所がたくさんあるのだろう。会期は今月31日まで。
この夜は次に、杉並公会堂小ホールで開かれた、「洪水」20号でインタビューしたパーカッショニストの會田瑞樹さんのソロリサイタルを聴く。多彩な性格の七曲を混乱なく冷静にあざやかに弾き分け、曲間のステージ準備もすべて自分一人でやるという若々しさ。プログラムは、山根明季子「glittering pattern #2」(単純な方法による差異の創出)、清水一徹「Camera obscura」(ノイズを混ぜ込む果敢さ)、稲森安太己「Blumenstrauss ~花束~」(撥で花束を作るパフォーマンスに呆気にとられる)、薮田翔一「Billow II」(勢いあり)、権代敦彦「光のヴァイブレーション」(音楽の意志の強靭な重さはこの演奏会随一)。そして湯浅譲二「ヴァイブ・ローカス」と間宮芳生「Music for Vibraphone and Marimba」は大ベテランらしい、バランスのとれた中での、細やかな芸の組織化で、前者はヴァイオリンの弓で鍵盤をこすって音を出す始まりが印象的、後者は岐阜の民謡「雨乞歌」を題材にしていた。
帰り道、最寄り駅から家へ原付を走らせていたら途中で故障、止まってしまい、残りの長い道のりを引いて歩かなければならなかった。とんだ災難。身体がたがた。しかし満天の星、ここ数十年見ることのなかった、無数の星が光るみごとな夜空だった。
(池田康)
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2017年10月26日

「詩素」3号

siso3cover.jpg「詩素」3号が完成した。今号の参加者は、海埜今日子、小島きみ子、坂多瑩子、酒見直子、沢聖子、菅井敏文、大家正志、たなかあきみつ、南原充士、二条千河、野田新五、八覚正大、平井達也、平野晴子、南川優子、山中真知子、山本萠、吉田義昭のみなさんと、小生。座談会ゲストに甲田四郎、長嶋南子の両氏、〈まれびと〉に嶋岡晨さんをお迎えした。巻頭トップは小島きみ子さんの「(五百回忌のbaby blue)」。定価500円。洪水企画までご注文下さい。
(池田康)
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2017年10月18日

高橋アキ/ピアノリサイタル2017

上記演奏会を昨日、豊洲シビックセンターホールにて聴いた。曲目は、シューベルト「12のドイツ舞曲」「3つのピアノ曲(即興曲・遺作)」、モートン・フェルドマン「ピアノ」、尹伊桑「インタールディウムA」。
シューベルトの即興曲は、出だしのドラマティックな部分がとても印象的だが、三曲とも構成が思慮深く工夫を凝らしていて、そこを比較的ちゃんと聴けたように感じられ嬉しかった。たとえば二曲目は、上機嫌で上品な調べで始まり、不機嫌な曲調に転じ激しく荒れ、奇妙な悲しみの情調が来て、また冒頭の気品を帯びた調べが帰ってきて、といった具合に短い曲ながら多様な構成要素が入り組んだ形でできている。一曲目も、裏打ちが特徴的な三曲目もそう。
フェルドマン「ピアノ」は、この作曲家らしい、ぽつんぽつんという音のいたって不規則な布置が長時間続く曲。聴覚に広がる宇宙空間の隅々にまで自分が必要と感じる数の星を象嵌しないうちはやまないという責任感?あるいは追求心?がずしんと居座るのが感じられる。作曲家には星座とその物語まで見えているのかもしれない。「五線を六段使って、3つのパートが同時進行する箇所もある」とチラシの曲目解説には書かれている。
尹伊桑「インタールディウムA」は作曲家がこのピアニストに献呈した曲とのことで、重低音の強烈な響きで始まり、クライマックスの部分は超絶技巧的に両手が動き、寄せてくる音の大波が三次元のあらゆる方向に刻々微妙に形を変える一連。難曲にちがいないが聴きごたえ、いや浴びごたえがある。タイトルの「A」とは「Aki」のことでもあり、主要音「A」のことでもあるとの説明。作曲家によれば「情熱の嵐と繊細な愛情」が表現されているという。
このホールのピアノはファツィオリ(Fazioli)というイタリアのメーカーのもので、きらびやかな韻きがし、細く鋭い音の線を引くように思った。音像が繊細明晰で、とくに後半のフェルドマン、尹伊桑の曲では音数の少ないところなど周波数までわかりそうなくらいクリアに、しかし高貴な美しさで聴こえた。倍音の整理の仕方に独特なものがあるのだろうか。
このホールのステージの背後の壁はガラスになっていて外が眺められるようで、薄いカーテンが引いてあったが周囲のビルの光などが入ってきていて驚きだった。
さて高橋アキさんは6月にビートルズの曲をいろんな作曲家がアレンジした『高橋アキ|プレイズ|ハイパー・ビートルズ』というCDを出している。1990年頃のプロジェクトの再録音とのこと。収録曲は「ノルウェーの森」、「ゴールデン・スランバー」、「ミシェル」など15曲。幅広い音楽の芸が楽しめる。
(池田康)
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2017年10月07日

対談イベント 野村喜和夫×篠田昌伸

地面にどんぐりが転がる季節となりましたがみなさまご健勝でおすごしでしょうか。さて先日予告しました対談企画の詳細を告知いたします。お気軽にご参加いただければ幸いです。

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洪水企画&エルスール財団共同企画トークイベント
野村喜和夫とアーティストたち@
野村喜和夫×篠田昌伸
〈詩と音楽のあいだ〉をめぐって

野村喜和夫の『街の衣のいちまい下の虹は蛇だ』をはじめ、しばしば現代詩を作曲に取り上げる作曲家篠田昌伸氏を迎え、「詩と音楽のあいだ」をめぐって、また両者のコラボレーションの可能性について、語り合います。

日時:2017年11月4日(土曜日)
15:00〜17:00 (14:30開場)
場所:ブックカフェ「エル・スール」(詩とダンスのミュージアム内)
(世田谷区羽根木1−5−10)
入場料:2500円(+1drink order)
申し込み方法:メールまたは電話で。
エルスール財団
03−3325−5668
info@elsurfoundation.com

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(池田康)
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2017年10月06日

いよいよ激し

「エル」(ポール・バーホーベン監督)という映画が評判になっていたので秋口に観たのだが、異常な性の領域に思い切って踏み込んでいることに肝を潰すと同時に、老境の監督がこうした過激にSEX極に傾いた作品を撮った例としてスタンリー・キューブリックの「アイズ・ワイド・シャット」が思い浮かび、一つの傾向が太く存在するのだろうかと考えた。鈴木清順の「ツィゴイネルワイゼン」以下三部作も幻想的性愛の海に腰まで浸かっていて、それ以前の作品とやや違う。年を取ることで箍がうまい具合に自然に外れ、品行方正や良識なるものに頓着しなくなり、欲望の赴く果てを見てみたいと思うようになるのか。
そういえばと、読みそこねていたのを今回読んだのだが、谷崎潤一郎の激辛な「鍵」や奇矯至極の「瘋癲老人日記」もすさまじい(描き込まれている昭和三十年代前半の風俗・生活文化も面白い)。ほどよく枯れて石庭的境地に至る老境も望ましいのかもしれないが、人間精神が最後のメタモルフォシスを果して虹色に炸裂する最晩年も甚だ刺激的だ。
この春から秋にかけてテレビドラマ「やすらぎの郷」(倉本聰脚本)も世間をにぎわせたが、老いて弱るは当り前すぎて淋しいから、「老いていよいよ激し」を変り種の美徳と考えたい思いがどこかにある。親鸞もあっと驚く潤一郎浄土も二十世紀の文学的発明だ。
(池田康)
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2017年10月02日

杉中雅子歌集『ザ★カ・ゾ・ク II』

thakazoku2.jpg杉中雅子さんの第二歌集『ザ★カ・ゾ・ク II』が洪水企画から刊行された(本体1800円+税)。第一歌集『ザ★カ・ゾ・ク』の内容を引き継ぐという意味でこの命名となった。装幀デザインも色鉛筆をモチーフにしている点が共通する。
第一歌集の流れに沿い、両親、夫、子供たちと孫、祖母、伯母や叔父など家族の人々に対する様々な形の愛情が率直に歌われて短歌として結晶する──それを基軸として、そこにさらに大震災の報道や環境問題や戦争への思いが流れ込んで視野の深化をもたらしており、言葉を通じ、また短歌への愛を通じて家族が世界とつながるという、成熟した歌人の精神の境地がここにはあるように思われる。
「洪水」5号に発表された連作「異空間」が巻頭に置かれていて印象深い。

 茶臼岳にかかれる雲は波たちて吹き来る風はわが肌を刺す
 空中につり下げられし吊橋に命あずけて一歩踏み出す
 吊橋を踏みしめ渡る目交の裸木こぞりてわれにせまり来
 行き違う折しも橋の揺れに揺れ放り出される心地こそすれ
 いつまでも揺れの止まらぬ吊橋に彼岸の母の笑み浮かびくる
 足元の浮き立つ橋にわれありき対岸の滝とうとうと墜つ
 吊橋のすき間より見ゆ渓谷の流れしぶけり岩にくだけて
 橋の揺れにわが身任せる異空間に冬のむら雲張り付きいたり

日常の安穏を離れた不安な心象が映り込んでいる。
家族を詠んだものとしては、

 十二歳に父の買いくれしピアノなり居間の隅にてわれを見守る
 カステラの木箱も古りぬ折ふしに開けて読みおり母からの手紙
 「なあ〜んも、のうなったけん、できたんよ」広島復興を祖母はしみじみ

などがある。三首目は広島の被爆にからんでいてことに印象に残る。
この本はまた、洪水企画が発行だけでなく発売もする第一号の書籍となった(これまでは草場書房に発売をお願いしていた)。そのことも小社としては非常に意義深い。ちなみにISBNは978-4-909385-00-0となっている。
(池田康)
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2017年10月01日

文と音のセッション

昨日の午後、「朗読&音楽パフォーマンス 野村喜和夫×港大尋」に参加した。場所は、世田谷区の〈詩とダンスのミュージアム〉(野村さんがご自宅を改装して作った、ご夫妻の活動の記念館)。二十余名の観客。
野村さんの新詩集『デジャヴュ街道』(思潮社)発刊記念の会ということで、この中から幾篇か朗読し、ギターとパーカッションの港さん(いつもはピアノとのこと)とお仲間のギターのサワさんが音楽をつけるという形。音楽は厳密にはなにか専門的な言い方があるかもしれないが印象をひと言で言うなら、フリージャズをさらにゆったりと開放的にやった感じか。
「アピアピ街道」という詩に出てくる「アピ」とはマレーシア語で「炎の木」の意味だとか、「ウル街道」に出てくる「馬頭」にはフランス語の「バトー」つまり「舟」(ランボーの「酔いどれ舟」から連想)とも意味を重ねているとか、この詩集を読むためのヒントがいろいろと語られ興味深かった。「オルガスムス屋、かく語りき」は読む過程ではさあっと滑るように読んでしまいがちだが、朗読を聴くと(ハード・ロックのアグレシブな演奏を思わせる)情動の発露の迫力に満ちたものだった。
この詩集についてはまた改めて書きたい。
それから、これは計画がほぼ決定になっているので予告するが、来月、作曲家の篠田昌伸さんをこのミュージアムに招いて野村さんと対談をしてもらい、新雑誌「みらいらん」創刊号に収録しようということになった。お二人は野村さんの詩を篠田さんが何作か作曲しているという間柄で新たなコラボ作品の発表も数ヶ月後に控えているそう。詳細が決まったらこの対談イベントについても改めて告知いたします。
(池田康)
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2017年09月26日

佐々木幹郎著『中原中也 沈黙の音楽』

長年にわたり中原中也の研究をしている佐々木幹郎さんの最新リポートとも言えるこの本が岩波新書で出た。最重要ポイントを示すのであろうサブタイトル「沈黙の音楽」については、中也が音楽に接近しなにがしか学びながらも(具体的には諸井三郎たちが構成するスルヤという音楽集団)、彼が生涯にわたり詩に求めた“音楽”は現実の音楽とは違うものであり、その厳しい響きを「曇天」や「雪が降つてゐる……」といった作品に聴き取るよう読者は促される。中也が言葉によって探りcomposeした「無言の「歌」そのもの」、「究極の「歌」」を聴き取ることが中也の詩を読むにあたって重要となるという主張がこの一書のすべての頁に込められているのだろう。
その他、代表作「朝の歌」や「サーカス」等のきめ細かい読解や、二つの詩集の成立過程の考察、「島田清次郎ブーム」に影響された天才主義、富永太郎や小林秀雄との交友の機微など興味深い内容が並べられているが、中也研究の観点から特ダネと言うべきは、晩年に入院した千葉の精神病院で作った民謡の歌詞の発見、そして安原喜弘宛の新発見の書簡に述べられる、チェホフの中編小説「黒法師」称賛であり、後者はとくに、黒法師の蜃気楼の姿が時代を超え国を超えて至るところで出現するという物語が著者により文学作品の伝播・受容に結びつけられ、成る程と唸らされる。
もう一つ面白く感じたのは、中也がまずダダにぶつかり、次にフランス象徴詩を知り、さらにハイネの「歌」に魅せられるといった、詩史的にはどんどん遡る意識の運動の形で、詩の本源を求めるという彼の本能的とも言えそうな努力が、他の詩人には滅多に見られない、詩に豊かな音楽を内包させる独自の成果となっていったことを考えると、目覚ましいことのように思われた。
著者の佐々木さんは文章家で、生半の観念作業の生硬さにつまずくことなく、水が岩の上を流れるように滑らかに気持ちよく読み進めることができる。そこもありがたい。
(池田康)
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2017年09月19日

鎌倉のギャラリーで画家の対話

昨日、鎌倉のドゥローイング・ギャラリーで「山口啓介/加納光於 往復書簡の周辺で」展を観た。この夏に実際に交わされた往復書簡が土台にあるということで、60センチ×84センチ(つまりA1判)の大きさの新聞のようにレイアウトされた紙に二人の手紙が刷られているものを渡された。レオナルド・ダ・ヴィンチやボッティチェリのことや、源平の合戦のこと、運慶・快慶の彫刻のことなど、多彩な話題が個性的な緻密さで語られている。美術家の若林奮が「旧石器時代の洞窟壁画と自分自身がある……その間に何も必要としない……」と語ったという話は非常に印象に残った。
展示されていた作品について書くと、加納作品は「星形の」「巡り来るものの」の二つのシリーズ。色彩の諧調の深さに見とれる。作品を眺めている段階では純粋な色と形の抽象的作品と受け取っていたが(なにかあるのかもしれないと思いつつ窺い知れない)、山口氏が手紙の中で「巡り来るものの」について源平の合戦に結びつけて見ているのにちょっと驚いた。山口作品の「共存・分断する3つの顔」「山水の構造」、なにか裏に物語があるのかもしれないと想像しつつまずクエスチョンマークが浮かんだが、往復書簡中に挿画とされている異形の顔(目が6つ、鼻が4つ、口が2つある)のドローイングを見ると焦点が定まるような気がした。
会期は今月24日まで。
(池田康)
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2017年09月12日

三度目、全く正直でなく

是枝裕和監督の新作映画「三度目の殺人」を見た。その年のトップ3とかベスト5に挙げたくなるような作品を常に撮る人だなあと映画制作者としての腕前に吃驚する。
最後の最後で、弁護士(福山雅治)は殺人犯(役所広司)に一点の非常に崇高なものを見たのではないか。しかし殺人を犯した三隅という男はサイコの病いあるいは異能を有しているようでもあり、とても知的で生来の役者なのだが、自分自身の裡の虚暗を自分で理解できないでいるようにも見える。その自分を持て余すような、自己を放棄するようなところは、「幻の光」の自ら命を絶つ夫につながるものがあるかもしれない。この監督はそういう、自分の存在に積極的な価値を見出すことができない、絶望とひたと向き合ってしまった、どこか投げやりな、断崖から片足を踏み外しているような人間の姿に執着する面があるのだろうか。
被害者の娘・咲江(広瀬すず)の表情もマリアナ海溝のような重さをたたえて印象的で、ことに一瞬右半分に明るく光が当たり、左半分は暗く影になった大写しの顔はシンボリックでよかった。
(池田康)
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2017年09月01日

玉城徹全歌集

tamakitoruzenkashu.jpg『玉城徹全歌集』がいりの舎から刊行された。本体12000円。『馬の首』から『石榴が二つ』までの9冊の既刊歌集の他に未刊の「左岸だより」、長歌集『時が、みづからを』、詩集『春の氷雪』を収める。短歌は総計4400首余り。912頁。
先日、いりの舎の玉城入野さんと会って話す機会があったが、この本の編集には5年かかったとのこと。大変だったろうと想像する。
第一歌集『馬の首』から幾首か引用しよう。

 いづこにも貧しき道がよこたはり神の遊びのごとく白梅
 積みてある貨物の中より馬の首しづかに垂れぬ夕べの道は
 ひえびえと青き塗料のはげおちし貧しき空にひばりあがれり
 泥水より体をなかばあらはして鳴ける蛙か夜ふけに聞ゆ
 くらやみの襞より見ればいしみちは脆き夜空につづきてゐたり
 いやはてに海ばらよりも蒼ざめし太陽一つおらびつらむか

「後記」では「これらの作品に、わたしは、自己の刻印を示そうとしたのではなかった。抽象的思考──言葉をかえていえば、一の「美」への祈願──は、つねに、自己の抹殺の企図をふくむのである」とも記されている。
この柄の巨きな歌人に教えを受けたり親炙したりした人には大切な一冊だろう。
(池田康)
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