2017年06月26日

會田瑞樹CD『ヴィブラフォンのあるところ』

パーカッショニストの會田瑞樹さんの2枚目のCD『ヴィブラフォンのあるところ』がALM RECORDSから出た。二つの部に分れていて、「チャプター1 軌跡」に入っているのは「Billow2」(薮田翔一)、「Luci serene e chiare」(C.ジェズアルド)、「Music for Vibraphone」(渡辺俊哉)、「華麗対位法III by Marenzio」(横島浩)、「ヴァイブ・ローカス」(湯浅譲二)。そして「チャプター2 超越」には「Wolverine」(川上統)、「color song IV -anti vibrant-」(福井とも子)、「海の手III」(木下正道)、「光のヴァイブレーション」(権代敦彦)、「夢見る人」(M.マレ)が並んでいる。
ほとんどが會田さんが委嘱した新作で、技巧を駆使する華やかな曲、瞑想的な曲、特殊な奏法の曲、不思議な論理で世界を築く曲、謎めいた反復で迫ってくる曲、穏やかに小さな声でうたう曲、などなど多様性がありヴィブラフォンのさまざま面を楽しめる。演奏はもちろん高い集中力でなされており、湯浅譲二さんは「超絶技巧でも何でも美事に演奏する強者」と賞讃している。
ひとつ思ったのは、この楽器の音がきれいであり、強打しても濁ることがないから、なかなか邦楽器の「さわり」のようなノイズの音塊・破断の魅力は作りにくいかもしれないということで、いつか適当な機会があればこの面を追求していただきたいものだ。
會田さんには「洪水」次号特集にインタビューで登場してもらっているのでご期待下さい。
なお、この号ではほかに、作曲家の伊藤弘之さん、両国門天ホール支配人の黒崎八重子さんにもお話を聞いています。あと一週間ほどで完成の予定。
(池田康)
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2017年06月21日

ワークショップ風リサイタル

まったくの空梅雨でもないようで今日は本格的に雨に降り込められているが、とんでもない豪雨とかでなければ雨も悪くない。
先日、中川俊郎さんのピアノリサイタル「ピアノの窓」を、川村龍俊氏の主催するWINDS CAFEコンサートシリーズで聴いた。「ピアノのための19の展開第1集」など現代音楽の楽曲のほか、子供が弾くために書いた曲とか制作を手掛けたCMの曲など。ワークショップの感じで、メーキングを垣間見させたり、聴衆の中でピアノが弾ける人に一部弾かせたり、聴衆全員を曲の演奏に参加させたり、中川さんがあやつり仕掛ける奔放な奇想や悪戯が空気を思いがけない方向へ動かして楽しかった。2015年11月に開かれたコンサート(中川さんのピアノ協奏曲が演奏された)の招待状が配られ、タイムマシンを使えたら、ぜひ聴きに来て下さい、とも。ゆにーくな無茶を要求する作曲家だ。
場所は原宿のカーサ・モーツァルト。ここのピアノは古い型なのかちょっと変わっているようだ。WINDS CAFEは初めて参加したが、投げ銭制で、コンサートのあとで行われるオークション遊びも楽しいものだった。
近く出る「洪水」20号では中川俊郎さんにも少しだけご登場いただいているのでご期待ください。20号は編集は終わり、ほぼ予定通り7月1日前後に完成となる見込み。
(池田康)
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2017年06月13日

朔太郎の『宿命』の行路

「洪水」20号の編集のテキスト確認で見ておきたくなり『萩原朔太郎全集第二巻』(筑摩書房)を図書館から借り出したのだが、この機会に詩集『氷島』と詩集『宿命』の散文詩部分を通読した。『氷島』はたぶん再読だろう、前に一度読んだはずだ。『宿命』は収録されているうちの数篇はどこかで読んでいるが通して読むのはおそらく初めてだ。朔太郎の人生論的到達点ともいうべきもの(たとえば「虚無の歌」)や、陰鬱の極みであり恐怖の極みでもあるもの(たとえば「死なない蛸」)から思わず笑ってしまうもの(たとえば「蟲」)まで、じつに巾が広い。これが詩なのか、と言いたくなる際どいものもある。
『宿命』という詩集については山田兼士さんの『萩原朔太郎《宿命》論』(澪標)がある。全体の構成の意図や朔太郎の仕事総体の中での位置付けなど非常に周到に論じてある濃密で充実した評論の本だが、やっかいな種類の読みにくさも抱えている。というのは、この詩集の散文詩部分の扉にショーペンハウエルの「宇宙は意志の表現であり、意志の本質は悩みである。」という言葉が掲げられていて、この詩集がショーペンハウエルの思想の影響下にあることがうかがわれるのだが、『萩原朔太郎《宿命》論』ではそれを受けて(ショーペンハウエルの思想の特殊な概念である)「意志」をキーワードとして論を進めるものの、朔太郎がつかう「意志」とショーペンハウエルがつかう「意志」とどこまで一致しているのか、山田さんのつかう「意志」とショーペンハウエルのそれとどこまで一致するのか、また朔太郎のつかう「意志」と山田さんのそれとどこまで一致するのか、見極め難く、そもそも私自身がショーペンハウエルの「意志」を正しく把握しているか心許ないという事情もあり、論をたどって理解しようとする読みの走行がとても不安定な状況になるのだ。
その判じがたい難点は措いても本書には有益な指摘や考察がたくさんある。
たとえば「我れは何物をも喪失せず/また一切を失ひ尽せり」という特徴的なフレーズについて、「〈死〉の側から見た〈宿命〉と〈生〉の側から見た〈宿命〉の併存状態」と指摘するところとか、「詩と詩学が同時に生成することは不可能だろうか」と問い、一つの可能性として「詩を語ることと詩学を歌うことがもはや区別のつかぬほど接近し全体として一つの統合的な〈作品〉となるようなポエジーを創出すること」があり、その試みが「虚無の歌」でありそれを到達点とする『宿命』であると述べるところとか、第一詩集の『月に吠える』とこの『宿命』とを対比させて「『月に吠える』は、萩原朔太郎の思想の全てを自らの肉体(官能)を舞台に展開した体験としてのエクリチュールだった。これに対し『宿命』は、いま一度この体験を今度は精神の所産たる抒情詩を舞台に再構築した、虚構としてのエクリチュールだった」と考えるところとか、とてもエキサイティングだ。
この『宿命』論を読んでいてあらためて朔太郎は悲壮な詩人だったなと感慨を抱くわけだが、その点についても「この書物は、萩原朔太郎という詩人の生涯のみならず、詩そのものの〈宿命〉を記すべく、抒情の終焉の物語を生成せしめることになる。終焉までの物語ではなく、終焉そのものを物語化する企てとしてである」と語られており、つまり〈詩の終焉の物語〉という作品造形が朔太郎の文業の最終局面だというのであり、命をくびるようでなんとも悲痛だ。
小説「猫町」や先述の「蟲」、一行詩「鏡」についての論考もとても興味深い。
(池田康)

追記
『萩原朔太郎全集第二巻』では当時の詩人や文学者の批評文がいくつか読める。『純情小曲集』の序文の室生犀星、跋文の萩原恭次郎、『底本青猫』附録の蔵原伸二郎のほか、月報で芥川龍之介、高橋元吉の文章が紹介されている。それぞれ鋭い指摘をちりばめている。
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2017年06月11日

吉田義昭さんの7月のライブ

詩人の吉田義昭さんが7月3日(月)の夜に新宿でジャズボーカルのライブを開くとのことです。ぜひお出かけ下さい。詳しくは下記リンクよりちらしのPDFをご覧下さい:

http://www.kozui.net/yoshidalive1707.pdf

(池田康)
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2017年06月06日

生と死のトーンバランス

映画「家族はつらいよ2」(山田洋次監督)はなんの緊張もなくリラックスして見てしまう珍しい種類の作品で(大抵の映画はなにがしかの緊張感をもってのぞむものだ)、あたかも「サザエさん」のある週の回を見るがごとく気軽によく練られた喜劇を楽しむことができる。とくに欲張った高級そうな映画的表現技法は使われていないのだが、平坦に見えて滑らかに細やかに動く展開にからっぽの頭でついていく心地よさは静の演出のリズムが体に作用しているのだろうか、稀な時間経験だ。後半突然「死」が平田家の家族に、そして観客に突きつけられるが、そこでもなお「笑い」を生じさせる無謀な逞しさに驚いてしまう。しかし考えてみれば通夜の席で談笑するというのは普通にありそうな事態であり、フィクション作品が不謹慎を恐れる自主規制に囚われることもないわけだ。個人的に一つ惜しかったのは、夏川結衣演じる史枝(長男の妻)が歌舞伎見物に行くというので和服に着替えるシーンがあるのだが、ほんの一瞬で、史枝さんの艶やかな和服姿をもう少しよく見たかった。映画全体を一幅の画として考えるなら、老・死のトーンが優っているので、それに対抗する生の輝かしさを伝える強い色彩をどこかにもう少し置きたい、生死のトーンバランスを考慮してその方が望ましいのではないかと思うわけなのだが、これは理屈をこねているだけで、単にあの和服姿をじっくりと見たかったというだけかもしれない。文鳥だかインコだか小鳥をかわいがる史枝さんも好風景だ。憲子(次男の妻、蒼井優)が生死を往還するドラマティックな文脈を帯びているのに対して、史枝は日常に半ば埋没しながら時おりほとんど物語に関与しない「無意味な光」を発する。
(池田康)
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2017年05月31日

ガリバルディ

何年も前からイタリアの英雄ジュゼッペ・ガリバルディの伝記を読みたいと思っていた。名前はよく聞くのだがその行動や果たした役割の正確なところがよくのみこめなかったので。夏目漱石の「坊ちゃん」に出てくる「赤シャツ」というあだ名がガリバルディの赤シャツ隊に由来するのではないかという疑問もあり。
しかしながらなかなか適当な本が見当たらなかったのだが、最近幸運にも藤澤房俊著『ガリバルディ』(中公新書、昨年12月刊)を見つけたので、さっそく読んでみた。
19世紀半ばまでイタリアという国はなかった。いくつもの小国に分かれていて、ある国はオーストリアの支配下にあったり、ある国はフランスの息がかかっていたり、ある国はスペインと関係が深かったり、かなりこんがらがっていた。そこからイタリアという国に統一するまでの二十余年の(とりわけオーストリア帝国に対する)独立戦争の過程で大きな役割を果たした何人かのうちの一人がガリバルディで、おもに戦闘の実践面で活躍するのだが、統一の中心となるサルディーニャ王国の首相カヴールや民主革命を志向する政治思想家マッツィーニとの手を組んだり離反したりのややこしい関係が興味深く、またヨーロッパ全体のパワーバランスとのつながりが見えてくると一層面白くなる。
勇名並ぶものなき戦士であり、何度も牢獄にぶちこまれた、愛国者でありコスモポリタンでもあった英雄・ガリバルディの名は神話に類する光輝を帯びて当時のヨーロッパにとどろき、世界に知れ渡った。とりわけイギリスでガリバルディの人気は高く、来訪したイタリアの英雄に対して出迎えの騒ぎは大変なものだったという。明治期の日本でもその伝説的物語は多くの人の耳目をひいたということで、英国留学もした漱石にも届いていたはずだ。
ヴェニスもローマもイタリア統一の過程の最後の最後までイタリアの外にあったという事実には驚かされる。19世紀のイタリア史を辿ることはこの時代のヨーロッパの全体地図を理解するのに非常に役立つだけでなく、国というものがいかに成立しまたいかに崩壊するかを考える上でも貴重な具体的事例となるのだ。
(池田康)
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2017年05月29日

文人精神の系譜を考える

一昨日は林浩平さんのご案内で、茗荷谷の放送大学の一室での上映会に参加した。先日放映された、林さんがガイド・解説者として出演した「文人精神の系譜」という放送大学のテレビ番組の関連の映像を見て話をする会。番組は与謝蕪村、佐藤春夫、澁澤龍彦、吉増剛造という「文人たち」の各々ジャンルを越えた幅広い創造活動を紹介するもので、職業としての作家の枠を超えた文人のあり方には文なるものの放電がある。文人たちの家の中、書斎風景が紹介されたのも「文人精神」の具現化として印象的だった。未放送分の映像もたくさん見せてもらう。制作の楽屋話も発想の時点まで遡っていろいろあり苦労がしのばれた。吉田文憲氏も来ていて、まいまいず井戸を主題にしたGozo Cine(吉増剛造映像作品)の意味合いや吉岡実の晩年の詩集について卓抜なことを緻密に流れるように講じておられたのも記憶に残った。おまけとして、草川プロデューサーが家紋をテーマにした昔のテレビ番組の一部を見せて下さったのだが、音楽は武満徹が担当していて、「秘曲」を聴く思いがした。
その晩は東京の某所に泊まり、次の日は平井達也さんの手引きでとある句会に参加、おおいに楽しんだ。酒席即吟も経験し、俳句という遊楽道にまた一歩近づけた感じがした。
(池田康)
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2017年05月24日

谷干城

いま「洪水」20号の編集たけなわなのだが、そればかりやっているとアタマがおかしくなるということで、昨年『詩国八十八ヵ所巡り』の打ち合わせで嶋岡晨さんの御宅にうかがったときにいただいた嶋岡晨著『熊本城を救った男 谷干城』(河出文庫、2016)を読んでいた。これは1981年に『明治の人ー反骨・谷干城』というタイトルで刊行された本を改題し文庫化したというもの。坂本竜馬なんかと同世代の土佐人・谷干城(たに・たてき)の生涯を辿る。土佐の上士の家に生まれ、若い頃は尊王攘夷の思想を奉じ、土佐藩の代表として薩摩との密談の席にも加わり、竜馬暗殺の折には事件直後に現場に駆けつけ中岡慎太郎の最期を看取り、維新後は政府要職につき、西南戦争では兵を率いて熊本城にこもり西郷隆盛の軍と戦い、貴族院議員として事あるごとに理財の視点から国家運営をただす厳しい意見を吐き、板垣退助などと比べるとどちらかというと保守派で新聞「日本」の創刊にもかかわったりするが日清戦争・日露戦争では冷静に現実的に非戦論を唱える(「戦争というものは、勇気とか卑怯とかの問題ではなく、金力の強弱である」と言っている)という、きわめて独自の歩みをした人物。何度となく伊藤博文に意見の手紙を出しているところは国政に対する真摯な関心がうかがわれ興味深い。
一般的な歴史叙述は決まりきった視点と流れでなされることが多いが、そうしたオーソドキシーの歴史では主役になりにくい谷干城のような人物を中心に据えて語られるとこれまで見たことがないような歴史風景がいろいろ現れてくるのが新鮮だ。
乃木将軍は詩人としても知られているが、硬骨の古武士・谷干城も詩を多く書いており、巻末にその一部が収められている。

 土州の山水、天下無し。
 吾廬の風景、土佐は無し。
 先生、独坐し、友人無し。
 酒有り、独酌す、美人無し。
 笑いて青山に対す、邪念無し。
 歴史万巻、詩集無し。(後略)

(池田康)
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2017年05月10日

久保田早紀、精緻な旅情

わが最近のmusic life……
ラジオで紹介されていて気になったオーケストラ・バオバブ(セネガルの音楽集団)の新譜『ンジュガ・ジェンに捧ぐ』を聴く。キューバ音楽の影響もあるということだが、アフリカ音楽特有のまっすぐに疾走する感じも共存している。1970〜80年代の全盛期の演奏を集めたという作品集も出ていて、聴いてみたが、今回の新譜もそれと同じくらい良く、むしろ凌いでいると喜んだり…
先日のノラ・ジョーンズの来日コンサートを聴きに行き、堪能したが、とりわけピアノの弾き語りの曲での、恋人同士が抱き合っているような、歌とピアノの高次元で融け合う法悦に悶絶したり…
4月だったか、美空ひばりを特集したテレビ番組で華原朋美が出演してなんだったか忘れたが難しそうな曲をうたったのだが、遠近と立体感をかんじさせる歌唱で、なかなか上手にうたうなあと感心したり…
NHKFMでラ・フォル・ジュルネの中継を一日中やっていた特番の最後に、フランス国立ロワール管弦楽団がラベルの「ボレロ」をやるプログラムでジャズピアノの小曽根真とトランペットのエリック宮城が加わって、鮮烈な音の悪戯書きをほどこしていく、その異形さに感電したり…
……などなどいろいろあったが、最近は久保田早紀を聴いている。別の歌手のレコードを探しに行って(これは空振り)、この人の1stアルバム『夢がたり』(1979)を見つけ、入手して聞いてみると収録されているどの曲もそれぞれよくて魅了され、さらに2nd『天界』(1980)、3rd『サウダーデ』(1980)、4th『エアメール・スペシャル』(1981)も見つけてきて、とっかえひっかえターンテーブルに乗せている。第4アルバムはちょっと色合いが違うようだが、三番目までは「異邦人」に通じるようなシルクロード幻想、地中海幻想に導かれていて、象徴性もときに感じさせるその詞(曲によっては山川啓介も参加)の情感をあやまたずすくい取っていくのが旋律家であるこのソングライターの霊妙な耳と指であり、どの曲も音の動きの一つ一つが微細な愛しさ寂しさ哀しさの曲折をよく具現していて何度でも聴き直したい思いに駆られる。単に地理的なエキゾチズムではない、人生のexotica。アレンジは主に萩田光雄が担当している。『サウダーデ』はA面の5曲が本場のポルトガルギターの伴奏がついていて耳が歓喜にふるえる貴重さ(アマリア・ロドリゲスの歌のバックで鳴っているあれだ)。
(池田康)
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2017年05月07日

吉田義昭ライブ2017春

昨日は新宿三丁目のシャンソニエQuiで詩人の吉田義昭さんのジャズボーカルライブを聴いた。プログラムにおなじみの洋楽スタンダードが並ぶなかで、今回の特色は「神田川」など70年代のフォークソングをうたったこと。大丈夫だろうかと我々常連客はちょっと心配or危惧を抱いていたのだが、フォーク調ではなくオーソドックスな歌謡の姿でいい雰囲気でこなしているように思えた。
ピアノ一台を伴奏にうたうのは初めてとのこと。久富ひろむさんのピアノは指先のマジックによる繊細な芸というのではないのだろうが、一音一音確実に仕事を成し遂げていくかんじの聞き耳を立てさせる演奏だった。
そんなに大きくもないこの地下の店に鮨詰めのようにして四十人くらい入っていた。
このゴールデンウィーク、前半は頭痛にしのび寄られて半分寝ていたようなものだったが、後半は回復、好天の土曜日にはこうして外出もできて、ありがたいことだった。
(池田康)
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2017年05月05日

詩素2号

詩誌「詩素」2号が完成した(洪水企画刊、A5判72頁、500円)。今回の参加者は、海埜今日子、北爪満喜、酒見直子、沢聖子、菅井敏文、大家正志、たなかあきみつ、南原充士、二条千河、野田新五、八覚正大、平井達也、平野晴子、南川優子、八重洋一郎、山中真知子、山本萠、吉田義昭の皆さんと小生。特別企画の「SYMPOSIUM詩を考える」のページは吉田義昭さんの司会で千木貢・柳生じゅん子両氏に詩とつきあってきた経験話を語ってもらっている。
今回も提出されて集った詩を作者名を伏せて参加者に読んでもらい、気に入った作品を一つ〜三つ挙げていただき、支持が多かった詩を巻頭に出した。ちなみに巻頭は山本萠「詩の文字から」、野田新五「戦争未亡人もんじゃ」、二条千河「証 ──「白」字解」の三作。アンケート回答も掲載している。次号は来年11月に出す予定。
(池田康)

追記
これの印刷をしてもらった七月堂では書店のようなスペースをもうけているとのことで、そこでも見ていただけるようだ。
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2017年04月21日

ノイズを操る歌声

昨夜、作曲家の佐藤聰明さんの奥方の佐藤慶子さんの歌&ピアノのリサイタルを南青山MANDALAで聴いた。主に万葉集の和歌をテキストにして自ら作曲しピアノ弾き語りでうたう。ポップス的明快さで作られた曲もあれば、そのような歌謡秩序からはみ出た薄暗がりで紡がれた曲もある。どちらかと言えば後者のほうに惹かれた。たとえば、子持山若蛙手のもみつまでねもと我は思ゆ汝はなどか思ゆ、という読み人知らずの詩句の「子持山」、織女舟乗りすらしまそ鏡清き月夜に雲立ちわたる(大伴家持)の「織女」、あかねさす紫野ゆき標野ゆき野守は見ずや君が袖振る(額田王)の「あかねさす」といった曲。「桃花の乙女」は、春の苑紅にほふ桃の花下照る道に出で立つ乙女(大伴家持)の一首を取り上げるが、この歌は伊福部昭の作曲したものがとても印象的だが、佐藤慶子版も非常に美しい。
聴き応えのある歌手は繊細で強力で高性能のノイズ発生装置を所有しており、たとえばハスキーヴォイスや独自のこぶしやガッと凄む息遣いやシャウトや意図的音程崩しのような形で巧みにノイズを混ぜ込んで強く訴える表現を作り上げてゆくのであり、ひたすら透明できれいな歌声もけっこうだけれど、上手にノイズ成分を操れたらなお良いという理論をこの頃ひそかに懐でもてあそんでいるのだが、佐藤慶子さんも少ししわがれた声でうたうので、不意にまた自然にしっかりした声からかすれた声に転じる、その声の裏返りの絶えざる変転が「尺八の演奏に似た」とも言えるのかもしれない魅力を生み出していた。
(池田康)
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2017年04月15日

ついでも重要

好天気だった一昨日、昨日とつづけて、所用あって東京方面へ向かった。
一昨日は用事のついでに、新住所に移転したばかりのギャルリー東京ユマニテでの移転オープン記念展「加納光於《稲妻捕り》Elements1978 「言ノ葉」と色象のあわいに」を観た。瀧口修造との共作『稲妻捕り』(書肆山田)の原画が展示されていて、瀧口の言葉とともに雲の運動の絵が並ぶ。Boschを主題にした魚が描かれる水彩画もよかった。新ギャラリーは地下に降りなくていいのがありがたい。
昨日はやはり用事のついでに、大森のライブハウス「風に吹かれて」で、K2(六文銭のメンバーである及川恒平・四角佳子のユニット)のライブを聴いた。ベテランならではの余裕のある落ち着いたのどやかさが基調かと思ったが、後半では元気に騒ぎあばれるにぎやかな演奏もあり、うきうき気分で楽しめた。個人的には「ガラスの言葉」(超絶拓郎曲デス)が聴けたのが嬉しかった。最後の「出発の歌」は小さなスペースいっぱいに響いて聴くというよりも曲の中に入り込んでしまったかんじだった。この日の用事とは、及川恒平さんへのインタビュー、これは「洪水」次号特集のため。ご期待ください。
(池田康)
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2017年04月08日

国分寺から国立へ

昨日は国分寺駅近くのくるみギャラリーに山本萠さんの作品展を見に行った。山本さんは絵も描くが、今回は書の作品が中心。詩の一節を書いたものは声の立ち居が視覚化され、一文字だけ書いたものは字そのものが蔵する思想がにじみ出る(世界を解するモノであるはずの文字が不可解な影と化すところが面白い)。小さなギャラリーが特別な書斎と化していた。
そのあと、近くにある殿ヶ谷戸庭園(立体感の妙)に遊び、国立の咲き誇る桜にまみえた。数人で行ったので、なんということもない軽いおしゃべりをしながらゆっくり食事をする。花見のときの飲食は、それによって時間を音もなく経過させるという意味もあるのだろう、午後から夕暮れ、そして夜と、光の量と色合いが変わっていく中で桜の映え方も変化してゆくのが妖艶だった。
(池田康)
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2017年04月03日

手引き

このあいだ牛丼屋で牛丼を食べていて、思い出した。大学のとき或る先輩が牛丼屋に連れていってくれたのが初めての牛丼だったと。紅生姜と七味唐辛子とで食べることもそのとき教わった。それまでは食べたことがなかったのだ。家では牛丼を食べる習慣がなかったから、食べたいという欲求がまったく湧かなかった。そこがカレーライスやラーメンやトンカツと違うところだ。未知のものに近づくには「手引き」が要る。誘い、きっかけ、コマーシャル。ただ手引きがあれば身につくかと言えばそうでもなく、麻雀や囲碁を教えてもらったこともあるが、プレイできるようにはならなかった。将棋はルールを知ってはいるけれど指しながら駒組みの思考を練ることがまともにできず出鱈目なへぼ将棋だ。ゲームの才能に欠けるところがあるらしい。スキーは高校の先生に、スケートは父親に(名古屋の西大須にはスケート場があった)教えてもらったけれど、子供のころやっただけで、ここ三、四十年滑っていない。なぜ持続しないのだろうと首をひねるばかり。
スケートといえば先日フィギュアスケートの世界選手権があり、イタリアのカロリーナ・コストナーがひさかたぶりに出ていた。数年前なにかの大会で彼女の翔けるようなスケーティングにほれぼれ見とれた経験があって、そのときの残像とどれだけ重なるか探りながら今回眺めていた。ぴったりは重ならなかったように思うが、トップ選手と競えるレベルで元気に滑ってはいた。音楽を選ぶ独特のセンスも他の人とは違うものを感じさせる。
フィギュアスケートという特殊なジャンルにはどんな手引きがあり得るのだろうか。子供がやりたいと憧れるのか、大人が導いてやらせるのか、どちらにしてもとても特殊な種目(職業)だ。よく志望するもの、宇宙飛行士並みに厳しい「狭き門」のように思われる。
(池田康)
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2017年03月27日

蒸気機関車に乗る

IMG_5875.JPG最近、静岡県の大井川鐵道に行き、蒸気機関車に乗ってきた。この日はC5644が走った。ほかにC11とかC12とかあり、日によって変わるようだ。C5644は戦時中タイに行っていたのを帰国させて今ここで働いているのだそう。大井川に沿って時速40キロぐらいのゆっくりのスピードで走るのがひなびた感じでよい。家山駅付近の桜並木はまだ咲く前だったが、沿線の所々に梅だか桃だか桜だかが咲いていて、さりげなく花見の気分を味わえた。この沿線の家に住む人達は毎日蒸気機関車が走るのを眺めているのだと驚きとともに気がつく。
写真は機関車を転車台の上で方向転換するところ。終点の千頭駅に着き、復路に向かうので機関車を列車の反対の端に逆向きに連結するため、頭の向きを変えるのだ。なんと人力で5人掛かりで作業していた。
(池田康)
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2017年03月16日

「樹林」春号

申告を抜けると春であったーー税務署の書類を作る苦労は毎年変わらない。ひいひい、そわそわの一ヶ月だ。だから提出してしまうと途端にのんびりした気分になり、うららかな春の季節に踏み込むのだ。
さて大阪文学学校の機関誌「樹林」の春号に平野晴子さんのロングインタビューが載っている。詩集『黎明のバケツ』が小野十三郎賞特別賞を受賞したため。聞き手は中塚鞠子氏。この詩集に関する話をたっぷりと読むことができる。
なお同号には私も山田兼士さんの詩集『月光の背中』の書評を寄稿している(発行人であるにもかかわらず!恐縮!)。ぜひご覧ください。葦書房、本体800円。
(池田康)
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2017年03月13日

二つのコード進行

コトリンゴのアルバムを何枚か聴いている。この人の立つ位置はかなり流動的で、ジャンルで言えば、あくまで私見だが、ポップスの端っことクラシックの端っことジャズの端っこと環境音楽の端っこが重なるか重ならないかぐらいのところで漂いながら音楽を創っているように思われる。ある種の「フュージョン」の人なのだ。べったりの歌謡ではないので、歌を聴こうという心積もりでのぞむと肩透かしを食らったような気がすることもあるかもしれない。ある曲ではポップスの要素が比較的強いが、別の曲ではクラシックのような展開が目立ったり、ピアノがジャズ風な動きをして賑わせてみたり、音楽の設定の土台から組み立て方を細やかに変貌させてゆく。だから一本調子にならないわけで、だから掴みがたいということにもなるわけだ。通常の意味での和音のコード進行はもちろんあるのだろうが、それに加え、いかなるジャンル要素の構成で作るか、ジャズがリードするか、歌の旋律が前面に出るか、環境音楽的な引っかかりの乏しい怠惰な響きの流れを主とするか、つまりどういうブレンドにするか、どのジャンル的特徴ににじり寄るか、それがどう変転していくかという意味での第二のコード進行が論じられうるかもしれず、そういう視点でコトリンゴを聴くとひょっとしたらこの人の創造性の焦点にうまく近づけるのではないか。もちろんすべての曲で、えぐかったり強すぎたりしないくすぐるような甘味、心地よい柔らかさ、安易にわかりやすく高揚せずはぐらかす旋律線の曲がりかた跳びかたは認められ、それがこの音楽家の〈歌〉の核をおぼろに型抜きしている。どの曲も楽しく聴けるが、「ツバメ号」(『bird core!』)、「読み合うふたり」(同)、「友達になれるかな?」(『trick&tweet』)、「でたらめサンバ」(同)なんかは秀抜なユニークさがあり、どんな音楽の好みの人でもオヤッと思うだろう。
(池田康)
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2017年03月10日

気のダイナミズムの音楽

昨夜、紀尾井ホールでオーケストラアジアジャパンの演奏会(指揮=稲田康)を聴いた。新実徳英さんの新曲が初演されるということで。オーケストラアジアジャパンとは日中韓の音楽家で作られたオーケストラアジアの日本人メンバーのグループ。前半は、七人の筝による「風と光と空と」(佐藤敏直作)、三本の尺八のための「ソネット」(三木稔作)、三味線と邦楽器オケによる「三味線協奏曲」(長澤勝俊作、三味線=杵屋彌四郎)。筝の奏者の方たちはみなピンク系の着物を着ていて華やか。ステージに立つ音楽家は黒っぽい服を着ることが多くそれも理解できるが、こういう彩りも悪くない。筝はピアノとかピアニシモで弾くときれいに響きがふくらむこともわかった。三味線、鋭い激しさで存在感を示す。
後半、ソロ曲「溌水節」(伍芳作)と協奏曲「丹青仙子」(劉文金作)は中国古筝(=伍芳)の曲。スティールとナイロンでできた弦だそうで、明るく強い響きでくっきりした演奏効果がある。オケはへんてこな濁りの響きも出してくるが、基本的にはくぐもらない明朗さ。新実さんの新曲、二十五絃筝協奏曲「魂のかたち」は、なによりも気合いのみなぎりが強力だった(二十五絃筝=滝田美智子)。それまでの曲目は音楽のロジックを冷静に組み立てていく姿勢が見られ、聴く側もそれを一つ一つ辿っていく感じで聴けたが、コンサート最後の曲でしかも新曲初演となると弾く方も特別の気迫がこもるのだろう、音の気が異形を呈するようになる。聴衆も、聴くよりも感じる。新実さんは演奏前にステージ上で話をし、いま取り組んでいるピアノのエチュードと同じような狙いで作ったと語ったが、ピアノのエチュードが精密な論理を追求しているように聴こえたのに対し、今回の曲は論理よりも気合い、気が作る山々の形、気の流れのダイナミズムが設計されているように感じられた。幽霊も出現する時は(それがあるとすれば)現実世界の秩序論理を突破しうる破格の気合いでもって出てくるのであろう。魂のかたちとは気の働きの絵図なのだ。オーケストラの部分もかなりばらばらに動く難しい書き方をしたとのことで、弾く側も自分がはたして正しく弾けているのか、初演でもあるし、心許ないかんじもあったと推測され、その分余計に曲の生成に向けて一入の気を注ぎ込んだのだろう。日本人作曲家の現代音楽曲はこのように特別の気合いによってインパクトを得て良い曲になる場合が案外あるのではないかとも思われた。
(池田康)
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2017年03月06日

井上郷子ピアノリサイタル#26

上記演奏会を昨夜東京オペラハウスリサイタルホールで聴いた。サブタイトルは「近藤譲ピアノ作品集」で、この作曲家の作品ばかりを集めた構成となっていた。曲目は「イン・ノミネ」「夏の小舞曲」「メタフォネーシス」「テニスン歌集」「視覚リズム法」「リトルネッロ」「ギャマット」「カッチャ・ソアヴェ」「間奏曲」。
渡されたプログラムとは違った曲順で演奏されたので、その案内の紙は挟んであったのだが、気がつかなかった私はどの曲が演奏されているかについて混乱を感じながら聴いていた。従ってここで曲名を明示してうまく話をすることができないが、石か鉄でできているかのような無機的感触の音がシンプルに質実に置かれるというのが近藤氏の基本的な作曲のありかたのように感じられた。音が流れずに其処に佇む、という風情。従ってグルーヴを生むというよりも「秩序」がスタティックに立ち現れるという感じだ。こういう種類の曲を弾きたいと希求するピアニストは、音楽に酔いたい・音楽で遊びたい、ではなく音楽というものを考える音楽をやりたいと思うピアニストなのだろうと推測する。井上さんはおそらくそういう傾向を少なからず有しているのではなかろうか。
ちなみに近藤譲特集のリサイタルを井上さんは2011年3月にも開いており、それを聴いた感想をこのブログに書いている(2011年3月29日付、曲目もかなり重なっている)ので、それも参照していただきたい。
(池田康)
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