2019年06月20日

虚の筏23号

「みらいらん」次号はなんとか編集が終わり、印刷所に入れた。来月上旬完成予定。お待ち下さい。
さて、「虚の筏」23号ができた。今回の参加者は、二条千河、神泉薫、伊武トーマ、たなかあきみつ、久野雅幸、海埜今日子、平井達也のみなさん、そして小生の8名。オブジェ画像は「飴玉コレクション」。下記のリンクよりご覧下さい。

さてさて朝顔栽培の続報。二つめの鉢に前回とは別の種を三粒まいたら、二つ発芽した。なんともよろこばしい。芽が双葉として出現するのは硬い種の殻を裂くための手力なのだろうと今回思い至った。
(池田康)
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2019年06月11日

朝顔の芽のことなど

みらいらん次号の編集も大詰めで、トントン拍子にいけば数日のうちに印刷にかけられそうなところまで来た。とは言ってもなかなかそううまくトントン拍子にはいかないものだが。
さて最近の見聞を列記すると……。映画「海獣の子供」(渡辺歩監督、五十嵐大介原作)を観る。原作は読んでいたが、動く琉花ちゃん(主人公の少女)に会えたのが嬉しい。
また十日以上前のことになるが、平野晴子さん一行の鎌倉旅行に一部同行させていただき、葉山の神奈川県立近代美術館でポーランドのポスター展を観た。絵柄や図案が大胆で、予想を超えて面白かった。
それから更に前になるが、みらいらん次号の田村隆一特集の軸となる吉増剛造・城戸朱理両氏の対談をやはり鎌倉で行った。夏のような明るい日だった。偉大な詩人を深々と追慕し、たえず新しい方角をさぐり淀みなく流れる議論に聴き入る(ご期待下さい)。そのときに見た鎌倉文学館の薔薇園もみごとだった。
さらに遡ってここ数ヶ月というスパンになるが、みらいらん前号の〈深海を釣る〉で書いた興味のつづきで、過去のテレビドラマをいくつも観た。その中で心に残った言葉を一つ。「ブラックボード」第一夜(2012、井上由美子脚本)で戦後再び教壇に立った主人公の教師(櫻井翔演じる)が言う、「未来をうばうものに正義などない」。名言。
最後に。これはここ数日のことだが、ベランダにおいた鉢から朝顔が発芽した。めでたい。土の中から小さな緑の頭をもたげる芽に感動する。しかし発芽率75%以上の能書きの種を6粒蒔いて一つしか発芽しないというのは、確率とか統計学ってなんなのだろう。
(池田康)
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2019年06月04日

安藤元雄さんの講演

日曜月曜とかなりハードな日程だった。2日の日曜日には現代詩人会の「詩祭」が市ヶ谷であり、現代詩人賞やH氏賞などの授賞式などが行われるとともに、第二部で安藤元雄さんの講演があり、「みらいらん」次号で『安藤元雄詩集集成』をめぐっての対談(野村喜和夫・福田拓也両氏による)を載せることもあり、聴きに行った。
読み人知らずの「起きて見つ寝て見つ蚊帳の広さかな」「蜻蛉つり今日はどこまで行ったやら」といった句が加賀の千代女に仮託されている、詩歌とはどういう存在なのかという話から入り、ネルヴァルの「シダリーズ」では翻訳の工夫のしどころやいかに意味の重層性やエコーを読み解いていくかといったことが語られ、ボードレールの「あほうどり」においては一般大衆に対して詩人は強者ではなく弱者と化しているという重要な機微が指摘され、シュペルヴィエルの「秘められた海」では詩で結論を出さないことの大事さが教示される。また同級生だったという、先ごろ亡くなった映画監督の降旗康男の仕事に触れて、つねに弱者の側に立てという信念が語られた。詩人の心の烈しさが伝わってくる一時間だった。翌日の月曜日には愛知県で伯母の葬儀があり、気ぜわしく、私としては例外的な早起きをしなければならないこともあり、早々に会場を後にした。
(池田康)
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2019年05月26日

対話の宴 野村喜和夫・福田拓也対談

IMG_7102.JPG昨日、世田谷の詩とダンスのミュージアムで、「みらいらん」次号の〈対話の宴〉のための「野村喜和夫の詩歌道行2 『安藤元雄詩集集成』をめぐって」が開催され、野村喜和夫・福田拓也両氏が議論を交わした。
『安藤元雄詩集集成』(水声社、本体8000円)には安藤元雄さんの既刊9冊の詩集『秋の鎮魂』『船と その歌』『水の中の歳月』『この街のほろびるとき』『夜の音』『カドミウム・グリーン』『めぐりの歌』『わがノルマンディー』『樹下』が収められている。それを通観してのお二人の話は、安藤元雄の詩の世界の地形をどう捉えるかについての意見も若干違っていて、その分うねりと緊張感があり、非常に興味深かった。福田さんは、海に象徴される境界性、有限が無限に移行し再び回帰する現象、『めぐりの歌』『樹下』で起こっている例外的事由、といった諸点を中心に語り、それを受け止めつつ、野村さんは安藤元雄さんのオリジナリティを同時代の他の詩人たちとの比較で絞り込み、読みどころ、注目すべき点を挙げていった。安藤元雄さんも臨席されていたのでその分対話の張り合いも倍加し、刺戟に満ちた、とてもよい会になったように思う。この対話は記事となって「みらいらん」4号(七月刊行予定)に掲載する予定。是非ご覧いただきたい。
(池田康)
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2019年05月21日

加藤典洋さん

加藤典洋さんが亡くなったという報道があり、本当なのだろうかと信じられなかった。5年前、「洪水」14号でインタビューをさせていただき、国内外のロックやポップスのことなど音楽についていろいろお話をうかがった。独自のロジックを自在に発動させる至極元気なそのお姿はついこの間のことのように思い出される。そのインタビュー「『耳をふさいで、歌を聴く』を聴く」から、忌野清志郎について語った一節をここに再録しよう。
「忌野清志郎はなぜかわからないけど、好きでなかったんです。みんないいと言うでしょう。なんでいいんだろうと思っていた。(中略)でも、それまで聴いていなかった初期のアルバムを好きになって、第二アルバムの『楽しい夕に』にびっくりした。すごくいいんです。天才だと思った。彼の文章も面白いんです。文庫本になっているんですけど、あれを読んでいると、ビートルズなんてなんだと書いている。その気持ちはよくわかる。あの当時の忌野の才能からすれば、そう言えるような高みにいて力を発揮していた。」
さらに話の先の方で質的劣化と量的拡散の皮肉で歪な関係にも及んで、批評家として面目躍如の眼光の鋭さに触れることができる。
あの日の貴重な2時間の恩を感謝するとともにご冥福を祈りたい。
(池田康)
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2019年05月14日

青柳幸秀歌集『安曇野慕情』

安曇野慕情カバーSS.jpg青柳幸秀さんの第二歌集『安曇野慕情』が洪水企画から刊行された。青柳さんは昭和8年生まれ、長野県安曇野市在住、ぱにあ所属。2013年に出た第一歌集『安曇野に生きて』以降の478首を収める。帯文の紹介に「産土の安曇野に聳える常念岳を畏敬の父、豊かな大地を母のごとくに慕い、農業一途に生きる日々から湧き出る歌は感謝と慈愛に満ちている。幼少時からの自称、悪童丸の無垢な肉体と精神に沁み着いた、戦中、戦後の父母たちと共有した艱難辛苦の悪夢は生涯不滅。昭和一桁生まれの男子ならではの人生の哀歓が熱く、胸を連打して止まない。(秋元千惠子)」とある通り、農業一筋の生活から迸り出てくる歌群が大半を占め、地に立ち苦難の道を歩む一人の男の人生行路をつんざく咆哮がどの歌からも聞こえてくる。帯に掲載されている代表歌五首を挙げる

 猿の長吼えてをらむかひもじさに有明山に日の暮るるころ
 雪風巻くかなたときをり顔を出す孤影は冥し常念岳の
 いつみてもいつもおほらか安曇野は心のふる里母なる大地
 幾世代農に生きたる証とし馬頭観音在しますここに
 この命枯れても思ふ八月は知覧の空と 原爆雲と

最後の歌のように先の大戦を偲ぶ歌も多く、戦争の災禍に思いを馳せる心情の激しさを痛切に感じる。さらに付け加えて何首か紹介しよう。

 エンジンをかけてハンドル握るなり軽トラックに夕日を載せて
 縄文の埴輪は闇を食ひ足らひ小さき唇もつを愛しむ
 一本の稲穂かざして見る様に縄文人の血潮たぎり来
 落胤の祖の嘆きを風に聴く心乱れて雨にぬれても
 安曇野の石仏の胸には天明の飢ゑの記録の刻まれてあり
 安曇野は常念岳の屹つところ老いて吾が持つ杖突くところ
 安曇野の裔なる中のいちにんで信濃訛りの毒すこしもつ
 昭和とはさすらひの船いつまでも流されながら兵の声する
 亡父がゐておほ祖もゐて 馬もゐて俺の安曇野まだ大丈夫
 飲食はホモサピエンスのはかなごと原発の電気たよる暮しに

歌人・青柳幸秀の苦吟と至情をじっくり味わっていただきたい。
(池田康)
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2019年05月06日

連休中のあれこれ

この連休はどこへ出かけるでもなくなんとなく過ごした。主な体験としては、「E.T.」を映画館で見たこと(午前十時の映画祭、スピルバーグの映画作りのうまさに感服)、真藤順杖『宝島』(講談社、沖縄人ではなくてよくこんな小説を書けるもの)を読んだこと、など。とある調査の筋で昔のテレビドラマを見るということもしていた。それから山本萠『こたつの上の水滴』(コールサック社)をぼつぼつ読んでいる。萠庵骨董雑記、のサブタイトルがついている。焼き物との無言の対話、その研ぎ澄まされた静けさが魅力的。
「自意識や美意識が見え隠れする器は、人間国宝と呼ばれる人の創ったものであってもわたしには不要である。
美そのものと対話するために、人間の〈意識〉からあらん限りの遠いもの、意識を、無意識にして超えたもの、あるいは、創り手の己を空しくして、〈神〉に捧げたてまつるもの、そして、〈用〉に徹するもの、であってほしい。
器におけるそれらの認識は、例えば一個の猪口を目にしたとき、あるいは手に受けたとき、一瞬の内に感得される。単純に、あまりに単純に、美か否か、という感覚として。」(「夏の坏」より)
まだ読んでいる途中だが、濁世から救い出してくれる厳しさと爽やかさがありがたい。
(池田康)
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2019年04月28日

詩素6号

siso6coverS.jpgもうはや晩春になろうとしているのに、散歩していたら真白な富士山がぬっと顔を出していてお化けのようでぎょっとした。富士よ、今はどの季節なのか。
さて詩素6号が完成した。今号の参加者は、海埜今日子、大仗真昼、小島きみ子、酒見直子、沢聖子、菅井敏文、大家正志、たなかあきみつ、南原充士、二条千河、野田新五、八覚正大、平井達也、平野晴子、南川優子、八重洋一郎、山中真知子、山本萠、吉田義昭のみなさんと、小生。〈まれびと〉には有働薫さんをお招きした。巻頭トップは、海埜今日子さんの「珪化木的な、」。定価500円。
表紙は西脇順三郎の詩より。
http://www.kozui.net/siso.html
(池田康)
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2019年04月27日

トークイベント野村喜和夫×福田拓也のご案内

洪水企画&エルスール財団共同企画トークイベント

 野村喜和夫の詩歌道行A 
 野村喜和夫×福田拓也 

 『安藤元雄詩集集成』

『安藤元雄詩集集成』(水声社)がついに刊行されました。日本現代詩の一達成を示すこの大冊をめぐって、気鋭の詩人・批評家の福田拓也氏を迎え、安藤詩学の核心から日本語で詩を書くことの可能性まで、縦横に語り合います。

日時:2019年5月25日(土曜日)
15:00〜17:00 (14時30分開場)
場所:ブックカフェ「エル・スール」(詩とダンスのミュージアム内)
(世田谷区羽根木1−5−10)
入場料:2500円(+1drink order)
申し込み方法:メールで。
エルスール財団
info@elsurfoundation.com


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2019年04月22日

入沢康夫さんを偲ぶ会

先週の土曜日、アルカディア市ヶ谷にて「入沢康夫さんを偲ぶ会」が開かれた。生前それほど強い接点をいただくことは叶わなかったが、詩作品を読むというレベルでは相当な恩をこうむっているので、参加させていただく。安藤元雄、池澤夏樹、三浦雅士の三氏の追悼の言葉。批評性、作品の客観性、宮沢賢治との姿勢の違いのことなど話に出た。大詩人の昇天を心に実感する、得がたい機会となった。
行きの電車の中で初期入沢康夫作品を拾い読みしていたので、印象に残った箇所の一つを引用する。「輓歌」の冒頭部分。

 さて うたうのだった
 ぼくの気ちがい ぼくの気ちがいと
 ぼく 別れて
 石につまずけば
 花々は
 とりどりに笑うのだった

入沢康夫の詩のリズム、ということも是非とも心に留めておきたい重要事項のように思われる。
(池田康)
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2019年04月09日

みらいらん次号の予告

maborosiwomiruhito.jpgみらいらん4号(7月刊行予定)の概要が固まってきた。まず、城戸朱理さんの肝煎で田村隆一の特集を組むことに決まった。戦後を代表するこの詩人に新しい角度から光が当たり重要な面が浮き上がればと願っている。
恒例の野村喜和夫さん主宰の「対話の宴」は、「詩歌道行2」として、先頃刊行された『安藤元雄詩集集成』などをテーマに福田拓也氏との対話を予定している。実施日は5月25日(土)に決まった(詳細は後日)。
インタビュー〈手に宿る思想〉は、フリージャーナリストの古居みずえさんに、パレスチナのこと、福島・飯舘村の取材のこと、ご自身のジャーナリストとしての方法論や信念のことなどうかがった。リアルな刺戟にみちている。ぜひご期待いただきたい。
さて先日、城戸朱理さんとお会いして特集の打合せをしたとき、去年プロデューサーをつとめて完成させたというドキュメンタリー映画「幻を見るひと 京都の吉増剛造」のこともいろいろうかがった。慣れない仕事で、とんでもない苦労をされたそうだ。写真はそのパンフレット。まだ私は未見だが、世界各地の映画祭で高評価を得ているとのことであり(賞を8つ受賞したそう)、いつかどこかで見ることが出来れば嬉しい。
(池田康)
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2019年04月05日

新元号雑感

新元号「令和」が発表された。暦法については以前からいろいろ考えるところがあり、キリスト教に根をもつ西暦が絶対視され永久固定されるのは良いこととは思えないからいつか機熟した時期に適切な原点を得て世界暦が創設されるのが好ましいという論を書いたことがある。その観点から言えば西暦を相対化する日本の元号は貴重とも言えるが、これも理想を述べるなら、もともとは中国の風習なのだから、日本固有の事情から切り離し、漢字文化圏で共通の東洋暦にするのが地域の連帯感も生まれるし理想だろうとは思う。滅多なことでは実現しないだろうが。
今回の元号について一つだけ言えば、「令」が「零」に通じ、「和」が加算の意から「1」を一つずつ加えることに通じるとしたら、これはコンピュータ時代に呼応した命名とも考えられる。明治…昭和…そして今回と、だんだんひんやりとした感じになってきているのは、人心のわずかずつのやせ細りを反映しているのだろうか。とはいえ、典拠(大伴旅人、なつかしい名前)の説明の力もあり、世代の「舞台」が変わるという清新な気分、浮き立つ気持ちももちろん春風のように吹き渡るだろう。
それにしても、改元が確定しているのなら、暦屋さんが困らないよう(お役所の事務処理がじりじりそわそわせずにすむよう)一年前に発表してほしいもの。
(池田康)
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2019年03月24日

音楽はいかにして音楽となるか

作曲家の池辺晋一郎さんの対談集『音のウチ・ソト 作曲家のおしゃべり』(新日本出版社)が出た。女優・若村麻由美、詩人・小池昌代、小説家・池澤夏樹といった方々との対話が収録されている。小池さんとの対話は「洪水」16号の池辺晋一郎特集の記事の再録。どの対話も洒落や冗談を交えながら自由闊達に展開されていて、ときには尖鋭な政治的主張なんかも入る刺激もあり、読むのが楽しい。これら三編の対話の間に「第三章 音符と作曲家の間柄の話」という章が挟み込まれていて、作曲の楽屋裏を少しだけ打ち明けてくれている。音には意志があるとか、音を下げていくのは自然で楽だが上げるのは大変で力と工夫がいるといった話は興味深い。合唱組曲「飯豊山」(詩=村田さち子)を例にとって、詩に音楽をつけていく作業の実際を詳らかにしている箇所も、作曲家の感覚の繊細な有機的合理性を目の当たりにでき、歌というものについていろいろ教えられる。
「音というのは、物理的にいえば、何かが振動して、それが空気の振動となって伝わってくるものです。(中略)しかし、ぼくは、音楽で使う音をそういうものとはどうしても思えないんです。意志を持っているように感じる。意志というのは、あそこへ行きたい、何をしたいというような欲望といってもいい」
音を扱う創作者としての個性を刻印するタッチ、音を考える長い歴史に裏打ちされた思想が、音に意志を発見し、音の集まりを音楽にする。
(池田康)
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2019年03月19日

平野晴子詩集『花の散る里』

hirano-hananochirusato.jpg平野晴子さんの第五詩集『花の散る里』が完成した。洪水企画刊、A5判並製カバー84頁。本体1800円+税。前作『黎明のバケツ』の続きの形で、認知症の夫との晩年の生活のあれこれを材料にして書かれた詩を収めるが、夫との死別と平野さんの詩人としての再出発がこの集での到達点となる。帯には「認知症の夫との最後の数年の生活は、おどろの闇を歩く、どこにゆきつくとも知れぬ妖夢の道行であった……」という紹介文を載せているが、まさに見通しのきかない暗闇の道行と言うべきで、どの詩篇にも硬質のレトリックを介してその悲嘆と苦悩が刻みつけられている。伴侶との死別の悲しみをもっともわかりやすくかつ透明感をもってうたっているのは詩集の最後から二番目の「黒い鳥が実を食べに来て」の後半だと思うのでそこを引用する。

 窓を塞ぐように
 黒い鳥が降りてきて
 隠れ蓑の実を啄ばむ
 大揺れの枝
 葉が擦れあう
 木の根もとで頓挫した光

 青黒い翌檜のてっぺんで
 鳥は翼をたたみ硬直している

 葉群れは鎮まり
 無音を奏でる初冬の午前
 玲瓏の空に鳥が発つ

 時が刻を思いだし
 鳩時計がさえずる
 光が色を思いだし
 風景を染めはじめる

 祝福から解かれたわたし

 抱きしめていたはずのあなたは
 光に囲まれ
 まぶしすぎてわたしに見えない

そして最後に置かれた「桃の核」は詩人の再生を予言して力強い。是非お読みいただきたい。

(池田康)

追記
中日新聞4月20日の「中部の文芸」欄で北川透氏による批評文が載りました。ぜひご覧下さい。

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2019年03月13日

あれかこれか

AかBかという選択は人によって違ってくることが多いだろうが……
ハンカチはきちんと畳んでポケットに入れるものと思い込んで半世紀を過ごしてきたが、最近ハンカチをくしゃくしゃにしてポケットに入れておく蛮行が気に入っている。くしゃくしゃのハンカチはなぜか心安らぐ。拭きやすいという現実的利点もあるし、こういう無秩序がちょっとぐらいあってもいいんだよと教えてくれるような気がするのだ。もちろん外では人目もあるしポケットが異様にふくらんでしまってみっともないから家の中でしかやれないが、それだけでも十分OK。騙されたと思って一度試していただきたい。
イヤホンはいくつか持っているが、もっとも好んで使うのは昔からあるような平べったいボタンを耳にはめ込む形のもの。型番がわからないのだがパナソニック製のものを愛用している。現在主流になっている、ゴムの筒を耳穴の奥に突っ込む形のものはぴったりのフィットが窮屈すぎてわが耳にはよろしくないようだ。音の広がりの感じも従来のボタン型の方が好き(耳の骨に低音の振動を伝えてくるものは耳が痛くなって嫌い)。ただすぐポロリと耳から外れるのが難点だが。
プリンターインクはメーカー純正品か他社のエコノミーインクかという切実な問題は、私の過去の苦い経験からすると値段がかさんでもどうしても前者を選ばざるを得ない。悪くするとプリンターがプリンターの用をなさなくなる。エコノミーインクを使うのは高級ウイスキーの瓶に水で割った安酒を詰めるようなものだ――いやこれはわが独断的私見。
娯楽映画か芸術映画かという問題はケースバイケースで、CGの華麗な魔法もけっこうだけれど本物のローソクの炎の揺らめきの方が妖艶だったり、かと思えば家庭劇のありきたりの泣き笑いよりも群衆の衝突の派手なスペクタクルの方が見応えあったり、まさしく予見不可能で、運を天に任せて両方面試すしかなさそうだ。
当時は娯楽だったか芸術だったかわからない(もちろん両方だったのだろう)シェークスピア劇の中で「to be or not to be」とハムレットは悩んだ。市井の埃にまみれてうかうかと暮らす庶民としてはもちろん何のためらいもなく「to be」でしょうという自信満々の答えになるわけだが、百万秒に一秒の割合でどっちでもいいよなと思ってしまう瞬間もあって恐怖する。ハムレットの天秤が真のクエスチョンとして見えてしまう危機的瞬間。そんなときはポケットからくしゃくしゃのハンカチを取り出して、なんだこの無秩序は、力が抜けるよと慰めてもらうのが手軽でよい。
(池田康)
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2019年03月05日

なくしもの

《其之一》いいアイデアを思いついても放っておくと三十分後にはすっかりそのことを忘れてしまっている。メモしておけばいいようなものだが、それをまめに実行することはなかなか難しい。そうなると、いいアイデアが浮かんだということは思い出すのだが、どういう内容だったかはどうしても思い出せない。あれらの失われた着想たちはどこへ行ったのだろうか(パラレルワールドの第二のボクがそれを活用して傑作をものしている?)。もっともメモに書き留めても活用されず死蔵状態になっているものも少なからずあるのだが。
《其之二》最近ビニール傘をなくした。もともとは四本持っていて(出先で雨に降られてビニール傘を買うことで自然に増える)、骨が折れてしまって二本捨て、残り二本になっていた。そのうちの一本のビニール傘をどこかに忘れてきてしまったらしい。あれ、玄関に一本しかないと気づく。ビニール傘の不思議なところなのだが、驚いたことに消失に三日ほど気づかなかった。存在の希薄さ、幽霊のようだ。突飛な発想にも聞こえるが、両者の間にクラゲを置いてみると流れがスムーズになるような気がする。ビニール傘→クラゲ→幽霊。いつの間にかやってきていつの間にか消え去る。ビニール傘に「くらげがさ」という愛称を献呈したい。
《其之三》数日前、パソコン上でファイルが消えた。イラストレータでちょっとしたものを作っていたら急に落ちてしまい、保存処置をしていなかったので、作っていたものがまるごと吹っ飛んでしまった。こんなふうなデジタルデータの喪失は近年覚えがなく、ほんとうに久方ぶりだったので、愕然とした。ソフトによっては急に落ちてもその直前の状態が再現できるものもあるが、イラストレータはこの機能が備わっていないようだ。もっとも本当に「ちょっとしたもの」(いわゆるハモノ)だったので、二時間ほどの茫然自失から気を取り直して、再度挑んだら、二回目は工程を覚えていて速く、あっという間に復元できた。それにしても、あの久しぶりの無常の砂を噛みしめる喪失体験は強烈で、むしろ貴重だったとも言えるかもしれない。
(池田康)
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2019年02月25日

オペラ 紫苑物語

先週土曜日に新国立劇場でオペラ「紫苑物語」を観劇した。作曲・西村朗、台本・佐々木幹郎、原作・石川淳。詳しくは別の場所に書きたいと思うが、一言だけ。石川淳の原作、鏤骨の文章でこの荒唐無稽の伝奇物語を立派な小説に仕立てていて、魔術師!と感嘆するのだが、今回のオペラ作品も独自の発想を打ち出しながら各シーン音楽的にも演出・美術の面でも磨き上げられており、魅せられる。歌を捨て弓の武を追い求める主人公の宗頼をはじめとして、伝統的歌道墨守の父親、アンチヒューマンの殺意の弓麻呂、裸形の欲望のうつろ姫、算木をもちいて謀をたくらむ藤内、精霊の妖気の千草、仏界を顕現させようとする平太と、人物像が際立っていてその衝突がドラマに鋭い輪郭を与えている。原作とおおいに違っているのはうつろ姫の扱いで、原作では醜が強調された不気味な闇の存在だったのが、このオペラ作品では気性獰猛な美姫として前面に出てきていて、オペラ的でもあるし、直裁な欲望の噴出が現代にもつながっているように感じられた。原作のうつろ姫だと歌手は演りづらいだろう。演出・笈田ヨシ。大野和士指揮、東京都交響楽団、新国立劇場合唱団。キャストは高田智宏(バリトン)ほか。
(池田康)
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2019年02月18日

信じたくない現実

「現実」には三種類ある。おおむね信憑性のある現実と、ちょっと信じ難い現実と、絶対に信じたくない現実と。この現実世界はおおむね信憑性のある現実で80〜90%埋まっているから、悪い意味での信じ難い現実が数%まじっていてもなんとか正気を保っていられる。しかし万が一のケースとして絶対に信じたくない現実が起こってしまったときは、頭を掻きむしるような激しい苦悶を味わうことになる。理解不能な奇人や歪な思想を持った怪人が大統領や首相に就任することは多くの人々にとってまさしく信じたくない現実であろうし、2011年の東日本大震災のときのひどい原発事故もまさしく悪夢のようで、現実であると信じたくない虚構じみた現実だった。しかしあの事故の発生の可能性が想定外であったという言い訳は許せないという議論があるからには、想定されてしかるべき、起こっても不思議ではない現実だったとも言える。心理的にはあれ以上に絶対に信じたくない現実も起こり得るのだろう。雷神もうろたえる霹靂。
そうした現実から脱出する方向は、「忘れる」とか「諦める」でなければ、おそらく「未来」しかない。
未来をこれも三つに分けるとしたら、おおむね必然的に到来するであろう未来、成り行きや施しによっては生まれる可能性のある未来、そして成立する可能性のほとんどない未来、となるだろうか。三つめは僥倖の場合は奇跡とも言われるが、絶対に不可能というわけではない。
いずれにしても、絶対に信じたくない現実と対峙する心は、もっとも必死に、あり得る未来の道について考えるだろう。どう考えるにしても、ふつうに「明日」がある、また明日が来る、ということが前提になるのであり、それは「信じなければならない未来」となる。明日とは一杯の水のようなもので、なんでもない当たり前の存在だが、そのわずかな水が可能性の羊水なのだから……
(池田康)
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2019年02月07日

ツンドク考

我が家のツンドクの山から、一年ほどそこに埋まっていた多和田葉子『献灯使』(講談社文庫)を取り出して読んでいる。「みらいらん」3号で北爪満喜さんがこの作家について書いていたので興味をそそられて。この人の小説については多様な観点から論じられるべきことが沢山あるのだろうけれど、まず第一に印象づけられるのは、ただごとではない稀なタイプの諧謔の精神だ。シーンを少しグロテスクの方向へ膨張させるような重く苦い諧謔。笑えない笑い。その連打にぐらぐらっとなる。氏の世界観のリズム、基調となっているのか、このヘビー級のリズムが重量ある世界を運ぶ。
さて、ツンドクは悪癖だろうか。そうではない気もする。ツンドクの積極的意義を解き明かしたい。将来いつか読むだろう、読みたいものだ、読むことになってほしい、そう思って本を手に入れて身の回りのどこかに置いておく。そうした本たちは読んでおくれと背文字で囁き、我々をじんわりと脅迫する。自ら課す宿題。心を重くする。子供は宿題が嫌いだ。宿題なんかなにもない軽い心で遊びたい。心の軽さを第一とするならば、ツンドクはすべきではない。しかし心を重くすることも悪いことではないのだ。ツンドクされた本は、無意識とまではいかなくとも、意識の深部に沈みこみ、そこに重たい層を作る。そうして心のバランスと傾きの方向をいくらか変容させる。ツンドクによって心の低層の幾許かを自分なりに構築することができるのだ。かくてツンドクは生きる意味をも担うに至る−−とまで言えるかどうかわからないが、あれらの本を読んでやらねばという気持ちは明日を生きようとする意欲につながるだろう。もはや地球は隅々まで人間の知の地図帳に編入されており、未開のフロンティアなどないとよく言われるが、まだ読んでいない本は未知の国なのであり、その本と一対一で対峙する経験のうちでどんなとんでもないイメージや考えや感覚が生じるか誰にもわからない以上、大きな可能性を秘めた「未」であるわけで、ツンドクはその「未」を積極的に招来しようとする強い意志なのだ。一切本を積まない超絶読書力の人にとってはわけのわからない御託にすぎないだろうが、ツンドクを積みに積んで心をずんずんと重くするのも一つの道なのだ。
前にどこかで、絶望した人は考え深く精巧濃密な棚を作っている本屋(かつてあった丸善の松岡正剛コーナーのような)に行くといいと書いた記憶があるが、ツンドクは案外セルフオーダーメードの対絶望用の擬似書店空間なのではないだろうか。
(池田康)
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2019年02月02日

「虚の筏」22号

「虚の筏」22号が完成しました。
下記リンクよりご覧下さい。

今号の参加者は、久野雅幸、神泉薫、たなかあきみつ、酒見直子、小島きみ子、坂多瑩子のみなさんと、小生。そして野菜のみなさん。今回の誌面は人間も猪も馬も象も食欲を刺戟されるのではないでしょうか。
(池田康)
posted by 洪水HQ at 20:45| Comment(0) | 日記