2023年06月01日

近況いくつか

「みらいらん」12号の編集を終えて印刷所に入れることができた。いつもよりやや早めだが、これは新作映画を紹介していて、その公開中に雑誌が出るようにするため。ちなみにこの号は映画特集「映画は夢に溶ける」を組んでいる。
先日、野村喜和夫対談集『ディアロゴスの12の楕円』の内輪の小祝賀会があったのだが、8人前後という規模の集まりで楽しく酒杯を交わすのは(私はちょっとしか飲めないが)久し振りで、人との交わりを欠いたここのところの月日の鬱屈が少し晴れた気がした。
昨年の夏は百合に狂っていた(近所の高砂百合を探訪していた)が、最近家の近所で鉄砲百合(この種類はこの季節なのか…)がみごとに華やかに咲いている姿に出会い、百合熱が再燃したような感じ。よその土地にも探しにいこうかと夢想している。
(池田康)
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2023年05月02日

詩素14号

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詩素14号が完成した。
今回の参加者は、海埜今日子、大仗真昼、大橋英人、小島きみ子、坂多瑩子、酒見直子、沢聖子、菅井敏文、大家正志、高田真、たなかあきみつ、七まどか、南原充士、新延拳、二条千河、野田新五、肌勢とみ子、八覚正大、平井達也、平野晴子、南川優子、山中真知子、山本萠、吉田義昭のみなさんと、小生。肌勢さんは新参加。
ゲスト〈まれびと〉は、秋元炯さん。
巻頭は、坂多瑩子「空」、海埜今日子「粉の中の風景」、二条千河「業火」。
表紙の詩句は、マラルメの「蒼穹」の最後の2連。
裏表紙の絵は野田新五さん作。
ぜひご覧下さい。
(池田康)
posted by 洪水HQ at 09:30| 日記

2023年04月17日

野村喜和夫対談集『ディアロゴスの12の楕円』

ディアロゴスの12の楕円カバー画像.jpg野村喜和夫の対談集『ディアロゴスの12の楕円』が完成した。「みらいらん」に連載した対談を中心に、「現代詩手帖」掲載の3本も収録している。対談相手は小林康夫、杉本徹、北川健次、篠田昌伸、石田尚志、有働薫、福田拓也、阿部日奈子、江田浩司、広瀬大志、カニエ・ナハのみなさん。A5判、280頁。定価税込2420円。
この本は最初〈詩人の遠征〉シリーズに入れることを考えたのだが、188×120ミリのこのシリーズの判型で組むと頁数がとんでもなくかさばるので、このシリーズの番外シリーズ〈extra trek〉の1巻として、A5判で制作した。〈trek〉は巻頭に置かれた詩篇「(ダウラギリ・サーキット・トレッキングのように……)」に由来している。
装丁は巌谷純介氏にお願いしたが、カバーデザインの二つの楕円の中の野村さんの横顔の写真は、カニエ・ナハさんとの対談の写真撮影の折についでに撮ったもので、装丁の素材として渡したものの、こんな形になるとは驚き。
楕円形は本書のタイトルから来ていると思われるが、なぜ楕円なのか、「あとがき」からそれに関連する部分を引用紹介しよう。
「「みらいらん」連載の対談は、東京世田谷のわがカフェ「エル・スール」で行われた。コロナ以前には公開形式であったと記憶する。カフェにはアンティークな趣の長楕円形のテーブルがあり、私たちはそのテーブルを囲んで語り合ったが、考えてみれば、二つの中心をもつ楕円は、まさにディアロゴス(対話)のあり方を図形的に象徴するようなところがあろう。タイトルに楕円という語を入れたゆえんである。」
また、カバーの袖には次のような紹介文を置いた。
「詩人・野村喜和夫が哲学者、美術家、作曲家、そして仲間の詩人たちと交わす12の対話篇(ディアロゴス)。二つの中心の力学作用が描く図形はあるいは文学の常識の底を破り、あるはジャンルの垣根を越えて遊行、生の声のぶつかり合う緊張と波乱を勢いにして唯一無二の思考の現場を創造するだろう。」
扱われるテーマの幅広さをおわかりいただくために、目次の並びを下に再現してみる。ちょっと読んでみたいと感じていただければありがたい。

【@ 野村喜和夫の詩と詩論をめぐって】
vs小林康夫 閾を超えていく彷徨 詩と哲学のあいだ
vs杉本 徹 言の葉のそよぎの生起する場所へ

【A 異分野アーティストを迎えて】
vs北川健次 共有する記憶の原郷に響かせる
vs篠田昌伸 〈詩と音楽のあいだ〉をめぐって ゲスト=四元康祐
vs石田尚志 書くこと、描くこと、映すこと

【B 詩歌道行】
vs有働 薫 現代フランス詩の地図を求めて
vs福田拓也 『安藤元雄詩集集成』をめぐって 特別発言=安藤元雄
vs阿部日奈子 未知への痕跡 読む行為が書く行為に変わる瞬間
vs江田浩司 危機と再生 詩歌はいつも非常事態だ
vs広瀬大志 恐怖と愉楽の回転扉
vs杉本 徹 ポエジーのはじめに散歩ありき
vsカニエ・ナハ 二十一世紀日本語詩の可能性

コロナウイルス感染が始まってからは無理になったが、「みらいらん」の対談はイベントとして聴衆をカフェに招き入れて開催していた。そのときの熱気がなつかしい。
(池田康)
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2023年04月16日

流離の意志

今、シルヴィア・ビーチ『シェイクスピア・アンド・カンパニー書店』(中山末喜訳、河出文庫)を読んでいる。20世紀初頭のパリに誕生した本屋で、ジェームズ・ジョイス『ユリシーズ』を刊行したことで名高い。アメリカ人のシルヴィア・ビーチはその店主で、この本は紛れもない本人の回想録ということになる(1959年刊行とのこと)。店は店主の英米文学紹介の志ともてなし力もあり当時の文学者や文学愛好者の“ハブ”のような存在になる。書かれている様々なエピソードの中で、やはりジョイスの『ユリシーズ』の刊行を目指す艱難辛苦が一番の見所だろう。アメリカ、イギリスで禁書扱いになり、出版しようという版元はなく、印刷所も処罰を恐れて印刷を引き受けたがらない。そこでパリの小さな本屋が出す決意をしたわけだが、その途轍もない苦労には読んでいて頭が下がる。そしてここに描かれるジョイスの姿には自らを母国から(世間の良識から)追放した流離の気配が濃厚で、強く印象に残る。
さて昨日は吉増剛造さんの詩と音楽と映像のリサイタル「剛造とマリリアの映画小屋 DOMUS × 大友良英」が恵比寿の現代アート書店NADiff a/p/a/r/tで開催された。この店、名前は知っていた(以前「洪水」誌を扱っていただいたこともある)が、訪れるのは初めてで、駅からは近いのだが、裏道から更に街区の内奥へ入っていったところにあり、ちょっとした秘境の雰囲気がある。このような催しを開催するというのはやはり“ハブ”たらんとする思いがあるのだろうか。店の奥にステージのスペースを作り、観客席は30ほど。非常に背の高いスピーカーがステージの左右に二本立っていて、これが威力を発揮することになる。今回の催しは詩集『Voix(ヴォワ)』が西脇順三郎賞を受賞したのを祝ってという趣旨だった。まず伴侶のマリリアさんが歌を数曲。エレジー風、サイケデリック調、ロックチューン様などいろんなタイプの歌が奏されたが、哲学的自問を核にくるんだ、長くやわらかく叫ぶような歌唱は独特で、夢の空間の中で歌が身を自転させているような魔力があった。後半は吉増さんとノイズ音楽の泰斗大友良英氏(ギターとパーカッション)の共演で、詩と音楽がぶつかった。吉増氏の詩朗読はこれまで映像も含めて何度か聴いているが、ここまで激した「声」はかつてないことだった。音楽と共演すると詩の朗誦はこんなにもエキサイトするものなのか。白石かずこさんがサックスやトランペットのジャズプレーヤーと共演した朗読を思い出すし、フリージャズのセッションに近いとも考えられるが、それよりも更に過激な感じがしたのは、ジャンル的常識、予定調和の落としどころを持たず、なにか底の抜けているような土俵の例外性があるからだろうか。双方の表現が刺戟しあってうねりの山を大きくするということもあるのだろう。両人ともジャンルの中心のオーソドキシーを離れ辺境を冒険する“流離”の意志を抱いており、それが共鳴しているとも見えた。そしてサウンドシステムの力強さがこの共演の音響をさらに迫力あるものにしていた(ライブハウスで激しいロック音楽を聴くのと同じくらいの音の破壊力…)。映像=鈴木余位。
(池田康)

追記
林浩平さんのレポート:

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2023年04月11日

催しなど

年明けからこの方、単行本の制作が重なり、相当に忙しい思いをした。それも、もう一息で完了というところまで来ている。ご案内をいただいた催しで、行きたいと思いながら行けなかったものもいくつかある。
今は次のような情報をいただいている。
吉増剛造さんのイベント:
http://www.nadiff.com/?p=30209
古居みずえさんの新作ドキュメンタリー映画:
http://iitate-bekoya.com/
こちらは主な上映期間が過ぎてしまっているようで、紹介が遅くて申し訳ないが、またどこかでやるだろう。
私も見に行く気持ちはあったのだが、上映時間180分と書いてあったので、長い!と怯んで二の足を踏み、そのせいで見逃した。
みらいらん次号は「映画は夢に溶ける」という特集を予定していて、座談会を収録するなどすでにかなり進めている。
(池田康)
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2023年04月07日

自然で明るい異端

昨日、Ayuoさんのコンサート「色を塗られた鳥、時空を舞う」を杉並公会堂小ホールで聴いた。曲目は、足立智美作曲「蝶が猿とあくびする(パーヴェル・ハースに倣って)」、中村明一作曲「月白」、Ayuo作曲の組曲「色を塗られた鳥、時空を舞う」の3曲。
「蝶が猿とあくびする」はパーカッションと弦楽四重奏が軽快に音を刻む(合わせるのが大変そう)第一楽章と、歌声が語りの要素を残したユニークな形を描く第二楽章とからなる。ここで終わるのか、もう一つ二つ楽章があってもよいのにという気もした。
「月白」は尺八と弦楽四重奏の曲。最初は現代音楽ハードコアといったかんじで油汗が出かかり、次のパートでは柔らかでなごやかな弦楽合奏、その次のパートでは尺八が本来の強い響きを発し……といったかんじで展開していく。中村氏がこれを作曲したのかと、そのことに恐れ入った。
「色を塗られた鳥、時空を舞う」は一時間にもわたる大曲で、ある程度物語に沿った音楽の展開になっているようだ。映画「異端の鳥」(2019、バーツラフ・マルホウル)からモチーフをもらってきているということで、この映画については、弊社刊の高橋馨詩集『それゆく日々よ』収録のエッセイで論じられていたので知っていて、映画そのものも見ている。東欧と思しき場所での一人の少年の過酷な運命を描き、Painted bird=異端者の苦難を見つめる。この作品を取り上げたのは、Ayuo氏自身がアメリカでも日本でもマイノリティの側にいると感じているからなのかもしれない。
Ayuoさんの音楽の特徴は、私が受ける印象では、自然で明るい、ということだろうか。奇をてらったり小賢しくこしらえたり無理をするかんじがなく、おおらかに素直に音が運ばれてゆく、その心地よさが根本のところにあり、その上で、ところどころでアナーキーにカオス的に音が飛び交いぶつかり合う場面が出てきて虚をつかれたりする、その効果もある。天性の素心の明るさについては、特に最終楽章の全員での合奏が曲全体をまとめるためもあってか、あたかもハ長調の基本和音を最終的に志向しているかのような健やかな明るさに満ちていて多幸感があった。非常に惹きつけられたのは、ピアノ(高橋アキ)とパーカッション(立岩潤三)と撥弦楽器(チターのような楽器とギター、Ayuo)の三重奏がアラベスク模様のような風変わりな楽想を奏でつづける楽章で、ピアノと他の楽器との距離がかなり離れていたのでさらに不思議な感じが増し、なんだこれはと耳をそばだてたことだった。この大曲を構想・実現し、歌も担当して大活躍だったAyuo氏の気合いに驚嘆した夜であった。
(池田康)

追記
「色を塗られた鳥、時空を舞う」の音楽の作り方について、Ayuo氏から詳しいご教示をもらった。
私の軽率でテキトーな評言が読者をミスリードするといけないので、氏の説明を下に引用しておきます。

「Ayuoは調性音楽を書いていなく、中世ヨーロッパの協会モードで作曲しています。それも音楽が先行しているのではなく、英語の言葉のリズムとサウンドが音のベースになっています。ピアノ、アコーディオン、ギターは和音を弾いているのではなく、白鍵盤のクラスターを弾いています。白鍵盤のクラスターと低音の持続音が上と下で動いているのです。ギターもF,G,D,G,C,Dという変則チューニングにして、FとGの単音やCとDの単音がぶつかるようにしています。こうした作りは、日本のポップスにはありません。
最後の曲、Appearancesは調性音楽に耳には聴こえるかもしれませんが、Gから始まるミクソリディア・モードで、持続音がGの単音と5度上のD、それにFの単音と5度上のCが交互に動いています。リズムは5/4、8/4、4/4と変わって行きます。これは英語の言葉のリズムが、そのような拍子に自然にはまるからです。8分音符で3,3,2で歌う部分に3連音符が重なったりします。」
posted by 洪水HQ at 12:21| 日記

2023年03月21日

たなかあきみつ詩集『境目、越境』

表紙画像2.jpgたなかあきみつさんの詩集『境目、越境』が完成した。並製120頁、判型は変則的な198×128ミリ。定価税込1870円。
みらいらん11号(火竹破竹)でたなかさんの詩の特徴を「この詩人の詩法はイメージの百叉路を奇妙なリズムで編み上げるシュルレアリスム亜種であり……」と書き、この本の裏表紙の紹介文には「奇韻の前衛の探求者たなかあきみつによるイメージとリズムの錯綜が行方しらぬ未踏のラビリンスをつくりあげる28篇。」と記したが、まさにそのような作品が並ぶ。タイトル作と言える2篇の「境目、あるいは越境」は大病を患い緊急入院して死を覗き見たときの経験を書き留めたもの。さらには伴侶との死別をうたった重要作品もあり、前衛的な書き方の背後に生の重さをひそませている。
造本は洋書ペーパーバックのテイストを目指した、カバーも帯も見返しもない簡素なもの。この造りの本を〈RAFTCRAFT〉のサブレーベルで出すことにした。「RAFT」は筏、「CRAFT」は細工とか工芸とかの意味があり、また、船、飛行船、宇宙船の意味もあるので、「いかだ飛行船」の意味とするのも面白いかと。これは詩誌「虚の筏」からの発想。
表紙はリトアニアの画家スタシス・エイドゥリゲヴィチウスの作品「King Ubu」が飾っている。これはアルフレッド・ジャリの戯曲「ユビュ王」のこと。
さて収録作からなにか一篇紹介したいが、裏表紙には「空の灰青へ」の一部を載せたが、ここでは「(ウナギのうしろ影は)」を引用しよう。他の作品と比べて重要性はどちらかというと低そうだが、たなかさんの詩法が純粋かつ柔軟に、微量のおかしみとともに、わりと辿りやすい形で繰り出されていると思われるので。

 ウナギのうしろ影はもっぱら
 鰓蓋もどきのレンズどうしだとしてもレアル
 しどろもどろにメビウスの蝶結びが切断されて
 その血がばしゃばしゃ滲む《レアル》の岸辺で

 いつも掴み損ねていた
 ウナギの行方については
 Alzheimer氏の記憶の遠い声はまったく言及しない
 ウナギを追う眼光のカンテラの火影にも

 ウナギの肉の動線はのたうちまわる鞭
 いわば眇で撫で肩でやみくもに
 夏の嗄れ声が回廊に与する、それとも
 その頭頂部でもっと暗い稲妻はぎざぎざ弾けよ

 ウナギののたうち、すなわちグイッツォの
 ぬるぬるした質感についても放火の
 記憶の消失が実景の焼失と折りかさなれば
 ウナギの棲む川の水嵩はますます空荷になるだろう

 ウナギの陽炎に最接近する《無題》という名の苛烈な水域
 ウナギの流木、すなわち後年の旅路の友・鰻煎餅とて
 脳裡の黄緑の沼地を蛇行するウナギ切手の図柄
 流木の残水は無観客の頭部に刺さる折れ釘になる

 やや細身の生物の元高校教師の脳内で
 またもや健在の溶けない《氷の塔》の方位がずれる、
 あるいはマンディアルグ氷河の火花散るアヴェマリアよ
 シューベルトの喉の冬の《迷子石》のころがり係数はウナギのぼりだ

(池田康)
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2023年03月12日

悲歌と歓喜の歌と

作曲家・新実徳英さんの新作が初演されるとの案内を受け、昨日、「第9回被災地復興支援チャリティ・コンサート」をミューザ川崎シンフォニーホールに聴きに行った。秋山和慶指揮、洗足学園ニューフィルハーモニック管弦楽団。メインのプログラムはベートーヴェンの交響曲9番。東日本大震災発生の3月11日午後2時46分に黙祷をしてから演奏会が始まる。
新実徳英「交響組曲〈生命のうた〉」はオーケストラと合唱を組み合わせた堂々とした大きな曲だった。トルコの詩人ナーズム・ヒクメットの詩を音楽化した、5章からなる作品。委嘱の時点でこのコンサートが大前提だったので、あらかじめベートーヴェンの第九とうまくつながるように考えて作曲を進めたとのこと。それでオーケストラに合唱も使うという贅沢な特別編成になったのだ。とくに第4章の「死んだ女の子」がよかった。オーケストラ曲としてはきわめて音の動きの少ない寂とした景の構成のうちに悲痛さがみなぎる。この詩は広島の原爆被害から発想されたものという。そして「これは大発明だ!」と感じた。つまり、ベートーヴェンの第九は第4楽章の歓喜の歌を最大の特徴とするが、その前に演奏される曲として、20世紀・21世紀の悲劇を嘆き悲しむ悲歌(エレジー)をもってくるというのは、非常な対称の妙があり、効果絶大なのだ。この新曲は演奏時間が40分もあり、第九の前に置くのは正直長すぎるから、この「死んだ女の子」を中心として15〜20分くらいの曲を編集・作曲し直すのもよいような気がする。
そして、メインの第九も迫力があった。オーケストラというものはベートーヴェンの交響曲のうたい方をよく心得ているものなのだろう。第4楽章の中程のテノールの見せ場があって、コーラス全体が歓喜のメロディをうたい、そのあと、男声合唱と女声合唱とを交互に使って巧みに劇的に組み立てるあたり、とりわけ立派で、この大作曲家の卓越した腕前にあらためて目を見張った。
(池田康)
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2023年03月06日

フェルドマンの聴き方

ピアニスト・井上郷子のリサイタルを聴く。3月5日夜、東京オペラシティ・リサイタルホール。プログラムは三人の作曲家、モートン・フェルドマン、伊藤祐二、リンダ・カトリン・スミスの作品からなる。いずれもピアノという楽器を比較的シンプルに使っていて、名人芸や超絶技巧は出てこないという点で共通している。
フェルドマンの音楽はわかるかわからないかで言うと憚りながら「わからない」部類に入るが、彼のあやうい音楽思考が感じられればとりあえず良いのだろう。音の横のつながりが旋律を成したり明瞭な楽想の魅惑を形成したりしてはおらず、むしろ淡々とした音の無作為の生成と消滅以外の何ものでもないとも言え、音の粒が天から降ってくるのを茫然と見守る感じだろうか。滝に打たれて洗礼されているような、という比喩的表現も当たっているかもしれない。ただし激しい滝ではなく、ごくごく楚々とした神秘の滝なのだが。今回最後に演奏された「ペレ・ド・マリ」のようなフェルドマンの長い曲はむしろ家で仕事をしながら「そば耳」で半意識の外れのところで聴くのがよいようにも思う。だからコンサート会場でも暗くせずに昼のように照明をつけて、皆さんなにか読みながら聴いて下さいという形でやってみるのも音楽のあり方として面白いのではないか。
伊藤祐二「偽りなき心 II」もとてもベーシックなところで音楽を組み立てようとしていて、固唾を呑むのだが、謎めいた和音や、和音とも言えなさそうな音の塊も出てきて、この曲はもとは木管五重奏だったというから、そのときにどんな響きをなしていたのだろうと想像でそわそわした。
スミス作品(2曲)は、華やかな響きと認知しやすい音型、陶酔的反復などを特性として有していて、リスナーフレンドリーの愛想の良さがあるからピアニストも心安らかに弾くことができたのではないか。後半に演奏された「潮だまり」は委嘱作品で世界初演、コンサートの点睛的演目になっていた。
(池田康)
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2023年03月02日

望月苑巳『スクリーンの万華鏡』

カバー画像S.jpg望月苑巳著『スクリーンの万華鏡』(燈台ライブラリ5)が完成した。サブタイトル=「映画が10倍楽しくなる秘話の栞」。新書判320ページ、税込1650円。著者が夕刊フジに書いた映画エッセイがもとになっている。記者として長年映画に接してきた人間ならではの愛情とざっくばらんさが特色と言えるだろう。映画評論というよりむしろガイド本で、映画製作にまつわる裏話、こぼれ話を多く紹介している点が特色となっており、読んでいるうちに映画が立体的に見えてくること請け合いだ。作品の評価については新聞記者という立場に要求される公平で広い視野に由来してか世評というものを相当に重視していると言えるが、章立てや内容構成に独自の映画観も感じられ、とくに同世代の監督たちの作品を論じた章は熱い思いがじんわりと伝わってくる。
この本の内実をお伝えするには目次をそのままここに呈示するのが一番いいと思われるので、ご覧いただきたい。

(1)さらば岩波ホール 時代を飾った名画たち
惑星ソラリス/旅芸人の記録/ルートヴィヒ/八月の鯨/宋家の三姉妹
(2)令和にみる三島由紀夫の世界
金閣寺/潮騒/憂国/美徳のよろめき/獣の戯れ
(3) これが社会派、松本清張の世界
砂の器/点と線/ゼロの焦点/わるいやつら/眼の壁
(4) SF作家小松左京が見ていた未来
復活の日/日本沈没/エスパイ/首都消失/さよならジュピター
(5) 映画でみる太平洋戦争、開戦のあの日
トラ・トラ・トラ!/パール・ハーバー/ハワイ・マレー沖海戦/1941/聯合艦隊司令長官 山本五十六
(6) 映画からみたベトナム戦争
プラトーン/フルメタル・ジャケット/ランボー/フォレスト・ガンプ 一期一会/ディア・ハンター/地獄の黙示録/7月4日に生まれて/デンジャー・クロース 極限着弾
(7) 戦慄、衝撃、リアルな実録映画事件簿
TATTOO[刺青]あり/白昼の死角/復讐するは我にあり/クライマーズ・ハイ/丑三つの村
(8) 独断と偏見による10本の傑作選
シベールの日曜日/バグダッド・カフェ/ベンヤメンタ学院/この森で、天使はバスを降りた/ブコバルに手紙は届かない/變臉―この櫂に手をそえて/サルバドル 遥かなる日々/八月のクリスマス/日の名残り/レオン
(9) 日本美女目録1〜島田陽子という女優
球形の荒野/花園の迷宮/動天/将軍 SHOGUN/犬神家の一族
(10) 日本美女目録2〜原節子
わが青春に悔なし/東京物語/青い山脈/めし/小早川家の秋
(11) 日本美女目録3〜夏目雅子
鬼龍院花子の生涯/時代屋の女房/二百三高地/瀬戸内野球少年団
(12) これが世界のミフネ伝説
酔いどれ天使/羅生門/黒部の太陽/レッド・サン/椿三十郎
(13) 不完全燃焼、松田優作のすべて
野獣死すべし/蘇える金狼/狼の紋章/探偵物語
(14) 今明かす黒澤明の映画トリビア
姿三四郎/七人の侍/天国と地獄/赤ひげ/用心棒
(15) 今よみがえる相米慎二の世界
セーラー服と機関銃/ラブホテル/魚影の群れ/台風クラブ/風花
(16) 異才 森田芳光が描き続けたもの
の・ようなもの/家族ゲーム/失楽園/武士の家計簿/阿修羅のごとく
(17) 巨匠・森谷司郎が描く日本の光と影
八甲田山/動乱/海峡/聖職の碑
(18) 藤田敏八が魅せるハードボイルドの世界
八月の濡れた砂/赤ちょうちん/スローなブギにしてくれ/ダブルベッド
(19) エロスとバイオレンスの石井隆という男
天使のはらわた 赤い眩暈/ヌードの夜/GONIN サーガ/花と蛇/死んでもいい
(20) 知って得する名画のトリビア五輪
小さな恋のメロディ/エマニエル夫人/E.T./風と共に去りぬ/愛と青春の旅だち/泥の河/スウィングガールズ/人間の証明/キッズ・リターン/アウトレイジ/その男、凶暴につき/座頭市/菊次郎の夏

映画紹介の本は固有名詞が多く出てきて校正に苦労するだろうなと予想はしていたが、作業の大変さは予想をはるかに超えた(とくに島田陽子の章は苦労したので、この本には島田陽子追悼の気持ちも少し込められている気がしている)。それだけにこうして一冊が完成して非常に嬉しい。
(池田康)
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2023年02月13日

高橋馨詩集『蔓とイグアナ』

表紙画像S.jpg高橋馨さんが詩集『蔓とイグアナ』を洪水企画から刊行した。一昨年の『それゆく日々よ』に続く作品集。A5並製96ページ、1800円+税。スナップ写真と詩を組み合わせて異次元の諧謔の対話を試みる第一部、自由線画の奔放自在な実践の成果を世に問う第二部、ヴァージニア・ウルフ「ダロウェイ夫人」の鋭利な読解に熱を帯びる第三部からなり、詩人・高橋馨の異才ぶりが存分に発揮されている。
第一部の様子は、冒頭の作品「記憶の階段」を読むのがいいか。街の通りを女の人?が日傘を差して歩いており、その影が道にくっきりと落ちていて印象的で、背後の建物の細い隙間に上階へと上がってゆく骨だけの階段がわずかに見えている、そんな写真に、次のような詩テキストが添えられている。

 泣き出したくなるほど
 懐かしい なのに
 どうしても 思い出せない場処がある。

写真と対話し、沈思し、からかい、戯れる、そんな雅な試みと見える。
第二部の自由線画については詩人自身の言葉を聞こう。
「自由線画は、何も描かない、無意識の悪戯描きのような手慰みである。何かに似てきたと気づいたら、物理的に抹消するのではなく、その線を生かしつつ、別のイメージとして描き続けねばならない。つまり描かれた線は抹消されない。(中略)わたしが、自由線画に求めたのは、おおらかな夢とユーモアと線の根源的な優美さと明晰さの四点である。例えば、ギリシアの壺絵のような──。」
“無意識の悪戯描き”の自由線画40点が載っており、眺めて楽しむのみ。夢なるものをある仕方で結晶させたらこのような形象になるのかもしれない。
第三部の「ダロウェイ夫人」論はとても犀利で、刺戟を受けること間違いない。
「あらゆる対象(オブジェ)・他者には、自我に対する喚起力が潜んでいる。そうした意味で、鏡である。逆にその喚起力が働かなければ、他者でもなければ鏡でもない。窓辺の老婦人が真の喚起力を発揮するためには、セプティマスの悲惨きわまりない自殺を、衝撃をもってクラリッサが受け止めなければ、老婦人の静謐なたたずまいが、他者として対象とは決してならず、自己肯定的な陶酔的なドリアン・グレイ流の肖像にしか過ぎない。老婦人とクラリッサとの間に深刻な断絶あるいは断層を想定して始めて二人の間にシンパシィーが成立するのだ。」
とか、
「ピーター・ウォルシュとは、だれであろうか、ケンジントン公園のピーター・パン、すなわちポエジーの化身なのだ。」
とか、ドキリとさせられることがたくさん書かれていて、非常に重みのある評論となっている。
ぜひ時間をかけて丹念にご覧いただきたい。
(池田康)
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2023年02月02日

野村家の三冊

昨秋は野村喜和夫・眞里子さん夫妻にとって非常に稔り豊かだったようだ。
喜和夫氏は詩集『美しい人生』(港の人)と評論集『シュルレアリスムへの旅』(水声社)を、そして眞里子さんはエッセイ集『アンダルシア夢うつつ』(白水社)を上梓した。秋なのに満開の春を謳歌している!?
『アンダルシア夢うつつ』は「南に着くと、そこにはフラメンコがあった」という副題がついている通り、フラメンコダンサーの著者がフラメンコについて、そしてスペインの生活・文化について広い視野で細やかにつづっており、しかも読みやすく楽々とページが進む。リズム、詞、衣裳、歴史、年中行事、代表的ダンサーや奏者など語られて、フラメンコの文化としての奥行きが多角的に示され、この舞踊ジャンルへの距離が一気に縮まる感がある。しかしなによりも著者の行動力には脱帽だ。専門家としてフラメンコに関するもろもろの知識を披露するページももちろんおもしろく読めるが、本人が現地に行って、特別の人やものと出会う場面は一つ一つがスリルと冒険であり、熱量が著しく高まり、本書の一番の読みどころと言えるだろう。
野村喜和夫詩集『美しい人生』は、書名も驚きだが、この詩人にしては例外的に素直でストレートな書きぶりの作品が多く収録されていて、仰天した。前半の3章「美しい人生」「場面集」「伝説集」がとくにその傾向がある。焼きつけられる思いがしたのが、第一章IX「(たとえいま街々が──)」の中の次のくだり。

 きょうも私は私自身を覗き込む
 その真ん中の
 心と呼ばれるもの
 さらに真ん中のあたりで
 独楽のように静かに回転している美しいあれを
 なんと呼べばいいのだろう
 簡単には言葉にできないけれど
 それでも言葉にしたい
 生きる力そのもののような
 美しいあれを

『シュルレアリスムへの旅』については「みらいらん」11号で紹介したのでここでは省く。これらの充実した本は、コロナウイルス騒動の三年をくぐったからこそ生まれた、という面もあるのかもしれない。ちなみにこの春には、喜和夫氏の対談集『ディアロゴスの12の楕円』が洪水企画から刊行の予定となっている。
(池田康)

追記
野村喜和夫さんの『美しい人生』は第4回大岡信賞を受賞したとのこと、おめでとうございます。
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2023年01月21日

作曲家エンニオ・モリコーネの仕事

いま、仕事やらなにやらでやたら立て込んでいるのだが、その間隙を縫って、映画「モリコーネ 映画が恋した音楽家」(ジュゼッペ・トルナトーレ)を見た。映画音楽で活躍したイタリアの作曲家エンニオ・モリコーネのドキュメンタリー。このジャンルの映画は鑑賞者を限定しそうだ。しかし映画・ドラマに関心がある人はぜひ見るべきだし、音楽が好きな人も二十世紀の音楽の動向を確かめるために見逃してはいけないだろう。とすると、ほぼすべての人に勧められる映画ということになる!? モリコーネが参加した代表的な作品の音楽のサワリが彼の解説に伴われて次々と奏され、魔法のようにこちらの耳に踊りこんできて魅惑し、音楽のインスピレーションが裸形で立ち現れる、その驚異。今月見るべき最重要の一本。
(池田康)
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2023年01月17日

壁画12号&その他のお知らせ

個人誌「壁画」12号をつくりましたので、次のリンクからご覧下さい。
http://www.kozui.net/artnote/hekiga/hekiga12.pdf

その他の情報、お知らせなど。
杉本徹さんから連絡をいただいたのだが、慶応義塾大学アートセンター(三田キャンパス)で、「西脇順三郎没後40年記念 フローラの旅展」が始まっているようだ。3月17日まで。西脇が野の草木を愛したことを巡る展示のよう。土日祝日は休館。
それから、阿部弘一さんが逝去されたとのこと。ご遺族の方からご連絡をいただいた。お会いしたことはなかったように思うが、弊社の雑誌に何度かご寄稿いただいている。ご冥福をお祈りいたします。
(池田康)
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2023年01月07日

この正月の読書

この正月は久し振りの小旅行に出かけ、気持ちを新たにすることができた。人混みにもまれながらも、どこまでも広がりつづける風景を楽しみ、なつかしさに呼吸が深くなる瞬間もあった。
旅先の本屋で見つけたのが、マルクス・ティール著(小山田豊訳)『マリス・ヤンソンス すべては音楽のために』(春秋社)だ。昨年の夏の刊。この指揮者を贔屓にしていてCDを何十枚も持っている私としては、読まないわけにいかない。
ヤンスンスの音楽家人生が詳細に辿られるのはもちろんだが、オーケストラと指揮者との関係がいかなるものかを知るためにも大変参考になる本。首席指揮者はそのオーケストラの「シェフ」であり、養育者(オーケストラビルダー)であって、誰を「シェフ」に迎えるかについて各オーケストラの責任者・経営陣は本当に真剣に熟考、検討を重ねる。あたかも一国のリーダーを選ぶのと似ているかもしれない。その生理、化学反応、個性にそった成長のありさまがすべての頁にいきいきと描写されていて、活動の奥行きが可視化され、オーケストラ音楽について理解を深くすることができる。
ヤンソンスの音楽家生活で惜しまれることが一つあるとすれば、オペラを振る機会が少なかったことだろうか。とくにワーグナーは断片的に取り上げただけでオペラ作品を一曲通して演奏する機会がなかったようなのはとても残念だ。
そのほか、この正月に遭遇したり情報をもらった出版物について述べると、いりの舎から『玉城徹訳詩集』が出たこと(ゲーテ作品が多い)、南原充士さんが新しい詩集『遡及2022』をアマゾンkindleで出したこと、それから元旦には高岡修句集『蝶瞰図』(ジャプラン)を読んでいた。陽炎のヴァギナ……の句はことに印象に残った。
(池田康)
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2022年12月30日

みらいらん11号

mln11.jpgみらいらん11号が完成した。
小特集「本ってなに?」は本という存在について改めて考える試み。ヨーロッパ古代・中世文学研究の沓掛良彦氏へのインタビューで詩歌の歴史と本の歴史を並行してお話しいただいたほか、エッセイを田野倉康一、高階杞一、松村信人、佐相憲一、高岡修、秋亜綺羅、小川英晴、土渕信彦、宇佐美孝二のみなさんにご寄稿いただいた。さらにアンケートに10名の方々からご回答をいただいた。本の本質と現実について、どれだけ新しい視野が拓けただろうか。
野村喜和夫氏の対談シリーズ、今回はカニエ・ナハ氏と「二十一世紀日本語詩の可能性」。ここ20年ほどの日本の詩のことと、造本の諸面の魅力のことなど。今回を一区切りとして、野村喜和夫対談集『ディアロゴスの12の楕円』(洪水企画)にまとめる予定。
巻頭詩は吉増剛造、渡邊十絲子、添田馨、江夏名枝、小見さゆり、七まどかの六氏。俳句は高山れおな氏に寄稿いただいた。
表紙は國峰照子さんのオブジェ作品「処刑」。
さらに詳しい内容は下記リンク先をご覧いただきたい。
http://www.kozui.net/mln11.html
巻頭の吉増さんの詩についてエピソードを記せば、映画「眩暈 VERTIGO」(12月15日の項を参照ください)の公開初日に東京都写真美術館のカフェで生原稿をいただいたのだが(スキャンしたものを本誌に掲載してある)、いきなり未知の森に迷い込んだようで、ご本人を前にして、読みあぐねる箇所の読み方をおそるおそるお尋ねしながら、手探りで読み進んだ15分ほどの恐怖の神秘は忘れられない。自由気ままに書かれているようにも見えるが、活字に組む際に助詞を一つ間違えていて、校正で直していただき、その一字の違いで脈絡ががらりと変わるのを体験し、しっかりした流れがあるのだと認識をあらたにしたことだった。ご注意いただきたいのが3行目、“ひらなが”となっているところ。これは“ひらがな”を間違えて“ひらなが”と言っているのであり、おさなごの感覚を想起している。言葉の立ち上がる瞬間のあやうい過程をおさなごの感受性でつかまえようとするところに吉増詩の極意の一端があると言えそうだ。「光」というタイトルも特別で、ありがたいことだった。
(池田康)
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2022年12月18日

愛敬浩一著『草森紳一「以後」を歩く』

表紙2.jpg愛敬浩一さんの草森紳一論の第二弾が出る。前の本に続き、〈詩人の遠征〉シリーズ第14巻。タイトルは『草森紳一「以後」を歩く』で、「李賀の「魂」から、副島種臣の「理念」へ」というサブタイトルがつく。税込1980円。
晩年の草森紳一は、明治期の政治家にして漢詩人の副島種臣にこだわって論考的文章を書き続けていた(気が長すぎたのか、未完)。そんな草森を見つめる「副島種臣が隠れていた」「漢字という大陸」ほか、詩人・大手拓次、小説家・島尾敏雄、画家・中原淳一を草森がどう考えたかを論じた諸篇を収める。どの論考においても著者の眼差しは柔軟にして鋭く、草森紳一の思考の根本に迫っていく。
あとがきを紹介しよう。
「走り始めてはみたものの、草森紳一の雑文宇宙≠フ果てしなさを実感して、改めて怖じ気立つ思いである。
前著『草森紳一の問い』と同様に、シリーズ第二弾となる本書も、草森紳一の「人と作品」ではなく、まして「評伝」や「論考」などとは無縁な、思いつきで書かれただけの、何とも雑駁で、ちぐはぐな感想の積み重ねに過ぎない。今はただ、その草森紳一「以後」≠少しのぞき見たことで足れり、としておく。
さて、「理念」とは既知であり、見慣れたものなのであろうが、見慣れたものこそが「認識する」ことが最も難しいと、ニーチェ/村井則夫=訳『喜ばしき知恵』(河出文庫・二〇一二年十月)の三五五番にある。「見慣れたものを問題として見ること、それを未知のもの、遠いもの」としてみなすことこそが、最も困難なことなのであろう。」
愛敬氏はまさに歩く速度で、けっして急がず、寄り道や回り道をしながら、草森紳一の心の核へと少しずつ近づいていく。拙速を避け、いきり立つことなく、注意深く細かいところを見ようとするゆとりをもった姿勢が自然体で頼もしい。興味ある方はぜひご覧いただきたい。
(池田康)
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2022年12月16日

虚の筏30号

「虚の筏」30号が完成しました。
今号の参加者は、生野毅、平井達也、久野雅幸、小島きみ子、神泉薫、海埜今日子、たなかあきみつ、の皆さんと小生。
下記リンクからご覧ください。


虚の筏全体の案内:

(池田康)
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2022年12月15日

映画『眩暈 VERTIGO』

よします映画004s.jpg詩人・吉増剛造が2019年に亡くなった前衛映画作家ジョナス・メカスを悼んで1年後にニューヨークを訪れるドキュメンタリーを主軸にした映画『眩暈 VERTIGO』(監督=井上春生)が今月13日から東京都写真美術館で公開上映されている(25日まで)。すでに国際映画祭で多くの栄誉を獲得しているとのこと。
難民の苦難(メカス本人の経歴)、9・11ツインタワービルの惨事、東日本大震災、二十世紀の詩の脈動(ツェランの朗読の声!)。文脈の絡み合いが非常に重層的で、流れに胸苦しい重みが感じられるのは、主題が詩であるからそれを取り逃がすまいと制作者が力を尽くしたのだろう、入魂の編集。文学テキストがスクリーン上にこのように生き生きと乗ってくる、詩が飾り物としてではなく生命として現われてくるのは驚きだ。
井上監督はプログラムに今作の撮影を回想して「一般的にプロが使う撮影スケジュールの体裁を満たしていない」「予定とは偶然を誘うための、壊されるための脆いシナリオにしか過ぎない」と書いている。台本がほとんどない状態で、どんな勝算をもって制作は始められたのだろうか。「眩暈(めまい)」は予定され得ない。ドキュメンタリーは大なり小なりそういうもので、ヴィム・ヴェンダースがキューバの音楽家たちを撮りにいったときも想定された台本などなかっただろう。しかし今作は詩という風か霞に近いようなものを相手にするわけで、詩への全幅の信頼がなければこの映画は成立しようがない。おそらく井上監督は前作「幻を見るひと」(2018)を通して「吉増剛造の詩」への大いなる信頼を培ったのだろうと推測される。映画の成否を詩に賭けるという制作陣の覚悟にこの作品のもっともドラマティックな面があるのかもしれず、詩歌に携わる人間はそこに感応しないではいられない。
構造の点で言えば、能に似ているところもあるだろうか。ワキの旅の僧として吉増さんが登場し、前ジテはメカス氏の息子さん(が語る最後の日々のメカス氏の姿)、そして後ジテの山場はアコーディオンを鳴らしながらうたうジョナス・メカスだ。彼は恨みや執着に苦しんではいないとしても、表現の世界に生きた人間としての特段の心の重さがあるのは間違いない。詩人・吉増剛造は能のシアトリカル・ダイナミクスを体得している、この詩人の魂マギはかならずや幻妖な能舞台を出現させるだろうと、井上監督は確信していたのではないだろうか。
(池田康)

追記
13日の初日の上映後、吉増剛造・井上春生・城戸朱理三氏のトークショーがあり、試写会のときから最終完成形まで作品が手直しされ刻々と変わっていったことなどが語られた。城戸さんは前作「幻を見るひと」のプロデューサーを務めている。
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2022年12月10日

追悼・山田兼士さん

山田兼士さんが逝去されたとのこと。なんの予期もなかったので驚いた。早すぎるようにも思うのだが、寿命というものは正誤を判じようがない、仕方がない。ご冥福をお祈りする。
洪水企画では山田兼士詩集『月光の背中』を2016年に刊行している。
http://kozui.sblo.jp/article/177167689.html
今回思い出しながら読み返しているうちに、「カヌーの速度とは」という作品を引用紹介したくなった。小野十三郎の詩の引用の部分2ヵ所の字下げがWebでうまく表示されるか、わからないが。次のとおり。


  ゆっくり
  水を切るカヌーの速度で
  言葉さがしをしている。
         (「カヌーの速度で」冒頭)

小野十三郎詩集は『半分開いた窓』大正十五年から
『冥王星で』平成四年まで全二〇冊
昭和最後は『カヌーの速度で』

第一詩集の蘆が
第三詩集の葦になり
詩誌のコスモスになり
やがて詩集の樹木になり
最後にカヌーになり
冥王星まで旅し
生涯を終えた

  時間をとめて
  カヌーよしずかに
  すべるように
  その中にはいっていけ。  (同末尾)

その空間は広く 深く
時間もまた人間を 軽く
はるかに越えていく

言葉さがしには
ちょうどカヌーの速度が
速くも遅くもない たましいの速度が 
必要と 静かに教えてくれた
八十五歳の詩人の声だ

      たましいの速度…細見和之「言葉の岸」より

(池田康)
posted by 洪水HQ at 18:51| 日記