2020年07月04日

みらいらん6号完成

milyren6.jpgみらいらん6号が完成した。疫病禍で大変だった今年前半を制作時期としながら、なんとか完成にこぎ着けることができてほっとしている。
巻頭詩は谷川俊太郎、八木幹夫、堀場清子、山中真知子、神泉薫、長谷部裕嗣の各氏、俳句は松本邦吉氏、短歌は川崎勝信氏にお願いした。河津聖恵さんの連載詩は今号が最終回。
特集は「吉岡実」。城戸朱理さんの提案と導きにより、動き出した企画。朝吹亮二・城戸朱理両氏の対話(外出自粛期間中の4月にメール交換で作られた!)を頭に置き、批評エッセイは高岡修、小林一郎、田野倉康一、松尾真由美、小笠原鳥類、松本秀文、菊井崇史、生野毅の8氏にご寄稿いただき、アンケートは嶋岡 晨、安藤元雄、八木忠栄、広瀬大志、野田新五、小池昌代、米山浩平、たなかあきみつ、渡辺玄英、有働 薫、宇佐美孝二、江夏名枝、福田拓也、國峰照子、中本道代、渡辺めぐみ、浜江順子、神山睦美、和合亮一、岡本勝人の20名の方々からご回答をいただいた。あと小生の勝手気ままな特集おぼえがき。
野村喜和夫さんがホストのシリーズ対談記事〈対話の宴・野村喜和夫の詩歌道行〉は今回は歌人の江田浩司さんをゲストに迎え、江田さんんご自身の本のこと、吉岡実や岡井隆のこと、今回のコロナウイルスパンデミック下での詩歌の動向のことなど、幅広く語っていただいた。緊急事態宣言が長引いてなかなか直接会っての実施の目処が立たなかったが、6月に入ってようやく収録することができた次第。
今年1月に逝去された清水茂氏の追悼文を厚誼を得ていたのでぜひ掲載したく思い、小島きみ子さんに執筆していただいた(小島さんは「洪水」13号で聞き手になって清水氏にインタビューしている)ほか、山本萠さんが「詩素」8号に発表された詩が清水さんの死を悼んでのものだったとのことで、その作品を転載させていただいた。
あと、特別寄稿として、「海外通信」と題して英国在住の南川優子さんに英国の現状を伝えていただいた。
全体で184ページ。ぜひ書店でお買い求めいただきお読みいただきたい。
(池田康)
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2020年06月28日

汽車と電車

真心ブラザーズの「アイアンホース」という曲を聴く。ちょっと愉快。アイアンホース(iron horse)、鉄の馬とは、機関車を意味する英語で、そういうタイトルの映画もある。鉄の重さを思わせる低音がひびき、リズムはあくまで前進する。ひねりが利いた言葉がそっけなく鉄道をたたえる。ブルーハーツの「TRAIN-TRAIN」が自由を希求する観念性がまさった青春のつっぱり歌だとしたら、この「アイアンホース」はより鉄道の現実の姿に寄り添う、もみじの秋のあそび歌だろうか。曲最後の5音に注目。
鉄道をうたった歌はどんなものがあるか。唱歌・童謡では、歌詞の長さがもの狂おしい「鉄道唱歌」や、懐かしい「汽車」とか「線路は続くよどこまでも」などがある。歌謡曲・ポップスだと、「津軽海峡冬景色」、「あずさ2号」、「哀しみ本線日本海」、「駅」などがよく知られているか。「さらばシベリア鉄道」もただちに念頭にあがってくる。スケールの大きさという点では「アイアンホース」も「TRAIN-TRAIN」もこの曲にはかなわないだろう。大瀧詠一の旋律はどの曲もこせこせせず音を大きく動かすところがあり、気分の雄大さや夢成分が分泌する恍惚が感じられる。この曲も例外ではない(近視がどうのという珍妙な歌詞も含まれているが)。
「いい日旅立ち」は国鉄由来の曲だったはずだが、詞の中に鉄道を直接に表す言葉はないようだ。はっきりと鉄道の歌にするためには、たとえば「私を待ってる人がいる」のところを「私を待ってる駅がある」とすれば鉄道ファン公認の鉄道歌になるのではないかとも愚考するが……顰蹙を買いそうだ。
「なごり雪」は「汽車を待つ君の……」と始まる。しかし現在ではもう「汽車」は生活に合わない。子供のころはまだ「汽車」は立派に現役の言葉だったが、今や、使うと笑われかねない。この歌が現役として留まるためには「電車を待つ君の……」に変えるほうがよいのだろうか? しかし語呂が悪いのがつらい。2文字を3文字に変えるだけだが抵抗があるし、「汽車」の「き」の字も「君」と通じていて捨て難いのだ。
「銀河鉄道999」はゴダイゴの歌が有名なのだろうが、個人的にはこの漫画のテレビアニメ番組の主題歌も心にしっかり刻まれている。平尾昌晃の旋律造形力に敬礼。この曲も「汽車は……」で始まるが、この漫画に出てくる鉄道は見るからに蒸気機関車の形をしており永遠にそうだろうから、これは「汽車」でなければなるまい。
外国の曲ですぐに思いつくのは「A列車で行こう」「500マイル」あたりか。前者はデューク・エリントン楽団の看板曲。後者はフォーク系のスタンダードナンバー。「涙の乗車券」は比喩として使われているに留まるという気がする。鉄道ファンの公認はもらえそうにない。
19世紀、鉄道は驚異だった。20世紀前半もその感覚はかすかに残っていた。しかし夜汽車に乗ってとついでいく花嫁はもういない。新幹線のような高速交通システムまでできて電車がすっかり日常生活に溶け込んだ今、鉄道に特別な驚異の感覚はない。さすれば、この項の次なる課題は、「電車」という言葉を詩語として完全に消化し、そこに旅情あるいはなんらかの抒情の響きを乗せることに成功した歌がないか探すことだろうか。
(池田康)
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2020年06月24日

山本萠詩集『猫たちは 風に吹かれ』

前項から猫つながりで、山本萠詩集『猫たちは 風に吹かれ』(書肆夢ゝ)を紹介する。猫たちとともに過ごす日々をつづった詩を集めた詩集。冒頭に置かれた「猫のうたたね」を引用する。

 人が座ると ギィと悲鳴を上げる
 古ぼけた椅子に
 軽業のごとく 飛び乗って

 老猫が 惰眠をむさぼる
 前肢をていねいに揃え
 尖った顎を その上にそっと
 のせる
 それから
 大事なことを忘れていた!
 というふうに 突如起き上がり
 ぶるん と身震いをひとつ

 (瞬間 この世のチリアクタは霧散し)

 そうして
 再び 穏やかにおだやかに
 細い顎を そおっと
 地球の上 にのせる
 その〈平和〉
 の上に

内容的にはなんてことない一篇だが、抑えられた手数のデッサンが冴えていて、ちょっといい音楽を聴いた気持ちになる。このような淡々とした作品から、思念の濃密なものまで色合いの多様な詩が集まっているが、もっとも濃く悲哀のこもった作品は猫の死を悼んだ「宇宙の野へ」「これ以上なく透き通り」だろうか。「アフガン・グラス」は「みらいらん」2号の表紙に載った散文詩をタイトルを付けて行分けにしたもの。なつかしい。詩集最後に置かれた「ひとつの丸い塊になって」も引用したいところだが、長くなるのでやめておくが、作者の命と猫の命とがひとつになる感覚がよく表現されていて、この詩人の死生観を一幅の絵にしたようで、もしこの詩集を手に取ることができたら是非お読みいただきたい。
(池田康)
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2020年06月21日

禁断のネットフリックス

昨年来、志田未来作品を追跡している者としては、新しい主演作は見逃せない。劇場公開が中止になりネットフリックスで先日公開されたアニメーション映画『泣きたい私は猫をかぶる』(監督=佐藤順一・柴山智隆)を見た。少女が魔法の仮面をかぶって猫になるという設定のファンタジー。志田熱演、変転し変幻する声の技で“リードボーカル”として躍動していた。主人公ムゲとその友だち頼子との琴瑟とも称したくなるマブダチぶりはじーんとくる。物語は、主人公の家の猫(義母が連れてきた)が本格的に筋にかかわってくるあたりからぐっと面白くなる。祭りの夜の猫世界はすばらしく凝っていて悪夢風にマジカル。最後は厭世的な幻想文学ならばムゲも日之出(ムゲの恋の相手)も猫になってしまって終わるというエンディングも展開の選択肢としてあり得るのだろうが、健全な商業作品としてはそんなあらぬ方向のお話は子供に向かって差し出しにくいだろう。舞台となっているのは常滑。小生の郷里の近くで少し懐かしさを覚える。しかし行ったことはなかったはず(瀬戸なら行ったことあるのだが…)。常滑焼きの里はこんなふうに窯の煙突が林立しているのかと実際の町を見てみたくなった。
ネットフリックスという「禁断の苑」はそこに所蔵されるタイトルなら簡単に視聴できる竜宮城のような場所で、うかうか過ごしているとあっという間に時間が経過して外の世界に戻ったら百年経っていたなんてことにもなりそうだ。思案するに、劇場にわざわざ足を運ぶとか、テレビでやっと放映されたのを逃さずに見るとか、レンタル店で探して借り出すとか、視聴するのに若干の手間や負荷がかかるほうが現実感を伴った苦労が下敷きになっていてよいと思うのだが、今はこういう無重力の恐ろしくストレスフリーな鑑賞サービスの場が主流になりつつあるのだろう。映画やテレビドラマのほか、音楽作品もあり、宇多田ヒカルの2018年のコンサートも視聴できるのはラッキーな気がした(アルバム『Fantome』の曲がいろいろうたわれるほか、又吉直樹との恐怖コント対談も挿入されている)。アメリカのミュージシャンのコンサートやドキュメンタリーはたくさんあるようだ。
(池田康)
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2020年06月18日

みらいらん6号編集完了

「みらいらん」6号の編集が完了し、印刷所に入れた。今号の特集は「吉岡実」。4号の田村隆一特集同様、城戸朱理さんの導きによる企画だ。朝吹亮二・城戸朱理両氏の「対話」のほか、8本の批評エッセイ、20名の方々にご回答いただいたアンケートなど。
野村喜和夫さんの対談シリーズについては、6月8日の項に記した通り。
また今号の巻頭には谷川俊太郎さんに詩作品を御寄稿いただいており、そちらも楽しみにしていただきたい。来月上旬完成予定。
(池田康)
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2020年06月08日

霧にとざされた日々を抜けて

「みらいらん」次号の「対話の宴/詩歌道行」のための対談を先日世田谷の詩とダンスのミュージアムで行った。野村喜和夫さんがホストとなるこの連載企画の今回のお相手は、小誌に連載で批評文を寄せて下さっている歌人の江田浩司さん。詩と短歌のかかわりについて、吉岡実や岡井隆について、江田さん自身の近年の詩歌の仕事について、そして現在のコロナウイルスパンデミックの状況について、細やかに語り合っていただいた。感染の危険性を考慮してこのたびは無観客で実施した(これは少々残念)。5月中旬に一度日程が決まっていたのだが、緊急事態宣言が出たので、それを白紙に戻し、状況が落ちついてから再設定して、ようやく実現にこぎつけることができた次第で、ほっとした。次号をご期待いただきたい。
野村さんは今、白水社のウェブマガジン「ふらんす」で詩の連載をしている。コロナ危機の不安にみちた日々の想念を主に綴る形で、なんと週に一回の更新とのこと。詩・野村喜和夫×音楽・小島ケイタニーラブ×写真・朝岡英輔「花冠日乗」、というコラボ作品になっている。

 さかのぼるが
 3月6日
 愛犬ガブリエル旅立つ

 だがいまも霊獣ルーアッハとなって
 深夜、私を護るように
 家のまわりをまわっている、みえないが
 遊星のように、錆びた自転車
 薔薇のための土
 らとともに

 3月31日
 告別の儀式も許されないまま
 世界中で
 柩が発ちつづけている

という哀切で戦慄すべきフレーズも出てくる。URLは次のリンクから。
雑誌ふらんす:
https://webfrance.hakusuisha.co.jp/
詩のページ:
https://webfrance.hakusuisha.co.jp/posts/3516
(池田康)
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2020年06月02日

マリス・ヤンソンス その2

マリス・ヤンソンスはライブ演奏でのエネルギーの凝縮爆発を重視していたようで、コンサートライブをそのまま収めたCDをたくさん残している。これらのライブ録音は表面で運動する音の奥にあやしい神秘の闇がうずくまっていて、艶かしい空気を作り、去来するすべての瞬間に魔法をかけ、輝かせるのであり、歪みまで魅力と化すその本物感がたまらない。とにかく生彩があり、単純な旋律やパッセージを管弦が朗々と奏しているだけでも、茫然、陶然としてしまう。一曲毎に拍手で区切られるから気づかないうちに次の曲に移っていたということがないというメリットもあるがこれは蛇足だろうか。晩年の本拠地となっていたバイエルン放送交響楽団とロイヤル・コンセルトヘボウのそれぞれのライブ録音を集めたボックスセットが一枚当たりにすると数百円という廉価で販売されている。そういうものを入手して聴くと、ブラームスからマーラー、ストラヴィンスキー、シェーンベルク等々、19世紀後半から20世紀前半にかけての音楽がレパートリーの中心になっていることがわかる。しかし戦後の作曲家の曲も積極的に手掛けていて、たとえばルチアーノ・ベリオの「4 Dedicaces」はまさしく現代音楽ぽい曲だが、脈絡がよくつかめなくても音が生々しく輝くからそれを眺めているだけで新鮮な時間になる。ソフィア・グバイドゥーリナの「Feast during a Plague(ペスト時の酒宴)」という変な曲も入っていた。曲の後半はとくに不気味に変。印象的な打楽器の四つ打ちのリズムモチーフは三つめにアクセントがあり、ロックのリズムを想起させる。調べると、この曲の日本初演が今年の2月に行われていた(下野竜也指揮、読売日本交響楽団)。偶然の成り行きからそうなったのだろうと思うが、このウイルスパンデミックの時期にどんぴしゃの出現だったと言えそうだ。以上はロイヤル・コンセルトヘボウのCD収録曲だが、もう一つ書き置くなら、マーラーの交響曲7番はこれまで楽しく聴けたためしがなかったが、今回は楽しく面白く聴くことができてありがたいことだった。
バイエルン放送交響楽団との演奏でのベートーヴェン交響曲全集(2013年)は2012年に来日してサントリーホールで行ったベートーヴェンチクルスをベースに、ミュンヘンでのコンサートを織り交ぜて構成したもので、シチェドリン、望月京など現代音楽6曲(ベートーヴェンをテーマに作られたもの:Reflection)も一緒に収録されていて、現実のコンサートに近づけるという意図なのか、風変わりな「全集」だ。中ではカンチェリの「Dixi」が〈荒野の電気〉を感じさせて印象的だった。またこれはベートーヴェンの交響曲セットの収録曲ではなく別のセットの収録になるが、シチェドリンのピアノ協奏曲5番(ピアノ:デニス・マツーエフ)は異彩を呈してとても面白く聴ける。
さて、この指揮者については、重大な見落としに気づいた。以前、ショスタコーヴィチの交響曲をまとめて聴いたときに、お世話になったボックスセットの全集が、マリス・ヤンソンス指揮のものだった。ただしライブではない(小生としては残念)。オーケストラはバイエルン放響、ベルリンフィル、ロンドンフィル、オスロフィルなどさまざまで、全集としてはややとりとめないか。付録の小冊子には短いインタビューもあり、子どもの頃、指揮者だった父親(Arvid)とムラヴィンスキーがショスタコーヴィチの音楽について議論するのをはたで聞いていたのだそうだ。英才教育そのもの。この交響曲全集の恩恵を受けていたからには、5月6日の項とこの項はやはり追悼文ということになるだろうか。
(池田康)
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2020年05月26日

食べ物の話、SFから地産まで

緊急事態宣言が解かれて、一息つくような気持ちのゆるみ加減がなにやら心地良い。
一番緊張感が高まっていたころ、心配して下さったある方から食料の支援をいただいた。届いた箱にはレトルトカレーから生の野菜までいろいろ入っていたが、その中にインスタントの味噌汁もあり、個包装をあけるとおもちゃの煉瓦のような茶色の固形物が入っており、これをお椀に入れ、湯を注ぐとたちまち広がって溶けて味噌汁になる。卵スープなどではこういう形のドライ加工の即席食品を経験していたが、近頃は味噌汁もこれになったんだと一通り感心したあと、「しじみ味噌汁」というのを試してみてびっくり。本物の貝殻に入ったシジミが十個ほども出現した。あらあら、あの固形物のなかにこいつらが入っていたのかと、おったまげる。とうとう味噌汁までSF化する時代なのだ。
食べ物と言えば、最近感心したものに茨城産の野菜がある。某日、ほうれん草を買って食べてみたら味がしっかりしていて非常においしいので、どこの産かと見直すと、茨城産とあった。ピーマンについては、近年この野菜は彩りのほかに食材としてどんな存在意義があるのだろうと疑わしく思っていたが、茨城産のピーマンを食べてみると、非常に味が濃くて、むかし子どもの頃感じたような「ピーマンの味」がして、嬉しいことだった。土とか風土とか栽培法とか、なにか違いがあるのか。果物や米と違って、野菜はブランドものが少ないように思うが、「茨城野菜」は私のなかでは一つのブランドとなりつつある。
一方これはブランドにはなり得ないが、スーパーマーケットには近隣の農家が栽培する少々ぶかっこうな野菜を置いたコーナーがあり、トマトや胡瓜を買うときなどよく利用する。商品という感じがしない不揃いな形状と利幅とか考えてないようないかにも率直な安さに、細かいことは気にしない、近所付き合いのような親近感を覚えるのだ。
ベランダで冬から育てていた空豆が実をつけた。一株につき一粒という貧しさ。植木鉢では限界があるのか。病気になったものや小さいままのものもあり、まともに食べることができたのは、一粒だけ。残念というべきか、めでたいというべきか。
(池田康)
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2020年05月22日

『八重洋一郎を辿る』の書評3

「図書新聞」3449号(2020年5月30日号)に、鹿野政直著『八重洋一郎を辿る』の書評が出た。評者は葛綿正一氏。これだけ周到な紹介・批評はなかなかないのではないか。とくに終盤、「かくして、詩人論は思想史研究において危険な位置を占めるといえる。詩の言葉は「毒」となってしまう可能性が残るからである」以降の部分、「衝く」という言葉をめぐっての考察は深く鋭く、心に刻まれる。是非ご覧いただきたい。
なお、同号には詩歌関係では原成吉著『アメリカ現代詩入門』の書評もある。
(池田康)
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2020年05月06日

マリス・ヤンソンス

ここ三日ほど、寸暇を活用して、録ったまま未整理だったMDを調べ直して整理していた。現在の住所はラジオの電波がいまいちきれいに入らないのでやめてしまったが別の土地で暮らしていた頃はよくFM番組をエアチェックしていたのだ。作業をしながら、シューマンの交響曲を聴きたくなり、4曲をでたらめな順番で聴いていたのだが、最後に追加でかけた彼のピアノ協奏曲の次に、ベートーヴェンの交響曲第7番が録音されていて、ついでに聴いた(ライブだが演奏日不明)。力強い、非常に説得力のある演奏で、心動かされ、演奏者の名前を見たら、バイエルン放送交響楽団で指揮者はマリス・ヤンソンスとなっていた。この名前、最近ニュースで聞いたような気がして、ネットで検索したら、昨年11月死去と出ていた。一流の指揮者と目されていることは知っていたが、ひょっとしたら本当に素晴らしい才能なのかもと思い、この人の演奏を録ったMDがほかにあるか調べてみると、三つほど出てきたのでそれらも聴いてみた。
まず、シベリウスの交響曲1番とブラームスの交響曲1番、これはウィーン・フィルの演奏で、2005年3月6日にウィーンから国際生放送されたもの(NHKFM)。それからブラームスのヴァイオリン協奏曲(Vn:ジュリアン・ラクリン)と交響曲3番、R.シュトラウスの交響詩「ティル・オイゲンシュピーゲルの愉快ないたずら」。これはロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団の演奏で、2008年11月12日NHKホールにて(NHK音楽祭2008)。さらにマーラーの交響曲5番、これはバイエルン放送交響楽団の演奏(2006年3月10日、ミュンヘン)。
ライブ演奏だからより強く印象づけられるのかもしれない。ヤンソンスの指揮は、すべての音やフレーズを「科白」のように立て、楽想の流れの理を繊細に見きわめ活かしながら劇的に音楽の世界を作っていくところ、ちょっとオペラのような趣きがあり、それが魅力と説得力になってくるようだ。丁寧で、緻密で、聞き逃さず、弾き流さない。神経をともなった卓抜な展開力で、何度も聴いたはずの曲がとても面白く聴ける。楽譜の音を実際の歌声にするために、ヤンソンスは「必要な人」だった、と言えそうだ。
略歴を見ると、1943年ラトヴィア生まれ。この小国はバルト海に面したバルト三国の一つで、リトアニアとエストニアにはさまれ、ロシアにも隣接している。カラヤンとムラヴィンスキーに師事したとあるから本流の人のようだ。私の所有するCDでは、五嶋みどりのメンデルスゾーンとブルッフのヴァイオリン協奏曲の演奏でベルリン・フィルとともに共演している(ライブ録音)。ただしこれは、ヤンソンスが晩年率いることになる二つの名門オケ、バイエルン放送交響楽団とロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団の指揮者に就任する以前の録音。逆に貴重か。
生前この指揮者に特別の思い入れはなかったからこの一文は追悼文という種類のものではないが、今後はこの人の残した演奏は意識して聴くことになりそうだ。
(池田康)
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2020年04月29日

詩素8号

詩素8表紙.jpg緊急事態宣言下のゴールデンウィークはどんなものになるだろうか。部屋の中から窓ごしに外を眺める分には、春の日がみごとに輝いているが……
さて、「詩素」8号が完成した。今回の参加者は、小島きみ子、山本萠、大家正志、南原充士、坂多瑩子、沢聖子、吉田義昭、たなかあきみつ、山中真知子、二条千河、酒見直子、平野晴子、野田新五、菅井敏文、南川優子、八覚正大、八重洋一郎、高田真、海埜今日子、平井達也、大仗真昼のみなさんと小生。「まれびと」コーナーに詩作品を寄せて下さったのは、冨上芳秀さん(「樹木幻想」)と松尾真由美さん(「身近な危機とその渦中と」)。巻頭トップは山本萠さんの「夢の川へ」。88ページ、定価500円。まだ残部ありますので、ご希望の方はご注文ください。
(池田康)
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2020年04月23日

疫の奔流の行方2

今回のウイルスの嵐から、行政に携る人々や医療関係者は無数の貴重な教訓を引き出すのだろうが、誰でも思いつく最大の教訓はこれだろう:
「疫病の脅威は国や為政者のプライドよりも百倍も重大だ」
台風や地震と同じくウイルスも情け容赦がなく、やさしい斟酌や好意的な政治的取引などしてくれないのだ。さてこれを少し普遍的な方向にパラフレーズすれば、こんなふうになるだろうか:
「われわれの生命は国や為政者の利益よりも百倍も重要だ」
なんだか当り前の、きれいな教科書的オピニオンになったが、生命と言ってもいろいろあって広大だから、さらにこれを細かく敷衍して書くなら、こうだろうか:
「国民個々の心身の健康は国や為政者の思惑よりも百倍もリアルだ(このリアリティが侵害されるとき、前者は後者を疑う)」
肉体以上に、心、精神が、おかみの意向に沿ってプラスチックに成形される危険性は常にあり要注意だが、ぼんやりしていると気づかないままうかうか暮らしがちで、こういう稀な危機の季節にしっかりと気づいておけるならそれにこしたことはない。だからというわけではないが、最後の捨て台詞じみた変奏はこうだ:
「床屋談義は国や為政者の歴史よりも百倍も真実だ」
これまたありきたりな寸鉄かもしれない。やり直そう:
「巷の与太は国や為政者の嘘よりも百万倍も白だ」
これは少なくとも数学的正確さを誇れる。
(池田康)
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2020年04月05日

疫の奔流の行方

コロナ・マスカレードの不気味な祭が世界規模で続いている。数字とグラフにおののく朝夕。ペストやコレラ級でなくても疫が大津波となって襲来すると対処が難しい。ゾンビに咬まれたら自分もゾンビになる……というホラー映画の嫌な筋立てに似た、叫びたくなるシチュエーションを、罹患者に距離ゼロで接しなければならぬ医師や看護師たちは身をもってくぐり抜けているのだろう。
カミュの「ペスト」がいま広く読まれているそうな。昔読んだとき、主人公の医師の周辺にいる男の、ペスト禍の絶望的状況の中で熱心に(状況と無関係な)詩を書いている姿が奇異でひどく印象に残ったが、コンサート中止で時間ができた音楽家もいま一年後にうたう陽気なラブソングを作っているのかもしれない。非常時にひとつまみの平常の時間をどう自分で創出するか、という努力は精神の健全を保つために、前向きの呼吸をするために必要なのだと思う。
このところ、石牟礼道子著「椿の海の記」(河出書房新社・日本文学全集巻24『石牟礼道子』所収)を読んでいた。世界との交感のレベルの深度において驚くべき小説。ものごころがつき始めたばかりの子供が見る世界はこんなにも豊饒なのか、そして悲哀はこんなにも裸なのかと感嘆する。主筋ではないが、コレラが流行った時の様子が少し書かれている。
「それはどうやら、浜町にいたとき、コレラの流行ったときの光景らしかった。春乃も罹患して……中略……このときのコレラで死んだものたちはおびただしく、死人たちを、浜の真砂の上にじかに並べて焼き続ける大廻りの塘の煙の中から、兵隊たちが小さな舟で、いくさに出て行ったのだった。そのような煙の流れる故郷を後に眺めながら。」
死者が万を越えたら大震災レベルといえるだろう。すでに越えている国もあるし、徐々に近づいている国もある。まだ序の口とそわそわしている国も。疫病の数学のテストで合格点を取ることはマクロ経済の数学と同じくらい難しい。
「いかなる幽霊の姿勢で/全員で吊りさがればよいのか?」(吉岡実「コレラ」より)
(池田康)
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2020年03月30日

『八重洋一郎を辿る』の書評2

鹿野政直著『八重洋一郎を辿る』の書評が「週刊 新社会」3月3日に執筆=鈴木裕子氏で、また「沖縄タイムス」3月28日に執筆=新川明氏で、掲載されました。ぜひご覧下さい。
(池田康)

追記
毎日新聞(西部版?)3月29日の「詩歌季評」(評者は田中俊廣氏)でも取り上げられました。
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2020年03月21日

解せぬこと

最近解せぬこと。その一。イタリアの悲劇的な状況。同じウイルスのはずなのになぜほかと比べて桁違いに死者が多いのか。中国を上回るって、なんで!?と戸惑う。これが夢かなにかの間違いではないのなら、シンプルに、不運の連続と対策の拙さが重なればその結果、最悪あそこまでいくのだ、という恐るべき真実なのかもしれない。
その二。マスク製造会社はまぜこんなにも商機を逃しつづけるのか。一週間程度商品がなくなるのはわからないでもないが、ここまで長引くのは解せない。いくら高級仕様とはいえ、マスクくらい簡単に製造できるだろうに。なんなら、簡易な型をちゃちゃっとこしらえて手ごろな材料で作ればいい。どうぞどんどん儲けて下さいと皆が思っているのだから遠慮はいらないのだが。(医療機関などに優先的に納入しているのだろう)
その三。流感covid19についていろいろ報道がなされるなかで、世界には石鹸がない家庭が多い地域が広く存在するという話も聞かれ、驚いた。もの心ついてこの方、家には常に石鹸があって当り前に使ってきた身としては、なかなか飲み込めない話だ。靴やパンツと同じくらい必需品ではないか。どれだけ貧乏とは言え、石鹸が買えないほど貧乏というのは想像を超える。それでも20年くらい前まではアジア諸国の貧しさについて強いイメージがあったが、最近ではタイやマレーシアなどから観光客が来日する時代になっているのだから、そんな赤貧洗うがごとき貧しさは、政情不安をかかえる国や地域を除いては、ほぼなくなったのだろうと勝手に思い込んでいたが、違ったようだ。石鹸が買えないほどの貧困もある、これも「恐るべき真実」だ。
ついでにもう一つ。これはどうでもいい「解せぬ」だが。
今日の午後、春の陽の下を歩きながら、どんな成り行きからだったか、オタマジャクシの名前について考えていた。蛙の子はなぜオタマジャクシというのか。おそらく料理で使うお玉に形が似ているからだろう。しかしここで、あれ?と思う。お玉の正式名称が玉杓子であるとしても、お玉をお玉杓子とは現実の生活の中では言わない。台所で母親が手伝いをする子供に「オタマジャクシ取って」と言うことはまずない。もともとの存在の名前としてはとっくに廃れたのだ。それなのに蛙の子のオタマジャクシという名前がちゃんと杓子定規に残っているのがなんともおかしい。そしてそこからさらに、音楽の楽譜の音符の愛称にもなっているのだ。オタマジャクシを見る機会がとんとなくなった今、オタマジャクシの名称が最後に残るのは五線譜上だろうか。(コロナという言葉も元々の存在=冠を目にする機会が少なくなるのであれば今後は主にウイルスの名前として残っていくのだろうか…)
(池田康)

追記
「新型コロナウイルス」という呼称はやや限定がゆるすぎないだろうか。病気の種類の特定ができているとは言いにくい。今のところはこれで通じるし、テレビ・ラジオのニュース番組は日々過ぎ去っていくものだからまだしも、紙媒体、特に新聞は何年か経って記事を見返した場合、間の抜けたもどかしい感じがするのではないだろうか。例えば台風の記事だとしたら、「新しい台風が来ました、新しい台風が東京を襲っています、新しい台風はかなり強力です」と書くようなものだから。国際機関が提示している「Covid 19」が使いにくいとしたら、19年式コロナウイルスとか、7種類目ということで七型コロナウイルスとか、あるいは干支を使って己亥感冒とか。たけき猪が駆ける。
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2020年03月07日

6号は吉岡実特集

夏に刊行予定の「みらいらん」6号では、詩人・吉岡実の特集を計画している。4号の田村隆一特集と同じく、城戸朱理氏の助力と導きを得て。御期待下さい。
それで、吉岡実の研究をということで、ざっと詩作品の全体に目を通すべく励んでいたのだが、いつの間にか吉岡実の庭からウラジミール・ナボコフの庭へ移ってきてしまっている。吉岡のある作品にナボコフの「青白い炎」が参照作品として挙げられていたため。探索中のナボコフの庭が広いのか狭いのかまだ見渡すことができないでいるが、かなり妖しい謎めいた庭であることは確かなようで、下手に魅了されると長らくここに留まることになりかねない。こんなふうに吉岡の周辺を、ルイス・キャロルの庭、西脇順三郎の庭、土方巽の庭、永田耕衣の庭とサーフィンしていくとしたら、いくら時間があっても足りない。道草や回り道は楽しいものだが戻って来られなくなる。わが悠長な雑誌もそれなりに締切やら決まった発行日があるから、カフェでの雑談のように話が逸れて、更に脱線して、再び三たびどこかへ飛んで、出発点を忘れたまま終わってお勘定、という具合にはいかないのだ。耕衣やルイスには申し訳ないが。
(池田康)
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2020年03月03日

新手の感冒

大陸発の新手の感冒が、猛威を振るうところまでいっているのかどうかわからないが、広まりつつあり、警戒と防衛努力でぴりぴりしている昨今。どれだけ恐れなければいけないかという点でいまいちピンと来ない所もある。かつてエイズが登場した時は背筋が氷る思いがした。エボラ出血熱の報道も心底ぞっとした。東日本大震災時の原発事故には「破滅」の二文字が目の前に点灯した。それらの危機と比べると今回の流行病(ハヤリヤマイ)は普通の風邪やインフルエンザの数割増程度の威力のようで、そんなに恐いかという気もするのだが、油断して対策を怠ると等比級数的に患者が増えそれに準じた割合で死者が発生するという理屈も理解できる。中国武漢の罹患者の数字はただごとではない。
現今、対策として催し等の中止や学校の休校が励行されているが、個人的な思いを勝手に言わせてもらえば、2月にコンサートや各種催しが行われることはそもそも基本的に願い下げなのだ。12月や1月は正月の前後で繁忙になることはある程度やむを得ないとしても、寒さの底の2月はあまり家を出たくない、極力じっと冬眠していたい、そんな期間であり、毎年きまってインフルエンザが流行る時期でもあるから、コンサート等の開催にはもっとも不向きなのだという留意があってもいいと思う(寝かせといてくれ!)。2月は眠り月、という俳句の季語にしたいくらいだ。以上あくまでも一個人の勝手な妄言であるが。
もう3月、植木鉢で育てている空豆が知らぬうちに花を咲かせていた。妙な形の花。
(池田康)
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2020年02月29日

『八重洋一郎を辿る』増刷完了

鹿野政直著『八重洋一郎を辿る』の増刷ができてきました。ご注文いただければ幸いです。来週以降には限られた店数になりますが書店の店頭にも出る予定です。
また、「しんぶん赤旗」2月26日の紙面に「詩壇」のコラムで本書が紹介されています。こちらもご覧下さい。執筆は佐川亜紀氏。
(池田康)
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2020年02月17日

『八重洋一郎を辿る』の書評

鹿野政直著『八重洋一郎を辿る』の書評が「週刊読書人」2月14日号に出た。執筆は野沢啓氏。ぜひご覧下さい。
なお、この本の増刷をいま行っており、今月末に完成の予定。同じフランス装なのだが初刷りとは少し違った造本になります。ご予約下さい。
(池田康)
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2020年02月11日

岩井俊二という映画監督

先日、映画「ラストレター」(岩井俊二監督)を見た。一年程前まで手紙をテーマにした詩の連作を書いていたこともあり、また四半世紀前に同監督の「Love Letter」を見た記憶もおぼろにあり、興味をそそられて。巨大なスクリーンで、いい位置の席で見ることができたせいもあるかもしれないが、至福の瞬間が次から次へと現れ、静かな心の昂りが続いた。この監督の独自のマジックは健在のようだ。秋に行った石巻のReborn Art Festivalで廃墟の学校を見たのがじつに印象深かったが、この映画でも出てきて、あのときの衝撃が甦ってくるという事由も鑑賞を深めたかもしれない。
ある個性をいくつかの要素の組み合わせで規定してみるというのも一種のゲームとして面白い。たとえば、オードリー・ヘップバーンはコメディとロマンスとサスペンスの重なる領域で個性的な花を咲かせたのだろうし、ヒッチコックは恐怖への執着と幾何学精神と現代の心音によって特徴づけられると考えられようし、市川崑は直感的・比喩的に言い当てるなら絵と瞬間と煙草でできていると断じてみたい気がする。そのやり方で映画監督岩井俊二の性格付けを試みると「悪戯好き+光と空気+思春期(adolescence)信仰」という具合に考えればある程度いいところまで行くのではないだろうか。
悪戯はすべての場面を通していろんな形で仕掛けられているし、作品によっては制作過程から大規模に悪戯が働いている。数えていけばきりがないだろう。光と空気という重量を欠いた大道具のいくらか表現主義的な活用も特徴的で、この点については映像の専門家に語ってもらうのがいいだろう。思春期信仰については今回の作品のほかにも、過去の「四月物語」(1998)、「リリイ・シュシュのすべて」(2001)、「花とアリス」(2004)などを見ても顕著だ。岩井作品を好かない人の多くはこの点につまずくのかもしれない。しかし子供時代の終わりであると同時に大人時代の始まりでもあるこの特異な時期を大事にし、ここに人間性のすべてが濃密な状態でつまっている、本当に重要なものはここにしかないと考える人間観は、根拠のない偏った考え方と安易に切り捨てることもできないはずであり、私としては「みらいらん」5号で小特集「童心の王国」をやったばかりなので一層共鳴を覚えるというところもある。
思春期を特別に大切にすると言ってもそれは光ばかりでできているのではなく、闇の部分ももちろんある。そこを徹底的に描いたのが「リリイ・シュシュのすべて」で、思春期の残酷、邪悪、汚穢がえげつなくも直截に物語られているのだが、しかし見ようによっては狂おしいまでに魅惑的で、岩井俊二というdevilは作ってはいけないものを作ってしまったのではないかという感想も胸をよぎる。「ラストレター」では終盤で明らかにされる“最後の手紙”が思春期信仰を決定的に宣言しており、そこには「リリイ・シュシュのすべて」ほどの深淵はあからさまに顔を見せることはないものの、この人の世界観にぶれはないのだと再確認することになる。
「岩井俊二においては、大人はコメディの演じ手であり、子供は真正な悲劇の演じ手である」この仮説はどこまで有効であろうか……はてさて。
(池田康)

追記
「リップヴァンウィンクルの花嫁」(2016)は、世界一愚図な女の子と絶壁に片手でぶらさがっている女の子とが仲良くなる話で、そこに軽妙悪辣なアルルカンがからむ。彼女たちの少女性が統べる時間では問答無用の物語がどんどんつき進むが、三人が大人である位相では(欺瞞は欺瞞として残りつつ)それなりに優しげなハピーエンドに着地しているようにも見える。
さらについでに。
『ヴァンパイア』(2012)は繊細な哲学映画のように思われた。『undo』(1994)、『ルナティック・ラヴ』(1994、テレビドラマ「世にも奇妙な物語」の一つ。生野毅氏に教えられて見た)は狂気に貫かれた鮮烈な譚詩のような作品。『虹の女神』(2006、熊沢尚人監督)では脚本家&プロデューサーとしてかかわっているのだが、映画作りをモチーフにしていて面白く、映画制作の初心と演技の初心と恋愛の初心とが純情に重なるところがポイントだろうか。手紙のエピソードに「イワイズム」を感じる。
※蛇足の考察……手紙が特別の小道具オブジェになる理由は、(1)コミュニケーションを過激に飛躍させたり屈折させたり滞らせたりする(2)思わぬタイムラグをつくり物語の構築に有効(3)ときに遺書になる(4)ミスリーディングに演じることもできるし正直な告白もできる、といったようなことが考えられる。特別なタイムマシン、時限爆弾、とっておきの手品の種なのだ。
『スワロウテイル』(1996)は、公開当時に見たときにはいまいちピンと来なかったが、今回見返してみると、愚昧な観客が追いついたということだろうか、大胆に架空の小世界を創造していてとても面白いし感銘を受ける。基本ファンタジーの、ダークな色調の劇画的活劇(しかし娯楽映画というよりも抒情的フィルムノワール)だが、名を持たない孤児(アゲハと名付けられる)の《アウトキャスト》としての歩みを描いていて、こんな原理的な地点から物語を始める過激さはなかなかない。現在50代の俳優たちの若々しい姿が見られるのも新鮮。この作品から『リリイ・シュシュのすべて』までが、decentという価値を顧みず無法にやりたいことをやる、岩井俊二のギャング時代と言ってもいいかもしれない。
では「花とアリス」以降現時点までをどう称するか。ふざけてではなく真剣に敬意をこめて「前衛少女漫画時代」と呼んでみたい気がするのだが、怒られるだろうか。
「打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?」(1993)、男の子たちの達者な演技に目を見張る。ストーリーの分岐の鋭角さ。最後の花火一発が効果的で、「スワロウテイル」といい、この監督は物語の結末を作るのが上手い。

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