2022年06月18日

夏の系

 夏が半透明の殻から抜け出した
 虫の王国のあけぼの
 逃げ水がどこまでも逃げていく
 ラジオの戦争報道は波にのまれ
 サーフボードを脇にスクーターが走る
 真昼間の無常に斧をかける蟷螂
 目覚めてにぶく動きながらまどろむ甲虫
 昼寝は楽園への隧道
 冒険をかぎあてる無為の散歩
 王国に足を踏み入れると子供はセミ語をしゃべる
 藪がウツソウ語を
 川がサフサフ語を
 競り合う天籟妖声の譜
 夏は交響楽 夏休みの作文がつづる
 夏は交響楽 詩が真似る
 第一楽章のtuttiを少年が駆け抜け
 風の管弦が追いかけ
 大紫はうろうろ飛び迷うが
 もうどこへ行く必要もない
 朱夏こそ最終目的地
 その頂は齢を四半にし
 その淵で記憶は浄瑠璃となる
 くももくもく 幼い素頓狂な声
 入道雲の角力三昧
 すわ雷雨燦然
 木々は古代青の甦り
 地上の虫言葉ふたたび蠢き
 夜空ひそひそ語
 銀漢のかなたの爆発
 逃げ水を集めて螢は幽明の呂をまう
 サーフボードはもう乾いている
 少女の歌はまだ濡れている

…………………………………………………………

もうすぐ7月、いよいよ夏も本番。
ということで、ここに書きとめるのは、夏の子らに寄せる頌歌です。
いざ発表するゾ、というような晴れやかなことではなく、ちょっと出してみる、くらいの気持ち。
というのは、このような主題はありふれたものだろうし、それにつながる各部分の表現も誰かがどこかで似たことを書いているかもしれないので。
なお、「サフサフ」という表現は西脇順三郎「失われた時」から借りてきています。
(池田康)
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2022年06月17日

加納光於展「胸壁にて」 ほか

昨日は午後から上京。
京橋のギャルリー東京ユマニテで加納光於さんの個展「胸壁にて」を観る。これは1980年代に制作発表された連作で、40年ぶりに展示されたとのこと。奔放な色彩の発現と変幻をあじわう。ギャラリーの御主人から加納さんの近況をうかがう。
それから駒込の駒込平和教会で田中庸介さんの朗読会に参加。詩集『ぴんくの砂袋』が詩歌文学館賞を受賞したのを祝っての催し。精気にみちた声で、東京の地名をもりこんだ詩、学者としての活動に関する詩、家族生活から題材をとった詩など、朗読された。詩誌「妃」の執筆者諸氏も多く参集していたようだ。
この会は天童大人氏が主催する「詩人の聲」シリーズの第2084回。天童さんは昨年詩集『ドゴン族の神―アンマに―』を出している(アフリカ紀行が主題となっており、個人的には「Bine・Bine」という詩の静けさが印象的だった)。
新宿の紀伊國屋書店に寄ったら、一階部分も新装開店していて、誰がデザインしたのか、ぐっとファッショナブルな感じになっていた。
今回の上京とは関係ないが、何日か前から読んでいた、ヴァージニア・ウルフ『オーランドー』を読み終えたところ。まったく奇妙な小説、ウルフの作品群の中でも異色作だろう。数百年の時代の変遷を点描するとともに不思議な人格構造論を試みながら、「樫の木」という一篇の詩の創造を軸に繊細な文学論を各所にちりばめている。すべてが集約される最後の十ページほどはとくに魅せられる。
(池田康)
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2022年06月12日

十薬

晴天からいきなり雷雨が降ったりもして夏らしくなってきた。
最近散歩していて目につく植物にドクダミがある。紫陽花は季節の花として愛されるが、ドクダミはそんなでもないだろう。第一、名前がよくない。誰がこんないやな濁り方をした名をつけたのか、花になりかわって文句を言ってやりたいものだ。辞書を見ると悪臭がするとあるが、花に鼻を近づけてもそれほど強烈な臭いは感じない。整腸・解毒などの薬効があるという。とすると薬草園なんかでは大事に育てられているのだろうか。歳時記を見ると、十薬(じゅうやく)の別名もあるようだ。花の形が十字形で、薬効があるから、この名前ができたのだろうか。こちらの方が感じがよい。例句が七句ほど並んでおり(そのうちドクダミで詠んでいるのは一句だけ)、俳人はこんな小さな道端の花にも目を向けるのだなと感心する。その中から。

黄昏れて十薬の花たゞ白し〜〜夢香

作者は柏崎夢香という俳人だろうか、まったく知らない人。たしかにこの花の白は、十字形ともあいまって、印象的だ。これが沈丁花のような芳香をもっていたらどんなに良かったろうと残念に思ったりもするが、この香りをとびきりの薫香として好む「蓼食う虫」もきっと存在するにちがいないと夢想する。
(池田康)

追記
グロテスク芸術を積極的に語る西脇順三郎ならばドクダミの名前も珍重するだろう。そう考えるとこの名も捨て難い気がしてくる。
そういえば、有働薫さんがなにかの詩でこの植物を書いていたのではなかったかと思い出して、詩集を探してみた。一番新しい『露草ハウス』のタイトル作でもちょっと出てくるが、12年前の『幻影の足』の「茗荷の港」では主役級で登場する。

どくだみの白い花が
見渡すかぎり咲いている野原を
明け方まだあたりが煙ったように
蒼くかわたれているなかを
朝霧に足元をぐっしょり濡らしながら歩いていくと

で始まり、一連の幻想体験が叙され、最後は、「突然まわりの談笑の声が/すーっと遠ざかって行った/わたしは少しめまいがした//気がつくと/どくだみの白い花に囲まれて立っている//茗荷の香りが口の中に残っている」で終わる(最終行の茗荷の香りというのは幻想体験の一シーンに関わっている)。詩人はドクダミに化かされたのか。こんなふうにドクダミと交感できるというのは、この詩人のユニークな資質の一端を示している。
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2022年05月28日

虚の筏29号

「虚の筏」29号が完成した。
この号の執筆者は、たなかあきみつ、生野毅、久野雅幸のみなさんと、小生。
下記リンクからご覧下さい。

http://www.kozui.net/soranoikada29.pdf

(池田康)
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2022年05月20日

一番居心地のいい場所

この世で一番居心地のいい場所はどこだろうか?
自分の家、自分の部屋、という回答が多いと思われるが、それを省くとしたら、どうだろうか。
思いつくままに挙げてみよう。たとえば由緒ある温泉の露天風呂。あるいはハイキングで2時間歩いてちょっとした山頂に到達して岩に腰かけ水筒の水を飲んで景色を見渡すとき。あるいは気のおけない友達数人との会食(隣のテーブルの声がうるさくないことは絶対条件)。あるいは快適なライブハウス、アルコールを少し体に入れて音楽を聴くとき。あるいは昔の和風の家で大きな庭があって縁側に坐って日向ぼっこをしながら鳥の鳴き声を聴くとき……
いずれも悪くないが、正解は、空豆の莢の中、なのではないかと昨日今日空想している。
数日前、食料品店で特売の莢入り空豆一袋を買ってきて、茹でて食べているのだが、空豆の莢の中はとても上等な白い綿状のクッションが敷き詰められていて、心地良さそうなのだ。この中に入って、空豆の木の枝にぶらぶら揺れるのは、とても気持ちいいのではないだろうか。馬鹿なことを言うなと言う人は一度空豆の莢を裂いて中を見てみるといい。気持ちが落ち込んだときなど、自分は空豆の莢の中にいる、宙で風に揺れている、あったかくて雨にも濡れずとても静か、と空想したら、少し気が楽になりそうだ。
ちなみに、子どもの頃はおいしさがよくわからない、どちらかというと苦手、という食材がいくつもあるものだが、私にとって空豆はその一つだった。今はうまいうまいと食べている。
(池田康)
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2022年05月16日

愛敬浩一著『草森紳一の問い』

草森003.jpg愛敬浩一さんの評論集『草森紳一の問い 〜その「散歩」と、意志的な「雑文」というスタイル〜』が完成した。前著『遠丸立もまた夢をみる』に引き続き、〈詩人の遠征〉シリーズでの刊行で、第13巻となる。ページ数224ページ、定価税込1980円。
2008年3月に70歳で亡くなった草森紳一は元来は中国文学者であるが、マンガや写真、デザインや広告の批評など、ジャンルにとらわれない〈雑文〉のスタイルを確立したとされる。その文業の全体像、そして根本にある「問い」をつかむべく、著者は散歩論、写真論、中国の詩人・李賀論を取り上げて、あるいは植草甚一との比較を試み、謎めいた草森紳一の核心を遠目に目指しながらゆっくり巡り歩く。
本書冒頭に置かれたプロローグに「私が追い求めたのは、ただ草森紳一の文章の可能性だけであり、むしろ、彼が書こうとしながら、ついに書かなかった何かであるような気もする。私はただ、草森紳一の問いの上に、私の問いを重ねただけに過ぎない。」とある。それは結局は、なぜ読むのか、なぜ書くのか、という単純な問いに還元されることなのかもしれない。しかしそこに留まるのではなく、著者と草森紳一はほぼ同時代を生きてきたわけで、その時代とはなんだったのか、精神的になにを課され、どうくぐり抜けてきたのか、という無限に複雑で解剖が面倒な諸相がまとわりついてくる。
通読してみると、散歩論での永井荷風、写真論でのウジェーヌ・アジェ、そして詩人李賀の像がとりわけ強く脳裏に焼きつくように感じる。草森紳一論を組み立てながらより豊かで多彩な文学文芸のうねりを誘い出し、読者はそれに巻き込まれるというわけで、これはありがたい読書体験だろう。
私は愛敬さんから一昨年刊行の『詩人だってテレビも見るし、映画へも行く。』をいただいて、ドラマ論・映画論を集めたこの書を拾い読みしているのだが、氏の眼差しは細やかで鋭く、独自色の強い論立てで書いていて、はっとさせられることも多く、気持よく読める。そんな愛敬氏のやわらかさと鋭さが今回の『草森紳一の問い』でも全編にわたり発揮されていて、それがこの評論の個性的な濃密さにつながっていると言えるだろう。
(池田康)
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2022年05月05日

柏餅と『西脇順三郎全詩引喩集成』

吉増ちらし001.jpg吉増ちらし002.jpg5月の連休はこどもの日を含むということを思い出すのは、スーパーマーケットの店頭に柏餅が主役のように並ぶのを見るときだ。見ると食べたくなり、柏餅を食べる。餅の部分はそれほど個性のあるものではないが、嬉しいのが餅をくるんでいる柏の葉の匂い。柏餅は「食べる」よりも「嗅ぐ」ものなのかもしれない。仙人になった気分。
葉が大きな役割を果たす和菓子はほかに桜餅と草餅がある。桜餅は桜の葉の代わりにプラスチックで作った模造葉で餅が包まれてあるものも時々あるが、言語道断だろう。桜の葉を一緒に食べるあのしゃりっじょりっとした食感がよいのに。
昨日は伊勢原市立図書館に赴き、新倉俊一著『西脇順三郎全詩引喩集成』を閲覧した。この本を所蔵している図書館は少ないかもしれない。わりと近くの図書館で見ることができて幸運だった。西脇の詩に出てくるあやしげな有象無象について実に多くのことを教えられる。
さて、ここに掲げたチラシは、最近吉増剛造さんからいただいたもの。そういえば、先日対談の収録でお会いしたときには、新しい映画のことを語っておられた。八十代にしてこの八面六臂の活躍は驚きだ。
(池田康)
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2022年04月26日

世はつねに変貌する

昨日は国分寺のくるみギャラリーでの山本萠さんの個展を見にいったのだが、東京の街の変貌を経験する一日だった。往路、渋谷で途中下車すると、中央改札あたりの駅構内の様子がすっかり変わっていて、どこをどう歩いて地上に出たら目的地に好都合かさっぱりわからない。今はまだ改築の途中なのだろうか。迷路の街渋谷に迷路の駅、これはナゾナゾとしてはふさわしいのかもしれない。帰りは新宿に寄ったが、ここでは紀伊國屋書店が大掛かりに模様替えを果していて驚かされた(1Fはまだ工事中)。エスカレーターがある!……なんて今時びっくりするほどのことではないが、この店としては画期的だ。降りるときは階段を使うことになるけれど。店頭にはなばなしく並べられていた『左川ちか全集』(書肆侃侃房)などを購入。
(池田康)
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2022年04月24日

西脇順三郎の特集をやります

吉増002.jpg「みらいらん」次号(10号、7月刊行予定)では特集「西脇順三郎 世界文学としての詩」を予定しており、そのメインとなる企画、吉増剛造・城戸朱理両氏による対談を先日鎌倉において無事行うことができて、ほっとしている。多岐にわたる、熱っぽい議論になった。いま、テキスト起こしをしているところ。
私自身は西脇についてはこれまで代表作とされるものを読んだ程度だったが、特集を組むということで、この3〜4月に詩作品をあらかた通読してみた。ようやく西脇順三郎の初心者となったようなかんじで、バケモノのような大きさに言葉もなく圧倒されている。
以前から、昭和38年刊の『西脇順三郎全詩集』を所持していたが、この本には晩年の四詩集が入っておらず、その『禮記』(1967)『壤歌』(1969)『鹿門』(1970)『人類』(1979)は個別に古書店で手に入れて揃えた。すべて筑摩書房。『人類』に付録の栞がはさんであり、そこに吉岡実も文を寄せているのだが、「詩集《鹿門》が刊行されてから、約十年の歳月が流れている。今度もまた私が造本・装幀を任せられた」とある。すると『鹿門』と『人類』は吉岡実の装幀なのだ。『禮記』『壤歌』はどうなのかわからないが、筑摩書房の本ではあるし、吉岡実装幀の可能性はあるだろう。
茫洋とした桁外れの詩人・西脇順三郎に今回の特集でどれだけ迫れるか、期待していただきたい。
ここに載せたチラシは吉増さんからいただいた、来月から開催のもの。
(池田康)
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2022年04月22日

詩素12号

詩素12表紙003.jpg詩素12表紙004.jpg詩素12号が完成した。今回の参加者は、海埜今日子、大仗真昼、大橋英人、小島きみ子、坂多瑩子、酒見直子、沢聖子、菅井敏文、大家正志、高田真、たなかあきみつ、七まどか、南原充士、新延拳、二条千河、野田新五、八覚正大、平野晴子、八重洋一郎、山中真知子、山本萠、吉田義昭のみなさんと、小生。
ゲスト〈まれびと〉は、伊武トーマさんをお招きした。
巻頭は、高田真「交差点で」、山本萠「草の日々であるそのひと」、吉田義昭「風景病」、大橋英人「(りんごとロープのラプソディ 2編)」。
表紙の詩句は、T・S・エリオットの“The Song of the Jellicles”の第3連。裏表紙のほうもご覧いただきたい。野田新五さんが描いた絵で、マスクになにか文字が書いてあるが、「ウクライナに平和を」という意味だとのこと。
ぜひご覧下さい。
(池田康)
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2022年04月10日

春の(ばかされた?)一夜

昨日は東京グランドホテルで日本詩人クラブ賞ほかの授賞式があり、二条千河詩集『亡骸のクロニクル』(洪水企画)が新人賞を受賞した関係で出席、二条さんの紹介スピーチをした。二条千河さんの自作品朗読と受賞のことばは、若いころ演劇をやっていたからか、舞台人のパフォーマンスのような力強さ、覇気があり、驚かされた。なお、クラブ賞は草野信子氏(詩集『持ちもの』)が受賞。式の後は大門付近の店で近しい者たちが集まりささやかな祝宴、終えて店を出たら、西の方角におばけのように東京タワーが輝いていた。
(池田康)
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2022年04月02日

「東京人」5月号書評ページ

「東京人」5月号の書評ページで小池昌代さんが宇佐美孝二著『黒部節子という詩人』(洪水企画/詩人の遠征11)を紹介・批評して下さいました。是非ご覧下さい。
(池田康)
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2022年04月01日

「現代短歌」5月号

「現代短歌」5月号(90号)の特集は「アイヌと短歌」で、まずバチェラー八重子(1884〜1962)が紹介され、「ふみにじられ ふみひしがれし ウタリの名 誰しかこれを 取り返すべき」「亡びゆき 一人となるも ウタリ子よ こころ落とさで 生きて戦へ」等のアイヌの悲運を表現する代表歌が掲出される。「ウタリ」とは「同族」の意という。他に違星北斗、森竹竹市、江口カナメといった歌人たちもしっかりスペースを取って紹介されている。
まず第一に感じるのは、国や民族の危急存亡のときには詩歌は民族の歌声を汲み上げるものだということ。これは独特の調子の高さを生み出す(ヘルダーリンもいくらかそういうところがあるだろう)、と同時に、戦時中の日本の詩歌のように、危うさを帯びてしまうこともありうる。詩歌は「民族の歌声」をできれば過度に孕まない方が安全で幸福なのだろうが、どうしても噴き上げてくる時もあるのは否定できない。今のウクライナの詩歌人は、なにか書いているとしたら、どのようなものを書いているのだろう。
横道にそれるが……「戦時中の日本」で思い当たるのだが、ウクライナでの戦争が始まった時点で、日本にできることが一つあったのではないか。それは「疎開」という概念を伝授することだ。激しく砲撃・空襲される都市に子供たちを残すのはよろしくない。可能ならば、比較的安全な田舎の地域へ集団疎開させるべきだろう。「生きて戦へ」はスピリットとしてはわかるし感銘を受けもするが、子供を現実の戦いの最前線に置くのは無茶だ。わが亡父も、戦時中の集団疎開の経験をひどく辛くひもじかったとよく語っていたが、辛いとしても命を落とすよりはましだ。概念があれば実行できることも、それがないと全く思いつかず実行されない、ということもあり得るだろう。「アメリカンドリーム」という言葉がなければアメリカで成功を夢みて努力することは少し余計に骨が折れるだろうし、「津波てんでんこ」という思想語彙がなければ津波のとき他人にかまわずてんでんこに逃げづらい。
アイヌに話を戻せば、アイヌ語を話せないアイヌ人という境遇も出現しているとのことで、これは政治、統治のあり方がからんでいるのだろうと思われるが、悲痛だ。
バチェラー八重子歌集『若き同族に』より。

 野の雄鹿 牝鹿子鹿の はてまでも おのが野原を 追はれしぞ憂き
 寄りつかむ 島はいづこぞ 海原に 漂ふ舟に 似たり我等は
 古の ヌプルクイトプ 知らせけり ポイヤウンペの 行くべき道を
 石のごと 無言の中に 力あれ ふまるるほどに 放て光を
 逝し父を まだ帰らずやと 思ひつつ 家中さがしつ 幼なかりし日
 霊にだに 会ひたきものと 暗闇に 目を大きくも 開けて見しかな
 有珠コタン 岩に腰かけ 見てあれば 足にたはむる 愛らし小魚
 オイナカムイ アイヌラックル よく聞かれよ ウタリの数は 少くなれり

(池田康)

追記
英語に「evacuate」という言葉があったことを思い出して、辞書を引いてみたら、
The children were evacuated to the country (during the war).
という例文が複数の辞書に出ていた。
してみるとこれは常識とされている事柄なのだろうと考えられる。
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2022年03月29日

「現代詩手帖」4月号

「現代詩手帖」4月号に寄稿しましたのでご覧下さい。「詩人はオペラである」という変なタイトルのエッセイです(「横断する表現」というリレー連載のコーナー)。なお、この号の特集は「新鋭詩集2022」となっています。
(池田康)
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2022年03月19日

歌の話に心揺さぶられる

地震のお見舞いを申し上げます。
うちの辺りは震度4くらいだったのだろう、寝ていてひどく揺れるのを感じて恐ろしかったが、家具やものが倒れたり落ちたりはなく、胸をなでおろした。なぜ地震はあんなにも突然にくるのだろうか?
この冬から春にかけて、オペラ関連の本を図書館で借りて読んでいたのだが、三澤洋史著『オペラ座のお仕事 世界最高の舞台をつくる』(早川書房)は生彩があって面白く、読んでいてとても気持ちよかった。著者は指揮者で、主に合唱指揮をなりわいとしていて、新国立劇場などで活躍する。多くのオペラの演目を解説するわけでも、オペラ史を系統的に語るわけでもなく、自分の歩いてきた道のりを振り返りながら印象深い出来事を語っていくという、自由でラフな構成なのだが、音楽家が書いてもなかなか語られないような音楽上の機微がさまざまに取り上げられ、説明されていて非常に興味深い。おもに歌手(と合唱団員)がどう声を作り唱うかの話であり、発声しにくい音域でテノールはどう裏声を混ぜ合わせてなめらかな歌声を実現するかとか、言葉をどう歌声で発声するか、言語がちがうといかに言葉と旋律の関係が変わってくるかとか、バスを強く厚くすることがどれほど重要かとか、いずれも教えられることが多い。指揮棒の打点と実際に音が発せられる瞬間との間のわずかな時差についても非常に悩ましい問題として率直に語られていて、かねてから不思議に思っていたことなので、やはりそうなのかと納得したところもあった。なによりも、一曲を創造する現場の動き(政治、駆け引きもふくめて)が生々しい。どうしようもなくぐしゃぐしゃだったアンサンブルが指揮者に導かれてみごとな演奏に化けるさまの描写は、読んでいるだけで音楽が聴こえるようだ。
戦争で世界が激震するのは恐怖そのものであるし、現実の地面が大きく揺れるのも願い下げだが、精神性と創造性に溢れた文章に心が揺さぶられるのはありがたい経験だ。
(池田康)
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2022年03月11日

ナポレオンでさえ

ウクライナの情勢はきびしいままのようで、遠い地のことながら、戦時下の非常な過酷さが伝わってくる。
久生十蘭には戦時下のパリなどを舞台にしたものが少なくなく、その陰鬱と物騒が作品の根底の味わいとなり、こういう時勢だと戦争の空気のリアリティにふれたくついつい読んでしまう。「勝負」「巴里の雨」など(それぞれ河出文庫の『十蘭錬金術』『パノラマニア十蘭』所収)恋愛ものではあるが、風雲急を告げる時代描写がいたく生々しい。作者自身がヨーロッパに行っていたとき軍事物資関係の仕事に携わっていたのか、その方面にとてもよく精通している感じがする。ほかにも、「公用方秘録二件」は二つの国の角逐が小さなシーンで鮮やかに描かれて面白く、「爆風」は空襲の直撃をいかにのがれるか、その知恵についての冷静な記述に引き込まれ、「犂氏の友情」はウクライナ人であるロシア人!?が出てきて、とんでもない展開に驚愕する。
今のウクライナを見ていると、陰鬱や物騒の雰囲気はもちろんあるが、勇敢とか覚悟とかいった言葉も思い浮かぶ、これはおそるべきことだ。なにか大きなプラスを得るという意味での勝利はむずかしいかもしれないが、できるだけ納得できる形でサバイバルを果たしてほしいもの。
先月24日にNHKBSで放映された映画「戦争と平和」(1956、キング・ヴィダー監督)を見ると、200年前のナポレオンの頃の戦争がどんなふうなものだったかがおよそわかるとともに、侵略という暴力的外交の行為が(攻める側の思考・欲望が単純な分だけ)無理や危険を伴うものだということを教えられる。ナポレオンでさえ敗れる、それは尤もなことわりだ。
(池田康)
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2022年03月05日

図書新聞3534号

図書新聞3534号(3月12日号)に、野村喜和夫・杉中昌樹著『パラタクシス詩学』(水声社)の書評を寄稿しました。ぜひご覧下さい。(池田康)
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2022年03月01日

『亡骸のクロニクル』が日本詩人クラブ新人賞に

二条千河詩集『亡骸のクロニクル』(洪水企画)が第32回日本詩人クラブ新人賞を受賞しました。おめでとうございます。


追記
当ブログのコメント欄は閉鎖いたしました。ここのところ悪質な書き込みが頻発しておりますので。あしからずご了承ください。
(池田康)
posted by 洪水HQ at 08:00| 日記

2022年02月26日

ありえない悪夢の仮定の……

ウクライナで戦争が始まっている。超大国の絶対的権力者が魔王になったらどうなるかという〈ありえない悪夢の仮定〉のはずのことが現実に起こりつつあって、それを目撃することになるのだろうか。
ここ数日、ルキノ・ヴィスコンティ監督の「ルートヴィヒ」を見ていたが(ワーグナー関連作品。上映時間は4時間に及び、映画というよりもヴィスコンティがきわめて明確な夢物語を見ているというかんじ)、王と呼ばれる存在は、やろうと思えば放恣はいくらでも可能で、自身の精神、心を節度をもって平らかに英明に保つことがいかに難しいかを強く印象づけられる。私は謎だ、他人にとってだけでなく自分にとっても、とルートヴィヒ王(バイエルンの君主)は死の直前に独白する。
王侯でなくても、選挙によって地位についた長であっても、任期があまりにも長くなると、精神の健康・健全を損なうことなくすぐれた国政の船頭でいつづけるのは至難にちがいない。
(池田康)
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2022年02月13日

いろはのい、それ以前

身体運動の感覚は繊細微妙だ。最近、歩くのがなぜかしんどくなってきた、運動不足なのか、歳のせいかと悲観していたが、新しいぴったりサイズの靴を買って履いてみると、楽々と軽やかに歩けるので狐につままれた思いだった。どうやら長く使ってきたボロ靴がよくなかったようだ。ほんのわずかの条件の違いにすぎないようにも思えるのだが、まことに不思議。
冬季オリンピックが開催されていて、フィギュアスケートもなんとなく見るのだが、ジャンプが飛べるかどうかがどうしても注目されるが、ジャンプ以外のスケーティングが散文的な人よりも音楽性豊かに滑ってくれる人の方が見ている側としてはありがたく嬉しい。バレエダンサーはただ歩くだけでも美しく歩く。いろはの「い」の部分が花崗岩のように堅固に揺ぎなく、艶やかなまでに訓練されている演技者の所作はなにげない一瞬にもはっとさせられることがある。スポーツ競技としては、いろはにほへとの更に先で競うのだろうけど。
先日城戸朱理さんからいただいた「甕星」6号というとても立派なつくりの雑誌は、版元の表記も値段もなくて戸惑うが、平井倫行氏という美学・芸術学の研究者の方が編集しており、この6号は「舞踏」を特集していて(これに城戸さんが大きく関わっている)、笠井叡、麿赤兒といった舞踏家の人々の言葉、思想、方法論を紹介している。舞踏を実践する人達は総じて非常に独特に深く考えるというイメージがあるが、この特集を読むとそれが具体性をもって確認できる。「死体の生に到達したい」「死刑囚として歩行したい」という笠井叡の言葉、「ウイルスに侵されていくこと、それ自体が作品であり、そういうところへどうやって肉迫できるか」という麿赤兒の言葉、さらには土方巽の「私はいつも踊っていますよ」という境地、それらはいろは以前の根源の覚悟を発しているような気がして心打たれる。幽玄とは、いろはの先の工夫ではなく、いろは以前の心組みを磨くことだろう。未来をになう若い世代の舞踏家たちも紹介されていて、特集に広がりが出ていた。なお、「舞踏」という呼称は、必ずしも当事者たちの共通認識として積極的にかかげられているものではないようだ。
最後に。
マリス・ヤンソンス指揮のベルリン・フィルの2001年イスタンブール公演のDVDを中古で見つけて入手し、聴いていたら、付録としてイスタンブールの名所旧跡や文化的特色を紹介する映像が入っていて、見てみると、故新倉俊一氏が詩集『ビザンチュームへの旅』で詩行に書き入れていた聖堂ハギア・ソフィアも出てきてその偉容に感銘を受けた。イスラム教の僧のくるくる回転する舞踊もすこしだが映り(スーフィーと呼ばれるものだろうか)、この旋回の舞で僧侶たちは恍惚を体験するのだと説明されていた。フィギュアスケーターは片足を90度または180度上げながら急速旋回(スピン)するとき、どんな異様な感覚を味わっているのだろうか?
(池田康)
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