2020年05月06日

マリス・ヤンソンス

ここ三日ほど、寸暇を活用して、録ったまま未整理だったMDを調べ直して整理していた。現在の住所はラジオの電波がいまいちきれいに入らないのでやめてしまったが別の土地で暮らしていた頃はよくFM番組をエアチェックしていたのだ。作業をしながら、シューマンの交響曲を聴きたくなり、4曲をでたらめな順番で聴いていたのだが、最後に追加でかけた彼のピアノ協奏曲の次に、ベートーヴェンの交響曲第7番が録音されていて、ついでに聴いた(ライブだが演奏日不明)。力強い、非常に説得力のある演奏で、心動かされ、演奏者の名前を見たら、バイエルン放送交響楽団で指揮者はマリス・ヤンソンスとなっていた。この名前、最近ニュースで聞いたような気がして、ネットで検索したら、昨年11月死去と出ていた。一流の指揮者と目されていることは知っていたが、ひょっとしたら本当に素晴らしい才能なのかもと思い、この人の演奏を録ったMDがほかにあるか調べてみると、三つほど出てきたのでそれらも聴いてみた。
まず、シベリウスの交響曲1番とブラームスの交響曲1番、これはウィーン・フィルの演奏で、2005年3月6日にウィーンから国際生放送されたもの(NHKFM)。それからブラームスのヴァイオリン協奏曲(Vn:ジュリアン・ラクリン)と交響曲3番、R.シュトラウスの交響詩「ティル・オイゲンシュピーゲルの愉快ないたずら」。これはロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団の演奏で、2008年11月12日NHKホールにて(NHK音楽祭2008)。さらにマーラーの交響曲5番、これはバイエルン放送交響楽団の演奏(2006年3月10日、ミュンヘン)。
ライブ演奏だからより強く印象づけられるのかもしれない。ヤンソンスの指揮は、すべての音やフレーズを「科白」のように立て、楽想の流れの理を繊細に見きわめ活かしながら劇的に音楽の世界を作っていくところ、ちょっとオペラのような趣きがあり、それが魅力と説得力になってくるようだ。丁寧で、緻密で、聞き逃さず、弾き流さない。神経をともなった卓抜な展開力で、何度も聴いたはずの曲がとても面白く聴ける。楽譜の音を実際の歌声にするために、ヤンソンスは「必要な人」だった、と言えそうだ。
略歴を見ると、1943年ラトヴィア生まれ。この小国はバルト海に面したバルト三国の一つで、リトアニアとエストニアにはさまれ、ロシアにも隣接している。カラヤンとムラヴィンスキーに師事したとあるから本流の人のようだ。私の所有するCDでは、五嶋みどりのメンデルスゾーンとブルッフのヴァイオリン協奏曲の演奏でベルリン・フィルとともに共演している(ライブ録音)。ただしこれは、ヤンソンスが晩年率いることになる二つの名門オケ、バイエルン放送交響楽団とロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団の指揮者に就任する以前の録音。逆に貴重か。
生前この指揮者に特別の思い入れはなかったからこの一文は追悼文という種類のものではないが、今後はこの人の残した演奏は意識して聴くことになりそうだ。
(池田康)
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2020年04月29日

詩素8号

詩素8表紙.jpg緊急事態宣言下のゴールデンウィークはどんなものになるだろうか。部屋の中から窓ごしに外を眺める分には、春の日がみごとに輝いているが……
さて、「詩素」8号が完成した。今回の参加者は、小島きみ子、山本萠、大家正志、南原充士、坂多瑩子、沢聖子、吉田義昭、たなかあきみつ、山中真知子、二条千河、酒見直子、平野晴子、野田新五、菅井敏文、南川優子、八覚正大、八重洋一郎、高田真、海埜今日子、平井達也、大仗真昼のみなさんと小生。「まれびと」コーナーに詩作品を寄せて下さったのは、冨上芳秀さん(「樹木幻想」)と松尾真由美さん(「身近な危機とその渦中と」)。巻頭トップは山本萠さんの「夢の川へ」。88ページ、定価500円。まだ残部ありますので、ご希望の方はご注文ください。
(池田康)
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2020年04月23日

疫の奔流の行方2

今回のウイルスの嵐から、行政に携る人々や医療関係者は無数の貴重な教訓を引き出すのだろうが、誰でも思いつく最大の教訓はこれだろう:
「疫病の脅威は国や為政者のプライドよりも百倍も重大だ」
台風や地震と同じくウイルスも情け容赦がなく、やさしい斟酌や好意的な政治的取引などしてくれないのだ。さてこれを少し普遍的な方向にパラフレーズすれば、こんなふうになるだろうか:
「われわれの生命は国や為政者の利益よりも百倍も重要だ」
なんだか当り前の、きれいな教科書的オピニオンになったが、生命と言ってもいろいろあって広大だから、さらにこれを細かく敷衍して書くなら、こうだろうか:
「国民個々の心身の健康は国や為政者の思惑よりも百倍もリアルだ(このリアリティが侵害されるとき、前者は後者を疑う)」
肉体以上に、心、精神が、おかみの意向に沿ってプラスチックに成形される危険性は常にあり要注意だが、ぼんやりしていると気づかないままうかうか暮らしがちで、こういう稀な危機の季節にしっかりと気づいておけるならそれにこしたことはない。だからというわけではないが、最後の捨て台詞じみた変奏はこうだ:
「床屋談義は国や為政者の歴史よりも百倍も真実だ」
これまたありきたりな寸鉄かもしれない。やり直そう:
「巷の与太は国や為政者の嘘よりも百万倍も白だ」
これは少なくとも数学的正確さを誇れる。
(池田康)
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2020年04月05日

疫の奔流の行方

コロナ・マスカレードの不気味な祭が世界規模で続いている。数字とグラフにおののく朝夕。ペストやコレラ級でなくても疫が大津波となって襲来すると対処が難しい。ゾンビに咬まれたら自分もゾンビになる……というホラー映画の嫌な筋立てに似た、叫びたくなるシチュエーションを、罹患者に距離ゼロで接しなければならぬ医師や看護師たちは身をもってくぐり抜けているのだろう。
カミュの「ペスト」がいま広く読まれているそうな。昔読んだとき、主人公の医師の周辺にいる男の、ペスト禍の絶望的状況の中で熱心に(状況と無関係な)詩を書いている姿が奇異でひどく印象に残ったが、コンサート中止で時間ができた音楽家もいま一年後にうたう陽気なラブソングを作っているのかもしれない。非常時にひとつまみの平常の時間をどう自分で創出するか、という努力は精神の健全を保つために、前向きの呼吸をするために必要なのだと思う。
このところ、石牟礼道子著「椿の海の記」(河出書房新社・日本文学全集巻24『石牟礼道子』所収)を読んでいた。世界との交感のレベルの深度において驚くべき小説。ものごころがつき始めたばかりの子供が見る世界はこんなにも豊饒なのか、そして悲哀はこんなにも裸なのかと感嘆する。主筋ではないが、コレラが流行った時の様子が少し書かれている。
「それはどうやら、浜町にいたとき、コレラの流行ったときの光景らしかった。春乃も罹患して……中略……このときのコレラで死んだものたちはおびただしく、死人たちを、浜の真砂の上にじかに並べて焼き続ける大廻りの塘の煙の中から、兵隊たちが小さな舟で、いくさに出て行ったのだった。そのような煙の流れる故郷を後に眺めながら。」
死者が万を越えたら大震災レベルといえるだろう。すでに越えている国もあるし、徐々に近づいている国もある。まだ序の口とそわそわしている国も。疫病の数学のテストで合格点を取ることはマクロ経済の数学と同じくらい難しい。
「いかなる幽霊の姿勢で/全員で吊りさがればよいのか?」(吉岡実「コレラ」より)
(池田康)
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2020年03月30日

『八重洋一郎を辿る』の書評2

鹿野政直著『八重洋一郎を辿る』の書評が「週刊 新社会」3月3日に執筆=鈴木裕子氏で、また「沖縄タイムス」3月28日に執筆=新川明氏で、掲載されました。ぜひご覧下さい。
(池田康)

追記
毎日新聞(西部版?)3月29日の「詩歌季評」(評者は田中俊廣氏)でも取り上げられました。
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2020年03月21日

解せぬこと

最近解せぬこと。その一。イタリアの悲劇的な状況。同じウイルスのはずなのになぜほかと比べて桁違いに死者が多いのか。中国を上回るって、なんで!?と戸惑う。これが夢かなにかの間違いではないのなら、シンプルに、不運の連続と対策の拙さが重なればその結果、最悪あそこまでいくのだ、という恐るべき真実なのかもしれない。
その二。マスク製造会社はまぜこんなにも商機を逃しつづけるのか。一週間程度商品がなくなるのはわからないでもないが、ここまで長引くのは解せない。いくら高級仕様とはいえ、マスクくらい簡単に製造できるだろうに。なんなら、簡易な型をちゃちゃっとこしらえて手ごろな材料で作ればいい。どうぞどんどん儲けて下さいと皆が思っているのだから遠慮はいらないのだが。(医療機関などに優先的に納入しているのだろう)
その三。流感covid19についていろいろ報道がなされるなかで、世界には石鹸がない家庭が多い地域が広く存在するという話も聞かれ、驚いた。もの心ついてこの方、家には常に石鹸があって当り前に使ってきた身としては、なかなか飲み込めない話だ。靴やパンツと同じくらい必需品ではないか。どれだけ貧乏とは言え、石鹸が買えないほど貧乏というのは想像を超える。それでも20年くらい前まではアジア諸国の貧しさについて強いイメージがあったが、最近ではタイやマレーシアなどから観光客が来日する時代になっているのだから、そんな赤貧洗うがごとき貧しさは、政情不安をかかえる国や地域を除いては、ほぼなくなったのだろうと勝手に思い込んでいたが、違ったようだ。石鹸が買えないほどの貧困もある、これも「恐るべき真実」だ。
ついでにもう一つ。これはどうでもいい「解せぬ」だが。
今日の午後、春の陽の下を歩きながら、どんな成り行きからだったか、オタマジャクシの名前について考えていた。蛙の子はなぜオタマジャクシというのか。おそらく料理で使うお玉に形が似ているからだろう。しかしここで、あれ?と思う。お玉の正式名称が玉杓子であるとしても、お玉をお玉杓子とは現実の生活の中では言わない。台所で母親が手伝いをする子供に「オタマジャクシ取って」と言うことはまずない。もともとの存在の名前としてはとっくに廃れたのだ。それなのに蛙の子のオタマジャクシという名前がちゃんと杓子定規に残っているのがなんともおかしい。そしてそこからさらに、音楽の楽譜の音符の愛称にもなっているのだ。オタマジャクシを見る機会がとんとなくなった今、オタマジャクシの名称が最後に残るのは五線譜上だろうか。(コロナという言葉も元々の存在=冠を目にする機会が少なくなるのであれば今後は主にウイルスの名前として残っていくのだろうか…)
(池田康)

追記
「新型コロナウイルス」という呼称はやや限定がゆるすぎないだろうか。病気の種類の特定ができているとは言いにくい。今のところはこれで通じるし、テレビ・ラジオのニュース番組は日々過ぎ去っていくものだからまだしも、紙媒体、特に新聞は何年か経って記事を見返した場合、間の抜けたもどかしい感じがするのではないだろうか。例えば台風の記事だとしたら、「新しい台風が来ました、新しい台風が東京を襲っています、新しい台風はかなり強力です」と書くようなものだから。国際機関が提示している「Covid 19」が使いにくいとしたら、19年式コロナウイルスとか、7種類目ということで七型コロナウイルスとか、あるいは干支を使って己亥感冒とか。たけき猪が駆ける。
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2020年03月07日

6号は吉岡実特集

夏に刊行予定の「みらいらん」6号では、詩人・吉岡実の特集を計画している。4号の田村隆一特集と同じく、城戸朱理氏の助力と導きを得て。御期待下さい。
それで、吉岡実の研究をということで、ざっと詩作品の全体に目を通すべく励んでいたのだが、いつの間にか吉岡実の庭からウラジミール・ナボコフの庭へ移ってきてしまっている。吉岡のある作品にナボコフの「青白い炎」が参照作品として挙げられていたため。探索中のナボコフの庭が広いのか狭いのかまだ見渡すことができないでいるが、かなり妖しい謎めいた庭であることは確かなようで、下手に魅了されると長らくここに留まることになりかねない。こんなふうに吉岡の周辺を、ルイス・キャロルの庭、西脇順三郎の庭、土方巽の庭、永田耕衣の庭とサーフィンしていくとしたら、いくら時間があっても足りない。道草や回り道は楽しいものだが戻って来られなくなる。わが悠長な雑誌もそれなりに締切やら決まった発行日があるから、カフェでの雑談のように話が逸れて、更に脱線して、再び三たびどこかへ飛んで、出発点を忘れたまま終わってお勘定、という具合にはいかないのだ。耕衣やルイスには申し訳ないが。
(池田康)
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2020年03月03日

新手の感冒

大陸発の新手の感冒が、猛威を振るうところまでいっているのかどうかわからないが、広まりつつあり、警戒と防衛努力でぴりぴりしている昨今。どれだけ恐れなければいけないかという点でいまいちピンと来ない所もある。かつてエイズが登場した時は背筋が氷る思いがした。エボラ出血熱の報道も心底ぞっとした。東日本大震災時の原発事故には「破滅」の二文字が目の前に点灯した。それらの危機と比べると今回の流行病(ハヤリヤマイ)は普通の風邪やインフルエンザの数割増程度の威力のようで、そんなに恐いかという気もするのだが、油断して対策を怠ると等比級数的に患者が増えそれに準じた割合で死者が発生するという理屈も理解できる。中国武漢の罹患者の数字はただごとではない。
現今、対策として催し等の中止や学校の休校が励行されているが、個人的な思いを勝手に言わせてもらえば、2月にコンサートや各種催しが行われることはそもそも基本的に願い下げなのだ。12月や1月は正月の前後で繁忙になることはある程度やむを得ないとしても、寒さの底の2月はあまり家を出たくない、極力じっと冬眠していたい、そんな期間であり、毎年きまってインフルエンザが流行る時期でもあるから、コンサート等の開催にはもっとも不向きなのだという留意があってもいいと思う(寝かせといてくれ!)。2月は眠り月、という俳句の季語にしたいくらいだ。以上あくまでも一個人の勝手な妄言であるが。
もう3月、植木鉢で育てている空豆が知らぬうちに花を咲かせていた。妙な形の花。
(池田康)
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2020年02月29日

『八重洋一郎を辿る』増刷完了

鹿野政直著『八重洋一郎を辿る』の増刷ができてきました。ご注文いただければ幸いです。来週以降には限られた店数になりますが書店の店頭にも出る予定です。
また、「しんぶん赤旗」2月26日の紙面に「詩壇」のコラムで本書が紹介されています。こちらもご覧下さい。執筆は佐川亜紀氏。
(池田康)
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2020年02月17日

『八重洋一郎を辿る』の書評

鹿野政直著『八重洋一郎を辿る』の書評が「週刊読書人」2月14日号に出た。執筆は野沢啓氏。ぜひご覧下さい。
なお、この本の増刷をいま行っており、今月末に完成の予定。同じフランス装なのだが初刷りとは少し違った造本になります。ご予約下さい。
(池田康)
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2020年02月11日

岩井俊二という映画監督

先日、映画「ラストレター」(岩井俊二監督)を見た。一年程前まで手紙をテーマにした詩の連作を書いていたこともあり、また四半世紀前に同監督の「Love Letter」を見た記憶もおぼろにあり、興味をそそられて。巨大なスクリーンで、いい位置の席で見ることができたせいもあるかもしれないが、至福の瞬間が次から次へと現れ、静かな心の昂りが続いた。この監督の独自のマジックは健在のようだ。秋に行った石巻のReborn Art Festivalで廃墟の学校を見たのがじつに印象深かったが、この映画でも出てきて、あのときの衝撃が甦ってくるという事由も鑑賞を深めたかもしれない。
ある個性をいくつかの要素の組み合わせで規定してみるというのも一種のゲームとして面白い。たとえば、オードリー・ヘップバーンはコメディとロマンスとサスペンスの重なる領域で個性的な花を咲かせたのだろうし、ヒッチコックは恐怖への執着と幾何学精神と現代の心音によって特徴づけられると考えられようし、市川崑は直感的・比喩的に言い当てるなら絵と瞬間と煙草でできていると断じてみたい気がする。そのやり方で映画監督岩井俊二の性格付けを試みると「悪戯好き+光と空気+思春期(adolescence)信仰」という具合に考えればある程度いいところまで行くのではないだろうか。
悪戯はすべての場面を通していろんな形で仕掛けられているし、作品によっては制作過程から大規模に悪戯が働いている。数えていけばきりがないだろう。光と空気という重量を欠いた大道具のいくらか表現主義的な活用も特徴的で、この点については映像の専門家に語ってもらうのがいいだろう。思春期信仰については今回の作品のほかにも、過去の「四月物語」(1998)、「リリイ・シュシュのすべて」(2001)、「花とアリス」(2004)などを見ても顕著だ。岩井作品を好かない人の多くはこの点につまずくのかもしれない。しかし子供時代の終わりであると同時に大人時代の始まりでもあるこの特異な時期を大事にし、ここに人間性のすべてが濃密な状態でつまっている、本当に重要なものはここにしかないと考える人間観は、根拠のない偏った考え方と安易に切り捨てることもできないはずであり、私としては「みらいらん」5号で小特集「童心の王国」をやったばかりなので一層共鳴を覚えるというところもある。
思春期を特別に大切にすると言ってもそれは光ばかりでできているのではなく、闇の部分ももちろんある。そこを徹底的に描いたのが「リリイ・シュシュのすべて」で、思春期の残酷、邪悪、汚穢がえげつなくも直截に物語られているのだが、しかし見ようによっては狂おしいまでに魅惑的で、岩井俊二というdevilは作ってはいけないものを作ってしまったのではないかという感想も胸をよぎる。「ラストレター」では終盤で明らかにされる“最後の手紙”が思春期信仰を決定的に宣言しており、そこには「リリイ・シュシュのすべて」ほどの深淵はあからさまに顔を見せることはないものの、この人の世界観にぶれはないのだと再確認することになる。
「岩井俊二においては、大人はコメディの演じ手であり、子供は真正な悲劇の演じ手である」この仮説はどこまで有効であろうか……はてさて。
(池田康)

追記
「リップヴァンウィンクルの花嫁」(2016)は、世界一愚図な女の子と絶壁に片手でぶらさがっている女の子とが仲良くなる話で、そこに軽妙悪辣なアルルカンがからむ。彼女たちの少女性が統べる時間では問答無用の物語がどんどんつき進むが、三人が大人である位相では(欺瞞は欺瞞として残りつつ)それなりに優しげなハピーエンドに着地しているようにも見える。
さらについでに。
『ヴァンパイア』(2012)は繊細な哲学映画のように思われた。『undo』(1994)、『ルナティック・ラヴ』(1994、テレビドラマ「世にも奇妙な物語」の一つ。生野毅氏に教えられて見た)は狂気に貫かれた鮮烈な譚詩のような作品。『虹の女神』(2006、熊沢尚人監督)では脚本家&プロデューサーとしてかかわっているのだが、映画作りをモチーフにしていて面白く、映画制作の初心と演技の初心と恋愛の初心とが純情に重なるところがポイントだろうか。手紙のエピソードに「イワイズム」を感じる。
※蛇足の考察……手紙が特別の小道具オブジェになる理由は、(1)コミュニケーションを過激に飛躍させたり屈折させたり滞らせたりする(2)思わぬタイムラグをつくり物語の構築に有効(3)ときに遺書になる(4)ミスリーディングに演じることもできるし正直な告白もできる、といったようなことが考えられる。特別なタイムマシン、時限爆弾、とっておきの手品の種なのだ。
『スワロウテイル』(1996)は、公開当時に見たときにはいまいちピンと来なかったが、今回見返してみると、愚昧な観客が追いついたということだろうか、大胆に架空の小世界を創造していてとても面白いし感銘を受ける。基本ファンタジーの、ダークな色調の劇画的活劇(しかし娯楽映画というよりも抒情的フィルムノワール)だが、名を持たない孤児(アゲハと名付けられる)の《アウトキャスト》としての歩みを描いていて、こんな原理的な地点から物語を始める過激さはなかなかない。現在50代の俳優たちの若々しい姿が見られるのも新鮮。この作品から『リリイ・シュシュのすべて』までが、decentという価値を顧みず無法にやりたいことをやる、岩井俊二のギャング時代と言ってもいいかもしれない。
では「花とアリス」以降現時点までをどう称するか。ふざけてではなく真剣に敬意をこめて「前衛少女漫画時代」と呼んでみたい気がするのだが、怒られるだろうか。
「打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?」(1993)、男の子たちの達者な演技に目を見張る。ストーリーの分岐の鋭角さ。最後の花火一発が効果的で、「スワロウテイル」といい、この監督は物語の結末を作るのが上手い。

さらに追記(9月22日):
「チィファの手紙」を見た。「ラストレター」と同じ原作の中国製作版。舞台となる中国の風景は風格と年を経た重みがあり、それがこの映画の寒色系の雰囲気を作っている。物語の進行は概ね日本版と同じだが、日本版にない部分で、終盤に弟のチェンチェンが夜の街の闇の奥へ奥へと歩いていき叔父と叔母が追いかける場面がとても良かった。二頭の大型犬は「ラストレター」と同じ犬が登場しているのだろうか、神の使者のように輝く。
脚本がとてもよく書けているのだろう、複雑な筋なのだが、双子作品の2作を見て、その入り組んだ構造が柔軟にゆるぎを許しつつ物語の全体を築き上げているように感じられた。

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2020年02月09日

アイヴズという作曲家

昨日東京オペラシティ・リサイタルホールで、ROSCO(ピアノ:大須賀かおり/ヴァイオリン:甲斐史子)の演奏により、チャールズ・アイヴズのヴァイオリンとピアノのためのソナタ四曲のコンサートがあった。演奏前に、夏田昌和・米山高生両氏による丁寧な解説がついた。
アイヴズは19世紀から20世紀にかけて生きたアメリカの作曲家で、アメリカでの現代音楽の草分けとも言えるのだろうが、ジョン・ケージやミニマル音楽のような類の破天荒の前衛とも、ガーシュインやバーンスタインのような商業音楽に接続した形の音楽創造とも違う独自の孤立を示しているようで、保険業をいとなみながら寸暇を使って作曲するという創作のやり方からも、密室状態の実験室で自分だけの音楽を培養したのだろうと想像される。
コンサート前半はソナタ第1番と第2番の2曲。解説ではナントカ調とか調性音楽的ワードも使われていたが、作品名には何調かの付記もないし、聴いていると調性音楽的なカタルシスの効果が弱く、無調音楽のようにも思えてくるのだが、しかし無調音楽としてもどこかとりとめなくて、受け取りの難しさがある。暴れ回る獣を取り押さえるのが難しいような、創造の制御がきかないままのエネルギーの噴出。どういう音楽を作りたいのか五里霧中という事情もあったのだろうか、新しいことに挑む試行錯誤の混乱が感じられる。これら2曲の作曲時期は1902〜1910年とされていて、シェーンベルクの音楽探求の影響を受けていたかどうかも気になるところで、この時期の音楽史上の思想的カオスをこの曲たちは留めて証言していると言えるのかもしれない。
コンサート後半に演奏された第3番と第4番は、前半の2曲と比べて、すっきりとまとまっていて、〈形〉があり、流れや構成にも絞り切った意図が感じられ、聴きやすく、真摯な音楽がここにあるという感銘もあった。この2曲は作曲時期が1914年ないし1915年まで及んでいて、そのことと関係があるのかもしれない(もう第一次世界大戦が始まっている年だが)。この作曲家は讃美歌を引用することをよくやるようで、とくに第4番の第2楽章と第3楽章ではあからさまに実行されていることが解説で示された。第2楽章は非常に美しい形でそれがなされていて感心したが、第3楽章の引用は少々雑で、アイヴズ先生、作り直して下さいよと苦情を寄せたくなる。
現代音楽のコンサートにしては珍しく超満員の状態。演奏はもちろん立派(後ろの方の席で聴きづらい部分もあったが)。こういうチクルス的な演奏会は(研究会ぽくて)重たい雰囲気になるようで、いつもは衣裳の色調も楽しく工夫するROSCOもこの日は最後の曲以外は黒で統一していた。
(池田康)
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2020年01月23日

鹿野政直著『八重洋一郎を辿る』

八重洋一郎を辿る表紙画像.jpg鹿野政直著『八重洋一郎を辿る ─いのちから衝く歴史と文明─』が完成した。洪水企画刊、四六判204頁フランス装、定価本体1800円+税。
長年、日本近現代の思想史を研究してこられた鹿野政直氏が、ライフワークの沖縄研究で行き着いた先として石垣島出身の詩人・八重洋一郎の詩業に注目し、幼少期から現在までを丹念に辿った詩人論であり、沖縄そして八重山諸島の苦難の歴史も踏まえながら、詩集ごとにその作品をよく見える目で読解・批評し、八重洋一郎がどういう意義を担う詩人であるかを浮彫りにして見事なのだが、まずなによりも歴史学者・鹿野政直が学問道の最後に「詩」とぶつかり、格闘したというそのことが「事件」であり、この事件性の大きさを理解し受け止めることが重要だろう。
「「自由とは、つまり己が生命が爆発していること、歴史よりも深く宇宙よりも深く実在よりもなお深く、静かに音もなく爆発していること、そしてその爆発の自覚であろう」。八重にとって、圧し拉がれてきた島の存在は体内を奔流し、歴史をひっくり返すことは心願そのものにほかならなかった。」(本文より)
こんな具合に詩人の内奥の核が摘出され、また「みらいらん」5号のインタビューでは、「八重山から来る世直し」という表現も用い、「沖縄本島のエリートの人にも読んでもらいたい」という意味深長な発言もされている。詩が歴史を貫く現場をおさえ、そのありさまを克明にあますところなく証言する驚異の真摯さに打たれていただきたい。
なお、現在、この本は在庫のすべてを取次に入れてしまい、こちらには残部がないので、ご注文は書店にて(あるいはネットショップで)お願いいたします。
(池田康)
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2020年01月16日

「現代短歌」寄稿

短歌の雑誌「現代短歌」3月号に寄稿した。特集「短歌にとって悪とは何か」の枠の中で。短歌のことではなくて恐縮だが、主にランボーとヴィヨンのことを書いている。雑誌はすでに完成しているので、よろしければご覧下さい。現代短歌社、定価1000円+税。
(池田康)
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2020年01月12日

三日遅れ坊主

三日坊主という言葉があるが、小生のここのところの生活は「三日遅れ坊主」になっているような気がする。年末にするはずの大掃除は正月に入ってから申し訳ばかりやるとか、元旦と二日はパンを食べていてようやく三日になって餅を食べようかという気になるとか。正月三が日に読んでしまうつもりだった小説も読み終わるのが一週間ほどあとになった。年末に予定していた室内スリッパの更新も昨日ようやく果たした、などなど。カレンダー通り生活するのも窮屈だし、予定表通り課題をこなすのも辛気くさい、というのは自己管理能力に乏しいずぼら人間の説得力皆無の言い訳だろうか。
「みらいらん」5号で望月苑巳さんが紹介していた映画「パラサイト」(ポン・ジュノ監督)はそれでも封切の翌日に見た。評判にたがわないショッキングな喜/悲劇。ちなみに、正月に読んだ小説とは、P・K・ディックの『スキャナー・ダークリー』だが(これは43年遅れ)、この小説の展開も「パラサイト」に劣らぬくらいに衝撃的だった。
(池田康)
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2020年01月05日

「男はつらいよ」の着地点

脚本は作品の単なる骨組みではない、思考であり思想であり意志表明である。
「みらいらん」の作業のすべてを終了した大晦日の前日、「男はつらいよ お帰り寅さん」(山田洋次監督)を見た。回想シーンでの寅さんの数々の語りには胸がジーンと来るし、歴代のマドンナたちのいい表情の映像の連射は神々しく圧巻だが、本筋の立て方はそれに劣らず衝撃的だった。寅さんの甥っ子でさくらの息子の満男(吉岡秀隆)が昔の恋人の泉(後藤久美子)に何十年ぶりかで再会するというストーリーなのだが、クライマックスは泉が高齢者施設に入居している父親に会いにいくところ、とくにその帰路に頂点があるように感じられた。しかしこの場面は決して華やかに盛り上がる物語の局面ではなく、むしろあまりにも凡庸でありふれた、みっともなく恥ずかしい、マドンナ泉にしてみたら自分で見たくもないし人に見せたくもない、親子の愛情生活のパンク、家族崩壊のうんざりの現実があらわになる、人生の底部のリアルが牙をむき出す場面なのだ。このような冷酷な痛々しいエピソードにクライマックスを持ってくる脚本はそうとうな度胸であり、制作責任者は心臓が縮むのではないか。男はつらいよシリーズ全体をマドンナのやるせない恥辱に着地させるこの逆ウルトラCのストーリーの組み方により、ファンタジックな車寅次郎絵物語が神話と歴史とがからみ合い融和するように我々の現実に地続きのものであるという感じがしてくるのだ。
(池田康)
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2020年01月02日

みらいらん5号完成

milyren5.jpgみらいらん5号が完成した。
「対話の宴 野村喜和夫の詩歌道行」ではゲストに詩人の阿部日奈子さんを迎え、「未知への痕跡 ─読む行為が書く行為に変わる瞬間─」と題して、フランスの詩人ルネ・シャールのことや阿部さんの新詩集『素晴らしい低空飛行』を中心に過去の詩集もふくめた詩業のことを話し合っていただいた。とても濃密な詩の思考のやりとりになっていると思う。
小特集「童心の王国」では、大人への敷居をまたいでいない子供の心には大人が喪失してしまったなにか大事なモノが息づいて輝いているのではないか、との問題意識から、加藤治郎、高貝弘也、青木由弥子、蝦名泰洋、長田典子、中本道代、川中子義勝、八重洋一郎、佐川亜紀、柏木勇一、生野 毅、嶋岡晨といった方々の寄稿とともに幼心と詩について考えてみた。
インタビューは日本近現代思想史の鹿野政直さん。石垣島の詩人・八重洋一郎を論じた近刊予定の詩人論『八重洋一郎を辿る』(洪水企画)のことをお聞きした。正義を重んじる、歴史への非常に熱い取り組みが印象的だった。
巻頭の詩は、中上哲夫、鈴木東海子、中村不二夫、菅井敏文、平野晴子の諸氏の作品が並ぶ。齋藤愼爾・高岡修の二氏を並べた俳句の頁も注目していただきたい。
それから昨年九月に生野毅さんとともに宮城県石巻市で開催されたリボーン・アート・フェスティバルを訪れ、吉増剛造さん主催の「詩人の家」に宿泊体験したが、そのときの模様を「光の海底へ登れ! Gozo in Ayukawa」と題して生野さんが寄稿して下さった。これもぜひご覧いただきたい。
(池田康)
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2019年12月26日

「虚の筏」24号

詩誌「虚の筏」24号が完成した。今号の参加者は、神泉薫、酒見直子、坂多瑩子、たなかあきみつ、小島きみ子、平井達也、久野雅幸、そして小生。下記リンクからPDFをご覧下さい。
http://www.kozui.net/soranoikada24.pdf
なお、左半分の枯葉は、小島きみ子さん提供のもの(プリント版では裏側になる)。
(池田康)
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2019年12月23日

金土日のかいつまんでの報告

この金土日の過密日程は踏破するのが少し骨だった。
金曜日は西の方から子供のころの友人がやってきたので、西湘のいくつかの場所をまわって遊ぶ。日暮れどきの満潮の浜辺の幽明おぼろなやさしい鬼気に見入る。
土曜日は詩とダンスのミュージアム(世田谷)にて、野村喜和夫・眞理子ご夫妻の運営するエルスール財団の新人賞授賞式に参加。現代詩部門・藤井晴美。朗読を聴いた限りでは、地獄をかかえた躁のパラノイアという感じ、だが間違っているかもしれない。コンテンポラリーダンス部門・下島礼紗。パフォーマンスはおっかないほど衝撃的。この人はfirst impressionがすばらしく、立って挨拶をするだけでも表情の生命力の光輝に打たれる。フラメンコ部門・内城紗良。まだ十代後半とのことだが踊ると非常に妖艶。フラメンコはダンスと音楽が完全に融合する自然さがみごとで、舞踊の原始、情念の原始が現出するかのようでそのことも有難かった。
日曜日は、国立のコミュニティスペース国立本店での「くにたちコミュニティ・リーディング」来訪。内容は、十人ほどの朗読と、対談・福間健二+大田美和。英文学研究の内実の話、近藤芳美の生地・韓国に対する深い思いの話、などなど。福間氏の短歌の選び方(「何となく変だったのに聞かなくてごめんね身近にあったセクハラ」「チョコレートの銀紙きらきら落ちて行く病棟の夜の青いバケツに」など)は意外性があって新鮮、また朗読されたディラン・トマスの「十月の詩」はこの詩人の裡の「少年」が飛び出してきて生気あふれていた。
間を縫うように、映画「この世界のさらにいくつもの片隅に」を見る。完熟度120%。
このようにして今年の最後から二番目の金土日は渡り切られた。
(池田康)
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2019年12月14日

〈しなやかな戯れ〉を聴く

昨夜、東京文化会館小ホールで「四人組とその仲間たち 室内楽コンサート〈しなやかな戯れ〉」を聴いた。勝手な覚え書きは次の通り。
1曲目は、薮田翔一「祈りの華」、ピアノそしてソプラノのヴォカリーズによる構成。ソプラノが驚異的な高い音を出していた。4曲目で〈夢〉というキーワードが出てくるが、この曲も歌なるものの母型を夢の空間の中に浮かべてみたといった感じがした。ソプラノ=小川栞奈、ピアノ=黒岩航紀。
2曲目は、金子仁美「ビタミンC─3Dモデルによる音楽V─」、サクソフォン2台で演奏。リズムや音程のちょっとした差異やずれを梃子に音の道程を活気づけていく。この作曲家はストイックに求心的に厳しい音楽を作る印象があったが、この曲はバイタリティと猥雑さも具えていて雰囲気が開放的で愉快。腐れ縁の二人組がとくに何をするという目的もなくじゃれ合いながらとぼとぼと歩いていく風で、ありふれた偶然の景の面白さが味となっており、この調子で最後までとぼとぼと進行するのかと思ったら、最後のところで意想外に華麗なクライマックスが構築されていてアッと言わされた。現代音楽としての独創性という点では(そういう視点が重要かどうかはまた別の問題だが)この曲が突出していそうだ。サクソフォン=須川展也、大石将紀。
3曲目は、西村朗「氷蜜(ひみつ)」、独奏フルートの曲。しわがれた低音からよく通る高音まで、光の囀から地を薙ぐ突風まで、さまざまな様相の音を奏者に要求する難曲で、尺八の領土を簒奪しようとするかのような瞬間もあった。細い芯の貫きが幻視される。タイトル「氷蜜」とは、蜜が氷ったのがフルートという楽器だという意味もあるのだろうか。蜜というより、プリズムを舞台にしたアクロバティックな舞という印象もあった。フルート=若林かをり。
4曲目は、新実徳英「ソニトゥス・ヴィターリスVI─Somnium─」、独奏ヴァイオリンの曲。「今回の無伴奏曲は、夢にも似た、摩訶不思議と言っても良いようなイメージの連続体となった」と作曲者はプログラムに書いている。強く印象されるのが中低音域での重音(複数の弦を同時に弓で鳴らす)で、自らヴァイオリンを弾く新実さんはどういう重音がどう鳴るかよく知っているのだろう、私もこの楽器の音の重ね合わせの繊細な豊饒に魅了される方なので、その動きを見つめた。ヴァイオリンはミステリーの城であり、それは夜と夢に親近しており、悦楽もありうるが罪悪もありうる。夢とは必ずしもきれいで美しいものばかりではなく、重く苦しい場合もある。夢は「眠れない眠り」であり、肯定と否定が相克する不条理さを抱えている。力強いヴァイオリンから出てくる重音の断想は、ワイン樽の囈言、冬眠獣の腸(はらわた)の音楽のような、重さのほうに傾いた夢を思わせた。我家のガジュマル(背丈一尺ほど)は枝からさかんに細い根を出して地に向かってつっこんでいて、実に奇妙な生態なのだが、昼の世界からダイレクトに夜に還ってゆこうとする倒錯の夢路の形もある、そんな連想もちらりと浮かぶ。今回の曲目のうち、もっとも「飛び道具」を使わない、質実にして謎めいた暗さを包含した曲。ヴァイオリン=渡辺玲子。
5曲目は、池辺晋一郎「ハーモニカは笑い、そして沸騰する」、独奏ハーモニカのための曲。なかなかなさそうな楽器選択で、近くで聴いていた伊藤弘之氏も、これは珍しい!と感じ入っておられた。こういう場では滅多に出てこない楽器を登場させるからには、その楽器の特長がもっともよく発揮され呈示されるように曲を作るのが上策となる。激しい跳躍やダイナミズムもありつつ、ハイドン・モーツァルト的明朗さも具えた音楽で、ボブ・ディランのようなフォーク歌手が吹くハーモニカは荒々しくデモーニッシュだが、この曲では正調にして典雅なハーモニカを聴くことができた。なにより東京文化会館小ホールのステージに独奏ハーモニカが立ったというそのことが画期的と思われた。ハーモニカ=和谷泰扶。
(池田康)
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