2023年03月06日

フェルドマンの聴き方

ピアニスト・井上郷子のリサイタルを聴く。3月5日夜、東京オペラシティ・リサイタルホール。プログラムは三人の作曲家、モートン・フェルドマン、伊藤祐二、リンダ・カトリン・スミスの作品からなる。いずれもピアノという楽器を比較的シンプルに使っていて、名人芸や超絶技巧は出てこないという点で共通している。
フェルドマンの音楽はわかるかわからないかで言うと憚りながら「わからない」部類に入るが、彼のあやうい音楽思考が感じられればとりあえず良いのだろう。音の横のつながりが旋律を成したり明瞭な楽想の魅惑を形成したりしてはおらず、むしろ淡々とした音の無作為の生成と消滅以外の何ものでもないとも言え、音の粒が天から降ってくるのを茫然と見守る感じだろうか。滝に打たれて洗礼されているような、という比喩的表現も当たっているかもしれない。ただし激しい滝ではなく、ごくごく楚々とした神秘の滝なのだが。今回最後に演奏された「ペレ・ド・マリ」のようなフェルドマンの長い曲はむしろ家で仕事をしながら「そば耳」で半意識の外れのところで聴くのがよいようにも思う。だからコンサート会場でも暗くせずに昼のように照明をつけて、皆さんなにか読みながら聴いて下さいという形でやってみるのも音楽のあり方として面白いのではないか。
伊藤祐二「偽りなき心 II」もとてもベーシックなところで音楽を組み立てようとしていて、固唾を呑むのだが、謎めいた和音や、和音とも言えなさそうな音の塊も出てきて、この曲はもとは木管五重奏だったというから、そのときにどんな響きをなしていたのだろうと想像でそわそわした。
スミス作品(2曲)は、華やかな響きと認知しやすい音型、陶酔的反復などを特性として有していて、リスナーフレンドリーの愛想の良さがあるからピアニストも心安らかに弾くことができたのではないか。後半に演奏された「潮だまり」は委嘱作品で世界初演、コンサートの点睛的演目になっていた。
(池田康)
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2023年03月02日

望月苑巳『スクリーンの万華鏡』

カバー画像S.jpg望月苑巳著『スクリーンの万華鏡』(燈台ライブラリ5)が完成した。サブタイトル=「映画が10倍楽しくなる秘話の栞」。新書判320ページ、税込1650円。著者が夕刊フジに書いた映画エッセイがもとになっている。記者として長年映画に接してきた人間ならではの愛情とざっくばらんさが特色と言えるだろう。映画評論というよりむしろガイド本で、映画製作にまつわる裏話、こぼれ話を多く紹介している点が特色となっており、読んでいるうちに映画が立体的に見えてくること請け合いだ。作品の評価については新聞記者という立場に要求される公平で広い視野に由来してか世評というものを相当に重視していると言えるが、章立てや内容構成に独自の映画観も感じられ、とくに同世代の監督たちの作品を論じた章は熱い思いがじんわりと伝わってくる。
この本の内実をお伝えするには目次をそのままここに呈示するのが一番いいと思われるので、ご覧いただきたい。

(1)さらば岩波ホール 時代を飾った名画たち
惑星ソラリス/旅芸人の記録/ルートヴィヒ/八月の鯨/宋家の三姉妹
(2)令和にみる三島由紀夫の世界
金閣寺/潮騒/憂国/美徳のよろめき/獣の戯れ
(3) これが社会派、松本清張の世界
砂の器/点と線/ゼロの焦点/わるいやつら/眼の壁
(4) SF作家小松左京が見ていた未来
復活の日/日本沈没/エスパイ/首都消失/さよならジュピター
(5) 映画でみる太平洋戦争、開戦のあの日
トラ・トラ・トラ!/パール・ハーバー/ハワイ・マレー沖海戦/1941/聯合艦隊司令長官 山本五十六
(6) 映画からみたベトナム戦争
プラトーン/フルメタル・ジャケット/ランボー/フォレスト・ガンプ 一期一会/ディア・ハンター/地獄の黙示録/7月4日に生まれて/デンジャー・クロース 極限着弾
(7) 戦慄、衝撃、リアルな実録映画事件簿
TATTOO[刺青]あり/白昼の死角/復讐するは我にあり/クライマーズ・ハイ/丑三つの村
(8) 独断と偏見による10本の傑作選
シベールの日曜日/バグダッド・カフェ/ベンヤメンタ学院/この森で、天使はバスを降りた/ブコバルに手紙は届かない/變臉―この櫂に手をそえて/サルバドル 遥かなる日々/八月のクリスマス/日の名残り/レオン
(9) 日本美女目録1〜島田陽子という女優
球形の荒野/花園の迷宮/動天/将軍 SHOGUN/犬神家の一族
(10) 日本美女目録2〜原節子
わが青春に悔なし/東京物語/青い山脈/めし/小早川家の秋
(11) 日本美女目録3〜夏目雅子
鬼龍院花子の生涯/時代屋の女房/二百三高地/瀬戸内野球少年団
(12) これが世界のミフネ伝説
酔いどれ天使/羅生門/黒部の太陽/レッド・サン/椿三十郎
(13) 不完全燃焼、松田優作のすべて
野獣死すべし/蘇える金狼/狼の紋章/探偵物語
(14) 今明かす黒澤明の映画トリビア
姿三四郎/七人の侍/天国と地獄/赤ひげ/用心棒
(15) 今よみがえる相米慎二の世界
セーラー服と機関銃/ラブホテル/魚影の群れ/台風クラブ/風花
(16) 異才 森田芳光が描き続けたもの
の・ようなもの/家族ゲーム/失楽園/武士の家計簿/阿修羅のごとく
(17) 巨匠・森谷司郎が描く日本の光と影
八甲田山/動乱/海峡/聖職の碑
(18) 藤田敏八が魅せるハードボイルドの世界
八月の濡れた砂/赤ちょうちん/スローなブギにしてくれ/ダブルベッド
(19) エロスとバイオレンスの石井隆という男
天使のはらわた 赤い眩暈/ヌードの夜/GONIN サーガ/花と蛇/死んでもいい
(20) 知って得する名画のトリビア五輪
小さな恋のメロディ/エマニエル夫人/E.T./風と共に去りぬ/愛と青春の旅だち/泥の河/スウィングガールズ/人間の証明/キッズ・リターン/アウトレイジ/その男、凶暴につき/座頭市/菊次郎の夏

映画紹介の本は固有名詞が多く出てきて校正に苦労するだろうなと予想はしていたが、作業の大変さは予想をはるかに超えた(とくに島田陽子の章は苦労したので、この本には島田陽子追悼の気持ちも少し込められている気がしている)。それだけにこうして一冊が完成して非常に嬉しい。
(池田康)
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2023年02月13日

高橋馨詩集『蔓とイグアナ』

表紙画像S.jpg高橋馨さんが詩集『蔓とイグアナ』を洪水企画から刊行した。一昨年の『それゆく日々よ』に続く作品集。A5並製96ページ、1800円+税。スナップ写真と詩を組み合わせて異次元の諧謔の対話を試みる第一部、自由線画の奔放自在な実践の成果を世に問う第二部、ヴァージニア・ウルフ「ダロウェイ夫人」の鋭利な読解に熱を帯びる第三部からなり、詩人・高橋馨の異才ぶりが存分に発揮されている。
第一部の様子は、冒頭の作品「記憶の階段」を読むのがいいか。街の通りを女の人?が日傘を差して歩いており、その影が道にくっきりと落ちていて印象的で、背後の建物の細い隙間に上階へと上がってゆく骨だけの階段がわずかに見えている、そんな写真に、次のような詩テキストが添えられている。

 泣き出したくなるほど
 懐かしい なのに
 どうしても 思い出せない場処がある。

写真と対話し、沈思し、からかい、戯れる、そんな雅な試みと見える。
第二部の自由線画については詩人自身の言葉を聞こう。
「自由線画は、何も描かない、無意識の悪戯描きのような手慰みである。何かに似てきたと気づいたら、物理的に抹消するのではなく、その線を生かしつつ、別のイメージとして描き続けねばならない。つまり描かれた線は抹消されない。(中略)わたしが、自由線画に求めたのは、おおらかな夢とユーモアと線の根源的な優美さと明晰さの四点である。例えば、ギリシアの壺絵のような──。」
“無意識の悪戯描き”の自由線画40点が載っており、眺めて楽しむのみ。夢なるものをある仕方で結晶させたらこのような形象になるのかもしれない。
第三部の「ダロウェイ夫人」論はとても犀利で、刺戟を受けること間違いない。
「あらゆる対象(オブジェ)・他者には、自我に対する喚起力が潜んでいる。そうした意味で、鏡である。逆にその喚起力が働かなければ、他者でもなければ鏡でもない。窓辺の老婦人が真の喚起力を発揮するためには、セプティマスの悲惨きわまりない自殺を、衝撃をもってクラリッサが受け止めなければ、老婦人の静謐なたたずまいが、他者として対象とは決してならず、自己肯定的な陶酔的なドリアン・グレイ流の肖像にしか過ぎない。老婦人とクラリッサとの間に深刻な断絶あるいは断層を想定して始めて二人の間にシンパシィーが成立するのだ。」
とか、
「ピーター・ウォルシュとは、だれであろうか、ケンジントン公園のピーター・パン、すなわちポエジーの化身なのだ。」
とか、ドキリとさせられることがたくさん書かれていて、非常に重みのある評論となっている。
ぜひ時間をかけて丹念にご覧いただきたい。
(池田康)
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2023年02月02日

野村家の三冊

昨秋は野村喜和夫・眞里子さん夫妻にとって非常に稔り豊かだったようだ。
喜和夫氏は詩集『美しい人生』(港の人)と評論集『シュルレアリスムへの旅』(水声社)を、そして眞里子さんはエッセイ集『アンダルシア夢うつつ』(白水社)を上梓した。秋なのに満開の春を謳歌している!?
『アンダルシア夢うつつ』は「南に着くと、そこにはフラメンコがあった」という副題がついている通り、フラメンコダンサーの著者がフラメンコについて、そしてスペインの生活・文化について広い視野で細やかにつづっており、しかも読みやすく楽々とページが進む。リズム、詞、衣裳、歴史、年中行事、代表的ダンサーや奏者など語られて、フラメンコの文化としての奥行きが多角的に示され、この舞踊ジャンルへの距離が一気に縮まる感がある。しかしなによりも著者の行動力には脱帽だ。専門家としてフラメンコに関するもろもろの知識を披露するページももちろんおもしろく読めるが、本人が現地に行って、特別の人やものと出会う場面は一つ一つがスリルと冒険であり、熱量が著しく高まり、本書の一番の読みどころと言えるだろう。
野村喜和夫詩集『美しい人生』は、書名も驚きだが、この詩人にしては例外的に素直でストレートな書きぶりの作品が多く収録されていて、仰天した。前半の3章「美しい人生」「場面集」「伝説集」がとくにその傾向がある。焼きつけられる思いがしたのが、第一章IX「(たとえいま街々が──)」の中の次のくだり。

 きょうも私は私自身を覗き込む
 その真ん中の
 心と呼ばれるもの
 さらに真ん中のあたりで
 独楽のように静かに回転している美しいあれを
 なんと呼べばいいのだろう
 簡単には言葉にできないけれど
 それでも言葉にしたい
 生きる力そのもののような
 美しいあれを

『シュルレアリスムへの旅』については「みらいらん」11号で紹介したのでここでは省く。これらの充実した本は、コロナウイルス騒動の三年をくぐったからこそ生まれた、という面もあるのかもしれない。ちなみにこの春には、喜和夫氏の対談集『ディアロゴスの12の楕円』が洪水企画から刊行の予定となっている。
(池田康)

追記
野村喜和夫さんの『美しい人生』は第4回大岡信賞を受賞したとのこと、おめでとうございます。
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2023年01月21日

作曲家エンニオ・モリコーネの仕事

いま、仕事やらなにやらでやたら立て込んでいるのだが、その間隙を縫って、映画「モリコーネ 映画が恋した音楽家」(ジュゼッペ・トルナトーレ)を見た。映画音楽で活躍したイタリアの作曲家エンニオ・モリコーネのドキュメンタリー。このジャンルの映画は鑑賞者を限定しそうだ。しかし映画・ドラマに関心がある人はぜひ見るべきだし、音楽が好きな人も二十世紀の音楽の動向を確かめるために見逃してはいけないだろう。とすると、ほぼすべての人に勧められる映画ということになる!? モリコーネが参加した代表的な作品の音楽のサワリが彼の解説に伴われて次々と奏され、魔法のようにこちらの耳に踊りこんできて魅惑し、音楽のインスピレーションが裸形で立ち現れる、その驚異。今月見るべき最重要の一本。
(池田康)
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2023年01月17日

壁画12号&その他のお知らせ

個人誌「壁画」12号をつくりましたので、次のリンクからご覧下さい。
http://www.kozui.net/artnote/hekiga/hekiga12.pdf

その他の情報、お知らせなど。
杉本徹さんから連絡をいただいたのだが、慶応義塾大学アートセンター(三田キャンパス)で、「西脇順三郎没後40年記念 フローラの旅展」が始まっているようだ。3月17日まで。西脇が野の草木を愛したことを巡る展示のよう。土日祝日は休館。
それから、阿部弘一さんが逝去されたとのこと。ご遺族の方からご連絡をいただいた。お会いしたことはなかったように思うが、弊社の雑誌に何度かご寄稿いただいている。ご冥福をお祈りいたします。
(池田康)
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2023年01月07日

この正月の読書

この正月は久し振りの小旅行に出かけ、気持ちを新たにすることができた。人混みにもまれながらも、どこまでも広がりつづける風景を楽しみ、なつかしさに呼吸が深くなる瞬間もあった。
旅先の本屋で見つけたのが、マルクス・ティール著(小山田豊訳)『マリス・ヤンソンス すべては音楽のために』(春秋社)だ。昨年の夏の刊。この指揮者を贔屓にしていてCDを何十枚も持っている私としては、読まないわけにいかない。
ヤンスンスの音楽家人生が詳細に辿られるのはもちろんだが、オーケストラと指揮者との関係がいかなるものかを知るためにも大変参考になる本。首席指揮者はそのオーケストラの「シェフ」であり、養育者(オーケストラビルダー)であって、誰を「シェフ」に迎えるかについて各オーケストラの責任者・経営陣は本当に真剣に熟考、検討を重ねる。あたかも一国のリーダーを選ぶのと似ているかもしれない。その生理、化学反応、個性にそった成長のありさまがすべての頁にいきいきと描写されていて、活動の奥行きが可視化され、オーケストラ音楽について理解を深くすることができる。
ヤンソンスの音楽家生活で惜しまれることが一つあるとすれば、オペラを振る機会が少なかったことだろうか。とくにワーグナーは断片的に取り上げただけでオペラ作品を一曲通して演奏する機会がなかったようなのはとても残念だ。
そのほか、この正月に遭遇したり情報をもらった出版物について述べると、いりの舎から『玉城徹訳詩集』が出たこと(ゲーテ作品が多い)、南原充士さんが新しい詩集『遡及2022』をアマゾンkindleで出したこと、それから元旦には高岡修句集『蝶瞰図』(ジャプラン)を読んでいた。陽炎のヴァギナ……の句はことに印象に残った。
(池田康)
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2022年12月30日

みらいらん11号

mln11.jpgみらいらん11号が完成した。
小特集「本ってなに?」は本という存在について改めて考える試み。ヨーロッパ古代・中世文学研究の沓掛良彦氏へのインタビューで詩歌の歴史と本の歴史を並行してお話しいただいたほか、エッセイを田野倉康一、高階杞一、松村信人、佐相憲一、高岡修、秋亜綺羅、小川英晴、土渕信彦、宇佐美孝二のみなさんにご寄稿いただいた。さらにアンケートに10名の方々からご回答をいただいた。本の本質と現実について、どれだけ新しい視野が拓けただろうか。
野村喜和夫氏の対談シリーズ、今回はカニエ・ナハ氏と「二十一世紀日本語詩の可能性」。ここ20年ほどの日本の詩のことと、造本の諸面の魅力のことなど。今回を一区切りとして、野村喜和夫対談集『ディアロゴスの12の楕円』(洪水企画)にまとめる予定。
巻頭詩は吉増剛造、渡邊十絲子、添田馨、江夏名枝、小見さゆり、七まどかの六氏。俳句は高山れおな氏に寄稿いただいた。
表紙は國峰照子さんのオブジェ作品「処刑」。
さらに詳しい内容は下記リンク先をご覧いただきたい。
http://www.kozui.net/mln11.html
巻頭の吉増さんの詩についてエピソードを記せば、映画「眩暈 VERTIGO」(12月15日の項を参照ください)の公開初日に東京都写真美術館のカフェで生原稿をいただいたのだが(スキャンしたものを本誌に掲載してある)、いきなり未知の森に迷い込んだようで、ご本人を前にして、読みあぐねる箇所の読み方をおそるおそるお尋ねしながら、手探りで読み進んだ15分ほどの恐怖の神秘は忘れられない。自由気ままに書かれているようにも見えるが、活字に組む際に助詞を一つ間違えていて、校正で直していただき、その一字の違いで脈絡ががらりと変わるのを体験し、しっかりした流れがあるのだと認識をあらたにしたことだった。ご注意いただきたいのが3行目、“ひらなが”となっているところ。これは“ひらがな”を間違えて“ひらなが”と言っているのであり、おさなごの感覚を想起している。言葉の立ち上がる瞬間のあやうい過程をおさなごの感受性でつかまえようとするところに吉増詩の極意の一端があると言えそうだ。「光」というタイトルも特別で、ありがたいことだった。
(池田康)
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2022年12月18日

愛敬浩一著『草森紳一「以後」を歩く』

表紙2.jpg愛敬浩一さんの草森紳一論の第二弾が出る。前の本に続き、〈詩人の遠征〉シリーズ第14巻。タイトルは『草森紳一「以後」を歩く』で、「李賀の「魂」から、副島種臣の「理念」へ」というサブタイトルがつく。税込1980円。
晩年の草森紳一は、明治期の政治家にして漢詩人の副島種臣にこだわって論考的文章を書き続けていた(気が長すぎたのか、未完)。そんな草森を見つめる「副島種臣が隠れていた」「漢字という大陸」ほか、詩人・大手拓次、小説家・島尾敏雄、画家・中原淳一を草森がどう考えたかを論じた諸篇を収める。どの論考においても著者の眼差しは柔軟にして鋭く、草森紳一の思考の根本に迫っていく。
あとがきを紹介しよう。
「走り始めてはみたものの、草森紳一の雑文宇宙≠フ果てしなさを実感して、改めて怖じ気立つ思いである。
前著『草森紳一の問い』と同様に、シリーズ第二弾となる本書も、草森紳一の「人と作品」ではなく、まして「評伝」や「論考」などとは無縁な、思いつきで書かれただけの、何とも雑駁で、ちぐはぐな感想の積み重ねに過ぎない。今はただ、その草森紳一「以後」≠少しのぞき見たことで足れり、としておく。
さて、「理念」とは既知であり、見慣れたものなのであろうが、見慣れたものこそが「認識する」ことが最も難しいと、ニーチェ/村井則夫=訳『喜ばしき知恵』(河出文庫・二〇一二年十月)の三五五番にある。「見慣れたものを問題として見ること、それを未知のもの、遠いもの」としてみなすことこそが、最も困難なことなのであろう。」
愛敬氏はまさに歩く速度で、けっして急がず、寄り道や回り道をしながら、草森紳一の心の核へと少しずつ近づいていく。拙速を避け、いきり立つことなく、注意深く細かいところを見ようとするゆとりをもった姿勢が自然体で頼もしい。興味ある方はぜひご覧いただきたい。
(池田康)
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2022年12月16日

虚の筏30号

「虚の筏」30号が完成しました。
今号の参加者は、生野毅、平井達也、久野雅幸、小島きみ子、神泉薫、海埜今日子、たなかあきみつ、の皆さんと小生。
下記リンクからご覧ください。


虚の筏全体の案内:

(池田康)
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2022年12月15日

映画『眩暈 VERTIGO』

よします映画004s.jpg詩人・吉増剛造が2019年に亡くなった前衛映画作家ジョナス・メカスを悼んで1年後にニューヨークを訪れるドキュメンタリーを主軸にした映画『眩暈 VERTIGO』(監督=井上春生)が今月13日から東京都写真美術館で公開上映されている(25日まで)。すでに国際映画祭で多くの栄誉を獲得しているとのこと。
難民の苦難(メカス本人の経歴)、9・11ツインタワービルの惨事、東日本大震災、二十世紀の詩の脈動(ツェランの朗読の声!)。文脈の絡み合いが非常に重層的で、流れに胸苦しい重みが感じられるのは、主題が詩であるからそれを取り逃がすまいと制作者が力を尽くしたのだろう、入魂の編集。文学テキストがスクリーン上にこのように生き生きと乗ってくる、詩が飾り物としてではなく生命として現われてくるのは驚きだ。
井上監督はプログラムに今作の撮影を回想して「一般的にプロが使う撮影スケジュールの体裁を満たしていない」「予定とは偶然を誘うための、壊されるための脆いシナリオにしか過ぎない」と書いている。台本がほとんどない状態で、どんな勝算をもって制作は始められたのだろうか。「眩暈(めまい)」は予定され得ない。ドキュメンタリーは大なり小なりそういうもので、ヴィム・ヴェンダースがキューバの音楽家たちを撮りにいったときも想定された台本などなかっただろう。しかし今作は詩という風か霞に近いようなものを相手にするわけで、詩への全幅の信頼がなければこの映画は成立しようがない。おそらく井上監督は前作「幻を見るひと」(2018)を通して「吉増剛造の詩」への大いなる信頼を培ったのだろうと推測される。映画の成否を詩に賭けるという制作陣の覚悟にこの作品のもっともドラマティックな面があるのかもしれず、詩歌に携わる人間はそこに感応しないではいられない。
構造の点で言えば、能に似ているところもあるだろうか。ワキの旅の僧として吉増さんが登場し、前ジテはメカス氏の息子さん(が語る最後の日々のメカス氏の姿)、そして後ジテの山場はアコーディオンを鳴らしながらうたうジョナス・メカスだ。彼は恨みや執着に苦しんではいないとしても、表現の世界に生きた人間としての特段の心の重さがあるのは間違いない。詩人・吉増剛造は能のシアトリカル・ダイナミクスを体得している、この詩人の魂マギはかならずや幻妖な能舞台を出現させるだろうと、井上監督は確信していたのではないだろうか。
(池田康)

追記
13日の初日の上映後、吉増剛造・井上春生・城戸朱理三氏のトークショーがあり、試写会のときから最終完成形まで作品が手直しされ刻々と変わっていったことなどが語られた。城戸さんは前作「幻を見るひと」のプロデューサーを務めている。
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2022年12月10日

追悼・山田兼士さん

山田兼士さんが逝去されたとのこと。なんの予期もなかったので驚いた。早すぎるようにも思うのだが、寿命というものは正誤を判じようがない、仕方がない。ご冥福をお祈りする。
洪水企画では山田兼士詩集『月光の背中』を2016年に刊行している。
http://kozui.sblo.jp/article/177167689.html
今回思い出しながら読み返しているうちに、「カヌーの速度とは」という作品を引用紹介したくなった。小野十三郎の詩の引用の部分2ヵ所の字下げがWebでうまく表示されるか、わからないが。次のとおり。


  ゆっくり
  水を切るカヌーの速度で
  言葉さがしをしている。
         (「カヌーの速度で」冒頭)

小野十三郎詩集は『半分開いた窓』大正十五年から
『冥王星で』平成四年まで全二〇冊
昭和最後は『カヌーの速度で』

第一詩集の蘆が
第三詩集の葦になり
詩誌のコスモスになり
やがて詩集の樹木になり
最後にカヌーになり
冥王星まで旅し
生涯を終えた

  時間をとめて
  カヌーよしずかに
  すべるように
  その中にはいっていけ。  (同末尾)

その空間は広く 深く
時間もまた人間を 軽く
はるかに越えていく

言葉さがしには
ちょうどカヌーの速度が
速くも遅くもない たましいの速度が 
必要と 静かに教えてくれた
八十五歳の詩人の声だ

      たましいの速度…細見和之「言葉の岸」より

(池田康)
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2022年11月30日

小特集「本ってなに?」への序曲

うかうかと、いや、みらいらん次号や新刊の本の編集でせわしなくしているうちに、いつの間にか11月が終わってしまった。
この一か月に、なにがあったか。
城戸朱理さんの英訳詩集がワシントンポスト紙に年間優秀詩集ベスト5として紹介されたという知らせに驚いたこと。春から続いていた右肩の痛み(A先輩に五十肩だろうと言われてギクッとした)がようよう治まってきていて、腕を上げる角度によってはまだ引っかかる感覚はあるが、しかしシャツの脱着もままならなかったのがかなり楽になったこと。ガジュマルの鉢を越冬のためベランダから室内に移し、そのため部屋の中がすこしだけ華やいだこと。松本大洋のマンガ作品を何作かまとめて読んで、風がゴオオオと鳴る、男の子たちが生きる原-世界の空気に触れたこと。映画「めぐりあう時間たち」のフィリップ・グラスの音楽に心地よく洗われたこと。そんなところだろうか。
さて、常々イタリアのプッチーニなどのオペラにはまともな序曲や前奏曲がついてないことが多いのを非常に残念に思っていて(オペラファンには序曲など聴いていられないという気短な人が多い?)、そのうらみからでもないが、みらいらん次号の小特集「本ってなに?」に序曲に当たるような詩を作ったので、個人誌「壁画」11号として披露したい。下記リンクからご覧下さい。
http://www.kozui.net/artnote/hekiga/hekiga11.pdf
(池田康)
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2022年11月01日

みのり

DSCF3069.JPG茄子がようやく実をつけた。みらいらん10号で西脇順三郎特集をやった記念というわけでもないが、夏のはじめ、西脇がこよなく愛惜した植物、茄子の苗をホームセンターで購入してベランダに置いた。いくつもいくつも花をつけるが、そのたびに柄のところからもげて落ち、実をなさない。おそらくこれはダメなのだろう、そういう株なのだろうと諦めていたら、10月になって実が生った。やはりこいつは忘れなかったのだとほっとした次第だ。
実が生るといえば、近所の柿の木はすでに色づいた大きな実をたくさんぶらさげているが、いつ花を咲かせていたのだろう。6月に淡黄色の花を咲かせると植物図鑑にはあるが見た記憶はない。ちゃんと目に留るような花を咲かせなさいと柿に要望書を出したいところだ。
「みのり」という語は「いのり」を含んでいるように聞こえる。この錯覚はなかなか良い。小さな茄子が垂れている姿が尊く見える。
(池田康)
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2022年10月23日

詩素13号

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詩素13表紙裏.jpg













詩素13号が完成した。
今回の参加者は、海埜今日子、大仗真昼、大橋英人、小島きみ子、坂多瑩子、酒見直子、沢聖子、大家正志、高田真、たなかあきみつ、七まどか、南原充士、新延拳、二条千河、野田新五、八覚正大、平井達也、平野晴子、南川優子、八重洋一郎、山中真知子、山本萠、吉田義昭のみなさんと、小生。
ゲスト〈まれびと〉は、望月遊馬さんをお招きした。
特別企画は「追悼・小柳玲子」、この夏に亡くなった小柳玲子さんを追悼するエッセイを集めた。執筆者は吉田義昭、坂多瑩子、野田新五の三氏。
巻頭は、海埜今日子「暗渠通信」、坂多瑩子「今日も誰もきません」、酒見直子「銀歯交信」、高田真「線の話」。
表紙の詩句は、Christina Rossettiの“Song”より。裏表紙は今回も野田新五さんの絵。ぜひご覧下さい。
(池田康)
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2022年10月07日

蝦名泰洋さんの『全歌集』に向けて

昨年夏に亡くなった蝦名泰洋さんの『全歌集』の制作が野樹かずみさんの編集で進められているが、制作資金調達のためクラウドファンディングを開始したとのこと。関心のある方は下記URLでご覧のうえご参加下さい。
https://readyfor.jp/projects/105853

(池田康)
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2022年10月02日

追悼の儀礼

先日、みらいらん次号に掲載予定の、野村喜和夫/カニエ・ナハ両氏の対談を行った。録音や写真撮影はいつもハラハラだが、大きなミスや事故もなく実施できて胸をなでおろした。
そのときの雑談の中で、書肆山田の大泉史世さんのご逝去の話も出た。私は安藤元雄さんの8月刊の詩集『恵以子抄』のあとがきで初めて知ったのだが、先ごろ季村敏夫さんから送られてきた「河口からVIII」の執筆者に大泉さんの名前があって驚いた。巻末の「歩く、歩かされる──あとがきにかえて」を読むと、1993年に発表された散文詩を再録したとのこと。大泉さんはもっぱらの裏方の人ではなく表現活動もされていたのだ(2、3回お会いしたことはあるが、深い話はしなかった)。その作品「しろいくも」の最初の章を引用紹介する。

 ●
 それは、とてもとても、とても不可能なことだと思えた。
 またね、またいつかね──。
 ぼくは、両手をポケットにつっこんで、どうやってもこみあげてきてとめられないルフランを鼻先から逃がしている……アンダ、ライフ、ゴウゾン。
 ──んげなごどえっだっではがなえごどにい。

「アンダ、ライフ、ゴウゾン」は後続の部分によれば「and a life goes on」のことのようである。

それから、弘前市から「亜土」115号が届けられたが、これは市田由紀子という私にとっては未知の詩人の追悼号となっていて、2冊セットで、1冊は故人の作品抄、もう1冊は詩人仲間たちの追悼詩や追悼文を収めている。実に手厚い追悼の儀礼だ。市田作品より少し引用する。

記憶というものにも曲り角があるんだ
いつもあと一歩というところで
角にだしぬかれてしまう
ブラウスの肩パッドのずれを
直したはずみに違った通りに出た
なつかしいような
出会いたくないような通りで

いきなり学校の鐘が聞こえた
前の方には
うまく越えて来たはずの角々が
「通りやんせ」をするように
並んで待ちぶせしている

これは「公園通り」という作品の「1 鬼ごっこ」の章。イマジネーションの動き方が魅力的だ。

鍵をかけて一日すごした
誰もこないのに
心の閂をはずしてみた
誰もこないのに

これは「四行詩のため息」の5の章。孤独の景の鋭さ。

(池田康)
posted by 洪水HQ at 15:57| 日記

2022年09月20日

雑誌ふたつ

台風のお見舞いを申し上げます。
さて、発刊されたばかりの「現代短歌」11月号に、エッセイ「批評の書斎を出る」を執筆しておりますので、ご覧下さい。BR賞という書評の賞の発表の号。
それから、田中庸介さん編集発行の詩誌「妃」24号が今月完成、こちらは本文の組みを担当しました。田中さんはなかなか眼光鋭い編集人でした。
(池田康)
posted by 洪水HQ at 18:31| 日記

2022年09月06日

ストラヴィンスキーは天才ではなかった?

小さな雑誌を作っていても、毎号、どうにかして目新しさやささやかな地雷を盛りこめないかと苦心する。マスコミ風にいえば「特ダネ」を追求するわけだ。そう言うとさもしい行為のようにも聞こえるが、刊行物をより有意義なものにしたいという熱意はまっとうそのものであり非難には当たらないだろう。
そして特ダネは目立たない場所に隠れていることもある。
4日日曜日のNHKの放送に特ダネが盛りこまれていたとしたら、それはニュースでも科学ドキュメンタリーでもスポーツでもドラマでもなく、Eテレの夜の番組「クラシック音楽館」にあったのではなかろうか。ブラームスとかベートーヴェンとかいったありきたりの曲目だと見過してしまうが、この日は未知の曲が並んでいたので期待するでもなくチャンネルを合わせて流していた。N響第1959回定期公演で、曲目は、バレエ音楽「ペリ」(デュカス)、「シェエラザード」(ラヴェル)、「牧神の午後への前奏曲」(ドビュッシー)、バレエ組曲「サロメの悲劇」(フロラン・シュミット)。コンサートの前半・後半の幕間に当たる時間に、この日の指揮者ステファヌ・ドゥネーヴ(初めて聞く名前…)が各曲について解説をする。ぼんやり聴いていたら、「サロメの悲劇」の音楽の作り方を学んでストラヴィンスキーは「春の祭典」を書いたのだと語るので、びっくりしてしまった。これまで読んだことも聞いたこともない話だが、現役第一線の指揮者がそう言うのだから、確かにそう言える部分があるのだろう。これは私にとっては立派な特ダネだ。ストラヴィンスキーの三大バレエ曲はそれまでの音楽史から考えると突然変異的な要素が多いので、彼はゼロからこれらを創造したのだろうと思い込んでいて、紛うことない「大天才」のイメージがあったのだが、そのイメージが修正を余儀なくされる。「サロメの悲劇」はストラヴィンスキーに献呈されているとのことであり、とするとフロラン・シュミット(初めて聞く名前…)はストラヴィンスキーの作品に影響を受けて作曲したのであろうから、ストラヴィンスキーにしてみれば自分から出ていった影響が自分に戻って来ただけなのかもしれない。しかし「サロメの悲劇」が発表された1907年は「火の鳥」「ペトルーシュカ」が世に出る前なのだ。
とはいえ、創造に影響関係は付きものだ。ピカソはブラックの仕事から大いに刺戟を受けたであろうし、ゴッホも日本の浮世絵を見なければあんな画風にはならなかったかもしれない。ベートーヴェンもハイドンやモーツァルトがいなければ彼独自の作品世界を拓けなかっただろうし、シェークスピアも同時代の劇作家や詩人からさだめし多くを学んでいただろう。ストラヴィンスキーもピカソやゴッホ程度には「人並み」だったのだ、という依然として浮世離れした話に落着くのかもしれない。
余談。窓を開けて聴いていたので、外の虫の声が入り込んできて、そんな中でドビュッシーの「牧神の午後への前奏曲」を聴くのはなんとも幻想的であった。
(池田康)
posted by 洪水HQ at 10:39| 日記

2022年08月31日

壁画10号

この夏の記念として、詩「百合の夏」を載せた個人誌「壁画」10号を出します。前回9号が2015年だったので、かなり久し振り。下記URLよりご覧下さい。
http://www.kozui.net/artnote/hekiga/hekiga10.pdf

(池田康)
posted by 洪水HQ at 11:13| 日記