2017年09月26日

佐々木幹郎著『中原中也 沈黙の音楽』

長年にわたり中原中也の研究をしている佐々木幹郎さんの最新リポートとも言えるこの本が岩波新書で出た。最重要ポイントを示すのであろうサブタイトル「沈黙の音楽」については、中也が音楽に接近しなにがしか学びながらも(具体的には諸井三郎たちが構成するスルヤという音楽集団)、彼が生涯にわたり詩に求めた“音楽”は現実の音楽とは違うものであり、その厳しい響きを「曇天」や「雪が降つてゐる……」といった作品に聴き取るよう読者は促される。中也が言葉によって探りcomposeした「無言の「歌」そのもの」、「究極の「歌」」を聴き取ることが中也の詩を読むにあたって重要となるという主張がこの一書のすべての頁に込められているのだろう。
その他、代表作「朝の歌」や「サーカス」等のきめ細かい読解や、二つの詩集の成立過程の考察、「島田清次郎ブーム」に影響された天才主義、富永太郎や小林秀雄との交友の機微など興味深い内容が並べられているが、中也研究の観点から特ダネと言うべきは、晩年に入院した千葉の精神病院で作った民謡の歌詞の発見、そして安原喜弘宛の新発見の書簡に述べられる、チェホフの中編小説「黒法師」称賛であり、後者はとくに、黒法師の蜃気楼の姿が時代を超え国を超えて至るところで出現するという物語が著者により文学作品の伝播・受容に結びつけられ、成る程と唸らされる。
もう一つ面白く感じたのは、中也がまずダダにぶつかり、次にフランス象徴詩を知り、さらにハイネの「歌」に魅せられるといった、詩史的にはどんどん遡る意識の運動の形で、詩の本源を求めるという彼の本能的とも言えそうな努力が、他の詩人には滅多に見られない、詩に豊かな音楽を内包させる独自の成果となっていったことを考えると、目覚ましいことのように思われた。
著者の佐々木さんは文章家で、生半の観念作業の生硬さにつまずくことなく、水が岩の上を流れるように滑らかに気持ちよく読み進めることができる。そこもありがたい。
(池田康)
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2017年09月19日

鎌倉のギャラリーで画家の対話

昨日、鎌倉のドゥローイング・ギャラリーで「山口啓介/加納光於 往復書簡の周辺で」展を観た。この夏に実際に交わされた往復書簡が土台にあるということで、60センチ×84センチ(つまりA1判)の大きさの新聞のようにレイアウトされた紙に二人の手紙が刷られているものを渡された。レオナルド・ダ・ヴィンチやボッティチェリのことや、源平の合戦のこと、運慶・快慶の彫刻のことなど、多彩な話題が個性的な緻密さで語られている。美術家の若林奮が「旧石器時代の洞窟壁画と自分自身がある……その間に何も必要としない……」と語ったという話は非常に印象に残った。
展示されていた作品について書くと、加納作品は「星形の」「巡り来るものの」の二つのシリーズ。色彩の諧調の深さに見とれる。作品を眺めている段階では純粋な色と形の抽象的作品と受け取っていたが(なにかあるのかもしれないと思いつつ窺い知れない)、山口氏が手紙の中で「巡り来るものの」について源平の合戦に結びつけて見ているのにちょっと驚いた。山口作品の「共存・分断する3つの顔」「山水の構造」、なにか裏に物語があるのかもしれないと想像しつつまずクエスチョンマークが浮かんだが、往復書簡中に挿画とされている異形の顔(目が6つ、鼻が4つ、口が2つある)のドローイングを見ると焦点が定まるような気がした。
会期は今月24日まで。
(池田康)
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2017年09月12日

三度目、全く正直でなく

是枝裕和監督の新作映画「三度目の殺人」を見た。その年のトップ3とかベスト5に挙げたくなるような作品を常に撮る人だなあと映画制作者としての腕前に吃驚する。
最後の最後で、弁護士(福山雅治)は殺人犯(役所広司)に一点の非常に崇高なものを見たのではないか。しかし殺人を犯した三隅という男はサイコの病いあるいは異能を有しているようでもあり、とても知的で生来の役者なのだが、自分自身の裡の虚暗を自分で理解できないでいるようにも見える。その自分を持て余すような、自己を放棄するようなところは、「幻の光」の自ら命を絶つ夫につながるものがあるかもしれない。この監督はそういう、自分の存在に積極的な価値を見出すことができない、絶望とひたと向き合ってしまった、どこか投げやりな、断崖から片足を踏み外しているような人間の姿に執着する面があるのだろうか。
被害者の娘・咲江(広瀬すず)の表情もマリアナ海溝のような重さをたたえて印象的で、ことに一瞬右半分に明るく光が当たり、左半分は暗く影になった大写しの顔はシンボリックでよかった。
(池田康)
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2017年09月01日

玉城徹全歌集

tamakitoruzenkashu.jpg『玉城徹全歌集』がいりの舎から刊行された。本体12000円。『馬の首』から『石榴が二つ』までの9冊の既刊歌集の他に未刊の「左岸だより」、長歌集『時が、みづからを』、詩集『春の氷雪』を収める。短歌は総計4400首余り。912頁。
先日、いりの舎の玉城入野さんと会って話す機会があったが、この本の編集には5年かかったとのこと。大変だったろうと想像する。
第一歌集『馬の首』から幾首か引用しよう。

 いづこにも貧しき道がよこたはり神の遊びのごとく白梅
 積みてある貨物の中より馬の首しづかに垂れぬ夕べの道は
 ひえびえと青き塗料のはげおちし貧しき空にひばりあがれり
 泥水より体をなかばあらはして鳴ける蛙か夜ふけに聞ゆ
 くらやみの襞より見ればいしみちは脆き夜空につづきてゐたり
 いやはてに海ばらよりも蒼ざめし太陽一つおらびつらむか

「後記」では「これらの作品に、わたしは、自己の刻印を示そうとしたのではなかった。抽象的思考──言葉をかえていえば、一の「美」への祈願──は、つねに、自己の抹殺の企図をふくむのである」とも記されている。
この柄の巨きな歌人に教えを受けたり親炙したりした人には大切な一冊だろう。
(池田康)
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2017年08月27日

精神の運動神経、黒田喜夫の場合

昨日は現代詩人会の総会(早稲田奉仕園スコットホール)に出掛けた。冒頭に細見和之さんの講演「60年後に読む、黒田喜夫「ハンガリヤの笑い」」があり、それから総会(会則変更について多少波乱あり)、名誉会員に推挙された安藤元雄さんの小スピーチ(……薄味でなく濃い詩を……)を聴き、懇親会では吉田義昭さんの歌もあった。
細見さんの講演は1956年10〜11月に発生したハンガリー事件に詩人の黒田喜夫がいかに即座にヴィヴィッドに反応して力強い詩を書いたかを紹介するもの。スターリンが死んでスターリン批判がなされた後になお、このような強権的なソ連の他国軍事介入が起こるという事実にはリアルな政治の(支配欲望の)実態を見る思いがするが、その意味合いに鋭敏に自分たちの運命を投影する詩人の言葉も皮肉に富み凄みを帯びている。最後の八行:

 信じてくれ
 賢い同志たち
 これは可笑しい本当に可笑しい
 ぼくは哄笑った ぼくの屍体が
 笑うほかない屍体の身震いで
 辛いチャルダッシの
 笑い声でいっぱいな
 ハンガリヤで

(池田康)
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2017年08月12日

湯浅譲二さんの米寿の会

昨日、作曲家の湯浅譲二さんの米寿を祝う会がトーキョーコンサーツ・ラボ(新宿区西早稲田)であった。前半はミニコンサートで、テナーレコーダーのための「プロジェクション」(演奏=鈴木俊哉)、天気予報所見〜バリトンとトランペットのための(橋本晋哉&松平敬)、内触覚的宇宙III〜虚空〜(三橋貴風&吉村七重)、チェロのための「Congratulation for the 70th birthday」(堤剛)の四曲。いずれも立派な(がつんと来る)演奏で、音の思いがけない配置、ユーモアの過激な導入、音楽創造の原理を求める精神、など湯浅作品を特徴づける諸面を改めて感じることができた。後半の懇親会では翌日という誕生日のお祝いもなされた。体調を崩して晩冬の頃からしばらく入院しておられた由で、しかし相当回復され、まだ本調子とまではいかないようだがしっかりと立って挨拶されていた。
「洪水」20号の特集論考で、宗教的な(スピリチュアルな)音楽というものについてあれこれと考えてみたが、「現代アートを古代アートにつなぐ」という文句を最近思いついた。たまたまラジオで「現代アート」という言葉が話され、ならば「古代アート」という言葉もありうるわけだと思いつき、やや軽い響きになるが、古代あるいは有史前の芸術衝動の源に立ち返る心のベクトルの意味で、上記のような標語とあいなったわけだ。古代アートが生成するような心意識の次元に現代アートを根づかせよ、と。湯浅さんの「内触覚的宇宙」というタイトルも、宇宙の内側から宇宙に触れるという原始の形而上学的指向が感じられ、古代アートの蘇生が幻視された。
(池田康)
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2017年08月10日

低気圧の通信

低気圧が近づくと身体の具合がおかしくなりがちと言うが、台風5号が近づき本州を襲った日、腰が痛くなった。これを低気圧のせいにするのは正しいかどうかわからないが、重い荷を持ち上げて運ぶような重労働も激しい運動もしていないから、おそらく規格外に強烈な低気圧の悪戯だろう。動くなという風神からのメッセージだったろうか。肉体にも肉体なりの神秘はあるのだ。鈍そうなこの身でも異変があったのだから、今回全国で腰痛をかこつ人は相当いたのではないだろうか。いまはもうほぼ回復した。
「洪水」20号の在庫があと60冊となった。ご入用の方は早めにご注文下さい。
(池田康)
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2017年08月07日

ガジュマルの若葉

ガジュマルの掌に乗るほどの小さな鉢を買い求めて毎日眺めている。成長がよくわからないようにも見えるのだが、よく観察するとつやつやした緑の小さい葉っぱが出ていたりする。新しい緑との出会いが嬉しい。
沖縄の若手の歌手、上間綾乃が6月に出したアルバム『タミノウタ 〜伝えたい沖縄の唄』を聴く。すぐに、これはもう真打だと感じる。もちろん大ベテランの歌手ならば、情念をいかつく厳しくこぶしに凝結して島人の生活の秘密やエニグマを表現する技をさらに強力に発揮するかもしれない。しかしこれはこれで十分に熟していて美しく表情豊かだ。「ひめゆりの唄」は初めて聴いた(必聴)。このCDを通して南の島の真言の滝に打たれる時間はこの夏の最良の納涼であり鎮魂涼となるだろう。
(池田康)
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2017年08月02日

ニュースひとつ

このたび取次の地方小出版流通センターと契約し取引していただけることになった。今までは草場書房に発売元をお願いしていたが、これで今後の刊行物に関しては洪水企画で独自のISBNをつけて発行&発売をすることができるようになる。より一層の意気込みで本を作っていきたいと思う。
ついでに最近の見聞を少し。
映画「海辺の生と死」(越川道夫監督)を観る。戦争末期の島尾敏雄・ミホ夫妻の出会いのエピソードをベースにした作品。劇場は大盛況だったがそれだけのことはあると思われる映画としての存在感だった。フィルムを流れる時間が独特で、テレビドラマではありえないような息の長い間とテンポで作られていて、質感が立ち、物語の神秘性につながっている。満島ひかりの演技を超えた噴火を観る映画。奄美の島の唄もたくさん聴ける。
フランスの女優ジャンヌ・モローが亡くなったとのこと。たまたまルイ・マルの「恋人たち」(これもストレートな恋愛映画)をDVDで観たばかりだったので、感慨一入。
(池田康)
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2017年07月29日

この夏の海

この夏はじめての海を見に近くの浜へ行った。子供連れの家族がたくさん、しかし過度に混雑するでもなく遊んでいる。小さなテントを張っている人が多いようだ。海はこの星で最も大きなモンスターであるとしても、波の音を聞いているのは心地よい。
夕方からなにか野外コンサートがあるらしく、大きな音でリハーサルのようなことをやっていた。
大磯駅は今年も燕が営巣している。雛はまだ小さいようだ。
マック(ハンバーガー屋)に入ることはあまりないのだが、夏はよく入る。マックシェイクを吸うため。できれば季節メニューが食べたいのだが、帰途に寄った店は基本メニューしかなくちょっと残念だった。
(池田康)
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2017年07月20日

真夏、銀座へ

梅雨が終わったとのことで、今日も真夏そのものの暑い日だった。
山野楽器銀座本店(3階)に「洪水」20号を納入してきた。すでに店頭に出ていると思いますので、お買い求め下さい。
山野楽器を裏口から出ると、シネスイッチという映画館があった。何度もきているが、こんなところにこんなものがあるとは知らなかった。チケット売り場に前売り券がいろいろ張り出してあり、岩波ホールで近く上映される、エミリ・ディキンスンの生涯を描いた「静かなる情熱」という作品もあった。この映画のことも知らなかった。犬も歩けば棒に当たるとはこういうことか。
それから……
神泉薫さんが7月から調布FMでレギュラー番組をもつとのことです。木曜日の夜10時45分からとのこと。聴けるエリアの方はチューニングダイヤルを合わせてみては?
「リッスンラジオ」というサイトでも聴けるそうです。
(池田康)
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2017年07月11日

あわただしい帰郷

名古屋へ行ってきた。ある方と中日詩賞の授賞式で落ち合ってある企画について打ち合わせ、という用件があったため。それを無事に済ませ、ちくさ正文館に寄って古田店長さんにも会い(「洪水」20号を置いていただけるそうです)、墓参もして、帰ってきた。帰路につく日、西日本は雨雲で覆われていたが、三河から静岡にかけては晴れていて、岡崎から豊橋の間の里山の緑や、青空と浜名湖のエメラルドグリーンとの映えがきれいだった。
中日詩賞の授賞式では野村喜和夫さんの講演があり、自らの作品「エデンホテル」の制作過程の解説がいろいろと舞台裏を明らかにしてとても面白かった。ガラリヤ湖近くの貧相なホテルを舞台とした「生の基底」に迫る作品。自作に対するささやかな疑念も話され、最後に「謎」というキーワードが示されたが、複数の疑念のつながりが作者自らも解き難い「謎」となっていくのだろうかと思われた。
帰りの電車の中では『大村雅朗の軌跡1951-1997』(梶田昌史・田渕浩久、DU BOOKS)という本を読んでいた。
(池田康)
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2017年07月06日

「洪水」20号の案内

kz20.jpg「洪水」20号が完成した。この雑誌の終幕となる最後の号だ。十年余の歴史にピリオドを打つ総まとめの特集は「歌が深淵にとよむとき」のタイトルのもと、心の深層での音楽経験をさぐるべく、インタビュー記事ではフォークシンガーの及川恒平さん(六文銭)、作曲家の伊藤弘之さんと中川俊郎さん、パーカッショニストの會田瑞樹さん、両国門天ホール支配人の黒崎八重子さんにお話をうかがい、ほかにエッセイや詩で50人もの詩人や音楽家の方々に御寄稿いただいた。音楽の見方の多面的な広がりが生まれたかと思う。
巻頭詩は、財部鳥子、葵生川玲、ぱくきょんみ、大家正志、ほしおさなえ、高梁静穂のみなさん。その他の内容についての詳細は下記ページをご覧下さい。
後継誌は「みらいらん」という誌名を予定している。未来の卵でもあり未来への乱でもあるという意味合いで。詩を中心に他の文学ジャンルや諸芸術にも視野を広げ活気のあるメディアの時空を拓くという編集方針は決めているが具体的な組み立てはこれから。半年後の創刊を計画している。
(池田康)

追記
表紙の色について疑問をもたれる方もいらっしゃるかもしれませんので説明しておきますと、デザイナー(巌谷純介氏)は別の色を指定していたのですが、製造過程のちょっとした手違いでこの色になったという次第です。結果を受け入れるということでご理解いただければ幸いです。

追記2
奥付のページに島崎藤村の「椰子の実」を掲載したが、最後の号のここになにを置こうか迷い、試しにこれを入れてみたら、なにかしっくりして出てこなくなったので、そのままにした。この作品は五七、五七、と進んで、最後は七七で終わる長歌の形で、近代以降に作られた長歌としても名作だろうと思う。

追記3
たなかあきみつさんの記事でエリック・ドルフィーの話が出てきたが、私も彼が最晩年にヨーロッパで録音したライブアルバム『LAST DATE』を聴いたことがあり、そのフルートがとてもよかったことを覚えている。
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2017年07月03日

「虚の筏」19号が完成

「虚の筏」19号が完成しましたのでご案内いたします。今回の参加者は、小島きみ子、二条千河、神泉薫、たなかあきみつ、平井達也、海埜今日子、坂多瑩子のみなさん、そして小生。下のリンクからご覧下さい。
http://www.kozui.net/soranoikada19.pdf

また「洪水」20号も完成しました。若干問題なきにしもあらずですがとりあえず完成にたどり着けて、安堵。今週中に発送を終える予定です。
(池田康)
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2017年06月26日

會田瑞樹CD『ヴィブラフォンのあるところ』

パーカッショニストの會田瑞樹さんの2枚目のCD『ヴィブラフォンのあるところ』がALM RECORDSから出た。二つの部に分れていて、「チャプター1 軌跡」に入っているのは「Billow2」(薮田翔一)、「Luci serene e chiare」(C.ジェズアルド)、「Music for Vibraphone」(渡辺俊哉)、「華麗対位法III by Marenzio」(横島浩)、「ヴァイブ・ローカス」(湯浅譲二)。そして「チャプター2 超越」には「Wolverine」(川上統)、「color song IV -anti vibrant-」(福井とも子)、「海の手III」(木下正道)、「光のヴァイブレーション」(権代敦彦)、「夢見る人」(M.マレ)が並んでいる。
ほとんどが會田さんが委嘱した新作で、技巧を駆使する華やかな曲、瞑想的な曲、特殊な奏法の曲、不思議な論理で世界を築く曲、謎めいた反復で迫ってくる曲、穏やかに小さな声でうたう曲、などなど多様性がありヴィブラフォンのさまざま面を楽しめる。演奏はもちろん高い集中力でなされており、湯浅譲二さんは「超絶技巧でも何でも美事に演奏する強者」と賞讃している。
ひとつ思ったのは、この楽器の音がきれいであり、強打しても濁ることがないから、なかなか邦楽器の「さわり」のようなノイズの音塊・破断の魅力は作りにくいかもしれないということで、いつか適当な機会があればこの面を追求していただきたいものだ。
會田さんには「洪水」次号特集にインタビューで登場してもらっているのでご期待下さい。
なお、この号ではほかに、作曲家の伊藤弘之さん、両国門天ホール支配人の黒崎八重子さんにもお話を聞いています。あと一週間ほどで完成の予定。
(池田康)
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2017年06月21日

ワークショップ風リサイタル

まったくの空梅雨でもないようで今日は本格的に雨に降り込められているが、とんでもない豪雨とかでなければ雨も悪くない。
先日、中川俊郎さんのピアノリサイタル「ピアノの窓」を、川村龍俊氏の主催するWINDS CAFEコンサートシリーズで聴いた。「ピアノのための19の展開第1集」など現代音楽の楽曲のほか、子供が弾くために書いた曲とか制作を手掛けたCMの曲など。ワークショップの感じで、メーキングを垣間見させたり、聴衆の中でピアノが弾ける人に一部弾かせたり、聴衆全員を曲の演奏に参加させたり、中川さんがあやつり仕掛ける奔放な奇想や悪戯が空気を思いがけない方向へ動かして楽しかった。2015年11月に開かれたコンサート(中川さんのピアノ協奏曲が演奏された)の招待状が配られ、タイムマシンを使えたら、ぜひ聴きに来て下さい、とも。ゆにーくな無茶を要求する作曲家だ。
場所は原宿のカーサ・モーツァルト。ここのピアノは古い型なのかちょっと変わっているようだ。WINDS CAFEは初めて参加したが、投げ銭制で、コンサートのあとで行われるオークション遊びも楽しいものだった。
近く出る「洪水」20号では中川俊郎さんにも少しだけご登場いただいているのでご期待ください。20号は編集は終わり、ほぼ予定通り7月1日前後に完成となる見込み。
(池田康)
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2017年06月13日

朔太郎の『宿命』の行路

「洪水」20号の編集のテキスト確認で見ておきたくなり『萩原朔太郎全集第二巻』(筑摩書房)を図書館から借り出したのだが、この機会に詩集『氷島』と詩集『宿命』の散文詩部分を通読した。『氷島』はたぶん再読だろう、前に一度読んだはずだ。『宿命』は収録されているうちの数篇はどこかで読んでいるが通して読むのはおそらく初めてだ。朔太郎の人生論的到達点ともいうべきもの(たとえば「虚無の歌」)や、陰鬱の極みであり恐怖の極みでもあるもの(たとえば「死なない蛸」)から思わず笑ってしまうもの(たとえば「蟲」)まで、じつに巾が広い。これが詩なのか、と言いたくなる際どいものもある。
『宿命』という詩集については山田兼士さんの『萩原朔太郎《宿命》論』(澪標)がある。全体の構成の意図や朔太郎の仕事総体の中での位置付けなど非常に周到に論じてある濃密で充実した評論の本だが、やっかいな種類の読みにくさも抱えている。というのは、この詩集の散文詩部分の扉にショーペンハウエルの「宇宙は意志の表現であり、意志の本質は悩みである。」という言葉が掲げられていて、この詩集がショーペンハウエルの思想の影響下にあることがうかがわれるのだが、『萩原朔太郎《宿命》論』ではそれを受けて(ショーペンハウエルの思想の特殊な概念である)「意志」をキーワードとして論を進めるものの、朔太郎がつかう「意志」とショーペンハウエルがつかう「意志」とどこまで一致しているのか、山田さんのつかう「意志」とショーペンハウエルのそれとどこまで一致するのか、また朔太郎のつかう「意志」と山田さんのそれとどこまで一致するのか、見極め難く、そもそも私自身がショーペンハウエルの「意志」を正しく把握しているか心許ないという事情もあり、論をたどって理解しようとする読みの走行がとても不安定な状況になるのだ。
その判じがたい難点は措いても本書には有益な指摘や考察がたくさんある。
たとえば「我れは何物をも喪失せず/また一切を失ひ尽せり」という特徴的なフレーズについて、「〈死〉の側から見た〈宿命〉と〈生〉の側から見た〈宿命〉の併存状態」と指摘するところとか、「詩と詩学が同時に生成することは不可能だろうか」と問い、一つの可能性として「詩を語ることと詩学を歌うことがもはや区別のつかぬほど接近し全体として一つの統合的な〈作品〉となるようなポエジーを創出すること」があり、その試みが「虚無の歌」でありそれを到達点とする『宿命』であると述べるところとか、第一詩集の『月に吠える』とこの『宿命』とを対比させて「『月に吠える』は、萩原朔太郎の思想の全てを自らの肉体(官能)を舞台に展開した体験としてのエクリチュールだった。これに対し『宿命』は、いま一度この体験を今度は精神の所産たる抒情詩を舞台に再構築した、虚構としてのエクリチュールだった」と考えるところとか、とてもエキサイティングだ。
この『宿命』論を読んでいてあらためて朔太郎は悲壮な詩人だったなと感慨を抱くわけだが、その点についても「この書物は、萩原朔太郎という詩人の生涯のみならず、詩そのものの〈宿命〉を記すべく、抒情の終焉の物語を生成せしめることになる。終焉までの物語ではなく、終焉そのものを物語化する企てとしてである」と語られており、つまり〈詩の終焉の物語〉という作品造形が朔太郎の文業の最終局面だというのであり、命をくびるようでなんとも悲痛だ。
小説「猫町」や先述の「蟲」、一行詩「鏡」についての論考もとても興味深い。
(池田康)

追記
『萩原朔太郎全集第二巻』では当時の詩人や文学者の批評文がいくつか読める。『純情小曲集』の序文の室生犀星、跋文の萩原恭次郎、『底本青猫』附録の蔵原伸二郎のほか、月報で芥川龍之介、高橋元吉の文章が紹介されている。それぞれ鋭い指摘をちりばめている。
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2017年06月11日

吉田義昭さんの7月のライブ

詩人の吉田義昭さんが7月3日(月)の夜に新宿でジャズボーカルのライブを開くとのことです。ぜひお出かけ下さい。詳しくは下記リンクよりちらしのPDFをご覧下さい:

http://www.kozui.net/yoshidalive1707.pdf

(池田康)
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2017年06月06日

生と死のトーンバランス

映画「家族はつらいよ2」(山田洋次監督)はなんの緊張もなくリラックスして見てしまう珍しい種類の作品で(大抵の映画はなにがしかの緊張感をもってのぞむものだ)、あたかも「サザエさん」のある週の回を見るがごとく気軽によく練られた喜劇を楽しむことができる。とくに欲張った高級そうな映画的表現技法は使われていないのだが、平坦に見えて滑らかに細やかに動く展開にからっぽの頭でついていく心地よさは静の演出のリズムが体に作用しているのだろうか、稀な時間経験だ。後半突然「死」が平田家の家族に、そして観客に突きつけられるが、そこでもなお「笑い」を生じさせる無謀な逞しさに驚いてしまう。しかし考えてみれば通夜の席で談笑するというのは普通にありそうな事態であり、フィクション作品が不謹慎を恐れる自主規制に囚われることもないわけだ。個人的に一つ惜しかったのは、夏川結衣演じる史枝(長男の妻)が歌舞伎見物に行くというので和服に着替えるシーンがあるのだが、ほんの一瞬で、史枝さんの艶やかな和服姿をもう少しよく見たかった。映画全体を一幅の画として考えるなら、老・死のトーンが優っているので、それに対抗する生の輝かしさを伝える強い色彩をどこかにもう少し置きたい、生死のトーンバランスを考慮してその方が望ましいのではないかと思うわけなのだが、これは理屈をこねているだけで、単にあの和服姿をじっくりと見たかったというだけかもしれない。文鳥だかインコだか小鳥をかわいがる史枝さんも好風景だ。憲子(次男の妻、蒼井優)が生死を往還するドラマティックな文脈を帯びているのに対して、史枝は日常に半ば埋没しながら時おりほとんど物語に関与しない「無意味な光」を発する。
(池田康)
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2017年05月31日

ガリバルディ

何年も前からイタリアの英雄ジュゼッペ・ガリバルディの伝記を読みたいと思っていた。名前はよく聞くのだがその行動や果たした役割の正確なところがよくのみこめなかったので。夏目漱石の「坊ちゃん」に出てくる「赤シャツ」というあだ名がガリバルディの赤シャツ隊に由来するのではないかという疑問もあり。
しかしながらなかなか適当な本が見当たらなかったのだが、最近幸運にも藤澤房俊著『ガリバルディ』(中公新書、昨年12月刊)を見つけたので、さっそく読んでみた。
19世紀半ばまでイタリアという国はなかった。いくつもの小国に分かれていて、ある国はオーストリアの支配下にあったり、ある国はフランスの息がかかっていたり、ある国はスペインと関係が深かったり、かなりこんがらがっていた。そこからイタリアという国に統一するまでの二十余年の(とりわけオーストリア帝国に対する)独立戦争の過程で大きな役割を果たした何人かのうちの一人がガリバルディで、おもに戦闘の実践面で活躍するのだが、統一の中心となるサルディーニャ王国の首相カヴールや民主革命を志向する政治思想家マッツィーニとの手を組んだり離反したりのややこしい関係が興味深く、またヨーロッパ全体のパワーバランスとのつながりが見えてくると一層面白くなる。
勇名並ぶものなき戦士であり、何度も牢獄にぶちこまれた、愛国者でありコスモポリタンでもあった英雄・ガリバルディの名は神話に類する光輝を帯びて当時のヨーロッパにとどろき、世界に知れ渡った。とりわけイギリスでガリバルディの人気は高く、来訪したイタリアの英雄に対して出迎えの騒ぎは大変なものだったという。明治期の日本でもその伝説的物語は多くの人の耳目をひいたということで、英国留学もした漱石にも届いていたはずだ。
ヴェニスもローマもイタリア統一の過程の最後の最後までイタリアの外にあったという事実には驚かされる。19世紀のイタリア史を辿ることはこの時代のヨーロッパの全体地図を理解するのに非常に役立つだけでなく、国というものがいかに成立しまたいかに崩壊するかを考える上でも貴重な具体的事例となるのだ。
(池田康)
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