2022年08月06日

百合が夏になにかささやいている

はがき002.jpg夏に咲く花といえば、朝顔、向日葵などがすぐに思い浮かぶが、あまりにも当たり前だ。そこで、「百合が咲く夏」という新鮮に感じられそうなイメージを発案してみたい。うちの近所でもあちこちで鉄砲百合とおぼしき白い百合がつぼみをつけたり花開いたりしている。百合のつぼみは特徴的ですぐわかり、いつ咲くんだろうと心の中で尋ねてみたりするのだが、それが開花するとちょっとした感動を覚える。百合が語る夏、この系列に属する風物はどんなものがふさわしいだろうか。ひっそりと涼しげな存在たち。夏の裏街道。
虫ならば、蝉でもカブトムシない。蛍はちょっとよさそうだが、もう今では滅多なことでは出会えないから挙げにくい。玉虫もしかり。なので、カナブン。この昆虫はうちの近所にもいるようで、ときどき見かける。カブトムシより色彩の美しい点もいい。果物では西瓜や桃ではなく、スモモ。貴陽やサマーエンジェルといった品種はことに美味しい。アイスクリームよりも水羊羹、いやトコロテン。飲み物は私の勝手でジンジャーエールにさせていただく。よく飲むので。カフェでオリジナルのジンジャーエールを出すところがあるが、レシピの可能性の幅が広いようで、さまざまな個性的味わいのジンジャーエールが飲めてうれしい。しかし更にふさわしいのは、冷やしたジャスミン茶か。この夏はこれに全面的に頼っている。涼しさをもたらす道具は、クーラーでも扇風機でもなく、団扇。これは壊れやすい、フラジャイルなところもこの系にふさわしい。
歌では誰だろう。声高なかんじがしない、ひっそりした雰囲気の人。現役の人で思いつけるといいが、なかなかぴたっと来ない。だから、久保田早紀。地中海的幻影の南方の光の中に、ひんやりした涼しさが感じられる。「ギター弾きを見ませんか」「幻想旅行」「碧の館」「アクエリアン・エイジ」「25時」「田園協奏曲」「アルファマの娘」「トマト売りの歌」「サウダーデ」「憧憬」など。「星空の少年」もかなり好きだが、オリオン座が出てくるので冬の曲となる。
ところで、百合はキリスト教の受胎告知の花として知られており、それと関係するのかどうか、女性同士の恋愛に百合がシンボルとして使われるようで、そのことを今書いているこの話題に織り交ぜるのは難しいような気がするけれど、それでは、「百合の夏」の文学者として古代ギリシアのサッフォーにお出ましいただこうか。紀元前にまで飛ぶのは涼しさがある。沓掛良彦著『サッフォー 詩と生涯』(平凡社)より、「もっとも美しきもの」という詩。

 ある人は馬並(な)める騎兵が、ある人は歩兵の隊列が、
 またある人は隊伍組む軍船(ふね)こそが、このかぐろい地上で
 こよなくも美しいものだと言う。でも、わたしは言おう、
 人が愛するものこそが、こよなくも美しいのだと。

 このことわりを万人にさとらせるのは、
 いともたやすいこと。げにその美しさで
 世のなべての人々に立ちまさったヘレネーとても、
 いともすぐれた良人(おっと)を捨てて

 船に身をゆだね、トロイアへと去ったことゆえに、
 わが子をも、恩愛のほど浅からぬ両親(ふたおや)をも
 露ほども想うことなしに。[キュプリスさまが]まどわせて
 かのひとを誘(いざの)うていったのだ。

 [女心は]いともたわめやすいもの、
 [それは]今わたしの心に、はるか彼方の地にいる
 アナクトリアーを想い起こさせる。

 ああ、あの娘(こ)の愛らしい歩き振りや
 あの顔のはれやかな耀きをこの眼で見たいもの、
 リューディア人らの戦車や、さては
 美々しく身を鎧うた戦士(もののふ)らなどよりも。

サッフォーの作品は一作をのぞき断片的なものしか残っていないということだが、これはかなり完成形に近いようだ。キュプリスとはアフロディーテーのこと。4行目は今読むと流行歌にもありそうな当たり前のことを語っているようにも思えるが、この本の注によれば、古代ギリシアの価値観からは大きく逸脱した考え方とのこと。トロイア戦争の伝説の妃ヘレネーがうたわれているのが注目される。サッフォーにとってヘレネーは、ほどよく近かったのか、我々が原節子やマリリン・モンローを思い浮かべるような距離感なのだろうか。しかし調べてみると、トロイア戦争は紀元前13世紀とも16世紀ともされていて、そうすると、現在からサッフォーまで約2600年遡り、そこからさらにヘレネーへと1000年近く遡るということになる。この遥かさは、意識をぼんやりかすませるに足る。トロイア戦争のころも百合は咲いていて、〈神話〉を目撃していたのだろう。
追記。画像は、官製はがきの切手の部分。絵柄は「ヤマユリ」とのことだ。
(池田康)

追記2。
『サッフォー 詩と生涯』の論考の部分を読むと、古代ギリシア・レスボス島の女性詩人サッフォーにまつわる実に多くの事柄を知ることができる。後世のイマジネーションの中でサッフォーの伝説がいかに形成されたかを辿る章も興味深いが、より衝撃的なのは、サッフォーの詩文原典の大部分がどうして伝わっていないのかを説明する章で、2000年前くらいの時点では9巻に及ぶ全詩集のような集成文献が存在していたらしいが、その後その90%以上が失われた、しかも自然湮滅ではなく、宗教的理由に基づく焚書によって強制的に消滅させられたという悲劇的な経緯には胸がつぶれる。死後にそこまでの憂き目に遭うとは。世界でもっともタイムマシンを欲する人間はサッフォー研究家であろう。

追記3
元ちとせの歌に「百合コレクション」がある。あがた森魚の詞曲。ひそやかで寂しげな歌世界。隠れた佳曲、という言い方がぴたっときそうな曲だが、至高の名曲とたたえる人もひょっとしたらいるかも。ただ、歌詞に「秋の空」とあるのが(百合を夏のシーンに立たせたい私としては)惜しく、夏にならないものかと駄々をこねたくなるようなもどかしさを覚える。ベースの音が魅力的。
また「夏の宴」という曲(詞・HUSSY_R、曲・間宮工)は、森の中の鬼百合の点景で始まるのだが、タイトルにも明らかなようにまぎれもなく夏であり、安堵とともに傾聴できる。ある種の祭りのスピリット、その幻覚にみちた時空をうたっているようで、「夢の境い目」「眠りについた兵士たち」という部分も気になる。

追記4
道端によく咲いている白い百合は高砂百合という種類らしい。山本萠さんに教えていただいた。確かに葉が細く、図鑑で見る鉄砲百合の葉と違っている。
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2022年07月30日

野の書評に感電する

阿部日奈子著『野の書物』(インスクリプト)が刊行された。1992年から現在に至るまでの30年間に書かれた59篇の書評を時系列で収める。したがって著者のこの間の思考や感性の変化も辿れるのでは、という気がするが、読んでみると阿部さんは阿部さん、若いころから現在まであまり変わっていないような感じもする。ずっと鋭く、ずっと真剣で、ずっと明朗だ。犀利な知性と教養をもって現代社会のあらゆる場所に精緻な問題意識の網を張り、それに引っかかる事件として諸々の本をとても上手に受け止め、読み込む。阿部さんにとって読むとは、気になる論点にメスを刺して血を流させることだ。目指されるのは小手先の書評を越えて、短いながらも、本と刺し違えるような渾身の論考となる。社会構造の問題であっても性の問題であっても眼差しは容赦なく透徹している。随所に露となるこの人の苛烈な気骨にはっとさせられること度々であった。
詩人として著者を知る者にとっては、この詩人の過去の何冊かの詩集に秘められた思いの一部を解き明かす「子供っぽさについて」「フーリエと私」「素晴らしい低空飛行」は必読。舞踊を愛する阿部日奈子という面では「バランシンとファレル」「舞踊家・伊藤道郎の見果てぬ夢」が興味深い。女性の生き方を同性の立場から見つめるという点では高見順「生命の樹」、大原富枝「眠る女」、素九鬼子「旅の重さ」、ルイーゼ・リンザー「波紋」などを論じた章が身体ごとの共鳴が感じられて熱い。
最後にあとがきのように置かれた「野の書物──多感な自然児の系譜」には「そう、官より民、仕官より在野、正当より異端、中心より周縁に惹かれるのは、十代半ばから現在まで変わらない私の好みでる。」という言葉があり、「『美女と野獣』を読んでも、野獣が王子に生まれ変わるラストには、かえってがっかりする。ベルが愛したのは野獣なのに、どうして王子に変身させられてしまうのだろう。」などという軽口まで出てくる。してみると、タイトルの「野」に込められているのは、物語の常套、思想の常軌を逸脱し突き破る精神の真実探求だろうか。そのようにして生まれた言葉を鋭敏に嗅ぎ分け、機関銃ではなく本を手に「快感!」と叫ぶことができるこの文系ヒロインは、本書所収の多くの文章を読むと意想外に戦闘的であることがわかり、読み進むうちに読者はいつしか感電している。
(池田康)
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2022年07月25日

比べる

AとBを比べるという場合、両者にはなにか共通項がありながら画然とした違いも存在する、という関係にあるはずだ。なにも共通項がないと比べようがない、比較が意味をなさなくなる。比較するにしても、ただ単に優劣をつけるのは味気ない。AとBが互いを照らし合うその関係自体(一時的かもしれないが)を楽しむのが比較のより意義深い形なのではないだろうか。

「みらいらん」9号の野村喜和夫・広瀬大志両氏による対談「恐怖と愉楽の回転扉」に出てきた映画「遊星よりの物体X」(1951、クリスチャン・ネイビー)と「遊星からの物体X」(1982、ジョン・カーペンター)を最近観た。後者は前者をリメイクしたもの、という関係。しかし筋はかなり違っている。オリジナルの方は北極の地での恐怖譚に小気味よいユーモアをまじえて映画製作の腕前が冴えている感じがあり、リメイク版は音楽(エンニオ・モリコーネ)の現代性を噛みしめることができ、バッドエンドにかぎりなく近づこうとする脚本も真剣なサスペンス味がある。エイリアンの造型は植物の生命の理をベースにして理論づけようとする1951年版はよりSF的、1982年版は形状や運動がやたら恐ろしくホラー寄りと言えるか。どちらにしても外宇宙はかならずしも友好的ではないことが示され、不気味な冷気が北極の風景に沁みわたることになる。

ベートーヴェンの晩年のピアノソナタ(作品109〜111)をアンドラーシュ・シフと小菅優という二人のピアニストで聴き比べる(どちらも信頼できるピアニストであり、シフに関してはバッハの或る曲などグレン・グールドよりもシフで聴く方を好むこともある)。しなやかに流れ細かくスイングするシフ版に対して、各所で流れをゆるめながら音を立てるような小菅版は音のドラマの形、遊戯の姿がよりくっきりと見えてきて、私のような素人にはありがたく、耳をそばだてやすい。十分に余白をとって静寂を確保しながら音を鳴らし音に語らせる、不協和音も明瞭に打ち出す、大家然とした落着きと初学者のような素直さを兼ね備えた演奏は、何度でも聴きたいとおもわせる構築の強さがある。これらの曲はピアノ曲の歴史のなかでも一つの絶壁の縁をなすものであり、その危うさと絶景を体験することは特別な音楽秘境探訪である。両人とも付属の小冊子でこれらの曲について雄弁に語っているが、ここでは小菅優のコメントを少し引用紹介する。「作品109はもっとも美しいソナタのひとつだと思います。まるで川がもうずっと前から自然と流れていたような冒頭から始まり、ハーモニーの切なさや弱音の美しさは果てしなく遠いところへ手を伸ばしているかのようです。…(中略)…お客様がいなくても自分で自分のために弾きたくなることはあるかとときどき聞かれることがあります。作品110は私にとってそんな曲のひとつです。自分が慰めを求めているとき、音楽の美しさにすがりたいとき、悩んでいるとき……そんなときにこの曲を弾きたくなるのです。…(中略)…そして作品111。いきなり冒頭から嘆いているかのようで、ずっと最後のハ長調を探す迷路のようですが、人生もそのような迷路に感じることはないでしょうか。私は、人生はいつも見つからないハ長調を探しているようだなと感じることがあります。」

比べる、の究極は自分を自分自身と比べることだろうか。一年前、五年前、十年前、二十年前の自分と、今の自分を比べて、どうか。多くはそれほど変わってない、あるいは少しずつ退化している部分もある。それでも進展や新境地がわずかでも見つけられれば自己弁護の余地が生まれ、ほっとできる。自分が自分に対して不満を抱く、それは前へ進む最も基本的な活力ではあるが、へたをすると不幸の感覚に捕われる原因にもなる、そこがやっかいなところだ。ほどほどにしておくべきなのかもしれないが、といっても、自分の自分自身との比較は意識がある限り止めることのできない行為であり人間のサガと言うしかない。それが反復され重ねられ変奏されて〈人生の意味〉なるものの根幹をつくる(創造するor捏造する)のであろう、たぶん。
(池田康)

追記
マウリツィオ・ポリーニの演奏するベートーヴェンの後期ピアノソナタ(op109-111を含む)のCDも所有していたことに気づいた。このピアニストはそれほど近しく思ってなかったので記憶から消えていたようだ。さすがに上手に弾いている。
posted by 洪水HQ at 11:14| 日記

2022年07月23日

岡崎和郎さん

美術家の岡崎和郎さんが亡くなられたとのこと。92歳。「洪水」6号の特別企画「瀧口修造への小径」で、空閑俊憲・土渕信彦両氏とともに座談会で語っていただいたことが記憶に残る。最晩年までとても元気だったそうだ。岡崎さんの手になる謎をひめたオブジェの数々が目に浮かぶ。ご冥福をお祈りしたい。
(池田康)
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2022年07月10日

池袋界隈で

平穏という言葉が2020年以降つかいにくくなっている気がするが、ここのところ、選挙と凶行と戦争と疫病と、過剰に騒がしい世の中だ。ぐったり、家でじっとしていたいところだが、昨日は遠出した。
詩人クラブの会(板橋区立グリーンホール)にちょっとした用事で参加するため(二条千河さんの講演があった)。ついでに、午前中、田端駅前の田端文士村記念館に寄り、芥川龍之介の展示を観る。関連展示で「詩人・吉増剛造 芥川龍之介への共感」があり、〈東京の詩人・芥川龍之介〉の影を追った吉増さんの詩集や映像作品が展示されている。ずいぶん昔のものからつい最近の作まで長年月にわたっていて、傾倒の本気度がうかがわれる。奥の部屋には芥川の資料もたくさん展示されているものの薄暗い中で文字は読みにくく、漫然と眺めるのみだったが、芥川邸の模型にはなぜだか見とれた。太宰治の肉筆の手紙(のレプリカ?)も見ることができた。
東京芸術劇場のおにぎり屋のおにぎりを昼食とする。おにぎりなるもの、自分で握ってもうまくいかないし、コンビニなどで買ってもさほどおいしいと思うことはないが、ここのおにぎりはほろほろとした温とさがありがたく、試してみる価値あり。
ジュンク堂書店池袋本店にも寄る。セルフレジが設置されていた。一冊購入。操作性はスムーズだが、大丈夫なの?という不安がセルフレジなるものにはつきまとう。自販機と同じと言えば、そうなのだろう。
追記。吉増さんからテレビ番組のお知らせをもらっている。「縄文幻視行」というタイトルで、今月17日(日)午前0時30分(土曜深夜)からNHKBS1で放映予定とのことだ。
(池田康)
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2022年07月04日

みらいらん10号

みらいらん10表紙画像002.jpgみらいらん10号が完成した。176ページ。表紙オブジェは國峰照子さん作「歩行」。
今号の特集は「西脇順三郎 世界文学としての詩」、果敢にもこの巨大な高峰に挑戦した。今回も監修的役割を果たして下さった城戸朱理さんの発案が出発点になっているが、個人的には、何年か前に神保町の古本祭りの折に買い求めた『西脇順三郎全詩集』(筑摩書房、1963年)をいよいよちゃんと読む時が来たかという怯えと奮い立ちとが混ざり合った心境だった。この『全詩集』未収録の晩年四詩集も蒐集して謹読した。
特集の柱は吉増剛造・城戸朱理両氏の対談「西脇順三郎をふたたび考える」で、吉増さんの話の中で「生垣」や「女の舌」といった語が目立つ形で出てきたのでサブタイトルを「生垣・女の舌・異語の声」とした。この対談はホテル・ニュー・カマクラで行われ、吉増さんの疑義や事実確認に対して城戸さんが即答するという場面も印象的だった(対談の後の歓談も非常に愉しいものであった)。
さらに贅沢にも往復書簡企画が二つ並ぶ。一つめは、野村喜和夫・杉本徹両氏による「ポエジーのはじめに散歩ありき」、二つめは城戸さんの詩を英訳している英文学者の遠藤朋之さんと城戸さんとの「世界文学の視点から西脇順三郎を考える」。どちらも西脇順三郎の本領を問いただす生彩にみちた対話となっている。
そしてエッセイをご寄稿いただいたのは、石田瑞穂、岩崎美弥子、山内功一郎、山崎修平、田野倉康一、ヤリタミサコ、神泉薫、菊井崇史、カニエ・ナハ、広瀬大志のみなさん(広瀬氏は詩の形)。さまざまな角度から巨魁西脇順三郎に迫って下さった。
西脇順三郎は苦手という方もぜひ今回の特集をご覧いただき、それぞれにこの大詩人への入口を見つけていただければ幸いだ。
巻頭詩は小池昌代、愛敬浩一、岡本勝人、原利代子、岡田ユアン、萩野なつみの六氏。巻頭連載詩は今号から渡辺玄英さん(12号まで)。巻頭短歌は前川斎子さん(「日本歌人」編集人)。
それから嶋岡晨さんの連載詩だが、コーナー名変更となった。すなわち「深夜の詩・夜明けの歌」。刷新された舞台で新たなモードの詩が読めることを歓迎する。
巻末のジャンル別コラムに、この号から愛敬浩一氏がテレビドラマ担当で加わっている。氏は映画やドラマの評論も旺盛に書き、単行本も出していて、その批評は独自の視点に貫かれ、長年培った定見の上で颯爽と自立している。そして洪水企画から今年、〈詩人の遠征〉シリーズで『遠丸立もまた夢をみる』『草森紳一の問い』の二冊を刊行した。どちらも異色のタッチの活気ある文芸評論となっているので是非ご覧いただきたい。
(池田康)
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2022年06月28日

傍若無人なモダニズム

気象庁が多くの地域での梅雨の終わりを宣言したらしい。これからずっと真夏の暑い日がつづくということだろうか。今年はベランダの朝顔は二鉢、成長は極めてゆっくりだが、もう蔓が螺旋運動をはじめている。
左川ちか(1911-1936)も詩を読むととても鋭敏に植物の生命に感応していたと思われる(「前奏曲」など)。
『左川ちか全集』(書肆侃侃房)で彼女の詩作品をざっと通読する。傍若無人なモダニズム、という言葉が浮かんでくる。普通、モダニズム詩の多くは、イメージ片をピンセットでつまむようにして慎重に組み立てる、知的な、計算し尽くした時計職人のような仕事であり、ときには標本箱に収められた詩の死骸といった感じさえ受けるのだが、左川ちかの詩は乱暴なまでの勢いで言葉とイメージを組み立ててゆく。そして突然、存在の不安を叫ぶような行が記される。そのような稀な回路でのポエジーの起爆がこの詩人の個性を成しているのだろう。同書解説(島田龍)にも指摘されているように、詩歴が馬の詩から始まって馬の詩で終わるのも、故郷の北海道が彷彿として印象的だ。
この解説で、わが昔日の愛読書『雪明りの路』の伊藤整との深い関わりも詳細に語られており、相当に詩風がちがうので怪訝なる驚きでもあった。
(池田康)
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2022年06月18日

夏の系

 夏が半透明の殻から抜け出した
 虫の王国のあけぼの
 逃げ水がどこまでも逃げていく
 ラジオの戦争報道は波にのまれ
 サーフボードを脇にスクーターが走る
 真昼間の無常に斧をかける蟷螂
 目覚めてにぶく動きながらまどろむ甲虫
 昼寝は楽園への隧道
 冒険をかぎあてる無為の散歩
 王国に足を踏み入れると子供はセミ語をしゃべる
 藪がウツソウ語を
 川がサフサフ語を
 競り合う天籟妖声の譜
 夏は交響楽 夏休みの作文がつづる
 夏は交響楽 詩が真似る
 第一楽章のtuttiを少年が駆け抜け
 風の管弦が追いかけ
 大紫はうろうろ飛び迷うが
 もうどこへ行く必要もない
 朱夏こそ最終目的地
 その頂は齢を四半にし
 その淵で記憶は浄瑠璃となる
 くももくもく 幼い素頓狂な声
 入道雲の角力三昧
 すわ雷雨燦然
 木々は古代青の甦り
 地上の虫言葉ふたたび蠢き
 夜空ひそひそ語
 銀漢のかなたの爆発
 逃げ水を集めて螢は幽明の呂をまう
 サーフボードはもう乾いている
 少女の歌はまだ濡れている

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もうすぐ7月、いよいよ夏も本番。
ということで、ここに書きとめるのは、夏の子らに寄せる頌歌です。
いざ発表するゾ、というような晴れやかなことではなく、ちょっと出してみる、くらいの気持ち。
というのは、このような主題はありふれたものだろうし、それにつながる各部分の表現も誰かがどこかで似たことを書いているかもしれないので。
なお、「サフサフ」という表現は西脇順三郎「失われた時」から借りてきています。
(池田康)
posted by 洪水HQ at 11:36| 日記

2022年06月17日

加納光於展「胸壁にて」 ほか

昨日は午後から上京。
京橋のギャルリー東京ユマニテで加納光於さんの個展「胸壁にて」を観る。これは1980年代に制作発表された連作で、40年ぶりに展示されたとのこと。奔放な色彩の発現と変幻をあじわう。ギャラリーの御主人から加納さんの近況をうかがう。
それから駒込の駒込平和教会で田中庸介さんの朗読会に参加。詩集『ぴんくの砂袋』が詩歌文学館賞を受賞したのを祝っての催し。精気にみちた声で、東京の地名をもりこんだ詩、学者としての活動に関する詩、家族生活から題材をとった詩など、朗読された。詩誌「妃」の執筆者諸氏も多く参集していたようだ。
この会は天童大人氏が主催する「詩人の聲」シリーズの第2084回。天童さんは昨年詩集『ドゴン族の神―アンマに―』を出している(アフリカ紀行が主題となっており、個人的には「Bine・Bine」という詩の静けさが印象的だった)。
新宿の紀伊國屋書店に寄ったら、一階部分も新装開店していて、誰がデザインしたのか、ぐっとファッショナブルな感じになっていた。
今回の上京とは関係ないが、何日か前から読んでいた、ヴァージニア・ウルフ『オーランドー』を読み終えたところ。まったく奇妙な小説、ウルフの作品群の中でも異色作だろう。数百年の時代の変遷を点描するとともに不思議な人格構造論を試みながら、「樫の木」という一篇の詩の創造を軸に繊細な文学論を各所にちりばめている。すべてが集約される最後の十ページほどはとくに魅せられる。
(池田康)
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2022年06月12日

十薬

晴天からいきなり雷雨が降ったりもして夏らしくなってきた。
最近散歩していて目につく植物にドクダミがある。紫陽花は季節の花として愛されるが、ドクダミはそんなでもないだろう。第一、名前がよくない。誰がこんないやな濁り方をした名をつけたのか、花になりかわって文句を言ってやりたいものだ。辞書を見ると悪臭がするとあるが、花に鼻を近づけてもそれほど強烈な臭いは感じない。整腸・解毒などの薬効があるという。とすると薬草園なんかでは大事に育てられているのだろうか。歳時記を見ると、十薬(じゅうやく)の別名もあるようだ。花の形が十字形で、薬効があるから、この名前ができたのだろうか。こちらの方が感じがよい。例句が七句ほど並んでおり(そのうちドクダミで詠んでいるのは一句だけ)、俳人はこんな小さな道端の花にも目を向けるのだなと感心する。その中から。

黄昏れて十薬の花たゞ白し〜〜夢香

作者は柏崎夢香という俳人だろうか、まったく知らない人。たしかにこの花の白は、十字形ともあいまって、印象的だ。これが沈丁花のような芳香をもっていたらどんなに良かったろうと残念に思ったりもするが、この香りをとびきりの薫香として好む「蓼食う虫」もきっと存在するにちがいないと夢想する。
(池田康)

追記
グロテスク芸術を積極的に語る西脇順三郎ならばドクダミの名前も珍重するだろう。そう考えるとこの名も捨て難い気がしてくる。
そういえば、有働薫さんがなにかの詩でこの植物を書いていたのではなかったかと思い出して、詩集を探してみた。一番新しい『露草ハウス』のタイトル作でもちょっと出てくるが、12年前の『幻影の足』の「茗荷の港」では主役級で登場する。

どくだみの白い花が
見渡すかぎり咲いている野原を
明け方まだあたりが煙ったように
蒼くかわたれているなかを
朝霧に足元をぐっしょり濡らしながら歩いていくと

で始まり、一連の幻想体験が叙され、最後は、「突然まわりの談笑の声が/すーっと遠ざかって行った/わたしは少しめまいがした//気がつくと/どくだみの白い花に囲まれて立っている//茗荷の香りが口の中に残っている」で終わる(最終行の茗荷の香りというのは幻想体験の一シーンに関わっている)。詩人はドクダミに化かされたのか。こんなふうにドクダミと交感できるというのは、この詩人のユニークな資質の一端を示している。
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2022年05月28日

虚の筏29号

「虚の筏」29号が完成した。
この号の執筆者は、たなかあきみつ、生野毅、久野雅幸のみなさんと、小生。
下記リンクからご覧下さい。

http://www.kozui.net/soranoikada29.pdf

(池田康)
posted by 洪水HQ at 12:36| 日記

2022年05月20日

一番居心地のいい場所

この世で一番居心地のいい場所はどこだろうか?
自分の家、自分の部屋、という回答が多いと思われるが、それを省くとしたら、どうだろうか。
思いつくままに挙げてみよう。たとえば由緒ある温泉の露天風呂。あるいはハイキングで2時間歩いてちょっとした山頂に到達して岩に腰かけ水筒の水を飲んで景色を見渡すとき。あるいは気のおけない友達数人との会食(隣のテーブルの声がうるさくないことは絶対条件)。あるいは快適なライブハウス、アルコールを少し体に入れて音楽を聴くとき。あるいは昔の和風の家で大きな庭があって縁側に坐って日向ぼっこをしながら鳥の鳴き声を聴くとき……
いずれも悪くないが、正解は、空豆の莢の中、なのではないかと昨日今日空想している。
数日前、食料品店で特売の莢入り空豆一袋を買ってきて、茹でて食べているのだが、空豆の莢の中はとても上等な白い綿状のクッションが敷き詰められていて、心地良さそうなのだ。この中に入って、空豆の木の枝にぶらぶら揺れるのは、とても気持ちいいのではないだろうか。馬鹿なことを言うなと言う人は一度空豆の莢を裂いて中を見てみるといい。気持ちが落ち込んだときなど、自分は空豆の莢の中にいる、宙で風に揺れている、あったかくて雨にも濡れずとても静か、と空想したら、少し気が楽になりそうだ。
ちなみに、子どもの頃はおいしさがよくわからない、どちらかというと苦手、という食材がいくつもあるものだが、私にとって空豆はその一つだった。今はうまいうまいと食べている。
(池田康)
posted by 洪水HQ at 19:25| 日記

2022年05月16日

愛敬浩一著『草森紳一の問い』

草森003.jpg愛敬浩一さんの評論集『草森紳一の問い 〜その「散歩」と、意志的な「雑文」というスタイル〜』が完成した。前著『遠丸立もまた夢をみる』に引き続き、〈詩人の遠征〉シリーズでの刊行で、第13巻となる。ページ数224ページ、定価税込1980円。
2008年3月に70歳で亡くなった草森紳一は元来は中国文学者であるが、マンガや写真、デザインや広告の批評など、ジャンルにとらわれない〈雑文〉のスタイルを確立したとされる。その文業の全体像、そして根本にある「問い」をつかむべく、著者は散歩論、写真論、中国の詩人・李賀論を取り上げて、あるいは植草甚一との比較を試み、謎めいた草森紳一の核心を遠目に目指しながらゆっくり巡り歩く。
本書冒頭に置かれたプロローグに「私が追い求めたのは、ただ草森紳一の文章の可能性だけであり、むしろ、彼が書こうとしながら、ついに書かなかった何かであるような気もする。私はただ、草森紳一の問いの上に、私の問いを重ねただけに過ぎない。」とある。それは結局は、なぜ読むのか、なぜ書くのか、という単純な問いに還元されることなのかもしれない。しかしそこに留まるのではなく、著者と草森紳一はほぼ同時代を生きてきたわけで、その時代とはなんだったのか、精神的になにを課され、どうくぐり抜けてきたのか、という無限に複雑で解剖が面倒な諸相がまとわりついてくる。
通読してみると、散歩論での永井荷風、写真論でのウジェーヌ・アジェ、そして詩人李賀の像がとりわけ強く脳裏に焼きつくように感じる。草森紳一論を組み立てながらより豊かで多彩な文学文芸のうねりを誘い出し、読者はそれに巻き込まれるというわけで、これはありがたい読書体験だろう。
私は愛敬さんから一昨年刊行の『詩人だってテレビも見るし、映画へも行く。』をいただいて、ドラマ論・映画論を集めたこの書を拾い読みしているのだが、氏の眼差しは細やかで鋭く、独自色の強い論立てで書いていて、はっとさせられることも多く、気持よく読める。そんな愛敬氏のやわらかさと鋭さが今回の『草森紳一の問い』でも全編にわたり発揮されていて、それがこの評論の個性的な濃密さにつながっていると言えるだろう。
(池田康)
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2022年05月05日

柏餅と『西脇順三郎全詩引喩集成』

吉増ちらし001.jpg吉増ちらし002.jpg5月の連休はこどもの日を含むということを思い出すのは、スーパーマーケットの店頭に柏餅が主役のように並ぶのを見るときだ。見ると食べたくなり、柏餅を食べる。餅の部分はそれほど個性のあるものではないが、嬉しいのが餅をくるんでいる柏の葉の匂い。柏餅は「食べる」よりも「嗅ぐ」ものなのかもしれない。仙人になった気分。
葉が大きな役割を果たす和菓子はほかに桜餅と草餅がある。桜餅は桜の葉の代わりにプラスチックで作った模造葉で餅が包まれてあるものも時々あるが、言語道断だろう。桜の葉を一緒に食べるあのしゃりっじょりっとした食感がよいのに。
昨日は伊勢原市立図書館に赴き、新倉俊一著『西脇順三郎全詩引喩集成』を閲覧した。この本を所蔵している図書館は少ないかもしれない。わりと近くの図書館で見ることができて幸運だった。西脇の詩に出てくるあやしげな有象無象について実に多くのことを教えられる。
さて、ここに掲げたチラシは、最近吉増剛造さんからいただいたもの。そういえば、先日対談の収録でお会いしたときには、新しい映画のことを語っておられた。八十代にしてこの八面六臂の活躍は驚きだ。
(池田康)
posted by 洪水HQ at 11:37| 日記

2022年04月26日

世はつねに変貌する

昨日は国分寺のくるみギャラリーでの山本萠さんの個展を見にいったのだが、東京の街の変貌を経験する一日だった。往路、渋谷で途中下車すると、中央改札あたりの駅構内の様子がすっかり変わっていて、どこをどう歩いて地上に出たら目的地に好都合かさっぱりわからない。今はまだ改築の途中なのだろうか。迷路の街渋谷に迷路の駅、これはナゾナゾとしてはふさわしいのかもしれない。帰りは新宿に寄ったが、ここでは紀伊國屋書店が大掛かりに模様替えを果していて驚かされた(1Fはまだ工事中)。エスカレーターがある!……なんて今時びっくりするほどのことではないが、この店としては画期的だ。降りるときは階段を使うことになるけれど。店頭にはなばなしく並べられていた『左川ちか全集』(書肆侃侃房)などを購入。
(池田康)
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2022年04月24日

西脇順三郎の特集をやります

吉増002.jpg「みらいらん」次号(10号、7月刊行予定)では特集「西脇順三郎 世界文学としての詩」を予定しており、そのメインとなる企画、吉増剛造・城戸朱理両氏による対談を先日鎌倉において無事行うことができて、ほっとしている。多岐にわたる、熱っぽい議論になった。いま、テキスト起こしをしているところ。
私自身は西脇についてはこれまで代表作とされるものを読んだ程度だったが、特集を組むということで、この3〜4月に詩作品をあらかた通読してみた。ようやく西脇順三郎の初心者となったようなかんじで、バケモノのような大きさに言葉もなく圧倒されている。
以前から、昭和38年刊の『西脇順三郎全詩集』を所持していたが、この本には晩年の四詩集が入っておらず、その『禮記』(1967)『壤歌』(1969)『鹿門』(1970)『人類』(1979)は個別に古書店で手に入れて揃えた。すべて筑摩書房。『人類』に付録の栞がはさんであり、そこに吉岡実も文を寄せているのだが、「詩集《鹿門》が刊行されてから、約十年の歳月が流れている。今度もまた私が造本・装幀を任せられた」とある。すると『鹿門』と『人類』は吉岡実の装幀なのだ。『禮記』『壤歌』はどうなのかわからないが、筑摩書房の本ではあるし、吉岡実装幀の可能性はあるだろう。
茫洋とした桁外れの詩人・西脇順三郎に今回の特集でどれだけ迫れるか、期待していただきたい。
ここに載せたチラシは吉増さんからいただいた、来月から開催のもの。
(池田康)
posted by 洪水HQ at 15:33| 日記

2022年04月22日

詩素12号

詩素12表紙003.jpg詩素12表紙004.jpg詩素12号が完成した。今回の参加者は、海埜今日子、大仗真昼、大橋英人、小島きみ子、坂多瑩子、酒見直子、沢聖子、菅井敏文、大家正志、高田真、たなかあきみつ、七まどか、南原充士、新延拳、二条千河、野田新五、八覚正大、平野晴子、八重洋一郎、山中真知子、山本萠、吉田義昭のみなさんと、小生。
ゲスト〈まれびと〉は、伊武トーマさんをお招きした。
巻頭は、高田真「交差点で」、山本萠「草の日々であるそのひと」、吉田義昭「風景病」、大橋英人「(りんごとロープのラプソディ 2編)」。
表紙の詩句は、T・S・エリオットの“The Song of the Jellicles”の第3連。裏表紙のほうもご覧いただきたい。野田新五さんが描いた絵で、マスクになにか文字が書いてあるが、「ウクライナに平和を」という意味だとのこと。
ぜひご覧下さい。
(池田康)
posted by 洪水HQ at 09:07| 日記

2022年04月10日

春の(ばかされた?)一夜

昨日は東京グランドホテルで日本詩人クラブ賞ほかの授賞式があり、二条千河詩集『亡骸のクロニクル』(洪水企画)が新人賞を受賞した関係で出席、二条さんの紹介スピーチをした。二条千河さんの自作品朗読と受賞のことばは、若いころ演劇をやっていたからか、舞台人のパフォーマンスのような力強さ、覇気があり、驚かされた。なお、クラブ賞は草野信子氏(詩集『持ちもの』)が受賞。式の後は大門付近の店で近しい者たちが集まりささやかな祝宴、終えて店を出たら、西の方角におばけのように東京タワーが輝いていた。
(池田康)
posted by 洪水HQ at 15:21| 日記

2022年04月02日

「東京人」5月号書評ページ

「東京人」5月号の書評ページで小池昌代さんが宇佐美孝二著『黒部節子という詩人』(洪水企画/詩人の遠征11)を紹介・批評して下さいました。是非ご覧下さい。
(池田康)
posted by 洪水HQ at 09:30| 日記

2022年04月01日

「現代短歌」5月号

「現代短歌」5月号(90号)の特集は「アイヌと短歌」で、まずバチェラー八重子(1884〜1962)が紹介され、「ふみにじられ ふみひしがれし ウタリの名 誰しかこれを 取り返すべき」「亡びゆき 一人となるも ウタリ子よ こころ落とさで 生きて戦へ」等のアイヌの悲運を表現する代表歌が掲出される。「ウタリ」とは「同族」の意という。他に違星北斗、森竹竹市、江口カナメといった歌人たちもしっかりスペースを取って紹介されている。
まず第一に感じるのは、国や民族の危急存亡のときには詩歌は民族の歌声を汲み上げるものだということ。これは独特の調子の高さを生み出す(ヘルダーリンもいくらかそういうところがあるだろう)、と同時に、戦時中の日本の詩歌のように、危うさを帯びてしまうこともありうる。詩歌は「民族の歌声」をできれば過度に孕まない方が安全で幸福なのだろうが、どうしても噴き上げてくる時もあるのは否定できない。今のウクライナの詩歌人は、なにか書いているとしたら、どのようなものを書いているのだろう。
横道にそれるが……「戦時中の日本」で思い当たるのだが、ウクライナでの戦争が始まった時点で、日本にできることが一つあったのではないか。それは「疎開」という概念を伝授することだ。激しく砲撃・空襲される都市に子供たちを残すのはよろしくない。可能ならば、比較的安全な田舎の地域へ集団疎開させるべきだろう。「生きて戦へ」はスピリットとしてはわかるし感銘を受けもするが、子供を現実の戦いの最前線に置くのは無茶だ。わが亡父も、戦時中の集団疎開の経験をひどく辛くひもじかったとよく語っていたが、辛いとしても命を落とすよりはましだ。概念があれば実行できることも、それがないと全く思いつかず実行されない、ということもあり得るだろう。「アメリカンドリーム」という言葉がなければアメリカで成功を夢みて努力することは少し余計に骨が折れるだろうし、「津波てんでんこ」という思想語彙がなければ津波のとき他人にかまわずてんでんこに逃げづらい。
アイヌに話を戻せば、アイヌ語を話せないアイヌ人という境遇も出現しているとのことで、これは政治、統治のあり方がからんでいるのだろうと思われるが、悲痛だ。
バチェラー八重子歌集『若き同族に』より。

 野の雄鹿 牝鹿子鹿の はてまでも おのが野原を 追はれしぞ憂き
 寄りつかむ 島はいづこぞ 海原に 漂ふ舟に 似たり我等は
 古の ヌプルクイトプ 知らせけり ポイヤウンペの 行くべき道を
 石のごと 無言の中に 力あれ ふまるるほどに 放て光を
 逝し父を まだ帰らずやと 思ひつつ 家中さがしつ 幼なかりし日
 霊にだに 会ひたきものと 暗闇に 目を大きくも 開けて見しかな
 有珠コタン 岩に腰かけ 見てあれば 足にたはむる 愛らし小魚
 オイナカムイ アイヌラックル よく聞かれよ ウタリの数は 少くなれり

(池田康)

追記
英語に「evacuate」という言葉があったことを思い出して、辞書を引いてみたら、
The children were evacuated to the country (during the war).
という例文が複数の辞書に出ていた。
してみるとこれは常識とされている事柄なのだろうと考えられる。
posted by 洪水HQ at 12:06| 日記