2018年02月28日

文化コードを考える

散歩に出ると梅が花盛りだ。椿もそうだが、もうちょっと暖かくなるまで待てばいいのに、こんな厳しい季節によく咲くよと感心する。花には花の事情があるのだろう。
椿や山茶花は演歌などによく出てくるが、梅はあまり聞かれないように思われるのはなぜだろう。梅には一年の始まりを寿ぐというめでたさの性格付けが歴史的・文化的になされていて、それが演歌の主流が求める悲哀路線(心中を扱う浄瑠璃に通じる)と相容れないのかもしれない。文化コードが違うらしい。ならば洋楽系のポップスに出てくるかというと、花としての梅はなかなか思い出せない。梅の親戚の桜はどちらのジャンルでも広く歌われる。そのまた親戚の薔薇はポップスでは平気で主役級の顔で出てくるが演歌では登場しにくい感じがする。これも文化コードの相違か。
最近、島津亜矢が吉田拓郎の「落陽」を歌っているのを聴いたが(『SINGER4』)、この人が歌うと演歌曲のように聞こえて、驚いた。演歌の主な性格として、モダンに対する反逆=「反近代」、そして日本的文脈の遵守つまり「和風」であることが挙げられるかと思うが、「落陽」は北の地のうらぶれた男を描く歌詞内容から言ってもそういった演歌の厳しい文化コードチェックにパスするのだろう(社会や国のあり方を批判している部分はやや違っているかんじもするが)。日本のフォークソングは等身大の若者の生活を描くことが多く、シンガーソングライターである歌い手その人が歌の主人公のようにも聞けるところが親しみやすい人気のもとにもなっているのだろう、この「落陽」も吉田拓郎が実際に北海道でサイコロ好きのジイサンに会ったんだと想像して聴いてもさほど不自然ではない(作詞は岡本おさみ)。島津亜矢がうたうとその構図が演歌的芝居の次元に自然に移行するのだろう。フォークソングで、ロックの演奏形態で歌われても、演歌に聞こえる、という融通無碍の不思議がおもしろい(これら流行歌のジャンルは離れているようで梅と桜と桃のような近さの関係にあるのか)。音楽がみずからの文化コードを変えていく冒険は概念を揺さぶり変革する刺戟があって案外の驚きをもたらす。
(池田康)
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2018年02月21日

解説者の目、光景の光

ピョンチャンの冬季オリンピックが酣。ノンコノユメのG1勝利(競馬)も見事に美しかったが、現時点で最強と目された選手が鬼ごっこの鬼から逃げるように失敗の可能性を払いのけて実力を出しメダルを勝ち取る姿ははるかに(八馬身差くらい?)心動かされる。
国単位で言うとメダルにからんでくる国は冬季の場合ある程度限られてくるとはいえ、さすがにこれだけの競技種目の最高レベルのチャンピオンシップが一堂に会すると、熱烈ファンでなくてもスポーツに普通に興味のある人間なら酩酊感を覚え、時空の特別なパワースポットを形作っているような観がある。雑誌もこのようなパワースポットたるべきだろうが、ここまでのメガスケールの祭典は一民間企業の商品では作り出せない。
オリンピックでしか見られないような珍しい種目も多く、そういった「なにこれ?」競技は解説者に説明してもらう必要があるわけだが、ゲームの特殊なルールや条件をわかりやすく説明し、さらに身体力学の細かいところを分析し、なるほどと納得させられることが多く、その道の玄人の語ることは違うと感じる。新聞の新作映画紹介でも眼力・見識ある映画評論家の方々が書いていると上手に観るなあとレビューだけで拍手することがあるし、書評も(映画以上に取捨選択が難しいが)評者の書き方ひとつで本の魅力が全然違って伝わる。同じことで、未知のものの「なにこれ?」に対する、光の当て方、言葉のきざみ方は一朝一夕でそのコツや価値観を伴った視野が習得できるものではなく、スポーツ中継で熟練アナウンサーが十分下準備して実況する以上のことをスペシャリストの解説者は易々と語るのであり、良き解説者を得ることの重要性は言うまでもないことだ。
しかしまた解説無用で飛び込んでくる鮮烈な光景もあり、たとえばアイスホッケーの上位チームの驚異的なパスの繋がり方は見ていてほれぼれするし、バイアスロン選手のライフルを背負って野山の雪道をスキーする姿は野性味があり凝視してしまう。そういう「光景の無言の光」のほうが案外記憶の深い層に残るのかもしれない。
(池田康)
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2018年02月17日

訃報飛来ス

訃報は予期もしないところに新聞・テレビ・ラジオを通じて伝えられる。石牟礼道子逝去の報は、かつて氏の文章に多少とも接したことがあったのでそれなりの深い感慨を覚えたが、私にとってより生々しく切実に刺さってきたのは、元東京新聞記者の吉岡逸夫さんの訃報だ。以前、アジア関係の雑誌にかかわっていたときに吉岡さんには少し(相当?)お世話になった。覚えているのは、どういう用件でだったかは忘れたが、新宿ゴールデン街の韓国料理の店で会って話をしている光景だ。初対面に近い人間をそんな場所に誘う人はあまりいないだろう、吉岡さんらしい。映画製作のことも記憶に残っている。ハンディビデオカメラをもって中東へ行って撮影し、それをドキュメンタリー映画にまとめたものが、東中野だったか渋谷だったかの映画館で上映されたのだった。そんな簡単に本格的上映が可能な映画ができてしまうものかと唖然とすると同時に、吉岡さんの恐れを知らぬ行動力に舌を巻いたものだった。66歳は早すぎる――そう呟いてみるのだが、それだけの身にこたえる冒険を重ねてきた孤軍の記者だったのかもしれない。
(池田康)

追記
金子兜太さんも逝去。一度お会いしたことがある。気さくな大先生だった。ご冥福を祈りたい。
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2018年02月08日

出たくない症候群

布団から出たくない、風呂から出たくない、家から出たくない、の「出たくない」症候群が優勢になる真冬の日々。
1月は正月の延長でのんきな気分で過ごしていたが、2月になって急にせわしくなってきた。歯の治療、パスポートの切り替え、運転免許証の更新、税務署に出す書類の作成など、それほど楽しいわけでもない用事が次々と重なってきて、気が急いてくる。こんなに寒いのに、やっかいなことをいくつもやらなければならないのは、誰が仕組んだ罰ゲームだと文句を言いたくなるが、北国の雪かきの力仕事は大変だし、大雪で立ち往生する車のドライバーは地獄だろうし、受験生たちは氷雪の気候に遭えば危機一髪だし、それに比べたら苦しいのうちに入らないのだろう。
歯医者というのは本当に怖いもののようで、今日行かなければならないなあと憂鬱に考えて変な具合に首を伸ばしたら筋を違えたような痛みができてしまったほどで、恐怖の観念だけで体調がおかしくなるという笑止な経験をした。
しかし歯医者だろうとつまらない用事だろうと、外に出て寒風に吹かれると気分がすっきりするのも事実だ。“自分”から出たくないという究極の出たくない症候群から逃れて二人称や三人称の人々の言葉の風に吹かれてみるのも心の強健さを養うのに必要のような気がする。
(池田康)
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2018年01月31日

ふたつめの新年会、など

昨日は上野の国立科学博物館で「古代アンデス文明展」を観て(数百年、数千年の生活の中で生まれてきた形や意匠は個人の表現者の作品とは違った沈黙の重量を感じさせる)、書店2軒に立ち寄り(下北沢B&Bは所在地を百メートルほど変えていた。新店舗は地下)、それから少人数での酒宴、今年2回目の新年会だった。東京の街はまだそこかしこに雪の塊を残していた。今週も降るとか?
さて、対話の宴「〈詩と音楽のあいだ〉をめぐって」にゲスト出演していただいた四元康祐さんが「みらいらん」紹介の記事をネットに載せて下さいました。是非ご覧ください。
https://note.mu/eyepoet/n/n1d34e952adc4
(池田康)
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2018年01月25日

前衛は詩を思考する

江田浩司著『岡井隆考』(北冬舎)を読んでいる。568頁もある大冊で、蝸牛のように遅々とした小生の読書ではいつ読み終わるとも知れないので、とりあえず簡単な報告をば。これだけ分厚い本として現れると、一見評伝のようにも見えるが、そうではなく、各歌集を丹念に批評するというのでもなく、帯に「[詩人岡井隆とは何か?]を尋ねて」とあるように、歌人・岡井隆の、歌人らしからぬ、自由詩へと越境してゆく志向、詩歌表現の原理の層を探求しようとする実験者の相に積極的に光が当てられ、足跡のユニークな特異性が明らかにされる。その論述の過程で、共産党への支持と反発とか、九州に身を隠した五年の空白期間のこととか、医師としての仕事との関りとかが指摘され、この詩歌探求者が現実としてどのような問題をはらんだ道を歩んで来たか大まかにわかるようになっている。
この本で紹介、批評される特異な性格のテキストを見ると、生半可な詩人よりもずっと尖鋭に詩の実験や試行をおこなっていて、岡井隆がいかに徹底した「逸脱者」であるかがよく理解できる。「国道一九四五八一五」「雨乙女ザムザム」「陰茎なき精神」「タンポポ詩人」などなど随所で登場するキー・フレーズも独特の輝きを帯びていて強く印象に残る。
「現代詩と現代短歌は、辺境において相対してゐる異質の文学領域ともいへる。お互ひに理解し合はうとしてゐない。お互ひの神をしりぞけ合つてゐる。わたしは、自分が、この二つの領域のどちらにも相わたる流浪の民であるやうに信じてをり、今は、現代短歌の民をよそほつてゐるにすぎないと思ふことがある」、「自分自身の内部で歌人と反・歌人が抗争する、この緊張した内面的葛藤は、激化の極になれば自己破壊を生じ、歌人であることをやめねばならない。反対に、この葛藤が弱まり緊張関係が解消でもすると、三十一文字をただ並べるだけの職人にはなれるかも知れないが、本当に短歌の運命に参与した歌人としては失格する。緊張を、或る一定の強度で持続するのが生産性を保つ条件だとは言えないだろうか」、「僕はここではいわゆる歌人として振舞わない。ひろくうたを書くように心がけるつもりだ。詩型に無頓着にスキャンダルをふりまきたいのだ」といった言葉はこの歌人の創造への心組みを正確に語っているように思われた。歌壇に埋没しない、歌壇を超越する歌人がいて、こんなふうに意義深く戦っているのだと、この書は言葉を尽くして証言している。
(池田康)
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2018年01月19日

三拍子、三分割の謎

一昨日だったかN響の演奏会をNHKFMが生中継していて、R・シュトラウスの「歌劇“ばらの騎士”組曲」やラヴェルの「ラ・ヴァルス」をやるということで、解説でワルツという楽曲形式がウィーンの特産として語られ、そうか、やはりワルツはもともとあの地方のものかと認識をあらたにした。三拍子といえば舞踊と連想するのはワルツを思うからだろう、まっすぐにどこまでも進んでいくという感じはしない。
話は変わるが、山下達郎のオールディーズを紹介する番組やラジオの他の洋楽番組で昔のドゥーワップを何曲も聴いていて、似たような作りの曲が多いのに気づいた。ゆったりとした四拍子で、一拍を三つに分割するリズムが刻まれる。遊歩のような進行なのだが一拍の中に細かく三本の柱が立つことで間延び感がなくしかも三つ打ちはどこかのどやかな雰囲気をもたらすようなところがあって、結果として独特の優雅さがもたらされる。そもそも三拍子系の三分割はどこかアバウト、どこか割り切れない「いい加減」な要素があって、ウィンナワルツも二拍目だか三拍目だかを長くするしきたりがありリズムの歪みが風情となるのであって、伸び縮みの融通がきき、それが温かさや人間味、抒情に通じることにもなるのだろう。
三分割は難しい。A4の紙を三つに折って長3の封筒に入れることがよくあるが、そのときもぴたりと正確に折れるなんて幸運はまずない。なにも考えずにやれば大抵5ミリくらいはズレが生じるのであり、頑張って注意しても1ミリ2ミリ程度は「あまり」が出る。四つに折る場合は隅を合わせて正確に折ることができるのとは対照的で、三分割は本質的にどこかテキトーなのだ。
三拍子は不正確さが持ち味であり、そこに面白みがあり、正確な三等分から微妙にずれてストレスや濃淡を動かすことで「歌をうたう」様態なのだろう。従って測ったように正確に刻んでも意味はなく、「打ち込み不可」ということになる。三拍子は「字余り」を貴び、歪みを表情とする。ドゥーワップ(の多く)は三拍子ではなく一拍3ビートということだが、これも打ち込みでやったら音楽の生命感がなくなるのではないだろうか。
(池田康)

追記
『BRUTUS』2/15号の山下達郎特集を見ると、ドゥーワップの基本リズムは8分の6拍子なのだそうだ。8分の6拍子というと軽快な狩りのリズムのイメージが強かったが、必ずしもそうでもないということだろう。
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2018年01月15日

ようやく新年?

昨日、平塚駅近くの升水記念市民図書館で荒川洋治氏の講演会「新しい読書の世界」を聴いた。ジャンルを超えていろんなものを幅広く読むべしという基本指針に沿っての、流麗で奔放な、魚が海を泳ぐように自然で鮮やかな語りぶり。その話の中で熱く論じられた文学作品や学術書を羅列紹介すると、以下の通り。
丸山眞男『超国家主義の論理と心理』、村上一郎『日本のロゴス』、足立巻一『やちまた』、白川静『字統』、網野善彦『無縁・公界・楽』、大野晋『日本語の源流を求めて』、国木田独歩「忘れえぬ人々」、黒島伝治「橇」、島崎藤村『夜明け前』、尾崎翠『第七官界彷徨』、寺山修司『戦後詩』、スタインベック『ハツカネズミと人間』、サローヤン『ヒューマン・コメディ』。
渡された資料にはもっとたくさん書名が並んでいる。いぶし銀、というよりももっと渋く文学的ワビサビを効かせた堅牢なクロガネの選択とも言えそうなリスト。散文(小説)は、冷たい、伝達のための言葉だが、詩は自分にとって「あたたかい言葉」であり個人性の提示であるという詩の本質論も結びの言葉として述べられた。
会の後は先輩X氏と二人で駅前の店にて楽しく新年会をやった。やっと本当に新年が始まったような気がした。
(池田康)
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2018年01月13日

すがすがしさ耳を洗う

一昨年、洪水企画から楽譜『あの星』を出した竹原恭子さん(八重洋一郎さんの奥さん)が、楽譜に入っている曲の一部をソプラノ歌手の方にうたってもらって私家版CDにしましたと、送って下さった。しばらく机の上に置いてあったのだが、新年になってからかけてみると、気持ちのよいすがすがしさで、楽譜とにらめっこしていた段階では想像できなかった調べの流れの生命が耳に現れた。いわゆる唱歌よりもさらに平明で、樹上の鳥の鳴き声を聞くような自然さ。どんなジャンルにも入らなそうな、装飾を排したシンプルきわまる音の姿で、「みらいらん」1号の小特集「裸の詩」で探求しようとしたのも、このような言葉の姿のすがすがしさだったのかもしれないと思った。多くの人に聴かれ、歌われるようになるといいと願う。
(池田康)
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2018年01月04日

「みらいらん」創刊号

milyren1.jpg「洪水」の後継誌「みらいらん」が完成した。A5判で160頁。表紙の画像は神奈川県立生命の星・地球博物館の協力を得ている。
「みらいらん」は「未来卵」であり、「未来への乱」でもあり、あるいは「嵐」も「濫」もあり、「RUN」も考えられる。表紙のアルファベット表記の真中の「LYRE」は竪琴(リラ。英語読みはライラ)で、未来卵の中に竪琴が隠れているというイメージ。とすると、「みん(睡眠の眠)=ねむり」をライラの歌が破る、という解もありうるだろうか。
詩と批評を中心に、他ジャンルも広く視野に入れ、新鮮で刺戟にみちた創造精神の座標を拓くことを目指す。
創刊号の大きな企画は、詩人の野村喜和夫さんと作曲家の篠田昌伸さんにゲストとして詩人の四元康祐さんが加わった座談会「詩と音楽のあいだをめぐって」。あえて尖鋭な現代詩を多く取り上げて作曲する篠田さんに話を聞き、詩と音楽の現在について考える試みで、篠田さんが野村さんの詩に作曲した三作品(「街の衣のいちまい下の虹は蛇だ」「平安ステークス」「この世の果ての代数学」)が主な話題となった。最新の「この世の果ての代数学」は昨年のクリスマスイブの夜に女声合唱団暁によって初演された誕生したばかりのもの(このブログ2017.12.25の項を参照)。なおこの座談会は、昨年11月4日に詩とダンスのミュージアムで行われた。
インタビュー〈手に宿る思想〉は創造の方法論の中にひそむ実践に直結した思想を探る企画だが、初回は洪水企画の出版物をたくさん手がけているブックデザイナーの巌谷純介さんに、本作りの様々な秘話をうかがった。
ほかに小特集「裸の詩」(高階杞一、有働薫、渡辺玄英、高岡修、北爪満喜、水谷有美の各氏の参加)、東日本大震災を現在に呼び起こす伊武トーマさんの連載詩「反時代的ラブソング」、林浩平さんのあまり世に知られていない名作を掘り起こす「Hidden Treasure 現代詩 埋もれた名篇を探る」(初回は会田綱雄「大工ヨセフ」を取り上げる)、巻頭詩は嶋岡晨、麻生直子、紫圭子、廿楽順治、生野毅、三尾みつ子の皆さん。そして連載詩=小島きみ子さん、連載掌編=海埜今日子さん。そのほか、詳しくは次のリンク頁をご覧いただきたい。
コロンブスの卵から近代が生まれたとしたら、「みらいらん」の幻想の卵からは次の文明時代の胚芽が誕生するのであってほしいと祈念しつつ、千年の詩魂の卵を育み、現実を支配する論理に思想の乱を挑む、という最高次の難題に出発したい。
(池田康)
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散らからない生活を目指し

年末年始の日々。新雑誌「みらいらん」創刊号の発送(運良く年内に完成を見た)をぎりぎり終える。映画「スターウォーズ 最後のジェダイ」を見てジョン・ウィリアムズの音楽の華麗に酔い、P.K.ディック『去年を待ちながら』を読んでSF酔いに深く酔い(辛口の世話物の面もある)、MJQの「ヨーロピアン・コンサート」などレコードを何枚か聴いて音楽の無垢に時間の襞に染むほろ酔いを噛みしめる。体調を崩して半日ほど寝ていたこともあり(インフルエンザか食あたりかと考える間もなく快癒した)、食生活は質素をきわめていた。大掃除は片手間にちょこちょこっと片付けただけだが、散らかっていた本などが片付くと住空間がすっきりする。そもそも「散らかる」というのは処理能力の不足に起因するのだろうか。どうにか「散らからない生活」を実現したいと思うのだが、生来の怠惰も矯正しがたく、遠い目標のままのようだ。
(池田康)
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2017年12月30日

虚の筏20号

虚の筏20号が完成しましたので下記リンクからご覧下さい:
http://www.kozui.net/soranoikada20.pdf
今回の参加者は、坂多瑩子、二条千河、たなかあきみつ、平井達也、酒見直子の皆さんと小生。
中央付近に切手の画像があるが、これはフランスの切手で、S先生から頂戴したもの。絵柄はドラクロワの代表作「民衆を導く自由の女神」の女神の頭部。左下にものすごく小さい字で「ドラクロワ」の名前が書いてある。右下には「ガンドン」とあり、この人(Pierre Gandon)はドラクロワの絵を版画に写した人のよう。ぜひPDFを表示させて切手の部分を200%か300%に拡大してみて下さい。
なお、新雑誌「みらいらん」創刊号はすでにできあがっています。紹介は新年になってからする予定です。お待ち下さい。
(池田康)
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2017年12月29日

音楽の演算ポップス編

前項で篠田昌伸作曲「この世の果ての代数学」(詩・野村喜和夫)のことを書いたが、音楽と算術といえば、イギリスの若手の大人気ポップスター、エド・シーラン(Ed Sheeran)だ。これまで3枚出しているアルバムのタイトルがそれぞれ『+(プラス)』、『×(マルティプライ)』、『÷(ディバイド)』となっている。どういう意図でこう命名したのかよくわからないが(タイトル曲があってその歌詞が種明かしになっているわけではない)、おそらく音楽家として一段階ずつステップアップし新たな世界を拓いていきたいという願いが込められているのだろう。このシンガーを聴いた第一印象としては、親しい友人がプライベートな空間でうたって聴かせてくれているような親近感、ソフトな軽やかさ、陽気と淋しさの混在、言葉を操るときの才気あふれる歯切れよさ、といったことが言えそうだ。
第一アルバム『+』冒頭の「The A Team」は出世作ということだが、ヘロイン中毒の娼婦を歌ったという歌詞にどれだけ共感を覚えられるかおぼつかないけれど、最後の「It's too cold outside for angels to fly」というフレーズは、たしかに人間の社会は天使も凍えてしまうほどの寒冷な面があるかもしれないと考えさせられ、心に刻まれる。
ノーマルな歌い方で恋愛の甘さ苦さをうたった曲も多いが、ラップも多用しており、その場合はやけに細かい局面を語る言葉の厖大さが押し寄せてくる。ラップというとラッパーなる変わった種族のミュージシャンが演ずる奇態な音楽スタイルという受け取り方をしていたが、それを常に身の回りにあるものとして自然に聴いて育ってきた世代にとってはなんの抵抗もなく受容獲得できる技なのだろう、エド・シーランが操るラップは水のように自然で疾走感がある。かつて異端と見られたロック音楽がだんだん浸透し、たとえば歌謡界の真中にいるはずの山口百恵でさえロックチューンをうたったように、ラップもいつの間にか自然に大衆音楽のメインストリームに入ってきたのだろうか。
3枚のアルバムの中でもっとも手応えを感じるのはやはり最新の『÷』で、力強さが増しているように思われる。ヒットしたという「Shape of You」はこの歌詞が英米人にどう受け取られるのか今ひとつわからない点もあるがたしかに音楽は個性的なチャームがある。わが愚耳の快感ポイントをもっとも刺戟するのは「Barcelona」で、英国人がよくこのような南国的情熱を帯びた音楽を作れるものよと驚く。この曲に続く「Bibia Be Ye Ye」、「Nancy Mulligan」も、world musicにあるようなアフリカ風味、あるいはアイリッシュ音楽やロマ音楽の香りも感じられ、楽しく聴ける。この3曲の並びはうれしい。『×』では「Sing」の曲調の面白さ、そして「I See Fire」の黙示録的詞世界が注目される。
4枚目以降のアルバムはどんなタイトルになるのだろうか。電卓のキーで考えるなら「−」や「=」が残っているが、ルート計算も音楽のルーツを辿る試みにふさわしいかもしれない。「M」のキーは使ったことがなくて、どうやって使うのかわかならいのだが、「メモリーキー」はどうしても思い出せないことを呼び出すには格好かもしれない。日本語では「鼠算」とか「鶴亀算」とかもあるよと教えてあげてほしく、いつか彼のアルバムのタイトルが「Tsuru-Kame」になる日を楽しみにしたい。
(池田康)
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2017年12月25日

狙う姿に耳を澄ます

昨夜、虎ノ門のJTアートホールアフィニスにて女声合唱団暁の第10回演奏会を聴いた。篠田昌伸作曲「この世の果ての代数学」(詩・野村喜和夫)初演を聴くため。女声合唱団用の詩をいろいろ探した結果これに辿り着いたと篠田氏が語るこの作品のテキストは女性的要素を足し算とか掛け算とか割り算とかいろんな演算にかけながら奇妙な宇宙論を語る異様なもので、これを選ぶ時点でこの作曲家の思考法の特異さが表れている。prelude/arabesque/canon/song/arabesque2/rhapsody/epilogueの7曲からなる組曲で、可笑しさとおっかなさ、ユーモアと宗教的畏怖の感覚が入り交じった、独特のクール&クレージーさを帯びた音楽。作曲家がなにか新奇な形を狙っている姿を強くかじることができ、打たれた。野村さんと篠田さんの対談(+ゲストに四元康祐さん)が近くできあがる新雑誌「みらいらん」に載りますのでご期待下さい。
プログラムの他の曲は、新美桂子「何んでも無い」(委嘱新作・初演。テキスト=夢野久作「少女地獄」。前半のおしゃべりの雰囲気をもった部分と、後半の聖歌のような部分とをつなげた奇抜な構成)、近藤譲「女声合唱のための歌二篇」(2013。テキスト=蒲原有明「偶感」「朱のまだら」。頭のほうの音程の運び方が衝撃的に新鮮)、横島浩「目覚めU」(委嘱新作・初演。テキスト=太宰治「女生徒」。和音の抽象画を観るよう)、山本裕之「失われたテキストを求めてW」(委嘱新作・初演。テキストは奏者が選んではめ込んだ2種類のものとのこと。ズレと入れ子細工が作り出す突拍子もなさの音楽)。
暁はやっかいな曲ばかりをやるツワモノ合唱団だ。いつも今回のようにピアノ伴奏なしでアカペラでうたうのだろうか。指揮者は西川竜太、泰然とした姿勢を崩さないこの人も風変わりに頼もしい難曲マニアだ。
(池田康)
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2017年12月22日

オリエント急行の探偵

探偵が活躍する舞台も浅草の巷なら安上がりだが、イスタンブールからパリに向かうオリエント急行の中となると贅沢きわまりない。アガサ・クリスティの著名な作品のこと。ミステリーに鉄道はよく使われるが、事件のメインステージにするのは思い切った発明だ。今公開中の映画「オリエント急行殺人事件」(ケネス・ブラナー監督)は、作るのに製作費がいくらかかるのだろうとため息が出るくらい大掛かりに作り込んでいて、単にバーチャルな鉄道ツアーとしても夢見心地の時間で、風景が広がるところを汽車が走る場面など、フィルムメーキングの手品的技術を活用しているようだが、素直に爽快。
この蒸気機関車はどういうものなのだろう。デフレクター(除煙板)の形が特徴的で、前照灯が三つもある。映画のパンフレットに書いてないので映画の公式サイトを見たら「スイスに現存する唯一の484列車」をモデルにしたとあった。484とはなに? 日本語でネット検索をかけてもよくわからないので英語でsteam locomotive 484で調べると、アメリカを始めとしてすべての大陸(南極を除く)の様々な地域の機関車があがってくる。そうか、これは車輪の数のことだと見当がつく。機関車前方を支える先輪が4(つまり2軸)、蒸気機関の力を伝える動輪が8(つまり4軸)、後方を支える従輪が4(つまり2軸)。日本式に言えば2D2の型だ。これは相当巨大で、日本にはこんな大きな機関車はないのではないか。C62でも2C2(464)だ。別のキーワードで検索したら、この映画で使われているのはスイスの241-A-65という型のSLという情報を見つけた。この「241」は車軸数を表すのだろう。先輪2軸、動輪4軸は合っているが、従輪1軸はくいちがう。このスイスSLをモデルにしたのならおそらく484という記述のほうが間違っているのだろうが、もう一度映画を見て確認したいところ。
1974年版「オリエント急行殺人事件」(シドニー・ルメット監督)は、フランスの230G-353という蒸気機関車を使っている(これもランプ三つ。ヨーロッパの標準型なのだろうか。日本のSLは一つ目が多い)。この「230」も車軸数を表していて、先輪2軸、動輪3軸、従輪なしの型だ。241より一回り小さいということだろう。
機関車も本作の重要な「登場人物」なのだから、プログラムには簡単にでも書いておいてほしいもの。そうすれば鉄道ファンも大いに喜ぶだろう。鉄道ファンを自称するほどのマニアではない私ごときもどの国のどういう型のSLかぐらいは知りたいと思うのだから。
話の中身のことも書いておかないと。ここでのエルキュール・ポアロは探偵業の基軸が揺らぐ重大な時空を経験する。「善と悪の天秤」が見失われそうになる特殊なケースとの遭遇であり、しかも世界から隔絶した、雪に埋もれ立ち往生した汽車の中で、犯人との距離が文字通りゼロとなり、真実に近づくほどに命の危機のレッドゾーンに入っていかねばならなくなる。ミステリーの枠自体が揺れ動くこの例外的状況が本作品の訴求力の核心となるのだろう。
多彩な国の人が集り、人種差別の話題も頻繁に出て、国際性も重要なモチーフになっている。今話題のエルサレムから始まり、英国人将校が指弾され、アメリカ人の悪漢が因果応報を受けるのは、アングロサクソンの自己批判の意識も若干はあると読んでいいのだろうか。
一つ無い物ねだりを言えば、もう30分長いとよかったかなということ。通常は短いのが有難い、2時間を超えると耐えるのが困難に感じるが、今回はなぜかもう少し長く汽車に乗っていたい気がした。主要登場人物が十人を超えるので一人一人の言動・表情を眺める時間がもっとふんだんにあるといいということだろうか。1974年版も2時間を少し超えるくらいなのだが。
鉄道ファンは必見。ミステリーファンも必見(この独参湯的作品の優れた「独創的解釈の映画=劇=上演」を見ておかねば)。1930年代の西洋社会に興味ある人も、ケネス・ブラナーのファンも。
(池田康)
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2017年12月20日

浅草の探偵

近ごろ、2014年のテレビドラマ「リバースエッジ大川端探偵社」を見ていた(DVDを借りて)。主演は村木探偵役のオダギリジョーだろうが、同じくらいの重要さで石橋蓮司演ずる所長が活躍する。昭和の小劇場黄金期の歴史にも名前が刻まれる、伝説中の人というイメージの強いこの俳優をたっぷり見られる作品。脇役では数多くの映画やドラマに出ているのだろうが、ここまで主役級の出演は貴重だろう。出自を知っていると魂の魔界を背負っているかのようにも錯覚される。腰の座った江戸っ子弁も愉しい。かわいそうな男たちの案件が多いのは監督(大根仁)の志向か、それとも世の中はそうしたものなのか。殺伐とした事件が描かれがちな探偵物や刑事物には派手なアクションシーンがつきものだが、浅草界隈の探偵は肉体的にはいたって非力らしく、そこもずっこけていて、面白くじんわりとくる。
(池田康)
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2017年12月11日

河原修吾詩集『のれん』

kawaharanoren.jpg河原修吾さんの詩集『のれん』が洪水企画から出た。A5判80頁、本体1800円+税。強烈なカバーの絵はお孫さんが描いたもの。
まず、丸ゴシックで本文を組みたいという打合せ時の希望に面食らったのに始まり、こちらの既成概念を外れるところが相当にあって刺戟的だった。「一筋縄ではいかない」という表現があるが、河原さんの詩はまさにそういう面が多く、しらばくれるというか、この詩は本当のところ何が言いたいのだろうかとテキストと睨み合うことが度々だ。たとえば「洪水」という短い詩は

 花にホースで水をやる
 鉢の近くにあった蟻の穴にも
 水をやった
 あわてて逃げまどう蟻で
 穴はパニックだ
 溺れる蟻 流されてゆく蟻
 草でもなんでも掴もうともがいている

の7行だが、この詩をもって詩人が何を語ろうとしているかを把捉するのは簡単ではない。エロスの企みがひそんでいる作品も幾篇か。帯文で村野保男氏はこう語る。「河原さんは天然のオプティミストである。「のれん」を読めばそれがわかる。また普段着のユーモリストであって「となりの奥さん」や「クリップ」などを読めばそれもわかる。「ランチ」や「蜥蜴」では氏が小声のレアリストであることがわかるし、「洪水」はタフなユマニストが日常のごく身近にいることを何気なく教えてくれる。」多面性をもった詩作をしているのはたしかだろう。しかし「あとがきに代えて」というサブタイトルのついた「楽曲」は素直に読め感銘を受ける作品だ。

 タクトが振られた
 ゆっくりと地平線を引いて
 天と地を分けた
 天に音が立ち上がる
 地に語頭が流れ出る
  (中略)
 ぶつかりながら
 傷つきながら押し合いながら
 黎明を背負って
 泳ぐように競うように
 世界が沈み世界が生まれる
 ぼくはぼくの心音より
 一オクターブ高い神話に向かって
 突き進む

(池田康)
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2017年12月09日

天翔る楽器たち

昨夜、東京文化会館小ホールで「四人組とその仲間たち室内楽コンサート 調和の原点U ─単色と双色の狭間で─」を聴いた。全曲世界初演。プログラム順に記録を留めると、
1.池辺晋一郎「バイヴァランス XIII 2本のフルートのために」(fl)小泉浩&織田なおみ。オーケストラの中に入ったり室内楽で他の楽器と一緒のときのフルートはどこか窮屈そうだが、今作では足枷から逃れてのびのびと奔放に天翔っていた。妖しさも豊富。
2.金子仁美「歌をうたい…(II)リコーダーのための」(rec)鈴木俊哉。この作曲家は求道者でいつもとてもきびしい。ハードボイルド、ハードロックの「ハード」。鋭い音の棘をたくさん身につけた小動物のイメージ。しかし解説には聖書の詩篇をベースにしたと書かれており、恐縮。
3.酒井健治「エーテル幻想 ギターソロのための」(gtr)鈴木大介。狙いを今ひとつ掴みきれないところがあったが(演奏のオーラの喚起を求めて、と解説にはある)ギターの響きには酔った。とくに低音弦を鳴らすときや全弦をかきならすときなど、魅力的。ここまでが前半。
4.西村朗「無伴奏ヴィオラ・ソナタ第3番〈キメラ〉」(va)伊藤美香。苦虫を噛みつぶした表情から朗々と高唱するところまで、この楽器の可能性の最大限が示される。とくに重音を奏するときの迫力は空間がねじ曲げられるよう。ヴァイオリンのヒステリックな感じはないが、無意識の鬱の気配を秘めた楽器。
5.新実徳英「ピアノのためのエチュード ─神々への問い─ 第3巻 A.E.69」(pf)若林顕。このピアニストの打鍵の強さが、これがピアノだろうかと驚くような輝かしさを生み出す。“スーパーピアノ”がステージ上に出現した。新実さんの近年の作品は古典的論理性を感じさせるものも多い記憶があったが、この作品はパッショネートな音のうねりや爆発の面がより強く出ているように思われた。若林氏の演奏の絢爛さ豊麗さに客席は問答無用に圧倒された観があった。個人的には「エチュード」という曲名でイメージされるストイックさとちょっとずれるような気もしたのだが...新実さんによれば、音楽の歴史においてピアノ曲のエチュードという種目は決してストイックなものではないとのこと。創造の新しい形を目指す“挑戦”の意味でのエチュードなのだろう。
(池田康)
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2017年11月24日

2017年11月22日

清原啓子展など

ここ数日の催しや出来事の見聞録。
作曲家の新実徳英さんの古稀の祝賀会が早稲田のトーキョーコンサーツラボで開かれ、参加。大盛会。『合唱っていいな!』(燈台ライブラリ2)の制作にご協力いただいたすべての方(和合亮一さんを除いて)に会うことができたのはよかった。諸々の合唱団の団員たちの歌声を間近で聴く、指揮者に近い位置に立ち歌声の海に身を浸す至福。合唱指揮者は(団員が優秀なときは、という留保つきで)この世で最も祝福された職業かもしれない。
某所で行われた某句会に参加。わがヘボ句でかろうじて点が入ったのは「信州の手紙と思え林檎ジャム」と「満天の星の生る樹を見つけたり」。前者はKさんから林檎ジャムを送ってもらったことが種になっている。Kさん、毎朝トーストにつけて食べています、very goodです、ありがとう。後者の「満天の星」については、このブログの10月27日の項を参照下さい。
八王子市夢美術館で開催中の「清原啓子展」を観る。この二十年ほどわが草臥れた心魂にしぶとく憑いている版画家(1955-87)。はじめてこの人を知ったのは、久生十蘭の本のカバー絵だったか。展覧会のチラシには「短い生涯の中で残した作品は僅か30点」「精緻で神秘的、耽美的な銅版画」とある。その全貌が余すところなくこの展覧会で観られる。この種の幻想的版画としては圧倒的(“圧倒的”という強調の語をなんのためらいもなく使える)。エッチングの最終的作品はもちろん、その下絵となった鉛筆画もみごとで、並べて展示されているから興味深く見比べることができる。几帳面な字で書かれた制作ノートもガラスケースの中に見ることができ、この美術家の日々の創造作業の一歩一歩がうかがえ、熱く感じるものがある。ファンにとっては感無量の展覧会。出版物としては阿部出版から『清原啓子作品集』増補新版が出ている。
版画と言えば、神奈川県立近代美術館で先頃行われたマックス・クリンガー展も観た。1857年ライプチッヒ生まれ、1920年没。やはり物語的なものを含み持つ幻想性に強く惹かれた。展覧会のサブタイトルも「19世紀末の幻想世界」となっていて、夢の深さに酔わせるものがある。
(池田康)
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