一昨日は池袋で行われた神山睦美さんの書評研究会に出席し、帰宅するやばたんきゅうと寝て、翌朝起きると大変な豪雨、はるか西にある台風がここまで触手を伸ばしてきたかと驚愕。次の翌朝未明(つまり今朝)もまたまた豪雨、やめばしばらく洗濯外干しできる天候となった。変化が激しい。
29日の会は神山さんの新著『奴隷の抒情』が対象となった。江田浩司さんのレジュメ報告。参加したのは、この秋に神山さんと岡本勝人さんとで対談していただき小林秀雄について語り合っていただくという計画があるため。これは「みらいらん」次号の小特集の柱となる予定だ。今回の書評研究会のダイジェストを紹介するページも作ることになっている。
池袋からの帰り、横浜に出ようと副都心線に乗ったら行先がなんと湘南台となっていて、日吉から新横浜、そして相鉄線に入るという経路で、少し遠回りにはなるのだが、そんな列車が走っているのかと驚いたことだった。
(池田康)
2024年08月31日
29日から今日にかけて
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2024年08月24日
佐保田芳訓遺作品集『五月の雪』
歌人の佐保田芳訓さんが昨年8月に亡くなり、遺された作品を一冊の本にまとめたいというご家族の意向を受け、4月ごろから作業を開始し、歌誌「歩道」発表の多くの短歌やエッセイをテキストデータ化する大変な作業を経て、奥様・美佐江さんの原稿整理と校正作業の尋常でない頑張りもあり、ようやくこの遺作品集『五月の雪』が完成した。タイトルは台湾の花、油桐花の愛称(真白でハラハラと散るからとのこと)。この花を描いたカバー装画はご長男の芳樹さんによる。息子の彼が台湾に住むことになったため、佐保田さんはたびたび台湾を訪れていて、短歌も作っている。結納式披露宴など忙しなくひと日の終り夜市に遊ぶ
風化して棒状の岩いくつ立つ野柳岬の黄の岩盤に
東支那海に日の沈みゆき淡水の河の河口に紅残る
仕事より解放されてみづからの時とし淡水の河渡りゆく
基隆の港に近きこの丘に蟬鳴き蜻蛉蝶の群れ飛ぶ
雨上り青空見ゆる台北の街にふたたびスコール来たる
マングローブに無数の赤き実の成りて見つつ行くとき泥の香のする
帯に載っている6首は
沈黙の星満ちをりて白雪の富士山朝霧高原に顕つ
相似たる妻と娘の話す声分ち難きはその笑ひ声
雨上る淡水河をくだるとき東支那海の海黒々し
花過ぎし泰山木に蟬の鳴く妻の病院に六年通へる
用なきに亡き先生を訪ねゐる暁の夢覚めて楽しむ
千本の桜花咲く多摩川のほとりを病癒えて歩める
エッセイはすべて「佐藤佐太郎研究」の章題のもとにまとめている。どの篇にも佐藤佐太郎は登場し、重要な役割を果たしている。ここに収まる70篇余を読むと「歩道」の総帥だった佐藤佐太郎がどのような短歌思想を奉じて制作に臨んだかが非常によくわかり、佐保田氏がいかに師を慕い、その教えを重視し忠実に書き残して伝えようとしたかが痛いほどわかる。佐保田氏が講師を担当した現代歌人協会主催の「ザ・巨匠の添削 ──添削から探る歌人の技と短歌観──【第一回】佐藤佐太郎」の講演録が収録されているのも貴重だろう。
むすびに、最晩年の、最も死に近い作品、令和5年2月号の5首を紹介する。
高層のビル立ち並び残されし寺あり境内に黄の公孫樹照る
奥多摩につらなる山の空澄みて皆既月食の月昇りゐる
癌を病み心病まざるみづからを過ぎゆく日々にいたはり生きん
青木ケ原樹海の中の道をゆく清水港にて待つ人のをり
愛宕山をめぐり高層ビル群の間近に見ゆる病室にをり
(池田康)
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2024年08月21日
遠くへ向かう眼差し
昨日、南青山MANDALAで吉増剛造さんのイベントが開催された。往路、PASMOが(3千円チャージしたら)使用不能になる突発事故があり慌てたが、なんとか辿り着く。第一部はご伴侶マリリアさんの歌唱、5曲ほど。ジャンルを超越した、歌い手の半意識の詠唱とも言えそうな、音響の効果も相まってサイケデリックとも称されそうな、自由奔放という言葉そのままのようでもある歌で、どうやって構成制作しているのだろうと不思議に思う。ライブハウスの音響設備がよく効いていて低音のリズム打刻が身体に強く響いてくるのが久々の体験で良かった。
第二部は吉増剛造・今福龍太両氏の対談、今福氏の新著『霧のコミューン』をめぐって。前半は6月に92歳で亡くなった沖縄の詩人・川満信一さんとの交わりについてで、今福さんが親しくしていた川満さんに、なぜか近づけなかった、親しくなれなかった、なぜだろうと訝しむ吉増さん。探りながら話を重ねていくうちに、島尾敏雄に対するアプローチの角度が違っていたのだという「遠因」に辿り着くまでがスリリングで、達人のように見える吉増さんの煩悶の表情も新鮮だった。
対談後半の主要な話題はラファエロやダ・ヴィンチの描く幼子イエスの眼差しが画家の目の位置を見据えずどこか遠くを見ている、その真意についてだったが、たまたま今、シュペルヴィエルの「秣桶の牛とロバ」を読んでいて、生まれたばかりの赤子イエスを牛とロバの視点から物語る話だが、牛がイエスの面差しに奇妙な遠さ遥かさを認めて戸惑う場面を思い出し、符合を覚えた。
それから「霧」の話、ガローワ(ブラジルの朝の霧雨)の話、カフカやゴヤの恐るべき暗みを帯びた話など。
画像はこの日配布された詩原稿の一部。この日の朝できたばかりの作品とのことで、朗読され、生成のなまなましさ、思考の唯一固有の息吹が迫ってきた。
(池田康)
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2024年08月06日
湯浅譲二さん逝く
岩崎美弥子さんから湯浅譲二先生ご逝去に関して哀悼のメールをいただいたので、次のような返信をした。
湯浅先生のこと、ご冥福をお祈りしたいと思います。
「洪水」をやっていた時代には、特集を組んだり、本当にお世話になりました。
単行本(川田順造氏との共著)も出させていただきました。
昨年は、ご病気のせいもあり、作曲に難を感じておられたらしいのは残念なことでした。
挑みたいとおっしゃっていたオペラ作品も実現しなかったようでこれも残念です。
「みらいらん」の時代になってから作曲家たちとの親交は薄くなり、
湯浅先生とも申し訳ないことにかなり疎遠になってしまいました。
94歳ですか、長寿を享受された大往生とも言えますが、
100歳の作曲家が生み出す音楽を聴かせていただきたかった
という思いも少しあります。
これで武満徹の世代の作曲家がほとんどすべて去った、
ということになるのでしょうか・・・
湯浅さんは忖度なしの直言居士という印象があった。自分の意見を曲げることがない。1930年前後生まれのあの世代の鮮烈な雰囲気を常にまとっていらした。
最後にお話ししたのは、何年前か正確には覚えていないが、リサイタルで演奏された小さなピアノ曲について、内声の動きがよかったと素朴な意見を言ったら、喜んでおられたのを思い出す。
「洪水」8号の特集「湯浅譲二その花の位」から湯浅さんの発言を抄出したい。
川田順造さんとの対談で、聴衆のことを念頭において作曲をするのかと尋ねられて:
「そこは、すごくおこがましいんですけど、本当は僕がいいと思う、面白いと思うような音楽を書きたいと思う。なぜかというと、うぬぼれかもしれませんけど、自分はものすごくいい聴衆だと思っているんです。理想的な聴衆が僕の中にいる。その僕がいいと言ったら、いいんだろうと思うんです。ですから僕自身が聴きたいと思っている曲がうまくできて、ああよかったと思うような曲を書きたい。つまり理想的な聴衆の代表として僕はいるというふうに思わなければできないと思うんです。ですから他の人が聴いたらどうかということは思わない。ただ、自分の曲を、他人の曲を聴くように、いつも聴きたいと思うんです。自分が作った曲だからということではなくて……。つまり、誰かが作った曲を、自分という他人が聞くんです。これは訓練すると出来るようになると思うんです。」
インタビュー(聞き手は小生)で、「クロノプラスティック」「オーケストラの時の時」など、時間に関することを曲名にしていることについて:
「たとえばバッハの作曲法の中に、もちろん逆行、反行なんていうのもありますけど、拡大縮小というのがあるでしょ。たとえばフーガの技法だって、四分音が基本に書かれているのを二分音を基本に書く、同じメロディの全体が倍に伸びるわけです。拡大縮小はトポロジカルにいうと、ある一点に光があり、そして物体があって、その光の影を倍の距離に移すと、映されたものは倍になる、それが拡大縮小の原理で、トポロジーは別名で射影幾何学ともいうんです。さらにグニャグニャに曲がっているところに映して引き延ばすと、伸びたり縮んだりしていることになる。それをぼくは「クロノプラスティック」でやろうと思ったんです。」
芭蕉の俳句を音楽化することについて:
「言葉は十七文字しかないですけど、それが含んでいる背後的世界は広大なものです。音楽は言葉を音楽にするだけではなく、その言葉でなにを表現しているか、その世界を音楽にしようとしますから、俳句が短くてもその意味では全然関係はないんです。ぼくは、これも実験工房のころからずっとそうなんですけど、人間にとってどこから音楽が生まれてくるかということをよく議論していたんですけど、原始的な人間が言語を獲得して、自分を「私」と言った時に、私と呼ぶ自分と呼ばれる自分というふうに二元的に分裂するじゃないですか。言葉がなければ犬や猫と同じように一体化しているわけですね。ですからそれまで自然や宇宙の中に一体化して生きてきた動物的な人間が言語を獲得し、言語によってものごとを相対化し、自分対自分以外の世界という構図が生まれてきた時に、宇宙への畏怖感が一挙に迫ってきて、畏怖感があるとお祈りをしたりする、そこから音楽が出てくると思っていた訳です。」
独自の思考の歩み。湯浅さんの若々しい活気を改めて感じる。
(池田康)
湯浅先生のこと、ご冥福をお祈りしたいと思います。
「洪水」をやっていた時代には、特集を組んだり、本当にお世話になりました。
単行本(川田順造氏との共著)も出させていただきました。
昨年は、ご病気のせいもあり、作曲に難を感じておられたらしいのは残念なことでした。
挑みたいとおっしゃっていたオペラ作品も実現しなかったようでこれも残念です。
「みらいらん」の時代になってから作曲家たちとの親交は薄くなり、
湯浅先生とも申し訳ないことにかなり疎遠になってしまいました。
94歳ですか、長寿を享受された大往生とも言えますが、
100歳の作曲家が生み出す音楽を聴かせていただきたかった
という思いも少しあります。
これで武満徹の世代の作曲家がほとんどすべて去った、
ということになるのでしょうか・・・
湯浅さんは忖度なしの直言居士という印象があった。自分の意見を曲げることがない。1930年前後生まれのあの世代の鮮烈な雰囲気を常にまとっていらした。
最後にお話ししたのは、何年前か正確には覚えていないが、リサイタルで演奏された小さなピアノ曲について、内声の動きがよかったと素朴な意見を言ったら、喜んでおられたのを思い出す。
「洪水」8号の特集「湯浅譲二その花の位」から湯浅さんの発言を抄出したい。
川田順造さんとの対談で、聴衆のことを念頭において作曲をするのかと尋ねられて:
「そこは、すごくおこがましいんですけど、本当は僕がいいと思う、面白いと思うような音楽を書きたいと思う。なぜかというと、うぬぼれかもしれませんけど、自分はものすごくいい聴衆だと思っているんです。理想的な聴衆が僕の中にいる。その僕がいいと言ったら、いいんだろうと思うんです。ですから僕自身が聴きたいと思っている曲がうまくできて、ああよかったと思うような曲を書きたい。つまり理想的な聴衆の代表として僕はいるというふうに思わなければできないと思うんです。ですから他の人が聴いたらどうかということは思わない。ただ、自分の曲を、他人の曲を聴くように、いつも聴きたいと思うんです。自分が作った曲だからということではなくて……。つまり、誰かが作った曲を、自分という他人が聞くんです。これは訓練すると出来るようになると思うんです。」
インタビュー(聞き手は小生)で、「クロノプラスティック」「オーケストラの時の時」など、時間に関することを曲名にしていることについて:
「たとえばバッハの作曲法の中に、もちろん逆行、反行なんていうのもありますけど、拡大縮小というのがあるでしょ。たとえばフーガの技法だって、四分音が基本に書かれているのを二分音を基本に書く、同じメロディの全体が倍に伸びるわけです。拡大縮小はトポロジカルにいうと、ある一点に光があり、そして物体があって、その光の影を倍の距離に移すと、映されたものは倍になる、それが拡大縮小の原理で、トポロジーは別名で射影幾何学ともいうんです。さらにグニャグニャに曲がっているところに映して引き延ばすと、伸びたり縮んだりしていることになる。それをぼくは「クロノプラスティック」でやろうと思ったんです。」
芭蕉の俳句を音楽化することについて:
「言葉は十七文字しかないですけど、それが含んでいる背後的世界は広大なものです。音楽は言葉を音楽にするだけではなく、その言葉でなにを表現しているか、その世界を音楽にしようとしますから、俳句が短くてもその意味では全然関係はないんです。ぼくは、これも実験工房のころからずっとそうなんですけど、人間にとってどこから音楽が生まれてくるかということをよく議論していたんですけど、原始的な人間が言語を獲得して、自分を「私」と言った時に、私と呼ぶ自分と呼ばれる自分というふうに二元的に分裂するじゃないですか。言葉がなければ犬や猫と同じように一体化しているわけですね。ですからそれまで自然や宇宙の中に一体化して生きてきた動物的な人間が言語を獲得し、言語によってものごとを相対化し、自分対自分以外の世界という構図が生まれてきた時に、宇宙への畏怖感が一挙に迫ってきて、畏怖感があるとお祈りをしたりする、そこから音楽が出てくると思っていた訳です。」
独自の思考の歩み。湯浅さんの若々しい活気を改めて感じる。
(池田康)
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2024年07月28日
涼をもとめて
個人誌「壁画」14号を作った。下記のリンクからご覧下さい:
http://kozui.sakura.ne.jp/artnote/hekiga/hekiga14.pdf
一服の清涼剤……にはならないとしても、読む人によってはナイトメアの残滓のからまる架空の風を感じていただけるかもしれない。
http://kozui.sakura.ne.jp/artnote/hekiga/hekiga14.pdf
一服の清涼剤……にはならないとしても、読む人によってはナイトメアの残滓のからまる架空の風を感じていただけるかもしれない。
暑さ厳しいこのところの日々、涼を感じたもの。
駅ビルのカフェで飲んだ柚子スカッシュ。濃厚で、柚子を3つくらい使っていそう。
P・K・ディック『いたずらの問題』(ハヤカワ文庫、大森望訳)。その問題提起は過激で正当で鋭い。
ウィーン国立歌劇場の「トゥーランドット」(NHKBS放映)。マルコ・アルミリアート指揮、タイトルロールをアスミク・グリゴリアン、カラフをヨナス・カウフマンが歌う。演出設定全体が寒冷で、トゥーランドット姫に仕える(彼女の心内部の?)四人の人形風侍女も気味悪い。
そして有働薫さんからいただいた「Quattro朗読会 韻律磁場へ!」(2018.6.30)を読んでいたら、次のような一篇に出会った。これも相当にひんやりとする。
クライオニクス
ロシア モスクワ 他の都市でも
死の夢
わたしは言語労働者だけど
くたびれた脳を外して
ちょっと冷凍保存されたい
(有働薫「詩誌「カルテット」4号に寄稿した十二の小さなプレリュード」6)
なお、一行目の「クライオニクス」は「人体冷凍保存」を意味する語のようだ。
(池田康)
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2024年07月01日
みらいらん14号完成
みらいらん14号が完成した。今回の特集は「詩と俳句を貫くもの ──高岡修を中心に」。
小説家の藤沢周さん、城戸朱理さん、そして高岡修さんの三人による座談会「世界の中枢を言葉の針で刺す」は3月に鎌倉で行ったもの。私はこの時初めて高岡さんに会った。「洪水」や「みらいらん」には何回もご寄稿いただいていたし、詩集や句集も何冊も拝読していたが、書かれた作品から想像されるイメージとはかなりずれた、陽気で冗談好きで人懐こいお人柄は、初めて会うとは思えない親愛の空気を発出していた。座談会では詩と俳句と小説の相違する点、重なる点といった文学理論の面から、高岡さんの遍歴の物語まで、そして最新作(詩集『微笑販売機』と句集『蟻地獄』)の鑑賞も含めて、多岐にわたる内容となった。エッセイは、富岡幸一郎、堀田季何、石田瑞穂、渡辺めぐみ、松尾真由美、平川綾真智、うるし山千尋、八木寧子、柴田千晶の各氏が寄せて下さった。詩と俳句とを合わせて考える絶好の機会となったと嬉しく思う。
巻頭詩は、蜂飼耳、田中庸介、八重樫克羅、北條裕子、青木由弥子、肌勢とみ子の皆さん。
表紙のオブジェは國峰照子さんの「出口なし」と「虚ろ」。その他詳しくは下記のリンクからご覧下さい:
それから、今回、編集途上の5月にメインのパソコンの故障、買い替えという厄介な危機を経ることになった。それに関連して、最終ページの「巻末遁辞」で、「パソコン更新で最も繊細な齟齬は、古いパソコンに入っていたフォントが新しいパソコンに入っていないというささやかな障害だ。よくある明朝とかゴシックなら粛々と代替を考えるが、特殊なフォントで記事のタイトル部分に使っている場合はやっかいだ(アウトラインをかけておけという話だが)。なるべく変えたくない。補助のノートパソコンで見つかったり、昔購入したフォントのCDROMの中に入っていたりして解決できたものもあるが、どうしてもない場合は前号のPDFの該当部分を画面上で拡大してスクリーンショットで画像化するという乱暴な最終手段を取らざるをえなかった箇所もあり、今号のどこかがそうなっている。お気づきだろうか。」と書いているが、後でこれはナンセンスだと気づいた。版下に使うPDFはフォント情報も含んでいるから、スクリーンショットなど無用、PDFをそのまま使えばいいのだ。窮地に陥ったときに必ずしも最善のアイデアが浮かぶわけではないという見事な一例だろうか。
(池田康)
posted by 洪水HQ at 15:39| 日記
2024年06月28日
虚の筏34号完成
虚の筏34号が完成した。
今回の参加者は、生野毅、小島きみ子、酒見直子、久野雅幸の皆さんと、小生。
下記のリンクからご覧ください。
http://kozui.sakura.ne.jp/soranoikada34.pdf
虚の筏のバックナンバーはこちら:
http://kozui.sakura.ne.jp/soranoikada.html
昨日、本の詰まった段ボール箱(みらいらん14号が80冊〜100冊入っている)を運んでいて、腰を痛めた。諸事まことに不便。皆さんもご注意ください。
(池田康)
今回の参加者は、生野毅、小島きみ子、酒見直子、久野雅幸の皆さんと、小生。
下記のリンクからご覧ください。
http://kozui.sakura.ne.jp/soranoikada34.pdf
虚の筏のバックナンバーはこちら:
http://kozui.sakura.ne.jp/soranoikada.html
昨日、本の詰まった段ボール箱(みらいらん14号が80冊〜100冊入っている)を運んでいて、腰を痛めた。諸事まことに不便。皆さんもご注意ください。
(池田康)
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2024年06月20日
白石かずこさんご逝去
白石かずこさんが14日に逝去されたとのこと。93歳というご長寿ではあったが、ここ数年は体調思わしからざるところもあり音信がなかったことが寂しいことだった。私は「洪水」誌をやっていた頃、4号(2009年)で「白石かずこの航海」という特集を組み、たくさんお話を聞かせていただく機会があった。かけがえのない、非常に貴重な経験だったと回想する。その中でとりわけ印象に残るのは、何度か耳にした「世界はどんどん悪くなっている」という言葉だった。その頃は(私としては)あまりピンとこないご見解だったが、直観的に世界の動向をそう見て(感じて)おられたのだろう。今になると、世界を見渡し、社会を眺めて、白石さんのあの言葉に共感せざるを得ない部分が非常に多い。恐るべき予言的洞察だ。
朗読も旺盛にされて、何度も聴いた。巻物に自筆で(筆と墨で?)書いた原稿をほどきながら、読み終えた部分を垂らしながら床に折り重なり乱れさせながら読んでいくスタイルは独特で迫力があった。フリージャズの演奏者と共演する場合も多く、ジャズとの共演はレコードにもなっているくらいだから、いつもの装身具を身につけるくらいの遠慮のない関係だったのだろう。下北沢のレディジェーンでの朗読会はトランペットの物狂おしい叫喚とともに特に思い出に残っている。
初期から晩年までとても力のこもった詩を発表されてきたが、中期では法外な長編詩に取り組まれた。上述の特集では詩集『一艘のカヌー、未来へ戻る』(1979)や『砂族』(1984)をとりわけ熱を入れて読み、特別の感銘を受け、論じたものだった。ご作品のいくつかは英訳されているが、これらの二詩集がちゃんとした外国語訳になっていたら、もっと本格的に「世界的詩人」として認識されていたのではなかろうかという思いは消し難い。
とにかく、立派な文業を残された詩人・白石かずこに万感の敬意を払い、ご恩に心からの感謝を表し、ご冥福を祈りたい。
ドラムが大音響で
天が割れ 豪雨が 音豪雨が
わたしの内なる血の海
この薔薇色に輝く海へ 脳天うちわり
そそぎこむ
鳥が鳴く
極楽鳥である
愉悦である
笛である 愉悦である 鳥たちの
愉悦の 狂気の鳴き声である
もう
これ以上 鳴けないほど鳴きつづける鳥たちのポエジーである
………………白石かずこ「一艘のカヌー、未来へ戻る」より
(池田康)
朗読も旺盛にされて、何度も聴いた。巻物に自筆で(筆と墨で?)書いた原稿をほどきながら、読み終えた部分を垂らしながら床に折り重なり乱れさせながら読んでいくスタイルは独特で迫力があった。フリージャズの演奏者と共演する場合も多く、ジャズとの共演はレコードにもなっているくらいだから、いつもの装身具を身につけるくらいの遠慮のない関係だったのだろう。下北沢のレディジェーンでの朗読会はトランペットの物狂おしい叫喚とともに特に思い出に残っている。
初期から晩年までとても力のこもった詩を発表されてきたが、中期では法外な長編詩に取り組まれた。上述の特集では詩集『一艘のカヌー、未来へ戻る』(1979)や『砂族』(1984)をとりわけ熱を入れて読み、特別の感銘を受け、論じたものだった。ご作品のいくつかは英訳されているが、これらの二詩集がちゃんとした外国語訳になっていたら、もっと本格的に「世界的詩人」として認識されていたのではなかろうかという思いは消し難い。
とにかく、立派な文業を残された詩人・白石かずこに万感の敬意を払い、ご恩に心からの感謝を表し、ご冥福を祈りたい。
ドラムが大音響で
天が割れ 豪雨が 音豪雨が
わたしの内なる血の海
この薔薇色に輝く海へ 脳天うちわり
そそぎこむ
鳥が鳴く
極楽鳥である
愉悦である
笛である 愉悦である 鳥たちの
愉悦の 狂気の鳴き声である
もう
これ以上 鳴けないほど鳴きつづける鳥たちのポエジーである
………………白石かずこ「一艘のカヌー、未来へ戻る」より
(池田康)
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2024年06月17日
フラメンコの鞭と花
15日、神奈川芸術劇場大スタジオで野村眞里子さんプロデュースの創作フラメンコ公演「タンゴ探しの旅〜二つの川を渡って〜」を観た。テーマはフラメンコとアルゼンチンタンゴの接点、交差点を探るということのようで、二種類のダンス、二種類の音楽が出入りする舞台となった。どのダンスも魅力があったが、特にフラメンコの強いステップを常時踏みながら身体を鞭のようにしならせ、バネを効かせ、瞬時に姿勢を固める独特のスタイルは痺れるものがあった。出演は河野麻耶、マーシー&マギ、出水宏輝、山本涼、伊藤笑苗、山本将光、朱雀はるな、ほか。眞里子氏の元気なステップが見られたのも嬉しいことだった。歌手二人、ギター二台とパーカッションによる音楽も技と活気があり素晴らしかった。
映画「セント・オブ・ウーマン」(マーティン・ブレスト、1993)でアル・パチーノ演ずる主人公がレストランでたまたま出会った若い女性とタンゴを踊る場面を思い出す。それはなんとも美しい夢幻の数分間で、映画全体を通しての物語は当然あるのだが、このダンスの部分はその物語の流れから異次元に浮き上がって奇跡の花のように見えた。ダンスというものはそれだけの力があるようだ。この日のステージも日常の流れを敢然と断つような強さと密度の高さ、香気があった。
(池田康)
映画「セント・オブ・ウーマン」(マーティン・ブレスト、1993)でアル・パチーノ演ずる主人公がレストランでたまたま出会った若い女性とタンゴを踊る場面を思い出す。それはなんとも美しい夢幻の数分間で、映画全体を通しての物語は当然あるのだが、このダンスの部分はその物語の流れから異次元に浮き上がって奇跡の花のように見えた。ダンスというものはそれだけの力があるようだ。この日のステージも日常の流れを敢然と断つような強さと密度の高さ、香気があった。
(池田康)
posted by 洪水HQ at 16:02| 日記
2024年06月16日
たなかあきみつ氏逝去
たなかあきみつさんが13日に亡くなったと親族の方から連絡が入った。前日まで普段と変わらない様子だったとのこと、体調の何かが急変したのだろうか。私も連絡が取れなくなっていることが気になって4月にお宅を訪ねたのだが、その時はベッドに寝た状態ではあったが、とりあえずお元気そうな様子だったが……
近年は、奥様を先に亡くされて相当な意気消沈があったと思われ、ご自身も重い病を背負って歩行がひどく困難になっておられたので、私だけでなく彼の友人知人みなが心配していた。
私が携わっている詩誌「詩素」「虚の筏」に積極的に参加して下さり、昨年は詩集『境目、越境』を洪水企画から刊行された。この詩集の表紙にリトアニアの画家スタシス・エイドリゲヴィチウスの作品を使うことをたなか氏は熱望され、手続きが複雑で大変だったがなんとか実現できたことはたなか氏にとっても私としても非常に嬉しいことだった。生前のご厚情に感謝するとともに、ご冥福をお祈りしたい。
葬儀は22日(土)に国立市にて行われるとのこと。詳細は小生宛お問い合わせいただきたい。
(池田康)
追記
22日(土)、国立市にて葬儀。法名、釋詠昭。棺の中のたなかさん、余計なものが削ぎ落とされて、聖人のような、とてもきれいな顔をしておられた。
私の知っている方では、有働薫、細田傳造、谷合吉重、生野毅といった方々が参列していた。生野さんはたなかさんと30年以上の親交があったとのこと。
たなかさんの詩は日本語を遣いながら日本語ではないような感じもあり、アキミツ語の生成を目指し、アキミツ語の旋律を苦吟していた、と考えてみたいようにも思う。彼の詩で最も印象鮮烈だったのは「(ノイエザハリヒカイト)の読後感」の冒頭部分、これは完璧に決まっていると感じたものだった。
ノイエザハリヒカイト《カオスモス》の読後感の
皿の上には
司法解剖の結果としての
取り出された臓器の名称と数値が載っている
(後略)
posted by 洪水HQ at 08:55| 日記
2024年06月10日
鉄砲百合が開花
ベランダで栽培している鉄砲百合が開花した。百合も種類によって花咲く時期が違うようだ。
『玉井國太郎詩集』第2刷ができた。関心のある方はぜひお買い求めいただきたい。本文中一箇所訂正が入っている。95ページ3行目、「現れる」→「現われる」。鑑賞にほとんど影響ないが、オリジナル通りにということで。
「みらいらん」次号を印刷所に入れた。予定通りの時期に完成できそうだ。今回の特集は「詩と俳句を貫くもの ー高岡修を中心に」、俳句について、高岡氏の文業について、おおいに勉強することとなった。
メインのパソコンの不測の交替で、住所録は半壊状態のままだが、定期購読者は入金記録を追跡し直して復旧したつもり。あとは適当に思いつくまま送る、ということになりそう。
(池田康)
『玉井國太郎詩集』第2刷ができた。関心のある方はぜひお買い求めいただきたい。本文中一箇所訂正が入っている。95ページ3行目、「現れる」→「現われる」。鑑賞にほとんど影響ないが、オリジナル通りにということで。
「みらいらん」次号を印刷所に入れた。予定通りの時期に完成できそうだ。今回の特集は「詩と俳句を貫くもの ー高岡修を中心に」、俳句について、高岡氏の文業について、おおいに勉強することとなった。
メインのパソコンの不測の交替で、住所録は半壊状態のままだが、定期購読者は入金記録を追跡し直して復旧したつもり。あとは適当に思いつくまま送る、ということになりそう。
(池田康)
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2024年05月25日
データ喪失の危機
先週、18年間メインで使っていたパソコンが突然動きを止め、おしゃかになった。買い換えるしかなかったが、当然のことながらさまざまな問題や困難が発生、それを解決するためにこの一週間はおおわらわだった。バックアップ(Timemachine)を取っていたのでファイルデータの9割方は取り戻せたが、住所録類を含むデータベースのファイルは復旧困難で、アプリを新たにインストールすればどうにかなりそうなものもあるが、アプリが発売中止になっているものもあり(bento)、データベースの便利さの裏にひそむ危うさを痛感した。記録はすべてテキストファイルと紙で残すのが理想かもしれない。今、手作業で少しずつ復旧を試みている。
(池田康)
(池田康)
posted by 洪水HQ at 08:59| 日記
2024年05月08日
『玉井國太郎詩集』の新聞紹介
『玉井國太郎詩集』が今日の朝日新聞夕刊にて紹介されました。ぜひご覧下さい(2面)。
追記
この記事のすぐ上に、中村稔さんの新しい詩集『月の雫』を紹介する記事が掲載されている。
國太郎さんが「ユリイカ」に詩の投稿をしていた頃、中村氏が投稿欄の選者で選んでもらって批評をいただいたことがあり、とてもびっくりの嬉しい奇遇と、詩人の妹君の友田裕美子さんが喜んでおられた。
(池田康)
posted by 洪水HQ at 16:10| 日記
2024年05月01日
詩素16号

詩素16号が完成した。今回の参加者は、海埜今日子、大仗真昼、大橋英人、小島きみ子、坂多瑩子、酒見直子、沢聖子、大家正志、高田真、南原充士、新延拳、二条千河、野田新五、肌勢とみ子、八覚正大、平井達也、平野晴子、南川優子、八重洋一郎、山中真知子、山本萠のみなさんと、小生。
ゲスト〈まれびと〉は、松下育男さん。
巻頭は、平野晴子「有為の奥山けふこえて」、大仗真昼「夏駅」、大家正志「猫 ほか一篇」。
表紙の詩句は、エドワード・リアの「There was an Old Man with a Beard」。
裏表紙の絵は野田新五さん作。
ぜひご覧下さい。
(池田康)
posted by 洪水HQ at 12:57| 日記
2024年04月18日
2024年04月01日
愛敬浩一著『荒川洋治と石毛拓郎』
愛敬浩一著『荒川洋治と石毛拓郎』が完成した(詩人の遠征シリーズ16巻)。このところ草森紳一論を精力的に世に問うていた愛敬氏だが、この本では心機一転、対象を詩人に変えた。荒川洋治・石毛拓郎の二人とも氏が長い間にわたって仕事を近い距離で注視して来た詩人ということで、その論は理解度が深く細やかだ。どちらも最新詩集(『真珠』と『ガリバーの牛に』)を中心にしての評論となっているが、過去の詩業にも自在に遡って論議を深めている。荒川洋治はよく知られているが、石毛拓郎の詩は初めてという人も多いのではないだろうか。「石毛拓郎の詩集『阿Qのかけら』のいくつかの詩篇を読んできて、「国家へ憎悪」という言葉にたどりついたところで、ようやく、石毛拓郎の根源的なモティーフに触れることができたように思う。と同時に、ほぼ同じ地点で、石毛拓郎が〈詩〉をあきらめたことの意味の一端が分かったような気もしている。もう、詩など役に立たないのだ。考えてみれば、吉本隆明の『戦後詩史論』(一九七八年)の最後で引用されている詩「都市の地声」が、石毛拓郎のものであったというのも象徴的なことのようにみえてくる。」
「石毛拓郎は、英雄ではなく、決して歴史に取り上げられることはない無名の人々を、比喩的に「阿Q」として語ろうとしたので、それは「屑の叙事詩」となり、「レプリカ」となったわけである。」
こうした批評の言葉によって、この詩人の求める詩の場所の危険な厳しさがなんとなく想像できる。石毛・愛敬両人が所属したかつての同人誌「イエローブック」への愛着も熱いものがある。
また第一部・荒川洋治論の冒頭には、詩を読む難しさを語った文章が置かれている。
「詩の読み方が分からない、という人は多い。小説の読み方が分からない、という人はほとんど聞かないが、分からない小説というものもある。もんだいは、分かるか、分からないかではなく、それが言語表現として、私たちを読みへと誘う♂スかを持っているかどうか、の方ではないだろうか。
さらに言うなら、分かりやすいという同じ小説を読んだとしても、そこから受け取るものは、人によって全く違う。ただ、あらすじだけが読み取れて分かったと思い込んでいるだけなら、おそらく、その人は「読む」ということを誤解しているのだ。分かりやすい〈詩〉を書くべきなどという議論も論外である。
荒川洋治『文庫の読書』(中公文庫・二〇二三年四月)を読みながら、改めて、「読む」こと≠ノついてあれこれ考えさせられ、さらに、彼の〈詩〉をどう読んだらいいのか、考え始めてしまった。
もちろん、この問い≠フ裏側には、多くの〈詩〉を書く人々も、〈詩〉を分かっているのかどうか、自分の〈詩〉を書くだけで、そもそも、他人の〈詩〉を読んだことがあるのか、という疑義もある。もしかしたら、「詩の読み方が分からない」という素直な人より、〈詩〉を書いているつもりの人の方が、始末も悪いかもしれない。」
この読むことの初心のみずみずしさを保持しながら(不明の部分はわからないと言いながら)最後のページまで実のある論考が継続されており、読者は大いなる信頼とともに読み進んでいけるのではないだろうか。
(池田康)
posted by 洪水HQ at 10:28| 日記
2024年03月27日
文旦を食べて若返る
3月後半は、「みらいらん」次号特集の座談会を収録したり、「詩素」誌の研究会を開いたり、新しい仕事の打合せで遠方への出張があったり、それぞれジャンルや方向性がちがっていて気の安まる暇がなく、歳を三つほど余計に重ねてしまいそうな、かつてなく乗り越えるのが大変な十日間だった。やっとその難所を抜けて一息ついたところ。
そんな忙しい中での大いなる慰みは、パール柑を四つほど食べたことだろうか。たまたま今年は文旦を食べたいなと思っていて(そういえば去年もそう思っていたが果せなかった)、しかし近所の店では扱っておらず、ネット販売を利用するのも面倒だしと二の足を踏んでいたが、ちょっと離れたところにパール柑を置いている店があってラッキーだった。文旦とパール柑とどれほどの違いがあるのか知らないが(私としてはパール柑と言うよりも文旦とかザボンとか呼びたい気持ちが強い)、ひとまずこれで念願の文旦を食べたことにしておこうと独り決めしている。
この大型柑橘類の特徴は皮をむきにくいところ。悪戦苦闘。とにかく手こずる。しかし外側の皮をむいてしまえば、中の果肉はすごぶる素直だ。その味覚のすっと来る素直さ、透明さが魅力だろうか。四月が到来するまでにもう一つ二つ食べて若返りたい。
(池田康)
そんな忙しい中での大いなる慰みは、パール柑を四つほど食べたことだろうか。たまたま今年は文旦を食べたいなと思っていて(そういえば去年もそう思っていたが果せなかった)、しかし近所の店では扱っておらず、ネット販売を利用するのも面倒だしと二の足を踏んでいたが、ちょっと離れたところにパール柑を置いている店があってラッキーだった。文旦とパール柑とどれほどの違いがあるのか知らないが(私としてはパール柑と言うよりも文旦とかザボンとか呼びたい気持ちが強い)、ひとまずこれで念願の文旦を食べたことにしておこうと独り決めしている。
この大型柑橘類の特徴は皮をむきにくいところ。悪戦苦闘。とにかく手こずる。しかし外側の皮をむいてしまえば、中の果肉はすごぶる素直だ。その味覚のすっと来る素直さ、透明さが魅力だろうか。四月が到来するまでにもう一つ二つ食べて若返りたい。
(池田康)
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2024年03月10日
『玉井國太郎詩集』
A5判上製、220頁。2200円(本体2000円+税)。2024年3月23日発行。
火野葦平の家系につらなり、高校時代から文学を志し、ジャズを中心にピアニストとして活動するかたわら、1980〜90年代に「ユリイカ」などに硬質でイメージと霊感に満ちた詩を発表し、2010年に自死した、音楽と詩の領土を自由に行き来した詩人・玉井國太郎の詩業を妹・友田裕美子さんの編集で一冊にまとめたもの。作家の多和田葉子さんらとともに高校から文学の創作に取り組んだ彼の詩は、現在確認できる限りで30年の間に30篇余りと、作品数は多いとは言えないが、いずれも緻密に香り高く書かれており、この一冊にその全てが網羅されていると言える。
帯には多和田さんの文章を使わせていただいた。次の通り。
「わたしたちの脳の中の映画館は自己欺瞞で一杯だ。鳥はいつも空より小さいと思い込んでいる。だから歴史が見えないのだろう。玉井君の詩は空を見せてくれる。地球の滅亡直前の時間を踊る人たちの姿の中に、詩人個人の死の原因を捜しても仕方がない。映像化しようとする機能を止められないまま映像化できない言葉を一つ一つ読んでいきたい。多和田葉子」
これは「ユリイカ」2011年9月号で玉井國太郎追悼の記事企画が組まれたとき、多和田さんが寄稿された文章の一部であり、「鳥はいつも空より小さいと思い込んでいる。」という部分は詩集冒頭に収録された「或る報告(鳥の影の下で)」の最初の数行にかかわっている。引用すると、
地鳴り
一つの空の大きさの鳥が
眼差しの幅いっぱいに立ち上がる
羽ばたきはなく
輪郭は水蒸気にうすれ
もたげたくちばしは天頂に溶けている
うごかない一つの眼には
星を撃ち落とす知識をたたえ
時をこわし
この世の悪を数えることに罪はなかった
(後略)
詩作品に加えて、合唱曲の歌詞として書かれた「26人格のアリア ─合唱のためのドラマ─」も収録。
詩人の最期の場面を書き留めた友田さんのエッセイ「みぞれを絡う桜」も収める。
カバーと表紙には詩人と親しかった画家の井上直さんの線描が使用されていて、これは玉井國太郎がピアノを即興的に弾くのを聴きながら描いたものとのこと。さらに本文中には井上さんの絵画作品「伝説の森で a」「使者を待つ森 B」が口絵として収録されている。
装丁は友田裕美子さんの希望をぎりぎりまで取り入れながら巌谷純介氏が制作した。
重厚な造本の一冊、ぜひ手に取ってご覧いただきたい。
(池田康)
posted by 洪水HQ at 08:37| 日記
2024年03月04日
作曲家・伊藤祐二の音楽
昨夜、井上郷子ピアノリサイタル#33「伊藤祐二作品集」を東京オペラシティ・リサイタルホールにて聴く。作曲家・伊藤祐二氏は井上さんの伴侶であり、小誌「みらいらん」の音楽のページに毎号執筆して下さってもいる。このリサイタルでは氏の若い頃(約半世紀前)から現在までの作品が並び、その乱れのない足跡を辿ることができ、最初の一歩から方法論や志向が一貫していたのだなと個性というものの確かさに感銘を受けたことだった。
伊藤氏の作曲は、音を音として存在させることに集中する。旋律とかリズム構成とか、ふつう音楽を作る上で重視される事柄にさほど意を払わない。「私は、関係性の中から、それら一つ一つの音を聴き出すことに興味があり、それ以上の高次の構造には興味が無い」と言い、「雲の背後に隠れていた月が雲間から現れ、輝く瞬間。「表現」とは無縁の、すばらしく魅力的な現れの瞬間。曲の始めから終わりまで、現れるすべての音一つ一つが、そのような美しい現れとして聴こえるような音楽を夢想する。」とも言う。
このような志向は、若い頃、松平頼暁、近藤譲といった上の世代の作曲家たちに親近したことにもよるのだろう。音楽の通常の魅力には背を向け、お決まりの型の罠にはまらないように距離をとり、音に真向かうという音楽の論理的原点の姿勢を堅持する。この「距離」が氏の「詩」の初期条件をなすのだろう。リズムであおるでもなく、ユーモアを醸すでもなく、酔いを排除して淡々と音を並べて、特徴のなさそうにも見える音風景を作っていく行為は、ポップスや19世紀までのクラシック音楽に馴染んだ耳にはとっつきにくく、困惑を覚えなくもないが、しかし氏の専一なる半世紀の歩みを思うと厳粛さに刺し抜かれる。
リサイタルの前半は、「ゆるぎなき心」(2019)、「振り返り I」(1977)、「ソロイスト」(1996)の3曲。この中では最後の「ソロイスト」が奇妙な音や濁った音が多く出て来て良い驚きをもたらして最も聴きごたえがあった。「振り返り I」は大学1年生のときの作品とのこと、出発点に触れることができたのは貴重だった(ヴァイオリン=松岡麻衣子)。どの曲もとくに演奏の高等技術は使われておらず、ただ音を出すだけというかんじで作られていて、これならプロでなくても弾けそうで、たとえばいっそ作曲者自身が弾くことだってできるだろう。それも面白いかもしれない、音を並べた本人が、いま弾いた音を聴きながら次の音を一つずつ微調整して生み出していけるとしたら、これは理想的ではないだろうか!?
全体を通して言えることをもう一つ。私の好みからすると、低音がやや少ない気がする。高い音には華があるが低い音にはたっぷりとした影がある。もう少し低い音を多用してくれると私の好みのストライクゾーンに近くなるはず……とこれはあくまで個人的要望。
リサイタル後半は「ヴァシレ・モルドヴァンの7つの詩」(2002)、「メレタン」(2014)、「偽りなき心 II」(2015/2022)、「誰もが雪の結晶を持っている」(2024、新作)の4曲。「ヴァシレ・モルドヴァンの7つの詩」はルーマニアの詩人の俳句を歌曲にしたもの(ソプラノ=長島剛子)。ピアノは強くひびき、歌声は豊かに清冽に流れる。声のリアルが重しとして乗るからか、非常に立派な曲のような印象を受けた。伊藤祐二作品の中で音楽的質量のたしかな、最もポピュラリティを持ちうる作品ではなかろうか。作曲者は「詩に音楽を書く方法は、いまだにわからない。」と作品解説で書いていて、これの作曲には相当戸惑いがあったようだが、むしろ逆説的に、伊藤祐二はオペラの作曲を目指すべきだ! という意見を具申したいようにも思うのだ、無茶ではあるが。
「偽りなき心 II」はもともと木管五重奏のために書かれた曲だそうで、それをピアノにアレンジしての演奏だったためか、変な感じの響きがところどころに聴かれて興味深かった。この曲は去年のリサイタルでも聴いたようだ。
新曲の「誰もが雪の結晶を持っている」はペダルの操作により、スタッカートのような短く切れた音と、長く余韻をひびかせる音とがまざり合っていて、モールス信号をモチーフにしたにぎやかな絵画を見ているようで楽しかった。モールス信号ならば短い音の連打があってもいいところだが、これはこちらの勝手な妄想であるから文句は言えない。伊藤作品では最後の数音が抒情的フレーズをなして終わるときがあるが、この曲はそうなっていなくて、いきなり断崖で切れる感じだった。
(池田康)
伊藤氏の作曲は、音を音として存在させることに集中する。旋律とかリズム構成とか、ふつう音楽を作る上で重視される事柄にさほど意を払わない。「私は、関係性の中から、それら一つ一つの音を聴き出すことに興味があり、それ以上の高次の構造には興味が無い」と言い、「雲の背後に隠れていた月が雲間から現れ、輝く瞬間。「表現」とは無縁の、すばらしく魅力的な現れの瞬間。曲の始めから終わりまで、現れるすべての音一つ一つが、そのような美しい現れとして聴こえるような音楽を夢想する。」とも言う。
このような志向は、若い頃、松平頼暁、近藤譲といった上の世代の作曲家たちに親近したことにもよるのだろう。音楽の通常の魅力には背を向け、お決まりの型の罠にはまらないように距離をとり、音に真向かうという音楽の論理的原点の姿勢を堅持する。この「距離」が氏の「詩」の初期条件をなすのだろう。リズムであおるでもなく、ユーモアを醸すでもなく、酔いを排除して淡々と音を並べて、特徴のなさそうにも見える音風景を作っていく行為は、ポップスや19世紀までのクラシック音楽に馴染んだ耳にはとっつきにくく、困惑を覚えなくもないが、しかし氏の専一なる半世紀の歩みを思うと厳粛さに刺し抜かれる。
リサイタルの前半は、「ゆるぎなき心」(2019)、「振り返り I」(1977)、「ソロイスト」(1996)の3曲。この中では最後の「ソロイスト」が奇妙な音や濁った音が多く出て来て良い驚きをもたらして最も聴きごたえがあった。「振り返り I」は大学1年生のときの作品とのこと、出発点に触れることができたのは貴重だった(ヴァイオリン=松岡麻衣子)。どの曲もとくに演奏の高等技術は使われておらず、ただ音を出すだけというかんじで作られていて、これならプロでなくても弾けそうで、たとえばいっそ作曲者自身が弾くことだってできるだろう。それも面白いかもしれない、音を並べた本人が、いま弾いた音を聴きながら次の音を一つずつ微調整して生み出していけるとしたら、これは理想的ではないだろうか!?
全体を通して言えることをもう一つ。私の好みからすると、低音がやや少ない気がする。高い音には華があるが低い音にはたっぷりとした影がある。もう少し低い音を多用してくれると私の好みのストライクゾーンに近くなるはず……とこれはあくまで個人的要望。
リサイタル後半は「ヴァシレ・モルドヴァンの7つの詩」(2002)、「メレタン」(2014)、「偽りなき心 II」(2015/2022)、「誰もが雪の結晶を持っている」(2024、新作)の4曲。「ヴァシレ・モルドヴァンの7つの詩」はルーマニアの詩人の俳句を歌曲にしたもの(ソプラノ=長島剛子)。ピアノは強くひびき、歌声は豊かに清冽に流れる。声のリアルが重しとして乗るからか、非常に立派な曲のような印象を受けた。伊藤祐二作品の中で音楽的質量のたしかな、最もポピュラリティを持ちうる作品ではなかろうか。作曲者は「詩に音楽を書く方法は、いまだにわからない。」と作品解説で書いていて、これの作曲には相当戸惑いがあったようだが、むしろ逆説的に、伊藤祐二はオペラの作曲を目指すべきだ! という意見を具申したいようにも思うのだ、無茶ではあるが。
「偽りなき心 II」はもともと木管五重奏のために書かれた曲だそうで、それをピアノにアレンジしての演奏だったためか、変な感じの響きがところどころに聴かれて興味深かった。この曲は去年のリサイタルでも聴いたようだ。
新曲の「誰もが雪の結晶を持っている」はペダルの操作により、スタッカートのような短く切れた音と、長く余韻をひびかせる音とがまざり合っていて、モールス信号をモチーフにしたにぎやかな絵画を見ているようで楽しかった。モールス信号ならば短い音の連打があってもいいところだが、これはこちらの勝手な妄想であるから文句は言えない。伊藤作品では最後の数音が抒情的フレーズをなして終わるときがあるが、この曲はそうなっていなくて、いきなり断崖で切れる感じだった。
(池田康)
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2024年02月24日
高階杞一『セピア色のノートから ─きいちの詩的青春記─』
一人の詩人がどのように詩を書くかを詳細に語ってくれるとしたら、それは定めし興味深い話になるだろう。
高階杞一氏のこのエッセイ集(昨年夏刊行、澪標)はまさしくそんな本だ。若い頃からいかにして詩の世界に足を踏み込み、どのような試行錯誤を経て自分の詩の道を築いてきたかが平明にセキララに語られる。余計な肩の力が入ってないところがこの詩人らしい。
「スタイル」を重視する、というのは、方法論とか趣向といった言い方もできるのだろうか、藤富保男経由でシュルレアリスムやモダニズム、“詩的冗談”を取り込んだ上は、どんな冒険もできたのだろう。そこから、家族の不幸を経ての『早く家へ帰りたい』での虚飾を排した自然体での書き方への帰着は、悲劇的にして劇的。
高階さんの人柄がよく出ているエピソードは、自作の曲を約半世紀前の時点ながら自前でオープンリールレコーダーに録音してレコードを自主制作したり、高価な日本語タイプライターを入手して同人誌をこしらえたり、誰しも夢想はしてもなかなかできないところまで果敢に踏み込んで自力でやってしまうバイタリティというか何でも屋の工の(ホモ・ファベル的?)好奇心が強健で楽しい。演劇やマンガから詩のヒントを上手に摘み取るところもこの人のこだわりのない全方向性を示す。
自分の詩に「空」とか「遠い」といった言葉が多く出てくるのはなぜかを探る章では、他人(神尾和寿・藤富保男・山田兼士)の批評の言葉を全面的に信頼し依拠しながら考えようとするところにこの人の人間性のよさが滲み出ていると言えそう。
最後になるが……大昔、詩の雑誌に投稿していたころ知った同年代の詩人たちのことを語る本書の最初の数章は、消息不明になった人も多く、ペーソスというよりももう少しうら淋しい、淡い悲哀が感じられ、印象に残った。
(池田康)
高階杞一氏のこのエッセイ集(昨年夏刊行、澪標)はまさしくそんな本だ。若い頃からいかにして詩の世界に足を踏み込み、どのような試行錯誤を経て自分の詩の道を築いてきたかが平明にセキララに語られる。余計な肩の力が入ってないところがこの詩人らしい。
「スタイル」を重視する、というのは、方法論とか趣向といった言い方もできるのだろうか、藤富保男経由でシュルレアリスムやモダニズム、“詩的冗談”を取り込んだ上は、どんな冒険もできたのだろう。そこから、家族の不幸を経ての『早く家へ帰りたい』での虚飾を排した自然体での書き方への帰着は、悲劇的にして劇的。
高階さんの人柄がよく出ているエピソードは、自作の曲を約半世紀前の時点ながら自前でオープンリールレコーダーに録音してレコードを自主制作したり、高価な日本語タイプライターを入手して同人誌をこしらえたり、誰しも夢想はしてもなかなかできないところまで果敢に踏み込んで自力でやってしまうバイタリティというか何でも屋の工の(ホモ・ファベル的?)好奇心が強健で楽しい。演劇やマンガから詩のヒントを上手に摘み取るところもこの人のこだわりのない全方向性を示す。
自分の詩に「空」とか「遠い」といった言葉が多く出てくるのはなぜかを探る章では、他人(神尾和寿・藤富保男・山田兼士)の批評の言葉を全面的に信頼し依拠しながら考えようとするところにこの人の人間性のよさが滲み出ていると言えそう。
最後になるが……大昔、詩の雑誌に投稿していたころ知った同年代の詩人たちのことを語る本書の最初の数章は、消息不明になった人も多く、ペーソスというよりももう少しうら淋しい、淡い悲哀が感じられ、印象に残った。
(池田康)
posted by 洪水HQ at 09:28| 日記

池田康詩集『ひかりの天幕』が完成した。並製120頁、判型198×128ミリ。定価税込1870円。〈RAFTCRAFT〉シリーズの1冊。