2016年10月09日

平石博一の世界

昨夕は両国門天ホールでピアニスト・井上郷子さんのリサイタル「#24作曲家たち 平石博一の世界」を聴いた。平石博一氏は井上さんが「洪水」17号の連載評論で取り上げた、ミニマル・ミュージックを基軸とする作曲家。この日の前半はその傾向のピアノ小品で構成されていた。なじみにくい音型の曲もあったが、「ア・レインボウ・イン・ザ・ミラー」などは豊麗な音の舞踊を見る思いがした。門天ホールのピアノは聴きにくさのストレスも一切なしに繊細な響きを楽しめる。
後半は平石さんが創作した「空間音楽」と称される8チャンネルの電子音楽の演奏。ホールの四方の壁ぎわに8個のスピーカーを置いて鳴らすのだが、サウンドスケープというのはこういうものか、幻想的な、尋常ならざる音響体験をすることができた。現代音楽の小世界にとどまらず他のあらゆる音楽のジャンルに通じる要素があるように思われた。終演後すこし話をうかがったが、全体の絵図を思い浮かべながら全チャンネル同時に作曲を進めるのだそうだ。
この日の午後は用事があり国立国会図書館を訪れた。すでに新時代に入っているようで、7冊の本の調査をしたのだが、すべてデジタル資料になっていて、館内のパソコンでそれを呼び出して必要な頁を指定してプリントしてもらうだけ。あっという間に用事が済んで唖然とした。
(池田康)
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2016年10月07日

山田兼士詩集『月光の背中』

gekkonosenaka.jpg山田兼士さんの4冊目の詩集『月光の背中』が洪水企画から刊行された。A5判、ソフトカバー、92頁。山田さんは詩稿の完成を相当程度確信されていたようで、本文の仕上がりは早く、装丁についても比較的すんなりとまとまったので、記録的短期間で完成に至り、滞りのないそのすみやかさに、問題はないか事故はないかとこちらがハラハラするほどだった。さすが、膨大な仕事量をこなすこの方のみごとな早業だ。
詩集は4つの章からなり、奈良散策の見聞をもとに万葉の時代の悲劇をうたった作品、コクトオ、小野十三郎、吉本隆明、三井葉子、島田陽子など先人を偲ぶ作品、自分史の一こまを陰翳深く刻印した作品などで構成し、回文や折句などの言葉遊びをまじえながらディアローグによる詩の可能性を探究する。「虚実照応」と言ってみたいような、イマジネーションと現実世界との間の自在な感応の往来を思わせるところがある。
タイトル作を部分的に引用紹介する。この作品は行の頭が「月光仮面の歌」になっているのでご注目いただきたい。

 あの金堂の月光菩薩は
 いつも凛々しい立ち姿
 ときどき拝観しに行くが
 せなかを見ることはなかった
 いつも光背に覆われている
 ぎんの月を思わせる
 のうめんのようなお顔は
 ためいきの出るほど美しいが
 めったに間近で見られない
 なら国立博物館「白鳳展」に
 らいげつまで出開帳
 ばしょは知っている
 (…中略…)
 まずしい人よ 呼ぶがよい♪……
 ずっとむかし こどもの頃に
 しっていたメロディが浮かんだ
 いつも隣の家で見せてもらった
 ひとりぼっちの覆面の主人公
 とべもしないのにマントを翻す
 よのため人のため
 よるもひるもオートバイを走らせて
 ぶきは拳銃二丁のみ
 がっこうぼさつさながらに
 よべば必ず現れたもの
 いつも口ずさんでいた憂愁の
 かなしい時代のメロディが
 なつかしいと思う今のぼくが
 しずかに思い浮かべるのは月光の背中
 いっしんに闘うその背中
 ひとの弱さ貧しさ悲しさを
 とわに背負い続けるその孤独よ
 もしも祈りが届くなら
 よなかの真冬の月の丘から
 ぶじを祈って歌うだけ
 がっこうぼさつは月光仮面♪……
 よい子のために千年の未来まで
 いつまでもすこやかにと願うだけ

(池田康)
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2016年10月05日

久保田幸枝著『短歌でたどる 樺太回想』

saharinkaiso.jpg信濃在住の歌人・久保田幸枝さんのエッセイ集『短歌でたどる 樺太回想』(樺太=サハリン、「短歌でたどる」はサブタイトル)が洪水企画の〈詩人の遠征〉シリーズの第9巻として刊行された。戦中から戦後にかけて両親とともにサハリンの豊原(ユジノサハリンスク)で暮らしていた子ども時代の経験を中心に短歌作品を交えのびやかな散文で回想する。今の戦後世代の人間には想像を絶するような風土的特色や歴史的出来事が次から次へと登場してくるので興味が尽きず、また両親に対する思慕、弟妹に対する思いも情深くじんとさせられる。
本書中最大の山は、敗戦から引き揚げまでの苦難を述懐したところだろうか。よく無事に生き延びることができたものと読者もほっと胸をなでおろすことになる。そのあとも信州という未知の地に住むことになり別の種類の困難が待ち受けているわけであるが……
戦中戦後を生きた一人の全身での経験を細やかにうたい記録する貴重な歌物語。
この本の中に出てくる短歌作品のうちいくつかをここで引用紹介する。

 流氷のとどろくころか地球儀にわが生国の海は紺碧
 鰊とつて鮭とつて鰊とつて……北海寓話あしたへ続く
 風化せぬ幼き記憶の一点に照明弾のかがやきがある
 「ユキエサン サンポ タベマショ」小学生わが友なりしかのロシア兵
 サハリンに抑留されし二年生学ばず歌はず描かず四年生
 引揚船「宗谷」のデッキにて手を振りき流氷の上のオットセイらに

(池田康)
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2016年10月03日

ハイパービートルズ

昨夕は三浦半島の衣笠(横須賀の近く)のカスヤの森現代美術館で開かれた高橋アキさんのピアノリサイタルを聴きに行った。館内の一室での、収容50人ほどの小規模の公演で、しかも今回はピアノのすぐ前のかぶりつきで聴いたので、ピアノの身体が震えたり唸ったりする音まで耳に入ってきて、音の経験として生々しかった。
曲目は、まずサティ2曲、そして「ハイパービートルズ」というビートルズの曲を題材にして作曲された小品のシリーズ(世界中から47人の作曲家が参加)から16曲が演奏された。ビートルズものなら気軽に聴けるのかと思ったらそうでもなく、どの作曲家も力を込めて作り込んでいるのでけっこう重量感がある。素直にメロディが聞こえてくるものもあれば、解体されて原曲が見えなくなっているものもある。そんななかで、池辺晋一郎、西村朗両氏の曲(それぞれ「エデュイエ・ブギ」「ビコーズ」)が明快な鋭さで印象に残った。なにか高級なものをという漠然とした動機からではなく、この方向で面白いものを作り切るという明確な創作意志が働いているからかもしれない。
サティは「グノシエンヌ第1番」と「メドゥーサの罠“ピアノのための7つの小品”」。「メドゥーサの罠」はサティが台本を書き作曲した劇だそうで、最近高橋アキさんの提唱により何カ所かで上演されているそうだ。
コンサートのあとは栗を素材にした料理のビュッフェが用意されており、季節の味を堪能しながら歓談することができた。美術館の展示は彫刻家の山本正道、画家のシモン・パシエカの作品(10月16日まで)。
(池田康)
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2016年09月30日

平塚市美術館にて

平塚市美術館ではいま「香月泰男と丸木位里・俊、そして川田喜久治」展を開催している(11月20日まで)。丸木夫妻の原爆の絵は前から見たいと思っていたので、こんな近所で見られるならありがたいと、先日見にいった。感想を一言で言えば、よくこれを描いたなあということに尽きる。〈原爆の図〉シリーズは15作あるそうで、この展覧会ではそのうちの6作が展示されているが、血まみれで立つ女性の立像など、文字通り衝撃的。描き始めた頃は占領軍の検閲を逃れるため紙のまま巻いてしまっていたというが、現在は屏風仕立てになっていて、面の曲折をともないながら画が展開される立体性も作品の風情となっている。線に執念が、色彩に恐怖が感じられる。
香月泰男の作品では、シベリアで大勢が行列を作っている絵が何枚かあって、とても印象的だった。
川田喜久治は写真家、戦争の傷跡を記録した写真集『地図』で名高い、とのことだ。
(池田康)
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2016年09月25日

平野晴子詩集『黎明のバケツ』小野十三郎賞特別賞

平野晴子詩集『黎明のバケツ』(洪水企画)が第18回小野十三郎賞特別賞を受賞しました。おめでとうございます!
ちなみに同詩集は中日詩賞も受賞しています。
(池田康)
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2016年09月24日

ROSCO15周年

昨日は東京オペラシティリサイタルホールで、ROSCOの15周年コンサートがあった。ROSCOはヴァイオリンの甲斐史子、ピアノの大須賀かおりの2人のグループで現代曲を中心に演奏する。この日のプログラムで印象に残ったものをいうと、ヤナーチェクの「ヴァイオリン・ソナタ」は、音楽を志す熱塊の脈打ちの激しさに打たれた。100年前の音楽家はやはりちがう。戦後の音楽は思考の面がどうしても強くなってしまう。ハインツ・ホリガー「無言歌2」は5つの楽章からなり、テンポの速い章はぴたりと合わせるアンサンブルの見事さが出て、最後の章の静かなゆっくりした箇所はじーんとした感覚で聴き惚れた。斉木由美「歓」はピアノ独奏、この曲は演奏を聴くのがこれが三回目だろうか、邂逅がこう度重なるのも珍しい。今回は鍵盤の上で手が動くのが見える位置で聴いていたのだが、そうとう乱暴な動作の箇所もあり驚いた。全体に輪郭くっきり、躍動とぎれず、随所に不意の鋭さが突出して、大須賀さんも心の中で「快感!」と叫びながら弾いていたのではなかったろうか。ソフィア・グバイドゥーリナ「タイトロープの上のダンサー」はピアノから闇が這い出てくるようだった。ピアノといえばふつう光のイメージがあるのだが、逆だ。甲斐さんは弓の糸が切れたのをぶちっとちぎり取りながら緊迫の音の舞踊をしていた。グバイドゥーリナは音楽で絵を作るのが得意なのかもしれない。ほかに、坂東祐大「シーソー」、クラウス=シュテファン・マーンコプフ「ウラディミール」が演奏された。
今日は渋谷駅から歩いて10分のライブハウス・クロコダイルで「第22回クロコダイル朗読会」を聴く。出演は、鼎談と朗読で、財部鳥子、福島泰樹、文月悠光の三氏。ほかに、関中子、水沢なお、佐峰存、山口眞理子、福田拓也、浜江順子、筏丸けいこの皆さん。一人一人の言葉のリズムのちがいを感じる。お店の人達の丁寧なサポートぶりがいい。
(池田康)
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2016年09月22日

洪水18号在庫切れ

洪水18号はおかげさまで版元在庫なしになりました。どこかのお店にはまだ残っているかもしれません。ご入用の方はお探し下さい。
洪水次号(この冬に刊行)は、「日本の音楽の古里」という特集で、邦楽や伝統音楽の世界に踏み込んでみたいと計画しています。このテーマで妙案や深い経験をおもちの方はご協力下さい。
(池田康)
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2016年09月15日

シンディ・ローパーを聴いて

8月某日、某セコハン店でシンディ・ローパーのCDが目に留まった。この歌手の曲は「Girls Just Want To Have Fun」を知っているくらいだったが。『音楽を愛して、音楽に愛されて』(ぴあ)という“湯川れい子80th記念BOOK”を、いろいろ勉強させてもらおうと読んでいたのだが、何人かのミュージシャンが特別にページを設けてじっくり語られており、その中にシンディ・ローパーの章もあったのを思い出した。それで『Twelve Deadly Cyns』という、これはベスト盤なのだろうか、12曲ではなく17曲入ったのを手に入れて聴いた。なにか突き刺さってくるものがある。どこかイカれたところがないと本当に魅力的な歌にはならないとしたら、歌手も因果な商売と言わなければならない。人気あるけど、上手だけれど“音楽業界内歌手”の域を出ていないという歌手はたくさんいる。その見えない殻を突き破ってくるものがあるという点でシンディ・ローパーは強い。
歌を成立させる要素を表層的なことから深層的なことへという順序で考えるなら、歌う技術/歌う力(表現のエネルギー)/歌声/歌心(音楽のエロス)/歌う根拠(歌の思想)/歌う運命(ミューズとの縁)……といった具合になるだろうか。
前にジョーン・バエズについても、コマーシャリズムやプロフェッショナリズムを超え出る“大地の使徒”的なものを考えたが、こう言うと誇張に聞こえるかもしれないが、神がかったもの狂いの部分がおそらく枢要なのだろうと、シンディ・ローパーを聴きながら思った。「Time After Time」もこの人の曲だったのだね。ブラウザの検索欄に「time」と書き込んだら候補のトップにこの曲のタイトルがすっとあがってきて驚いた。
(池田康)

ついでに。このあいだ名古屋に行ったとき、ある店で音楽DVDが廉価で売られており、かねて一抹の興味を抱いていたレディ・ガガのDVD(『A Very Gaga Thanksgiving』なるもの)を手に入れた。この人は一般にどういうジャンルの存在とされているのか知らないが、ここでのガガはそうとう凄腕のジャズシンガーだった。トニー・ベネットが「America's Picasso」になるだろうと誉めている。それが本当なら、「ショービジネス・ビッグスターの時代」から「ジャズ・トップスターの時代」への変貌もありうるだろうか。ちょっと期待したくなる。トニー・ベネットとのデュエットのCD『CHEEK TO CHEEK』(2014)でもレディ・ガガのジャズが聴ける。
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2016年09月13日

秋元千惠子著『地母神の鬱』

jibosinnoutsu.jpg歌人の秋元千惠子さんの環境詠に関する論考やエッセイを集めた本『地母神の鬱 ─詩歌の環境─』が〈詩人の遠征〉シリーズの第8巻として洪水企画から出た。長年にわたり書き継がれた、環境問題を短歌の詠に組み入れることに関する思考の集積であり、己自身の真率で偽りのない抒情を基本とする詩型である短歌にどうやってポエジーをそこなうことなく環境問題の議論を取り入れるかは難しい問題があるわけだが、あえて〈社会〉に目を向けようとする秋元さんの半世紀近くにも及ぶ努力の継続は非常に重い。
この課題をより抽象的に(次元を高くして)言えば、詩歌に文明論的思考を取り入れるということであり、これは戦後詩が当然のことのように行ってきたことであって、この時代に生きる人間としてなんの不思議もない営為だ。短歌でも前衛短歌あたりでは高度な仕方でこの試みがいろいろなされており、本書後半の、他の歌人たちの作品を鑑賞する章ではその構築が丹念に読み解かれている。秋元さんはこの文明論的思考の方法論を故玉城徹から学んだそうだ。抒情を旨とする上田三四二の教えと、そして玉城徹の思想性とが、自分の二つの基礎になっていると語る。
ということで問題意識がはっきりしており、真摯な、非常に考えさせられるエッセイ集と言える。終戦直後のころ、DDTまみれのトマトを食べてひどい腹痛にみまわれた忘れられない経験をし、後年荻窪で自然食品の店を営んだ人間としての実際的知識、経験、感覚の蓄積が独自の重みを創りだしているのではないだろうか。
自選百首も含まれていてこの歌人の歌業のエッセンスを味読することができる。
書名は
 うらうらと揚がるひばりの空の鬱 孵らぬ春に地母神の鬱
という短歌からきている。
地母神はわれわれの近現代のある歪な部分を衷心から憂いているのだ。
(池田康)
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2016年09月10日

絵魔術に会う

夏のはじめに購入した青春18きっぷを期限ぎりぎりであまらかしていたので、それを使いながら昨日、案内をいただいていた名古屋ボストン美術館開催の「ボストン美術館所蔵 俺たちの国芳 わたしの国貞」展の内覧会におじゃましてきた。ボストン美術館は浮世絵をなんと五万点以上持っているそうだが、そこから精選した170点ほどが展示される。歌川国芳と国貞の二人は江戸時代の晩期に生涯を送った絵師(歌川豊国門下)だが、二百年の太平の文化・風俗の爛熟の中で研ぎ澄まされた浮世絵の精妙奇抜な構図学が実現させる“絵魔術”の面白さを堪能した。物語絵の入魂の凝縮、ポートレートの鮮やかな切り取り。「江戸の「俺たち」を熱くした、国芳が描く英雄や任侠の世界。江戸の「わたし」が憧れ夢見た、国貞が描く歌舞伎役者に美人たち」と展覧会ちらしは説く。現代のポップカルチャーに通じるものがあるという解説もそのとおりだろう。二度三度とリピートして通いたくなる強烈な魅力がある。
帰途、浜松でご当地のおいしいものを食べて胃袋のほうも満足させて帰ってきた。
(池田康)
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2016年09月04日

毎日新聞ご覧下さい

本日の毎日新聞の書評欄MAGAZINEコーナーに「洪水」18号が取り上げられ、佐藤聰明さんのエッセイが詳しく紹介されています。ぜひぜひご覧下さい。
(池田康)
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2016年09月03日

虚の筏17号

「虚の筏」17号が完成しましたのでご覧下さい。
http://www.kozui.net/soranoikada17.pdf
今回の参加者は、久野雅幸、二条千河、海埜今日子、たなかあきみつ、小島きみ子、平井達也、酒見直子の皆さんと、小生。
(池田)
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2016年08月23日

悲願幻想の最重量

台風も直撃のような形でやってくると油断できない。高いところにある常設拡声器からの注意報が耳を脅す、この夏一番の大荒れの日だった。
リオ・オリンピックが終わった。ときめく瞬間や心揺さぶられる場面がいろいろあったが(女子柔道・田知本遥のあしたのジョーみたいな極限の戦いぶり、陸上男子400mリレーの鮮やかな走りっぷり、など)、言語上のカルチャーショック的なときめきの第一は、女子マラソンのメダリスト三人の名前。スムゴング、キルワ、ディババ。響きがあまりに新鮮、完璧な異質さにどきりとした。四年間有効の必勝祈願のおまじないの文句にするといいかもしれない。ケニアとバーレーンとエチオピアの選手で、アフリカの方角の空気がさっと広がるように感じられた。男子マラソンも、キプチョゲ、リレサ、ラップ、と三位にアメリカ選手が入っているが、なかなか刺激がある。二位の選手は自国に抗議するデモンストレーションをやったことでも注目を浴びていた。
また、これは新聞で読んだ話だが、ブラジル・サッカーチームのネイマールは決勝の試合で「エオ・エスト・アキー(俺はここにいる)」と叫んだとか。これも言葉の角張ったフィギュアが印象に残る。試合の最後のPKで、彼の上にのしかかったブラジル国の悲願の重さは、かつて円谷幸吉が感じたものに匹敵するだろう、大変なものだったに違いない。この伸るか反るかをサヴァイヴできたのはラッキーだった。大会を通しての悲願幻想の最重量をもちあげた金メダル。
(池田康)
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2016年08月17日

新実徳英著『A.E.あるいは希望をうたうこと』

この夏、作曲家の新実徳英さんの上記エッセイ集が刊行された(ARTES、本体2200円)。毎日新聞九州版に2007年から2013年まで月一回で連載されていたもので、九州の話題も所々に挟み込みながら、作曲のこと指揮のこと合唱のことなど、自ら職業とする音楽に関するあらゆる現象や経験を思いつくまま、独特の軽やかにダンスするような口調で語ってゆくので、読者は楽しく読みながらいつの間にかたくさんのことを学んでいるはずだ。多くの場所で表されるバッハに対する敬愛の念は、そこまでなのかと、ちょっと驚くほどだし、仏教関係の特別の曲を含む近年の新作創作の破格の多忙ぶりも、知りませんでしたと恐れ入るばかりだ。
このエッセイ集のもっとも重要な点は、2011年の東日本大震災をはさんでいることで、連載にとっては図らずものことだったろうが結果的にこの本の貴重な意義となっている。タイトルの「A.E.」というのは「After the Earthquake」の略であり、新実さんは忘れてはならないの心から大震災以後の自作に「A.E.番号」をつけているのだ。2011年3月以降の章ではしたがってその関連の話が多くなっている。巻末に収められている、詩人の和合亮一さんとの対談ももちろん大部分は大震災をめぐってのやり取りであり、おおいに考えさせられる。
こう書くと深刻そうに聞こえるが、全体を通して感じられるのは新実さんの楽しそうな声の明るさ、心映えの明朗さであり、「希望をうたう」というタイトルの言葉はぴったりと言える。新実さんの音楽を聴いたことがある方は(ない方も音楽に興味があれば)ぜひ本書を手にとってこの作曲家の思考と感性の柔軟な動きに接していただきたい。
(池田康)
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2016年08月13日

ポール・サイモン DUNCAN

ポール・サイモンの新しいアルバム『STRANGER TO STRANGER』のボーナストラックに、かなり昔の作品「Duncan」が入っている。最近のライヴで演奏されたものの収録。この曲は2002年のベスト盤『The Paul Simon Collection / On My Way, Don't Know Where I'm Going'』でも本編にこそ入ってないがやはりボーナスディスクにロンドンでのライヴ演奏版が収録されている。かなり大切な曲なのだろうか。もともとは1972年のアルバム『Paul Simon』の2曲目。
「洪水」18号のエッセイでこの歌手の仕事に触れたこともあり、この際彼のオリジナルアルバムのすべてを聞いておこうと、『THE COMPLETE ALBUMS COLLECTION』というボックスセットを手に入れたら、有難いことにその中に2枚のライヴ盤も入っていて(1974年と1991年のもので、どちらも感涙級の演奏)、1974年の方ではこの曲が「El Condor Pasa」と「The Boxer」の間に挟まれて5曲目に演奏されている。この位置は正確にこの曲の性格を表している。フォルクローレの響きと調べのなかで虐げられた人間の声を聞くという点で「コンドルは飛んでゆく」に通じ、心理的&物質的に無一文の情況をうたうという点で「ボクサー」に通じている。「Holes in my confidence/Holes in the knees of my jeans...」故郷を離れ貧窮する若者が聖書を説く娘と出会い……『PAUL SIMON LYRICS 1964-2016』の序文でDavid Remnicは「Duncan」を挙げ、ポール・サイモンは複雑な物語を信じ難いスピードで構築する、と指摘している。その通りだが、第一に、どうして〈無一文の孤独の生〉にこんなにも迫真的に憑依できるのかということに驚く。「ボクサー」も同様で底辺を歩むきびしい生の姿が描かれる。自身の経験もなにかあるのかもしれないが、もっと奥のアメリカの原点、移民として無一文でこの地にやってきた祖達の途方にくれた絶望の声が響いているような気もする。アメリカにはどこかにそのような生活の底のアナーキーなまでの無一文の感覚があって、それが彼の歌に染み出てくるのではないだろうか。
「ボクサー」の第4連ではrolling、rockingという言葉が出てくる。年月が経とうと、根本のもの(…just a poor boy…)はなにも変わらない…。これが彼のロックンロール観につながっているとすれば、かなりもの悲しい傾きのものと感じられる。そしてそのような無一文の感覚がworld musicへの道を拓いているような気もするのだ。
アルバム『Paul Simon』にはボーナストラックに「Duncan」のデモ版も収録されていて、完成されたものと相当違っており、興味深い。最新アルバム所収の「Duncan」は声の深さが嬉しい。
(池田康)

追記1
アルバム『STRANGER TO STRANGER』本編は『グレースランド』ほどの強烈な斬新さはないものの、各曲で音楽の新しい調子や形を追求しており、その手掛かりとしてサイモンは付属冊子の自作解説で独自の楽音システムを考案した作曲家ハリー・パーチとフラメンコの演奏(手拍子足拍子つき)を挙げている。ラブソングでありながらラブソングの構造そのものをクリティカルに省察したり(タイトル曲)、伝説の野球選手の話が究極の宗教の問題に展開したり(COOL PAPA BELL)、詞の動き方が意表をついていて、聴き込むほどに興が深くなる。

追記2
今回いろいろ聴いた中で、「Take Me To The Mardi Gras」(アルバム『There Goes Rhymin' Simon』1973 所収)が気になった。曲の最後の方で、マルディグラの祝祭の音楽なのだろうか、輪郭がぼんやりとした、いろんな色の雲が遊んでいるような、とても不思議なかんじの音楽が出てくる。なんとも魅力的。こんな音楽をやるバンドがあるなら、ぜひ聴いてみたいものだ。
『The Paul Simon Song Book』(1965)から…「A Church Is Burning」、「A Most Peculiar Man」は聴き逃してはならない。心して聴くべし。そして「Kathy's Song」はこの世で最も美しい歌の一つだろう。なにを今更と言われそうだが。

追記3
『LIVE IN NEW YORK CITY』(2012)を聴く。うーん、やはりこの人は聴かない方がいいのかもしれない!? 他の人の大概の曲が凡庸に思えてくる。
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2016年08月07日

蜂の巣

 蜂はとんでもないところに巣をつくる
 たとえば男のアパートのベランダ
 其処がとんでもないのは たんに
 男の都合にすぎないのだが

 特別に歓迎はしない
 無理矢理追い出しもしない
 刺さないでね
 ひらにお願いするだけだ

 蜂よりも燕の巣のほうがいいのにと
 贅沢を言うものではない
 蜂には蜂の幸福がある
 巣は幸福の象

 散歩の途中サルビアの周りを飛ぶ
 一匹の蜂 あれはウチの蜂だ
 と考える はや身贔屓の
 蜂の家の一員になりたがっている男

ついでにもう一つ、日常生活の独り言のような零墨詩。ベランダに蜂の姿をときどき見るようになったのはかなり前だから春の早い頃から巣はあったのかもしれない。存在を確認したのはつい最近。彼らはどういう条件でロケーションしたのだろう。空き家になっているアパートメントもあるのに。
(池田康)
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2016年08月06日

スモモ頌

 貴陽を今夏の楽しみとする
 紅く熟れて高慢ちきに醇なれば
 成敗してやると歯を立てて齧るに
 果実は快を叫び果汁を迸らせる

 暑熱は生命臨界の高い山脈を造り
 朦朧として登り行く陽炎の影
 朱夏 大きな果実 光の童話
 登場人物はすべて裸で光彩を読む

 夏の光 夏は光り 彩に重なる彩
 ほのかに歪な楕形に凝結する枝先
 光の実をもぎ取る手 太陽の巨人
 夏は神々の真昼の正餐の大皿だ

 蝉たけり 草むし 雷雨あらう夏
 李の季は甘い酸いただ一語に熟れて
 その光身を口にふくむとき一語溶け
 仮象の〈内〉と〈外〉をつなぎ合わせる

貴陽というのはスモモの一品種、比較的新しい種類だろうか、食べてみるととても美味いので感激のあまり、スモモ頌を書きつづり深甚の謝意を表した次第。一種の機会詩なのでタイミングを考慮したく、旬のうちに、ただちにここに紹介した。冒頭の「貴陽」には「あなた」とルビしたいところ。
アイスクリームやかき氷も風物だし桃もスイカも勿論おいしいが、このところ私はもっぱらスモモビトとなって貴陽に専念執心している。
(池田康)
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2016年07月31日

吉増剛造展 声ノマ

昨日上京の用事についでに、かねて林浩平さんから勧められていた吉増剛造展「声ノマ」(竹橋・東京国立近代美術館)を観た。タイトルは「声の真」「声の間」「声の魔」を意味するらしい。詩の草稿・生原稿、日誌や書簡、多重露光写真や映像作品、さまざまな音源を収めた数百本のカセットテープ、銅板打刻オブジェ、などなど、詩人という地味な存在が作り出すものとしては例外的に華やかな景観となっている。最新の詩集『怪物君』(みすず書房)が会場に無造作に置かれていて自由に頁をめくれるのはありがたい。最後の部屋では舞踏家の大野一雄とのコラボレーションの映像作品を上映していて、大野の芸を目の当たりにすることができる。これを自己解釈として見るならば、「私の詩は“暗黒舞踏”である」と言っているのであろうか。
近著『我が詩的自伝』(講談社現代新書)は詩人自らがざっくばらんに語る、生きてきた時代のドキュメントのようで、おもしろそうだ。
(池田康)
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2016年07月24日

緋国民楽派14回コンサート

昨日、「緋国民楽派」の第14回作品演奏会を錦糸町のすみだトリフォニー小ホールで聴いた。「緋国民楽派」は寺嶋陸也、萩京子、吉川和夫の作曲家三氏のグループ。「洪水」18号にインタビューで登場してくださった萩さんにご案内をもらって。演奏は、水野佐知香(vn)、寺嶋陸也(pf)。コンサート前半は「緋国民」にしては上品でシリアスな曲が並んだが、後半は歌の弾力が感じられる曲を柱にしたプログラムになっていた。
もっとも強くはっきりと音楽の愉楽を享受したのは寺嶋作「グリーンスリーヴスによる変奏曲」で、おなじみのこの民謡をもとにした変奏曲を無伴奏のヴァイオリンで弾く。バッハを思わせるような構築の変奏もあり、バロック風、古典派風、ロマン派風などと変化をつけていったと作者が語るとおり音楽スタイルのメタモルフォーゼが面白い。学生時代に作った曲の発展形の一つだそうで、寺嶋氏の創作にかけるしぶとさが偲ばれる。
吉川氏は清冽な「幻想風小品〈NAIWAN〉」「Air」の二曲で音楽に対する誠実な取り組みの姿勢がなんとなくわかった。(「ソナタ風幻想曲〈SANRIKU〉」は長すぎてこのとき少し往路の疲れからくる眠気と格闘していた私には全体がつかみにくかった)
萩さんの曲「A FOREST」は純然たる器楽曲で、オペラの仕事とはちがった面でのきびしさを見ることができた。「もうひとつの…」は歌をもとにした5曲の組曲で、歌のリズムと旋律が楽しい。
「緋国民」とはなにか。こんな国のメインストリームに従順な国民にはなりたくないという思いもあるのかもしれないが、「緋の国」の民という意味かもしれず、とすると「緋国」とは幻の歌の国のようなものだろうか。
ヴァイオリンの技を存分に堪能した一夜だった。
(池田康)
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