2022年03月29日

「現代詩手帖」4月号

「現代詩手帖」4月号に寄稿しましたのでご覧下さい。「詩人はオペラである」という変なタイトルのエッセイです(「横断する表現」というリレー連載のコーナー)。なお、この号の特集は「新鋭詩集2022」となっています。
(池田康)
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2022年03月19日

歌の話に心揺さぶられる

地震のお見舞いを申し上げます。
うちの辺りは震度4くらいだったのだろう、寝ていてひどく揺れるのを感じて恐ろしかったが、家具やものが倒れたり落ちたりはなく、胸をなでおろした。なぜ地震はあんなにも突然にくるのだろうか?
この冬から春にかけて、オペラ関連の本を図書館で借りて読んでいたのだが、三澤洋史著『オペラ座のお仕事 世界最高の舞台をつくる』(早川書房)は生彩があって面白く、読んでいてとても気持ちよかった。著者は指揮者で、主に合唱指揮をなりわいとしていて、新国立劇場などで活躍する。多くのオペラの演目を解説するわけでも、オペラ史を系統的に語るわけでもなく、自分の歩いてきた道のりを振り返りながら印象深い出来事を語っていくという、自由でラフな構成なのだが、音楽家が書いてもなかなか語られないような音楽上の機微がさまざまに取り上げられ、説明されていて非常に興味深い。おもに歌手(と合唱団員)がどう声を作り唱うかの話であり、発声しにくい音域でテノールはどう裏声を混ぜ合わせてなめらかな歌声を実現するかとか、言葉をどう歌声で発声するか、言語がちがうといかに言葉と旋律の関係が変わってくるかとか、バスを強く厚くすることがどれほど重要かとか、いずれも教えられることが多い。指揮棒の打点と実際に音が発せられる瞬間との間のわずかな時差についても非常に悩ましい問題として率直に語られていて、かねてから不思議に思っていたことなので、やはりそうなのかと納得したところもあった。なによりも、一曲を創造する現場の動き(政治、駆け引きもふくめて)が生々しい。どうしようもなくぐしゃぐしゃだったアンサンブルが指揮者に導かれてみごとな演奏に化けるさまの描写は、読んでいるだけで音楽が聴こえるようだ。
戦争で世界が激震するのは恐怖そのものであるし、現実の地面が大きく揺れるのも願い下げだが、精神性と創造性に溢れた文章に心が揺さぶられるのはありがたい経験だ。
(池田康)
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2022年03月11日

ナポレオンでさえ

ウクライナの情勢はきびしいままのようで、遠い地のことながら、戦時下の非常な過酷さが伝わってくる。
久生十蘭には戦時下のパリなどを舞台にしたものが少なくなく、その陰鬱と物騒が作品の根底の味わいとなり、こういう時勢だと戦争の空気のリアリティにふれたくついつい読んでしまう。「勝負」「巴里の雨」など(それぞれ河出文庫の『十蘭錬金術』『パノラマニア十蘭』所収)恋愛ものではあるが、風雲急を告げる時代描写がいたく生々しい。作者自身がヨーロッパに行っていたとき軍事物資関係の仕事に携わっていたのか、その方面にとてもよく精通している感じがする。ほかにも、「公用方秘録二件」は二つの国の角逐が小さなシーンで鮮やかに描かれて面白く、「爆風」は空襲の直撃をいかにのがれるか、その知恵についての冷静な記述に引き込まれ、「犂氏の友情」はウクライナ人であるロシア人!?が出てきて、とんでもない展開に驚愕する。
今のウクライナを見ていると、陰鬱や物騒の雰囲気はもちろんあるが、勇敢とか覚悟とかいった言葉も思い浮かぶ、これはおそるべきことだ。なにか大きなプラスを得るという意味での勝利はむずかしいかもしれないが、できるだけ納得できる形でサバイバルを果たしてほしいもの。
先月24日にNHKBSで放映された映画「戦争と平和」(1956、キング・ヴィダー監督)を見ると、200年前のナポレオンの頃の戦争がどんなふうなものだったかがおよそわかるとともに、侵略という暴力的外交の行為が(攻める側の思考・欲望が単純な分だけ)無理や危険を伴うものだということを教えられる。ナポレオンでさえ敗れる、それは尤もなことわりだ。
(池田康)
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2022年03月05日

図書新聞3534号

図書新聞3534号(3月12日号)に、野村喜和夫・杉中昌樹著『パラタクシス詩学』(水声社)の書評を寄稿しました。ぜひご覧下さい。(池田康)
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2022年03月01日

『亡骸のクロニクル』が日本詩人クラブ新人賞に

二条千河詩集『亡骸のクロニクル』(洪水企画)が第32回日本詩人クラブ新人賞を受賞しました。おめでとうございます。


追記
当ブログのコメント欄は閉鎖いたしました。ここのところ悪質な書き込みが頻発しておりますので。あしからずご了承ください。
(池田康)
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2022年02月26日

ありえない悪夢の仮定の……

ウクライナで戦争が始まっている。超大国の絶対的権力者が魔王になったらどうなるかという〈ありえない悪夢の仮定〉のはずのことが現実に起こりつつあって、それを目撃することになるのだろうか。
ここ数日、ルキノ・ヴィスコンティ監督の「ルートヴィヒ」を見ていたが(ワーグナー関連作品。上映時間は4時間に及び、映画というよりもヴィスコンティがきわめて明確な夢物語を見ているというかんじ)、王と呼ばれる存在は、やろうと思えば放恣はいくらでも可能で、自身の精神、心を節度をもって平らかに英明に保つことがいかに難しいかを強く印象づけられる。私は謎だ、他人にとってだけでなく自分にとっても、とルートヴィヒ王(バイエルンの君主)は死の直前に独白する。
王侯でなくても、選挙によって地位についた長であっても、任期があまりにも長くなると、精神の健康・健全を損なうことなくすぐれた国政の船頭でいつづけるのは至難にちがいない。
(池田康)
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2022年02月13日

いろはのい、それ以前

身体運動の感覚は繊細微妙だ。最近、歩くのがなぜかしんどくなってきた、運動不足なのか、歳のせいかと悲観していたが、新しいぴったりサイズの靴を買って履いてみると、楽々と軽やかに歩けるので狐につままれた思いだった。どうやら長く使ってきたボロ靴がよくなかったようだ。ほんのわずかの条件の違いにすぎないようにも思えるのだが、まことに不思議。
冬季オリンピックが開催されていて、フィギュアスケートもなんとなく見るのだが、ジャンプが飛べるかどうかがどうしても注目されるが、ジャンプ以外のスケーティングが散文的な人よりも音楽性豊かに滑ってくれる人の方が見ている側としてはありがたく嬉しい。バレエダンサーはただ歩くだけでも美しく歩く。いろはの「い」の部分が花崗岩のように堅固に揺ぎなく、艶やかなまでに訓練されている演技者の所作はなにげない一瞬にもはっとさせられることがある。スポーツ競技としては、いろはにほへとの更に先で競うのだろうけど。
先日城戸朱理さんからいただいた「甕星」6号というとても立派なつくりの雑誌は、版元の表記も値段もなくて戸惑うが、平井倫行氏という美学・芸術学の研究者の方が編集しており、この6号は「舞踏」を特集していて(これに城戸さんが大きく関わっている)、笠井叡、麿赤兒といった舞踏家の人々の言葉、思想、方法論を紹介している。舞踏を実践する人達は総じて非常に独特に深く考えるというイメージがあるが、この特集を読むとそれが具体性をもって確認できる。「死体の生に到達したい」「死刑囚として歩行したい」という笠井叡の言葉、「ウイルスに侵されていくこと、それ自体が作品であり、そういうところへどうやって肉迫できるか」という麿赤兒の言葉、さらには土方巽の「私はいつも踊っていますよ」という境地、それらはいろは以前の根源の覚悟を発しているような気がして心打たれる。幽玄とは、いろはの先の工夫ではなく、いろは以前の心組みを磨くことだろう。未来をになう若い世代の舞踏家たちも紹介されていて、特集に広がりが出ていた。なお、「舞踏」という呼称は、必ずしも当事者たちの共通認識として積極的にかかげられているものではないようだ。
最後に。
マリス・ヤンソンス指揮のベルリン・フィルの2001年イスタンブール公演のDVDを中古で見つけて入手し、聴いていたら、付録としてイスタンブールの名所旧跡や文化的特色を紹介する映像が入っていて、見てみると、故新倉俊一氏が詩集『ビザンチュームへの旅』で詩行に書き入れていた聖堂ハギア・ソフィアも出てきてその偉容に感銘を受けた。イスラム教の僧のくるくる回転する舞踊もすこしだが映り(スーフィーと呼ばれるものだろうか)、この旋回の舞で僧侶たちは恍惚を体験するのだと説明されていた。フィギュアスケーターは片足を90度または180度上げながら急速旋回(スピン)するとき、どんな異様な感覚を味わっているのだろうか?
(池田康)
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2022年02月05日

立春のよしなしごと

わが家にはいま、植物の鉢植えが二つある。5年ほど前から同居しているガジュマルの木と、昨年末にある方から頂いたシクラメンの鉢だ。ガジュマルは最初は掌よりも小さいサイズだったが今は地面から40センチほどの高さにまでなっている。よくぞここまで成長したと感慨を覚えるのだが、木の高さを計る単位はふつうメートルであるから、0.4メートルの木はまだまだ赤ん坊だろう。ここのところ、鉢の地面を苔の類がおおっていて、その緑が沁みるようで好ましい。小さな雑草も生えていて、うるさくなったら取り除くのだが不死身に復活してくる。ガジュマルは寒さに弱いそうなので冬は室内に置き日中だけ外に出す、その作業が手間だ。
シクラメンは12月中は豪奢に咲いていて、1月になると花が次々にしおれていき、もう一輪も残らずの状態になった、と思ったら、葉の下に小さな莟がいくつかまたまた開花しようとしていて、エンドレスの生命力を感じさせる。シクラメンは葉も力強い存在感がある。実も三つならせて、時間を凝固させている。
……この項は以上で話は尽きるのだが、ついでにもう一つ散歩時のエピソードを加えると、ときどき近所できれいな緑色の小鳥を見かけることがあり、おそらくメジロではないか、いつもは木の枝など高所に見かけるのだが、昨日は地面でなにかをついばんでいるところを見つけ、こんな見おろすような角度で見られるのかと驚いたら、向うもハッとしたのか逃げていった。節分の豆でも落ちていたのだろうか。メジロの小さな口は大豆を食べられるのかどうか、一粒のみ込んだら相当満腹するだろう、小鳥の胃袋のささやかさ加減を寸時想像した。
(池田康)
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2022年01月20日

大寒のおぼえがき

忘れないうちに最初に書いておくが、宇佐美孝二著『黒部節子という詩人』の第2刷ができ上がってきたので、興味のある方はぜひご注文いただきたい。
さて新年になって詩歌関係では、吉増剛造著『詩とは何か』(講談社現代新書)、三木卓著『若き詩人たちの青春』(河出文庫)の2冊をそれぞれ面白く読んだ。前者は2016年の『我が詩的自伝』の続編という位置づけで、大事に思う詩人たちを紹介しながら、詩という営為の本質を考える試み。ディラン・トマス、エミリー・ディキンソン、田村隆一、吉本隆明、吉岡実、フランツ・カフカ、パウル・ツェラン、石牟礼道子、黒田喜夫など、作品を挙げてかなり踏み込んで論じており、吉岡実の芸術至上主義の作品は嫌いとか、西脇順三郎はエロスの面で弱いとか、はっきりものを言っているところも実に興味深い。本の最後の部分に入っている、林浩平氏の質問による39のQ&A「実際に「詩」を書くときのこと」も、この神秘的な詩人の詩作の現場を開陳するとともに、本の前半で述べられた事柄をさらに深く追求していて重みがある。林さんのブログには次のように舞台裏が記されている。「今回も僕は制作のお手伝いをしました。全篇が話し言葉での語りによる展開、講談社の最上階のフロアの座談会用のスペースに座って担当編集者の山崎比呂志さんともども吉増さんのお話しを聴いた次第です。一回はだいたい二時間ほど、さあもう何度集まったことでしょうか。(中略)いったん体内化された言葉でもって、現代詩をめぐる言語哲学的な問題を具体的に語ったこの本、これは大きな収穫だと思います。」
『若き詩人たちの青春』の方は、昨年末から読んでいたのが最近読み終えたという形だが、著者が詩を志した若い頃に出会った詩人たちの姿が生き生きと活写されていて楽しく読めた。長谷川龍生、黒田喜夫、鮎川信夫、関根弘、堀川正美、谷川雁、木原孝一、清岡卓行、岩田宏……。戦後を代表する詩人たちであり、これを読めば戦後詩史のなまの風景を目の当たりにするような気になる。解説で小池昌代氏も「文学史を繙けば、当時のありようは、知識や情報として知ることはできる。だがその事実を生きることはかなわない。しかし本書は、あの時代の熱気、詩人たちの表情を、作品とともに伝えてくれる。読者はここに飛び込み、経験してみる他はない。/詩人たちは、人間臭さを存分に発揮しながら、詩を求めることにおいては極めて純粋だ。個を超えて、詩の未来を請け負って立とうという意気込みで、全身から湯気を立てている。」と書いている。当時の生活のありようがどうだったかも切々と伝わってくる。もともと単行本として2002年に出た本。
さてそれから、イギリスの作曲家、ヴォーン・ウィリアムズ(1872-1958)の交響曲全集のCDBox(通常の新譜一枚分ほどの値段!)を入手して少しずつ聴いている。去年の暮れに昔MDに録音した交響曲5番と6番を聴き返して、おや?と興をそそられてのこと。この作曲家の存在をはじめて知ったのはたしか篠田一士の音楽エッセイを読んだときだったように覚えている。その本をとり出して確かめてみると、平穏無為と言われても仕方ないところもあるが、その交響曲については、「はっきり言えば、全九曲のシンフォニーをじっくり聴きこむことが、イギリス音楽の魅力を知るうえでも一番の早道ではないかと思う。つまり、エルガーから始まる近代イギリス音楽を支配する、もっとも根源的なものはシンフォニーによる音楽思考で……(後略)」とも書いている(「平穏無為の音楽のために」「いささか途方に暮れるけれど……」=『音楽に誘われて』所収)。私としては1番はパスしたい気もするが、2番以降はゆっくり繰り返し聴けそう。ヴォーン・ウィリアムズには活発に劇的に動く曲もあるのだが、目的地なき逍遥、音楽的瞑想ともいうべき、穏やかで優しげな曲の方がいかにもこの作曲家を聴いているという感じになるのは妙なものだ。小品では、「タリスの主題による幻想曲」「揚雲雀」など、聴き甲斐がある。付属の解説冊子によると、彼はモーリス・ラヴェルに師事したが、ラヴェルは彼のことを「私(Ravel)の音楽を書かなかった唯一の生徒」と称したそうだ。
最後に、いただいたばかりのお知らせ。南原充士さんが新しい詩集『滅相』をアマゾンのkindle版で刊行したとのこと(343円)。下記よりご確認下さい。
https://www.amazon.co.jp/gp/product/B09QMC28Q7/ref=dbs_a_def_rwt_bibl_vppi_i4
(池田康)
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2022年01月17日

愛敬浩一著『遠丸立もまた夢をみる』

遠丸立もまた夢をみる画像s.jpg〈詩人の遠征〉シリーズの12巻として、愛敬浩一さんの評論書『遠丸立もまた夢をみる ──失われた文芸評論のために』が刊行された。四六変形判小口折り、208頁、税込1980円。発行日は2月1日。
遠丸立(読み=とおまるりゅう)は1926年生まれの文芸評論家であり、『吉本隆明論』を最初期に刊行した一人で、詩も書く。「詩人としての林芙美子」の評価にも意欲的であった。同人誌『方向感覚』を主宰し、一般的な作家論や書評などとは一線を画す、自らのこだわりに従った批評活動を続け、2009年に没した。代表作に、『恐怖考』『無知とドストエフスキー』『永遠と不老不死』等々。本書は、遠丸立の批評を導きの糸として、文芸評論の可能性を探究する試みである。
著者の愛敬浩一氏は日本近現代の文芸評論に非常に詳しく、幅広く読み込んでいるが、若い頃から親しんだ遠丸立の評論の特色を、理論的で普遍的な思索へと向かい包括的なテーマの著作をあらわした点に認め、文芸評論家は多くいるがそうした方向に歩を進めた者は吉本隆明以外はほとんどいない、と語る。そして後半に展開される「恐怖」と「ユートピア」の対比が本書の思考の最高地点となると言えるように思う。その傍らでは、テレビドラマの話が出てきたり、遠丸立の詩作品が紹介されたり、広い視野で論が進められていて、論考の道のりの豊かさが感じられる。
あとがきで著者は、
「今、こうして書き終わって、この文章の中身に一番驚いているのは私自身である。
私は遠丸立に対して、これまでずっと、基本的には親しみの思いしか持っていなかった。ところが、久しぶりに彼の文章を系統的に読み返し、それを論評しているうちに、オマージュになるはずだった私の言葉が、いつの間にか鋭角的になり、しだいに非難じみたものになってしまった。」
と語っており、その通りで、遠丸立をひたすら崇拝する書にはなっていないのだが、同じ時代を懸命にやみくもに生きてきた、境遇も姿勢もちがう二人であるからには考えのズレは当然のことだろう。そこにかえって文芸評論という営みに対する愛敬浩一氏の真摯さが現れているように思われる。そして死よりも生のことを考えなければならないというその言葉には並々ならぬ重みを感じる。
(池田康)
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2022年01月12日

オペラ「アクナーテン」

フィリップ・グラスのオペラ「アクナーテン」をメトロポリタン歌劇場ライブビューイングで見た。現代音楽にこのような壮麗なシーンがあるとは(あったとは)、と驚く。ミニマル音楽の巨匠と承知はしていたが、シンプルな音型の反復というその原始的な手法で3時間のオペラの巨大な果実をみごとに実らせたのは作曲家の並外れた構想力の賜であろう。ミニマル音楽の可能性の射程がここまでカバーしていたのは意想外なことだった。ヨーロッパの音楽界ではミニマル音楽の作曲家は野人扱いされているという話を聞いたことがあったように覚えているが、こんな作品が現れたら認めざるを得ないだろう。「現れた」──この過去形には浅からぬ含意があり、つまり私が見たのは今年に入ってからだが、実際の上演は3年前に行われており、さらに作曲は1980年代というはるか昔のこと。このズレにたじろぐ(この文章の立て方がおぼつかなくなる)。だから「新作が現れた」というのとは違っているのだが、このメトロポリタン歌劇場の3年前のプロダクションは相当話題になったということだから、再演と言ってもよく知られた作品を装い新たにまた上演するという程度の目新しさではない、より重い意味合いがあるのも事実らしい。出演した歌手たちは各シーンを作る音楽の細かいはてしない波に呑み込まれて恍惚、トランス状態になると語る。その通り、マジカルであり、音楽の原始の神秘にひたされるような感じだ。登場人物たちの極度にのろい動作、何語とも分らない古代言語の意味不明のひびき、音符の図像化として多用されるジャグリング遊戯といった舞台を作る主要素も、儀式性を強め、このステージを光り輝く大壁画として屹立させるのに寄与している。オーケストラはヴァイオリンパートを省いているのだそうで、その点も異例な特色と言えるだろう。
物語の内容は、紀元前14世紀のエジプト王アクナーテン(アメンホテプ4世)が従来の多神教を廃して太陽神のみを崇める一神教を制定した事蹟を追う。カズオ・イシグロの小説「クララとお日さま」(最近読んだ)も少女ロボが太陽信仰のごときものを抱く話だったが、絶対神として太陽を観ずることは、宇宙物理学的に定義された恒星という物質的存在として太陽を認識している知性には、きわめて難しい。はるか未来のAI人形にとっても、三千年前のエジプト人にとっても、太陽は神秘そのものなのであり、ポエジーの夢幻空域を過ってクララからアクナーテンへと細い光の道が走る。舞台上でバケモノのように七変化し百変化する太陽のイメージもその把捉しがたい夢幻性をよく表現している。指揮者カレン・カメンセックの語るところによると、ミニマル音楽の方法で作られたこの曲の演奏は数え間違いなど起こりやすく非常に難しいのだそうだ。嬉しいことに、それなりの長さの堂々とした前奏曲がついているので、試しにそこだけ聴くのも有意義かもしれない。
(池田康)
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2022年01月03日

みらいらん9号

みらいらん9画像S.jpg「みらいらん」9号が完成した。
今号の特集は「恐怖の陰翳」。2020年からのコロナウイルス跋扈、そして野村喜和夫さんの対話シリーズの候補の一つとして広瀬大志さんとの恐怖対談が挙がったこと、さらに表紙を飾るオブジェに今回國峰照子さんの「悪夢」をもちいる予定だったので、これらから総合して、ほぼ必然的に「恐怖」という特集テーマになった。「陰翳」とつけたのは、はっきりした恐怖だけでなく、その予兆や可能性、潜勢態をも視野に入れたいという考えからである。野村・広瀬対談「恐怖と愉楽の回転扉」(広瀬さんがとても張り切って語って下さった)を軸として、エッセイや詩を神山睦美、望月苑巳、生野毅、瀬崎祐、田中庸介、愛敬浩一、山田兼士、細田傳造、八覚正大、添田馨、田中健太郎、北川朱実、浜江順子、菅井敏文、今井好子の諸氏に寄稿していただいた。さらに海埜今日子さんの連載掌編も恐怖のテーマにあたると思われたので特集の枠の中に入れた。記事の隙間には「恐怖十七景」と称して小説や詩作品などから恐怖シーンを引用した。
巻頭詩は中本道代、宇佐美孝二、高田真、二条千河、高橋馨のみなさん。短歌は、山川純子さん、そして蝦名泰洋さんの遺作。和合亮一さんの連載詩は今号が最後となる。
新倉俊一先生の追悼としては、八木幹夫さんの追悼詩「フェト・シャンペエトル」のほか、詩集『ビザンチュームへの旅』の書評を宮沢肇さんが執筆して下さっている。
なお、この号から美術コラム頁の担当が宇田川靖二さんから柏木麻里さんに替わった。
ぜひご覧いただきたい。
(池田康)
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2022年01月01日

2022年元旦

新春のおよろこびを申し上げます。
快晴の元旦、近所の小さな山(湘南平)へ登り、海と山を眺めた。毎年やっていることながら、この2年はこもりがちの日々で運動不足の気味があり、予想通り非常にくたびれた。山頂で見はるかしての一つの発見は、山も青いということ。海や山が青いのは当然のことだが、遠くの山の影も青い。富士山も雪をかぶっていない部分は青い。青・青・青。そのことに気づいた朝だった。
本日届いた、中原秀雪さん主宰の詩誌「アルケー」に、宇佐美孝二著『黒部節子という詩人』(洪水企画)についての同人諸氏の感想エッセイを集めたものが挟みこまれていた(「アルケー通信」25号)。宇佐美氏も同人のようだからこうした手厚い特集風の編集がなされたのだろうが、詩人仲間の仕事に対するここまで念入りの好意はなかなか実現できることではないように思う。宇佐美氏のエッセイ「『黒部節子という詩人』出版前後」には、「反響は思った以上に好意的で、あちこちに“隠れ黒部ファン”がいたことに改めて確信を深めた。」とある。私の近辺でもNさんが黒部節子という詩人は前から知っているので是非読みたいと注文して下さった。何色の糸か知らないが、見えないところでつながっている文業の不思議。
前に、注文したCDが届かないと嘆いたあのCDが、問合せをしてみた結果、今日届いた。これを正月に聴けてありがたい。
(池田康)
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2021年12月28日

のんびりしたはなし

「みらいらん」9号が完成した。この号については新年になってから改めて紹介するつもりだが、ともかくもゴールまで辿り着けてほっとしている。半年に一冊のゆったりとしたペースだが編集終盤の11月下旬から12月上旬にかけては非常に気ぜわしかった。その反動で今はやたらのんびりした気分になっている。雑誌の発送作業も基本のんびりやるのがコツで、必要以上に急がなければストレスにならず疲れない。
さて、二週間以上前に注文したCDがまだ届かないのだが……、ひょっとして海外から取り寄せている? インターネットでどんなことも瞬時に解決するこの時代でもモノのやりとりとなるとときにえらく時間がかかる。二週間を経ても届かないというのは全くのんびりした話で、このまま永久に届かないままなのではないかと疑い始めている。
小田和正が主催する祝祭コンサート「クリスマスの約束」(テレビで24日深夜に放映)を録画して2度視聴した。一年かけて準備するゆったりとしたリズムの企画なのだが、よく考えられ練られていて中身が濃く、桂冠シェフによるコース料理のよう。こうした音楽番組を2度通して見るというのは珍しいことで、師走は大型の音楽番組がいくつもあるが、かように上等なコース料理になっている番組はほかにないだろう。奏される音楽に慈しみがこもっている。ことに終盤の数曲に心打たれた。
夏に刊行した宇佐美孝二著『黒部節子という詩人』(シリーズ詩人の遠征11巻)も、著者の宇佐美さんが2003年から同人誌で発表し始めた論考をまとめたもので、18年間の積み重ねという長い時間があってはじめて生まれうるものだ。予想外の反響があり、在庫切れとなってご迷惑をおかけしたが、年明けには増刷ができてくるはずなので、ぜひご注文いただきたい。なお、昨日の公明新聞紙上で、小池昌代さんが本書を「2021年 私の3冊」に選んで下さった。こちらもぜひご覧下さい。
(池田康)
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2021年12月17日

虚の筏28号

虚の筏28号が完成しました。
下記のリンクよりご覧下さい。


今回の参加は、平井達也、神泉薫、久野雅幸、たなかあきみつ、小島きみ子、生野毅の皆さんと、小生です。
(池田康)


追記
下記の一篇は今号の画像を見ていて浮かんできた詩想のスケッチです。

傘の下には静かさがある
余計なことをしゃべらない安らぎ
なにも考えなくていい放下がある
天から降ってくるものを受け止め
そしてやさしく落とす──
それは宗教行為だろうか
傘の下
ひらかれつつ閉じる
小さな空間の秩序
の歩行
と静止
傘が美しいのは
柄を握る手に
天のかたことを伝えるから
地上の命の慄えを
見えない天にうったえるから

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2021年12月10日

英語のお勉強?

ラジオを聞いているとたまに英会話教室のCMが流れる。そういえば自分も若いころ一時期英会話教室に通ったことがあったなあと思い出す。中学・高校で勉強する英語と、英会話教室で出会う英語とは不思議に手触り肌触りが違ったものだ。あの微妙だが決定的な違いはなんだったのか。
最近、メトロポリタン歌劇場のライブビューイング(オペラ上演を収録した映像作品)をよく視聴するのだが、オペラ作品そのものの華のほかに、幕間で歌手や演出家、指揮者、その他のスタッフがインタビューを受けて話すのも興味深く、もちろん英語でのやりとりで、文化芸術の創造についてどのような表現で説明し、賞讃し、批評するのか、具体的な言い回しを実地に学ぶこともでき、生彩があって楽しい。字幕が逐語訳にはなっていない、そのズレもなるほどと思う。
そういえば今のNHKの朝ドラは、ラジオ英語講座の物語だそうで(まったく見ていないが…)、話の作り方によっては深刻なテーマとその掘り下げになりそうな気もする。それでわれわれの英語に対する苦手意識がいくらかでも克服できるとは思えないけれど。
文学ではまだまだ母国語が主流だが、流行歌では(こんなに英語が苦手な国なのに)英語表現を取り入れることが非常に多く、一時期さかんに話題になった(今でももちろん有効だろう)ポストコロニアルとかクレオール文学の問題、その苦楽を、われわれも、1/3か1/4か、あるいは1/10か1/100かわからないが、実は知っている、くぐっているのだと言えなくもない。あわれな劣等生として。
蛇足のおまけに。近所のマクドナルドハンバーガーがいま建替え中で、今日工事現場の傍らを通ったら、黄色い巨大な「M」の看板を巨大なクレーンで持ち上げようとしていた。クレーンの腕がまっすぐ高く伸び、青空にそびえていた。
(池田康)
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2021年12月01日

四人組とその仲間たち2021コンサート

昨夜、上野の東京文化会館小ホールで「四人組とその仲間たち2021」コンサートを聴いた。全音楽譜主催。
1曲目、金子仁美「H2O ―3Dモデルによる音楽VIII―」(vn.甲斐史子、pf.大須賀かおり)。水の分子構造を素材として作曲したとのこと。両楽器が高音でとても細かく動く部分、そして低音で大きな音塊を切り出す部分、どちらも音楽にするのが難しそう。演奏者はおぼつかなさを覚えながら演奏に臨んでいたのではと推察する。しかし力を込めてうたうような部分も終盤にあり、そこは熱いものが押し寄せてきた。
2曲目、西村朗「極光」(トランペット 菊本和昭、pf.新居由佳梨)。オーロラ(太陽風の残光)をめぐる幻想曲。こちらは楽譜通りにちゃんと弾けば間違いなく音楽になる曲。ただ、ピアノはともかく、トランペットは名手が必要とされそうだ(今回の演奏は申し分ない)。名手であればあるほど曲は輝くだろう。トランペットが非常に低い音域に行ったときホルンのような音色をひびかせるのは、普段なかなか目にできない相貌で、新鮮だった。
さて、この二曲を比べるに、金子氏が、この構築で音楽は離陸するだろうかと実験的に挑戦する学究派なのに対し、西村氏は音楽は飛んでなんぼだと確信犯的に佳曲を書いているようにみえる。これは西村氏が創造の可能性を見切れる円熟に達しているということに加え、全音楽譜主催というコンサートの性格上、演奏家や聴衆に喜ばれ何回も繰り返し演奏される曲が生まれることが望ましいという事情によるところもあるに違いない。トランペッターにとっては嬉しい一曲だろう。
3曲目、鷹羽弘晃「ガンマ・コレクション」(マンドリン 望月豪、ギター 山田岳)。デジタル映像の明暗補正技術から着想したとのこと。ミニマル音楽風の、比較的単純な音型で、さほどの強弱の変化もなく、一定のテンポ&リズムを刻み続ける曲。作品を成立させるためには、厳密に正確な進行が必要で、ギターとマンドリンという撥弦楽器では乱れが生じるとすぐにわかり相当大変だろう。六人とか十人とかのグループでガムランのように勢いをつけてのりのりの忘我状態で演奏するのがよいようにも思うが、それでは作曲者の意図とずれることになるのかもしれない。私にとっては懐かしい楽器たちで、その分楽しく聴けた。
4曲目、新実徳英「ソムニウム」(クラリネット 板倉康明、pf.中川俊郎)。夢(somnium)の狂気、不条理をイメージした曲。クラリネットが意識主体の有頂天、沈潜、彷徨、逡巡 etc.を表すとしたら、ピアノは夢に出てくるさまざまな奇怪な風景、シーンを表すと言えるだろうか? 両者の間のぎこちない対話のような部分も出てきて、そこが狂気や不条理の棲息するエリアをなすのかもしれない。悪夢か、いい夢かというと、そんなに悪くはなさそうだ。詩であれば、今の時代の集合無意識ならぬ集合夢的なものを作るとしたら、不気味で陰鬱な作品が出てきそうだが、音楽は強く逞しい、ということなのかもしれない、驚かされもするが気持ちよく聴ける夢だった。
5曲目、池辺晋一郎「バイヴァランスXVI」(ファゴット 長哲也・福士マリ子)。同じ楽器のデュオのシリーズ第16番。異なる性格の5章から成るので概括しにくいが、4・5章の旋律が出てくる場面も楽しく聴けるが一番興味深く思ったのは1章だった。ファゴットは曲面をつくる。一音一音区切って弾いていた2章ではそんなことはなかったが、1章では区切らず連続して違う音を行き来していたのでファゴットの音が曲線、曲面を生み出していた。ピアノでドレミレドレミレ……と弾けば階段状の形になるが同じことをファゴットでやると聴覚上のかんじでは段差のまったくない滑らかな曲線、曲面になるようなのだ。二本のファゴットが生み出す音の曲面空間の妖しくはてしない変幻変容を化かされたように聴き入っていた。
(池田康)
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2021年11月11日

今日の毎日新聞夕刊に……

今日の毎日新聞夕刊文化欄のコラム「詩歌の森へ」にて、秋元千惠子作品集『生かされて 風花』が紹介された。「上田三四二の抒情性と玉城徹の批評性を兼ね備えた短歌、評論、小説などを記録する一巻は貴重だ。」評者は、酒井佐忠氏。ぜひご覧下さい。
(池田康)
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2021年11月04日

『亡骸のクロニクル』が北海道新聞文学賞詩部門佳作に

二条千河詩集『亡骸のクロニクル』(洪水企画)が第55回北海道新聞文学賞・詩部門の佳作に選出され、今日の紙面に発表された。選考委員は、阿部嘉昭、工藤正廣、松尾真由美の三氏。今回本賞は該当無しだったようだ。以上、速報として。
(池田康)
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2021年10月30日

「詩素」11号

詩素11002.jpg「詩素」11号が完成した。今回の参加者は、海埜今日子、大仗真昼、大橋英人、小島きみ子、酒見直子、沢聖子、菅井敏文、大家正志、高田真、たなかあきみつ、七まどか、南原充士、新延拳、二条千河、野田新五、八覚正大、平井達也、平野晴子、南川優子、八重洋一郎、山中真知子、山本萠、吉田義昭のみなさんと小生。
巻頭トップは、酒見直子さんの「種」。これは、雑誌完成後の酒見さんからのメールでの裏話によれば、菊田守さんとの思い出をベースに書いたとのことだ。
そのほかに、野田新五・新延拳の両氏の作品が巻頭に入っている。
〈まれびと〉コーナーは山田隆昭さんをお招きした。
また、南原充士さんの企画で、詩の推敲についての、谷川俊太郎さんへの書簡インタビューを掲載している。
表紙は、11号から第二ラウンドということで色調をあらため、外国詩の詩句を載せることにして、今号はイエイツの「He wishes for the Cloths of Heaven」より引用している。
まだ残部ありますのでご注文下さい(500円)。
(池田康)
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