2017年12月29日

音楽の演算ポップス編

前項で篠田昌伸作曲「この世の果ての代数学」(詩・野村喜和夫)のことを書いたが、音楽と算術といえば、イギリスの若手の大人気ポップスター、エド・シーラン(Ed Sheeran)だ。これまで3枚出しているアルバムのタイトルがそれぞれ『+(プラス)』、『×(マルティプライ)』、『÷(ディバイド)』となっている。どういう意図でこう命名したのかよくわからないが(タイトル曲があってその歌詞が種明かしになっているわけではない)、おそらく音楽家として一段階ずつステップアップし新たな世界を拓いていきたいという願いが込められているのだろう。このシンガーを聴いた第一印象としては、親しい友人がプライベートな空間でうたって聴かせてくれているような親近感、ソフトな軽やかさ、陽気と淋しさの混在、言葉を操るときの才気あふれる歯切れよさ、といったことが言えそうだ。
第一アルバム『+』冒頭の「The A Team」は出世作ということだが、ヘロイン中毒の娼婦を歌ったという歌詞にどれだけ共感を覚えられるかおぼつかないけれど、最後の「It's too cold outside for angels to fly」というフレーズは、たしかに人間の社会は天使も凍えてしまうほどの寒冷な面があるかもしれないと考えさせられ、心に刻まれる。
ノーマルな歌い方で恋愛の甘さ苦さをうたった曲も多いが、ラップも多用しており、その場合はやけに細かい局面を語る言葉の厖大さが押し寄せてくる。ラップというとラッパーなる変わった種族のミュージシャンが演ずる奇態な音楽スタイルという受け取り方をしていたが、それを常に身の回りにあるものとして自然に聴いて育ってきた世代にとってはなんの抵抗もなく受容獲得できる技なのだろう、エド・シーランが操るラップは水のように自然で疾走感がある。かつて異端と見られたロック音楽がだんだん浸透し、たとえば歌謡界の真中にいるはずの山口百恵でさえロックチューンをうたったように、ラップもいつの間にか自然に大衆音楽のメインストリームに入ってきたのだろうか。
3枚のアルバムの中でもっとも手応えを感じるのはやはり最新の『÷』で、力強さが増しているように思われる。ヒットしたという「Shape of You」はこの歌詞が英米人にどう受け取られるのか今ひとつわからない点もあるがたしかに音楽は個性的なチャームがある。わが愚耳の快感ポイントをもっとも刺戟するのは「Barcelona」で、英国人がよくこのような南国的情熱を帯びた音楽を作れるものよと驚く。この曲に続く「Bibia Be Ye Ye」、「Nancy Mulligan」も、world musicにあるようなアフリカ風味、あるいはアイリッシュ音楽やロマ音楽の香りも感じられ、楽しく聴ける。この3曲の並びはうれしい。『×』では「Sing」の曲調の面白さ、そして「I See Fire」の黙示録的詞世界が注目される。
4枚目以降のアルバムはどんなタイトルになるのだろうか。電卓のキーで考えるなら「−」や「=」が残っているが、ルート計算も音楽のルーツを辿る試みにふさわしいかもしれない。「M」のキーは使ったことがなくて、どうやって使うのかわかならいのだが、「メモリーキー」はどうしても思い出せないことを呼び出すには格好かもしれない。日本語では「鼠算」とか「鶴亀算」とかもあるよと教えてあげてほしく、いつか彼のアルバムのタイトルが「Tsuru-Kame」になる日を楽しみにしたい。
(池田康)
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2017年12月25日

狙う姿に耳を澄ます

昨夜、虎ノ門のJTアートホールアフィニスにて女声合唱団暁の第10回演奏会を聴いた。篠田昌伸作曲「この世の果ての代数学」(詩・野村喜和夫)初演を聴くため。女声合唱団用の詩をいろいろ探した結果これに辿り着いたと篠田氏が語るこの作品のテキストは女性的要素を足し算とか掛け算とか割り算とかいろんな演算にかけながら奇妙な宇宙論を語る異様なもので、これを選ぶ時点でこの作曲家の思考法の特異さが表れている。prelude/arabesque/canon/song/arabesque2/rhapsody/epilogueの7曲からなる組曲で、可笑しさとおっかなさ、ユーモアと宗教的畏怖の感覚が入り交じった、独特のクール&クレージーさを帯びた音楽。作曲家がなにか新奇な形を狙っている姿を強くかじることができ、打たれた。野村さんと篠田さんの対談(+ゲストに四元康祐さん)が近くできあがる新雑誌「みらいらん」に載りますのでご期待下さい。
プログラムの他の曲は、新美桂子「何んでも無い」(委嘱新作・初演。テキスト=夢野久作「少女地獄」。前半のおしゃべりの雰囲気をもった部分と、後半の聖歌のような部分とをつなげた奇抜な構成)、近藤譲「女声合唱のための歌二篇」(2013。テキスト=蒲原有明「偶感」「朱のまだら」。頭のほうの音程の運び方が衝撃的に新鮮)、横島浩「目覚めU」(委嘱新作・初演。テキスト=太宰治「女生徒」。和音の抽象画を観るよう)、山本裕之「失われたテキストを求めてW」(委嘱新作・初演。テキストは奏者が選んではめ込んだ2種類のものとのこと。ズレと入れ子細工が作り出す突拍子もなさの音楽)。
暁はやっかいな曲ばかりをやるツワモノ合唱団だ。いつも今回のようにピアノ伴奏なしでアカペラでうたうのだろうか。指揮者は西川竜太、泰然とした姿勢を崩さないこの人も風変わりに頼もしい難曲マニアだ。
(池田康)
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2017年12月22日

オリエント急行の探偵

探偵が活躍する舞台も浅草の巷なら安上がりだが、イスタンブールからパリに向かうオリエント急行の中となると贅沢きわまりない。アガサ・クリスティの著名な作品のこと。ミステリーに鉄道はよく使われるが、事件のメインステージにするのは思い切った発明だ。今公開中の映画「オリエント急行殺人事件」(ケネス・ブラナー監督)は、作るのに製作費がいくらかかるのだろうとため息が出るくらい大掛かりに作り込んでいて、単にバーチャルな鉄道ツアーとしても夢見心地の時間で、風景が広がるところを汽車が走る場面など、フィルムメーキングの手品的技術を活用しているようだが、素直に爽快。
この蒸気機関車はどういうものなのだろう。デフレクター(除煙板)の形が特徴的で、前照灯が三つもある。映画のパンフレットに書いてないので映画の公式サイトを見たら「スイスに現存する唯一の484列車」をモデルにしたとあった。484とはなに? 日本語でネット検索をかけてもよくわからないので英語でsteam locomotive 484で調べると、アメリカを始めとしてすべての大陸(南極を除く)の様々な地域の機関車があがってくる。そうか、これは車輪の数のことだと見当がつく。機関車前方を支える先輪が4(つまり2軸)、蒸気機関の力を伝える動輪が8(つまり4軸)、後方を支える従輪が4(つまり2軸)。日本式に言えば2D2の型だ。これは相当巨大で、日本にはこんな大きな機関車はないのではないか。C62でも2C2(464)だ。別のキーワードで検索したら、この映画で使われているのはスイスの241-A-65という型のSLという情報を見つけた。この「241」は車軸数を表すのだろう。先輪2軸、動輪4軸は合っているが、従輪1軸はくいちがう。このスイスSLをモデルにしたのならおそらく484という記述のほうが間違っているのだろうが、もう一度映画を見て確認したいところ。
1974年版「オリエント急行殺人事件」(シドニー・ルメット監督)は、フランスの230G-353という蒸気機関車を使っている(これもランプ三つ。ヨーロッパの標準型なのだろうか。日本のSLは一つ目が多い)。この「230」も車軸数を表していて、先輪2軸、動輪3軸、従輪なしの型だ。241より一回り小さいということだろう。
機関車も本作の重要な「登場人物」なのだから、プログラムには簡単にでも書いておいてほしいもの。そうすれば鉄道ファンも大いに喜ぶだろう。鉄道ファンを自称するほどのマニアではない私ごときもどの国のどういう型のSLかぐらいは知りたいと思うのだから。
話の中身のことも書いておかないと。ここでのエルキュール・ポアロは探偵業の基軸が揺らぐ重大な時空を経験する。「善と悪の天秤」が見失われそうになる特殊なケースとの遭遇であり、しかも世界から隔絶した、雪に埋もれ立ち往生した汽車の中で、犯人との距離が文字通りゼロとなり、真実に近づくほどに命の危機のレッドゾーンに入っていかねばならなくなる。ミステリーの枠自体が揺れ動くこの例外的状況が本作品の訴求力の核心となるのだろう。
多彩な国の人が集り、人種差別の話題も頻繁に出て、国際性も重要なモチーフになっている。今話題のエルサレムから始まり、英国人将校が指弾され、アメリカ人の悪漢が因果応報を受けるのは、アングロサクソンの自己批判の意識も若干はあると読んでいいのだろうか。
一つ無い物ねだりを言えば、もう30分長いとよかったかなということ。通常は短いのが有難い、2時間を超えると耐えるのが困難に感じるが、今回はなぜかもう少し長く汽車に乗っていたい気がした。主要登場人物が十人を超えるので一人一人の言動・表情を眺める時間がもっとふんだんにあるといいということだろうか。1974年版も2時間を少し超えるくらいなのだが。
鉄道ファンは必見。ミステリーファンも必見(この独参湯的作品の優れた「独創的解釈の映画=劇=上演」を見ておかねば)。1930年代の西洋社会に興味ある人も、ケネス・ブラナーのファンも。
(池田康)
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2017年12月20日

浅草の探偵

近ごろ、2014年のテレビドラマ「リバースエッジ大川端探偵社」を見ていた(DVDを借りて)。主演は村木探偵役のオダギリジョーだろうが、同じくらいの重要さで石橋蓮司演ずる所長が活躍する。昭和の小劇場黄金期の歴史にも名前が刻まれる、伝説中の人というイメージの強いこの俳優をたっぷり見られる作品。脇役では数多くの映画やドラマに出ているのだろうが、ここまで主役級の出演は貴重だろう。出自を知っていると魂の魔界を背負っているかのようにも錯覚される。腰の座った江戸っ子弁も愉しい。かわいそうな男たちの案件が多いのは監督(大根仁)の志向か、それとも世の中はそうしたものなのか。殺伐とした事件が描かれがちな探偵物や刑事物には派手なアクションシーンがつきものだが、浅草界隈の探偵は肉体的にはいたって非力らしく、そこもずっこけていて、面白くじんわりとくる。
(池田康)
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2017年12月11日

河原修吾詩集『のれん』

kawaharanoren.jpg河原修吾さんの詩集『のれん』が洪水企画から出た。A5判80頁、本体1800円+税。強烈なカバーの絵はお孫さんが描いたもの。
まず、丸ゴシックで本文を組みたいという打合せ時の希望に面食らったのに始まり、こちらの既成概念を外れるところが相当にあって刺戟的だった。「一筋縄ではいかない」という表現があるが、河原さんの詩はまさにそういう面が多く、しらばくれるというか、この詩は本当のところ何が言いたいのだろうかとテキストと睨み合うことが度々だ。たとえば「洪水」という短い詩は

 花にホースで水をやる
 鉢の近くにあった蟻の穴にも
 水をやった
 あわてて逃げまどう蟻で
 穴はパニックだ
 溺れる蟻 流されてゆく蟻
 草でもなんでも掴もうともがいている

の7行だが、この詩をもって詩人が何を語ろうとしているかを把捉するのは簡単ではない。エロスの企みがひそんでいる作品も幾篇か。帯文で村野保男氏はこう語る。「河原さんは天然のオプティミストである。「のれん」を読めばそれがわかる。また普段着のユーモリストであって「となりの奥さん」や「クリップ」などを読めばそれもわかる。「ランチ」や「蜥蜴」では氏が小声のレアリストであることがわかるし、「洪水」はタフなユマニストが日常のごく身近にいることを何気なく教えてくれる。」多面性をもった詩作をしているのはたしかだろう。しかし「あとがきに代えて」というサブタイトルのついた「楽曲」は素直に読め感銘を受ける作品だ。

 タクトが振られた
 ゆっくりと地平線を引いて
 天と地を分けた
 天に音が立ち上がる
 地に語頭が流れ出る
  (中略)
 ぶつかりながら
 傷つきながら押し合いながら
 黎明を背負って
 泳ぐように競うように
 世界が沈み世界が生まれる
 ぼくはぼくの心音より
 一オクターブ高い神話に向かって
 突き進む

(池田康)
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2017年12月09日

天翔る楽器たち

昨夜、東京文化会館小ホールで「四人組とその仲間たち室内楽コンサート 調和の原点U ─単色と双色の狭間で─」を聴いた。全曲世界初演。プログラム順に記録を留めると、
1.池辺晋一郎「バイヴァランス XIII 2本のフルートのために」(fl)小泉浩&織田なおみ。オーケストラの中に入ったり室内楽で他の楽器と一緒のときのフルートはどこか窮屈そうだが、今作では足枷から逃れてのびのびと奔放に天翔っていた。妖しさも豊富。
2.金子仁美「歌をうたい…(II)リコーダーのための」(rec)鈴木俊哉。この作曲家は求道者でいつもとてもきびしい。ハードボイルド、ハードロックの「ハード」。鋭い音の棘をたくさん身につけた小動物のイメージ。しかし解説には聖書の詩篇をベースにしたと書かれており、恐縮。
3.酒井健治「エーテル幻想 ギターソロのための」(gtr)鈴木大介。狙いを今ひとつ掴みきれないところがあったが(演奏のオーラの喚起を求めて、と解説にはある)ギターの響きには酔った。とくに低音弦を鳴らすときや全弦をかきならすときなど、魅力的。ここまでが前半。
4.西村朗「無伴奏ヴィオラ・ソナタ第3番〈キメラ〉」(va)伊藤美香。苦虫を噛みつぶした表情から朗々と高唱するところまで、この楽器の可能性の最大限が示される。とくに重音を奏するときの迫力は空間がねじ曲げられるよう。ヴァイオリンのヒステリックな感じはないが、無意識の鬱の気配を秘めた楽器。
5.新実徳英「ピアノのためのエチュード ─神々への問い─ 第3巻 A.E.69」(pf)若林顕。このピアニストの打鍵の強さが、これがピアノだろうかと驚くような輝かしさを生み出す。“スーパーピアノ”がステージ上に出現した。新実さんの近年の作品は古典的論理性を感じさせるものも多い記憶があったが、この作品はパッショネートな音のうねりや爆発の面がより強く出ているように思われた。若林氏の演奏の絢爛さ豊麗さに客席は問答無用に圧倒された観があった。個人的には「エチュード」という曲名でイメージされるストイックさとちょっとずれるような気もしたのだが...新実さんによれば、音楽の歴史においてピアノ曲のエチュードという種目は決してストイックなものではないとのこと。創造の新しい形を目指す“挑戦”の意味でのエチュードなのだろう。
(池田康)
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2017年11月24日

2017年11月22日

清原啓子展など

ここ数日の催しや出来事の見聞録。
作曲家の新実徳英さんの古稀の祝賀会が早稲田のトーキョーコンサーツラボで開かれ、参加。大盛会。『合唱っていいな!』(燈台ライブラリ2)の制作にご協力いただいたすべての方(和合亮一さんを除いて)に会うことができたのはよかった。諸々の合唱団の団員たちの歌声を間近で聴く、指揮者に近い位置に立ち歌声の海に身を浸す至福。合唱指揮者は(団員が優秀なときは、という留保つきで)この世で最も祝福された職業かもしれない。
某所で行われた某句会に参加。わがヘボ句でかろうじて点が入ったのは「信州の手紙と思え林檎ジャム」と「満天の星の生る樹を見つけたり」。前者はKさんから林檎ジャムを送ってもらったことが種になっている。Kさん、毎朝トーストにつけて食べています、very goodです、ありがとう。後者の「満天の星」については、このブログの10月27日の項を参照下さい。
八王子市夢美術館で開催中の「清原啓子展」を観る。この二十年ほどわが草臥れた心魂にしぶとく憑いている版画家(1955-87)。はじめてこの人を知ったのは、久生十蘭の本のカバー絵だったか。展覧会のチラシには「短い生涯の中で残した作品は僅か30点」「精緻で神秘的、耽美的な銅版画」とある。その全貌が余すところなくこの展覧会で観られる。この種の幻想的版画としては圧倒的(“圧倒的”という強調の語をなんのためらいもなく使える)。エッチングの最終的作品はもちろん、その下絵となった鉛筆画もみごとで、並べて展示されているから興味深く見比べることができる。几帳面な字で書かれた制作ノートもガラスケースの中に見ることができ、この美術家の日々の創造作業の一歩一歩がうかがえ、熱く感じるものがある。ファンにとっては感無量の展覧会。出版物としては阿部出版から『清原啓子作品集』増補新版が出ている。
版画と言えば、神奈川県立近代美術館で先頃行われたマックス・クリンガー展も観た。1857年ライプチッヒ生まれ、1920年没。やはり物語的なものを含み持つ幻想性に強く惹かれた。展覧会のサブタイトルも「19世紀末の幻想世界」となっていて、夢の深さに酔わせるものがある。
(池田康)
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2017年11月19日

「リュミエール!」

「リュミエール!」はフランスのルイ&オーギュスト・リュミエール兄弟が19世紀から20世紀への端境期に自ら発明した〈シネマトグラフ〉で撮った1422本もの掌編映像作品から108本を選んで編集し90分にまとめたもの。当時は1本50秒しか撮れなかったので、短歌のような一口サイズの作品で、その限界が生み出す独特の味がある。消防馬車、蒸気機関車、子供曲芸団、水泳や登山、鉄球遊び、油田火災、カメラを動かしてのパノラマ撮影、大きな船の進水式、洗濯女、自転車、子供の表情、コメディ寸劇など題材は多岐にわたり、当時のフランスの生活風景がよくわかる。エジプト、メキシコ、ベトナム、中国や日本など世界各地に赴いての撮影も好奇心が動いていて面白い。ナレーションが構図の良さを力説していたがなるほどたしかにと納得する、絵心とエンタテイナー気質を具えた撮影者たちだ。ファインダーもなかったとのことで、それでこんなに上手に撮れるのかと驚く。サン=サーンスの音楽も柔らかくしなやかで、合理主義を眠りに誘うような曲線の蠱惑があり心地よい。映画の元祖の称号をめぐるエジソンとの確執もあったようだが(それをテーマにして笑いのめした一編もあった)、映画史の原点を確かめる驚異(百二十年前に初めて映画を目にした人々のそれに通じる)と意義深さはしかと感じられた。監督と編集はティエリー・フレモー(カンヌ国際映画祭のエラい人らしい)。
この映画は先日横浜のシネマ・ジャック&ベティで見たのだが、そこでそう言えばと思い出し、この映画館発行の映画雑誌『ジャックと豆の木』2号を購入した。前に作曲家の佐藤聰明さんがこの雑誌のインタビューを受けたと話しておられたその記事がこの号に載っていたので。映画作品のきらびやかな面よりも、映画館事情など、産業を成立させている日陰の部分にも目を向けているのが特色か、「映画と映画館の本」という副題もついている。現在4号まで出ているらしいが、この2号には佐藤さんのインタビューの他に、ATG映画特集(佐藤忠男×篠田正浩の対談ほか。さほど遠くない過去に制作費一千万円で歴史に残る名作映画を作っていた時代があったのだ!?)とか、杉野希妃インタビューとか、ドキュメンタリー映画についての座談会とか、横浜のミニシアターの紹介などなどの記事が載っている。カラーページもふんだんにある立派な作りで、多数掲載されている映画のポスター、ちらし、パンフレットの魅力が目を引く。
(池田康)
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2017年11月13日

音の劇場をさまよう ...gray sound storm...

この秋公開の「ブレードランナー2049」は劇場で観るのがよい。音楽・音響の凄まじさ、はるか遠くから包み込んで身体の全細胞を襲い酸性雨のようにグレーの音を染み込ませてくる猛威を体感するにはスクリーンの前に行くしかない。DVDでは無理だろう。この映画作品でなにが一番「仕事をしている」かというと、脚本や美術と並んで音楽・音響なのではないかとさえ思う。たしかに主人公Kは“悪い冗談”に弄ばれいくつもの試練をくぐるし、老デッカードは殴られたり爆発に吹き飛ばされたり水に沈んだりの憂き目をけなげに耐えているが、巨大な盤上の小さな駒のように見える。日常では味わえない音響の渦に飲み込まれる2時間40分は聴覚的にすごぶる濃く、大空間を構築する一種シアターピース的な音楽作品として「聴く」ことができるのではないか。SF小説やSF映画があるようにSF音楽というものもありうるのだろうか。最近は音で攻めてくる映画が多いような気もするのだが、音楽や音がここまでフィクションの天地をつくるなら、今後、ワーグナーのように、音楽家が主導的立場に立って映画作品を制作するということもあるのかもしれない。
(池田康)
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2017年11月08日

風土的アナキスト

このあいだNHKFMの土曜朝の番組(ピーター・バラカン/ウィークエンドサンシャイン)で、高知在住のブルースシンガーの藤島晃一が紹介されていて、その歌がかもす独特のアナーキーな気分に触れ、大家正志さんが「詩素」に発表している詩が帯びるアナーキーな感じとどこか通じているとふと思った。大家さんも高知だ。同じく高知出身の嶋岡晨さんの詩にも時折同じような虚とむつぶアナーキーさを味わうときがある。「高知アナーキズム」とでも言うべき風土的なアナーキー性が存在するのだろうか。もちろんアナーキーといっても特に政治的なそれではなく感受性レベルでのことだが。大家さんによれば故片岡文雄も藤島晃一を贔屓にしていたそうだ。
一ヶ月か二ヶ月前にNHKBSのフォークソング特集番組で沖縄の佐渡山豊の歌を聴くことができ、ロックバンド仕様の演奏だったが、今時の若者のバンドにはない剥き出しの気迫があり、荒々しい風を引き連れた、裸の精神の独立独歩を主張する力強いものだった。統一システムとしての国(とあえて無造作に言ってしまうが)の中心からはるか離れた地では人工的ではない天然のアナーキーな気風が生ずるのかもしれない。
魂の原郷は変なものによって占領されることなくアナーキー風が吹き荒んでいるのがあらまほしき様態なのだろうとも思う。
(この話の流れで言及していいのかどうかわからないが、木村充揮(憂歌団)もちょっと似たような雰囲気があり、何ヶ月か前にやはりNHKFMの番組(赤坂泰彦/ラジオマンジャック)の中でライブで歌を披露していたが腸に噛みつかれるような感じがした)
(池田康)
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2017年11月06日

三尾みつ子詩集『花式図』

mio-kasikizu.jpg三尾みつ子さんの詩集『花式図』が洪水企画から出た(1800円+税)。「花式図」とは花の構造を表すシンプルな線描の絵図で、紋様のような魅力もある。タイトル作は子供のころ生物の先生からそれを習ったという体験を語っている。ほかに、家族の詩、友人や恩師の詩、今の生活の経験をもとにした詩などを収める。三尾さんの詩の特徴は、レトリック的な飾りを最小限に留めたさりげない寡黙な語り口で、それが逆に読者に訴える力になっているように思われる。帯には「詩はひたすらに静かであっていいと詩人は考える。飾りを不要とするシンプルな佇まいの中に固有の生の哀歓がこまやかに彫琢され、鎮まることの凄みが楚々としかし不屈に底光りしている。」と記した。合唱を長くやっておられるそうで、声を荒げない美学が人となりを作るところまでいっているのかもしれない、どの詩にも独特の沈黙の表情が感じられる。収録作品のなかで風変わりな強い印象を残すのが「まんなかをあるいていた」で、これを代表とするのがこの詩集の紹介としてふさわしいかは分からないが、以下に引用したい。

 マツ子とタケ子は双子の姉妹です
 わたしが二人と遊ぶのを大人は感心しません
 秋の農繁休み
 三人で
 営林署の作業場にいきました
 午後の陽は心地よく
 マツ子 わたし タケ子
 ゴンネ山の裾野の軽便道を
 谷川の瀬音を聞きながらあるきました
 作業場のおじさんと
 二人は顔見知りのようで
 ──おざきせんせいのこだよ
 二人同時に言いました
 おじさんは驚き
 キャラメルを一箱くれました
 三等分し
 一粒ずつ食べながら
 マツ子 わたし タケ子
 谷川の瀬音を聞きながらかえりました
 夕飯の時は何も話しません
 もしも話したら
 二人の様子を
 作業場の場所を
 日暮れまでに帰れなかったらどうしたのかを
 母はうるさく聞くだろう
 まんなかをあるいていた
 マツ子とタケ子のまんなかにいた
 わたしが母に言いたかったのは
 ただそれだけだったのです

(池田康)
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2017年11月05日

詩と音楽の対話の意外性にみちた隘路

IMG_6153.JPG昨日、洪水企画も共催に加わった、野村喜和夫・篠田昌伸両氏の対談イベント「〈詩と音楽のあいだ〉をめぐって」が、詩とダンスのミュージアム(世田谷)で行われ、20名を超える聴衆の方々に参加いただいた。篠田さんは最先端の現代詩をテキストにして合唱曲などを作曲することが多く、あえて意図的に他人があまりやらないことをやっているそうで、これまで朝吹亮二、平田俊子、廿楽順治、野木京子、渡辺玄英などといった数々の詩人の作品に取り組んできた。野村さんの詩は「街の衣のいちまい下の虹は蛇だ」「平安ステークス」の二作を取り上げていて、今年三作目として新作「この世の果ての代数学」を12月に発表することになっている(これも奇天烈なテキストだ)。今回の会では過去二作の冒頭部分をCDで聴き、野村さんの朗読もまじえて、創作の内実、詩との接し方、どういうポイントで詩を選ぶかなどについて語られた。「なんでこんな変な詩を取り上げるのでしょう」という作者自身の素直な疑問を、野村氏の朗読を通して会場に集った全員も共有したわけだが、篠田氏はそのときどきに作曲しやすいと感じた詩を取り上げるだけで、わかりやすい素朴な抒情詩が必ずしも音楽化しやすいわけではないと語る。詩を受信するアンテナがユニークに鋭敏なのだろう。「平安ステークス」では平安遷都のモチーフと競馬のモチーフが解きほぐしがたく織り合わされているのだが、音楽化されるとそれがきれいなポリフォニーの中にみごとに立体化されて驚いたと語る野村さんの言葉は、詩が音楽化されるときのもっとも幸福なケースを証明しているように思われた。「街の衣のいちまい下の虹は蛇だ」もそうだが、洗練されたきれいな音楽の織物となっているところと言葉のごつごつした顔が岩場のように顔を出すところとの対照が印象的に構成されているように思われ、しかも篠田氏の音楽構築のロジックは非常にしっかりしたものがあり、それぞれ曲のごく一部、5分ほどしか試聴できなかったが可能なら全部聴きたいという気がした。
そしてサプライズゲストとして四元康祐さんが登場(ドイツ在住だが静岡での連詩の催しのため来日されたとのこと)。四元さんの詩「言語ジャック」が篠田さんの手で今年音楽化されたばかり。それも踏まえて、現代詩テキストに対してより幅広い、クラシックの上品さを超えた生命感ある表現を演奏者に望みたいという趣旨のことを語った。
その「言語ジャック」は12月14日の東京混声合唱団の定期演奏会(東京文化会館小ホール)で再演される。また野村作品「この世の果ての代数学」は12月24日に女声合唱団暁の第10回演奏会(JTアートホールアフィニス)にて初演される予定。ぜひ足を運んでいただきたい。
(池田康)

追記
当日の録音データを聞き返してみると、上の記述がすこし不正確なのがわかった。大筋では間違っていないのだが、私の記憶のずぼらさから打ち合せや二次会で話されたことがまじり込んでいるらしいのだ。本番のトークだけを聴いた人はこことあそこは違うと指摘するかもしれない、恐縮です。
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2017年11月03日

道順あんない

いよいよ明日、野村喜和夫・篠田昌伸両氏の対談イベントが「詩とダンスのミュージアム」で開かれる(10月7日の項を参照)。初めて行く方のために、道順案内を試みたい。
京王井の頭線の新代田駅を出ると環七通りで、正面に信号があるのでそれを渡って向こう側に移り、右の方へ歩いてゆく。150メートルほど行くとガソリンスタンドがあり、それを過ぎたところの角を左に曲がり細い道を進んでゆく。童謡をひとつ歌い終わらないうちに左側にミュージアムが見つかります。
以前、神品芳夫さんのインタビューをしに御宅にうかがったとき、こんなふうに言葉での道順説明をもらって、とてもわかりやすく感動したので、真似てみたという次第です。
もう一度復習すると、駅正面の信号を渡り、右方向へ進み、ガソリンスタンドを過ぎたところを左折、百歩歩けば到着、以上です。無事辿りついていただけることを祈っております。
(池田康)
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2017年11月01日

野村喜和夫詩集『デジャヴュ街道』

野村喜和夫さんとは、11月4日に対談イベント(作曲家の篠田昌伸さんと野村さんとの。このブログの10月7日の項を参照)を共催する計画があって近ごろよくお話しする機会があり、このイベントで話題になるだろう、篠田さんが野村作品のテキストに作曲した三曲のうちの一つが詩集『街の衣のいちまい下の虹は蛇だ』(河出書房新社、240頁!)を題材にしているということなので、この詩集も最近読んだのだが、野村喜和夫という詩人は、詩の可能性についての考え深さや果敢にエロスの道を拓く四通八達の感性・志向は別にしても、言語エンジンが高性能で、統御力、駆動力、空間構築力が並外れているという印象が強くする。作り出される作品の柄の大きさは、あたかも巨大な建築を目の当たりにするようで、驚愕とともに茫然と見上げ、踏み込めば内部の迷宮に酔うことになる。
さて、今年六月に刊行された詩集『デジャヴュ街道』(思潮社、232頁!)だが、空に道が見えたという二十代の幻視に起源を持ち、その十数年後に「デジャヴュ街道」という詩が生まれ、さらに五十代の旅先で「空いちめんに多数多様な道の浮かび上がるのがみえた」という経験があって今度の詩集に収められた作品群が誕生してきたということらしい。直接うかがったところによると、金子光晴の足跡をたどるアジア各地への紀行が発想のベースにあるそうだ。どの作品も強靭なリズム、狼藉を働くとでも言いたくなる無法の生命の荒々しさでつねに躍動している。音楽的、と評したい面も多分にあり、ことに「炎熱街道」にはそれを強く感じ、書かれながら同時に作曲もなされているかのようで、この詩なら素人の私でも一晩で作曲できるのではないかとさえ思った。ランボーとともにニーチェへの言及的示唆も目立つのは、この詩の旅は生の価値の極限を問う旅だという意識があるからだろうか。
もう一篇、忘れ難いのは本の最終章にある「エデンホテル」だ。今年の名古屋での中日詩賞授賞式に訳あって参加することになったのだが、その中の講演の講師が野村さんで、一時間にわたってこの詩篇「エデンホテル」の成り立ちを説明するという話の構成だったので、作者の補足説明を含めたっぷりと深くこのテキストを読んだ気分になったのだった。イスラエルのガラリヤ湖の近くのホテルに泊まった実体験を元に書かれたとのことだが、前に進む旅ではなく省察が深く沈潜していくようで、現代の精神的荒廃も描写に刻印され、この詩集中の位置付けにおいても「旅の果て」の、最終的に生の意味を問う場所をなしているような印象がある。一部を引用する。

 エデンホテルに、ひとはだから、長くとどまるべきではない、
 地の底に沈み込むような、劣悪なベッドのうえで、
 数泊もしないうちに、私たちは、
 いうなれば、生の基底にまでふれてしまう、
 するとあらゆる言葉を、たとえ睦言であっても、
 遠く、湖を越えてゆく音のように聴く、

 「わたしが死ぬときには、蠅が窓から入ってきて、
 ぶーんと、暗い唸りをあげるの」

 心の内奥などというものは、もはや自律的には、
 蠅である、したがって滞在とは、
 私たちがすでに、使い回された実在であると知ること、
 にひとしい、イヴよ、
 たまらなくひとしい、
   (「エデンホテル」より。括弧内はエミリー・ディキンソンの引用)

(池田康)
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2017年10月31日

作曲家の個展II 2017 一柳慧・湯浅譲二

サントリーホールにて開催された上記のコンサートを、昨日、人類学者の川田順造さんのお誘いとお計らいで聴くことができた。東京都交響楽団、杉山洋一指揮。ソリストは、木村かをり(Pf)、児玉桃(Pf)、成田達輝(Vn)、堤剛(Vc)。
曲目は、湯浅譲二作品が「ピアノ・コンチェルティーノ」(1994)、「クロノプラスティック II」(1999/2000)。前者はペールというか少し暗い色合いの響きに惹かれた。コンチェルティーノと聞くと明るい小品というイメージを安易に抱いてしまうが、その裏を行くような独特の重たさのある曲調で、プログラム解説にはショパン云々の記述もあったが、打楽器的なピアノの使い方も印象に残った。「クロノプラスティック II」は湯浅さんが若いころ強い影響を受けたエドガー・ヴァレーズへの讃美の曲で、湯浅さん独自の音の造型の至芸が顕現する。湯浅譲二という作曲家は(大多数の作曲家のように)単純な足し算だけでなく特別の演算を用いて音を綴るのだというのが私の持論だが(それがシュルレアリスティックにも聴こえるわけだが)、この曲もまさにそんな特徴が出ていて、瞬間から瞬間へなにがどう動くか、精妙に変幻するかわからないアモルファスな発展の軌跡をどきどきしながら聴いていた。たまたま二日前に下北沢の本屋B&Bでポール・ウィリアムズ著『フェリップ・K・ディックの世界』(河出書房新社)を手に入れていたのだが、ディックの小説もフィクションの枠組み自体がきしみ捻れていく感覚がある、それに似ていると言えるのかどうかわからないけれど、湯浅作品も尋常な音楽進行を超えた不思議に生命的な形態変化をしていく。それがタイトル「クロノプラスティック」の意味するところでもあるのだろう、一様でない時間進行の創造という……。
未完成の新作「ローカス・オブ・ジ・オーケストラ」の冒頭二分ほどの断片も演奏され、これも印象鮮烈だった。本当はこのコンサートではこの新作が演奏されるはずだったのだが、今年前半の病気のため完成させるのが不可能となり、「クロノプラスティック II」が演奏されたのだった。新作の継続制作と完成を期待したい。
一方、一柳慧作品は「ピアノ協奏曲第三番〈分水嶺〉」(1991)、「ヴァイオリンとチェロのための二重協奏曲」(2017、世界初演)の2曲。どちらも緻密に巧みに大小の枝ぶりよく組み上げられているように聴こえた。ジョン・ケージなどの影響を受け前衛をひたすら追求した若いころに比べて歳をとってからは自由に自然体で作曲するようになってきているとのことだったが、一柳慧初心者としては若いころの代表作、たとえば「ピアノ・メディア」なども同じステージで聴かせてもらって、そのライフキャリアを通じての大きな変化を知りたい気もした。しかしサントリーホールにこの日集った現代音楽通の聴衆はそんなことはイロハのイ、周知の基礎知識なのだろう。
これは川田さんから教示を受けたことだが、一柳さんは朝日新聞に今年6月19日から15回にわたって自伝的インタビュー記事(語る─人生の贈りもの─)を連載している。
(池田康)
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2017年10月29日

『白石かずこ詩集成』出版記念会、『中原中也』刊行記念イベント

20171028siraisi.JPG昨日、詩人の白石かずこさんの『白石かずこ詩集成 I 』と『Sea, Land, Shadow』の出版記念会が第一ホテル東京(新橋)で開かれた。前者の本は書肆山田からの刊行で全三巻、今回の「I」は名高い『聖なる淫者の季節』も含み、第一詩集『卵のふる街』から第七詩集『紅葉する炎の15人の兄弟日本列島に休息すれば』までと初期の詩集未収録詩篇を収める。612頁、5500円+税(この種の全詩集の本としては手を伸ばしやすい有難い価格設定だろう)。「II」は来年2月、「III」は来年5月刊行予定とのこと。今は入手困難な詩集も多く、この詩人に深い関心をもつ人にとっては必携の書だろう。後者の本はニューヨークの出版社New Directions社から刊行された、第四冊目の英訳詩集。タイトル作「海・陸・影」は2011年に書かれた、大震災にちなんだ長い詩で、この日もサックスの梅津和時さんの演奏とともに力強く朗読された。生命の高い波立ち、真直ぐで強い精神力は健在。司会は高橋睦郎氏で、時代を共に歩いてきた詩人たち、親しく交わった友人たちが祝いのスピーチを披露した。なかでも、自分はテキストに全力集中する碑(いしぶみ)派だが白石さんはパフォーマンス派の巨頭だという安藤元雄さんの話は詩人のあり方を考える上で示唆に富むものだった。

会終了後、佐々木幹郎さんに誘われ、下北沢の本屋B&Bへ。この夜ここで佐々木さんの新著『中原中也 沈黙の音楽』(岩波新書)の刊行を記念しての、佐々木さんと蜂飼耳さんの公開対談が開催されることになっていたのだった。本書中でも多くの紙数を費やして読解されている「サーカス」について、あれやこれやの視点から熱く討論され、描かれるイメージの現実の枠組みをこえた抽象度の高さが指摘されたのだが、そこでなぜかパウル・クレーの絵が連想された(クレーの作品も音楽性豊かだ)。さらにこの詩が音楽化された2ヴァージョン、すなわち小室等フォークソング作品と合唱オペラ「中也!」(佐々木幹郎・台本、西村朗・作曲)中の該当部分を聴き比べるという興味深いアプローチもなされ、この夜のハイライトの時間をつくった。中也関係の写真資料をスライドで映しながらの話も種がつきず、2時間では短すぎる、夜を徹してやってほしいという声もあった。総じて、中原中也の詩の音楽性という点にすべてが収斂していく構図は本の主旨と合致し、なにをどう考えていっても草野心平のいうところの「幼子の歌心」につながっていくという趣があった。
このB&B(bookとbeerと、という意味らしい)という本屋は裏通りの目立たないところの2階にある小さいスペースの店だが、品揃えは瞠目すべきもので、棚を眺めながら店内を歩いているだけで精神が清々しく刷新される思いがする、おみごとの仕事ぶり、店主の寺島さんの眼力がしのばれる。この晩のようなイベントも頻繁に行われているようで、是非一度訪れていただきたい。
(池田康)
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2017年10月27日

しかし満天の星だった

昨日は夕方に山本萠さんの個展を訪れる。詩人だが絵も書も創作する方で毎年自作の絵と詩のフレーズを配したカレンダーを作る、その2017年版原画展。今年はクレパス画で、少女?を描いて印象的な「青衣のひと」はもう売約済の印が打ってあった。山本さんは「詩素」にも参加しているので、できたばかりの3号の話をいろいろとする。会場のNMCギャラリーは小川駅から徒歩数分のところにあるが、この小川駅は国分寺駅から西武国分寺線で三駅目。この界隈は初めて来る。関東圏は広いから五十年住んだとしてもまだ知らない場所がたくさんあるのだろう。会期は今月31日まで。
この夜は次に、杉並公会堂小ホールで開かれた、「洪水」20号でインタビューしたパーカッショニストの會田瑞樹さんのソロリサイタルを聴く。多彩な性格の七曲を混乱なく冷静にあざやかに弾き分け、曲間のステージ準備もすべて自分一人でやるという若々しさ。プログラムは、山根明季子「glittering pattern #2」(単純な方法による差異の創出)、清水一徹「Camera obscura」(ノイズを混ぜ込む果敢さ)、稲森安太己「Blumenstrauss ~花束~」(撥で花束を作るパフォーマンスに呆気にとられる)、薮田翔一「Billow II」(勢いあり)、権代敦彦「光のヴァイブレーション」(音楽の意志の強靭な重さはこの演奏会随一)。そして湯浅譲二「ヴァイブ・ローカス」と間宮芳生「Music for Vibraphone and Marimba」は大ベテランらしい、バランスのとれた中での、細やかな芸の組織化で、前者はヴァイオリンの弓で鍵盤をこすって音を出す始まりが印象的、後者は岐阜の民謡「雨乞歌」を題材にしていた。
帰り道、最寄り駅から家へ原付を走らせていたら途中で故障、止まってしまい、残りの長い道のりを引いて歩かなければならなかった。とんだ災難。身体がたがた。しかし満天の星、ここ数十年見ることのなかった、無数の星が光るみごとな夜空だった。
(池田康)
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2017年10月26日

「詩素」3号

siso3cover.jpg「詩素」3号が完成した。今号の参加者は、海埜今日子、小島きみ子、坂多瑩子、酒見直子、沢聖子、菅井敏文、大家正志、たなかあきみつ、南原充士、二条千河、野田新五、八覚正大、平井達也、平野晴子、南川優子、山中真知子、山本萠、吉田義昭のみなさんと、小生。座談会ゲストに甲田四郎、長嶋南子の両氏、〈まれびと〉に嶋岡晨さんをお迎えした。巻頭トップは小島きみ子さんの「(五百回忌のbaby blue)」。定価500円。洪水企画までご注文下さい。
(池田康)
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2017年10月18日

高橋アキ/ピアノリサイタル2017

上記演奏会を昨日、豊洲シビックセンターホールにて聴いた。曲目は、シューベルト「12のドイツ舞曲」「3つのピアノ曲(即興曲・遺作)」、モートン・フェルドマン「ピアノ」、尹伊桑「インタールディウムA」。
シューベルトの即興曲は、出だしのドラマティックな部分がとても印象的だが、三曲とも構成が思慮深く工夫を凝らしていて、そこを比較的ちゃんと聴けたように感じられ嬉しかった。たとえば二曲目は、上機嫌で上品な調べで始まり、不機嫌な曲調に転じ激しく荒れ、奇妙な悲しみの情調が来て、また冒頭の気品を帯びた調べが帰ってきて、といった具合に短い曲ながら多様な構成要素が入り組んだ形でできている。一曲目も、裏打ちが特徴的な三曲目もそう。
フェルドマン「ピアノ」は、この作曲家らしい、ぽつんぽつんという音のいたって不規則な布置が長時間続く曲。聴覚に広がる宇宙空間の隅々にまで自分が必要と感じる数の星を象嵌しないうちはやまないという責任感?あるいは追求心?がずしんと居座るのが感じられる。作曲家には星座とその物語まで見えているのかもしれない。「五線を六段使って、3つのパートが同時進行する箇所もある」とチラシの曲目解説には書かれている。
尹伊桑「インタールディウムA」は作曲家がこのピアニストに献呈した曲とのことで、重低音の強烈な響きで始まり、クライマックスの部分は超絶技巧的に両手が動き、寄せてくる音の大波が三次元のあらゆる方向に刻々微妙に形を変える一連。難曲にちがいないが聴きごたえ、いや浴びごたえがある。タイトルの「A」とは「Aki」のことでもあり、主要音「A」のことでもあるとの説明。作曲家によれば「情熱の嵐と繊細な愛情」が表現されているという。
このホールのピアノはファツィオリ(Fazioli)というイタリアのメーカーのもので、きらびやかな韻きがし、細く鋭い音の線を引くように思った。音像が繊細明晰で、とくに後半のフェルドマン、尹伊桑の曲では音数の少ないところなど周波数までわかりそうなくらいクリアに、しかし高貴な美しさで聴こえた。倍音の整理の仕方に独特なものがあるのだろうか。
このホールのステージの背後の壁はガラスになっていて外が眺められるようで、薄いカーテンが引いてあったが周囲のビルの光などが入ってきていて驚きだった。
さて高橋アキさんは6月にビートルズの曲をいろんな作曲家がアレンジした『高橋アキ|プレイズ|ハイパー・ビートルズ』というCDを出している。1990年頃のプロジェクトの再録音とのこと。収録曲は「ノルウェーの森」、「ゴールデン・スランバー」、「ミシェル」など15曲。幅広い音楽の芸が楽しめる。
(池田康)
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