2016年06月09日

平野晴子さん中日詩賞

平野晴子さんが詩集『黎明のバケツ』(洪水企画)で第56回中日詩賞(中部地方の詩人たちの団体である中日詩人会が主催)を受賞しました。おめでとうございます!
(池田康)
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2016年06月07日

菅井敏文詩集『コラージュ』

コラージュ表紙画像.jpg菅井敏文さんの第二詩集『コラージュ』が洪水企画から出た。詩集にもいろいろあり、狭くテーマを絞って作品世界を構築するもの、全体に物語的な流れが感じられるもの、詩型・スタイルが意図して統一されているもの、生活の中で自然に生まれてきた私小説的抒情詩を素直に編んだもの、等々、多様な行き方が考えられるが、この詩集はタイトル「コラージュ」からも推測される通り、前衛的なつくりの作品からシンプルな述懐の詩まで幅広い形の詩をあえて意識的に一つの場に集合させている。帯に引用した「カンパネラ」は、菅井さんが拙事務所へ打ち合わせに来られた折、吉岡実のことが話題にのぼったので、吉岡詩になんとなく近そうなものを選んで載せたのだが、その最後の部分はこうだ。

 魔方陣
 羽をむしられた蝶が
 仏像からころがり出る
 急いで
 カンパネラ
 円盤を暗闇のカーテンが
 包んで
 空を
 食人植物が支配する

他方、読めば誰でも親しめそうなものとしては、たとえば「壺」「わたしとは何者であるか」などが秀作として挙げられるだろう。死を前にしての粛然とした気分を巧みにつかまえる前者の最終連はこうなっている。

 人生を壺に納める
 納めきれなくても納めて
 人生の決着をそこでつける
 死は生きている人の死となる
 それぞれのやり方で
 それぞれの思いで
 人は死に向かって
 死を置いて
 歩き始める

この大コラージュ画全体のトーンと力動をぜひ味わって頂きたい。
(池田康)
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2016年06月05日

虚の筏16号

「虚の筏」16号が完成しました。今回の参加者は、伊武トーマ、坂多瑩子、森山恵、二条千河、神泉薫、平井達也、たなかあきみつの皆さんと、小生。下記リンクから御覧下さい。
http://www.kozui.net/soranoikada16.pdf

(池田康)
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2016年05月24日

吉田義昭詩集『空気の散歩』

kuukinosanpo.jpg吉田義昭さんの新しい詩集『空気の散歩』がこのたび洪水企画から出た(1500円+税)。前回の『海の透視図』(2010)は昔の作品(詩集に未収録だったもの)を中心とした集だったのに対して、今回の本はここ15年ほどに書かれた散文詩作品を集めたとのこと。四部に分れていて、あとがきの言葉を借りれば、第1部と第3部は「ガリレオやその周辺の科学者たちを登場させ、科学史風な作品に仕上げた」、第2部は「臨床心理学関係の作品を集めた」、第4部は「故郷長崎をテーマとした作品とした…(中略)…長崎を訪れる度に故郷への郷愁は強くなっていったように思う。これらは叔父さんから聞いた生の言葉が含まれている。私の原点となった作品たちである」。この第4部「東シナ海」は前詩集の内容とつながっているところがある。最後の「星と星との距離を」は祈りがこもっているように感じられ、「私が今、生きていること、それも、太陽系のこの地球という星の上で生まれたこと。それはただの偶然ではないと思います。いつもどこかの星から、誰かが私を訪ねてくるような気さえしているのです」との言葉も新鮮な響きで耳を打つ。
ガリレオ関連の詩篇はガリレオの弟子(架空の人物?)の視点から叙され、ガリレオの行為、仕事もねじれを帯びて相対化されるところが面白い。なにしろこの弟子は「実験なんて卑怯者のすることだと信じていた。正しいことは考えることでしか生まれないと。」(枯葉の理論)などと呟いたりするのだ。また禁書を持っていたら危ないということで本を火に投じて焼く場面は特別の緊迫感がある。
詩集タイトルとも関係がある「風と光の見える日」の冒頭三連を引用紹介しよう。

風が見える日があるとガリレオが言う。夏だった。低い青空に雲がゆったりと移動していた。名前もない、匂いもしない、果実も実らない木々たちが揺れていた。町へ向かう細い石の道を歩きながら、淡い黄緑色の葉を見つめ、自分の力で揺れることはできないのだからと言う。風は何でできているのだろうかとさらに呟く。

風など見えるわけがない。私には彼の問いの意味が分からない。風は空気、風は心。土と火と水と空気と、その四つの物質ですべての物ができていることなど、哲学者なら誰でも知っているはずだ。それなのに、いくら真実を見つけても、またその次の真実への疑問が現れてしまう。私にはやり残したことが多すぎると悲しげに言う。

光が見える日もあるとガリレオが言う。太陽を見過ぎたために失明しかかっているという噂は聞いていたが、いくら私が尋ねても、彼はその質問に答えてはくれない。まだ微かに風景は見えていたのだろう。太陽が私たちの周りではなく、私たちが太陽の周りを回っていると断言したが、私は絶対に誰かに告げてはいけないと口止めをしていた。

(池田康)
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2016年05月18日

南川優子詩集『スカート』

minamikawa-skirt.jpg「洪水」雲遊泥泳欄で毎回書いて下さっている、イギリス在住の南川優子さんの新しい詩集『スカート』が洪水企画から出た。装丁は南川さんと同じくguiの同人の四釜裕子さん。この詩集制作の話は2年ほど前からあったのだが、ゆっくりことを進める南川さんのリズムで、今年ようやく完成を迎えることになった。特徴をどう説明しようか。帯に「奇想の遊戯と実生活の抒情、身体の原理と現代社会への洞察とが秘伝のレシピで混ざりあい……」という文句があるが、たしかにそれくらいの視野の広さ、意識の鋭さがある。編集していると何回も本文を読み返すことになり、そうすると作者の内的ロジックの微妙なところもなんとなくわかってきて、読みにくかった作品も、ははん、そうか、と合点がいったりする。そうなるとどの作品も面白い。飛躍や謎めいたところも多い南川作品だが、だから時間をかけて繰り返し読んで頂きたい。原稿を受け取った当初から好きで今も大好きなのが「かかし」だ。女性の視点からの詩も多いがこの作品はそうではなく普遍的な哀切さがダイレクトに伝わってくる。長いから前半三分の一だけ引用する。全体は本を手に取って御覧下さい。

 彼の支柱は マイクスタンド
 ロックシンガーが
 ステージの上でにぎりしめ
 ふりまわし もたれかかり
 ときには けりあげて
 唾のシャワーをあびせた
 銀色の棒は
 いつしか 廃棄物にまぎれ

 農場主が ごみ収集場から 拾い

 今
 セックスもドラッグも 
 ロックンロールも見あたらない
 麦畑に
 背骨として 立っている
 かつて マイクがささっていた
 先端に
 布が 包帯のように巻かれ
 木の枝が ひもで
 十字にくくりつけられ
 着古しのTシャツを かぶせられて
 (後略)

(池田康)
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2016年05月08日

加納光於さんの個展

神保町ファインアーツにて30日まで。
http://natsume-books.com/news.php#256
(池田康)
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2016年05月01日

29日と30日

昨日は国立オリンピック記念青少年総合センター小ホールで上野信一&フォニックス・レフレクションのマリンバ・オーケストラのコンサートを聴く。マリンバばかり数台を舞台に乗せたアンサンブルだ。曲目はヘンデル「水上の音楽」から抜粋、民謡を編曲した「4つのアイルランドの歌」、W.F.バッハ「チェンバロ協奏曲ヘ短調」、後藤洋「プリマ・ルーチェ」(初演)、ロバート・クロイツ「ウェスタン・スケッチ」第二楽章、新実徳英「シンフォニアM“神々の声を聴け”」(初演)。このオーケストラを面白く鳴らすのは簡単ではないなと前半の曲目を聴きながら思っていたが、後藤・新実両氏の2曲の初演作品はそのあたりをうまく工夫して、聴きどころを明確にした音楽に仕上げていた。新実さんの曲については奥様が大作の雰囲気があったとおっしゃっていたが、15分ほどの曲なのだが、たしかに強い持続の漲りがあり結構の要所要所で“神々”の本気が光っていた。
さかのぼり一昨日29日は八王子のギャラリースペースことのはで伊福部昭作品を特集したギャラリーコンサート(伊福部玲陶展記念)を聴いた。曲目は「ai ai gomteira」「シレトコ半島の漁夫の歌」「因幡万葉の歌五首」「日本組曲」。出演はズッカルマーリオ・ウエムラ・トモコ(ソプラノ)、伊藤幸子(ピアノ)。ゲストのトークも入った、ギャラリーの主の宇田川さんの手作りの、親密さあふれるコンサートだった。6月にパリでチェレプニン賞の記念の催しがあり伊福部昭作品を演奏するコンサートも開かれるというニュースも聞いた。
(池田康)
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2016年04月27日

2016年04月26日

立花隆著『武満徹・音楽創造への旅』

1990年代に「文学界」に連載された音楽評論が時を経てこのたび上記タイトルで単行本化された(文藝春秋)。たまたま「洪水」17号ジャズ特集の論考で武満とジャズの関係を書いたので、それに関連する事柄も詳しく論じられているだろうと思い、好奇心でひもといた。そのテーマについて言えば、ジャズ・ミュージシャン、ジョージ・ラッセルの旋法と中心音を考究した音楽理論に親炙し多くを学んだという部分は重要なのだろう。まだ部分的にしか読んでないが、ほかにも、「ノヴェンバー・ステップス」の生まれる過程、鶴田錦史という特異な演奏家の生き方、海童道祖なる尺八の達人の非音楽的な竹笛演奏、ジョン・ケージの仕事の意味あいと受容のされ方、ヒューエル・タークイという批評家の果たした役割、などなど、知らないことが多く、とても勉強になる。根音よりも中間音を大事にするという武満の考え方もなるほどと思った。60年代の草月アートセンターについても詳しく知りたかったので、いろいろ記述があり、ありがたかった。インタビュー取材で得たしゃべり言葉の証言を多く活用していることもあって、スムーズにどんどん読める。最近読んでいたアメリカの小説の翻訳本よりもはるかに読み易い。しかし細かい字の二段組みで780頁もあるので永久に読み終わらない雰囲気もある。立花隆という特別の立ち位置の評論家が音楽のこのジャンルについてかような大作を著したということは大きな意味があることだろう。
(池田康)

追記
アメリカ文化センターはCIEというのですね。以前「洪水」の実験工房についてのなにかの記事で誤ってCIAと書いていたように思う。お詫びして訂正いたします。
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2016年04月21日

福島泰樹著『追憶の風景』

個人的にこのところ、不運やへまや悪夢、ハートチリング&スパインブレーキングなことが重なり*、一寸先ならぬただちに今此処は闇、と思われたが、手がけているいくつかの単行本(詩集など)の制作がまずまず順調に推移しているのが慰めだ。遠からずお披露目できる予定。
さて今回紹介するのは、帯に「悲しみの連帯を生きよ!」とある、福島泰樹著『追憶の風景』(晶文社)。身近に交わり、先に逝った108人の人生を短い文章で語る(もとは東京新聞連載)。“記憶装置”の短歌作品をまじえ、内輪のエピソードもふんだんに含ませながら、その人物の生涯のエッセンスを的確に捉えて紙に刻みつける。それぞれの生の風景が鮮烈でなまなましい。著者自身の蹉跌も数多く記し留められていて鋭く刺される思いがする。
登場する方々を冒頭から順に何人か挙げるなら、西井一夫、立松和平、岸上大作、中井英夫、佐山二三夫、諏訪優、武田百合子、小笠原賢二、といった人たちであり、吉本隆明、塚本邦雄、中上健次、大岡昇平などの巨匠も入っている。また両親をはじめ著者の家族や親族も特別の愛情の熱を帯びて呼び出されている。どの人生にも凄絶なところがあると思わせるのが福島氏の人間把握の基本的特質だろう、読み通すととても重たい。
先日、この本の出版記念会があり、参加したのだが、著者の交友の広さがうかがわれ、非常に華やかだった。とくに最後に版元の代表が感極まったかんじでスピーチされていたのが印象に残った。
さて福島さんはご存じの通り「短歌絶叫コンサート」を40年以上続けており、通算すると1500ステージを超えるとか。その音楽と文学の特異な共同制作の内幕をインタビューで語っていただき、「洪水」次号に掲載する予定だ。楽しみにお待ちいただきたい。
(池田康)

* 慣用表現として正しくは、heartbreaking, spinechilling
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2016年04月17日

身を守る難しさ

熊本での地震、大きい上に広がり方が不気味で、生活基盤の崩壊も深刻のようだ。このようななかで被災地では住居空間の強化や屋外避難など各人自己防衛の努力がなされているのだと想像するが、自分の身を守るという行為はどこか盲点を伴い、抜けたところが出てきがちなものだ。本を作る場合でも他人の本は誤植がどこかに紛れ込んでいないかと目を皿のようにして検査をするのだが、自分の本となるとなぜか安心してしまって面倒がって必要な慎重さ入念さをかけず、結果として痛恨の過誤が残ってしまうということがままある。無根拠の過信。自分は大丈夫だと、どうして思ってしまうのだろう。自分の世界において己は王であり、王は王特有の独善の死角を抱きかかえていて、厳しいことを言う賢者や道化をつねに身近において叱ってもらうようにしないと危ういらしい。早期の災害の終息を祈るばかり。
(池田康)
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2016年04月12日

原付で走る

先月初めから原付に乗っている。すでに気候も穏やかになり、近隣ならこれで十分だ。それほどスピードは出せないが、自動車と違って、宙を飛んでいるような感覚がある。ちょっと愉快だ。桜並木の下を走っていると、落ちてくる桜の花びらが顔に当たって、ぺしっとかわいらしい衝撃を受ける。こんなのも楽しい。
メゾソプラノの波多野睦美が野平一郎のピアノ伴奏で録音した「美しい日本の歌」を聴いていた。この人の上等の絹のようなやわらかい歌声はこの季節の佳日に聴くのがぴったりなかんじがする。
(池田康)
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2016年04月08日

Zippo

擬音を商品名にしたとしか思えないこのライターが一つ、父の遺品として私の手元にある。なんの飾りもないシンプルな品。このライターを使うために、という倒錯した理由でこのごろは一日に一本吸うか吸わないかていどの手遊びに煙草をふかしている。それが一昨日、火花を出す輪っかがひっかかって回らなくなり、それがなにかのはずみで取れたと思ったら全く火花が出なくなってしまった。という訳で、フリント(発火石)を交換した。説明図を見ながら作業するのだが、説明が簡単すぎるのかこちらの飲み込みが悪いのか手間取る。ようやく成功、めでたく元通り火が出るようになった。オイル補給は頻繁にやっているし(君、なぜこんなに油を食うのよ?)、芯も一度交換しているので、今回のフリント交換でジッポライターのメンテナンス完全制覇だ。ようやく自分のものになったといったところか。仕組みが単純でどんな具合に作動するか一目でわかる点がこのライターの愛着される所以なのだろう。木火土金水。木や土や金は建設的で永続する存在物を作るが、火や水は逆に流動や変化を生み出す要素だ。ダイヤモンド派に対抗するのはジッポ派らしい。
(池田康)
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2016年04月05日

駅のA面B面生態学

レコードのA面B面のように、駅の北側と南側(東側と西側)で栄え/寂れの度合いが違うことがよくある。北口側は繁華街なのに南口側は寂しい雰囲気だとか。同じ駅でも出る方向、アプローチする方角によって表情が変わるのだ。
最近、沼津駅で途中下車することがあったのだが、なにも知らずに北側に出たらなにか寂しげな町だなという印象だった。おそらく南側は賑やかなのだろう。港も市役所もあるし、高いビルも建っていたから。
札幌駅はテレビ塔やすすきのへ向かう南側が栄えているだろうし、名古屋駅は城のある方向の東側が表になっている。新宿駅は城のせいかどうか知らないが東側の方が商業地区としては賑やかだ。これが渋谷に行くと、どちらかというと山手線の外側(西側)の方が繁華街で、これが渋谷で方向感覚がおかしくなる(個人的な話?)おおもとになっていると思われる。
大阪駅は何回も行っているはずだがうまくイメージできないのはごちゃごちゃしすぎているせいか。豊橋駅は南側は勝手口程度。静岡駅は駅自体が巨大なショッピングモールになっていて、そこで途中下車の用事が済んでしまい、外に出ることもなかった。いつも工事中という有難くない定評のある横浜駅は西口の方が楽しいだろうか。
東京駅はハブとしては大きいが駅エリアが楽しめるかというと疑問だ。上野駅は東側はなんということもない街なのに対して西側には巨大な上野公園があり、改札は小さくてもこちらがA面になるのだろう。そのうえ中央改札は南に向かってひらいており、構内の景観もすばらしく、そこから南へ出ると更に線路沿いに繁華街が続いていて、こちらをC面と言ってもよさそうだ。ABC3面を誇る上野駅にナンバーワンステーションの称号を贈りたい気がする。
(池田康)
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2016年03月28日

オペラ「金色夜叉」

26日の夕、川崎市多摩区のこんにゃく座のスタジオで、オペラ塾2015年度修了公演「金色夜叉」(原作・尾崎紅葉、台本・山元清多、作曲・萩京子、演出・大石哲史)を観た。セットもない裸の舞台、いや舞台さえない平土間の、両側から観客にはさまれた中で、ピアノという中枢神経だけをたよりに音楽劇を作り上げる、一つ一つの場面があやうく立ち上がる、そのスリリングさに魅了された。砂かぶりのごとき近さもドラマ生成の迫力を増す(この境界を無化する近さにはちょっとアングラ劇的なものがあり、以前唐組のテント芝居を観たときのことを思い出した)。強い構図を打ち出すいいシーンもたくさんあり、塾生公演といってもかなりレベルが高く、十分にオペラを楽しむことができた。
『オペラの学校』(水曜社)で著者のミヒャエル・ハンペはただ無考えにうたうだけでなく“ファンタジー”を成立させることの重要性を説いているが、機敏な運動とストイックな演技の追求で各場面を作り上げ、つなげていき(この「つなげ」に強力な音楽の意志が働いていた)一つの物語を浮き上がらせる今回の公演には間違いなく相当程度のファンタジーの実現が感じられた。
(池田康)
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2016年03月25日

ユーリ・バシュメットのCDなど

桜が咲きはじめているというのに空気が冷たい、春先特有の気候だが、ここにきて少しずつ仕事が重なるようになってきており、とりあえずけっこうなことで、張り合いのある忙しさを感じている。「洪水」次号(夏号)の特集の制作にも熱が入ってきた。そうなると見たり聞いたりいろいろやりたくなり、更に多忙となる、これを悪循環というのは違うだろうが、単純な作りのわが頭が収拾つかなくなりつつあるのは間違いない。思考のburstにより精神的に希有な光景に出会えるのならそれは楽しみであるが。
先日、安藤元雄さんにフランスのオペラについてお話をうかがってきた(記事にする予定)。台本が案外に大切という主旨とともに様々なオペラ作品が言及され、見ていないものも多く、刺戟された。オペラに近づくのは難儀だが、今の時代はいろんな方法で見られるのは有難い。フランスへ行く前に、まずはベルクが宿題となっている。
ほかに最近聴いたものとしては、長らく手に入れたいと思っていた、ギア・カンチェリ作曲のヴィオラと混声合唱とオーケストラのための「STYX」(1999)とソフィア・グバイドゥーリナのヴィオラ協奏曲(1996)を収めたCD。ヴィオラを演奏しているのはユーリ・バシュメット、両曲とも彼のために作曲、献呈されている。地味な楽器ヴィオラの奏者として世界的に名高いというのは大変なことだ。ヴァレリー・ゲルギエフ指揮・マリンスキー歌劇場管弦楽団。STYXとは三途の川のことのようだ。解説では「broadly flowing epic music」と形容されている。グバイドゥーリナの協奏曲は以前FMでライヴ演奏が放送され(独奏者は同じ・大植英次指揮・スウェーデン放送交響楽団。感銘!)録音して持っているので、2ヴァージョンめの演奏だ。この作曲家の作品で一番好きかもしれない。
それから斉木由美管弦楽作品集『アントモフォニー』(fontec)も聴いた。「アントモフォニー」「アントモフォニー3」「アントモフォニー4」「ことばの雫」の4曲が収録されている。「アントモフォニー」という言葉はギリシア語で「昆虫」と「音」を表す語を組み合わせてフランス語読みした造語だそうで、虫の響きから発想した作品とのこと。一番古いもので1997年、新しいもので2007年と、現在の時点から言えば少し前の作品だが、工夫をこらした音楽の語り口を賞味することができる。
(池田康)
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2016年03月19日

日常の漣、音楽の怒濤

昨日は昼は編集関係の打ち合わせ、夜はコンサートがあり、その間の時間があいたので、恵比寿の映画館で「ニューヨーク 眺めのいい部屋売ります」を観た。ダイアン・キートンを観たくて。なつかしい…といっても私は「アニー・ホール」「マンハッタン」ぐらいしか観ていないが、それでも懐かしさのようなものを感じるのは、この俳優の細やかなあたたかみを宿らせる特質から来るのだろうか。感情が身体表現に至る仕方が率直で柔らかく、ユーモアがあり、自然。ストーリーから言えば、テロや人種差別の問題も出てくるが基本的にはとても小さなお話で(よくこんな小さな話を映画にしようと思うなと驚くが)、日常の漣のような微細な表情にダイアン・キートンの演技はよくフィットするのかもしれない。話が小さいほど彼女はいきる? 共演はモーガン・フリーマン。
夜のコンサートは、ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ(豊洲PIT)。音楽の怒濤と熱狂は驚異的。破壊力抜群。特別の酵母をもっているとしか思えない。これが最後のツアーで、解散するのだとか。
(池田康)
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2016年03月12日

どこまでも若く

昨日ひらかれた第46回高見順賞の授賞式に参加した。受賞者は財部鳥子(詩集『氷菓とカンタータ』)と川口晴美(詩集『Tiger is here.』)のお二人。選評、祝辞など、粛々と進行するのを見守ったが、もっとも心を打たれたのは川口さんの受賞者スピーチだった。語る風情がとても若々しく晴れやかで、この人の中に核として存在する柔らく強靭なバネが感じられたのだった。思わず、forever young…と呟いていた。
詩集『Tiger is here.』のなかで、ボートで漂流していて、そのボートには孔雀・猿・羊・馬・虎も乗っていて、一匹ずつ捨てていかなければならないのだが、どの順番で捨てますか、という心理テストが呈示され、私は最後まで虎を残す!と主張される。そして虎とは自尊心の象徴であるとの解釈が明らかにされるのだが、今回のスピーチを聴くと、虎とは若々しい心のバネであると言いたい気もしてくるのであり、そうすると簡潔に「自尊心とは若さである」とも言えるのかもしれず、この命題はたしかに変だが、あながち間違っているとも言えない。どこまでも若く、危うく鋭くあること。ただ、そう言ってしまうと、屈託がないように聞こえ、それは詩集の内実とはちがうのだけれど。「forever young」は美徳である…これは最近浮上してきて持論となりつつある公案だ。常識的には多くの場合その反対が歓迎されるとしても。
この詩集の後半には、以前「洪水」誌に掲載された「スガレ」も収録されていて、再会がなつかしかった。
帰路はたまたまの連絡のなりゆきで、前に少し噂を聞いていた(しかしそんなものがあるとはてんで信じていなかった)「横浜駅を通過する快速」という都市伝説のような電車に乗ることになった。品川の次が大船という旅程は列車が異次元を飛んでいるようで狐につままれた感じだ。世の中にはあり得なさそうなことも現実にあったりするのだ。
(池田康)

追記
このごろJoan Baezがうたう「Forever Young」(Bob Dylan)を毎日聴かないと気が済まないようになっているので、上のような感想が出てきたのだろう。2月11日の項もご参照下さい。
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2016年03月10日

火星の災難

リドリー・スコット監督の新作「オデッセイ(The Martian)」を先日観て、なにか非常に印象が良く、これを彼の最高作と言う人がいるとしたら、そんなことはないはずだけどそんな気もするなあとちょっと同意を示したくなりそうなのだが、どこがいいのだろうと考えるとうまく表現しづらいところもある。宇宙船を作る部門の現場の人たちの寡黙な仏頂面なんかにとくによく感じるドキュメンタリーのような味わいが随所にうまく混ぜ合わされているのが新鮮な感じで効いているのか。悪口で愛情表現をする危険なJOKE作法もすぐれて「火星流」なのかもしれない。
正月あけにはP・K・ディックの『火星のタイム・スリップ』を読んでその奇妙きわまるフィクション構図を堪能していたこともあり、たまたまながら火星づいているのだが、それにしても火星も大変だと思うのは、現実の存在に到達する前に人間のイマジネーションにさんざんにおもちゃにされて変梃なイメージばかりが積み重なることだ。月や太陽もそうだが、イメージの自由運動のための格好のフロンティアになるという「ありがた迷惑」は隣星には避けがたい。
では我らが「青き惑星」地球は現実にその上に棲息して現物を押さえているからイメージによる玩具化は免れているかというと、そうでもないだろう。むしろ多種多様な嘘にまみれ、強引に嵌め込まれた概念やお仕着せの絵や筋書きどおりの科白で虚構されている面も多々あるかもしれない。現実と一体化しているから余計にやっかいであり、その一部はときどき社会的事件の展開の中などで露呈することもある。火星から来る蜘蛛以上に恐いのは、偽地球を彩りでっち上げる無数の流言飛語イメージだったりするのだ。
(池田康)
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2016年03月09日

奥成達追悼コンサート&こんにゃく座のお話

昨日の夜、新宿ピットインで奥成達さんを追悼する「奥成達を偲ぶ詩と音楽の集い Long Good-bye でわ又.」が開催され、立見がたくさん出る超満員のなかで聴いた(企画構成=岩神六平事務所・奥成繁・四釜裕子)。奥成さん関連で集結すると“スター軍団”になるのはなぜだろうか、山下洋輔(秩序と混沌との往復運動)、渋谷毅(飾らない、叫ばないピアノ)、坂田明(発声術のチャーミングな化物性)、白石かずこ(音楽的な朗読)、高橋睦郎(哲学散歩の朗読)、高橋悠治(サティをひきながら詩を朗読する離れ業)、ケン・サンダース(達さん若かりしころの作の怪談コントが面白かった)、三上寛(朗読された、達さんの「今日オレは詩について次のように考えているがもちろん明日も同じであるという保証は一つもない47章」という妙なタイトルの作品、ケッサクでした)といった方々のほか、福原千鶴さんの鼓、西松布咏さんの三味線と唄も異様さを作り出す効果絶妙だった。お祭りのようなこの一夜の経験から、奥成達さんは「よく遊びよく戯れる」の名人だったのだと確信した。
この日は午後にこんにゃく座の音楽監督・萩京子さんへのインタビューを行った。「洪水」次号特集「音楽劇・オペラ・歌物語」のため。この劇団の歴史、林光氏とのかかわり、一つの作品をどうやって作っていくか、従来のオペラの弊を脱した日本オペラの理想などについてうかがった。そして2月に上演された「クラブマクベス」のことも。吉祥寺シアターでのこの公演のことは公演期間中に知り、その時点ではチケット完売で、どうやったら観られるかと思案したのだが、キャンセル券の再発売というものを運良く見つけ、観ることができた。林光作(2007)の再演。台本はこれも故人となった高瀬久男。シェークスピア原作だが、ドラマの外にいるはずのサラリーマンの男とマクベスとが次第に重なっていくという仕掛けをもった面白い構造の作品で、三人の魔女の三重唱の神妙さとか、宴会と暗殺のシーンを同時にやってしまうアクロバット演出とか、たくさん見所があり、音楽劇の可能性を満喫した。洪水次号のインタビューをどうかお楽しみに。
(池田康)
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