2016年09月04日

毎日新聞ご覧下さい

本日の毎日新聞の書評欄MAGAZINEコーナーに「洪水」18号が取り上げられ、佐藤聰明さんのエッセイが詳しく紹介されています。ぜひぜひご覧下さい。
(池田康)
posted by 洪水HQ at 11:10| Comment(0) | 日記

2016年09月03日

虚の筏17号

「虚の筏」17号が完成しましたのでご覧下さい。
http://www.kozui.net/soranoikada17.pdf
今回の参加者は、久野雅幸、二条千河、海埜今日子、たなかあきみつ、小島きみ子、平井達也、酒見直子の皆さんと、小生。
(池田)
posted by 洪水HQ at 15:20| Comment(0) | 日記

2016年08月23日

悲願幻想の最重量

台風も直撃のような形でやってくると油断できない。高いところにある常設拡声器からの注意報が耳を脅す、この夏一番の大荒れの日だった。
リオ・オリンピックが終わった。ときめく瞬間や心揺さぶられる場面がいろいろあったが(女子柔道・田知本遥のあしたのジョーみたいな極限の戦いぶり、陸上男子400mリレーの鮮やかな走りっぷり、など)、言語上のカルチャーショック的なときめきの第一は、女子マラソンのメダリスト三人の名前。スムゴング、キルワ、ディババ。響きがあまりに新鮮、完璧な異質さにどきりとした。四年間有効の必勝祈願のおまじないの文句にするといいかもしれない。ケニアとバーレーンとエチオピアの選手で、アフリカの方角の空気がさっと広がるように感じられた。男子マラソンも、キプチョゲ、リレサ、ラップ、と三位にアメリカ選手が入っているが、なかなか刺激がある。二位の選手は自国に抗議するデモンストレーションをやったことでも注目を浴びていた。
また、これは新聞で読んだ話だが、ブラジル・サッカーチームのネイマールは決勝の試合で「エオ・エスト・アキー(俺はここにいる)」と叫んだとか。これも言葉の角張ったフィギュアが印象に残る。試合の最後のPKで、彼の上にのしかかったブラジル国の悲願の重さは、かつて円谷幸吉が感じたものに匹敵するだろう、大変なものだったに違いない。この伸るか反るかをサヴァイヴできたのはラッキーだった。大会を通しての悲願幻想の最重量をもちあげた金メダル。
(池田康)
posted by 洪水HQ at 21:09| Comment(0) | 日記

2016年08月17日

新実徳英著『A.E.あるいは希望をうたうこと』

この夏、作曲家の新実徳英さんの上記エッセイ集が刊行された(ARTES、本体2200円)。毎日新聞九州版に2007年から2013年まで月一回で連載されていたもので、九州の話題も所々に挟み込みながら、作曲のこと指揮のこと合唱のことなど、自ら職業とする音楽に関するあらゆる現象や経験を思いつくまま、独特の軽やかにダンスするような口調で語ってゆくので、読者は楽しく読みながらいつの間にかたくさんのことを学んでいるはずだ。多くの場所で表されるバッハに対する敬愛の念は、そこまでなのかと、ちょっと驚くほどだし、仏教関係の特別の曲を含む近年の新作創作の破格の多忙ぶりも、知りませんでしたと恐れ入るばかりだ。
このエッセイ集のもっとも重要な点は、2011年の東日本大震災をはさんでいることで、連載にとっては図らずものことだったろうが結果的にこの本の貴重な意義となっている。タイトルの「A.E.」というのは「After the Earthquake」の略であり、新実さんは忘れてはならないの心から大震災以後の自作に「A.E.番号」をつけているのだ。2011年3月以降の章ではしたがってその関連の話が多くなっている。巻末に収められている、詩人の和合亮一さんとの対談ももちろん大部分は大震災をめぐってのやり取りであり、おおいに考えさせられる。
こう書くと深刻そうに聞こえるが、全体を通して感じられるのは新実さんの楽しそうな声の明るさ、心映えの明朗さであり、「希望をうたう」というタイトルの言葉はぴったりと言える。新実さんの音楽を聴いたことがある方は(ない方も音楽に興味があれば)ぜひ本書を手にとってこの作曲家の思考と感性の柔軟な動きに接していただきたい。
(池田康)
posted by 洪水HQ at 22:38| Comment(0) | 日記

2016年08月13日

ポール・サイモン DUNCAN

ポール・サイモンの新しいアルバム『STRANGER TO STRANGER』のボーナストラックに、かなり昔の作品「Duncan」が入っている。最近のライヴで演奏されたものの収録。この曲は2002年のベスト盤『The Paul Simon Collection / On My Way, Don't Know Where I'm Going'』でも本編にこそ入ってないがやはりボーナスディスクにロンドンでのライヴ演奏版が収録されている。かなり大切な曲なのだろうか。もともとは1972年のアルバム『Paul Simon』の2曲目。
「洪水」18号のエッセイでこの歌手の仕事に触れたこともあり、この際彼のオリジナルアルバムのすべてを聞いておこうと、『THE COMPLETE ALBUMS COLLECTION』というボックスセットを手に入れたら、有難いことにその中に2枚のライヴ盤も入っていて(1974年と1991年のもので、どちらも感涙級の演奏)、1974年の方ではこの曲が「El Condor Pasa」と「The Boxer」の間に挟まれて5曲目に演奏されている。この位置は正確にこの曲の性格を表している。フォルクローレの響きと調べのなかで虐げられた人間の声を聞くという点で「コンドルは飛んでゆく」に通じ、心理的&物質的に無一文の情況をうたうという点で「ボクサー」に通じている。「Holes in my confidence/Holes in the knees of my jeans...」故郷を離れ貧窮する若者が聖書を説く娘と出会い……『PAUL SIMON LYRICS 1964-2016』の序文でDavid Remnicは「Duncan」を挙げ、ポール・サイモンは複雑な物語を信じ難いスピードで構築する、と指摘している。その通りだが、第一に、どうして〈無一文の孤独の生〉にこんなにも迫真的に憑依できるのかということに驚く。「ボクサー」も同様で底辺を歩むきびしい生の姿が描かれる。自身の経験もなにかあるのかもしれないが、もっと奥のアメリカの原点、移民として無一文でこの地にやってきた祖達の途方にくれた絶望の声が響いているような気もする。アメリカにはどこかにそのような生活の底のアナーキーなまでの無一文の感覚があって、それが彼の歌に染み出てくるのではないだろうか。
「ボクサー」の第4連ではrolling、rockingという言葉が出てくる。年月が経とうと、根本のもの(…just a poor boy…)はなにも変わらない…。これが彼のロックンロール観につながっているとすれば、かなりもの悲しい傾きのものと感じられる。そしてそのような無一文の感覚がworld musicへの道を拓いているような気もするのだ。
アルバム『Paul Simon』にはボーナストラックに「Duncan」のデモ版も収録されていて、完成されたものと相当違っており、興味深い。最新アルバム所収の「Duncan」は声の深さが嬉しい。
(池田康)

追記1
アルバム『STRANGER TO STRANGER』本編は『グレースランド』ほどの強烈な斬新さはないものの、各曲で音楽の新しい調子や形を追求しており、その手掛かりとしてサイモンは付属冊子の自作解説で独自の楽音システムを考案した作曲家ハリー・パーチとフラメンコの演奏(手拍子足拍子つき)を挙げている。ラブソングでありながらラブソングの構造そのものをクリティカルに省察したり(タイトル曲)、伝説の野球選手の話が究極の宗教の問題に展開したり(COOL PAPA BELL)、詞の動き方が意表をついていて、聴き込むほどに興が深くなる。

追記2
今回いろいろ聴いた中で、「Take Me To The Mardi Gras」(アルバム『There Goes Rhymin' Simon』1973 所収)が気になった。曲の最後の方で、マルディグラの祝祭の音楽なのだろうか、輪郭がぼんやりとした、いろんな色の雲が遊んでいるような、とても不思議なかんじの音楽が出てくる。なんとも魅力的。こんな音楽をやるバンドがあるなら、ぜひ聴いてみたいものだ。
『The Paul Simon Song Book』(1965)から…「A Church Is Burning」、「A Most Peculiar Man」は聴き逃してはならない。心して聴くべし。そして「Kathy's Song」はこの世で最も美しい歌の一つだろう。なにを今更と言われそうだが。

追記3
『LIVE IN NEW YORK CITY』(2012)を聴く。うーん、やはりこの人は聴かない方がいいのかもしれない!? 他の人の大概の曲が凡庸に思えてくる。
posted by 洪水HQ at 11:28| Comment(0) | 日記

2016年08月07日

蜂の巣

 蜂はとんでもないところに巣をつくる
 たとえば男のアパートのベランダ
 其処がとんでもないのは たんに
 男の都合にすぎないのだが

 特別に歓迎はしない
 無理矢理追い出しもしない
 刺さないでね
 ひらにお願いするだけだ

 蜂よりも燕の巣のほうがいいのにと
 贅沢を言うものではない
 蜂には蜂の幸福がある
 巣は幸福の象

 散歩の途中サルビアの周りを飛ぶ
 一匹の蜂 あれはウチの蜂だ
 と考える はや身贔屓の
 蜂の家の一員になりたがっている男

ついでにもう一つ、日常生活の独り言のような零墨詩。ベランダに蜂の姿をときどき見るようになったのはかなり前だから春の早い頃から巣はあったのかもしれない。存在を確認したのはつい最近。彼らはどういう条件でロケーションしたのだろう。空き家になっているアパートメントもあるのに。
(池田康)
posted by 洪水HQ at 20:09| Comment(0) | 日記

2016年08月06日

スモモ頌

 貴陽を今夏の楽しみとする
 紅く熟れて高慢ちきに醇なれば
 成敗してやると歯を立てて齧るに
 果実は快を叫び果汁を迸らせる

 暑熱は生命臨界の高い山脈を造り
 朦朧として登り行く陽炎の影
 朱夏 大きな果実 光の童話
 登場人物はすべて裸で光彩を読む

 夏の光 夏は光り 彩に重なる彩
 ほのかに歪な楕形に凝結する枝先
 光の実をもぎ取る手 太陽の巨人
 夏は神々の真昼の正餐の大皿だ

 蝉たけり 草むし 雷雨あらう夏
 李の季は甘い酸いただ一語に熟れて
 その光身を口にふくむとき一語溶け
 仮象の〈内〉と〈外〉をつなぎ合わせる

貴陽というのはスモモの一品種、比較的新しい種類だろうか、食べてみるととても美味いので感激のあまり、スモモ頌を書きつづり深甚の謝意を表した次第。一種の機会詩なのでタイミングを考慮したく、旬のうちに、ただちにここに紹介した。冒頭の「貴陽」には「あなた」とルビしたいところ。
アイスクリームやかき氷も風物だし桃もスイカも勿論おいしいが、このところ私はもっぱらスモモビトとなって貴陽に専念執心している。
(池田康)
posted by 洪水HQ at 22:44| Comment(0) | 日記

2016年07月31日

吉増剛造展 声ノマ

昨日上京の用事についでに、かねて林浩平さんから勧められていた吉増剛造展「声ノマ」(竹橋・東京国立近代美術館)を観た。タイトルは「声の真」「声の間」「声の魔」を意味するらしい。詩の草稿・生原稿、日誌や書簡、多重露光写真や映像作品、さまざまな音源を収めた数百本のカセットテープ、銅板打刻オブジェ、などなど、詩人という地味な存在が作り出すものとしては例外的に華やかな景観となっている。最新の詩集『怪物君』(みすず書房)が会場に無造作に置かれていて自由に頁をめくれるのはありがたい。最後の部屋では舞踏家の大野一雄とのコラボレーションの映像作品を上映していて、大野の芸を目の当たりにすることができる。これを自己解釈として見るならば、「私の詩は“暗黒舞踏”である」と言っているのであろうか。
近著『我が詩的自伝』(講談社現代新書)は詩人自らがざっくばらんに語る、生きてきた時代のドキュメントのようで、おもしろそうだ。
(池田康)
posted by 洪水HQ at 14:00| Comment(0) | 日記

2016年07月24日

緋国民楽派14回コンサート

昨日、「緋国民楽派」の第14回作品演奏会を錦糸町のすみだトリフォニー小ホールで聴いた。「緋国民楽派」は寺嶋陸也、萩京子、吉川和夫の作曲家三氏のグループ。「洪水」18号にインタビューで登場してくださった萩さんにご案内をもらって。演奏は、水野佐知香(vn)、寺嶋陸也(pf)。コンサート前半は「緋国民」にしては上品でシリアスな曲が並んだが、後半は歌の弾力が感じられる曲を柱にしたプログラムになっていた。
もっとも強くはっきりと音楽の愉楽を享受したのは寺嶋作「グリーンスリーヴスによる変奏曲」で、おなじみのこの民謡をもとにした変奏曲を無伴奏のヴァイオリンで弾く。バッハを思わせるような構築の変奏もあり、バロック風、古典派風、ロマン派風などと変化をつけていったと作者が語るとおり音楽スタイルのメタモルフォーゼが面白い。学生時代に作った曲の発展形の一つだそうで、寺嶋氏の創作にかけるしぶとさが偲ばれる。
吉川氏は清冽な「幻想風小品〈NAIWAN〉」「Air」の二曲で音楽に対する誠実な取り組みの姿勢がなんとなくわかった。(「ソナタ風幻想曲〈SANRIKU〉」は長すぎてこのとき少し往路の疲れからくる眠気と格闘していた私には全体がつかみにくかった)
萩さんの曲「A FOREST」は純然たる器楽曲で、オペラの仕事とはちがった面でのきびしさを見ることができた。「もうひとつの…」は歌をもとにした5曲の組曲で、歌のリズムと旋律が楽しい。
「緋国民」とはなにか。こんな国のメインストリームに従順な国民にはなりたくないという思いもあるのかもしれないが、「緋の国」の民という意味かもしれず、とすると「緋国」とは幻の歌の国のようなものだろうか。
ヴァイオリンの技を存分に堪能した一夜だった。
(池田康)
posted by 洪水HQ at 19:08| Comment(0) | 日記

2016年07月18日

吉田義昭ライブ@あおしま

昨日の午後、青山一丁目のレストランあおしまで吉田義昭さんのライブがひらかれた。詩集『空気の散歩』(洪水企画)の刊行記念として。会場の店は素直な広がりのスペースが気持ちよく、落ち着きがあり、備え付けのピアノを置いた常設のステージが立派で、快適に聴くことができた。
曲目は「ジャニー・ギター」「希望」「Unchained Melody」「バラの刺青」「追憶」など。演奏はヴォーカルの吉田さんの他、宮本一(シンセサイザー)、宮本あんり(ピアノ)のご夫妻。プログラム最後の「アドロ」は暗く悲しすぎるから長らく封印していた曲とのことで、たしかに初めて聴くかんじ。「花水木の手紙」は詞=吉田義昭、曲=宮本一の新曲で、大丈夫かなあという言葉とともに緊張感いっぱいに披露された。新曲が混ざっていることのよい点は、緊張がその曲に集中し、他の曲は過度に神経質になることなく伸びやかに歌えることだろうか、聴く方も細かいことを考えずゆったりした酔い心地で聴ける。
ライブの前半と後半の間に詩集を祝賀する時間がもうけられ(小生司会)、高山利三郎・林哲也・山中真知子・庄司進・沢聖子・南原充士の六人の方々のスピーチ・朗読がなされた。それぞれのコメントになるほどと共感し、ことに吉田さんの若い頃の詩の仕事が紹介されたのが個人的には非常に興味深かった。またこの日いただいた小詩集『想い出が満ちてくる』には昨年の辛い体験(奥様の急逝とご自身の病気)を語る詩が収められていて痛切な思いをさせられる。
ライブの後は食事。初対面の方とも話ができ、長時間の会ながら密度の高い輝かしい午後となった。
(池田康)
posted by 洪水HQ at 16:00| Comment(0) | 日記

2016年07月11日

第56回中日詩祭

昨日は名古屋・電気文化会館でひらかれた第56回中日詩祭に参加した。平野晴子さんが詩集『黎明のバケツ』(洪水企画)で中日詩賞を受賞した、その授賞式のため。同時受賞者は加藤千賀子さん(詩集『POEMS症候群』)。
式の過程でオッと思ったのは、中日詩人会会長の若山紀子さんが賞状を受賞者にわたすのだが、その賞状の文面を読み上げる中にその詩集への短い批評コメントが入っていた点で、平野さんの場合は「現実の困難を詩に昇華」云々というコメントが織り込まれた。あれは賞状に書いてあるのだろうかと後で平野さんに尋ねたら、賞状を見せて下さり、ちゃんときれいな毛筆の文字で書いてあり、実に丁寧なやり方だと感心した。平野さんは受賞の言葉で詩集中の一篇「仲良くだけは出来るよ」を暗誦で朗読された。
授賞式の後、長谷川龍生氏の講演(小野十三郎、パウル・ツェラン、折口信夫のことなど)、細川華鶴子氏の薩摩琵琶演奏(平家物語など、唄もよかった)があり、それぞれ貴重な時間となった。
(池田康)
posted by 洪水HQ at 11:28| Comment(0) | 日記

2016年07月08日

洪水18号

kz18hyoshi.jpg「洪水」18号が完成した。今回の特集は「音楽劇 オペラ 歌物語」。インタビューは4人の方に試みている。作曲家でオペラシアターこんにゃく座の代表兼音楽監督の萩京子さんにはこんにゃく座の歴史と活動のお話をしていただき、昨年大著『オペラの20世紀』(平凡社)を刊行された音楽学者の長木誠司さんには現代オペラの流れの概略を説明していただき、フランスオペラに詳しい詩人でフランス文学研究の安藤元雄さんにはオッフェンバックとボードレールのこと、マスネやビゼーのことなどについてうかがい、長く「短歌絶叫コンサート」を続けておられる歌人の福島泰樹さんにはこのコンサートや執筆創作全般のことをお尋ねし、といった具合で、それぞれ非常に興味深いお話を聴くことができた。安藤さんと福島さんはインタビュー原稿を入念に書き直して下さり、締切をかなり過ぎてひやひやしたが、綻びのないすばらしいまとまりの記事原稿となり、ありがたいことだった。嶋岡晨さんには前号に引き続いてシナリオ詩をいただいた。今回は「カルメン変容」。エッセイは森山恵さんの連載「オペラでシェイクスピア!」第2回を特集に編入した他、詩人を中心に十人ほどの方々にご執筆いただいた。おおよそ、総論、合唱、シェイクスピア、フランスオペラ、日本、といったかんじで並べてみたがいかがだろうか。國峰照子・竹田朔歩両氏の詩は、スペースがあいたので、それぞれの既刊の詩集から転載させてもらったのだが、案外これらのページがこの特集でもっとも強烈な輝きを放つ部分になっているかもしれない。小生のまとめのエッセイは、近現代を「欲望」と「自由」から考え、現代オペラとアングラ劇をつなげる論考となった。
ほかに、平川綾真智さんがシュルレアリスムと音楽の関係を考える論考の連載が始まる。これは以前「エウメニデス」(小島きみ子さん編集発行の詩誌)で発表されたものの続編にあたる。さらに短歌の加藤英彦さんが十五首詠「水の素描」で参加して下さっているのと、南原充士さんが「雲遊泥泳」で若い世代の詩人を論ずるコーナーを開始(今号は「望月遊馬篇」)したのが新しい。井上郷子さんの批評連載、今回は作曲家の田中聰さんを取り上げている。さらに神品芳夫さんによる南原充士論にもご注目いただきたい。
(池田康)
posted by 洪水HQ at 15:50| Comment(0) | 日記

2016年07月06日

中村明一リサイタル

尺八奏者の中村明一さんのリサイタル「明暗真法流、「三谷」の流れ」が昨夜よみうり大手町ホールで開かれた。二枚組CD『鶴の巣籠』の発売記念として。前半の曲目は、「吟龍虚空」「鹿の遠音」「鶴の巣籠」の三曲で、それぞれ三尺一寸、二尺三寸、一尺八寸の長さの尺八で演奏され、音色の違いを実感することができた。後半は越後明暗流尺八保存会の虚無僧姿の奏者七人の合奏「大和調」「下田三谷」のあと、またソロに戻り、「三谷」「神保三谷」が演奏された。大きなホールを尺八一本で静寂させ支配するのだから驚嘆だ。尺八はまことに不思議な楽器で、ギターのように同時に何種類もの音を出すことができ、瞬間ごとに変化する神出鬼没のノイズ気味の微妙きわまる付帯音でもって予測のつかない響きを生み出す。その変化で曲を作っていくのだが、部分によっては非常に華やかでありつつ、通常の音楽とはかけ離れた自然そのものの持続のあり方で、なんの疑念もなく聞き入ってしまう。呼吸がそのまま歌になる、いってみれば山川草木悉皆音楽、一本の竹の笛でここまでできるのかと感銘を覚えた。中村明一さんには「洪水」10号の佐藤聰明特集で対談に登場していただいている。
この日は午後に単行本制作の打ち合わせ、山野楽器銀座本店への「洪水」18号納品をして、時間があまったので映画「ブルックリン」を観た。1950年ごろアイルランドの娘がアメリカのニューヨークに移民として渡る話。映画表現としての純情な上品さに穏やかに酔う。この映画と中村明一リサイタルとは案外にいい組み合わせだったかもしれない。
(池田康)
posted by 洪水HQ at 20:54| Comment(0) | 日記

2016年07月02日

いよいよ猛暑か

昨日今日と暑かった。夏の入り口は適応するのが大変だ。昨日は外出する用事があり、8キロ離れた小田急の駅に向かったのだが、途中田んぼが広がる場所があり、足を止め、近づいて覗きこんでみた。稲は青々と30センチくらい伸びていて、水の中にはメダカやオタマジャクシやタニシや小さなザリガニがのんびりと運動していた。こういうところは昔と変わらず懐かしく、たまにはつれづれなるぼんやり顔で田んぼを覗くのもよい。
「洪水」18号が無事完成した。いま発送準備をしているところ。内容についてはまた改めて紹介したい。
(池田康)
posted by 洪水HQ at 22:14| Comment(0) | 日記

2016年06月25日

マジックはなにをしでかすか

先日、ウッディ・アレンの最新作「教授のおかしな妄想殺人」を観た。ヒロイン(エマ・ストーン)のヴィーナスぶりにびっくりし、人間の根源的なアポリアを巧妙にシナリオに混ぜ込んでくるアレン監督の手業も見所だが、舞台がニューポートでジャズが始終鳴っているのにもときめいた。この映画がジャズの視点からどう語られるかを考えてみるに、一方で男の殺人を法の正義と常識から裁こうとするガールフレンドAがいて、他方ガールフレンドBは殺人だろうがなんだろうがお構いなしに男と生活を共にしようとする、そのAとBの間の心の怖いグレーゾーンをジャズはふーらふらと流れるのだろうと思われた。
さて、そして、その前の作「マジック・イン・ムーンライト」をDVDで観る。うまいねえ。ビリー・ワイルダー並みにうまいのではないか。この作品がそんなに評判になった記憶もないから、こういうのは今どきあまり評価されないのだろう。濃厚な芸術作品やど派手な娯楽作品は注目されても、小粋で上品なウェルメードさを磨き上げる職人的営為は看過される。コメディをコメディとして軽やかに楽しむ文化は衰退しつつあるのか。終盤、主人公の男がトランプの一人遊びをしているおばさんと話をするシーンで、第六感覚的なギアのかみ合い方で対話が優雅に舞うように進むのを見入った。千里眼はなにげないところにある、おばさんマジック最強。百年ぐらい前の時代設定で、その頃の無邪気で賑やかなジャズが、いかしたクラシックカーとともに、楽しい。
追記
舞台は南フランスだが主人公はイギリス人で、オスカー・ワイルドを思わせる皮肉な諧謔を連発、典型的なイングリッシュマンの複雑怪奇な?人間性にまみえることができる。彼らは賢明なのか、度し難い賭け好き冒険好きなのか(イギリスの賭け屋は有名!)、まさに賭けに出たEU残留離脱を問う国民投票でEU離脱が決まり、そちらの派の人間が「インデペンデンツデイ!」と嬉しそうに叫んでいた(ニュース番組で)。キャメロン首相の図らずもの「マジック」は吉を呼んだのだろうか。
(池田康)
posted by 洪水HQ at 11:27| Comment(0) | 日記

2016年06月20日

映画『飯舘村の母ちゃんたち 土とともに』

この春公開の、古居みずえさんが監督・撮影をして作ったドキュメンタリー映画『飯舘村の母ちゃんたち 土とともに』を観る。2011年の大震災での原発事故のため避難生活を強いられた福島県飯舘村の人々。菅野瑩子さんと菅野芳子さんは姉妹ではないが親戚で親友、村でも伊達市の避難所でも隣同士で、畑仕事を一緒にしながら暮らしている。そしてときどき帰る村での家回りの世話と墓参り、石段をのぼって神社でのお祈り。季節に応じて収穫される野菜も、飾らない地味な料理のかずかず(とくに凍み餅)も淡くやさしい光を放つ。なによりも「穫れたての福島弁」が溌剌として活きがよく、これを聞くだけでもこの映画を観る価値がある。仮設住宅での不本意な暮しの中での「ばば漫才」(←ちらしにそう書いてある)の笑いがまた健康的だ。「泣ぐ泣ぐがんばれえ」、「ありがたい時代だ、ありがたい時代です」(←もちろん皮肉)、「猫背しょって歩いてたら、だめだあ」など、印象的な言葉が心に残る。二人の80歳をまたいでの苦しい数年がフィルムに収められた。
古居さんには昔、「アジアウェーブ」という雑誌でインタビューしたことがある。あの時は録音を失敗して、話を再現するのに大汗をかいた。後にも先にもあんなへまなことはあの時だけで、よく覚えている。古居さんはパレスチナなどを取材する硬派のフリージャーナリストだが、今回国内に戻りこのような作品を撮ったのは、ここにも一つの戦場を見出したのだろうか。死者数万とかいう類ではないが、非常な忍耐を強いられる、華々しい勝利は望めない、「ありがたい時代」のつらい戦場だ。
(池田康)

追記:
同作品は自主上映会を募っているとのこと。
概要
基本上映料6万円(1日1回上映、入場者100人まで)
2回目以降はプラス4万円。
問合せは「映画「飯舘村の母ちゃん」制作支援の会」まで
iitate.motherprojects@gmail.com
FAX03-3209-8336
posted by 洪水HQ at 21:40| Comment(0) | 日記

2016年06月17日

ユニークに変な曲

洪水次号の編集がやっと終わり印刷所に入れた。ヘビーな特集(オペラ、音楽劇)から頭を振りほどいて、ポップスのことなぞ。
スターダスト・レビューは去年ラジオやテレビで何度か見聞きする機会がありそれで関心をもってある時期ちょっと集中して聴いていた。ベスト盤以外にはじめて手にとったオリジナルアルバム『楽団』はみずみずしく素直に魅せられた。『SORA』も楽しく聴く。歌声が帯びる哀愁は憂歌団に似たところがあるが、後者が胸底の屈託に由来するジャズやブルースの破れを不可欠の持ち味として見せるのに対して、星屑団(スタレビ)はポップスの仕事としての姿勢を保ち全体にはきれいに整った演奏を聴かせると言えそう、「夢伝説」などヒット曲のスマートなかっこよさを実現している。そんな中で「ブラックペッパーのたっぷりきいた私の作ったオニオンスライス」はタイトル通り刺激が強い。この曲はグループの早い時期のもののようで、そのころのヴァージョンはちょっと締まりがゆるくもっさりしているが、ベスト盤『STARS』に入っている演奏はとてもメリハリが鋭角で爽快だ。伴奏もいきがいい。ライヴで聴けばいっそうぶっとぶかもしれない。
小沢健二『LIFE』は季節が春になったころにCDプレーヤーに入れたら出てこなくなって何回も繰り返しかけていた。この歌手は、どこがいいのだろう、弾みかた、リズム感覚の歯切れの良さだろうか。現在売り出し中の男性歌手たちと比べても、小沢健二はよかったなと思わせるものがある(思わず過去形を使ってしまう不在感はなんなのか、今どこかでライブをやっているとも聞くが)。派手にポール・サイモンを引用している「ぼくらが旅に出る理由」やパラダイスで歌っているような「愛し愛されて生きるのさ」(『Graceland』なんかからリズム思想やworld musicの志向を受け継いだ、ある種の正統性(おおげさに言えば音楽史的大義)をもったパラダイス幻想と解したいのだが)もとてもいいけれど、聞く度に唸ってしまうのが「今夜はブギー・バック」だった。ラップも織り込んだこういう作りの曲として異数の個性的な完成度を誇っていて、パラダイス・シンガーの影の部分、思いの滞留のかそけさが美しい。
森山良子の新譜『Touch me...』は50周年記念だそうで、ストイックに作り込んだ名盤というよりもいろいろなタイプと趣向の曲が寄り集まった賑やかな祭盤といった感じだ。テレビで聴いた「今」(息子さんの曲)が心に引っかかったので手にとったのだが、最初から最後まで、芝居っ気たっぷりの曲も含めて、楽しめる。3曲目の「聖者の行進」はあの有名な曲だが、前田憲男のアレンジで、過去の著名なジャズプレーヤーの演奏の断片をパッチワークのようにつなげてあり、それに合わせる歌声も巧みで、有頂天の上機嫌さがなんとも愉快。もし「今」をシングルで出すことがあるなら、これをB面にして、「この道が教えてくれました」あるいは「Sing My Life」(どちらも秀歌)をC面にして出せば、今年の指折りの盤になるのではないだろうか。
(池田康)
posted by 洪水HQ at 12:18| Comment(0) | 日記

2016年06月12日

大西久美子歌集批評会など

昨日は午後、中野サンプラザ研修室で行われた大西久美子歌集『イーハトーブの数式』(書肆侃侃房)の批評会に参加した。加藤治郎さんのご案内で。パネリストは、大松達知、鯨井可菜子、服部真里子、藤原龍一郎、加藤治郎(司会)、の皆さん。周到で熱の入った議論に、歌人たちは丁寧に細やかに作品に接すると感心する。議論の過程で注目されていた歌を挙げると、

 夕方をひきずるやうに通過する夏の平野に駅が落ちてゐる
 やはらかい雨の近づく昼下りクリームパンを柩に入れる
 鰐園の鰐の眼、父にふと見えてゐるのかわたし生きてゐるのか
 ひつそりと書棚の奥のしらまゆみHAL9000はだれを待ちゐる

など。私が読んで印をつけた歌を三首ほど挙げれば、

 ダンプ車の運ぶ瓦礫に金属の混じりてけふの夕陽を弾く
 白樺の根もとに昏く眠る蝉 わたしは夢のなかにゐるのか
 薄闇にアドレスひとつ削除するつららの落ちる音を聞きつつ

一首目は、theアララギというか、写生の凄みを感じた。この歌集の大きなテーマと直接結びつくというわけではないが。二首目、父親の死に際しての悲しみはいろいろな角度から詠まれて本歌集の一つの核となっているが、この一首がもっとも永続的な鈍い痛みを感じさせる。三首目、つららの音が唐突に思えるが岩手出身の作者の耳の奥にいつも隠れているのだろう。
そのあと、トロッタの会23コンサート(早稲田奉仕園)へ。前半しか聴けなかったが、サティの曲や、「Hydrogen燦舞曲」(酒井健吉)、「空の死」(高橋通)が面白味もあり、ちょっとよかった。
(池田康)
posted by 洪水HQ at 11:27| Comment(2) | 日記

2016年06月09日

平野晴子さん中日詩賞

平野晴子さんが詩集『黎明のバケツ』(洪水企画)で第56回中日詩賞(中部地方の詩人たちの団体である中日詩人会が主催)を受賞しました。おめでとうございます!
(池田康)
posted by 洪水HQ at 18:55| Comment(0) | 日記

2016年06月07日

菅井敏文詩集『コラージュ』

コラージュ表紙画像.jpg菅井敏文さんの第二詩集『コラージュ』が洪水企画から出た。詩集にもいろいろあり、狭くテーマを絞って作品世界を構築するもの、全体に物語的な流れが感じられるもの、詩型・スタイルが意図して統一されているもの、生活の中で自然に生まれてきた私小説的抒情詩を素直に編んだもの、等々、多様な行き方が考えられるが、この詩集はタイトル「コラージュ」からも推測される通り、前衛的なつくりの作品からシンプルな述懐の詩まで幅広い形の詩をあえて意識的に一つの場に集合させている。帯に引用した「カンパネラ」は、菅井さんが拙事務所へ打ち合わせに来られた折、吉岡実のことが話題にのぼったので、吉岡詩になんとなく近そうなものを選んで載せたのだが、その最後の部分はこうだ。

 魔方陣
 羽をむしられた蝶が
 仏像からころがり出る
 急いで
 カンパネラ
 円盤を暗闇のカーテンが
 包んで
 空を
 食人植物が支配する

他方、読めば誰でも親しめそうなものとしては、たとえば「壺」「わたしとは何者であるか」などが秀作として挙げられるだろう。死を前にしての粛然とした気分を巧みにつかまえる前者の最終連はこうなっている。

 人生を壺に納める
 納めきれなくても納めて
 人生の決着をそこでつける
 死は生きている人の死となる
 それぞれのやり方で
 それぞれの思いで
 人は死に向かって
 死を置いて
 歩き始める

この大コラージュ画全体のトーンと力動をぜひ味わって頂きたい。
(池田康)
posted by 洪水HQ at 21:26| Comment(0) | 日記