2023年02月13日

高橋馨詩集『蔓とイグアナ』

表紙画像S.jpg高橋馨さんが詩集『蔓とイグアナ』を洪水企画から刊行した。一昨年の『それゆく日々よ』に続く作品集。A5並製96ページ、1800円+税。スナップ写真と詩を組み合わせて異次元の諧謔の対話を試みる第一部、自由線画の奔放自在な実践の成果を世に問う第二部、ヴァージニア・ウルフ「ダロウェイ夫人」の鋭利な読解に熱を帯びる第三部からなり、詩人・高橋馨の異才ぶりが存分に発揮されている。
第一部の様子は、冒頭の作品「記憶の階段」を読むのがいいか。街の通りを女の人?が日傘を差して歩いており、その影が道にくっきりと落ちていて印象的で、背後の建物の細い隙間に上階へと上がってゆく骨だけの階段がわずかに見えている、そんな写真に、次のような詩テキストが添えられている。

 泣き出したくなるほど
 懐かしい なのに
 どうしても 思い出せない場処がある。

写真と対話し、沈思し、からかい、戯れる、そんな雅な試みと見える。
第二部の自由線画については詩人自身の言葉を聞こう。
「自由線画は、何も描かない、無意識の悪戯描きのような手慰みである。何かに似てきたと気づいたら、物理的に抹消するのではなく、その線を生かしつつ、別のイメージとして描き続けねばならない。つまり描かれた線は抹消されない。(中略)わたしが、自由線画に求めたのは、おおらかな夢とユーモアと線の根源的な優美さと明晰さの四点である。例えば、ギリシアの壺絵のような──。」
“無意識の悪戯描き”の自由線画40点が載っており、眺めて楽しむのみ。夢なるものをある仕方で結晶させたらこのような形象になるのかもしれない。
第三部の「ダロウェイ夫人」論はとても犀利で、刺戟を受けること間違いない。
「あらゆる対象(オブジェ)・他者には、自我に対する喚起力が潜んでいる。そうした意味で、鏡である。逆にその喚起力が働かなければ、他者でもなければ鏡でもない。窓辺の老婦人が真の喚起力を発揮するためには、セプティマスの悲惨きわまりない自殺を、衝撃をもってクラリッサが受け止めなければ、老婦人の静謐なたたずまいが、他者として対象とは決してならず、自己肯定的な陶酔的なドリアン・グレイ流の肖像にしか過ぎない。老婦人とクラリッサとの間に深刻な断絶あるいは断層を想定して始めて二人の間にシンパシィーが成立するのだ。」
とか、
「ピーター・ウォルシュとは、だれであろうか、ケンジントン公園のピーター・パン、すなわちポエジーの化身なのだ。」
とか、ドキリとさせられることがたくさん書かれていて、非常に重みのある評論となっている。
ぜひ時間をかけて丹念にご覧いただきたい。
(池田康)
posted by 洪水HQ at 10:07| 日記

2023年02月02日

野村家の三冊

昨秋は野村喜和夫・眞里子さん夫妻にとって非常に稔り豊かだったようだ。
喜和夫氏は詩集『美しい人生』(港の人)と評論集『シュルレアリスムへの旅』(水声社)を、そして眞里子さんはエッセイ集『アンダルシア夢うつつ』(白水社)を上梓した。秋なのに満開の春を謳歌している!?
『アンダルシア夢うつつ』は「南に着くと、そこにはフラメンコがあった」という副題がついている通り、フラメンコダンサーの著者がフラメンコについて、そしてスペインの生活・文化について広い視野で細やかにつづっており、しかも読みやすく楽々とページが進む。リズム、詞、衣裳、歴史、年中行事、代表的ダンサーや奏者など語られて、フラメンコの文化としての奥行きが多角的に示され、この舞踊ジャンルへの距離が一気に縮まる感がある。しかしなによりも著者の行動力には脱帽だ。専門家としてフラメンコに関するもろもろの知識を披露するページももちろんおもしろく読めるが、本人が現地に行って、特別の人やものと出会う場面は一つ一つがスリルと冒険であり、熱量が著しく高まり、本書の一番の読みどころと言えるだろう。
野村喜和夫詩集『美しい人生』は、書名も驚きだが、この詩人にしては例外的に素直でストレートな書きぶりの作品が多く収録されていて、仰天した。前半の3章「美しい人生」「場面集」「伝説集」がとくにその傾向がある。焼きつけられる思いがしたのが、第一章IX「(たとえいま街々が──)」の中の次のくだり。

 きょうも私は私自身を覗き込む
 その真ん中の
 心と呼ばれるもの
 さらに真ん中のあたりで
 独楽のように静かに回転している美しいあれを
 なんと呼べばいいのだろう
 簡単には言葉にできないけれど
 それでも言葉にしたい
 生きる力そのもののような
 美しいあれを

『シュルレアリスムへの旅』については「みらいらん」11号で紹介したのでここでは省く。これらの充実した本は、コロナウイルス騒動の三年をくぐったからこそ生まれた、という面もあるのかもしれない。ちなみにこの春には、喜和夫氏の対談集『ディアロゴスの12の楕円』が洪水企画から刊行の予定となっている。
(池田康)

追記
野村喜和夫さんの『美しい人生』は第4回大岡信賞を受賞したとのこと、おめでとうございます。
posted by 洪水HQ at 12:10| 日記

2023年01月21日

作曲家エンニオ・モリコーネの仕事

いま、仕事やらなにやらでやたら立て込んでいるのだが、その間隙を縫って、映画「モリコーネ 映画が恋した音楽家」(ジュゼッペ・トルナトーレ)を見た。映画音楽で活躍したイタリアの作曲家エンニオ・モリコーネのドキュメンタリー。このジャンルの映画は鑑賞者を限定しそうだ。しかし映画・ドラマに関心がある人はぜひ見るべきだし、音楽が好きな人も二十世紀の音楽の動向を確かめるために見逃してはいけないだろう。とすると、ほぼすべての人に勧められる映画ということになる!? モリコーネが参加した代表的な作品の音楽のサワリが彼の解説に伴われて次々と奏され、魔法のようにこちらの耳に踊りこんできて魅惑し、音楽のインスピレーションが裸形で立ち現れる、その驚異。今月見るべき最重要の一本。
(池田康)
posted by 洪水HQ at 11:00| 日記

2023年01月17日

壁画12号&その他のお知らせ

個人誌「壁画」12号をつくりましたので、次のリンクからご覧下さい。
http://www.kozui.net/artnote/hekiga/hekiga12.pdf

その他の情報、お知らせなど。
杉本徹さんから連絡をいただいたのだが、慶応義塾大学アートセンター(三田キャンパス)で、「西脇順三郎没後40年記念 フローラの旅展」が始まっているようだ。3月17日まで。西脇が野の草木を愛したことを巡る展示のよう。土日祝日は休館。
それから、阿部弘一さんが逝去されたとのこと。ご遺族の方からご連絡をいただいた。お会いしたことはなかったように思うが、弊社の雑誌に何度かご寄稿いただいている。ご冥福をお祈りいたします。
(池田康)
posted by 洪水HQ at 17:59| 日記

2023年01月07日

この正月の読書

この正月は久し振りの小旅行に出かけ、気持ちを新たにすることができた。人混みにもまれながらも、どこまでも広がりつづける風景を楽しみ、なつかしさに呼吸が深くなる瞬間もあった。
旅先の本屋で見つけたのが、マルクス・ティール著(小山田豊訳)『マリス・ヤンソンス すべては音楽のために』(春秋社)だ。昨年の夏の刊。この指揮者を贔屓にしていてCDを何十枚も持っている私としては、読まないわけにいかない。
ヤンスンスの音楽家人生が詳細に辿られるのはもちろんだが、オーケストラと指揮者との関係がいかなるものかを知るためにも大変参考になる本。首席指揮者はそのオーケストラの「シェフ」であり、養育者(オーケストラビルダー)であって、誰を「シェフ」に迎えるかについて各オーケストラの責任者・経営陣は本当に真剣に熟考、検討を重ねる。あたかも一国のリーダーを選ぶのと似ているかもしれない。その生理、化学反応、個性にそった成長のありさまがすべての頁にいきいきと描写されていて、活動の奥行きが可視化され、オーケストラ音楽について理解を深くすることができる。
ヤンソンスの音楽家生活で惜しまれることが一つあるとすれば、オペラを振る機会が少なかったことだろうか。とくにワーグナーは断片的に取り上げただけでオペラ作品を一曲通して演奏する機会がなかったようなのはとても残念だ。
そのほか、この正月に遭遇したり情報をもらった出版物について述べると、いりの舎から『玉城徹訳詩集』が出たこと(ゲーテ作品が多い)、南原充士さんが新しい詩集『遡及2022』をアマゾンkindleで出したこと、それから元旦には高岡修句集『蝶瞰図』(ジャプラン)を読んでいた。陽炎のヴァギナ……の句はことに印象に残った。
(池田康)
posted by 洪水HQ at 12:50| 日記

2022年12月30日

みらいらん11号

mln11.jpgみらいらん11号が完成した。
小特集「本ってなに?」は本という存在について改めて考える試み。ヨーロッパ古代・中世文学研究の沓掛良彦氏へのインタビューで詩歌の歴史と本の歴史を並行してお話しいただいたほか、エッセイを田野倉康一、高階杞一、松村信人、佐相憲一、高岡修、秋亜綺羅、小川英晴、土渕信彦、宇佐美孝二のみなさんにご寄稿いただいた。さらにアンケートに10名の方々からご回答をいただいた。本の本質と現実について、どれだけ新しい視野が拓けただろうか。
野村喜和夫氏の対談シリーズ、今回はカニエ・ナハ氏と「二十一世紀日本語詩の可能性」。ここ20年ほどの日本の詩のことと、造本の諸面の魅力のことなど。今回を一区切りとして、野村喜和夫対談集『ディアロゴスの12の楕円』(洪水企画)にまとめる予定。
巻頭詩は吉増剛造、渡邊十絲子、添田馨、江夏名枝、小見さゆり、七まどかの六氏。俳句は高山れおな氏に寄稿いただいた。
表紙は國峰照子さんのオブジェ作品「処刑」。
さらに詳しい内容は下記リンク先をご覧いただきたい。
http://www.kozui.net/mln11.html
巻頭の吉増さんの詩についてエピソードを記せば、映画「眩暈 VERTIGO」(12月15日の項を参照ください)の公開初日に東京都写真美術館のカフェで生原稿をいただいたのだが(スキャンしたものを本誌に掲載してある)、いきなり未知の森に迷い込んだようで、ご本人を前にして、読みあぐねる箇所の読み方をおそるおそるお尋ねしながら、手探りで読み進んだ15分ほどの恐怖の神秘は忘れられない。自由気ままに書かれているようにも見えるが、活字に組む際に助詞を一つ間違えていて、校正で直していただき、その一字の違いで脈絡ががらりと変わるのを体験し、しっかりした流れがあるのだと認識をあらたにしたことだった。ご注意いただきたいのが3行目、“ひらなが”となっているところ。これは“ひらがな”を間違えて“ひらなが”と言っているのであり、おさなごの感覚を想起している。言葉の立ち上がる瞬間のあやうい過程をおさなごの感受性でつかまえようとするところに吉増詩の極意の一端があると言えそうだ。「光」というタイトルも特別で、ありがたいことだった。
(池田康)
posted by 洪水HQ at 13:15| 日記

2022年12月18日

愛敬浩一著『草森紳一「以後」を歩く』

表紙2.jpg愛敬浩一さんの草森紳一論の第二弾が出る。前の本に続き、〈詩人の遠征〉シリーズ第14巻。タイトルは『草森紳一「以後」を歩く』で、「李賀の「魂」から、副島種臣の「理念」へ」というサブタイトルがつく。税込1980円。
晩年の草森紳一は、明治期の政治家にして漢詩人の副島種臣にこだわって論考的文章を書き続けていた(気が長すぎたのか、未完)。そんな草森を見つめる「副島種臣が隠れていた」「漢字という大陸」ほか、詩人・大手拓次、小説家・島尾敏雄、画家・中原淳一を草森がどう考えたかを論じた諸篇を収める。どの論考においても著者の眼差しは柔軟にして鋭く、草森紳一の思考の根本に迫っていく。
あとがきを紹介しよう。
「走り始めてはみたものの、草森紳一の雑文宇宙≠フ果てしなさを実感して、改めて怖じ気立つ思いである。
前著『草森紳一の問い』と同様に、シリーズ第二弾となる本書も、草森紳一の「人と作品」ではなく、まして「評伝」や「論考」などとは無縁な、思いつきで書かれただけの、何とも雑駁で、ちぐはぐな感想の積み重ねに過ぎない。今はただ、その草森紳一「以後」≠少しのぞき見たことで足れり、としておく。
さて、「理念」とは既知であり、見慣れたものなのであろうが、見慣れたものこそが「認識する」ことが最も難しいと、ニーチェ/村井則夫=訳『喜ばしき知恵』(河出文庫・二〇一二年十月)の三五五番にある。「見慣れたものを問題として見ること、それを未知のもの、遠いもの」としてみなすことこそが、最も困難なことなのであろう。」
愛敬氏はまさに歩く速度で、けっして急がず、寄り道や回り道をしながら、草森紳一の心の核へと少しずつ近づいていく。拙速を避け、いきり立つことなく、注意深く細かいところを見ようとするゆとりをもった姿勢が自然体で頼もしい。興味ある方はぜひご覧いただきたい。
(池田康)
posted by 洪水HQ at 14:07| 日記

2022年12月16日

虚の筏30号

「虚の筏」30号が完成しました。
今号の参加者は、生野毅、平井達也、久野雅幸、小島きみ子、神泉薫、海埜今日子、たなかあきみつ、の皆さんと小生。
下記リンクからご覧ください。


虚の筏全体の案内:

(池田康)
posted by 洪水HQ at 13:27| 日記

2022年12月15日

映画『眩暈 VERTIGO』

よします映画004s.jpg詩人・吉増剛造が2019年に亡くなった前衛映画作家ジョナス・メカスを悼んで1年後にニューヨークを訪れるドキュメンタリーを主軸にした映画『眩暈 VERTIGO』(監督=井上春生)が今月13日から東京都写真美術館で公開上映されている(25日まで)。すでに国際映画祭で多くの栄誉を獲得しているとのこと。
難民の苦難(メカス本人の経歴)、9・11ツインタワービルの惨事、東日本大震災、二十世紀の詩の脈動(ツェランの朗読の声!)。文脈の絡み合いが非常に重層的で、流れに胸苦しい重みが感じられるのは、主題が詩であるからそれを取り逃がすまいと制作者が力を尽くしたのだろう、入魂の編集。文学テキストがスクリーン上にこのように生き生きと乗ってくる、詩が飾り物としてではなく生命として現われてくるのは驚きだ。
井上監督はプログラムに今作の撮影を回想して「一般的にプロが使う撮影スケジュールの体裁を満たしていない」「予定とは偶然を誘うための、壊されるための脆いシナリオにしか過ぎない」と書いている。台本がほとんどない状態で、どんな勝算をもって制作は始められたのだろうか。「眩暈(めまい)」は予定され得ない。ドキュメンタリーは大なり小なりそういうもので、ヴィム・ヴェンダースがキューバの音楽家たちを撮りにいったときも想定された台本などなかっただろう。しかし今作は詩という風か霞に近いようなものを相手にするわけで、詩への全幅の信頼がなければこの映画は成立しようがない。おそらく井上監督は前作「幻を見るひと」(2018)を通して「吉増剛造の詩」への大いなる信頼を培ったのだろうと推測される。映画の成否を詩に賭けるという制作陣の覚悟にこの作品のもっともドラマティックな面があるのかもしれず、詩歌に携わる人間はそこに感応しないではいられない。
構造の点で言えば、能に似ているところもあるだろうか。ワキの旅の僧として吉増さんが登場し、前ジテはメカス氏の息子さん(が語る最後の日々のメカス氏の姿)、そして後ジテの山場はアコーディオンを鳴らしながらうたうジョナス・メカスだ。彼は恨みや執着に苦しんではいないとしても、表現の世界に生きた人間としての特段の心の重さがあるのは間違いない。詩人・吉増剛造は能のシアトリカル・ダイナミクスを体得している、この詩人の魂マギはかならずや幻妖な能舞台を出現させるだろうと、井上監督は確信していたのではないだろうか。
(池田康)

追記
13日の初日の上映後、吉増剛造・井上春生・城戸朱理三氏のトークショーがあり、試写会のときから最終完成形まで作品が手直しされ刻々と変わっていったことなどが語られた。城戸さんは前作「幻を見るひと」のプロデューサーを務めている。
posted by 洪水HQ at 12:53| 日記

2022年12月10日

追悼・山田兼士さん

山田兼士さんが逝去されたとのこと。なんの予期もなかったので驚いた。早すぎるようにも思うのだが、寿命というものは正誤を判じようがない、仕方がない。ご冥福をお祈りする。
洪水企画では山田兼士詩集『月光の背中』を2016年に刊行している。
http://kozui.sblo.jp/article/177167689.html
今回思い出しながら読み返しているうちに、「カヌーの速度とは」という作品を引用紹介したくなった。小野十三郎の詩の引用の部分2ヵ所の字下げがWebでうまく表示されるか、わからないが。次のとおり。


  ゆっくり
  水を切るカヌーの速度で
  言葉さがしをしている。
         (「カヌーの速度で」冒頭)

小野十三郎詩集は『半分開いた窓』大正十五年から
『冥王星で』平成四年まで全二〇冊
昭和最後は『カヌーの速度で』

第一詩集の蘆が
第三詩集の葦になり
詩誌のコスモスになり
やがて詩集の樹木になり
最後にカヌーになり
冥王星まで旅し
生涯を終えた

  時間をとめて
  カヌーよしずかに
  すべるように
  その中にはいっていけ。  (同末尾)

その空間は広く 深く
時間もまた人間を 軽く
はるかに越えていく

言葉さがしには
ちょうどカヌーの速度が
速くも遅くもない たましいの速度が 
必要と 静かに教えてくれた
八十五歳の詩人の声だ

      たましいの速度…細見和之「言葉の岸」より

(池田康)
posted by 洪水HQ at 18:51| 日記