2018年09月05日

ハバネラを毎日聴く

メゾソプラノの波多野睦美が映画の中の歌を集めたアルバム『CALLING YOU 〜追憶のスクリーン・ミュージック』をこの夏に出した。共演はギターの大萩康司とベースの角田隆太。おなじみの曲が多く収録されていたので聴いてみた。
クールだとかホットだとか歌手のパフォーマンスを褒め称えることがあるが、波多野睦美はそのどちらでもない、中庸の優美を繊細なバネの作動と眠り/覚醒の間をゆく中間色トーンの歌声の独自のスタイルでつきつめる歌手であり、最近の映画音楽でも三百年前の古典曲であるかのように気品ある姿に仕上げるその典雅さが魅力だ。しかしまた「イパネマの娘」「クライ・ミー・ア・リヴァー」「コーリング・ユー」などを聴くとジャズにも入っていけそうな隠微な雰囲気も感じる。
歌劇「カルメン」の「ハバネラ〜恋は野の鳥〜」も収録されていて、芯の静謐さを特長とするこの歌手にはミスマッチのようにも思われたが、聴いてみるととてもよく、能の清浄な空気があると言っては言葉が過ぎるだろうけど、涼しげな風が吹いているようだ。「カルメン」は色彩強烈な音楽なので聴くのは年に一回くらいで十分だと思うのだが、この「ハバネラ」なら毎日でも聴きたい。その前に置かれた「アイルランドの女」もフレージングが的確に寂寥の形を洗い出していてシンプル極まるところの美しさがある。
大萩康司のギターも超絶技巧を披露するわけではないが一つ一つの音のタッチがものを語るようで、聴き入る。
(池田康)
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2018年09月01日

世界爺

近所の図書館で多田智満子のエッセイ集『森の世界爺』(人文書院、1997)を見つけて読んでいる。植物、草や木や花についての文章を集めた本で、持ち前の端正な語り口で古典の教養と博学を駆使して出会った植物たちのことを彼らと対話するようにうっとりと物語る。この詩人は書斎にこもって幻想・夢想の内部を飛翔することに長けているような印象があったが、この本を読むとまめに世界各地に足を運んで土地土地の木たちと対面し、その実際の姿をおのが目に焼きつけるという経験を大切にしており、聖書に出てきた木を実際に見ることがかなって喜んだり、案外に生身での見聞を重視する方であることがわかった。「樹々との出会いも、人との出会いに劣らず、私にとっては重いものになっている」(「文字を指す木」)、「栗拾いとか茸狩とか、そういったたぐいの土くさい遊びは大好きなのである」(「木の実をひろう」)とも述べている。
書名にある世界爺(せかいや)とはセコイアの日本語表記で、ジャイアント・セコイアはアメリカのヨセミテ国立公園に生えている巨木で背丈は大きなものは百メートル近くにもなり、樹齢は二千年あるいは三千年に達するものもあるそうで、「この木は、ひとりでには死なない」とも断言されていて、びっくりしてしまう。ジャイアント・セコイアの生態は山火事をも計算に入れ、それを種子の拡散に利用してさえいるのだそうだ。なにがあっても動じることがなさそうなこの金剛のポエジーの人が三千歳の“世界爺”を見上げてあんぐり口をあけている様を想像するのは楽しい。
日常生活で毎日のように目にしている樹木だが、このような特例中の特例の話を聞かされると、木ってなんだろうと改めて考えさせられる。著者の考えによると、人間も動物たちと同じく森の中に入っていって死ぬのが理想のようで、「森に生まれ、森に生き、森に死ぬ野生の禽獣とちがい、人間は森を離れることで文明への道を歩んできた。永久に木から降りてしまった猿は、彼を育ててくれた樹林の限りない恵みを忘れてしまったかのようだ。/しかし私たちのふるさとである森は、今なお人間のもっとも自然な、もっとも望ましい死に場所であるように思われる」(「森に死す」)とも書かれる。草木と同化する極楽の法悦が夢見られているのだろう。庭に百花を栽培して愛しむ姉は「これが私の浄土なの」と言ったとか(「わたしの浄土」)。
その他、エジプトのパピルスや睡蓮、中近東のなつめ椰子の話、ぶらりとやってきた花咲爺さんの話、東アジアのノアの方舟であった大ひょうたんの話も興味深い。「ゆりの木の花咲く頃」でのエドガー・ポオとチューリップ・ツリー(リリオデンドロン・テュリッピフェルム、和名ゆりの木)のエピソードでは、著者の幻想への執着がやっぱり露わになって楽しかった。また「松の倖せ・不倖せ」では「明治の文明開化このかた、木はとみに短命になった」とあり、慄然とさせられる。
(池田康)
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2018年08月27日

案外平気(という強がりの一席)

夏には麦茶なんかを作って冷蔵庫に入れておくことが多いが、この夏は食料の箱の中に残っていた3年前の麦茶のパックと6年以上前の烏龍茶のパックを使って作っていた。消費期限をはるかに過ぎているけど茶葉だから大丈夫なのではないかと思い、試してみたら、なんともなかったのだった。案外平気なのだ。
平気といえば、この夏はビールを一滴も飲まななかった。アルコールをたくさん飲むと頭が痛くなる種類の人間なので、飲まなくても困ることはないけれど、夏としては珍しいことだ。100%の下戸の人にとっては当然のことだろうけど、ビールなしの夏もありですよと、飲兵衛の方々に提言したい。あり得ないと言われるか。
旅行らしい旅行もしなかった。一つ計画があったのだが、台風が来ていて出かけるのをやめた。最近、逗子の神奈川県立近代美術館に「貝の道」展を見に行ったのが唯一の遠足らしきものか。宝貝の装飾品や財貨としての古からの世界的流通にスポットを当てた企画で、台湾のパイワン族の女性用衣装はみごとだった。南洋の平たい大きな貝の貝貨もこれがお金として使われたのかと興味深い。快晴の日の逗子の海岸は賑わっていた。
(池田康)
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2018年08月21日

立秋の涼しさを求めて

残暑の挨拶をする時期になってきた。二週間前は酷暑地獄だったが、いまはこういう日和なら夏の日々もいいなあと感じる。夜道を原付で走っていると秋の虫のすだきが聞こえてきて、なんとも涼しげだ。
最近、心がスッとした体験といえば、まず「ドラゴンボール」(鳥山明)の最初の数巻を、数十年ぶりに読んだこと。“マンガの絶好調”がここにはある。シーンのナンセンスぶりが衝撃の、ギャグマンガの涼やかさ。「心がきれいじゃない」故に筋斗雲に乗れないブルマやクリリンもかわいい。
シュペルヴィエルの短篇や中篇の小説もいくつか読んだ(光文社古典新訳文庫やみすず書房の短篇選で)。ファンタジー的発想の軽やかさが独自性を際立たせて、世界の見え方がちがってくるような感覚に見舞われる。この人はわれわれとは違った論理学(言ってみれば天使の論理学)を持っている。
それから、ひょんな機縁で、フリッツ・ラングの映画を二本ほど見た(渋谷・シネマヴェーラにて)。的確な組み立てにほれぼれする。絶妙に測られた残酷さ。白黒の美もある。よくできた古い映画を見ると、これも心がスッとするのだ。
8月後半に入って意外に仕事が重なってきて、なんとなく忙しい気分でいる。忙しいと普段気になることもさほど気にならず、もうこの夏は乗り切ったと安心していいのだろうか。いや、台風がまた二つ近づいてきていると天気予報が告げている。
(池田康)
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2018年08月11日

吉増剛造展「涯テノ詩聲」

yosimasugozoten.jpg本日から、渋谷の松濤美術館で上記展覧会が開催される(9月24日まで)。詩人・吉増剛造の半世紀以上にわたる活動の軌跡を、詩集とその原稿、自ら露光を工夫して撮影する写真作品、若林奮から贈られた金槌を用いて造型したオブジェ、そして同時代で交わったいろんな分野の作家たちの作品と尊敬する先人たちの仕事を展示して紹介、考究する。昨日取材の会があったので参加した。この美術館はこじんまりした無機的ではない生命感あるまとまりの空間で、あたかも楕円形の繭のようで、これら奔放に世界へ向けて出された作品たちはここにひとときの親密な「家」を見つけたなという印象を受けた。
戦後の泥沼からもがき苦しむように詩を書いてきたこと、徹底的に手で字を書くことにこだわり、それが音楽行為とさえ感じられてきたこと、60年代の熱い空気と同時代者たちからの影響関係(とりわけ大岡信の美術批評について語られた)、3・11以降の7年間の重みと吉本隆明の詩の筆写の作業のこと……宝貝(柳田国男の記念)やら牡蠣殻(エルンストの記念)やら母親の葉書やらをぶらさげたモビール風の「楽器」を手に持ちながら、自らの活動の道筋を、整然とではないにしても理路を大切にして流れるように解説する吉増氏の姿と、展示された作品群が示す壮大な混沌との間のギャップにたえず漂う歌の振幅を感じた。
詩人・吉増剛造はシャーマンの要素が濃く、その意味で近現代の枠からはみ出る存在であり、自分たちの暮らしている近現代の理性の枠を堅持しようとすると、わからない、ということになるのかもしれないが、我々のありうべき「古代」を体現する表現者として捉えるなら、その層を切り開く切先として、これらの表現の軌跡を共感をもって受け止めることができるのではなかろうか。
(池田康)
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2018年08月05日

花火大会

近隣の花火大会が昨日あり、大会会場には行かなかったが、花火が見える小高いところまで赴いてすこし見物した。打ち上げ花火をしっかりと見るのは久しぶりだ。思ったより色彩華やかで見とれる。打ち上げの音も風景を揺するような迫力がある。その場所に集まった多くの人たちからも(とくに少年少女たち)さかんに歓声があがっていた。高く上がった花火は天から垂れさがっているらしき雲の内部に隠れることもあり、水蒸気の繭の内側から光る景色も珍しかった。この大会、本当は一週間前に開催されるはずだったのが台風で順延となり、この日開催されたということのようだ。昨日の昼頃開催に気づいたのだが、見ることができて幸運だった。花火職人健在也と感謝とともにつぶやくたくなる、夏の最も贅沢な遊び(いや、甲子園にはかなわない!?)。
(池田康)
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2018年07月30日

モルポワの「リリシズム」

猛暑、台風、そしてまた猛暑と、サバイバルの意識を持たざるを得ない日々が続いているが、そんな中でも桃やスモモをかじったり西瓜を食らったり、機会を逃さず夏を楽しもうとする、生きるということはいつも貪欲だ。
ここ一週間ほど、有働薫さんが訳したジャン=ミッシェル・モルポワ『イギリス風の朝』(思潮社)を読んでいた。
知的に絢爛で鋭利な詩句があらゆる場所で見出されて、まばゆい。とりわけ次のような箇所に惹かれた。
「生きること、それは愛するすべての物事の間で途方に暮れることだ。母親を探す子供のように。」(「散歩についての短い賛辞」)
「私たちは最初の一条の日の光が灰色がかった水をしみ出させるこのよごれた雪だるまを、私たちの心と呼ぶ。」(「わびしい街はずれ」)
「わたしは心のなかに空想家の眼をした迷子の子供を持っている。白い壁の部屋のなかの一ふしの音楽のような。」(「子供じみて」)
モルポワはこの本で「リリシズム」という語を使って自分の詩の思想を収斂させようとしている。それは既成の文学形式の方法論ではなく、生そのものと表現とを結ぶなにかとても重要な秘密の道であるようだ。それはたとえばこんなふうに語られる。
「書くという冒険の極限の場所に、空白のページが震えるときに、長い間保留にされていた唯一の質問――それは歌かどうか――が生まれる。リリシズムとはこの不安のことである。」(「序曲」)
「リリシズム、自分のねぐらをけっして見つけないように強いられた、さまよう言葉。」(「リリシズムの言葉」)
「リリシズムのなかには対立した二つの熱望がある。一つは祝祭への熱望であり、他方は死へのあこがれである。」(「リリシズムの言葉」)
「リリシズムの状態とは、われわれの運命が突然明らかになったときにわれわれをとらえるこの興奮のことである。霊感とは、それが私たちの存在だけしか照らさないのではなくて、それと共に世界全体を照らすようなものである。リリシズムは陶酔を手に入れ、そこから竪琴の伝説が始まる。」(「イギリス風の朝」)
彼にとってはリリシズム論は真の人生論なのかもしれない。
書名は、ルソーの「新エロイーズ」の一節を論じたエッセイから来ている。「親愛の理想郷」の感動を捉えようとする試みと言えるだろうか。
(池田康)
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2018年07月27日

詩集『エチュード 四肆舞』について

etudeshishimai.jpg愚生の新しい詩集『エチュード 四肆舞』が完成した。継続的に168篇までを書き、その一部をときおり「虚の筏」などで発表してきた“etude四肆舞”シリーズ(4行1連×4の16行の詩)から48篇を選んで一冊にした。エチュードという種目は音楽では12曲を1セットにすることが多いからそれに倣って、12×4章で48篇ということにあいなった。構成がうまくいっているかどうか、ご覧下さり、ご判断いただければ幸いだ。四六変形、ソフトカバー、112頁、本体1800円+税。
(池田康)

追記
manrayistさんがブログ記事を書いて下さいました。

瀬崎祐さんがブログ記事を書いて下さいました。
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2018年07月25日

キューバ音楽の秘法

buenavistasocialclubadios.jpg映画「ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ★アディオス」(ルーシー・ウォーカー監督)を観た。彼らキューバの老楽士たちの生々しい名演に再び接することができて幸せだった。キューバという国の歴史も政治と社会風俗の両面から見えてくる。キューバの伝統音楽「ソン」の魅力はなんなのだろうかと改めて考えてみるのだが、なかなかうまく言い当てられない気がする。独特にhighな感じ、強烈な音楽の常夏。どうやったらこうなるのか、圧倒的な「歌の波」が生まれ、襲いかかってきて流されるのを感じる。代表曲「カンデラ」は「火」という意味だそうだ。音楽的興趣の作り方に秘法があるのだろう、模倣を試み成功するミュージシャンが出てこない点からも、接近困難な高度さがうかがわれる(まだ秘法は解かれていない!)。「アディオス」というのはサヨナラの意味らしい。時とともにオリジナルメンバーが亡くなったり演奏できなくなったりして、グループとして終焉が見えてきているのだろうか。映画の最後の方は感慨でいっぱいになりながら聴いているだけだ。
(池田康)
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2018年07月11日

水の豊かさの怖さ

タイでは洞窟内の13人が救出されたが……。先週中国地方を襲った大雨の猛威は予想外に強大で驚いた。地震とか台風とか言われると身構えるが雨がたくさん降るというだけではなかなか警戒心が立ち上がりにくいのだろう、一つの町が一夜にして泥水に浸かるというのは悪夢だ。「治人」とか「治獣」という表現は聞かないが、「治水」という言葉は十分に熟していることからみても、治水は古来国政の重要なテーマだったのだろう。陽光の豊かな地域は陽光を恐れなければならず、水が豊かな地域は水を恐れなければならない。ナイル川の氾濫はエジプトの地に豊穣をもたらしたが、それはそうした自然の変化をカレンダー上に予定し柔軟に順応できる生活様式を確立した上でのことだ。
「みらいらん」2号のインタビューで人類学の篠田謙一さんが、文明の衰滅する要因として、社会学的なことよりもむしろ自然の脅威を第一に考えると発言しておられたが、本当に、我々は安定した自然環境をアテにして生活しているけど、それは常に100%恵まれ満たされるわけではないのだと、こういう災害があると思い知らされる。
(池田康)
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