2024年11月09日

『玉井國太郎詩集』続報

11月4日の京都新聞の詩集評コラム「詩歌の本棚」(担当・河津聖恵)で『玉井國太郎詩集』が取り上げられた。「理由は知る由もないが、全ての作品に世界の外部に触れるような危うさと美しさがある」「最後まで詩の「夢見る力」を信じて懸命に生きたことは、作品全てから痛いほど伝わってくる」ぜひご覧いただきたい。
また詩誌「静かな家」3号の稲川方人・中尾太一・菊井崇史三氏の座談会形式の詩集評でも取り上げられ議論された。「今回この全詩集を読んで「ユリイカ」の投稿欄の八〇年代の記憶が喚起された。ぼくよりひと世代下なんだけど言葉の使い方や語彙の選択に同時代感がとても強く感じられた」「今この「静かな家」というささやかな媒体であっても、この玉井國太郎という詩人の名前を、仕事を詩史的な記憶として刻んでおきたいって、限定的な意味ってやっぱりどうしてもどこかで必要だと思うんです」(稲川方人)
また、この詩集を飾っているのが美術家・井上直の絵画作品だが、その井上さんの個展が銀座のコバヤシ画廊(中央区銀座3−8−12ヤマトビルB1)で開催されている。今日が最終日。
(池田康)
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2024年11月04日

詩素17号

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詩素17号が完成した。

今回の参加者は、海埜今日子、大仗真昼、大橋英人、小島きみ子、坂多瑩子、酒見直子、沢聖子、大家正志、高田真、南原充士、新延拳、二条千河、野田新五、肌勢とみ子、八覚正大、平井達也、平野晴子、南川優子、八重洋一郎、山中真知子、山本萠、吉田義昭のみなさんと、小生。

特別企画「追悼・たなかあきみつ」、執筆は高橋団吉(たなか氏義弟)・有働薫・広瀬大志・生野毅・南原充士・小島きみ子・平井達也の各氏。

ゲスト〈まれびと〉は、水島美津江さん。

巻頭は、二条千河「案山子」、酒見直子「姿のない鈴虫」、平野晴子「窓物語り」。

表紙の詩句は、リルケの「秋(Herbst)」。

裏表紙の絵は野田新五さん作。

ぜひご覧下さい。

詩素バックナンバー:

(池田康)
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2024年10月20日

谷口ちかえ著『世界の裏窓から ――カリブ篇』

世界の裏窓から画像2.jpg谷口ちかえさんの新著『世界の裏窓から ――カリブ篇』が洪水企画の〈詩人の遠征 extra trek〉シリーズの第2巻として刊行となった。A5判、272ページ、定価2420円(本体2200円+税)。
カリブ文学を紹介する評論集で、袖の紹介文では
「五大陸の交差点と言われる中南米カリブ海域は夥しい数の島を擁し、ハイチやジャマイカ、トリニダード・トバゴといった小さな国々はそれぞれ固有の苦難の歴史を経ており、その特異性や文化の多様性において世界の中でも際立つ。ヨーロッパ諸国の植民地政策の犠牲となった地域であり、その負の遺産は多くの島国が独立を果たした現在でもなお残存しているが、そんな逆境の中から二十世紀後半以降異色の文学が花開くようになる。英領セントルシア出身のノーベル賞詩人デレック・ウォルコットの作品「オメロス」「オデッセイ」などを中心に、カリブの歴史と社会を強く反映し、国家的アイデンティティを模索し、アフリカの悲劇の記憶をしっかりと織り込むカリビアン文学の一端を著者の鮮烈な経験を交えつつ紹介、考察する。」
とまとめている。
谷口さんのカリブ地域との関わりは今世紀に入ってすぐの頃から始まっており、すでに20年を越えている。ライフワークとも言えそうで、その長期にわたる研究努力の結晶がこの本であり、著者の常人離れした情熱(狂熱?)の賜物だ。
内容構成をざっと見てみると、まず冒頭に置かれた「序章として 新世紀の幕開けから現在へ」では、2014年に来日してカリブ詩について講演したエドワード・ボゥ博士の昨年末の逝去のことから筆を起こし、その来日のイベントを中心にして本書のテーマを概観する。
「第一部 連載「世界の裏窓から」―カリブ篇」では同人誌「柵」に2007〜8年に連載したものを中心に新稿も加えていて、この部分が本書の核となる。
「第二部 カリブ海の余波――追補版として」は第一部を補うようなエッセイ類を収録。
「第三部 持ち帰った現地通信―トリニダード・トバゴだより」は2002年に著者がトリニダード・トバゴに渡り、詩人ポール・キーンズ・ダグラスに会い、現地の有名なカーニバルを体験した、軽いタッチの臨場感あふれる紀行エッセイで、写真もたくさん載せていて楽しい。
日本とは全く異なる歴史と気候を持ったカリブの文学にぜひ触れていただき、クレオール文化と呼ばれるものの真実の姿を具体例を通して知っていただければ幸いだ。
(池田康)
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2024年09月15日

杉中雅子歌集『ザ★家族III「メッセージ」』

ザ家族Vメッセージ画像2.jpg「ぱにあ」所属の杉中雅子さんの第三歌集『ザ★家族III「メッセージ」』が出来上がった。A5判並製カバー帯つき。144ページ。税込1980円。2017年以降の作品312首を収める。
歌集1冊目は『ザ★カ・ゾ・ク』、2冊目は『ザ★カ・ゾ・クII』で、タイトルがシリーズ的になっており、装丁も3冊を通して統一感があるものになっている。帯に載せた5首は次の通り。

 主婦だけで終わりとせずに私ゆえ在ることを詠う生きた証に
 日脚伸びし机上にひとり書き散らしの歌のことば繕いており
 新年の会食どきに樹木葬語れば病むかと子らに問わるる
 遠つ国戦禍におびえし子供らの黒き青きの美しき瞳
 「パパを産んでくれてありがとう」わが誕生日によつはのメッセージ
  (最後の歌の「よつは」には傍点がつく。孫の名前)

最後の一首が歌集名につながるのだと思われるが、もちろんこの一冊が著者の家族に対してのメッセージともなるに違いないわけであるから、メッセージは一方通行ではなく双方向のものと言える。それを踏まえて帯には次のような紹介文を置いた。

「──胸のうち言い当てる言葉探しおり──
主婦の奥にひらく歌人の目が、日常を軽やかに掬い取り、過不足なく書き留める、そのささやかな二重生活の消息。子や孫に残すメッセージと、子や孫から受け取るメッセージとが交錯する、家族という名の心のネットワークの精緻な波立ちが唯一無二の紋様を刻印する。」

ここ数年の、樹木葬や古代蓮を詠んだ一連には、はっとさせられるような、この歌人の精神的な深みも明確に感じられ、「境地」ということを言ってみたい気もする。巻末には、詩人・二条千河さんの解説「アルバムは厚みを増して」、ぱにあ代表の秋元千惠子さんの祝辞「いのちのバトン」も収録している。

(池田康)
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2024年09月06日

泉遥歌集『そして それから 風の唄』

カバー画像2.jpg泉遥さんの第二歌集『風の唄』が完成した(「そして それから」はサブタイトル)。3年前の第一歌集『風の音』以降の作品を収める。四六判128ページ。大病を抱えながら生きてきて、今年86歳、その感慨が歌集の中心を流れる思いだ。親しみやすいうたいぶりで、構えることなく流れるように読んでいくうちに長野県飯田市に住むこの歌人の生活がありありと目に見えてくる感じがする。帯に載せた5首:

 「奔放な人と暮してゆかいだったよ」病床の夫ぽそりと言えり
 縦横斜めにメスを入れ修理した身で唄い詠って
 生涯を心臓病と闘いて勝ちたる思い八十六歳
 唄いつつ詠いつつ行く風の中思いのままにわれのゆきませ
 勤勉にわれを助けてくれまししペースメーカー身になじみたり

ついでに帯文も:

「大病を乗り越え、はるばる生きてきた八十六年。その無数の風景が今や風となり唄となり世界の光となって作者を包む。日々をわが日々として確かに歩み言葉に刻むささやかな幸福感と、大切な人を亡くした寂しさとが歌集の底にひそんで人柄そのものの穏やかなハーモニーを支えている。」

カバーを飾るのは今年3月に亡くなった画家・清水史郎氏の冬とんびを描いた絵で、カバーだけでなく、表紙も扉も清水作品を配してカラー印刷されている。さらには本文中にも2葉、カラー印刷された清水作品が挿入されていて、贅沢に華やかであり、本書の特色となっている。その本文カラーページ2葉の裏側には「思いのままに」と題して20首が本文から抽出されて並んでおり、本歌集のダイジェストとも言えるので、以下に紹介する。

 その雅号〈雪夜〉青年の成長の道を見ており今日の個展に
 背をまるめ読みふけりいる漫画本『ブラック・ジャック』に心ひかるる
 アトリエにてたおれたままの弟よ何思いつつ汝は逝きしか
 町びとの心ほぐせる場所なりと知らぬ人らのすすめる町政
 映像の端から火の玉とび出して高層ビルのくずれおちたる
 「生れつき」と言われしことある心臓病を恨みつづけて八十年
 心臓病をかかえながら八十年よくぞここまで生きこしものよ
 みかん畑に「パール柑」の実りし日さぞ幸せな秋日和ならん
 油絵を描きつづけて逝きし姉 作品の数多は何を待ちいる
 縦横に斜めにメスの入りし身も生きて短歌を詠めるうれしさ
 痛み臥せば夏の去りたり朱色なる曼珠沙華にも会えずすず風
 角張て動かなかった左指 わずか曲れるこのうれしさよ
 靴ひもの縛れてうれしこの朝は療法士さんとハイタッチする
 おちこちに柿のすだれの納屋に垂れ伊那の村里オレンジに映ゆ
 今日ひとひ無くし物をしなかったほうびにべっこうあめひとかけら
 夫にも弟にも見てもらえなかったわが歌集 本をみるたび涙のにじむ
 「奔放な人と暮してゆかいだったよ」病床の夫ぽそりと言えり
 唄いつつ詠いつつ行く風の中思いのままにわれのゆきませ
 直らずも修理をすれば生きらるる病みて八十六年世の中を見き
 勤勉にわれを助けてくれまししペースメーカー身になじみたり

(池田康)
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2024年08月31日

29日から今日にかけて

一昨日は池袋で行われた神山睦美さんの書評研究会に出席し、帰宅するやばたんきゅうと寝て、翌朝起きると大変な豪雨、はるか西にある台風がここまで触手を伸ばしてきたかと驚愕。次の翌朝未明(つまり今朝)もまたまた豪雨、やめばしばらく洗濯外干しできる天候となった。変化が激しい。
29日の会は神山さんの新著『奴隷の抒情』が対象となった。江田浩司さんのレジュメ報告。参加したのは、この秋に神山さんと岡本勝人さんとで対談していただき小林秀雄について語り合っていただくという計画があるため。これは「みらいらん」次号の小特集の柱となる予定だ。今回の書評研究会のダイジェストを紹介するページも作ることになっている。
池袋からの帰り、横浜に出ようと副都心線に乗ったら行先がなんと湘南台となっていて、日吉から新横浜、そして相鉄線に入るという経路で、少し遠回りにはなるのだが、そんな列車が走っているのかと驚いたことだった。
(池田康)
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2024年08月24日

佐保田芳訓遺作品集『五月の雪』

カバー画像3.jpg歌人の佐保田芳訓さんが昨年8月に亡くなり、遺された作品を一冊の本にまとめたいというご家族の意向を受け、4月ごろから作業を開始し、歌誌「歩道」発表の多くの短歌やエッセイをテキストデータ化する大変な作業を経て、奥様・美佐江さんの原稿整理と校正作業の尋常でない頑張りもあり、ようやくこの遺作品集『五月の雪』が完成した。タイトルは台湾の花、油桐花の愛称(真白でハラハラと散るからとのこと)。この花を描いたカバー装画はご長男の芳樹さんによる。息子の彼が台湾に住むことになったため、佐保田さんはたびたび台湾を訪れていて、短歌も作っている。

 結納式披露宴など忙しなくひと日の終り夜市に遊ぶ
 風化して棒状の岩いくつ立つ野柳岬の黄の岩盤に
 東支那海に日の沈みゆき淡水の河の河口に紅残る
 仕事より解放されてみづからの時とし淡水の河渡りゆく
 基隆の港に近きこの丘に蟬鳴き蜻蛉蝶の群れ飛ぶ
 雨上り青空見ゆる台北の街にふたたびスコール来たる
 マングローブに無数の赤き実の成りて見つつ行くとき泥の香のする

帯に載っている6首は

 沈黙の星満ちをりて白雪の富士山朝霧高原に顕つ
 相似たる妻と娘の話す声分ち難きはその笑ひ声
 雨上る淡水河をくだるとき東支那海の海黒々し
 花過ぎし泰山木に蟬の鳴く妻の病院に六年通へる
 用なきに亡き先生を訪ねゐる暁の夢覚めて楽しむ
 千本の桜花咲く多摩川のほとりを病癒えて歩める

エッセイはすべて「佐藤佐太郎研究」の章題のもとにまとめている。どの篇にも佐藤佐太郎は登場し、重要な役割を果たしている。ここに収まる70篇余を読むと「歩道」の総帥だった佐藤佐太郎がどのような短歌思想を奉じて制作に臨んだかが非常によくわかり、佐保田氏がいかに師を慕い、その教えを重視し忠実に書き残して伝えようとしたかが痛いほどわかる。佐保田氏が講師を担当した現代歌人協会主催の「ザ・巨匠の添削 ──添削から探る歌人の技と短歌観──【第一回】佐藤佐太郎」の講演録が収録されているのも貴重だろう。
むすびに、最晩年の、最も死に近い作品、令和5年2月号の5首を紹介する。

 高層のビル立ち並び残されし寺あり境内に黄の公孫樹照る
 奥多摩につらなる山の空澄みて皆既月食の月昇りゐる
 癌を病み心病まざるみづからを過ぎゆく日々にいたはり生きん
 青木ケ原樹海の中の道をゆく清水港にて待つ人のをり
 愛宕山をめぐり高層ビル群の間近に見ゆる病室にをり

(池田康)
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2024年08月21日

遠くへ向かう眼差し

DSCF3508.jpeg昨日、南青山MANDALAで吉増剛造さんのイベントが開催された。往路、PASMOが(3千円チャージしたら)使用不能になる突発事故があり慌てたが、なんとか辿り着く。
第一部はご伴侶マリリアさんの歌唱、5曲ほど。ジャンルを超越した、歌い手の半意識の詠唱とも言えそうな、音響の効果も相まってサイケデリックとも称されそうな、自由奔放という言葉そのままのようでもある歌で、どうやって構成制作しているのだろうと不思議に思う。ライブハウスの音響設備がよく効いていて低音のリズム打刻が身体に強く響いてくるのが久々の体験で良かった。
第二部は吉増剛造・今福龍太両氏の対談、今福氏の新著『霧のコミューン』をめぐって。前半は6月に92歳で亡くなった沖縄の詩人・川満信一さんとの交わりについてで、今福さんが親しくしていた川満さんに、なぜか近づけなかった、親しくなれなかった、なぜだろうと訝しむ吉増さん。探りながら話を重ねていくうちに、島尾敏雄に対するアプローチの角度が違っていたのだという「遠因」に辿り着くまでがスリリングで、達人のように見える吉増さんの煩悶の表情も新鮮だった。
対談後半の主要な話題はラファエロやダ・ヴィンチの描く幼子イエスの眼差しが画家の目の位置を見据えずどこか遠くを見ている、その真意についてだったが、たまたま今、シュペルヴィエルの「秣桶の牛とロバ」を読んでいて、生まれたばかりの赤子イエスを牛とロバの視点から物語る話だが、牛がイエスの面差しに奇妙な遠さ遥かさを認めて戸惑う場面を思い出し、符合を覚えた。
それから「霧」の話、ガローワ(ブラジルの朝の霧雨)の話、カフカやゴヤの恐るべき暗みを帯びた話など。
画像はこの日配布された詩原稿の一部。この日の朝できたばかりの作品とのことで、朗読され、生成のなまなましさ、思考の唯一固有の息吹が迫ってきた。
(池田康)
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2024年08月06日

湯浅譲二さん逝く

岩崎美弥子さんから湯浅譲二先生ご逝去に関して哀悼のメールをいただいたので、次のような返信をした。

湯浅先生のこと、ご冥福をお祈りしたいと思います。
「洪水」をやっていた時代には、特集を組んだり、本当にお世話になりました。
単行本(川田順造氏との共著)も出させていただきました。
昨年は、ご病気のせいもあり、作曲に難を感じておられたらしいのは残念なことでした。
挑みたいとおっしゃっていたオペラ作品も実現しなかったようでこれも残念です。
「みらいらん」の時代になってから作曲家たちとの親交は薄くなり、
湯浅先生とも申し訳ないことにかなり疎遠になってしまいました。
94歳ですか、長寿を享受された大往生とも言えますが、
100歳の作曲家が生み出す音楽を聴かせていただきたかった
という思いも少しあります。
これで武満徹の世代の作曲家がほとんどすべて去った、
ということになるのでしょうか・・・

湯浅さんは忖度なしの直言居士という印象があった。自分の意見を曲げることがない。1930年前後生まれのあの世代の鮮烈な雰囲気を常にまとっていらした。
最後にお話ししたのは、何年前か正確には覚えていないが、リサイタルで演奏された小さなピアノ曲について、内声の動きがよかったと素朴な意見を言ったら、喜んでおられたのを思い出す。
「洪水」8号の特集「湯浅譲二その花の位」から湯浅さんの発言を抄出したい。
川田順造さんとの対談で、聴衆のことを念頭において作曲をするのかと尋ねられて:
「そこは、すごくおこがましいんですけど、本当は僕がいいと思う、面白いと思うような音楽を書きたいと思う。なぜかというと、うぬぼれかもしれませんけど、自分はものすごくいい聴衆だと思っているんです。理想的な聴衆が僕の中にいる。その僕がいいと言ったら、いいんだろうと思うんです。ですから僕自身が聴きたいと思っている曲がうまくできて、ああよかったと思うような曲を書きたい。つまり理想的な聴衆の代表として僕はいるというふうに思わなければできないと思うんです。ですから他の人が聴いたらどうかということは思わない。ただ、自分の曲を、他人の曲を聴くように、いつも聴きたいと思うんです。自分が作った曲だからということではなくて……。つまり、誰かが作った曲を、自分という他人が聞くんです。これは訓練すると出来るようになると思うんです。」
インタビュー(聞き手は小生)で、「クロノプラスティック」「オーケストラの時の時」など、時間に関することを曲名にしていることについて:
「たとえばバッハの作曲法の中に、もちろん逆行、反行なんていうのもありますけど、拡大縮小というのがあるでしょ。たとえばフーガの技法だって、四分音が基本に書かれているのを二分音を基本に書く、同じメロディの全体が倍に伸びるわけです。拡大縮小はトポロジカルにいうと、ある一点に光があり、そして物体があって、その光の影を倍の距離に移すと、映されたものは倍になる、それが拡大縮小の原理で、トポロジーは別名で射影幾何学ともいうんです。さらにグニャグニャに曲がっているところに映して引き延ばすと、伸びたり縮んだりしていることになる。それをぼくは「クロノプラスティック」でやろうと思ったんです。」
芭蕉の俳句を音楽化することについて:
「言葉は十七文字しかないですけど、それが含んでいる背後的世界は広大なものです。音楽は言葉を音楽にするだけではなく、その言葉でなにを表現しているか、その世界を音楽にしようとしますから、俳句が短くてもその意味では全然関係はないんです。ぼくは、これも実験工房のころからずっとそうなんですけど、人間にとってどこから音楽が生まれてくるかということをよく議論していたんですけど、原始的な人間が言語を獲得して、自分を「私」と言った時に、私と呼ぶ自分と呼ばれる自分というふうに二元的に分裂するじゃないですか。言葉がなければ犬や猫と同じように一体化しているわけですね。ですからそれまで自然や宇宙の中に一体化して生きてきた動物的な人間が言語を獲得し、言語によってものごとを相対化し、自分対自分以外の世界という構図が生まれてきた時に、宇宙への畏怖感が一挙に迫ってきて、畏怖感があるとお祈りをしたりする、そこから音楽が出てくると思っていた訳です。」
独自の思考の歩み。湯浅さんの若々しい活気を改めて感じる。
(池田康)
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2024年07月28日

涼をもとめて

個人誌「壁画」14号を作った。下記のリンクからご覧下さい:
http://kozui.sakura.ne.jp/artnote/hekiga/hekiga14.pdf
一服の清涼剤……にはならないとしても、読む人によってはナイトメアの残滓のからまる架空の風を感じていただけるかもしれない。

暑さ厳しいこのところの日々、涼を感じたもの。
駅ビルのカフェで飲んだ柚子スカッシュ。濃厚で、柚子を3つくらい使っていそう。
P・K・ディック『いたずらの問題』(ハヤカワ文庫、大森望訳)。その問題提起は過激で正当で鋭い。
ウィーン国立歌劇場の「トゥーランドット」(NHKBS放映)。マルコ・アルミリアート指揮、タイトルロールをアスミク・グリゴリアン、カラフをヨナス・カウフマンが歌う。演出設定全体が寒冷で、トゥーランドット姫に仕える(彼女の心内部の?)四人の人形風侍女も気味悪い。
そして有働薫さんからいただいた「Quattro朗読会 韻律磁場へ!」(2018.6.30)を読んでいたら、次のような一篇に出会った。これも相当にひんやりとする。

 クライオニクス
 ロシア モスクワ 他の都市でも
 死の夢
 わたしは言語労働者だけど
 くたびれた脳を外して
 ちょっと冷凍保存されたい
 (有働薫「詩誌「カルテット」4号に寄稿した十二の小さなプレリュード」6)

なお、一行目の「クライオニクス」は「人体冷凍保存」を意味する語のようだ。
(池田康)

posted by 洪水HQ at 21:56| 日記