2020年04月29日

詩素8号

詩素8表紙.jpg緊急事態宣言下のゴールデンウィークはどんなものになるだろうか。部屋の中から窓ごしに外を眺める分には、春の日がみごとに輝いているが……
さて、「詩素」8号が完成した。今回の参加者は、小島きみ子、山本萠、大家正志、南原充士、坂多瑩子、沢聖子、吉田義昭、たなかあきみつ、山中真知子、二条千河、酒見直子、平野晴子、野田新五、菅井敏文、南川優子、八覚正大、八重洋一郎、高田真、海埜今日子、平井達也、大仗真昼のみなさんと小生。「まれびと」コーナーに詩作品を寄せて下さったのは、冨上芳秀さん(「樹木幻想」)と松尾真由美さん(「身近な危機とその渦中と」)。巻頭トップは山本萠さんの「夢の川へ」。88ページ、定価500円。まだ残部ありますので、ご希望の方はご注文ください。
(池田康)
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2020年04月23日

疫の奔流の行方2

今回のウイルスの嵐から、行政に携る人々や医療関係者は無数の貴重な教訓を引き出すのだろうが、誰でも思いつく最大の教訓はこれだろう:
「疫病の脅威は国や為政者のプライドよりも百倍も重大だ」
台風や地震と同じくウイルスも情け容赦がなく、やさしい斟酌や好意的な政治的取引などしてくれないのだ。さてこれを少し普遍的な方向にパラフレーズすれば、こんなふうになるだろうか:
「われわれの生命は国や為政者の利益よりも百倍も重要だ」
なんだか当り前の、きれいな教科書的オピニオンになったが、生命と言ってもいろいろあって広大だから、さらにこれを細かく敷衍して書くなら、こうだろうか:
「国民個々の心身の健康は国や為政者の思惑よりも百倍もリアルだ(このリアリティが侵害されるとき、前者は後者を疑う)」
肉体以上に、心、精神が、おかみの意向に沿ってプラスチックに成形される危険性は常にあり要注意だが、ぼんやりしていると気づかないままうかうか暮らしがちで、こういう稀な危機の季節にしっかりと気づいておけるならそれにこしたことはない。だからというわけではないが、最後の捨て台詞じみた変奏はこうだ:
「床屋談義は国や為政者の歴史よりも百倍も真実だ」
これまたありきたりな寸鉄かもしれない。やり直そう:
「巷の与太は国や為政者の嘘よりも百万倍も白だ」
これは少なくとも数学的正確さを誇れる。
(池田康)
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2020年04月05日

疫の奔流の行方

コロナ・マスカレードの不気味な祭が世界規模で続いている。数字とグラフにおののく朝夕。ペストやコレラ級でなくても疫が大津波となって襲来すると対処が難しい。ゾンビに咬まれたら自分もゾンビになる……というホラー映画の嫌な筋立てに似た、叫びたくなるシチュエーションを、罹患者に距離ゼロで接しなければならぬ医師や看護師たちは身をもってくぐり抜けているのだろう。
カミュの「ペスト」がいま広く読まれているそうな。昔読んだとき、主人公の医師の周辺にいる男の、ペスト禍の絶望的状況の中で熱心に(状況と無関係な)詩を書いている姿が奇異でひどく印象に残ったが、コンサート中止で時間ができた音楽家もいま一年後にうたう陽気なラブソングを作っているのかもしれない。非常時にひとつまみの平常の時間をどう自分で創出するか、という努力は精神の健全を保つために、前向きの呼吸をするために必要なのだと思う。
このところ、石牟礼道子著「椿の海の記」(河出書房新社・日本文学全集巻24『石牟礼道子』所収)を読んでいた。世界との交感のレベルの深度において驚くべき小説。ものごころがつき始めたばかりの子供が見る世界はこんなにも豊饒なのか、そして悲哀はこんなにも裸なのかと感嘆する。主筋ではないが、コレラが流行った時の様子が少し書かれている。
「それはどうやら、浜町にいたとき、コレラの流行ったときの光景らしかった。春乃も罹患して……中略……このときのコレラで死んだものたちはおびただしく、死人たちを、浜の真砂の上にじかに並べて焼き続ける大廻りの塘の煙の中から、兵隊たちが小さな舟で、いくさに出て行ったのだった。そのような煙の流れる故郷を後に眺めながら。」
死者が万を越えたら大震災レベルといえるだろう。すでに越えている国もあるし、徐々に近づいている国もある。まだ序の口とそわそわしている国も。疫病の数学のテストで合格点を取ることはマクロ経済の数学と同じくらい難しい。
「いかなる幽霊の姿勢で/全員で吊りさがればよいのか?」(吉岡実「コレラ」より)
(池田康)
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2020年03月30日

『八重洋一郎を辿る』の書評2

鹿野政直著『八重洋一郎を辿る』の書評が「週刊 新社会」3月3日に執筆=鈴木裕子氏で、また「沖縄タイムス」3月28日に執筆=新川明氏で、掲載されました。ぜひご覧下さい。
(池田康)

追記
毎日新聞(西部版?)3月29日の「詩歌季評」(評者は田中俊廣氏)でも取り上げられました。
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2020年03月21日

解せぬこと

最近解せぬこと。その一。イタリアの悲劇的な状況。同じウイルスのはずなのになぜほかと比べて桁違いに死者が多いのか。中国を上回るって、なんで!?と戸惑う。これが夢かなにかの間違いではないのなら、シンプルに、不運の連続と対策の拙さが重なればその結果、最悪あそこまでいくのだ、という恐るべき真実なのかもしれない。
その二。マスク製造会社はまぜこんなにも商機を逃しつづけるのか。一週間程度商品がなくなるのはわからないでもないが、ここまで長引くのは解せない。いくら高級仕様とはいえ、マスクくらい簡単に製造できるだろうに。なんなら、簡易な型をちゃちゃっとこしらえて手ごろな材料で作ればいい。どうぞどんどん儲けて下さいと皆が思っているのだから遠慮はいらないのだが。(医療機関などに優先的に納入しているのだろう)
その三。流感covid19についていろいろ報道がなされるなかで、世界には石鹸がない家庭が多い地域が広く存在するという話も聞かれ、驚いた。もの心ついてこの方、家には常に石鹸があって当り前に使ってきた身としては、なかなか飲み込めない話だ。靴やパンツと同じくらい必需品ではないか。どれだけ貧乏とは言え、石鹸が買えないほど貧乏というのは想像を超える。それでも20年くらい前まではアジア諸国の貧しさについて強いイメージがあったが、最近ではタイやマレーシアなどから観光客が来日する時代になっているのだから、そんな赤貧洗うがごとき貧しさは、政情不安をかかえる国や地域を除いては、ほぼなくなったのだろうと勝手に思い込んでいたが、違ったようだ。石鹸が買えないほどの貧困もある、これも「恐るべき真実」だ。
ついでにもう一つ。これはどうでもいい「解せぬ」だが。
今日の午後、春の陽の下を歩きながら、どんな成り行きからだったか、オタマジャクシの名前について考えていた。蛙の子はなぜオタマジャクシというのか。おそらく料理で使うお玉に形が似ているからだろう。しかしここで、あれ?と思う。お玉の正式名称が玉杓子であるとしても、お玉をお玉杓子とは現実の生活の中では言わない。台所で母親が手伝いをする子供に「オタマジャクシ取って」と言うことはまずない。もともとの存在の名前としてはとっくに廃れたのだ。それなのに蛙の子のオタマジャクシという名前がちゃんと杓子定規に残っているのがなんともおかしい。そしてそこからさらに、音楽の楽譜の音符の愛称にもなっているのだ。オタマジャクシを見る機会がとんとなくなった今、オタマジャクシの名称が最後に残るのは五線譜上だろうか。(コロナという言葉も元々の存在=冠を目にする機会が少なくなるのであれば今後は主にウイルスの名前として残っていくのだろうか…)
(池田康)

追記
「新型コロナウイルス」という呼称はやや限定がゆるすぎないだろうか。病気の種類の特定ができているとは言いにくい。今のところはこれで通じるし、テレビ・ラジオのニュース番組は日々過ぎ去っていくものだからまだしも、紙媒体、特に新聞は何年か経って記事を見返した場合、間の抜けたもどかしい感じがするのではないだろうか。例えば台風の記事だとしたら、「新しい台風が来ました、新しい台風が東京を襲っています、新しい台風はかなり強力です」と書くようなものだから。国際機関が提示している「Covid 19」が使いにくいとしたら、19年式コロナウイルスとか、7種類目ということで七型コロナウイルスとか、あるいは干支を使って己亥感冒とか。たけき猪が駆ける。
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2020年03月07日

6号は吉岡実特集

夏に刊行予定の「みらいらん」6号では、詩人・吉岡実の特集を計画している。4号の田村隆一特集と同じく、城戸朱理氏の助力と導きを得て。御期待下さい。
それで、吉岡実の研究をということで、ざっと詩作品の全体に目を通すべく励んでいたのだが、いつの間にか吉岡実の庭からウラジミール・ナボコフの庭へ移ってきてしまっている。吉岡のある作品にナボコフの「青白い炎」が参照作品として挙げられていたため。探索中のナボコフの庭が広いのか狭いのかまだ見渡すことができないでいるが、かなり妖しい謎めいた庭であることは確かなようで、下手に魅了されると長らくここに留まることになりかねない。こんなふうに吉岡の周辺を、ルイス・キャロルの庭、西脇順三郎の庭、土方巽の庭、永田耕衣の庭とサーフィンしていくとしたら、いくら時間があっても足りない。道草や回り道は楽しいものだが戻って来られなくなる。わが悠長な雑誌もそれなりに締切やら決まった発行日があるから、カフェでの雑談のように話が逸れて、更に脱線して、再び三たびどこかへ飛んで、出発点を忘れたまま終わってお勘定、という具合にはいかないのだ。耕衣やルイスには申し訳ないが。
(池田康)
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2020年03月03日

新手の感冒

大陸発の新手の感冒が、猛威を振るうところまでいっているのかどうかわからないが、広まりつつあり、警戒と防衛努力でぴりぴりしている昨今。どれだけ恐れなければいけないかという点でいまいちピンと来ない所もある。かつてエイズが登場した時は背筋が氷る思いがした。エボラ出血熱の報道も心底ぞっとした。東日本大震災時の原発事故には「破滅」の二文字が目の前に点灯した。それらの危機と比べると今回の流行病(ハヤリヤマイ)は普通の風邪やインフルエンザの数割増程度の威力のようで、そんなに恐いかという気もするのだが、油断して対策を怠ると等比級数的に患者が増えそれに準じた割合で死者が発生するという理屈も理解できる。中国武漢の罹患者の数字はただごとではない。
現今、対策として催し等の中止や学校の休校が励行されているが、個人的な思いを勝手に言わせてもらえば、2月にコンサートや各種催しが行われることはそもそも基本的に願い下げなのだ。12月や1月は正月の前後で繁忙になることはある程度やむを得ないとしても、寒さの底の2月はあまり家を出たくない、極力じっと冬眠していたい、そんな期間であり、毎年きまってインフルエンザが流行る時期でもあるから、コンサート等の開催にはもっとも不向きなのだという留意があってもいいと思う(寝かせといてくれ!)。2月は眠り月、という俳句の季語にしたいくらいだ。以上あくまでも一個人の勝手な妄言であるが。
もう3月、植木鉢で育てている空豆が知らぬうちに花を咲かせていた。妙な形の花。
(池田康)
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2020年02月29日

『八重洋一郎を辿る』増刷完了

鹿野政直著『八重洋一郎を辿る』の増刷ができてきました。ご注文いただければ幸いです。来週以降には限られた店数になりますが書店の店頭にも出る予定です。
また、「しんぶん赤旗」2月26日の紙面に「詩壇」のコラムで本書が紹介されています。こちらもご覧下さい。執筆は佐川亜紀氏。
(池田康)
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2020年02月17日

『八重洋一郎を辿る』の書評

鹿野政直著『八重洋一郎を辿る』の書評が「週刊読書人」2月14日号に出た。執筆は野沢啓氏。ぜひご覧下さい。
なお、この本の増刷をいま行っており、今月末に完成の予定。同じフランス装なのだが初刷りとは少し違った造本になります。ご予約下さい。
(池田康)
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2020年02月11日

岩井俊二という映画監督

先日、映画「ラストレター」(岩井俊二監督)を見た。一年程前まで手紙をテーマにした詩の連作を書いていたこともあり、また四半世紀前に同監督の「Love Letter」を見た記憶もおぼろにあり、興味をそそられて。巨大なスクリーンで、いい位置の席で見ることができたせいもあるかもしれないが、至福の瞬間が次から次へと現れ、静かな心の昂りが続いた。この監督の独自のマジックは健在のようだ。秋に行った石巻のReborn Art Festivalで廃墟の学校を見たのがじつに印象深かったが、この映画でも出てきて、あのときの衝撃が甦ってくるという事由も鑑賞を深めたかもしれない。
ある個性をいくつかの要素の組み合わせで規定してみるというのも一種のゲームとして面白い。たとえば、オードリー・ヘップバーンはコメディとロマンスとサスペンスの重なる領域で個性的な花を咲かせたのだろうし、ヒッチコックは恐怖への執着と幾何学精神と現代の心音によって特徴づけられると考えられようし、市川崑は直感的・比喩的に言い当てるなら絵と瞬間と煙草でできていると断じてみたい気がする。そのやり方で映画監督岩井俊二の性格付けを試みると「悪戯好き+光と空気+思春期(adolescence)信仰」という具合に考えればある程度いいところまで行くのではないだろうか。
悪戯はすべての場面を通していろんな形で仕掛けられているし、作品によっては制作過程から大規模に悪戯が働いている。数えていけばきりがないだろう。光と空気という重量を欠いた大道具のいくらか表現主義的な活用も特徴的で、この点については映像の専門家に語ってもらうのがいいだろう。思春期信仰については今回の作品のほかにも、過去の「四月物語」(1998)、「リリイ・シュシュのすべて」(2001)、「花とアリス」(2004)などを見ても顕著だ。岩井作品を好かない人の多くはこの点につまずくのかもしれない。しかし子供時代の終わりであると同時に大人時代の始まりでもあるこの特異な時期を大事にし、ここに人間性のすべてが濃密な状態でつまっている、本当に重要なものはここにしかないと考える人間観は、根拠のない偏った考え方と安易に切り捨てることもできないはずであり、私としては「みらいらん」5号で小特集「童心の王国」をやったばかりなので一層共鳴を覚えるというところもある。
思春期を特別に大切にすると言ってもそれは光ばかりでできているのではなく、闇の部分ももちろんある。そこを徹底的に描いたのが「リリイ・シュシュのすべて」で、思春期の残酷、邪悪、汚穢がえげつなくも直截に物語られているのだが、しかし見ようによっては狂おしいまでに魅惑的で、岩井俊二というdevilは作ってはいけないものを作ってしまったのではないかという感想も胸をよぎる。「ラストレター」では終盤で明らかにされる“最後の手紙”が思春期信仰を決定的に宣言しており、そこには「リリイ・シュシュのすべて」ほどの深淵はあからさまに顔を見せることはないものの、この人の世界観にぶれはないのだと再確認することになる。
「岩井俊二においては、大人はコメディの演じ手であり、子供は真正な悲劇の演じ手である」この仮説はどこまで有効であろうか……はてさて。
(池田康)

追記
「リップヴァンウィンクルの花嫁」(2016)は、世界一愚図な女の子と絶壁に片手でぶらさがっている女の子とが仲良くなる話で、そこに軽妙悪辣なアルルカンがからむ。彼女たちの少女性が統べる時間では問答無用の物語がどんどんつき進むが、三人が大人である位相では(欺瞞は欺瞞として残りつつ)それなりに優しげなハピーエンドに着地しているようにも見える。
さらについでに。
『ヴァンパイア』(2012)は繊細な哲学映画のように思われた。『undo』(1994)、『ルナティック・ラヴ』(1994、テレビドラマ「世にも奇妙な物語」の一つ。生野毅氏に教えられて見た)は狂気に貫かれた鮮烈な譚詩のような作品。『虹の女神』(2006、熊沢尚人監督)では脚本家&プロデューサーとしてかかわっているのだが、映画作りをモチーフにしていて面白く、映画制作の初心と演技の初心と恋愛の初心とが純情に重なるところがポイントだろうか。手紙のエピソードに「イワイズム」を感じる。
※蛇足の考察……手紙が特別の小道具オブジェになる理由は、(1)コミュニケーションを過激に飛躍させたり屈折させたり滞らせたりする(2)思わぬタイムラグをつくり物語の構築に有効(3)ときに遺書になる(4)ミスリーディングに演じることもできるし正直な告白もできる、といったようなことが考えられる。特別なタイムマシン、時限爆弾、とっておきの手品の種なのだ。
『スワロウテイル』(1996)は、公開当時に見たときにはいまいちピンと来なかったが、今回見返してみると、愚昧な観客が追いついたということだろうか、大胆に架空の小世界を創造していてとても面白いし感銘を受ける。基本ファンタジーの、ダークな色調の劇画的活劇(しかし娯楽映画というよりも抒情的フィルムノワール)だが、名を持たない孤児(アゲハと名付けられる)の《アウトキャスト》としての歩みを描いていて、こんな原理的な地点から物語を始める過激さはなかなかない。現在50代の俳優たちの若々しい姿が見られるのも新鮮。この作品から『リリイ・シュシュのすべて』までが、decentという価値を顧みず無法にやりたいことをやる、岩井俊二のギャング時代と言ってもいいかもしれない。
では「花とアリス」以降現時点までをどう称するか。ふざけてではなく真剣に敬意をこめて「前衛少女漫画時代」と呼んでみたい気がするのだが、怒られるだろうか。
「打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?」(1993)、男の子たちの達者な演技に目を見張る。ストーリーの分岐の鋭角さ。最後の花火一発が効果的で、「スワロウテイル」といい、この監督は物語の結末を作るのが上手い。

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