2018年06月11日

うつつの冥府 その1

山下敦弘監督小研究の一環で「オーバー・フェンス」(2016)を観たのだが(主人公たちの年齢がそれまでの作品より上がっていた)、これは佐藤泰志の小説をもとにした“函館三部作”のうちの一つだということだったので、舞台として映される函館の街が魅力的なこともあり、もう少し味わってみたくて残りの二本を観た。「海炭市叙景」(熊切和嘉監督、2010年)と「そこのみにて光輝く」(呉美保監督、2014年)。三人の監督は同級生的な間柄らしいのだが、この三本、どれも明るい映画ではなく、物語の色調は(控えめな言い方をしても)くすんでいる。とくに「海炭市叙景」は暗澹としており、いくつかの短編のオムニバスの形をとっているのだが、そのどれをとっても救われるような気持ちになる瞬間に乏しい、閉塞感に満ちた世界だ(エンタテインメントであるより先に真実の表現でありたいという願いがあるのか)。これがこの一連の函館物語の基調になっているのだろうし、われわれが暮らすこの現実世界の空気に直結している感じもある。転げ落ちそうになっている人々。暗い穴にはまってしまった人々。東京のようなにぎやかな場所だったらそれでもいろいろ誤魔化しようがあるのかもしれないが、函館という土地は窮状をむき出しにする趣きがある。「そこのみにて光輝く」の主人公と彼がつきあう姉弟も虚ろ、悲惨の度合いが相当に深い。「オーバー・フェンス」の所在なげな感じ(離婚して失意とともに故郷函館に戻ってきた)の主人公は他の二作に出てくる男女と比べて軽症なのかもしれないが、それでも人並みの生活に失敗した、大袈裟に言えば“人間失格”の感覚に苦しんでいるかのようだ。
肉体的には死なないにしても、自分の大事な部分が破壊されて、精神的に死の状態に入るときがある。野球選手が大きな怪我をして野球生活を断念しなければならなくなったら、本当の死ではなくても、生きる意味があるのかというところで死に近い絶望を味わうだろう。シューマンのように手が動かなくなったピアニストもしかり。これが俺だと自認する役割を喪失したとき、ある種の死が訪れ、身はうつつに留まりながらも絶望の冥府に入ることになる。
これら函館三部作は、鬱屈した気分が赴く先の、そうした冥府の色が相当に濃い。そんな中で、「そこのみにて光輝く」の菅田将暉のいつも陽気にはしゃいでいるちんぴら振り、「オーバー・フェンス」の蒼井優の生気あふれる奇抜な鳥踊りはポジティブな生の輝きを発していた。
(池田康)
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2018年06月05日

漬物の妙味

先日ある食堂で生姜焼き定食を食べたのだが、さほどおいしいとは思わなかった。これなら家で焼いて食べるほうがずっとうまいだろうとも……。別に珍しい体験というわけではなく、外食して「美味い!」と叫びたくなるようなことは(高級店に行かないということもあるが)滅多にあるものではない。二年に一度あるかないかというところではないか。そもそも味覚における特上の経験は平常の食事のための料理ではなかなか得られないような気もするのだ。果物だと特上に近い味覚体験をもう少し頻繁にさせてもらえる。酒もおそらくうまい物はうまいだろう、私はあまり飲めないから残念だが。案外盲点なのは漬物で、梅干も最近はびっくりするくらいおいしいものがあるし、奈良漬の類もときどき唸るようなものに出くわす。ぬか漬けにした胡瓜や茄子や人参も案外に悪くない(自宅で漬けているわけではありません)。火や調味料を使って人為的に調理するよりも、発酵など自然のプロセスの手を借りて味を作り出してもらうほうが良い結果が生まれると言えるだろうか。言葉の断片をある種のぬかに漬けておけばフレーバー薫じて一篇の詩のごときものが生まれる、という仕掛けもありそうな気がするのだが……これは食文化とちがい方法論が発見も確立もされていないようだ。
(池田康)
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2018年05月28日

日本の詩祭2018

昨日は飯田橋のホテルメトロポリタン・エドモンドで日本現代詩人会の「日本の詩祭2018」があり、ちょっとした雑用を言われていたこともあり参加。第一部は詩賞の授賞式。H氏賞は十田撓子詩集『銘度利加』、現代詩人賞は清水茂詩集『一面の静寂』、先達詩人表彰は八木忠栄氏。第二部は現代音楽特集で、前半は作曲家の近藤譲、松尾祐孝の両氏に詩人の一色真理氏を加えてのディスカッション。後半はコンサートで、福士則夫「手のための〈ていろ〉」、橋本信「犀川」「町」、蒲池愛「風の城」、小川類「《NUBATAMA》」、松尾祐孝「季寄せ」「じゃあね」。演奏者は松平敬(バリトン)、工藤あかね(ソプラノ)、中川俊郎(ピアノ)、甲斐史子(ヴァイオリン)、古川玄一郎(打楽器)、洗足音楽大学学生のみなさん。ユニークな面白みがあって刺激的だったのは、「手のための〈ていろ〉」(ガムランや韓国の太鼓重奏を思わせるパーカッションアンサンブルの妙)、それに「季寄せ」(12の月に合わせて俳句を十二句選び、その12曲をそれぞれ違った趣向で仕立てあげていて意想外の変化があり、伴奏のヴァイオリンも尺八を思わせるところもあって良い取り合わせのように聴こえた)だった。終演後にバリトンの松平さん、ヴァイオリンの甲斐さんと少し話す機会もあって嬉しいことだった。
(池田康)
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2018年05月22日

日常の延長を歩く

カンヌで栄誉を授かった是枝裕和監督の新作が近く公開されるのも楽しみだし、大林宣彦・山田洋次といった大ベテラン監督の近作・新作も拝見したいと思うのだが、最近DVDを借りて観ていたのは、もう一回りか二回り若い世代の作品だった。とあるきっかけで「天然コケッコー」(前から気にはなっていた)を観て、激することなく小さな世界を落ち着いてまとめ上げる手腕と審美感に興味を覚え、この山下敦弘という監督の作品をもう一つ知っておこうと、「リンダ リンダ リンダ」も観た。どちらかというと低いテンションの中にせり上がってくる学生生活というわけのわからないものの倦怠感&寂しさのリアリティ、意味ないと言いながらなぜか一生懸命やるニヒリスティックさを帯びた情熱がこの作品のユニークさを作っていて印象深い。主人公の女の子たちは日常の延長を歩いており、出てくる男の子たちも大きくはじけることはない。日韓の人間が交わるという点では共通する同じ2005年公開の「パッチギ!」がとても熱いのに対し、「リンダ リンダ リンダ」はどこか日常という生活地盤と調和する堅く醒めた感じを保っていた。ただし音楽は、練習風景も含めて、熱い。コード進行というものの意義や効果もよく感じさせてくれるところも嬉しいことだった。
(池田康)

追記
「苦役列車」「もらとりあむタマ子」も観る。山下監督は映画界のアンチロマンの旗手だろうか、やさぐれと鬱屈、主要登場人物それぞれの生の底をさまよう陰の質感がじんわりと訴えてくる。
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2018年05月15日

Facebookのこと

このたびFacebookのアカウントを削除した。ある時期からまったくログインしなくなり、5年に一度しか利用しない別荘同然の放ったらかしの状態となっていたのを、ようやく正式に閉ざしたという次第。留守の間に各種の連絡をいただいた方々にはまったく応答せず多大なご迷惑をおかけしたことと、忸怩たる思いであり、まことに申し訳なく、心より陳謝いたしたく存じます。
(池田康)
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2018年05月13日

ペンの効用

図書館で片岡義男著『万年筆インク紙』(晶文社)という本を見つけ、私も万年筆党なので手に取って漫然と読んだ(もっと読むべき重要な本があるだろうにというお叱りの声が聞こえてきそうで恐縮だが)。様々なメーカーの様々なタイプの万年筆にこれまたいろいろなメーカーの文字通り色々な色のインクを入れて試し書きする実験が楽しそうで思わず観客になってしまう。製造中止になったパーカーのウォッシャブル・ブルーのインクをさして重要な理由があるわけでもなく探す話、万年筆による筆記に合ったノートを見つけるべくテストを重ねる話も楽しい(この部分を読んでいて疑問に思ったがなぜ世の中のノートは罫線の幅が7ミリとか8ミリとかえらく狭いのだろう。そんなに小さな文字を書く人が過半数に届くほどたくさんいるのだろうか。10ミリとか12ミリを標準とすればもっと世の中が呼吸容易に暮らしやすくなるような気がするのだが)。黒インクは公用の書類を書くための色であり、個人的使用にはブルーかブルーブラックが望ましいという意見も、そうだろう、そうなるよなとうなずいてしまう。
私も安物ばかりだが数本の万年筆と数種類のインクを使って書きものをする。インクで言えば、ブルーはパイロット、ブルーブラックはパーカー、黒はプラチナを使うという節操のなさ(セーラーの「青墨」というすぐれもののインクも所持しています)。ほかに推敲をするときの赤は冬柿という名のパイロットのインク。たまに気分によってはエルバンの紫(ヴィオレット・パンセ)やペリカンのターコイズ(水色ぽく明るい青)で遊んだりする。
なにを書くかというと、手紙や葉書ももちろん書くが、最近はメールが多用されるから郵便で出す必要や機会は少なくなっている。だから主には詩や散文作品の下書きのためだ。紙とペンを使っての下書きをせずに直接パソコンに向かう方も多いだろうが、私はペンによる下書きの作業が好きだし、この作業があった方がよいという意見だ。頭の中→紙の上→パソコンのモニター→プリントアウト、というふうに制作の段階が多くなるほど、一つの段階からもう一つの段階へと移行するタイミングで考える機会が多くなり、ちがった視点が得られ、いい方向や面白い形に変化する可能性が増えると思うわけだ。それで紙切れやノートに下書きをするのだが、下書きと言ってもできるだけ本気で書きたいから、万年筆を使う。万年筆常用者にとって鉛筆やボールペンは本気度が下がるのだ。というわけで、ちょっと万年筆の宣伝ぽくなるが、たくさん下書きがなされより多くペンが使われることを願ってやまない。
(池田康)

追記
私がよく使うノートは5ミリ方眼のものだが、この罫の良さは縦書きにも横書きにも使えるところだから、表紙も左右どちら側から使っても立派な表紙になるように工夫してほしいもの。セブンイレブンで売っている、コクヨ製造のA5判のノートはなかなか良いように思う。
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2018年05月04日

詩素4号

siso04.jpg詩素4号が完成した。今号の参加者は、海埜今日子、小島きみ子、酒見直子、沢聖子、菅井敏文、大家正志、たなかあきみつ、南原充士、二条千河、野田新五、八覚正大、平井達也、平野晴子、南川優子、八重洋一郎、山中真知子、山本萠、吉田義昭のみなさんと、小生。〈まれびと〉には山田兼士さんをお招きした。巻頭トップは、南川優子さんの「夏」。定価500円。洪水企画までご注文下さい。
http://www.kozui.net/siso.html
(池田康)
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2018年05月02日

小栗康平の場の論理

前項で、石田尚志さんがイギリスに渡ってその地特有の赤や青や黄色を見つけて風土につながることによって作品制作ができるようになったというエピソードを紹介したが、小栗康平著『じっとしている唄』(白水社)にもそれに通じるようなことが説かれている。「泥の河」「眠る男」などで有名なこの映画監督は、「場」というキーワードを提示して、これを中心に放射状に思考をめぐらす。
「映画にとって「場」というものは、人物と同等に、あるいはそれ以上に表現の核心なのだと、私は考える。俳優さんを見て、ストーリーを楽しむ、だけではじつにもったいないのである」
頭脳、言葉のレベルでの構築では、表面的な、上滑りの作品になりやすい。その傾向に逆らうためには、場に立つ、場をつかむ、場の文脈に連なる、という、いわば身体の腰を据えての位置取りが大事だ、と考える。それは、ある地域特有の色彩を発見するという風土との出会いともつながることだ。この「場」の重要性の主張は著者の「近代批判」でもあり、モダンな思考法が忘れがち、見落しがちな生存の要所、生きられる時間のコアを注意深く見定めようという配慮から来ているように思われる。
「もの、あるいは人がそこに在ることそのものを描写しているかといえば、そんな強さをもった映画などめったにあるものではない。映画は喋り言葉をそこにもち、時間と動きをもつ。物語られることで、具象が具象のままにありつづけることはむずかしい。なにがしかの観念がもちこまれて、具象が変容する」
つまり映画は物語の動向・展開(言葉で説明できること)に目が行きがちで、そうすると「在ることそのもの」、被写対象の核を取り逃がしてしまうことになる。横に広がる構図ではなく縦の構図を大事にするという言い方もされる。横の広がりは物語のシーンのにぎやかさをもたらすが、縦の意識は画そのものの重さ、真摯さを促進するのだろう。歌でいえば肚から出る歌声にあたるか。
映画作品は作り物、フィクションであるから現実とは離れているのだけれど、全くの空中楼閣では脆弱な作品世界しか創れない。それを強靭なものたらしめるためには、場、風土、日々の日常とのなんらかの(細いかもしれないが)確固としたつながりの上に立つことが必要となる。
「映画は演劇とはちがって、ただの人為、人工そのままでは、生身の役者が生きていける時間が生まれてこない。自然のかけらでもいいから、画像に入ってくれないと、映画としての「場」が現われない」と語られる。ただ、なんでもいいというわけではなくて、あるべき「場」をひらく鍵になるようななにか強いもの、決定的なリンクを発見しそれを介することが重要のような気もする。それは運河や道や樹といった舞台の中心となるものの場合もあれば、もっとささやかな形象の場合もあるだろう。
石田氏の色の話に近似する叙述としては、アルメニアの首都エレバンについてこんなことが書かれている。
「街はうつくしい。どの建物も外壁が凝灰岩といわれる柔らかな石でできていて、この石の色がなんともいいのである。薄い赤、というよりもっと薄い赤紫、石によってそれぞれの濃淡があり、それが朝、昼、暮れぎわ、夜と、ときどきの光とともに表情を変えて行く。水彩のようでもありパステルのようでもある。薔薇の花にこんな色があっただろうか」色が地域の空気感を具体的に作り、場のアイデンティティを確立する重要な要素となる、そんな一例だ。
なお、この本のタイトルは、陶芸家・河井寛次郎の「形はじつとしてゐる唄、飛んでゐながらじつとしてゐる鳥、」という言葉から取ったということだ。
(池田康)
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2018年04月29日

野村喜和夫×石田尚志 対談

IMG_6490.JPG昨日午後、詩とダンスのミュージアム(世田谷区)にて、エルスール財団と洪水企画の共催で、野村喜和夫・石田尚志両氏の対談イベントが行われた。石田氏は現代美術分野での映像作家としての創作(抽象アニメーション)が最もメインになっているとのことで、作品上映も行った。その準備が大変だったようで、石田さんの家はミュージアムから近いところにあることもあり、映写機やアンプといった機材を自ら運んできて、スクリーンもホワイトボードの上に手作りした大きなキャンバスを重ねてうまく映るようにするなど、もしかしたら本番よりも事前の準備の方が大変だったのではないかと心配してしまった。
「部屋/形態」など三作が上映される。どれも5分〜10分ほどの短いものだが、制作法は描画の生成の過程を一コマ一コマ撮影するという気の遠くなるやり方で、何ヵ月もかけての忍耐強い作業の結晶がこれかと思うと、眼が強く緊張する。沖縄で出会った吉増剛造氏とのやりとりで映像に開眼したとか、イギリスに渡りその地特有の「赤・青・黄」を発見し風土につながることによって制作作業を始めることができたとか、音楽を描きたいという根本の願望とか、ご本人によって語られるヒントも作品と対面する良い手掛かりとなった。具体的な物象をつかっての抽象的構成が、恐怖、不安、恍惚、欲情、歓喜、眩惑、等々さまざまな感情を喚起する、動く絵の摩訶不思議の楽しさと魔境。
野村さんによる“座標軸”の形がここにあるという慧眼の指摘など、ご両人の間で石田作品をめぐって縦横に議論が交わされた、その様子については「みらいらん」次号(7月刊行予定)にこの対談を収録する予定なので、是非ご覧いただきたい。
(池田康)
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2018年04月23日

変身の驚異

仮面ライダーではないが変身という所作は心が踊る。新聞記者がスーパーマンになったり、お嬢様が夜の女になったり、ピッチャーが四番バッターになったり、しがない工員がダンスチャンピオンになったり、金持ちの男が毒虫になったり、映画やドラマの世界ではさまざまな華麗な変身を見せて観客を驚かせ喜ばせる。フィクションに赴くまでもなく、蛹が蝶になるとか、蕾が花となるとか、水蒸気が雪になるとか、自然界にも無数の変身譚がある。自然と人間の生活が接する面でも数多の変身が遂げられてわれわれの生活を彩っているのであり、楮が紙になる、馬の毛が筆になる、牛の舌が料理の主役になる、オリーブが油になる、海亀の甲羅が櫛になる、鰐の皮が財布になる、水牛の角が印鑑になる、鳥の羽毛が布団になる、狐の毛皮がマフラーになる、土が皿になる、孔雀石が絵具になる……これらも密かな華麗な変身と言えるだろう。こんなことを書いてみたのは、貝からできた釦がごく普通にあることを知ったからで、そう知った上で眺めてみるとなるほどプラスチック製とは艶が違っており、この繊細で高貴な艶の中に海の伝説が隠れていると思うと、小さな釦でも愛しく思えてくる。綿からできたコットン生地に貝の釦がついた服を着ていると一見当り前の恰好なのだが自分もさりげなく変身しているような気がしてくるのだ。
(池田康)
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