2020年12月23日

清らかさに賭ける

映画「蜜蜂と遠雷」(2019、石川慶)を見る(映画館でなく自宅で)。清い。若者のごまかしのない清さ、ドキュメンタリ的側面の清さ、音楽という創造物に固有の清さが重なっている。ここまで清らかさに賭ける映画はなかなかない。音楽の初心の歓喜が、その中心軸にあるように思われる。そこにプロコフィエフやバルトークが鳴る新鮮さ。バッハ、モーツァルト、ベートーヴェン、ショパン、ドビュッシー等々の曲の欠片も光を差し込んでいた。母親の死が精神的ダメージとなってステージでピアノが弾けなくなった女の子(松岡茉優)がその困難を克服する話が主筋となり、幼馴染みのエリートピアニスト、野生児のようなピアノ少年、生活者思想を抱く社会人ピアノマンのエピソードが絡み合ってくる。そして青年たちの苦闘に対して、斉藤由貴が大人の極を一手に引き受けコンクールの天空を支配して異彩を放つ。この作品の眼目の一つは、ツンといかめしい斉藤由貴を見ることだろうか。雷や馬や蜜蜂(?)といった象徴系をもう少し巧く物語にゆわえてくれるとよかったのだが。劇中の音楽があるだけで、いわゆる「映画音楽」がほとんどついていないのも特徴の一つだろう。
(池田康)
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2020年12月11日

虚の筏26号

「みらいらん」次号の編集はようやく終わり、印刷所に入れた。あとは無事に誕生してくれることを祈るのみ。
さて、「虚の筏」26号が完成した。今回の参加者は、生野毅、伊武トーマ、神泉薫、たなかあきみつ、二条千河、久野雅幸のみなさんと、小生。下記リンクからご覧下さい。

http://www.kozui.net/soranoikada26.pdf

(池田康)
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2020年12月03日

最近のびっくり四選

アメリカの大統領選挙。「レッド・ミラージュ」なる現象が起こるだろうという予測が報道されていたが、本当に起こってみるとやはり仰天。選挙という行事でこのような現象を目撃したのは初めてだ。次期政権では女性の副大統領の配置が注目されているようだが、この構えの深さは好ましい。
競馬のアーモンドアイ。これは説明不要か。二年前の桜花賞のときは一番人気ではなかったように覚えているが、それがG1=9勝とは、破格の記録。オルフェーヴル、ジェンティルドンナ、ゴールドシップといった過去の名馬たちは横綱の重量級のイメージがあったが、アーモンドアイは軽快な駿馬という雰囲気なのが不思議。
そしてプロ野球のソフトバンク・ホークスの強さ。あいた口がふさがらない。相手チームのふがいなさを言うよりも、ただただホークスが強いのだろう。サッカーの川崎フロンターレにも当てはまるが、確立された戦術の型と自分たちは強いという積極的な自己暗示(自信)が正のスパイラルを描いて手のつけられない“台風状態”を形作っているように感じられた。
平原綾香の今年開催のコンサートをビデオ視聴する機会があり、この人、ここまで巨きな歌手だったっけと驚く。福々しく強く、繊細で凄みがある。たしかに20代から十二分に上手かったが、ここ数年で一段の進境があったのだろうか、5年前の歌唱と聴き比べてもそんな感じがするのだが…。A級を超えた域にS級があるとして、更にそこから出てT級(typhoon)へと豹変かと思わせる瞬間がたびたびあった。今の平原綾香のうたう「BLESSING 祝福」に耳傾けるのは無上の体験だ。
(池田康)
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2020年11月22日

ヤンソンスの最後の演奏会のこと

昨年の11月30日に76歳で逝去した指揮者のマリス・ヤンソンスの遺された演奏を今年になって意識的に聴いているのだが、夏にNHKFMで放送された昨年10月11日のミュンヘンでの演奏会がこの人の最後の公式の演奏とうっかり思い込んでいたのが、このたび「HIS LAST CONCERT」として、11月8日のニューヨーク・カーネギーホールでの、バイエルン放送交響楽団との演奏会のライブ録音CDが発売されたので、入手して聴く。曲目はメインが10月の会と同じブラームスの交響曲4番(その他にR. シュトラウスの歌劇「インテルメッツォ」交響的間奏曲)。全体に、とてもいい演奏と思う。とくに第四楽章の、フルートと弦楽の静かな掛け合い、そのあとの管楽器と弦楽の掛け合いなど、たしかな語り方をしている。音が次第に裏返っていくむずかしい部分も実に上手い。
演奏時間は、10月の公演が43分30秒、11月の公演が42分10秒。
10月のミュンヘン公演と、11月のニューヨーク公演を比べて聴くに、好奇心を刺戟し珍味を堪能できるという意味で面白いのは前者のように思われる。これは録音やミックスの具合にもよるのかもしれないが、舞台の違いも大きいのではないか。カーネギーホールといえば世界の晴れ舞台であるから、一流オケが萎縮することはないにしても、下手なことはできないから、どこかしゃっちょこばる。余計ともいえる遊びや冒険は控えてきれいに立派にまとめることになる。しかし地元ミュンヘンではその点くつろいで肩の力を抜くことができ、好きなように遊び好きなようにうたい、結果、随所で思いきった動きを見せて、その意外さ新鮮さで聴き手の耳をそばだてさせることになる。一種の研究演奏会の面もあるのかもしれない。工作が馬鹿丁寧で、とにかく細かく、切れのある速度感は出てこない。息づきが親密で、部分部分の濃さと妖しさが全体像をぼやけさせる。バランスを崩しかねない優艶ないびつさが気になる人もいるかもしれない。しどけない、という形容詞があるが、悪い意味に転ずることもあるものの、しどけなさの美ということもあり、これがより多く発揮されるのが地元の特権なのではないか。山はその所在地に行かなければ見ることも登ることもかなわないが、オーケストラも山と同じでその本当の歌声は本拠地とする場所に行って聴くものなのかもしれない。
以下、余談。
このヤンソンス&バイエルン放響のコンビで、この秋、ブルックナーの交響曲をあれこれと聴いていた。ベートーヴェンやブラームスは曲によって大きく趣向を変えるのだが、ブルックナーはそういう志向はあまり強く感じない。どれも「あのブルックナーの曲」というかんじで鳴る。一曲だけ選ぶとすればなんだろうか。9番か。7番から9番までの三曲を聴いておけばとりあえずブルックナーは語れる、と言えなくもない。ハイドン、モーツァルトからブルックナーぐらいまでは、晩年になるほど良くなるという傾向が共通してあるが、マーラー、シベリウス、ショスタコーヴィチあたりになると、必ずしもそうは言えず、簡単な話ではなくなる。これらの人達の生涯は、文明の大きな転換期にひっかかり、現代音楽の時代に重なっていて、現代音楽や現代芸術はいい意味でも悪い意味でも「子供の遊戯」という面が少なからずあることも関係しているかもしれない。
(池田康)
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2020年11月19日

佐藤聰明『幻花 ──音楽の生まれる場所』

幻花画像ss.jpg作曲家・佐藤聰明さんのエッセイ集『幻花 ──音楽の生まれる場所』がこのほど洪水企画の〈燈台ライブラリ〉の第4巻として刊行された。新書判・192ページ・本体1300円+税。
以前、雑誌「洪水」に連載された文章やその第10号の特集「佐藤聰明の一大音」のために書かれたエッセイを中心に、未発表の文章も含めて編纂され今回の本となった。世界的に著名なこの作曲家の最近十年ほどの思考の粋がここに凝縮されていると言ってもいいだろう。それとともに、この百年で書かれた最も厳しい音楽論にして芸術論ではないかとも思う。
巻頭に置かれた「幻花 ──音楽の生まれる場所」と最後の「花はなぜ美しい」はこの本の核をなす二篇であり、宗教や人類学の領域にも踏み込みながら音楽の本領を苛烈に探求する。これらを読めば作曲家佐藤聰明の現在の精神の在りかがおおよそ判るのではないか。「詩と呪文」は詩と音楽の関係について考え、「気配ということ」では能という日本独特の特異な演劇ジャンルの魅力の深みを語り、「映画、舞踊、そして音楽」は映画やダンスのために音楽を作曲した経験を回想しながら太古における舞踊と音楽のありようを幻視し、「歌うということ」は音楽創造の真の厳しさを理論でなく実地の位置から伝え、「青春 一」「青春 二」では若い頃の切なくやりきれない思い出を甦らせる。この一冊を読めば、道なき道を歩いてきた一人の音楽家の内側にどんな広大無辺で豊饒な世界が広がっているかがわかり目眩を覚えるだろう。ぜひご注文いただき、手に取ってお読みいただきたい。
(池田康)
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2020年11月13日

音楽の初心を思う

昨夜、「高橋アキ/ピアノリサイタル2020」を豊洲シビックセンターで聴いた。
前半はシューベルトの「4つの即興曲」(Op142, D935)。亡くなる前年、30歳の時に作曲したものだそうで、即興曲はOp90(D899)の方が有名だろうが、こちらもシューベルトらしい愛すべき素朴さ、無垢、あどけなさがよく感じられる。音楽の純真をここまで維持できるというのは驚異だ。なにげない構成がささやかな興を作るところも耳を素直に楽しませる。4曲目はリズムと音型の強い緊張、響きのちょっとしたエグミで聴く張り合いを与えられた。高橋アキがシューベルトを熱心に弾くことについては何故だろうと不思議に思うところもあるが、おそらく道でばったり出会って、なんとなく言葉を交わしているうちに友だちになったのだろうと想像する。シューベルトを通じて音楽の初心をおさらいできるとともに、「古き良き西洋音楽」に接続することは、現代音楽というおぼつかない大海を放浪してきたこのピアニストに優しい安堵をもたらすのだろう。
後半は、ピーター・ガーランド「発光(疫病の年からのメモ)」(世界初演)、八村義夫「インティメイト・ピーセス」、バニータ・マーカス「角砂糖」、ジョン・ケージ「スウィンギング」「果てしないタンゴ」、ヤニス・クセナキス「ピアノのための6つの歌」、という内容構成。聴いていて思うのは、アメリカの作曲家は音楽における原始的単純さを大切にして作曲する傾向があるようだということ。音楽の素心の発露というか。ガーランドにしてもマーカスにしても、シンプルな素材をシンプルに活かして組み立ててゆくという方法をとっており、楽想の表現欲は薄い。あたかも木に繁る多数の葉が陽に当たり風に揺れてちらちら輝くとか、流れる水が刻々に表情を変えるとか、そんな自然現象を眺めているような感じの音楽で、淡い清らかさがある。和音進行という音楽思考が行われていても、どこへ行きつくでもないあてどなさはいつしか環境音楽へと近づく方向とも思える。ここにはシューベルトの音楽の初心に通じるものがあるのかもしれない。ジョン・ケージ作品については、「敬愛していたエリック・サティの作品から「スポーツと気晴らし」の中の2曲を用いて、ケージ独自の不確定性の作品にしました。その指示に従って演奏家が音作りをします」という説明がプログラムに書かれているが、その楽想に表現欲は皆無!?で、音楽よりも感銘をおぼえたのは、ケージに親炙したこのピアニストがなんの構えるところもなく当たり前のように作品に入っていくその自然さであり、また曲が終わったあと拍手もなく次の曲に移っていくという、〈作品〉であることをとくに欲していない特異なジョン・ケージらしさだ。ジョン・ケージが其処にいたようだった。
こうしたアメリカ現代音楽の中に置かれて、八村作品は楽想の表現欲が濃厚で、その差異は顕著、妙なリズムをもって犇めき合い錯綜する不穏な音たちを的確に捌く演奏の手際は鮮やかだった。
クセナキスの曲は、若い頃の仕事ということだが、この作曲家としては意外な、メロディアスな曲で、やはり音楽の初心のみずみずしさが感じられた。
アンコールは武満徹「死んだ男の残したものは」とサティの「ジムノペディ」。
高橋アキさんのステージ上での話によれば、この日、テリー・ライリー氏が会場に聴きに来ていたとのこと。ピーター・ガーランドの「発光」の第二楽章がライリーにちなんでいるという機縁からだと思われるが、この大変な時期によくぞ、と思わないではいられない。
(池田康)

追記の注:
アンコールのサティの曲ですが、「ジムノペディ」ではなく「ジュトゥヴー」だそうです。お詫びして訂正いたします。
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2020年10月30日

「詩と思想」の四季派特集

「詩と思想」11月号(土曜美術社出版販売)の「特集 四季派の遺伝子」にエッセイを寄稿しましたのでご覧下さい。
なおこの特集の内容構成は、対談=荒川洋治+小川英晴、座談会=城戸朱理+竹山聖+小川英晴、エッセイ=國中治・小島きみ子・布川鴇・岡田ユアン・鹿又夏実、四季派アンソロジー、といったあんばいになっている(敬称略)。
(池田康)
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2020年10月27日

「詩素」9号完成

siso09.JPGこのところいい日和が続いていて、ほっとする。なんだか無重力の中にいるような、子宮の中にいるような、優しい、しごくなごやかな空気だ。
さて、「詩素」9号が完成した。今回の参加者は、小島きみ子、山本萠、大家正志、二条千河、南原充士、たなかあきみつ、沢聖子、平野晴子、高田真、酒見直子、八重洋一郎、吉田義昭、八覚正大、野田新五、南川優子、菅井敏文、坂多瑩子、海埜今日子、平井達也、山中真知子、大仗真昼のみなさんと小生。まれびととして特別参加いただいたのは、神原芳之さん。巻頭トップは、大仗真昼さんの「夏草」。まだ残部ありますのでご注文下さい(500円)。
そして重大発表。
「詩素」では、来年春の10号を記念して投稿詩を募集します。年齢制限は40歳以下。締切は2021年2月28日。詳しくは応募要項をご覧下さい。
応募要項:
http://www.kozui.net/sisotokosiboshu.pdf
多くの方のご応募をお待ちしております。
(池田康)
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2020年10月15日

内在的評価と外野の勝手な感想

土曜日の午前はNHKFMの音楽番組を聴くことが多く、その流れでたまに11時からの邦楽(ポップスではなく伝統楽器の)の番組も聴くことがあり、そして更にたまに、あ、いいなあと思うことがある。以前、箏の友渕のりえが「夢の手枕」を演奏していたのを聴いて、これは本居宣長が源氏物語を真似て書いたものらしいが、古日本語の語り詠いがとても美しくて、同曲を収録したCDを探して手に入れたものだ。先日もやはり箏の藤井泰和の「秋風の曲」「融」の演奏がよくて、翌日日曜日早朝の再放送をがんばって録音した(一部失敗)。ただ、心細いのは、邦楽の場合、こちらがいいと思うのと、邦楽の内部での評価といくらかでも呼応しているのかどうかさっぱりわからない、ということがある。他の音楽ジャンルでも同じようなことがあるとしても、ここまでの心細さはない。邦楽の場合の内在的評価は、どういうことになっているのか、雲をつかむようだ。NHKFMで放送されるくらいだからもちろん一流とされているのだろうが。
ジャズピアニストの上原ひろみについても、別の意味でになるかもしれないが、内在的評価が気になる。昨年のピアノソロのアルバム『Spectrum』を聴いているのだが、とても刺戟的で随所に驚きがあり非常に面白く聴けるのだけれど、このピアニストはジャズの既成の領域から出たところで新しい音楽を創ることが多いような気がして、これをジャズの本領を大事にするジャズファンがちゃんと聴けているのかということがいささか気になったのだ。全く余計なお世話というもので、ジャズの聴き手はそんなにナイーブでも狭量でもないだろう。それでも、ジャズの従来の評価尺度にのらないような魅力が生じているとすればこれを言語化するのは難しいかもしれない。
そもそも上原ひろみは位置的にジャズのメインストリームにいるのか、外野からはよくわからない。生の理不尽に由来する強いブルーを音に刻む、といったような面はあまりなくて、むしろ音の運動の喜びを追求する面が特徴的で、哀愁を感じさせるしっとりとした曲調の場合も、苦さではなく郷愁のような繊細なスイートさが味わいになっているように思われる。もっとシンプルに言えば、昔ながらのジャズ的ワビサビは薄めなのだ。なにをやらかすかわからない驚異の元気、と見えて多くの場面で意外と理路整然と音の運動を推進する。外野のわれわれはそれをなんの頓着もなく嬉々として聴くわけだが、本式のゴリゴリのジャズ信奉者がなんと言うのか……しかしこれも杞憂なのだろう。そもそものそもそも、現役の若い世代のジャズミュージシャンで強烈なブルーを胸に抱いてそれをジャズ本然のレトリックで音に刻むということをしている人は滅多にいないだろう。新鮮でいきのいい音楽がもたらされるのであれば外野はなんの文句もない。
2009年のソロアルバム『PLACE TO BE』の初回限定版にはタイトル曲のライブ演奏を収録したDVDがついているのだが、その演奏の音の躍動感と細やかな響きのニュアンスはすばらしい。『Spectrum』の限定版には『PLACE TO BE』所収の諸曲のライブ演奏のCDがついていて、こちらも非常に生気があり貴重だ。
(池田康)
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2020年09月17日

清水茂さん

一昨日部屋の中の整理をしていたら、そこここに積んだり散ったりしている本の山の中に、清水茂詩集『古いアルバムから』(土曜美術社出版販売)が目にとまった。清水さんを偲んで、読む。清水茂氏は今年一月に逝去された。かつて「洪水」誌にインタビューを掲載するなど大変お世話になった方であり、また今年初頭に刊行した「みらいらん」5号のなかで私は学校教育の非などという乱暴な論を書きなぐっていて、長く大学で教壇に立っておられた心優しい氏を深く悲しませはしなかったかと気にもなった。それでいながら、「みらいらん」6号で追悼のページは作ったものの、自分で追悼の言葉をつづっていないのは不義理であるので、この詩集『古いアルバムから』を手に取ったことをきっかけに、少しばかり書き留めたい。
清水さんは独自のつかみ難い人格の構えがあった。大抵は、この人はこういう詩人だという型嵌めがある程度できるように思うのだが、清水さんは既成の「詩人」のイメージからはみ出す部分が多く、それが魅力でもあり、お会いして言葉を交わすたびに知らない森に足を踏み入れたような感じがして、声の奥の声の谺に耳を澄ますことになった。
『古いアルバムから』は生涯で出会ったさまざまな「あなた」にあてて書かれている。幼くして亡くした自分の娘もふくめて。ヨーロッパの詩人たちについての詩が多いのだろうか。次の引用は「最初の日々」の冒頭より。これは長い詩で、自らの生涯を幼時から辿り直している。

 時間の水脈が消えてゆくと
 後にはなにも残らない。
 六十、七十、と数えられるのは
 水路図の上の数字だけで
 久しい歳月が宿したはずのものを
 私に語るどんな徴もそこにはない。
 水面には何も浮かんでいない。
 水辺の風景の影さえも揺れず、
 水面すらももう見えない。在るのは
 ここまで搬ばれてきた私の影だけだ。

    *

 母に手を引かれて歩いた道があった。
 黒くて、熱く、粘りっ気のある
 コールタールの臭気がまだ流されるまえの
 荷馬車の轍のある土を踏んで歩いた。
 路傍には ところどころに
 クヌギやコナラの木立が残っていて、
 私たちはそれを森と呼んでいた。(後略)

(池田康)
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