2019年02月01日

『ホモ・デウス』のこと

『サピエンス全史』の著者による新しい本『ホモ・デウス』(河出書房新社)を読む。神をあがめた時代から近代以降の人間至上主義(文芸の分野ではロマン主義ともいう)に移り、そして21世紀に入ってこれからはデータ至上主義へと向かうという分析は鮮明で、その通りなのだろう。コンピュータはある規則に則った計算力やデータベース構築の威力は人間の能力を超えた優越性を示すし、AIの発達は我々の想像以上の速さで進みつつあるから、あらゆる分野にわたるデータismが今後ますます顕著になっていく道筋はハズレのない予想であろうし(しかしこの〈情報&演算〉の世界秩序がヒューマニズムに取って代わるとしたら恐るべきレジームの転換だ)、それと共にデータismに乗りにくい価値やクオリティは等閑視され衰弱を余儀なくされることにもなるのかもしれない。
とりわけ興味深く読んだ箇所の一つは、人間の意志なるものを考察するなかで右脳と左脳の働きを語った一節で、これらの働きの違いはよく聞かされる話だが、右脳には、言語を司り計算し物語る左脳とは違った独自の欲求や意志があるという話は初めて聞いたような気がする。数年前の拙作「気聞日記」では“気分”という心理的現象にスポットを当てたが、“気分”の相当部分は右脳の意志や欲求を反映しているのかもしれない。
右脳・左脳の話を初めて詳細に知らされたのはたしかコリン・ウィルソンのなにかの本だったかと思う。Y・N・ハラリが“ホモ・デウス”を予言するように、C・ウィルソンも未来における人間の脳の発達とそれによって開ける全く新しい精神世界を夢想していたように覚えているが、ハラリと違ってとてもオプティミスティックな色合いだった。“ホモ・デウス”はディストピア的な意味合いや色彩、マッド・サイエンティストのマッドさがかなり濃そうな雰囲気がある。世界の文明史を語るにしても、論者によってあるいは時代によって微妙にトーンが変わるのは興味深いことだ。
あえて対抗してなにかイズムを唱えるとしたら、なんだろうか。冗談半分で言ってもいいなら、「絵師イズム」というのはどうだろうか。たくさんではないけれどマンガを読んだりもする、なにを読むかというときに、商業的に要求される水準以上に過剰に絵を追求する大馬鹿画狂の作家を好んで読むという傾向がある。創作における無駄な狂気。Aesthetic CrazeのA.C.ism。あるいはCreative Craze CaravanをつくってTカードempireと覇を競おうか。このCrazeは一種極上の幸福を約束するとかなんとか謳い文句をでっちあげて。少数者の趣味的な悪あがき、メジャーにはなりにくそうだ。
(池田康)
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2019年01月30日

新聞記事のお知らせ二つ

一昨日の公明新聞の野村喜和夫さんの詩集評で弊社刊のシュペルヴィエル『悲劇的肉体』(嶋岡晨訳)を取り上げていただいた。そのサワリの一節「彼(=シュペルヴィエル)は心臓に持病を持っていて、つまり人よりもいっそう心臓−−このままならぬ生の中心−−を意識して生きてきた。「悲劇的」にはそういう意味合いがあるわけだが、もちろん詩人の想像力は、生と死の共棲をめぐって普遍的なポエジーの高みにまで達している」。ぜひご覧ください。
また25日金曜日の大糸タイムスに塚田恵美子歌集『ガーコママの歌』の紹介記事が出た。「アイガモ育てや日常短歌に」というタイトルで、塚田さんが歌集を手に持って微笑んでいる写真も載っている。こちらもご覧になることが可能でしたら、是非。
(池田康)
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2019年01月22日

ブラックチョコレート・ドラマトゥルギー

成功譚と悲話はどのようにして一体となり得るのか、そもそもそんなことは可能なのか。どうやら不可能ではないらしい。
去年の秋〜冬に公開され今も上映が続いている音楽映画二本「ボヘミアン・ラプソディー」と「アリー/スター誕生」はどちらもサクセスストーリーと悲話が表裏貼り合わさった構造になっており、そのことがこれら二作の味わいを非常に濃いものにしているように思われる。幾多の困難を乗り越えてハッピーエンドに至るというパターンはよくあるが、ここでは序列が違っていて、華やかなサクセスストーリーをさらに大きな悲劇が包む、という構造になっているのだ。
同様の構造のものとして「七人の侍」が挙げられるだろうし、更に言うなら「忠臣蔵」もそうだろう。いずれも計画は成功するが悲しい結末を迎える。そしてそのことで作品の味わいは苦く重厚なものとなる。この作品構造をブラックチョコレート・ドラマトゥルギーと言ってみたい。ブラックチョコレートは最近わが常備食となっており、口が寂しくなると少し割っては齧っているが、甘さをチョコレート固有の苦さが制している。
凄絶な反社会クライムムービー「俺たちに明日はない」も初々しい恋愛の成就とむごたらしい社会的制裁とが表裏となっているし、誰もが知る名作「ローマの休日」もゆるくほのかな感じではあるがブラックチョコレート風味の組み立てになっている。
この思いつくままの考究はプロメテウスとか日本武尊とかジャンヌ・ダルクとか、シルエットが星座になりそうな神話的英雄の類型に行き着くのかもしれない。それを薄めて一般化して、人生論とは結局はブラックチョコレートの味わいにいかに自分の舌をチューニングするかなのだと気の利いたような台詞を言ってみたい気もするのだが、それはとにかく、チョコレート工法は物語作品の構築を重厚にするための一つの有力なセオリーと認められてよさそうではないか。黄金のレシピ、いや、血潮の赤と真夜の黒を掛け合わせたダークブラウンの劇作(劇薬)処方箋。
(池田康)
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2019年01月15日

最近の見聞、『サピエンス全史』など

寺山修司の小説『あゝ、荒野』を読んだ。新宿でボクシングに励む二人の青年の話。1966年作で、漫画「あしたのジョー」よりも前の執筆らしい。着想の奇、レトリックの華麗さにうっとりとなる。さすが寺山。昨年DVDで伝説の映画「クーリンチェ少年殺人事件」(エドワード・ヤン監督。船越素子さんが「みらいらん」1号で論じていた)を見て、青春ものながら時代と社会を描き出す総合性になるほどと思ったのだが、4時間という非常に長い上映時間、近ごろ同じように長い映画作品がたしかあったなと思い出し、一昨年の「あゝ、荒野」前編後編(岸善幸監督)を見て、原作も読んでみようと思ったのだった。“自殺研究会”という奇妙なエピソードが入ってきて構成のバランスをとるのが難しそうに思われるのだが、映画は原作よりも丁寧に細やかに接続させている感じがした。しかし寺山のレトリックの異次元性は小説独自のもの。
八王子のギャラリースペースことのはでの永野光太郎ピアノリサイタル(レクチャー付き)を聴く。シューマン特集。シューマンの音楽は詩人的なところが相当にあるということを、彼が音楽化した当時のドイツの文学者も引き合いに出しながら考える。音楽の文学的解釈を笑うショパンとの対比も興味深い。
いま評判のユヴァル・ノア・ハラリ著『サピエンス全史』(河出書房新社、柴田裕之訳)を読む。人類史のすばらしく啓発的で要領を得たレジュメ。各時代の人間がどれだけ幸せに生活していたかを吟味する独自の想像力、帝国というものについての歴史家らしい冷静で総合的な考察、宗教やイデオロギーの面での間合いを十分にとった鋭い割り切り方にはっとさせられる。詳細な具体例のデータが効果的に説得力を強めており、フランスのルイ15世時代のミシシッピ株式会社の株式バブルの不祥事が国の歴史を左右する大事件になるところの叙述は、初めて聞く話で、目の前で現実の事件が起こっているかのようで驚嘆。終章で展望される人類の未来の不気味さはどんなSFホラーでも味わえない類のものだ。他の生物を虐待する人類の罪業を克明に記述する本書を読むと原罪の感覚を植えつけられるようで気分が暗くなり(虚妄の)幸福の度合いが少し減るかも? しかし深い認識の方がより大事だとY.N.ハラリ氏は考えるのだろう。イスラエルの人だそうで、その地理的、地政学的要素はどう意味を持つ、持ちうるのだろうと考えてしまう。
(池田康)

追記
Y・N・ハラリの本について、あえて異論を言っておくとすれば、彼のあまりに自然科学的な霊魂論議に対してだろうか(たとえば、異なる周波数の空気の波があるばかりで音楽なんてものはないと自然科学者が嘲笑とともに言うとしても、音楽はあるのだ)。無数のフィクションの重なり絡み合う中で幻想の霞を糧にして暮らす人間にとって、フィクションとしての魂論の建設こそ究極の意義をなすのだとも考えられ、コスモスとの、あるいは生命の源との高い秩序でのつながりを韻かせる創意ある“建設”活動は、科学がなにを言おうと止まないのだという側に賭け金(十円玉を詰めた千両箱1ヶ)を置きたい。
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2019年01月09日

ジョニ・ミッチェルを聴く

昨年読んだAyuo 著『サイケデリック・ボーイの音楽遍歴』に影響されて、年末年始をはさむようにしてジョニ・ミッチェルを聴いている。レコード店で探したら初期アルバム十枚組BOX『The Studio Albums 1968-1979』が信じられないような廉価で売り出されていたのでそれを手に入れてCDをとっかえひっかえかけている。
この人の曲で世の中に広く知られているものと言ったら「Both Sides, Now」「The Circle Game」だろうか。どちらもとてもいい曲で、それぞれ2番目と3番目のアルバムに入っている。4番目のアルバム『Blue』は世評高いようで、タイトル曲「Blue」や「River」はとても味わい深い。ここまで、フォークソングの様式を維持しての、着実な上り坂の幸福な充実ということなのだろう。ただ、門外漢の私が虚心坦懐にここ十日ほどの間に聴いた限りでいうと、一番最初のアルバム『Song to a Seagull』に何故だが特別の愛着が沸く。妖精的でなにも考えずに自在に音を動かす天衣無縫さがなんとも素晴らしい。第2作、第3作と時が経つにつれ、いろいろ建設的な「考え」が入ってきて硬さや頑張っている感じがわずかずつ出てくるような気がするのだ。それももちろん創造者が通るべき必然の道なのだろうが、歌い始めたばかりの開花期の無垢の天衣無縫さは捨て難い。初期の純粋を尊ぶこのような偏った嗜好はいかがなものだろうと疑問に思い少し反省もするがとりあえずありのままをここに報告しておこう。
5番目〜8番目のアルバム達は、まだそれほど聴いていないが、どう言ったらいいのか、ロック色やジャズ色が前面に出てきたりしているが、試行に留まるとも言えそうで、過渡期なのかもしれない。「You Turn Me On, I'm a Radio」はポップチューンとして好ましいチャーミングさを持っている。逆に言えば、ポップスとして消化しやすい形に結実していない試行も多くあり、これは彼女の創造力の果敢さの表れだろう。
9作目の『Don Juan's Reckless Daughter』では、異国のリズムが鳴り、ワールドミュージックへの挑戦の兆しが感じられて、驚かされた。ポール・サイモンの『グレイスランド』が出るより十年早い時点でジョニ・ミッチェルがこんなことをしていたとはと、クリエイティブな人間の先見の明に敬意を覚える。「チャールズ・ミンガスを偲んで」という添え書きのついた10作目『Mingus』はジャズ色の濃い、風で揺れ動きそうな柔らかい構造の音楽が試みられている。5曲目(tr.9)の「The Dry Cleaner From Des Moines」はとりわけ気持ちよい。
このBOXSETにはなにしろ10枚のアルバムが入っているので、そう何回も聴いているわけではなく、今後さらに聴き込んだらまた別の見解を持つようになるかもしれない。Ayuoさんの本によればジョニ・ミッチェルはギターのオープンチューニングの技法に長けていた人だということなので、その視点から聴くとまた違った聞こえ方になるのだろうか。
(池田康)
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2019年01月03日

「みらいらん」3号

milyren3.jpg「みらいらん」3号が完成した。この雑誌を去年1月に創刊した時点ではこの先どうなることやらと不安に満ち満ちていたが、多くのご協力をいただき、積み重ねて3号まで到達することができ、なんとなく見通しが立ちつつあるような気がしている。嬉しいことだ。
今号は野村喜和夫・有働薫両氏の対談「現代フランス詩の地図を求めて」につなげて小特集「異国の詩歌と睦ぶ」を組み、外国詩とのつきあいを考える号となった。有働さんはジャン=ミッシェル・モルポワの詩集『青の物語』『イギリス風の朝』の翻訳や戦後のフランスの詩人の紹介の仕事をされてきており、彼らがどのような考えで詩を創造しようとしてきたかよくわかる対談となったように思う。小特集では沓掛良彦氏が周到な序論を執筆下さって有難く貴重であるほか、三井喬子、神泉薫、古賀大助、浜江順子、二条千河、南川優子、ヤリタミサコ、田野倉康一、颯木あや子、瀬崎祐、山田亮太といった方々が切実な外国詩体験を語って下さっている。
巻頭詩は城戸朱理、草野理恵子、神原芳之、和田まさ子、カニエ・ナハ、八潮れんの皆さん。
インタビュー〈手に宿る思想〉、今回は陶芸の伊福部玲さんに土を成形して火で焼き器を作る楽しさと苦労、現代離れしたその時間の様相をたっぷりとお聞きした。縄文土器の野焼きの話も非常に興味深い。今年予定されている、父親の作曲家・伊福部昭を記念しての行事についてもうかがった。今月8日から横浜市民ギャラリーでの「横浜の縄文・美と力」にも参加されるそうだ。
そのほか、俳句・短歌のページを創設し、北大路翼・秋元千惠子両氏に作品をお寄せいただいた。
新刊広告を表紙をめくった裏に置くはずが手違いで奥付ページの隣になってしまった。出版に携るすべての人に笑われそうなミスで、恥ずかしい限りだが、これを今年の最初で最後の大きなミスとすべく、気を引き締めて仕事をしていきたい。
(池田康)
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2018年12月22日

塚田恵美子歌集『ガーコママの歌』

ガーコママの歌画像s.jpg塚田恵美子歌集『ガーコママの歌』が洪水企画から出た。四六判並製184頁、1800円+税。塚田恵美子さんは長野県に住み、米作りの農業をやっていて、合鴨の助力を得て無農薬で頑張っているのだが、その合鴨が「ガーコ」であり、彼らの世話をする塚田さんが「ガーコママ」というわけだ。合鴨との微笑ましい(ときに悲しい)生活を詠んだ歌を引用する。

 箱のふた開けるや雛の鳴き声がはじけてハウスの中にひろがる
 ピィピィと手の中で鳴く雛鴨のその心臓は早鐘を打つ
 ふわふわの雛を手の中に握りしむ卵の殻を潰さぬ加減で
 田の中に姿の見えぬ合鴨は吾の呼ぶ声に葉を揺すり来る
 県道を遠足中に保護されて車で帰宅の鴨説教す
 脱走の鴨三十余羽 追いきれず夫は草刈り私は読書
 ぺたぺたと二寸の足で走る鴨を捕えそこねて転ぶは必至

長野の風土を思わせる、方言を使ったこんな歌もある。

 きのうセ月夜の田んぼで熊がセごろんごろんと寝たらしいだヨ
 腹いっぺ稲食べたあとは寝っころび「なんだかなあ」と熊は思うべ

塚田さんは短歌文芸誌「ぱにあ」に農家の生活を楽しげに生き生きとつづるエッセイを連載していて、その元気のよさ軽快さは歌でも健在のようだ。
天文物理や幾何学的なことも好きなのだそうで、次のような歌もある。

 数式もて表す宇宙の一つ点 その星の空 桜舞う
 難解な定義の数式可視化するロマネスコ・ブロッコリーは孤高

肉親のこと、とりわけ父母との死別の歌は哀切だ。

 暖かい秋の日ざしは肩も背も息をも包む 父に会いたし
 母さんの口慰みののど飴が形見の服にぽつんとひと粒

これが第一歌集ということで、明るく柔軟な言葉のバネにより、今後ますますの活躍が期待できるのではないだろうか。
(池田康)
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2018年12月19日

サイケデリックは魔道か本道か

AYUO著『サイケデリック・ボーイの音楽遍歴』(月曜社)を読む。たった一言で感想を言うなら、
 vivid!
だ。イキがいい。日本で生まれながら60年代後半から70年代半ばまでニューヨークで生活し成長した少年が、いかに風雲に満ちた世界都市で最先端の多くのものとぶつかり、同時代の前衛色の濃い音楽を吸収し、多国籍の子供が集う学校で考え方を鍛えていったかが、いきいきと詳細に語られる。両親が活動的な音楽家で交友も広く、この子供時代にジョン・ケージやホレス・シルヴァーに会っているというのだから、特別すぎる境遇だ。羨ましいを通り越して唖然とする。子供の頃の日本の我々が歌謡曲を当たり前のものとして聞いたように、AYUO氏は小学生の頃から水をごくごく飲むように自然にグレートフル・デッドやジョニ・ミッチェルやベルベット・アンダーグラウンドを聞いたのであり、それらの音楽を語る言葉は浅薄な観念性や嘘っぽい理屈がなく説得力に満ちている。
15歳で日本に移住して、70年代末にミュージシャンとして活動することになった時、作曲家でピアニストの高橋悠治の息子だということで、同じようなクラシックの素養のある、ピアノも弾ける音楽家だと周囲が誤解して、なかなか相互理解ができずとても面倒なことになったという話は考えさせられる。そうした苦労はありながら他方では望外の幸運もあり一歩一歩自分の音楽を探し求めて進んでいく過程は音楽家の工房の内部を覗かせてもらうようでとても興味深い部分だ。
文化史・社会史的なことで言えば、60年代のアメリカの若者たち、ヒッピー文化を担った人たちが、初期は“自由”を旗印にしたコミュニティを作ったり旅をして動き回りながらいい具合に繋がって善意のネットワークを構築しようと模索していたのが、のちの時代になると破滅的な生活に陥るとか変な政治運動や新興宗教に絡めとられるようなことになったという歴史的考察は鋭利であり、いまだに重い問題として思考を深めるべき事柄だろう。
書名の「サイケデリック」という言葉は一般には珍妙なイメージで受け取られるかもしれないが、著者にとっては音楽の本質を示す不可欠のタームなのだ。日常に意識されている世界を抜け出て異次元のエクスタシーに至るための通路、「宇宙の無限と最も近い体験」へとトランス、トリップする最高の媒介が音楽なのだと主張される。読みながら究極的には本当にそうなのかもしれないと思わなくもない、というのも私がシュルレアリスムと音楽との親近を夢想するのも同じような観点からであるので。
(池田康)
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2018年12月16日

尺八と怪奇と

昨日はトッパンホールで催された邦楽Ensemble21の演奏会「邦楽の新たな地平」を聴きにいった。新実徳英さんの作品ばかりを集めた個展コンサート。トッパンホールは座席数400程度でそれほど大きなホールではないはずなのだが、ゆったりとした横幅があるためか、巨大な雰囲気がかもされていた。客は九割がた入っていただろうか。
5曲演奏されたが、もっともほれぼれと聴いたのは4曲目の三本の尺八(素川欣也、柴香山、田辺しおり)による「風韻II」だ。複数の尺八の演奏はこれまで数回聴いたことがあるが、同じ音、同じ調べを奏するモノトーンなものが多かった気がする。今回は三本が違った調べを寄せ合わせて、予測不可能な妖しくも華やかな多様さを生み出しており、精妙な豊かさに驚いた。最後の曲「二十五絃筝協奏曲 - 魂のかたち」でも尺八群は佳い風景を創り出していた。この協奏曲での聴きどころはもちろんソロイスト(二十五絃筝=滝田美智子)の緊張感と力強さを伴った演奏だった。1曲目の「筝合奏のためのオデュッセイア」も、製作中の「みらいらん」次号の自分の文章で『白石かずこ詩集成3』を論じるときにオデュッセウスも出てきたので興味深く聴けた。後半盛り上がるのだが、前半の単純なモチーフの反復により淡々と音が広がるところも海の無際限の運動が感じられて惹かれた。2曲目の4台の筝による「青の島」は沖縄をしのんだ曲ということで、これも最近沖縄在住の新城貞夫さんの本を作ったことが思い出されて、機縁を感じた。
帰途、新宿のシネマカリテで映画「メアリーの総て」(ハイファ・アル=マンスール監督)を観る。やはり「みらいらん」次号で少しメアリー・シェリー著『フランケンシュタイン』のことを書いたので、これは是非観ておかなければと。サウジアラビアの女性監督だそうで、この名作怪奇小説の誕生の経緯を語る、正攻法の揺るぎない叙事。イギリス対話劇特有のレトリックの遊戯もいくつかのシーンで楽しめる。パーシー・シェリーとメアリー・ゴドウィンの恋路はデコボコ泥沼の惨憺たる悪路で、フランケンシュタインよりも怪奇かもしれない。女性として自由というバケモノと戦う人生行路は、現代に比すならオノ・ヨーコ級か。メアリーの父親の包容力は見事。バイロンも主要人物として登場するが、あんなふうな人なのか、違うシルエットのバイロンもありそうな気がする(「バイロン卿はちょうどそのころ『チャイルド・ハロルドの巡礼』を執筆中で…中略…書きあがった原稿を次から次へとわたしたちのところに届けてきたのだが、そのどれもが詩ならではの光輝と調和に満ち、天と地の美しさを神聖なものとして謳いあげているようで、わたしたち夫婦も影響を受けることとなった」とメアリー自身がまえがきに書いている(新潮文庫版、芹澤恵訳))。ナポレオンやゲーテやベートーヴェンも生きていた時代だから、そういう時代の波立ちをちらりと風聞の端にでもいいから書き込んでほしかった。しかし濃厚な物語を行く生きたメアリー・シェリーおよび二人の19世紀英国の代表的詩人に出会えるのは貴重でありがたいことだ。
(池田康)
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2018年12月12日

ある小さな遭難のこと

外を歩いていると吐く息が白くくもる季節になった。
編集が長びいていた「みらいらん」3号もようやくまとまって、無事印刷所に入れることができた。ひと安心。
今回、風邪や頭痛などで体調を崩すという小さな波乱はもちろんあったが、最大のピンチは、伊福部玲さんのインタビュー予定日の早朝、急に猛烈に腹が痛くなり、病院に駆け込み、残念にもインタビューをキャンセルする羽目になったこと。救急外来の医師は、眼鏡の奥の目を異様に光らせて私に質問を矢継ぎ早に浴びせかけ、十五分もしないうちにみごと病名を突き止めてしまった、その野戦病院的な辣腕にいたく感服した次第。その病気は毎日大量の水を飲んで治すという河馬みたいにのんびりほのぼのとした治療を求めるもので、歓迎はしないが、翌日からいつも通り仕事も食事もでき、おおごとにならずに済んだと胸をなでおろしたのだった。
それでもその延期のために〈対話の宴〉の対談イベントとインタビュー本番とが二日連続になってしまい、しかもその時点で印刷所入稿予定まで一ヶ月を切っていて、テキストを起こして記事を作る後段の作業も含めて非常にしんどかったのだが……
今回は168ページ、小特集は「異国の詩歌と睦ぶ」、表紙にはまたしても驚きの生物が登場している。お楽しみにして下さい。
(池田康)
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