2022年11月30日

小特集「本ってなに?」への序曲

うかうかと、いや、みらいらん次号や新刊の本の編集でせわしなくしているうちに、いつの間にか11月が終わってしまった。
この一か月に、なにがあったか。
城戸朱理さんの英訳詩集がワシントンポスト紙に年間優秀詩集ベスト5として紹介されたという知らせに驚いたこと。春から続いていた右肩の痛み(A先輩に五十肩だろうと言われてギクッとした)がようよう治まってきていて、腕を上げる角度によってはまだ引っかかる感覚はあるが、しかしシャツの脱着もままならなかったのがかなり楽になったこと。ガジュマルの鉢を越冬のためベランダから室内に移し、そのため部屋の中がすこしだけ華やいだこと。松本大洋のマンガ作品を何作かまとめて読んで、風がゴオオオと鳴る、男の子たちが生きる原-世界の空気に触れたこと。映画「めぐりあう時間たち」のフィリップ・グラスの音楽に心地よく洗われたこと。そんなところだろうか。
さて、常々イタリアのプッチーニなどのオペラにはまともな序曲や前奏曲がついてないことが多いのを非常に残念に思っていて(オペラファンには序曲など聴いていられないという気短な人が多い?)、そのうらみからでもないが、みらいらん次号の小特集「本ってなに?」に序曲に当たるような詩を作ったので、個人誌「壁画」11号として披露したい。下記リンクからご覧下さい。
http://www.kozui.net/artnote/hekiga/hekiga11.pdf
(池田康)
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2022年11月01日

みのり

DSCF3069.JPG茄子がようやく実をつけた。みらいらん10号で西脇順三郎特集をやった記念というわけでもないが、夏のはじめ、西脇がこよなく愛惜した植物、茄子の苗をホームセンターで購入してベランダに置いた。いくつもいくつも花をつけるが、そのたびに柄のところからもげて落ち、実をなさない。おそらくこれはダメなのだろう、そういう株なのだろうと諦めていたら、10月になって実が生った。やはりこいつは忘れなかったのだとほっとした次第だ。
実が生るといえば、近所の柿の木はすでに色づいた大きな実をたくさんぶらさげているが、いつ花を咲かせていたのだろう。6月に淡黄色の花を咲かせると植物図鑑にはあるが見た記憶はない。ちゃんと目に留るような花を咲かせなさいと柿に要望書を出したいところだ。
「みのり」という語は「いのり」を含んでいるように聞こえる。この錯覚はなかなか良い。小さな茄子が垂れている姿が尊く見える。
(池田康)
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2022年10月23日

詩素13号

siso13.jpg
詩素13表紙裏.jpg













詩素13号が完成した。
今回の参加者は、海埜今日子、大仗真昼、大橋英人、小島きみ子、坂多瑩子、酒見直子、沢聖子、大家正志、高田真、たなかあきみつ、七まどか、南原充士、新延拳、二条千河、野田新五、八覚正大、平井達也、平野晴子、南川優子、八重洋一郎、山中真知子、山本萠、吉田義昭のみなさんと、小生。
ゲスト〈まれびと〉は、望月遊馬さんをお招きした。
特別企画は「追悼・小柳玲子」、この夏に亡くなった小柳玲子さんを追悼するエッセイを集めた。執筆者は吉田義昭、坂多瑩子、野田新五の三氏。
巻頭は、海埜今日子「暗渠通信」、坂多瑩子「今日も誰もきません」、酒見直子「銀歯交信」、高田真「線の話」。
表紙の詩句は、Christina Rossettiの“Song”より。裏表紙は今回も野田新五さんの絵。ぜひご覧下さい。
(池田康)
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2022年10月07日

蝦名泰洋さんの『全歌集』に向けて

昨年夏に亡くなった蝦名泰洋さんの『全歌集』の制作が野樹かずみさんの編集で進められているが、制作資金調達のためクラウドファンディングを開始したとのこと。関心のある方は下記URLでご覧のうえご参加下さい。
https://readyfor.jp/projects/105853

(池田康)
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2022年10月02日

追悼の儀礼

先日、みらいらん次号に掲載予定の、野村喜和夫/カニエ・ナハ両氏の対談を行った。録音や写真撮影はいつもハラハラだが、大きなミスや事故もなく実施できて胸をなでおろした。
そのときの雑談の中で、書肆山田の大泉史世さんのご逝去の話も出た。私は安藤元雄さんの8月刊の詩集『恵以子抄』のあとがきで初めて知ったのだが、先ごろ季村敏夫さんから送られてきた「河口からVIII」の執筆者に大泉さんの名前があって驚いた。巻末の「歩く、歩かされる──あとがきにかえて」を読むと、1993年に発表された散文詩を再録したとのこと。大泉さんはもっぱらの裏方の人ではなく表現活動もされていたのだ(2、3回お会いしたことはあるが、深い話はしなかった)。その作品「しろいくも」の最初の章を引用紹介する。

 ●
 それは、とてもとても、とても不可能なことだと思えた。
 またね、またいつかね──。
 ぼくは、両手をポケットにつっこんで、どうやってもこみあげてきてとめられないルフランを鼻先から逃がしている……アンダ、ライフ、ゴウゾン。
 ──んげなごどえっだっではがなえごどにい。

「アンダ、ライフ、ゴウゾン」は後続の部分によれば「and a life goes on」のことのようである。

それから、弘前市から「亜土」115号が届けられたが、これは市田由紀子という私にとっては未知の詩人の追悼号となっていて、2冊セットで、1冊は故人の作品抄、もう1冊は詩人仲間たちの追悼詩や追悼文を収めている。実に手厚い追悼の儀礼だ。市田作品より少し引用する。

記憶というものにも曲り角があるんだ
いつもあと一歩というところで
角にだしぬかれてしまう
ブラウスの肩パッドのずれを
直したはずみに違った通りに出た
なつかしいような
出会いたくないような通りで

いきなり学校の鐘が聞こえた
前の方には
うまく越えて来たはずの角々が
「通りやんせ」をするように
並んで待ちぶせしている

これは「公園通り」という作品の「1 鬼ごっこ」の章。イマジネーションの動き方が魅力的だ。

鍵をかけて一日すごした
誰もこないのに
心の閂をはずしてみた
誰もこないのに

これは「四行詩のため息」の5の章。孤独の景の鋭さ。

(池田康)
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2022年09月20日

雑誌ふたつ

台風のお見舞いを申し上げます。
さて、発刊されたばかりの「現代短歌」11月号に、エッセイ「批評の書斎を出る」を執筆しておりますので、ご覧下さい。BR賞という書評の賞の発表の号。
それから、田中庸介さん編集発行の詩誌「妃」24号が今月完成、こちらは本文の組みを担当しました。田中さんはなかなか眼光鋭い編集人でした。
(池田康)
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2022年09月06日

ストラヴィンスキーは天才ではなかった?

小さな雑誌を作っていても、毎号、どうにかして目新しさやささやかな地雷を盛りこめないかと苦心する。マスコミ風にいえば「特ダネ」を追求するわけだ。そう言うとさもしい行為のようにも聞こえるが、刊行物をより有意義なものにしたいという熱意はまっとうそのものであり非難には当たらないだろう。
そして特ダネは目立たない場所に隠れていることもある。
4日日曜日のNHKの放送に特ダネが盛りこまれていたとしたら、それはニュースでも科学ドキュメンタリーでもスポーツでもドラマでもなく、Eテレの夜の番組「クラシック音楽館」にあったのではなかろうか。ブラームスとかベートーヴェンとかいったありきたりの曲目だと見過してしまうが、この日は未知の曲が並んでいたので期待するでもなくチャンネルを合わせて流していた。N響第1959回定期公演で、曲目は、バレエ音楽「ペリ」(デュカス)、「シェエラザード」(ラヴェル)、「牧神の午後への前奏曲」(ドビュッシー)、バレエ組曲「サロメの悲劇」(フロラン・シュミット)。コンサートの前半・後半の幕間に当たる時間に、この日の指揮者ステファヌ・ドゥネーヴ(初めて聞く名前…)が各曲について解説をする。ぼんやり聴いていたら、「サロメの悲劇」の音楽の作り方を学んでストラヴィンスキーは「春の祭典」を書いたのだと語るので、びっくりしてしまった。これまで読んだことも聞いたこともない話だが、現役第一線の指揮者がそう言うのだから、確かにそう言える部分があるのだろう。これは私にとっては立派な特ダネだ。ストラヴィンスキーの三大バレエ曲はそれまでの音楽史から考えると突然変異的な要素が多いので、彼はゼロからこれらを創造したのだろうと思い込んでいて、紛うことない「大天才」のイメージがあったのだが、そのイメージが修正を余儀なくされる。「サロメの悲劇」はストラヴィンスキーに献呈されているとのことであり、とするとフロラン・シュミット(初めて聞く名前…)はストラヴィンスキーの作品に影響を受けて作曲したのであろうから、ストラヴィンスキーにしてみれば自分から出ていった影響が自分に戻って来ただけなのかもしれない。しかし「サロメの悲劇」が発表された1907年は「火の鳥」「ペトルーシュカ」が世に出る前なのだ。
とはいえ、創造に影響関係は付きものだ。ピカソはブラックの仕事から大いに刺戟を受けたであろうし、ゴッホも日本の浮世絵を見なければあんな画風にはならなかったかもしれない。ベートーヴェンもハイドンやモーツァルトがいなければ彼独自の作品世界を拓けなかっただろうし、シェークスピアも同時代の劇作家や詩人からさだめし多くを学んでいただろう。ストラヴィンスキーもピカソやゴッホ程度には「人並み」だったのだ、という依然として浮世離れした話に落着くのかもしれない。
余談。窓を開けて聴いていたので、外の虫の声が入り込んできて、そんな中でドビュッシーの「牧神の午後への前奏曲」を聴くのはなんとも幻想的であった。
(池田康)
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2022年08月31日

壁画10号

この夏の記念として、詩「百合の夏」を載せた個人誌「壁画」10号を出します。前回9号が2015年だったので、かなり久し振り。下記URLよりご覧下さい。
http://www.kozui.net/artnote/hekiga/hekiga10.pdf

(池田康)
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2022年08月06日

百合が夏になにかささやいている

はがき002.jpg夏に咲く花といえば、朝顔、向日葵などがすぐに思い浮かぶが、あまりにも当たり前だ。そこで、「百合が咲く夏」という新鮮に感じられそうなイメージを発案してみたい。うちの近所でもあちこちで鉄砲百合とおぼしき白い百合がつぼみをつけたり花開いたりしている。百合のつぼみは特徴的ですぐわかり、いつ咲くんだろうと心の中で尋ねてみたりするのだが、それが開花するとちょっとした感動を覚える。百合が語る夏、この系列に属する風物はどんなものがふさわしいだろうか。ひっそりと涼しげな存在たち。夏の裏街道。
虫ならば、蝉でもカブトムシない。蛍はちょっとよさそうだが、もう今では滅多なことでは出会えないから挙げにくい。玉虫もしかり。なので、カナブン。この昆虫はうちの近所にもいるようで、ときどき見かける。カブトムシより色彩の美しい点もいい。果物では西瓜や桃ではなく、スモモ。貴陽やサマーエンジェルといった品種はことに美味しい。アイスクリームよりも水羊羹、いやトコロテン。飲み物は私の勝手でジンジャーエールにさせていただく。よく飲むので。カフェでオリジナルのジンジャーエールを出すところがあるが、レシピの可能性の幅が広いようで、さまざまな個性的味わいのジンジャーエールが飲めてうれしい。しかし更にふさわしいのは、冷やしたジャスミン茶か。この夏はこれに全面的に頼っている。涼しさをもたらす道具は、クーラーでも扇風機でもなく、団扇。これは壊れやすい、フラジャイルなところもこの系にふさわしい。
歌では誰だろう。声高なかんじがしない、ひっそりした雰囲気の人。現役の人で思いつけるといいが、なかなかぴたっと来ない。だから、久保田早紀。地中海的幻影の南方の光の中に、ひんやりした涼しさが感じられる。「ギター弾きを見ませんか」「幻想旅行」「碧の館」「アクエリアン・エイジ」「25時」「田園協奏曲」「アルファマの娘」「トマト売りの歌」「サウダーデ」「憧憬」など。「星空の少年」もかなり好きだが、オリオン座が出てくるので冬の曲となる。
ところで、百合はキリスト教の受胎告知の花として知られており、それと関係するのかどうか、女性同士の恋愛に百合がシンボルとして使われるようで、そのことを今書いているこの話題に織り交ぜるのは難しいような気がするけれど、それでは、「百合の夏」の文学者として古代ギリシアのサッフォーにお出ましいただこうか。紀元前にまで飛ぶのは涼しさがある。沓掛良彦著『サッフォー 詩と生涯』(平凡社)より、「もっとも美しきもの」という詩。

 ある人は馬並(な)める騎兵が、ある人は歩兵の隊列が、
 またある人は隊伍組む軍船(ふね)こそが、このかぐろい地上で
 こよなくも美しいものだと言う。でも、わたしは言おう、
 人が愛するものこそが、こよなくも美しいのだと。

 このことわりを万人にさとらせるのは、
 いともたやすいこと。げにその美しさで
 世のなべての人々に立ちまさったヘレネーとても、
 いともすぐれた良人(おっと)を捨てて

 船に身をゆだね、トロイアへと去ったことゆえに、
 わが子をも、恩愛のほど浅からぬ両親(ふたおや)をも
 露ほども想うことなしに。[キュプリスさまが]まどわせて
 かのひとを誘(いざの)うていったのだ。

 [女心は]いともたわめやすいもの、
 [それは]今わたしの心に、はるか彼方の地にいる
 アナクトリアーを想い起こさせる。

 ああ、あの娘(こ)の愛らしい歩き振りや
 あの顔のはれやかな耀きをこの眼で見たいもの、
 リューディア人らの戦車や、さては
 美々しく身を鎧うた戦士(もののふ)らなどよりも。

サッフォーの作品は一作をのぞき断片的なものしか残っていないということだが、これはかなり完成形に近いようだ。キュプリスとはアフロディーテーのこと。4行目は今読むと流行歌にもありそうな当たり前のことを語っているようにも思えるが、この本の注によれば、古代ギリシアの価値観からは大きく逸脱した考え方とのこと。トロイア戦争の伝説の妃ヘレネーがうたわれているのが注目される。サッフォーにとってヘレネーは、ほどよく近かったのか、我々が原節子やマリリン・モンローを思い浮かべるような距離感なのだろうか。しかし調べてみると、トロイア戦争は紀元前13世紀とも16世紀ともされていて、そうすると、現在からサッフォーまで約2600年遡り、そこからさらにヘレネーへと1000年近く遡るということになる。この遥かさは、意識をぼんやりかすませるに足る。トロイア戦争のころも百合は咲いていて、〈神話〉を目撃していたのだろう。
追記。画像は、官製はがきの切手の部分。絵柄は「ヤマユリ」とのことだ。
(池田康)

追記2。
『サッフォー 詩と生涯』の論考の部分を読むと、古代ギリシア・レスボス島の女性詩人サッフォーにまつわる実に多くの事柄を知ることができる。後世のイマジネーションの中でサッフォーの伝説がいかに形成されたかを辿る章も興味深いが、より衝撃的なのは、サッフォーの詩文原典の大部分がどうして伝わっていないのかを説明する章で、2000年前くらいの時点では9巻に及ぶ全詩集のような集成文献が存在していたらしいが、その後その90%以上が失われた、しかも自然湮滅ではなく、宗教的理由に基づく焚書によって強制的に消滅させられたという悲劇的な経緯には胸がつぶれる。死後にそこまでの憂き目に遭うとは。世界でもっともタイムマシンを欲する人間はサッフォー研究家であろう。

追記3
元ちとせの歌に「百合コレクション」がある。あがた森魚の詞曲。ひそやかで寂しげな歌世界。隠れた佳曲、という言い方がぴたっときそうな曲だが、至高の名曲とたたえる人もひょっとしたらいるかも。ただ、歌詞に「秋の空」とあるのが(百合を夏のシーンに立たせたい私としては)惜しく、夏にならないものかと駄々をこねたくなるようなもどかしさを覚える。ベースの音が魅力的。
また「夏の宴」という曲(詞・HUSSY_R、曲・間宮工)は、森の中の鬼百合の点景で始まるのだが、タイトルにも明らかなようにまぎれもなく夏であり、安堵とともに傾聴できる。ある種の祭りのスピリット、その幻覚にみちた時空をうたっているようで、「夢の境い目」「眠りについた兵士たち」という部分も気になる。

追記4
道端によく咲いている白い百合は高砂百合という種類らしい。山本萠さんに教えていただいた。確かに葉が細く、図鑑で見る鉄砲百合の葉と違っている。
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2022年07月30日

野の書評に感電する

阿部日奈子著『野の書物』(インスクリプト)が刊行された。1992年から現在に至るまでの30年間に書かれた59篇の書評を時系列で収める。したがって著者のこの間の思考や感性の変化も辿れるのでは、という気がするが、読んでみると阿部さんは阿部さん、若いころから現在まであまり変わっていないような感じもする。ずっと鋭く、ずっと真剣で、ずっと明朗だ。犀利な知性と教養をもって現代社会のあらゆる場所に精緻な問題意識の網を張り、それに引っかかる事件として諸々の本をとても上手に受け止め、読み込む。阿部さんにとって読むとは、気になる論点にメスを刺して血を流させることだ。目指されるのは小手先の書評を越えて、短いながらも、本と刺し違えるような渾身の論考となる。社会構造の問題であっても性の問題であっても眼差しは容赦なく透徹している。随所に露となるこの人の苛烈な気骨にはっとさせられること度々であった。
詩人として著者を知る者にとっては、この詩人の過去の何冊かの詩集に秘められた思いの一部を解き明かす「子供っぽさについて」「フーリエと私」「素晴らしい低空飛行」は必読。舞踊を愛する阿部日奈子という面では「バランシンとファレル」「舞踊家・伊藤道郎の見果てぬ夢」が興味深い。女性の生き方を同性の立場から見つめるという点では高見順「生命の樹」、大原富枝「眠る女」、素九鬼子「旅の重さ」、ルイーゼ・リンザー「波紋」などを論じた章が身体ごとの共鳴が感じられて熱い。
最後にあとがきのように置かれた「野の書物──多感な自然児の系譜」には「そう、官より民、仕官より在野、正当より異端、中心より周縁に惹かれるのは、十代半ばから現在まで変わらない私の好みでる。」という言葉があり、「『美女と野獣』を読んでも、野獣が王子に生まれ変わるラストには、かえってがっかりする。ベルが愛したのは野獣なのに、どうして王子に変身させられてしまうのだろう。」などという軽口まで出てくる。してみると、タイトルの「野」に込められているのは、物語の常套、思想の常軌を逸脱し突き破る精神の真実探求だろうか。そのようにして生まれた言葉を鋭敏に嗅ぎ分け、機関銃ではなく本を手に「快感!」と叫ぶことができるこの文系ヒロインは、本書所収の多くの文章を読むと意想外に戦闘的であることがわかり、読み進むうちに読者はいつしか感電している。
(池田康)
posted by 洪水HQ at 17:07| 日記