2021年06月25日

みらいらん8号

みらいらん8表紙画像003.jpg
「みらいらん」8号が完成した。今号は「特集・嶋岡晨」と、前号から引き続きの回覧書簡「いま、なぜビート詩か?」の後編と、大きな企画が二つあり、192ページと膨らんだ。
「特集・嶋岡晨」では、城戸朱理さんと相談しながら作ったのだが、その結果、最初の想定を遥かに越えた大特集となった。城戸さんが質問項目を構築し、嶋岡さんが回答する形の書簡インタビュー「城戸朱理の謹厳精緻な十の質問と嶋岡晨のおおどかな二通の回答」、嶋岡さんの詩の最新作「失われた母国の歌」、そして論考は、城戸朱理、小笠原鳥類、田野倉康一、阿部弘一、大家正志、有働 薫、布川 鴇、新城兵一、山崎修平、村松仁淀、川村龍俊、広瀬大志のみなさんにご寄稿いただいた。大学の教え子、同郷の後輩、かつての同人誌仲間、嶋岡晨詩集をすべて蒐集することをめざす熱烈な支持者、長年遠くから見つめてきた崇拝者、といった方々が嶋岡詩の魅力と力について、「怒り」と「変身」と「自由の希求」について、惜しむことなく語っていて、その熱度に圧倒される。そして小笠原鳥類・城戸朱理選による嶋岡晨詩抄(20篇)、新たに執筆された自筆略年譜にもご注目いただきたい。
回覧書簡「いま、なぜビート詩か?」後編は、前編とは反対の順番で執筆が行われた。すなわち野木京子/長田典子/飛松裕太/油本達夫/中上哲夫という流れ。ビート詩研究会で読書会を行ったアンソロジー『Women of the Beat Generation』を土台にして、さまざまの女性詩人の仕事が紹介される。最後の中上さんの書簡では日本におけるビート詩運動の「受容史」がかなり詳細に総括されていて、壮観だ。
巻頭詩は、安藤元雄、八重洋一郎、福田拓也、結城 文、松本秀文のみなさん。
表紙のオブジェは國峰照子作「うつろい」。右側の画像はオブジェの内部を写したもの。ここまで作り込むところに國峰さんの創造の精神性がうかがわれる。雑誌をお送りしたら早速國峰さんからお電話をいただき、いろいろお話をうかがったのだが、巻頭の安藤さんの作品「踊る二人」が「うつろい」に通じているように思えると喜んでおられて、なるほど、気がつかなかったがそういうところがあったかと、思いがけない連結線にときめきを感じた。

さて、小生執筆の「深海を釣る」で、先日逝去された清水邦夫さんの「真情あふるる軽薄さ」について書いたのだが、スペースの都合で書けなかったことをここに補論として記したい。
DVDになっている再演「真情あふるる軽薄さ2001」の最後では、RCサクセションの演奏による「ラヴ・ミー・テンダー」が流れていた。忌野清志郎を「真情あふるる軽薄さ」の主人公の青年に重ね合わせることは確かに的外れではないように思われる。
「ラヴ・ミー・テンダー」はアルバム『カバーズ』に入っている。わが妄想の(永遠に叶わない)音楽的野望は、忌野清志郎のバンドに加わって「噓だろ!」(同アルバムの冒頭の曲「明日なき世界」)とコーラスで叫ぶことだが、このアルバムを聞き直してみると、「Kodomo-Tachi」のクレジットで児童合唱とも言えぬちゃらんぽらんな適当さで子どもたちが一緒に歌っていて、これでオーケーならボクだって加われる!と思ったものだ。
この『カバーズ』というアルバムにはボブ・ディランの「風に吹かれて」とジョン・レノンの「イマジン」が揃って入っており、希有な濃密さを実現している。カバーアルバムで時代を画するこの両曲が同時に入っている事例は世界でも少ないのではないか。日本ではひょっとしたらこの一枚だけかもしれない。しかもどの曲も忌野自身の手で訳された日本語詞がうたわれており、このこともこの作品集の価値を高めている。CDの帯には「往年の名曲の数々に「反戦・反核」の意訳をつけたカバー曲集。単なる日本語訳詞ではなくオリジナルとも言えるその歌詞は力強い。」という紹介文が入っており、このアルバムが(発売中止など)騒がれた要因を簡潔に伝えている。1988年8月15日に発売された、ということは、つまり昭和のどんづまりの時期だ。忌野の高邁な「戦い」の形がここに結晶していると言える。
(池田康)
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2021年06月17日

虚の筏27号

「虚の筏」27号が完成した。今回の参加者は、酒見直子、久野雅幸、たなかあきみつ、小島きみ子、生野毅、海埜今日子のみなさんと、小生。
下記リンクよりご覧下さい。
http://www.kozui.net/soranoikada27.pdf

(池田康)
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2021年06月01日

きまぐれ掲示板

いろいろ催しなどの情報が届いているので、簡単に紹介しましょう。

★吉増剛造展〈Voix〉
5月22日〜6月20日、artspace&cafe 栃木県足利市通2丁目2658(電話0284-82-9172)
月曜火曜休廊

★吉村七重ほか 箏リサイタル
6月13日14時〜、東京オペラシティリサイタルホール

★Ayuo〈2021年夢枕公演〉
6月24日19時〜、めぐろパーシモンホール 小ホール
予約 yumemakura2020@gmail.com

★吉岡孝悦作曲個展
7月17日14時〜、東京文化会館小ホール
(…生野毅さんの詞による合唱と打楽器の曲が演奏されると生野さんから案内あり…)

★南原充士さんの新しい詩集(電子版)
https://www.amazon.co.jp/gp/product/B0965MSJZD/ref=dbs_a_def_rwt_bibl_vppi_i3


(池田康)
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2021年05月25日

『風の音』の記事

弊社刊の泉遥歌集『風の音』が先日、南信州新聞で紹介された。読者からも反響があったようで、著者の泉さんも喜んでおられたのだが、その記事コピーを見せてもらうと、詩歌の作品集が新聞などで批評・紹介される記事としてはあまり見られないくらいに理解深く丁寧に細心に寄り添っていて、これなら読者の心にも素直に響くだろうと感心した次第。下記リンクからご覧いただきたい。
http://www.kozui.net/image/20210509minamishinshu.jpg

(池田康)
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2021年05月13日

映画「タクシー運転手」から考える

数年前にかなり評判になっていた韓国映画「タクシー運転手〜約束は海を越えて〜」(チャン・フン監督、2017)が先日テレビで放映されていたので、見た。1980年の光州事件を扱った作品。軍隊が学生など民衆を武力弾圧するシーン、流血と蹂躙が生々しくて恐ろしい。現在のミャンマー情勢ともダブってきて、さらに重苦しい気分になる。
水野邦彦著『韓国の社会はいかに形成されたか』(日本経済評論社、2019/水野氏はかつての学友で、この一冊は彼がめぐんでくれたもの)の光州事件を解説した章にはこうある。

「朴正煕が暗殺されたのが一九七九年一〇月二六日、その後一二月一二日にクーデターによって実権をにぎった全斗煥を中心とする陸軍士官学校一一期の軍人たちは、軍部のみならず社会の全分野を掌握した。軍部は兵営復帰の意思を表明しながらもクーデターののち翌一九八〇年五月はじめまで影響力を増大させていった。一九八〇年四月一四日には全斗煥が中央情報部長まで兼任することが公にされ、これで全斗煥が政治的野望をもっていること、軍部が強硬に権力掌握をくわだてるであろうことは、だれの目にもあきらかになった。軍部によって占拠された政権における再度の非常事態発生を憂慮した民衆勢力は、朴正煕暗殺以来しかれていた戒厳令の解除のために組織的な活動をすすめた。」

このような成りゆきの中で、首都ソウルでの衝突は回避されたのに対し、光州においてとりわけ緊張は高まり、5月18日〜27日、大規模な衝突の流血沙汰となった、ということだ。この本の知見を踏まえると、この映画が事実に基づきながらも、フィクション作品であり、話を最大限にわかりやすく感動的にするために、描かなかったり手を加えたりしている部分があることにも気づく。たとえば民衆はけっして徒手空拳ではなかったのだし、主人公の運転手がのんきに不思議そうに光州を見ているのもクーデターで全国が戒厳令下にあった状況でそんな訳はないだろうと思われるし、米国の動向も省かれている。細部ではそうした気になる点が出てくるのだが、大まかなところではどんなひどいことが起こったか、スクリーンの上で再現してみせてくれるので、「韓国社会に決定的刻印を残した」と言われる光州事件を直に目の当たりにするような思いになり、粛然とする。ここからいくらかでも良い方向に向かい立て直すのに、韓国は80年代いっぱい、つまり十年かかったもののようだ。それとも十年で回復できたのは幸運というべきなのだろうか……。
「詩素」10号巻末の雑文コーナー「端切れヴゅう」に、統治論と法秩序のことについて短い文を書いたが、その続きのような形で、きわめて原理的な次元で考えるなら、法秩序と独裁者とはしばしば敵対的であり、決していい関係にはない。一般市民レベルでは、法の番人がそれなりに仕事をしていれば法秩序は公正と治安のために力をもつのだが、権力の上部に行けば行くほど法秩序のメルトダウンの危険が現実化してくる。独裁者とは、立法と行政と司法の全部門の手綱を握っている自分は法秩序をねじ曲げることも都合のいい法を作り発効させることもできる、殺人も強奪も易々と合法的に行う権限があると考えている人間だ。マーシャル・ローをふりかざす軍政をふくむ独裁政権は結局はそういうところまで行くだろう。そこまで行かなくても、良識を持ってはいても、最高権力者というものは法をないがしろにし政を恣にしたいという誘惑にもっとも近接したところにいる存在であり、その誘惑から距離を置くのは簡単ではない。そして最高権力者が法秩序やルールをないがしろにする素振りや気配を見せると、全国民はそれを鋭敏に感じ取り、その国あるいは共同体は重苦しい空気に包まれる。
1980年5月の光州のような場所へは実は案外あっけなく行ってしまうのかもしれないと思うと、揺れていない地面がいまにも揺れ動きそうに見えてくる。
(池田康)
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2021年05月09日

フランスの文芸誌「A」

literatureAction.jpg「洪水」6号(2010年)に掲載された、岡崎和郎・空閑俊憲両氏が語り手、土渕信彦氏が聞き手となった座談会記事「瀧口修造を語る 〜人差し指の方角〜」が、このたびフランスの文芸誌「A」に翻訳転載された。「ECHANGES AVEC JAPON(日本との交易)」という特集の「日本のシュルレアリスム」を扱う章の一項目として。これは土渕氏のお仕事で小生は実務的にはなにもしていない。
「A」とは、表紙に「LITERATURE-ACTION」とあるから、「ACTION」のAのことのようだ。205×208ミリ、212ページ。価格は20ユーロ(けっこう高価?)。私はフランス語がだめなので残念だが、手に取って漫然とページを繰っていると、ところどころにカラー写真が載っている。まとまった数ページがカラーになっていることはよくあるが、この雑誌は規則性のない任意のページをカラーにしているように見え、印刷の基本からいうとこれは不思議なことで、どういう仕組みになっているのだろうと泰西の高等技術?に首をひねった。
(池田康)

追記
67ページからのロラン・ドゥーゼ氏の詩が面白い。フランス語と対訳で日本語訳も並んでいて、その日本語の組み方のギクシャクしたぎこちなさも微笑ましいのだが、日本を旅行しながら綴ったと思われる詩行の率直なかんじがこころよい。
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2021年05月03日

「詩素」10号完成

siso10.jpgゴールデンウィークに突入したが、去年に引き続き、なにか暗雲立ちこめているような鬱々とした世の中で、早く浄めの風が吹いてほしいと切に望むところ。
さて、「詩素」10号が完成した。今回の参加者は、海埜今日子、大仗真昼、大橋英人、小島きみ子、酒見直子、沢聖子、菅井敏文、大家正志、高田真、たなかあきみつ、南原充士、新延拳、二条千河、野田新五、野間明子、八覚正大、平井達也、平野晴子、南川優子、八重洋一郎、山中真知子、山本萠、吉田義昭のみなさんと小生。巻頭トップは、海埜今日子さんの「木箱」。
そして10号到達記念の特別企画として投稿詩を募集し、選考会を経て、次の三作品が受賞した。
〈最優秀賞〉
鹿又夏実「赤い電車に乗って」
〈優秀賞〉
鳴海幸子「360°」
七まどか「漆黒」
これらの作品と、選評、そしてほかの最終候補作についての選考委員のコメントを掲載している。
表紙は、草野心平「ヤマカガシの腹の中から仲間に告げるゲリゲの言葉」より。この詩に合わせて満月の日に完成させたかったところだが、数日ずれたのはちょっと惜しかった。
まだ残部ありますのでご注文下さい(500円)。
(池田康)
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2021年04月14日

泉遥歌集『風の音 私の来た道』

風の音画像3.jpg泉遥さんの第一歌集『風の音 私の来た道』(洪水企画)が出た。四六判並製320ページ。税込2000円(本体1819円+税)。
泉さんは長野県飯田市に在住で、1938年生まれの83歳。戦争をくぐり、持病の心臓病を克服し、長年保育士の仕事をつづけてきた、その生涯を彩り、つぶさに語る歌たちは、真情に貫かれている。
帯の文は、泉さんも所属するぱにあ短歌会の代表秋元千惠子さんによる:
「戦時を生き抜いた厳しくも優しい父母との確かな家族の絆が心に沁みる歌集である。伊那谷、天竜川の風土に磨かれた詩情は、二十歳で斎藤史の強靭な精神と自在な作風に出会って独自の開花を遂げている。若くして病いの死線を越え、子を成してからも、三十八年間保育士を勤め、夫君を老老介護、看取りも終えた。人生の苦を全て前向きに歌い続ける八十代の快挙。この『風の音』は、国の礎となった後期高齢者の心の力にもなる。」
帯の裏側に載せられている代表歌五首は:

 雑沓を知らぬ大きな翼なり草原わたるコンドルの唄
 仄青き山脈の裳裾霧白くたなびく辺り天龍の川
 見るほどに愛し尊し書き置きの文字ふるえたる「ありがとう」は
 ふきを煮る香りただよい涙あふる「いいにおいだ」と言いし夫はも
 色も香も姿さえなき風なれど百歌を唄う千歌を歌う

三首目、四首目は、逝去した伴侶への挽歌。
上の五首には入ってないが、戦後生まれの読者にとっては、著者の子ども時代の、戦争時の歌が印象深いので、少し紹介する。

 ゲートルと言うをはじめて巻く父の手元をかの夏見つめておりき
 ゲートルを何故に巻くのかと問うわれに母は答えき「忙しいからよ」
 ゲートルを巻き自転車を漕ぎて行く父を見送りきエプロンの母と
 桑の皮を何にするのかと母に問う 軍服にするらしいと聞きておどろく
 薩摩芋ならいいのにと思えども芋はないのだ 戦地行きか
 庭先に正座で玉音放送を待ちき八月十五日 暑かりき
 農良着の男ら寄り合う中ほどよりふわふわと聞えし玉音放送
 地に伏せる男ら声を押しころし泣くを見つめし六歳の夏
 敗戦を告げられしあの日大人らの神妙なるが訝かしかりき
 駅前の柳の元を忘れない片足で立ちつくす傷病兵と募金箱

80年を越える波乱にみちた生涯をうたった短歌作品を一冊にまとめたもので、その重量感は相当なもの。斎藤史ゆずりの破調もところどころ現われてアクセントになっている。装丁も著者の手による。
(池田康)
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2021年04月09日

『幻花』の書評、佐藤聰明新作CD

今日発売の「週刊読書人」に佐藤聰明著『幻花──音楽の生まれる場所』(洪水企画)の書評が出た。評者は志賀信夫氏。ぜひご覧下さい。
さて、最近佐藤聰明さんの新しい作品集CD『水を掬えば月は手に在り/FOUJITA』(ALM RECORDS、3080円)が出たので、これも紹介しよう。このCDには二本の映画につけられた音楽作品が収録されている。サウンドトラックといえるものなのか、若干は仕立て直されているのかは不明。藤田嗣治の生涯を描いた映画「FOUJITA」(小栗康平、2015)についてはこのブログでも以前書いた(2015年11月21日)。もう一つの作品はごく最近のもののようで、私は未見だが、CD付属のブックレットに簡単な紹介文があるので引用する。
「陳傳興監督の中国映画「掬水月在手」(2020)は、伝説的な詩人であり中国文学者の葉嘉瑩(1924〜)の生涯を追ったドキュメンタリー・フィルム。葉嘉瑩は唐の詩人杜甫の研究者としても著名であり、陳傳興は佐藤にこの映画音楽に、杜甫の詩「秋興八首」にもとづく歌曲を依頼した。そして中国では滅んだ唐代の雅楽の楽器、笙と篳篥を用いるよう求めた。この映画は、中国のアカデミー賞といわれる第33回(2020年度)中国映画金鶏賞のドキュメンタリー部門で、最優秀賞を獲得した。」
音楽は「八首」を音楽化した8曲の歌曲からなり、ソプラノとバリトンにより歌われる。このCDでの演奏は(そのまま映画に使われた演奏ということになるか)工藤あかね(ソプラノ)、松平敬(バリトン)。伴奏は、篳篥・笙のほか、二十絃箏、ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ。漢詩をこよなく愛するこの作曲家にとって、杜甫の詩を作曲する機会は天からの褒賞のような願ってもないものだったのではないか。音による杜甫の肖像が立つ思いがする。地方を流浪しているのか、詩で自らの薄幸を述べ立てている面も興味深い。「其四」は戦乱を叙していて目が留まるので和訳を引用してみよう。
「聞けば長安の戦況は囲碁の如しと。百年の世事は悲しみ絶えず。王侯の邸宅の主はみな新しく、文武の衣冠は昔時とは異なる。直北の国境は戦の鐘と太鼓が天地を震わし、西征の車馬からは急を告げる伝令が馳せ帰る。魚竜は底に潜んで秋江は冷たく流れ、故国への常なる思いが深まる。」
どの曲も悠然とした旋律の中に悲哀を染み通らせている。二人の歌い手はそれをしんみりと、あるは堂々と、迷いなく確信をもってうたう。中国語でうたわれるのだが、演奏者側の事前の準備が周到で全く問題がなかったようだ。玄宗皇帝と往時の長安をしのんだ「其六」は伴奏なしのソプラノ独唱で、ことに印象深い。工藤あかねさんはこの歌を持ち歌にしてしまってすべてのステージでアンコールでうたってほしいものだ。さらに詩の想念が広がる「其七」「其八」(ともにバリトン曲)も切迫感と重みがある。このお二人の歌手はご夫婦とのことで、どちらの方とも私はかつて言葉を交わしたことがあるのだが、あちらは覚えておられないだろう。
CDの後半に入っている「FOUJITA」の音楽だが、映画を見ながら聴いたときよりもちゃんと聴けた感じがあり、こうして聴いてみると映画音楽とは思えない独立の存在感がある(「掬水月在手」についてもそれは言える)。ゆるやかな勾配の上昇階段と下降階段が交互に不規則に続く、海山の気の動きのようなゆったりとしたリズムがあって、そこから外れる異様な和音奏やハープの細かな動きが時おりなにかの通信、碑文、魂魄の息のような衝撃を作る。我々の今日の計算ずくの日常生活にきっかり嵌るような音楽ではなく、たとえば住所表記もできないような山奥に茶室がありそこで過ごす時間があれば相応しいかもしれない響きと調べだ。演奏は、杉山洋一(指揮)、仙台フィル、篠崎史子(ハープ)。
(池田康)
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2021年04月01日

少年感覚なるもの

先日、NHKEテレで吉増剛造+佐野元春の対談の番組があり、興味深く見ていたが(佐野の詩文学に対する造詣の深さは並大抵ではない)、虚心の視覚に印象深く残ったのは佐野元春の喜びに満ちた若々しい面貌で、詩とビートを熱く語るその情熱とともに、永遠の少年性のようなものを感じさせた。
映画「アメリ」(2001年、ジャン=ピエール・ジュネ)を最近見たが、これも少年感覚にあふれるものだった。世界を大胆に横断し悪戯心をもって切り刻む歩行ぶりは、稲垣足穂の「一千一秒物語」を思わせる硬質なきらめきを発して少年感覚そのものなのだが、それなのにあえて女の子を主人公にするという捻れがこの作品の魅力の特異さを生んでいるように思われた。
春に桜をめでるのは大人の成熟した悲哀の嗜好であって、少年の琴線は、花を散らして遊ぶ気まぐれな風、床を裸足で歩くひんやりとした感覚、高い建築の屋上にのぼり空を触ろうとする透明な欲望、紙飛行機の実利ゼロのきれいな宙返り、たまさか路上に生じた水たまりの水鏡の風情、……そんなものに反応する。世間の流れ、生活の成り立ちに無頓着に発動する幼い乱暴な無垢の美意識。それはある種の詩の原基ともなりうる。
清浄な敬虔さで知られる八木重吉の詩も少年感覚を主要成分として含んでいるように思われる。

 空よ
 そこのとこへ心をあづかつてくれないか
 しばらくそのみどりのなかへやすませてくれないか

「秋の空」より。せっかくだから春の詩を引用しようと思ったのだが、秋の詩になってしまった。
(池田康)
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