AとBを比べるという場合、両者にはなにか共通項がありながら画然とした違いも存在する、という関係にあるはずだ。なにも共通項がないと比べようがない、比較が意味をなさなくなる。比較するにしても、ただ単に優劣をつけるのは味気ない。AとBが互いを照らし合うその関係自体(一時的かもしれないが)を楽しむのが比較のより意義深い形なのではないだろうか。
「みらいらん」9号の野村喜和夫・広瀬大志両氏による対談「恐怖と愉楽の回転扉」に出てきた映画「遊星よりの物体X」(1951、クリスチャン・ネイビー)と「遊星からの物体X」(1982、ジョン・カーペンター)を最近観た。後者は前者をリメイクしたもの、という関係。しかし筋はかなり違っている。オリジナルの方は北極の地での恐怖譚に小気味よいユーモアをまじえて映画製作の腕前が冴えている感じがあり、リメイク版は音楽(エンニオ・モリコーネ)の現代性を噛みしめることができ、バッドエンドにかぎりなく近づこうとする脚本も真剣なサスペンス味がある。エイリアンの造型は植物の生命の理をベースにして理論づけようとする1951年版はよりSF的、1982年版は形状や運動がやたら恐ろしくホラー寄りと言えるか。どちらにしても外宇宙はかならずしも友好的ではないことが示され、不気味な冷気が北極の風景に沁みわたることになる。
ベートーヴェンの晩年のピアノソナタ(作品109〜111)をアンドラーシュ・シフと小菅優という二人のピアニストで聴き比べる(どちらも信頼できるピアニストであり、シフに関してはバッハの或る曲などグレン・グールドよりもシフで聴く方を好むこともある)。しなやかに流れ細かくスイングするシフ版に対して、各所で流れをゆるめながら音を立てるような小菅版は音のドラマの形、遊戯の姿がよりくっきりと見えてきて、私のような素人にはありがたく、耳をそばだてやすい。十分に余白をとって静寂を確保しながら音を鳴らし音に語らせる、不協和音も明瞭に打ち出す、大家然とした落着きと初学者のような素直さを兼ね備えた演奏は、何度でも聴きたいとおもわせる構築の強さがある。これらの曲はピアノ曲の歴史のなかでも一つの絶壁の縁をなすものであり、その危うさと絶景を体験することは特別な音楽秘境探訪である。両人とも付属の小冊子でこれらの曲について雄弁に語っているが、ここでは小菅優のコメントを少し引用紹介する。「作品109はもっとも美しいソナタのひとつだと思います。まるで川がもうずっと前から自然と流れていたような冒頭から始まり、ハーモニーの切なさや弱音の美しさは果てしなく遠いところへ手を伸ばしているかのようです。…(中略)…お客様がいなくても自分で自分のために弾きたくなることはあるかとときどき聞かれることがあります。作品110は私にとってそんな曲のひとつです。自分が慰めを求めているとき、音楽の美しさにすがりたいとき、悩んでいるとき……そんなときにこの曲を弾きたくなるのです。…(中略)…そして作品111。いきなり冒頭から嘆いているかのようで、ずっと最後のハ長調を探す迷路のようですが、人生もそのような迷路に感じることはないでしょうか。私は、人生はいつも見つからないハ長調を探しているようだなと感じることがあります。」
比べる、の究極は自分を自分自身と比べることだろうか。一年前、五年前、十年前、二十年前の自分と、今の自分を比べて、どうか。多くはそれほど変わってない、あるいは少しずつ退化している部分もある。それでも進展や新境地がわずかでも見つけられれば自己弁護の余地が生まれ、ほっとできる。自分が自分に対して不満を抱く、それは前へ進む最も基本的な活力ではあるが、へたをすると不幸の感覚に捕われる原因にもなる、そこがやっかいなところだ。ほどほどにしておくべきなのかもしれないが、といっても、自分の自分自身との比較は意識がある限り止めることのできない行為であり人間のサガと言うしかない。それが反復され重ねられ変奏されて〈人生の意味〉なるものの根幹をつくる(創造するor捏造する)のであろう、たぶん。
(池田康)
追記
マウリツィオ・ポリーニの演奏するベートーヴェンの後期ピアノソナタ(op109-111を含む)のCDも所有していたことに気づいた。このピアニストはそれほど近しく思ってなかったので記憶から消えていたようだ。さすがに上手に弾いている。