2024年04月01日

愛敬浩一著『荒川洋治と石毛拓郎』

表紙画像3.jpg愛敬浩一著『荒川洋治と石毛拓郎』が完成した(詩人の遠征シリーズ16巻)。このところ草森紳一論を精力的に世に問うていた愛敬氏だが、この本では心機一転、対象を詩人に変えた。荒川洋治・石毛拓郎の二人とも氏が長い間にわたって仕事を近い距離で注視して来た詩人ということで、その論は理解度が深く細やかだ。どちらも最新詩集(『真珠』と『ガリバーの牛に』)を中心にしての評論となっているが、過去の詩業にも自在に遡って論議を深めている。荒川洋治はよく知られているが、石毛拓郎の詩は初めてという人も多いのではないだろうか。

「石毛拓郎の詩集『阿Qのかけら』のいくつかの詩篇を読んできて、「国家へ憎悪」という言葉にたどりついたところで、ようやく、石毛拓郎の根源的なモティーフに触れることができたように思う。と同時に、ほぼ同じ地点で、石毛拓郎が〈詩〉をあきらめたことの意味の一端が分かったような気もしている。もう、詩など役に立たないのだ。考えてみれば、吉本隆明の『戦後詩史論』(一九七八年)の最後で引用されている詩「都市の地声」が、石毛拓郎のものであったというのも象徴的なことのようにみえてくる。」
「石毛拓郎は、英雄ではなく、決して歴史に取り上げられることはない無名の人々を、比喩的に「阿Q」として語ろうとしたので、それは「屑の叙事詩」となり、「レプリカ」となったわけである。」

こうした批評の言葉によって、この詩人の求める詩の場所の危険な厳しさがなんとなく想像できる。石毛・愛敬両人が所属したかつての同人誌「イエローブック」への愛着も熱いものがある。
また第一部・荒川洋治論の冒頭には、詩を読む難しさを語った文章が置かれている。

「詩の読み方が分からない、という人は多い。小説の読み方が分からない、という人はほとんど聞かないが、分からない小説というものもある。もんだいは、分かるか、分からないかではなく、それが言語表現として、私たちを読みへと誘う♂スかを持っているかどうか、の方ではないだろうか。
 さらに言うなら、分かりやすいという同じ小説を読んだとしても、そこから受け取るものは、人によって全く違う。ただ、あらすじだけが読み取れて分かったと思い込んでいるだけなら、おそらく、その人は「読む」ということを誤解しているのだ。分かりやすい〈詩〉を書くべきなどという議論も論外である。
 荒川洋治『文庫の読書』(中公文庫・二〇二三年四月)を読みながら、改めて、「読む」こと≠ノついてあれこれ考えさせられ、さらに、彼の〈詩〉をどう読んだらいいのか、考え始めてしまった。
 もちろん、この問い≠フ裏側には、多くの〈詩〉を書く人々も、〈詩〉を分かっているのかどうか、自分の〈詩〉を書くだけで、そもそも、他人の〈詩〉を読んだことがあるのか、という疑義もある。もしかしたら、「詩の読み方が分からない」という素直な人より、〈詩〉を書いているつもりの人の方が、始末も悪いかもしれない。」

この読むことの初心のみずみずしさを保持しながら(不明の部分はわからないと言いながら)最後のページまで実のある論考が継続されており、読者は大いなる信頼とともに読み進んでいけるのではないだろうか。
(池田康)
posted by 洪水HQ at 10:28| 日記

2024年03月27日

文旦を食べて若返る

3月後半は、「みらいらん」次号特集の座談会を収録したり、「詩素」誌の研究会を開いたり、新しい仕事の打合せで遠方への出張があったり、それぞれジャンルや方向性がちがっていて気の安まる暇がなく、歳を三つほど余計に重ねてしまいそうな、かつてなく乗り越えるのが大変な十日間だった。やっとその難所を抜けて一息ついたところ。
そんな忙しい中での大いなる慰みは、パール柑を四つほど食べたことだろうか。たまたま今年は文旦を食べたいなと思っていて(そういえば去年もそう思っていたが果せなかった)、しかし近所の店では扱っておらず、ネット販売を利用するのも面倒だしと二の足を踏んでいたが、ちょっと離れたところにパール柑を置いている店があってラッキーだった。文旦とパール柑とどれほどの違いがあるのか知らないが(私としてはパール柑と言うよりも文旦とかザボンとか呼びたい気持ちが強い)、ひとまずこれで念願の文旦を食べたことにしておこうと独り決めしている。
この大型柑橘類の特徴は皮をむきにくいところ。悪戦苦闘。とにかく手こずる。しかし外側の皮をむいてしまえば、中の果肉はすごぶる素直だ。その味覚のすっと来る素直さ、透明さが魅力だろうか。四月が到来するまでにもう一つ二つ食べて若返りたい。
(池田康)
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2024年03月10日

『玉井國太郎詩集』

カバー画像3.jpg『玉井國太郎詩集』が完成した。
A5判上製、220頁。2200円(本体2000円+税)。2024年3月23日発行。
火野葦平の家系につらなり、高校時代から文学を志し、ジャズを中心にピアニストとして活動するかたわら、1980〜90年代に「ユリイカ」などに硬質でイメージと霊感に満ちた詩を発表し、2010年に自死した、音楽と詩の領土を自由に行き来した詩人・玉井國太郎の詩業を妹・友田裕美子さんの編集で一冊にまとめたもの。作家の多和田葉子さんらとともに高校から文学の創作に取り組んだ彼の詩は、現在確認できる限りで30年の間に30篇余りと、作品数は多いとは言えないが、いずれも緻密に香り高く書かれており、この一冊にその全てが網羅されていると言える。
帯には多和田さんの文章を使わせていただいた。次の通り。
「わたしたちの脳の中の映画館は自己欺瞞で一杯だ。鳥はいつも空より小さいと思い込んでいる。だから歴史が見えないのだろう。玉井君の詩は空を見せてくれる。地球の滅亡直前の時間を踊る人たちの姿の中に、詩人個人の死の原因を捜しても仕方がない。映像化しようとする機能を止められないまま映像化できない言葉を一つ一つ読んでいきたい。多和田葉子」
これは「ユリイカ」2011年9月号で玉井國太郎追悼の記事企画が組まれたとき、多和田さんが寄稿された文章の一部であり、「鳥はいつも空より小さいと思い込んでいる。」という部分は詩集冒頭に収録された「或る報告(鳥の影の下で)」の最初の数行にかかわっている。引用すると、

 地鳴り
 一つの空の大きさの鳥が
 眼差しの幅いっぱいに立ち上がる
 羽ばたきはなく
 輪郭は水蒸気にうすれ
 もたげたくちばしは天頂に溶けている
 うごかない一つの眼には
 星を撃ち落とす知識をたたえ
 時をこわし
 この世の悪を数えることに罪はなかった
 (後略)

詩作品に加えて、合唱曲の歌詞として書かれた「26人格のアリア ─合唱のためのドラマ─」も収録。
詩人の最期の場面を書き留めた友田さんのエッセイ「みぞれを絡う桜」も収める。
カバーと表紙には詩人と親しかった画家の井上直さんの線描が使用されていて、これは玉井國太郎がピアノを即興的に弾くのを聴きながら描いたものとのこと。さらに本文中には井上さんの絵画作品「伝説の森で a」「使者を待つ森 B」が口絵として収録されている。
装丁は友田裕美子さんの希望をぎりぎりまで取り入れながら巌谷純介氏が制作した。
重厚な造本の一冊、ぜひ手に取ってご覧いただきたい。
(池田康)
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2024年03月04日

作曲家・伊藤祐二の音楽

昨夜、井上郷子ピアノリサイタル#33「伊藤祐二作品集」を東京オペラシティ・リサイタルホールにて聴く。作曲家・伊藤祐二氏は井上さんの伴侶であり、小誌「みらいらん」の音楽のページに毎号執筆して下さってもいる。このリサイタルでは氏の若い頃(約半世紀前)から現在までの作品が並び、その乱れのない足跡を辿ることができ、最初の一歩から方法論や志向が一貫していたのだなと個性というものの確かさに感銘を受けたことだった。
伊藤氏の作曲は、音を音として存在させることに集中する。旋律とかリズム構成とか、ふつう音楽を作る上で重視される事柄にさほど意を払わない。「私は、関係性の中から、それら一つ一つの音を聴き出すことに興味があり、それ以上の高次の構造には興味が無い」と言い、「雲の背後に隠れていた月が雲間から現れ、輝く瞬間。「表現」とは無縁の、すばらしく魅力的な現れの瞬間。曲の始めから終わりまで、現れるすべての音一つ一つが、そのような美しい現れとして聴こえるような音楽を夢想する。」とも言う。
このような志向は、若い頃、松平頼暁、近藤譲といった上の世代の作曲家たちに親近したことにもよるのだろう。音楽の通常の魅力には背を向け、お決まりの型の罠にはまらないように距離をとり、音に真向かうという音楽の論理的原点の姿勢を堅持する。この「距離」が氏の「詩」の初期条件をなすのだろう。リズムであおるでもなく、ユーモアを醸すでもなく、酔いを排除して淡々と音を並べて、特徴のなさそうにも見える音風景を作っていく行為は、ポップスや19世紀までのクラシック音楽に馴染んだ耳にはとっつきにくく、困惑を覚えなくもないが、しかし氏の専一なる半世紀の歩みを思うと厳粛さに刺し抜かれる。
リサイタルの前半は、「ゆるぎなき心」(2019)、「振り返り I」(1977)、「ソロイスト」(1996)の3曲。この中では最後の「ソロイスト」が奇妙な音や濁った音が多く出て来て良い驚きをもたらして最も聴きごたえがあった。「振り返り I」は大学1年生のときの作品とのこと、出発点に触れることができたのは貴重だった(ヴァイオリン=松岡麻衣子)。どの曲もとくに演奏の高等技術は使われておらず、ただ音を出すだけというかんじで作られていて、これならプロでなくても弾けそうで、たとえばいっそ作曲者自身が弾くことだってできるだろう。それも面白いかもしれない、音を並べた本人が、いま弾いた音を聴きながら次の音を一つずつ微調整して生み出していけるとしたら、これは理想的ではないだろうか!?
全体を通して言えることをもう一つ。私の好みからすると、低音がやや少ない気がする。高い音には華があるが低い音にはたっぷりとした影がある。もう少し低い音を多用してくれると私の好みのストライクゾーンに近くなるはず……とこれはあくまで個人的要望。
リサイタル後半は「ヴァシレ・モルドヴァンの7つの詩」(2002)、「メレタン」(2014)、「偽りなき心 II」(2015/2022)、「誰もが雪の結晶を持っている」(2024、新作)の4曲。「ヴァシレ・モルドヴァンの7つの詩」はルーマニアの詩人の俳句を歌曲にしたもの(ソプラノ=長島剛子)。ピアノは強くひびき、歌声は豊かに清冽に流れる。声のリアルが重しとして乗るからか、非常に立派な曲のような印象を受けた。伊藤祐二作品の中で音楽的質量のたしかな、最もポピュラリティを持ちうる作品ではなかろうか。作曲者は「詩に音楽を書く方法は、いまだにわからない。」と作品解説で書いていて、これの作曲には相当戸惑いがあったようだが、むしろ逆説的に、伊藤祐二はオペラの作曲を目指すべきだ! という意見を具申したいようにも思うのだ、無茶ではあるが。
「偽りなき心 II」はもともと木管五重奏のために書かれた曲だそうで、それをピアノにアレンジしての演奏だったためか、変な感じの響きがところどころに聴かれて興味深かった。この曲は去年のリサイタルでも聴いたようだ。
新曲の「誰もが雪の結晶を持っている」はペダルの操作により、スタッカートのような短く切れた音と、長く余韻をひびかせる音とがまざり合っていて、モールス信号をモチーフにしたにぎやかな絵画を見ているようで楽しかった。モールス信号ならば短い音の連打があってもいいところだが、これはこちらの勝手な妄想であるから文句は言えない。伊藤作品では最後の数音が抒情的フレーズをなして終わるときがあるが、この曲はそうなっていなくて、いきなり断崖で切れる感じだった。
(池田康)
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2024年02月24日

高階杞一『セピア色のノートから ─きいちの詩的青春記─』

一人の詩人がどのように詩を書くかを詳細に語ってくれるとしたら、それは定めし興味深い話になるだろう。
高階杞一氏のこのエッセイ集(昨年夏刊行、澪標)はまさしくそんな本だ。若い頃からいかにして詩の世界に足を踏み込み、どのような試行錯誤を経て自分の詩の道を築いてきたかが平明にセキララに語られる。余計な肩の力が入ってないところがこの詩人らしい。
「スタイル」を重視する、というのは、方法論とか趣向といった言い方もできるのだろうか、藤富保男経由でシュルレアリスムやモダニズム、“詩的冗談”を取り込んだ上は、どんな冒険もできたのだろう。そこから、家族の不幸を経ての『早く家へ帰りたい』での虚飾を排した自然体での書き方への帰着は、悲劇的にして劇的。
高階さんの人柄がよく出ているエピソードは、自作の曲を約半世紀前の時点ながら自前でオープンリールレコーダーに録音してレコードを自主制作したり、高価な日本語タイプライターを入手して同人誌をこしらえたり、誰しも夢想はしてもなかなかできないところまで果敢に踏み込んで自力でやってしまうバイタリティというか何でも屋の工の(ホモ・ファベル的?)好奇心が強健で楽しい。演劇やマンガから詩のヒントを上手に摘み取るところもこの人のこだわりのない全方向性を示す。
自分の詩に「空」とか「遠い」といった言葉が多く出てくるのはなぜかを探る章では、他人(神尾和寿・藤富保男・山田兼士)の批評の言葉を全面的に信頼し依拠しながら考えようとするところにこの人の人間性のよさが滲み出ていると言えそう。
最後になるが……大昔、詩の雑誌に投稿していたころ知った同年代の詩人たちのことを語る本書の最初の数章は、消息不明になった人も多く、ペーソスというよりももう少しうら淋しい、淡い悲哀が感じられ、印象に残った。
(池田康)
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2024年02月18日

物語と場所に関するとりとめのない考察

ポール・オースターは「闇の中の男」の中で小津安二郎監督の映画「東京物語」のことをかなり詳細に論じている(登場人物に語らせている)のだが、映画の中の老夫婦が住んでいる場所はわからない(映画の中で語られなかったか聞き逃した)と書いている。その場所の地理的知識がなくてもこの映画を十分に鑑賞できるんだと興味深く思ったのだが、実は私もうろ覚えで岡山だと思い込んでいて、ある集まりでそう発言したら、いや尾道でしょうと訂正された。尾道は広島県だから間違いと言っても大きくはずしてはいないのだが、とにかく首都からそのくらいに離れた中国地方の町に老夫婦は暮らす、しかも新幹線がまだない頃だから汽車で何時間もかかる、そのことを念頭に置きながら我々は見るので、旅の大変さは物語の中でたしかに一つの要素を成す。かといってロード・ムービーというわけでもない。尾道から出発して同じ場所に戻って来る往復が予め物語の結構として決定しているわけで、これはさしたる目的もなく任意の場所を移動する(そして究極的にはどこぞで無意味に客死する)、台本の存在が希薄なロード・ムービーの開放形のあり方とは異なる。
同じことが現在公開中の映画「哀れなるものたち」(ヨルゴス・ランティモス)にも言え、ロンドンから始まりヨーロッパの各地を遍歴しロンドンに戻ってくる道中はロード・ムービー的側面がなくはないが、全体としては堅牢な円環運動になっていて、主人公ベラの出自の謎の解明の関係でこうするほかないと考えられるので、ロード・ムービーのあり方とは相容れない。リスボン、アレキサンドリア、パリという諸都市は我々も漠然とイメージでき、南欧・地中海の地図がぼんやり浮かんでくるが、リスボンやアレキサンドリアの描かれ方からするとその当時のリアルな都市描写というわけでもなさそうだ。
以上のことは大枠でそう言えるという話だが、「東京物語」では老夫婦の戦死した息子の嫁の紀子は身の寄せどころが覚束なく、寄る辺ないという点でロード・ムービー的雰囲気を帯びていると言えるし、「哀れなるものたち」では主人公を誘惑して旅へ連れ出した弁護士の予定外の身の破滅はなにやらロード・ムービーぽい。
人生というものの素の姿は台本を欠いたロード・ムービー型の不安定なものであろうが、それを確固と設計された型にもっていき安寧を築きたいという台本主義の願望はつねにあるだろう。その機微が映画の作りと重なる。
最近見た「KAMIKAZE TAXI」(1994、原田眞人)は東京と伊豆をめぐるロード・ムービーと紹介されることもあるようで、たしかにその要素は強く感じられるのだが、主人公のタツオは最終的には復讐の成就のために出発点に戻ることを固く決心しているわけだからロード・ムービーの型にははまらない。他方、彼に付き添うもう一人の主人公のタクシー運転手・寒竹にとってはこれはほぼロード・ムービーそのものであり、彼の父親の代からの家族の遍歴を思うと一層その無残な故郷喪失ぶりが切ない。そのような台本レベルの混ざり具合がこの作品の個性を成しているのだろう。
「闇の中の男」にもアメリカの地名がたくさん出てきて、なんとなく聞いたことのある地名だなぐらいで具体的にイメージするに至らぬまま読み流してしまうのだが、合衆国に暮らしその歴史と地理に精通する読者ならばもっと立体的なイメージを持ってこのやたらとフィクショナルな(台本を書き切っていない感じの)物語を読むのだろうと推測する。
追記。「哀れなるものたち」の音楽(イェルスキン・フェンドリックス)は異様に奇怪ながら一つ一つのシーンにぴたりとついていて、驚愕だ。
(池田康)
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2024年02月15日

東京ウィメンズ・コーラル・ソサエティ

昨夜、東京ウィメンズ・コーラル・ソサエティのコンサート「作曲家個展シリーズVol.4 新実徳英」を聴いた(渋谷区文化総合センター大和田・さくらホール)。岸信介指揮。曲目は、1.「三つの優しき歌」(詩・立原道造)、2.「無声慟哭」(詩・宮沢賢治)、3.「愛のうた 三題」(詩・吉原幸子・谷川俊太郎、委嘱初演作品)、4.「われもこう」より(詩・谷川雁)。
この合唱団は、寸分たがわぬ鋭角的な精密さというのはさほどないかもしれないが、音を重ね合わせるときの果敢さ、嫋々と詠唱する歌心のふところの深さがあり、たとえば四曲目の「われもこう」は「白いうた 青いうた」から派生した組曲で、これは児童合唱のイメージが強くてかわいい小ぶりの楽曲のような気がしていたが、この合唱団がうたうとふくよかな構えの大曲であるかのように聞こえる。またソプラノにオペラ歌手のような発声ができる人がいるのか、その力強い発声が勘所でよく効いて、あたかもオペラのクライマックスを聴くかのように耳にガツンと響いてくる。これは合唱コンサートとしては珍しい体験だった。
「三つの優しき歌」では第二章「落葉林で」がとても聴きごたえがあった。ときに異次元の奇妙な響きを発しながら幾層も重なる歌声の大きな流れがゆるやかに変遷していくさまが刺戟的。第三章「夢みたものは…」の明るさも心に残る。
「無声慟哭」は“修羅”の寂しさとでもいうべきものが強く感じられた。ある方への追悼の意が込められた曲とのこと。
今回初演の新曲「愛のうた 三題」は新実さん本人が指揮をしての演奏。立原道造や宮沢賢治なら漠然と作品世界がイメージできるが、吉原幸子と言われてもなかなかイメージが像を結ばない。詩テキストがパンフレットに載っているとよかったのにと思ったが、音楽を聴いていると、戦後現代詩の苦いエスプリが浮かび上がるように作曲されていることが分かり、そこら辺で作曲意図がなんとなく伝わるような気がした。
このコンサートのどの曲も伴奏のピアノはかなりの程度独立独歩の動きをしていて、よくこれでうたえるなと思うのだが、経験を積んだ合唱団はそんなこと苦にしないのだろう。器楽と声楽のとても効果的なアンサンブルを成していた。
(池田康)
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2024年02月02日

虚の筏33号

「虚の筏」33号が完成しました。
今回の参加者は、海埜今日子、平井達也、二条千河、久野雅幸のみなさんと、小生。
下記のURLからご覧下さい。

http://www.kozui.net/soranoikada33.pdf


(池田康)
posted by 洪水HQ at 14:25| 日記

2024年01月05日

重苦しい年明け

石川県の大地震、羽田の飛行機事故と、凶事がつづいて陰鬱な年明けだ。
憂さ晴らしというわけでもないが、勝手にベートーヴェン・チクルスと称して彼の交響曲を全部聴いていた。そのきっかけは(もちろん)年末にN響の第九の演奏会(下野竜也指揮)が放送されて、録画したものを正月にもう一度見たことから。N響の第九は一昨年の井上道義指揮のものも記憶に残っている。1番や2番といった初期の曲を聴くのも新鮮で楽しいし、4番とかあまり聴いてない曲だと初めて耳にするようなフレーズにも出会えたりして刺戟がある。このチクルスは元気がもらえる気がする。1番〜8番はマリス・ヤンソンスのベートーヴェン交響曲全集で聴いたのだが、このCDセットには容量の隙間に現代作曲家の小品もいくつか入っていて、邪魔にならないオマケといった感じなのだが、ギア・カンチェリの「Dixi」だけはベートーヴェンなにするものぞといった風に堂々と鳴るのでたまげた。(このカンチェリの曲には前にも触れたかもしれない)
募金箱にいくばくか投じて、しばらくの平穏な日々をあがないたい。無理か……
(池田康)
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2024年01月03日

みらいらん13号

milyren13.jpgみらいらん13号が完成した。今回は小特集「『夜のガスパール』と詩の場所」を企画、19世紀フランスの詩人アロイジウス・ベルトランの散文詩の遺稿詩集が『夜のガスパール』だが、相当特殊なテーマということもあって、なかなか参加者を見つけることができず、ようやく有働薫さん、高岡修さん、浜江順子さん、松尾真由美さんのお力添えを得ることができて、なんとか形にした。最初は本当に小特集のつもりだったが、なんやかやとページを加えていくうちに、40ページを越えてしまった。これでは「小」とは言えないのだが、参加人数から言っても、気持ち的にも、「小特集」のままでいいかという結論になった。現代のわれわれの詩についても〈散文詩〉の観点でいろいろ考え合わせている。またこの詩集をもとに曲を作ったモーリス・ラヴェルについてずいぶん調べたのも思い出深い。『夜のガスパール』から新訳を数篇試みたのだが、考察したラヴェルの曲との絡みで作品選択をすることにした。他に上田敏、日夏耿之介の歴史的翻訳も一篇ずつ収録している。
巻頭詩は吉田義昭、黒羽英二、坂多瑩子、水嶋きょうこ、松岡政則、もえぎの六氏。
巻頭の連載詩は今号から渡辺めぐみさんにお願いした。15号まで、期待したい。
詳しい内容構成:
http://www.kozui.net/mln13.html
(池田康)
posted by 洪水HQ at 10:47| 日記