2017年07月20日

真夏、銀座へ

梅雨が終わったとのことで、今日も真夏そのものの暑い日だった。
山野楽器銀座本店(3階)に「洪水」20号を納入してきた。すでに店頭に出ていると思いますので、お買い求め下さい。
山野楽器を裏口から出ると、シネスイッチという映画館があった。何度もきているが、こんなところにこんなものがあるとは知らなかった。チケット売り場に前売り券がいろいろ張り出してあり、岩波ホールで近く上映される、エミリ・ディキンスンの生涯を描いた「静かなる情熱」という作品もあった。この映画のことも知らなかった。犬も歩けば棒に当たるとはこういうことか。
それから……
神泉薫さんが7月から調布FMでレギュラー番組をもつとのことです。木曜日の夜10時45分からとのこと。聴けるエリアの方はチューニングダイヤルを合わせてみては?
「リッスンラジオ」というサイトでも聴けるそうです。
(池田康)
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2017年07月11日

あわただしい帰郷

名古屋へ行ってきた。ある方と中日詩賞の授賞式で落ち合ってある企画について打ち合わせ、という用件があったため。それを無事に済ませ、ちくさ正文館に寄って古田店長さんにも会い(「洪水」20号を置いていただけるそうです)、墓参もして、帰ってきた。帰路につく日、西日本は雨雲で覆われていたが、三河から静岡にかけては晴れていて、岡崎から豊橋の間の里山の緑や、青空と浜名湖のエメラルドグリーンとの映えがきれいだった。
中日詩賞の授賞式では野村喜和夫さんの講演があり、自らの作品「エデンホテル」の制作過程の解説がいろいろと舞台裏を明らかにしてとても面白かった。ガラリヤ湖近くの貧相なホテルを舞台とした「生の基底」に迫る作品。自作に対するささやかな疑念も話され、最後に「謎」というキーワードが示されたが、複数の疑念のつながりが作者自らも解き難い「謎」となっていくのだろうかと思われた。
帰りの電車の中では『大村雅朗の軌跡1951-1997』(梶田昌史・田渕浩久、DU BOOKS)という本を読んでいた。
(池田康)
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2017年07月06日

「洪水」20号の案内

kz20.jpg「洪水」20号が完成した。この雑誌の終幕となる最後の号だ。十年余の歴史にピリオドを打つ総まとめの特集は「歌が深淵にとよむとき」のタイトルのもと、心の深層での音楽経験をさぐるべく、インタビュー記事ではフォークシンガーの及川恒平さん(六文銭)、作曲家の伊藤弘之さんと中川俊郎さん、パーカッショニストの會田瑞樹さん、両国門天ホール支配人の黒崎八重子さんにお話をうかがい、ほかにエッセイや詩で50人もの詩人や音楽家の方々に御寄稿いただいた。音楽の見方の多面的な広がりが生まれたかと思う。
巻頭詩は、財部鳥子、葵生川玲、ぱくきょんみ、大家正志、ほしおさなえ、高梁静穂のみなさん。その他の内容についての詳細は下記ページをご覧下さい。
後継誌は「みらいらん」という誌名を予定している。未来の卵でもあり未来への乱でもあるという意味合いで。詩を中心に他の文学ジャンルや諸芸術にも視野を広げ活気のあるメディアの時空を拓くという編集方針は決めているが具体的な組み立てはこれから。半年後の創刊を計画している。
(池田康)

追記
表紙の色について疑問をもたれる方もいらっしゃるかもしれませんので説明しておきますと、デザイナー(巌谷純介氏)は別の色を指定していたのですが、製造過程のちょっとした手違いでこの色になったという次第です。結果を受け入れるということでご理解いただければ幸いです。

追記2
奥付のページに島崎藤村の「椰子の実」を掲載したが、最後の号のここになにを置こうか迷い、試しにこれを入れてみたら、なにかしっくりして出てこなくなったので、そのままにした。この作品は五七、五七、と進んで、最後は七七で終わる長歌の形で、近代以降に作られた長歌としても名作だろうと思う。

追記3
たなかあきみつさんの記事でエリック・ドルフィーの話が出てきたが、私も彼が最晩年にヨーロッパで録音したライブアルバム『LAST DATE』を聴いたことがあり、そのフルートがとてもよかったことを覚えている。
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2017年07月03日

「虚の筏」19号が完成

「虚の筏」19号が完成しましたのでご案内いたします。今回の参加者は、小島きみ子、二条千河、神泉薫、たなかあきみつ、平井達也、海埜今日子、坂多瑩子のみなさん、そして小生。下のリンクからご覧下さい。
http://www.kozui.net/soranoikada19.pdf

また「洪水」20号も完成しました。若干問題なきにしもあらずですがとりあえず完成にたどり着けて、安堵。今週中に発送を終える予定です。
(池田康)
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2017年06月26日

會田瑞樹CD『ヴィブラフォンのあるところ』

パーカッショニストの會田瑞樹さんの2枚目のCD『ヴィブラフォンのあるところ』がALM RECORDSから出た。二つの部に分れていて、「チャプター1 軌跡」に入っているのは「Billow2」(薮田翔一)、「Luci serene e chiare」(C.ジェズアルド)、「Music for Vibraphone」(渡辺俊哉)、「華麗対位法III by Marenzio」(横島浩)、「ヴァイブ・ローカス」(湯浅譲二)。そして「チャプター2 超越」には「Wolverine」(川上統)、「color song IV -anti vibrant-」(福井とも子)、「海の手III」(木下正道)、「光のヴァイブレーション」(権代敦彦)、「夢見る人」(M.マレ)が並んでいる。
ほとんどが會田さんが委嘱した新作で、技巧を駆使する華やかな曲、瞑想的な曲、特殊な奏法の曲、不思議な論理で世界を築く曲、謎めいた反復で迫ってくる曲、穏やかに小さな声でうたう曲、などなど多様性がありヴィブラフォンのさまざま面を楽しめる。演奏はもちろん高い集中力でなされており、湯浅譲二さんは「超絶技巧でも何でも美事に演奏する強者」と賞讃している。
ひとつ思ったのは、この楽器の音がきれいであり、強打しても濁ることがないから、なかなか邦楽器の「さわり」のようなノイズの音塊・破断の魅力は作りにくいかもしれないということで、いつか適当な機会があればこの面を追求していただきたいものだ。
會田さんには「洪水」次号特集にインタビューで登場してもらっているのでご期待下さい。
なお、この号ではほかに、作曲家の伊藤弘之さん、両国門天ホール支配人の黒崎八重子さんにもお話を聞いています。あと一週間ほどで完成の予定。
(池田康)
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2017年06月21日

ワークショップ風リサイタル

まったくの空梅雨でもないようで今日は本格的に雨に降り込められているが、とんでもない豪雨とかでなければ雨も悪くない。
先日、中川俊郎さんのピアノリサイタル「ピアノの窓」を、川村龍俊氏の主催するWINDS CAFEコンサートシリーズで聴いた。「ピアノのための19の展開第1集」など現代音楽の楽曲のほか、子供が弾くために書いた曲とか制作を手掛けたCMの曲など。ワークショップの感じで、メーキングを垣間見させたり、聴衆の中でピアノが弾ける人に一部弾かせたり、聴衆全員を曲の演奏に参加させたり、中川さんがあやつり仕掛ける奔放な奇想や悪戯が空気を思いがけない方向へ動かして楽しかった。2015年11月に開かれたコンサート(中川さんのピアノ協奏曲が演奏された)の招待状が配られ、タイムマシンを使えたら、ぜひ聴きに来て下さい、とも。ゆにーくな無茶を要求する作曲家だ。
場所は原宿のカーサ・モーツァルト。ここのピアノは古い型なのかちょっと変わっているようだ。WINDS CAFEは初めて参加したが、投げ銭制で、コンサートのあとで行われるオークション遊びも楽しいものだった。
近く出る「洪水」20号では中川俊郎さんにも少しだけご登場いただいているのでご期待ください。20号は編集は終わり、ほぼ予定通り7月1日前後に完成となる見込み。
(池田康)
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2017年06月13日

朔太郎の『宿命』の行路

「洪水」20号の編集のテキスト確認で見ておきたくなり『萩原朔太郎全集第二巻』(筑摩書房)を図書館から借り出したのだが、この機会に詩集『氷島』と詩集『宿命』の散文詩部分を通読した。『氷島』はたぶん再読だろう、前に一度読んだはずだ。『宿命』は収録されているうちの数篇はどこかで読んでいるが通して読むのはおそらく初めてだ。朔太郎の人生論的到達点ともいうべきもの(たとえば「虚無の歌」)や、陰鬱の極みであり恐怖の極みでもあるもの(たとえば「死なない蛸」)から思わず笑ってしまうもの(たとえば「蟲」)まで、じつに巾が広い。これが詩なのか、と言いたくなる際どいものもある。
『宿命』という詩集については山田兼士さんの『萩原朔太郎《宿命》論』(澪標)がある。全体の構成の意図や朔太郎の仕事総体の中での位置付けなど非常に周到に論じてある濃密で充実した評論の本だが、やっかいな種類の読みにくさも抱えている。というのは、この詩集の散文詩部分の扉にショーペンハウエルの「宇宙は意志の表現であり、意志の本質は悩みである。」という言葉が掲げられていて、この詩集がショーペンハウエルの思想の影響下にあることがうかがわれるのだが、『萩原朔太郎《宿命》論』ではそれを受けて(ショーペンハウエルの思想の特殊な概念である)「意志」をキーワードとして論を進めるものの、朔太郎がつかう「意志」とショーペンハウエルがつかう「意志」とどこまで一致しているのか、山田さんのつかう「意志」とショーペンハウエルのそれとどこまで一致するのか、また朔太郎のつかう「意志」と山田さんのそれとどこまで一致するのか、見極め難く、そもそも私自身がショーペンハウエルの「意志」を正しく把握しているか心許ないという事情もあり、論をたどって理解しようとする読みの走行がとても不安定な状況になるのだ。
その判じがたい難点は措いても本書には有益な指摘や考察がたくさんある。
たとえば「我れは何物をも喪失せず/また一切を失ひ尽せり」という特徴的なフレーズについて、「〈死〉の側から見た〈宿命〉と〈生〉の側から見た〈宿命〉の併存状態」と指摘するところとか、「詩と詩学が同時に生成することは不可能だろうか」と問い、一つの可能性として「詩を語ることと詩学を歌うことがもはや区別のつかぬほど接近し全体として一つの統合的な〈作品〉となるようなポエジーを創出すること」があり、その試みが「虚無の歌」でありそれを到達点とする『宿命』であると述べるところとか、第一詩集の『月に吠える』とこの『宿命』とを対比させて「『月に吠える』は、萩原朔太郎の思想の全てを自らの肉体(官能)を舞台に展開した体験としてのエクリチュールだった。これに対し『宿命』は、いま一度この体験を今度は精神の所産たる抒情詩を舞台に再構築した、虚構としてのエクリチュールだった」と考えるところとか、とてもエキサイティングだ。
この『宿命』論を読んでいてあらためて朔太郎は悲壮な詩人だったなと感慨を抱くわけだが、その点についても「この書物は、萩原朔太郎という詩人の生涯のみならず、詩そのものの〈宿命〉を記すべく、抒情の終焉の物語を生成せしめることになる。終焉までの物語ではなく、終焉そのものを物語化する企てとしてである」と語られており、つまり〈詩の終焉の物語〉という作品造形が朔太郎の文業の最終局面だというのであり、命をくびるようでなんとも悲痛だ。
小説「猫町」や先述の「蟲」、一行詩「鏡」についての論考もとても興味深い。
(池田康)

追記
『萩原朔太郎全集第二巻』では当時の詩人や文学者の批評文がいくつか読める。『純情小曲集』の序文の室生犀星、跋文の萩原恭次郎、『底本青猫』附録の蔵原伸二郎のほか、月報で芥川龍之介、高橋元吉の文章が紹介されている。それぞれ鋭い指摘をちりばめている。
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2017年06月11日

吉田義昭さんの7月のライブ

詩人の吉田義昭さんが7月3日(月)の夜に新宿でジャズボーカルのライブを開くとのことです。ぜひお出かけ下さい。詳しくは下記リンクよりちらしのPDFをご覧下さい:

http://www.kozui.net/yoshidalive1707.pdf

(池田康)
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2017年06月06日

生と死のトーンバランス

映画「家族はつらいよ2」(山田洋次監督)はなんの緊張もなくリラックスして見てしまう珍しい種類の作品で(大抵の映画はなにがしかの緊張感をもってのぞむものだ)、あたかも「サザエさん」のある週の回を見るがごとく気軽によく練られた喜劇を楽しむことができる。とくに欲張った高級そうな映画的表現技法は使われていないのだが、平坦に見えて滑らかに細やかに動く展開にからっぽの頭でついていく心地よさは静の演出のリズムが体に作用しているのだろうか、稀な時間経験だ。後半突然「死」が平田家の家族に、そして観客に突きつけられるが、そこでもなお「笑い」を生じさせる無謀な逞しさに驚いてしまう。しかし考えてみれば通夜の席で談笑するというのは普通にありそうな事態であり、フィクション作品が不謹慎を恐れる自主規制に囚われることもないわけだ。個人的に一つ惜しかったのは、夏川結衣演じる史枝(長男の妻)が歌舞伎見物に行くというので和服に着替えるシーンがあるのだが、ほんの一瞬で、史枝さんの艶やかな和服姿をもう少しよく見たかった。映画全体を一幅の画として考えるなら、老・死のトーンが優っているので、それに対抗する生の輝かしさを伝える強い色彩をどこかにもう少し置きたい、生死のトーンバランスを考慮してその方が望ましいのではないかと思うわけなのだが、これは理屈をこねているだけで、単にあの和服姿をじっくりと見たかったというだけかもしれない。文鳥だかインコだか小鳥をかわいがる史枝さんも好風景だ。憲子(次男の妻、蒼井優)が生死を往還するドラマティックな文脈を帯びているのに対して、史枝は日常に半ば埋没しながら時おりほとんど物語に関与しない「無意味な光」を発する。
(池田康)
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2017年05月31日

ガリバルディ

何年も前からイタリアの英雄ジュゼッペ・ガリバルディの伝記を読みたいと思っていた。名前はよく聞くのだがその行動や果たした役割の正確なところがよくのみこめなかったので。夏目漱石の「坊ちゃん」に出てくる「赤シャツ」というあだ名がガリバルディの赤シャツ隊に由来するのではないかという疑問もあり。
しかしながらなかなか適当な本が見当たらなかったのだが、最近幸運にも藤澤房俊著『ガリバルディ』(中公新書、昨年12月刊)を見つけたので、さっそく読んでみた。
19世紀半ばまでイタリアという国はなかった。いくつもの小国に分かれていて、ある国はオーストリアの支配下にあったり、ある国はフランスの息がかかっていたり、ある国はスペインと関係が深かったり、かなりこんがらがっていた。そこからイタリアという国に統一するまでの二十余年の(とりわけオーストリア帝国に対する)独立戦争の過程で大きな役割を果たした何人かのうちの一人がガリバルディで、おもに戦闘の実践面で活躍するのだが、統一の中心となるサルディーニャ王国の首相カヴールや民主革命を志向する政治思想家マッツィーニとの手を組んだり離反したりのややこしい関係が興味深く、またヨーロッパ全体のパワーバランスとのつながりが見えてくると一層面白くなる。
勇名並ぶものなき戦士であり、何度も牢獄にぶちこまれた、愛国者でありコスモポリタンでもあった英雄・ガリバルディの名は神話に類する光輝を帯びて当時のヨーロッパにとどろき、世界に知れ渡った。とりわけイギリスでガリバルディの人気は高く、来訪したイタリアの英雄に対して出迎えの騒ぎは大変なものだったという。明治期の日本でもその伝説的物語は多くの人の耳目をひいたということで、英国留学もした漱石にも届いていたはずだ。
ヴェニスもローマもイタリア統一の過程の最後の最後までイタリアの外にあったという事実には驚かされる。19世紀のイタリア史を辿ることはこの時代のヨーロッパの全体地図を理解するのに非常に役立つだけでなく、国というものがいかに成立しまたいかに崩壊するかを考える上でも貴重な具体的事例となるのだ。
(池田康)
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