2022年07月25日

比べる

AとBを比べるという場合、両者にはなにか共通項がありながら画然とした違いも存在する、という関係にあるはずだ。なにも共通項がないと比べようがない、比較が意味をなさなくなる。比較するにしても、ただ単に優劣をつけるのは味気ない。AとBが互いを照らし合うその関係自体(一時的かもしれないが)を楽しむのが比較のより意義深い形なのではないだろうか。

「みらいらん」9号の野村喜和夫・広瀬大志両氏による対談「恐怖と愉楽の回転扉」に出てきた映画「遊星よりの物体X」(1951、クリスチャン・ネイビー)と「遊星からの物体X」(1982、ジョン・カーペンター)を最近観た。後者は前者をリメイクしたもの、という関係。しかし筋はかなり違っている。オリジナルの方は北極の地での恐怖譚に小気味よいユーモアをまじえて映画製作の腕前が冴えている感じがあり、リメイク版は音楽(エンニオ・モリコーネ)の現代性を噛みしめることができ、バッドエンドにかぎりなく近づこうとする脚本も真剣なサスペンス味がある。エイリアンの造型は植物の生命の理をベースにして理論づけようとする1951年版はよりSF的、1982年版は形状や運動がやたら恐ろしくホラー寄りと言えるか。どちらにしても外宇宙はかならずしも友好的ではないことが示され、不気味な冷気が北極の風景に沁みわたることになる。

ベートーヴェンの晩年のピアノソナタ(作品109〜111)をアンドラーシュ・シフと小菅優という二人のピアニストで聴き比べる(どちらも信頼できるピアニストであり、シフに関してはバッハの或る曲などグレン・グールドよりもシフで聴く方を好むこともある)。しなやかに流れ細かくスイングするシフ版に対して、各所で流れをゆるめながら音を立てるような小菅版は音のドラマの形、遊戯の姿がよりくっきりと見えてきて、私のような素人にはありがたく、耳をそばだてやすい。十分に余白をとって静寂を確保しながら音を鳴らし音に語らせる、不協和音も明瞭に打ち出す、大家然とした落着きと初学者のような素直さを兼ね備えた演奏は、何度でも聴きたいとおもわせる構築の強さがある。これらの曲はピアノ曲の歴史のなかでも一つの絶壁の縁をなすものであり、その危うさと絶景を体験することは特別な音楽秘境探訪である。両人とも付属の小冊子でこれらの曲について雄弁に語っているが、ここでは小菅優のコメントを少し引用紹介する。「作品109はもっとも美しいソナタのひとつだと思います。まるで川がもうずっと前から自然と流れていたような冒頭から始まり、ハーモニーの切なさや弱音の美しさは果てしなく遠いところへ手を伸ばしているかのようです。…(中略)…お客様がいなくても自分で自分のために弾きたくなることはあるかとときどき聞かれることがあります。作品110は私にとってそんな曲のひとつです。自分が慰めを求めているとき、音楽の美しさにすがりたいとき、悩んでいるとき……そんなときにこの曲を弾きたくなるのです。…(中略)…そして作品111。いきなり冒頭から嘆いているかのようで、ずっと最後のハ長調を探す迷路のようですが、人生もそのような迷路に感じることはないでしょうか。私は、人生はいつも見つからないハ長調を探しているようだなと感じることがあります。」

比べる、の究極は自分を自分自身と比べることだろうか。一年前、五年前、十年前、二十年前の自分と、今の自分を比べて、どうか。多くはそれほど変わってない、あるいは少しずつ退化している部分もある。それでも進展や新境地がわずかでも見つけられれば自己弁護の余地が生まれ、ほっとできる。自分が自分に対して不満を抱く、それは前へ進む最も基本的な活力ではあるが、へたをすると不幸の感覚に捕われる原因にもなる、そこがやっかいなところだ。ほどほどにしておくべきなのかもしれないが、といっても、自分の自分自身との比較は意識がある限り止めることのできない行為であり人間のサガと言うしかない。それが反復され重ねられ変奏されて〈人生の意味〉なるものの根幹をつくる(創造するor捏造する)のであろう、たぶん。
(池田康)

追記
マウリツィオ・ポリーニの演奏するベートーヴェンの後期ピアノソナタ(op109-111を含む)のCDも所有していたことに気づいた。このピアニストはそれほど近しく思ってなかったので記憶から消えていたようだ。さすがに上手に弾いている。
posted by 洪水HQ at 11:14| 日記

2022年07月23日

岡崎和郎さん

美術家の岡崎和郎さんが亡くなられたとのこと。92歳。「洪水」6号の特別企画「瀧口修造への小径」で、空閑俊憲・土渕信彦両氏とともに座談会で語っていただいたことが記憶に残る。最晩年までとても元気だったそうだ。岡崎さんの手になる謎をひめたオブジェの数々が目に浮かぶ。ご冥福をお祈りしたい。
(池田康)
posted by 洪水HQ at 14:05| 日記

2022年07月10日

池袋界隈で

平穏という言葉が2020年以降つかいにくくなっている気がするが、ここのところ、選挙と凶行と戦争と疫病と、過剰に騒がしい世の中だ。ぐったり、家でじっとしていたいところだが、昨日は遠出した。
詩人クラブの会(板橋区立グリーンホール)にちょっとした用事で参加するため(二条千河さんの講演があった)。ついでに、午前中、田端駅前の田端文士村記念館に寄り、芥川龍之介の展示を観る。関連展示で「詩人・吉増剛造 芥川龍之介への共感」があり、〈東京の詩人・芥川龍之介〉の影を追った吉増さんの詩集や映像作品が展示されている。ずいぶん昔のものからつい最近の作まで長年月にわたっていて、傾倒の本気度がうかがわれる。奥の部屋には芥川の資料もたくさん展示されているものの薄暗い中で文字は読みにくく、漫然と眺めるのみだったが、芥川邸の模型にはなぜだか見とれた。太宰治の肉筆の手紙(のレプリカ?)も見ることができた。
東京芸術劇場のおにぎり屋のおにぎりを昼食とする。おにぎりなるもの、自分で握ってもうまくいかないし、コンビニなどで買ってもさほどおいしいと思うことはないが、ここのおにぎりはほろほろとした温とさがありがたく、試してみる価値あり。
ジュンク堂書店池袋本店にも寄る。セルフレジが設置されていた。一冊購入。操作性はスムーズだが、大丈夫なの?という不安がセルフレジなるものにはつきまとう。自販機と同じと言えば、そうなのだろう。
追記。吉増さんからテレビ番組のお知らせをもらっている。「縄文幻視行」というタイトルで、今月17日(日)午前0時30分(土曜深夜)からNHKBS1で放映予定とのことだ。
(池田康)
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2022年07月04日

みらいらん10号

みらいらん10表紙画像002.jpgみらいらん10号が完成した。176ページ。表紙オブジェは國峰照子さん作「歩行」。
今号の特集は「西脇順三郎 世界文学としての詩」、果敢にもこの巨大な高峰に挑戦した。今回も監修的役割を果たして下さった城戸朱理さんの発案が出発点になっているが、個人的には、何年か前に神保町の古本祭りの折に買い求めた『西脇順三郎全詩集』(筑摩書房、1963年)をいよいよちゃんと読む時が来たかという怯えと奮い立ちとが混ざり合った心境だった。この『全詩集』未収録の晩年四詩集も蒐集して謹読した。
特集の柱は吉増剛造・城戸朱理両氏の対談「西脇順三郎をふたたび考える」で、吉増さんの話の中で「生垣」や「女の舌」といった語が目立つ形で出てきたのでサブタイトルを「生垣・女の舌・異語の声」とした。この対談はホテル・ニュー・カマクラで行われ、吉増さんの疑義や事実確認に対して城戸さんが即答するという場面も印象的だった(対談の後の歓談も非常に愉しいものであった)。
さらに贅沢にも往復書簡企画が二つ並ぶ。一つめは、野村喜和夫・杉本徹両氏による「ポエジーのはじめに散歩ありき」、二つめは城戸さんの詩を英訳している英文学者の遠藤朋之さんと城戸さんとの「世界文学の視点から西脇順三郎を考える」。どちらも西脇順三郎の本領を問いただす生彩にみちた対話となっている。
そしてエッセイをご寄稿いただいたのは、石田瑞穂、岩崎美弥子、山内功一郎、山崎修平、田野倉康一、ヤリタミサコ、神泉薫、菊井崇史、カニエ・ナハ、広瀬大志のみなさん(広瀬氏は詩の形)。さまざまな角度から巨魁西脇順三郎に迫って下さった。
西脇順三郎は苦手という方もぜひ今回の特集をご覧いただき、それぞれにこの大詩人への入口を見つけていただければ幸いだ。
巻頭詩は小池昌代、愛敬浩一、岡本勝人、原利代子、岡田ユアン、萩野なつみの六氏。巻頭連載詩は今号から渡辺玄英さん(12号まで)。巻頭短歌は前川斎子さん(「日本歌人」編集人)。
それから嶋岡晨さんの連載詩だが、コーナー名変更となった。すなわち「深夜の詩・夜明けの歌」。刷新された舞台で新たなモードの詩が読めることを歓迎する。
巻末のジャンル別コラムに、この号から愛敬浩一氏がテレビドラマ担当で加わっている。氏は映画やドラマの評論も旺盛に書き、単行本も出していて、その批評は独自の視点に貫かれ、長年培った定見の上で颯爽と自立している。そして洪水企画から今年、〈詩人の遠征〉シリーズで『遠丸立もまた夢をみる』『草森紳一の問い』の二冊を刊行した。どちらも異色のタッチの活気ある文芸評論となっているので是非ご覧いただきたい。
(池田康)
posted by 洪水HQ at 14:13| 日記

2022年06月28日

傍若無人なモダニズム

気象庁が多くの地域での梅雨の終わりを宣言したらしい。これからずっと真夏の暑い日がつづくということだろうか。今年はベランダの朝顔は二鉢、成長は極めてゆっくりだが、もう蔓が螺旋運動をはじめている。
左川ちか(1911-1936)も詩を読むととても鋭敏に植物の生命に感応していたと思われる(「前奏曲」など)。
『左川ちか全集』(書肆侃侃房)で彼女の詩作品をざっと通読する。傍若無人なモダニズム、という言葉が浮かんでくる。普通、モダニズム詩の多くは、イメージ片をピンセットでつまむようにして慎重に組み立てる、知的な、計算し尽くした時計職人のような仕事であり、ときには標本箱に収められた詩の死骸といった感じさえ受けるのだが、左川ちかの詩は乱暴なまでの勢いで言葉とイメージを組み立ててゆく。そして突然、存在の不安を叫ぶような行が記される。そのような稀な回路でのポエジーの起爆がこの詩人の個性を成しているのだろう。同書解説(島田龍)にも指摘されているように、詩歴が馬の詩から始まって馬の詩で終わるのも、故郷の北海道が彷彿として印象的だ。
この解説で、わが昔日の愛読書『雪明りの路』の伊藤整との深い関わりも詳細に語られており、相当に詩風がちがうので怪訝なる驚きでもあった。
(池田康)
posted by 洪水HQ at 11:26| 日記

2022年06月18日

夏の系

 夏が半透明の殻から抜け出した
 虫の王国のあけぼの
 逃げ水がどこまでも逃げていく
 ラジオの戦争報道は波にのまれ
 サーフボードを脇にスクーターが走る
 真昼間の無常に斧をかける蟷螂
 目覚めてにぶく動きながらまどろむ甲虫
 昼寝は楽園への隧道
 冒険をかぎあてる無為の散歩
 王国に足を踏み入れると子供はセミ語をしゃべる
 藪がウツソウ語を
 川がサフサフ語を
 競り合う天籟妖声の譜
 夏は交響楽 夏休みの作文がつづる
 夏は交響楽 詩が真似る
 第一楽章のtuttiを少年が駆け抜け
 風の管弦が追いかけ
 大紫はうろうろ飛び迷うが
 もうどこへ行く必要もない
 朱夏こそ最終目的地
 その頂は齢を四半にし
 その淵で記憶は浄瑠璃となる
 くももくもく 幼い素頓狂な声
 入道雲の角力三昧
 すわ雷雨燦然
 木々は古代青の甦り
 地上の虫言葉ふたたび蠢き
 夜空ひそひそ語
 銀漢のかなたの爆発
 逃げ水を集めて螢は幽明の呂をまう
 サーフボードはもう乾いている
 少女の歌はまだ濡れている

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もうすぐ7月、いよいよ夏も本番。
ということで、ここに書きとめるのは、夏の子らに寄せる頌歌です。
いざ発表するゾ、というような晴れやかなことではなく、ちょっと出してみる、くらいの気持ち。
というのは、このような主題はありふれたものだろうし、それにつながる各部分の表現も誰かがどこかで似たことを書いているかもしれないので。
なお、「サフサフ」という表現は西脇順三郎「失われた時」から借りてきています。
(池田康)
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2022年06月17日

加納光於展「胸壁にて」 ほか

昨日は午後から上京。
京橋のギャルリー東京ユマニテで加納光於さんの個展「胸壁にて」を観る。これは1980年代に制作発表された連作で、40年ぶりに展示されたとのこと。奔放な色彩の発現と変幻をあじわう。ギャラリーの御主人から加納さんの近況をうかがう。
それから駒込の駒込平和教会で田中庸介さんの朗読会に参加。詩集『ぴんくの砂袋』が詩歌文学館賞を受賞したのを祝っての催し。精気にみちた声で、東京の地名をもりこんだ詩、学者としての活動に関する詩、家族生活から題材をとった詩など、朗読された。詩誌「妃」の執筆者諸氏も多く参集していたようだ。
この会は天童大人氏が主催する「詩人の聲」シリーズの第2084回。天童さんは昨年詩集『ドゴン族の神―アンマに―』を出している(アフリカ紀行が主題となっており、個人的には「Bine・Bine」という詩の静けさが印象的だった)。
新宿の紀伊國屋書店に寄ったら、一階部分も新装開店していて、誰がデザインしたのか、ぐっとファッショナブルな感じになっていた。
今回の上京とは関係ないが、何日か前から読んでいた、ヴァージニア・ウルフ『オーランドー』を読み終えたところ。まったく奇妙な小説、ウルフの作品群の中でも異色作だろう。数百年の時代の変遷を点描するとともに不思議な人格構造論を試みながら、「樫の木」という一篇の詩の創造を軸に繊細な文学論を各所にちりばめている。すべてが集約される最後の十ページほどはとくに魅せられる。
(池田康)
posted by 洪水HQ at 12:09| 日記

2022年06月12日

十薬

晴天からいきなり雷雨が降ったりもして夏らしくなってきた。
最近散歩していて目につく植物にドクダミがある。紫陽花は季節の花として愛されるが、ドクダミはそんなでもないだろう。第一、名前がよくない。誰がこんないやな濁り方をした名をつけたのか、花になりかわって文句を言ってやりたいものだ。辞書を見ると悪臭がするとあるが、花に鼻を近づけてもそれほど強烈な臭いは感じない。整腸・解毒などの薬効があるという。とすると薬草園なんかでは大事に育てられているのだろうか。歳時記を見ると、十薬(じゅうやく)の別名もあるようだ。花の形が十字形で、薬効があるから、この名前ができたのだろうか。こちらの方が感じがよい。例句が七句ほど並んでおり(そのうちドクダミで詠んでいるのは一句だけ)、俳人はこんな小さな道端の花にも目を向けるのだなと感心する。その中から。

黄昏れて十薬の花たゞ白し〜〜夢香

作者は柏崎夢香という俳人だろうか、まったく知らない人。たしかにこの花の白は、十字形ともあいまって、印象的だ。これが沈丁花のような芳香をもっていたらどんなに良かったろうと残念に思ったりもするが、この香りをとびきりの薫香として好む「蓼食う虫」もきっと存在するにちがいないと夢想する。
(池田康)

追記
グロテスク芸術を積極的に語る西脇順三郎ならばドクダミの名前も珍重するだろう。そう考えるとこの名も捨て難い気がしてくる。
そういえば、有働薫さんがなにかの詩でこの植物を書いていたのではなかったかと思い出して、詩集を探してみた。一番新しい『露草ハウス』のタイトル作でもちょっと出てくるが、12年前の『幻影の足』の「茗荷の港」では主役級で登場する。

どくだみの白い花が
見渡すかぎり咲いている野原を
明け方まだあたりが煙ったように
蒼くかわたれているなかを
朝霧に足元をぐっしょり濡らしながら歩いていくと

で始まり、一連の幻想体験が叙され、最後は、「突然まわりの談笑の声が/すーっと遠ざかって行った/わたしは少しめまいがした//気がつくと/どくだみの白い花に囲まれて立っている//茗荷の香りが口の中に残っている」で終わる(最終行の茗荷の香りというのは幻想体験の一シーンに関わっている)。詩人はドクダミに化かされたのか。こんなふうにドクダミと交感できるというのは、この詩人のユニークな資質の一端を示している。
posted by 洪水HQ at 15:59| 日記

2022年05月28日

虚の筏29号

「虚の筏」29号が完成した。
この号の執筆者は、たなかあきみつ、生野毅、久野雅幸のみなさんと、小生。
下記リンクからご覧下さい。

http://www.kozui.net/soranoikada29.pdf

(池田康)
posted by 洪水HQ at 12:36| 日記

2022年05月20日

一番居心地のいい場所

この世で一番居心地のいい場所はどこだろうか?
自分の家、自分の部屋、という回答が多いと思われるが、それを省くとしたら、どうだろうか。
思いつくままに挙げてみよう。たとえば由緒ある温泉の露天風呂。あるいはハイキングで2時間歩いてちょっとした山頂に到達して岩に腰かけ水筒の水を飲んで景色を見渡すとき。あるいは気のおけない友達数人との会食(隣のテーブルの声がうるさくないことは絶対条件)。あるいは快適なライブハウス、アルコールを少し体に入れて音楽を聴くとき。あるいは昔の和風の家で大きな庭があって縁側に坐って日向ぼっこをしながら鳥の鳴き声を聴くとき……
いずれも悪くないが、正解は、空豆の莢の中、なのではないかと昨日今日空想している。
数日前、食料品店で特売の莢入り空豆一袋を買ってきて、茹でて食べているのだが、空豆の莢の中はとても上等な白い綿状のクッションが敷き詰められていて、心地良さそうなのだ。この中に入って、空豆の木の枝にぶらぶら揺れるのは、とても気持ちいいのではないだろうか。馬鹿なことを言うなと言う人は一度空豆の莢を裂いて中を見てみるといい。気持ちが落ち込んだときなど、自分は空豆の莢の中にいる、宙で風に揺れている、あったかくて雨にも濡れずとても静か、と空想したら、少し気が楽になりそうだ。
ちなみに、子どもの頃はおいしさがよくわからない、どちらかというと苦手、という食材がいくつもあるものだが、私にとって空豆はその一つだった。今はうまいうまいと食べている。
(池田康)
posted by 洪水HQ at 19:25| 日記