2019年03月24日

音楽はいかにして音楽となるか

作曲家の池辺晋一郎さんの対談集『音のウチ・ソト 作曲家のおしゃべり』(新日本出版社)が出た。女優・若村麻由美、詩人・小池昌代、小説家・池澤夏樹といった方々との対話が収録されている。小池さんとの対話は「洪水」16号の池辺晋一郎特集の記事の再録。どの対話も洒落や冗談を交えながら自由闊達に展開されていて、ときには尖鋭な政治的主張なんかも入る刺激もあり、読むのが楽しい。これら三編の対話の間に「第三章 音符と作曲家の間柄の話」という章が挟み込まれていて、作曲の楽屋裏を少しだけ打ち明けてくれている。音には意志があるとか、音を下げていくのは自然で楽だが上げるのは大変で力と工夫がいるといった話は興味深い。合唱組曲「飯豊山」(詩=村田さち子)を例にとって、詩に音楽をつけていく作業の実際を詳らかにしている箇所も、作曲家の感覚の繊細な有機的合理性を目の当たりにでき、歌というものについていろいろ教えられる。
「音というのは、物理的にいえば、何かが振動して、それが空気の振動となって伝わってくるものです。(中略)しかし、ぼくは、音楽で使う音をそういうものとはどうしても思えないんです。意志を持っているように感じる。意志というのは、あそこへ行きたい、何をしたいというような欲望といってもいい」
音を扱う創作者としての個性を刻印するタッチ、音を考える長い歴史に裏打ちされた思想が、音に意志を発見し、音の集まりを音楽にする。
(池田康)
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2019年03月19日

平野晴子詩集『花の散る里』

hirano-hananochirusato.jpg平野晴子さんの第五詩集『花の散る里』が完成した。洪水企画刊、A5判並製カバー84頁。本体1800円+税。前作『黎明のバケツ』の続きの形で、認知症の夫との晩年の生活のあれこれを材料にして書かれた詩を収めるが、夫との死別と平野さんの詩人としての再出発がこの集での到達点となる。帯には「認知症の夫との最後の数年の生活は、おどろの闇を歩く、どこにゆきつくとも知れぬ妖夢の道行であった……」という紹介文を載せているが、まさに見通しのきかない暗闇の道行と言うべきで、どの詩篇にも硬質のレトリックを介してその悲嘆と苦悩が刻みつけられている。伴侶との死別の悲しみをもっともわかりやすくかつ透明感をもってうたっているのは詩集の最後から二番目の「黒い鳥が実を食べに来て」の後半だと思うのでそこを引用する。

 窓を塞ぐように
 黒い鳥が降りてきて
 隠れ蓑の実を啄ばむ
 大揺れの枝
 葉が擦れあう
 木の根もとで頓挫した光

 青黒い翌檜のてっぺんで
 鳥は翼をたたみ硬直している

 葉群れは鎮まり
 無音を奏でる初冬の午前
 玲瓏の空に鳥が発つ

 時が刻を思いだし
 鳩時計がさえずる
 光が色を思いだし
 風景を染めはじめる

 祝福から解かれたわたし

 抱きしめていたはずのあなたは
 光に囲まれ
 まぶしすぎてわたしに見えない

そして最後に置かれた「桃の核」は詩人の再生を予言して力強い。是非お読みいただきたい。

(池田康)

追記
中日新聞4月20日の「中部の文芸」欄で北川透氏による批評文が載りました。ぜひご覧下さい。

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2019年03月13日

あれかこれか

AかBかという選択は人によって違ってくることが多いだろうが……
ハンカチはきちんと畳んでポケットに入れるものと思い込んで半世紀を過ごしてきたが、最近ハンカチをくしゃくしゃにしてポケットに入れておく蛮行が気に入っている。くしゃくしゃのハンカチはなぜか心安らぐ。拭きやすいという現実的利点もあるし、こういう無秩序がちょっとぐらいあってもいいんだよと教えてくれるような気がするのだ。もちろん外では人目もあるしポケットが異様にふくらんでしまってみっともないから家の中でしかやれないが、それだけでも十分OK。騙されたと思って一度試していただきたい。
イヤホンはいくつか持っているが、もっとも好んで使うのは昔からあるような平べったいボタンを耳にはめ込む形のもの。型番がわからないのだがパナソニック製のものを愛用している。現在主流になっている、ゴムの筒を耳穴の奥に突っ込む形のものはぴったりのフィットが窮屈すぎてわが耳にはよろしくないようだ。音の広がりの感じも従来のボタン型の方が好き(耳の骨に低音の振動を伝えてくるものは耳が痛くなって嫌い)。ただすぐポロリと耳から外れるのが難点だが。
プリンターインクはメーカー純正品か他社のエコノミーインクかという切実な問題は、私の過去の苦い経験からすると値段がかさんでもどうしても前者を選ばざるを得ない。悪くするとプリンターがプリンターの用をなさなくなる。エコノミーインクを使うのは高級ウイスキーの瓶に水で割った安酒を詰めるようなものだ――いやこれはわが独断的私見。
娯楽映画か芸術映画かという問題はケースバイケースで、CGの華麗な魔法もけっこうだけれど本物のローソクの炎の揺らめきの方が妖艶だったり、かと思えば家庭劇のありきたりの泣き笑いよりも群衆の衝突の派手なスペクタクルの方が見応えあったり、まさしく予見不可能で、運を天に任せて両方面試すしかなさそうだ。
当時は娯楽だったか芸術だったかわからない(もちろん両方だったのだろう)シェークスピア劇の中で「to be or not to be」とハムレットは悩んだ。市井の埃にまみれてうかうかと暮らす庶民としてはもちろん何のためらいもなく「to be」でしょうという自信満々の答えになるわけだが、百万秒に一秒の割合でどっちでもいいよなと思ってしまう瞬間もあって恐怖する。ハムレットの天秤が真のクエスチョンとして見えてしまう危機的瞬間。そんなときはポケットからくしゃくしゃのハンカチを取り出して、なんだこの無秩序は、力が抜けるよと慰めてもらうのが手軽でよい。
(池田康)
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2019年03月05日

なくしもの

《其之一》いいアイデアを思いついても放っておくと三十分後にはすっかりそのことを忘れてしまっている。メモしておけばいいようなものだが、それをまめに実行することはなかなか難しい。そうなると、いいアイデアが浮かんだということは思い出すのだが、どういう内容だったかはどうしても思い出せない。あれらの失われた着想たちはどこへ行ったのだろうか(パラレルワールドの第二のボクがそれを活用して傑作をものしている?)。もっともメモに書き留めても活用されず死蔵状態になっているものも少なからずあるのだが。
《其之二》最近ビニール傘をなくした。もともとは四本持っていて(出先で雨に降られてビニール傘を買うことで自然に増える)、骨が折れてしまって二本捨て、残り二本になっていた。そのうちの一本のビニール傘をどこかに忘れてきてしまったらしい。あれ、玄関に一本しかないと気づく。ビニール傘の不思議なところなのだが、驚いたことに消失に三日ほど気づかなかった。存在の希薄さ、幽霊のようだ。突飛な発想にも聞こえるが、両者の間にクラゲを置いてみると流れがスムーズになるような気がする。ビニール傘→クラゲ→幽霊。いつの間にかやってきていつの間にか消え去る。ビニール傘に「くらげがさ」という愛称を献呈したい。
《其之三》数日前、パソコン上でファイルが消えた。イラストレータでちょっとしたものを作っていたら急に落ちてしまい、保存処置をしていなかったので、作っていたものがまるごと吹っ飛んでしまった。こんなふうなデジタルデータの喪失は近年覚えがなく、ほんとうに久方ぶりだったので、愕然とした。ソフトによっては急に落ちてもその直前の状態が再現できるものもあるが、イラストレータはこの機能が備わっていないようだ。もっとも本当に「ちょっとしたもの」(いわゆるハモノ)だったので、二時間ほどの茫然自失から気を取り直して、再度挑んだら、二回目は工程を覚えていて速く、あっという間に復元できた。それにしても、あの久しぶりの無常の砂を噛みしめる喪失体験は強烈で、むしろ貴重だったとも言えるかもしれない。
(池田康)
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2019年02月25日

オペラ 紫苑物語

先週土曜日に新国立劇場でオペラ「紫苑物語」を観劇した。作曲・西村朗、台本・佐々木幹郎、原作・石川淳。詳しくは別の場所に書きたいと思うが、一言だけ。石川淳の原作、鏤骨の文章でこの荒唐無稽の伝奇物語を立派な小説に仕立てていて、魔術師!と感嘆するのだが、今回のオペラ作品も独自の発想を打ち出しながら各シーン音楽的にも演出・美術の面でも磨き上げられており、魅せられる。歌を捨て弓の武を追い求める主人公の宗頼をはじめとして、伝統的歌道墨守の父親、アンチヒューマンの殺意の弓麻呂、裸形の欲望のうつろ姫、算木をもちいて謀をたくらむ藤内、精霊の妖気の千草、仏界を顕現させようとする平太と、人物像が際立っていてその衝突がドラマに鋭い輪郭を与えている。原作とおおいに違っているのはうつろ姫の扱いで、原作では醜が強調された不気味な闇の存在だったのが、このオペラ作品では気性獰猛な美姫として前面に出てきていて、オペラ的でもあるし、直裁な欲望の噴出が現代にもつながっているように感じられた。原作のうつろ姫だと歌手は演りづらいだろう。演出・笈田ヨシ。大野和士指揮、東京都交響楽団、新国立劇場合唱団。キャストは高田智宏(バリトン)ほか。
(池田康)
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2019年02月18日

信じたくない現実

「現実」には三種類ある。おおむね信憑性のある現実と、ちょっと信じ難い現実と、絶対に信じたくない現実と。この現実世界はおおむね信憑性のある現実で80〜90%埋まっているから、悪い意味での信じ難い現実が数%まじっていてもなんとか正気を保っていられる。しかし万が一のケースとして絶対に信じたくない現実が起こってしまったときは、頭を掻きむしるような激しい苦悶を味わうことになる。理解不能な奇人や歪な思想を持った怪人が大統領や首相に就任することは多くの人々にとってまさしく信じたくない現実であろうし、2011年の東日本大震災のときのひどい原発事故もまさしく悪夢のようで、現実であると信じたくない虚構じみた現実だった。しかしあの事故の発生の可能性が想定外であったという言い訳は許せないという議論があるからには、想定されてしかるべき、起こっても不思議ではない現実だったとも言える。心理的にはあれ以上に絶対に信じたくない現実も起こり得るのだろう。雷神もうろたえる霹靂。
そうした現実から脱出する方向は、「忘れる」とか「諦める」でなければ、おそらく「未来」しかない。
未来をこれも三つに分けるとしたら、おおむね必然的に到来するであろう未来、成り行きや施しによっては生まれる可能性のある未来、そして成立する可能性のほとんどない未来、となるだろうか。三つめは僥倖の場合は奇跡とも言われるが、絶対に不可能というわけではない。
いずれにしても、絶対に信じたくない現実と対峙する心は、もっとも必死に、あり得る未来の道について考えるだろう。どう考えるにしても、ふつうに「明日」がある、また明日が来る、ということが前提になるのであり、それは「信じなければならない未来」となる。明日とは一杯の水のようなもので、なんでもない当たり前の存在だが、そのわずかな水が可能性の羊水なのだから……
(池田康)
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2019年02月07日

ツンドク考

我が家のツンドクの山から、一年ほどそこに埋まっていた多和田葉子『献灯使』(講談社文庫)を取り出して読んでいる。「みらいらん」3号で北爪満喜さんがこの作家について書いていたので興味をそそられて。この人の小説については多様な観点から論じられるべきことが沢山あるのだろうけれど、まず第一に印象づけられるのは、ただごとではない稀なタイプの諧謔の精神だ。シーンを少しグロテスクの方向へ膨張させるような重く苦い諧謔。笑えない笑い。その連打にぐらぐらっとなる。氏の世界観のリズム、基調となっているのか、このヘビー級のリズムが重量ある世界を運ぶ。
さて、ツンドクは悪癖だろうか。そうではない気もする。ツンドクの積極的意義を解き明かしたい。将来いつか読むだろう、読みたいものだ、読むことになってほしい、そう思って本を手に入れて身の回りのどこかに置いておく。そうした本たちは読んでおくれと背文字で囁き、我々をじんわりと脅迫する。自ら課す宿題。心を重くする。子供は宿題が嫌いだ。宿題なんかなにもない軽い心で遊びたい。心の軽さを第一とするならば、ツンドクはすべきではない。しかし心を重くすることも悪いことではないのだ。ツンドクされた本は、無意識とまではいかなくとも、意識の深部に沈みこみ、そこに重たい層を作る。そうして心のバランスと傾きの方向をいくらか変容させる。ツンドクによって心の低層の幾許かを自分なりに構築することができるのだ。かくてツンドクは生きる意味をも担うに至る−−とまで言えるかどうかわからないが、あれらの本を読んでやらねばという気持ちは明日を生きようとする意欲につながるだろう。もはや地球は隅々まで人間の知の地図帳に編入されており、未開のフロンティアなどないとよく言われるが、まだ読んでいない本は未知の国なのであり、その本と一対一で対峙する経験のうちでどんなとんでもないイメージや考えや感覚が生じるか誰にもわからない以上、大きな可能性を秘めた「未」であるわけで、ツンドクはその「未」を積極的に招来しようとする強い意志なのだ。一切本を積まない超絶読書力の人にとってはわけのわからない御託にすぎないだろうが、ツンドクを積みに積んで心をずんずんと重くするのも一つの道なのだ。
前にどこかで、絶望した人は考え深く精巧濃密な棚を作っている本屋(かつてあった丸善の松岡正剛コーナーのような)に行くといいと書いた記憶があるが、ツンドクは案外セルフオーダーメードの対絶望用の擬似書店空間なのではないだろうか。
(池田康)
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2019年02月02日

「虚の筏」22号

「虚の筏」22号が完成しました。
下記リンクよりご覧下さい。

今号の参加者は、久野雅幸、神泉薫、たなかあきみつ、酒見直子、小島きみ子、坂多瑩子のみなさんと、小生。そして野菜のみなさん。今回の誌面は人間も猪も馬も象も食欲を刺戟されるのではないでしょうか。
(池田康)
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2019年02月01日

『ホモ・デウス』のこと

『サピエンス全史』の著者による新しい本『ホモ・デウス』(河出書房新社)を読む。神をあがめた時代から近代以降の人間至上主義(文芸の分野ではロマン主義ともいう)に移り、そして21世紀に入ってこれからはデータ至上主義へと向かうという分析は鮮明で、その通りなのだろう。コンピュータはある規則に則った計算力やデータベース構築の威力は人間の能力を超えた優越性を示すし、AIの発達は我々の想像以上の速さで進みつつあるから、あらゆる分野にわたるデータismが今後ますます顕著になっていく道筋はハズレのない予想であろうし(しかしこの〈情報&演算〉の世界秩序がヒューマニズムに取って代わるとしたら恐るべきレジームの転換だ)、それと共にデータismに乗りにくい価値やクオリティは等閑視され衰弱を余儀なくされることにもなるのかもしれない。
とりわけ興味深く読んだ箇所の一つは、人間の意志なるものを考察するなかで右脳と左脳の働きを語った一節で、これらの働きの違いはよく聞かされる話だが、右脳には、言語を司り計算し物語る左脳とは違った独自の欲求や意志があるという話は初めて聞いたような気がする。数年前の拙作「気聞日記」では“気分”という心理的現象にスポットを当てたが、“気分”の相当部分は右脳の意志や欲求を反映しているのかもしれない。
右脳・左脳の話を初めて詳細に知らされたのはたしかコリン・ウィルソンのなにかの本だったかと思う。Y・N・ハラリが“ホモ・デウス”を予言するように、C・ウィルソンも未来における人間の脳の発達とそれによって開ける全く新しい精神世界を夢想していたように覚えているが、ハラリと違ってとてもオプティミスティックな色合いだった。“ホモ・デウス”はディストピア的な意味合いや色彩、マッド・サイエンティストのマッドさがかなり濃そうな雰囲気がある。世界の文明史を語るにしても、論者によってあるいは時代によって微妙にトーンが変わるのは興味深いことだ。
あえて対抗してなにかイズムを唱えるとしたら、なんだろうか。冗談半分で言ってもいいなら、「絵師イズム」というのはどうだろうか。たくさんではないけれどマンガを読んだりもする、なにを読むかというときに、商業的に要求される水準以上に過剰に絵を追求する大馬鹿画狂の作家を好んで読むという傾向がある。創作における無駄な狂気。Aesthetic CrazeのA.C.ism。あるいはCreative Craze CaravanをつくってTカードempireと覇を競おうか。このCrazeは一種極上の幸福を約束するとかなんとか謳い文句をでっちあげて。少数者の趣味的な悪あがき、メジャーにはなりにくそうだ。
(池田康)
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2019年01月30日

新聞記事のお知らせ二つ

一昨日の公明新聞の野村喜和夫さんの詩集評で弊社刊のシュペルヴィエル『悲劇的肉体』(嶋岡晨訳)を取り上げていただいた。そのサワリの一節「彼(=シュペルヴィエル)は心臓に持病を持っていて、つまり人よりもいっそう心臓−−このままならぬ生の中心−−を意識して生きてきた。「悲劇的」にはそういう意味合いがあるわけだが、もちろん詩人の想像力は、生と死の共棲をめぐって普遍的なポエジーの高みにまで達している」。ぜひご覧ください。
また25日金曜日の大糸タイムスに塚田恵美子歌集『ガーコママの歌』の紹介記事が出た。「アイガモ育てや日常短歌に」というタイトルで、塚田さんが歌集を手に持って微笑んでいる写真も載っている。こちらもご覧になることが可能でしたら、是非。
(池田康)
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