2017年12月30日

虚の筏20号

虚の筏20号が完成しましたので下記リンクからご覧下さい:
http://www.kozui.net/soranoikada20.pdf
今回の参加者は、坂多瑩子、二条千河、たなかあきみつ、平井達也、酒見直子の皆さんと小生。
中央付近に切手の画像があるが、これはフランスの切手で、S先生から頂戴したもの。絵柄はドラクロワの代表作「民衆を導く自由の女神」の女神の頭部。左下にものすごく小さい字で「ドラクロワ」の名前が書いてある。右下には「ガンドン」とあり、この人(Pierre Gandon)はドラクロワの絵を版画に写した人のよう。ぜひPDFを表示させて切手の部分を200%か300%に拡大してみて下さい。
なお、新雑誌「みらいらん」創刊号はすでにできあがっています。紹介は新年になってからする予定です。お待ち下さい。
(池田康)
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2017年12月29日

音楽の演算ポップス編

前項で篠田昌伸作曲「この世の果ての代数学」(詩・野村喜和夫)のことを書いたが、音楽と算術といえば、イギリスの若手の大人気ポップスター、エド・シーラン(Ed Sheeran)だ。これまで3枚出しているアルバムのタイトルがそれぞれ『+(プラス)』、『×(マルティプライ)』、『÷(ディバイド)』となっている。どういう意図でこう命名したのかよくわからないが(タイトル曲があってその歌詞が種明かしになっているわけではない)、おそらく音楽家として一段階ずつステップアップし新たな世界を拓いていきたいという願いが込められているのだろう。このシンガーを聴いた第一印象としては、親しい友人がプライベートな空間でうたって聴かせてくれているような親近感、ソフトな軽やかさ、陽気と淋しさの混在、言葉を操るときの才気あふれる歯切れよさ、といったことが言えそうだ。
第一アルバム『+』冒頭の「The A Team」は出世作ということだが、ヘロイン中毒の娼婦を歌ったという歌詞にどれだけ共感を覚えられるかおぼつかないけれど、最後の「It's too cold outside for angels to fly」というフレーズは、たしかに人間の社会は天使も凍えてしまうほどの寒冷な面があるかもしれないと考えさせられ、心に刻まれる。
ノーマルな歌い方で恋愛の甘さ苦さをうたった曲も多いが、ラップも多用しており、その場合はやけに細かい局面を語る言葉の厖大さが押し寄せてくる。ラップというとラッパーなる変わった種族のミュージシャンが演ずる奇態な音楽スタイルという受け取り方をしていたが、それを常に身の回りにあるものとして自然に聴いて育ってきた世代にとってはなんの抵抗もなく受容獲得できる技なのだろう、エド・シーランが操るラップは水のように自然で疾走感がある。かつて異端と見られたロック音楽がだんだん浸透し、たとえば歌謡界の真中にいるはずの山口百恵でさえロックチューンをうたったように、ラップもいつの間にか自然に大衆音楽のメインストリームに入ってきたのだろうか。
3枚のアルバムの中でもっとも手応えを感じるのはやはり最新の『÷』で、力強さが増しているように思われる。ヒットしたという「Shape of You」はこの歌詞が英米人にどう受け取られるのか今ひとつわからない点もあるがたしかに音楽は個性的なチャームがある。わが愚耳の快感ポイントをもっとも刺戟するのは「Barcelona」で、英国人がよくこのような南国的情熱を帯びた音楽を作れるものよと驚く。この曲に続く「Bibia Be Ye Ye」、「Nancy Mulligan」も、world musicにあるようなアフリカ風味、あるいはアイリッシュ音楽やロマ音楽の香りも感じられ、楽しく聴ける。この3曲の並びはうれしい。『×』では「Sing」の曲調の面白さ、そして「I See Fire」の黙示録的詞世界が注目される。
4枚目以降のアルバムはどんなタイトルになるのだろうか。電卓のキーで考えるなら「−」や「=」が残っているが、ルート計算も音楽のルーツを辿る試みにふさわしいかもしれない。「M」のキーは使ったことがなくて、どうやって使うのかわかならいのだが、「メモリーキー」はどうしても思い出せないことを呼び出すには格好かもしれない。日本語では「鼠算」とか「鶴亀算」とかもあるよと教えてあげてほしく、いつか彼のアルバムのタイトルが「Tsuru-Kame」になる日を楽しみにしたい。
(池田康)
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2017年12月25日

狙う姿に耳を澄ます

昨夜、虎ノ門のJTアートホールアフィニスにて女声合唱団暁の第10回演奏会を聴いた。篠田昌伸作曲「この世の果ての代数学」(詩・野村喜和夫)初演を聴くため。女声合唱団用の詩をいろいろ探した結果これに辿り着いたと篠田氏が語るこの作品のテキストは女性的要素を足し算とか掛け算とか割り算とかいろんな演算にかけながら奇妙な宇宙論を語る異様なもので、これを選ぶ時点でこの作曲家の思考法の特異さが表れている。prelude/arabesque/canon/song/arabesque2/rhapsody/epilogueの7曲からなる組曲で、可笑しさとおっかなさ、ユーモアと宗教的畏怖の感覚が入り交じった、独特のクール&クレージーさを帯びた音楽。作曲家がなにか新奇な形を狙っている姿を強くかじることができ、打たれた。野村さんと篠田さんの対談(+ゲストに四元康祐さん)が近くできあがる新雑誌「みらいらん」に載りますのでご期待下さい。
プログラムの他の曲は、新美桂子「何んでも無い」(委嘱新作・初演。テキスト=夢野久作「少女地獄」。前半のおしゃべりの雰囲気をもった部分と、後半の聖歌のような部分とをつなげた奇抜な構成)、近藤譲「女声合唱のための歌二篇」(2013。テキスト=蒲原有明「偶感」「朱のまだら」。頭のほうの音程の運び方が衝撃的に新鮮)、横島浩「目覚めU」(委嘱新作・初演。テキスト=太宰治「女生徒」。和音の抽象画を観るよう)、山本裕之「失われたテキストを求めてW」(委嘱新作・初演。テキストは奏者が選んではめ込んだ2種類のものとのこと。ズレと入れ子細工が作り出す突拍子もなさの音楽)。
暁はやっかいな曲ばかりをやるツワモノ合唱団だ。いつも今回のようにピアノ伴奏なしでアカペラでうたうのだろうか。指揮者は西川竜太、泰然とした姿勢を崩さないこの人も風変わりに頼もしい難曲マニアだ。
(池田康)
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2017年12月22日

オリエント急行の探偵

探偵が活躍する舞台も浅草の巷なら安上がりだが、イスタンブールからパリに向かうオリエント急行の中となると贅沢きわまりない。アガサ・クリスティの著名な作品のこと。ミステリーに鉄道はよく使われるが、事件のメインステージにするのは思い切った発明だ。今公開中の映画「オリエント急行殺人事件」(ケネス・ブラナー監督)は、作るのに製作費がいくらかかるのだろうとため息が出るくらい大掛かりに作り込んでいて、単にバーチャルな鉄道ツアーとしても夢見心地の時間で、風景が広がるところを汽車が走る場面など、フィルムメーキングの手品的技術を活用しているようだが、素直に爽快。
この蒸気機関車はどういうものなのだろう。デフレクター(除煙板)の形が特徴的で、前照灯が三つもある。映画のパンフレットに書いてないので映画の公式サイトを見たら「スイスに現存する唯一の484列車」をモデルにしたとあった。484とはなに? 日本語でネット検索をかけてもよくわからないので英語でsteam locomotive 484で調べると、アメリカを始めとしてすべての大陸(南極を除く)の様々な地域の機関車があがってくる。そうか、これは車輪の数のことだと見当がつく。機関車前方を支える先輪が4(つまり2軸)、蒸気機関の力を伝える動輪が8(つまり4軸)、後方を支える従輪が4(つまり2軸)。日本式に言えば2D2の型だ。これは相当巨大で、日本にはこんな大きな機関車はないのではないか。C62でも2C2(464)だ。別のキーワードで検索したら、この映画で使われているのはスイスの241-A-65という型のSLという情報を見つけた。この「241」は車軸数を表すのだろう。先輪2軸、動輪4軸は合っているが、従輪1軸はくいちがう。このスイスSLをモデルにしたのならおそらく484という記述のほうが間違っているのだろうが、もう一度映画を見て確認したいところ。
1974年版「オリエント急行殺人事件」(シドニー・ルメット監督)は、フランスの230G-353という蒸気機関車を使っている(これもランプ三つ。ヨーロッパの標準型なのだろうか。日本のSLは一つ目が多い)。この「230」も車軸数を表していて、先輪2軸、動輪3軸、従輪なしの型だ。241より一回り小さいということだろう。
機関車も本作の重要な「登場人物」なのだから、プログラムには簡単にでも書いておいてほしいもの。そうすれば鉄道ファンも大いに喜ぶだろう。鉄道ファンを自称するほどのマニアではない私ごときもどの国のどういう型のSLかぐらいは知りたいと思うのだから。
話の中身のことも書いておかないと。ここでのエルキュール・ポアロは探偵業の基軸が揺らぐ重大な時空を経験する。「善と悪の天秤」が見失われそうになる特殊なケースとの遭遇であり、しかも世界から隔絶した、雪に埋もれ立ち往生した汽車の中で、犯人との距離が文字通りゼロとなり、真実に近づくほどに命の危機のレッドゾーンに入っていかねばならなくなる。ミステリーの枠自体が揺れ動くこの例外的状況が本作品の訴求力の核心となるのだろう。
多彩な国の人が集り、人種差別の話題も頻繁に出て、国際性も重要なモチーフになっている。今話題のエルサレムから始まり、英国人将校が指弾され、アメリカ人の悪漢が因果応報を受けるのは、アングロサクソンの自己批判の意識も若干はあると読んでいいのだろうか。
一つ無い物ねだりを言えば、もう30分長いとよかったかなということ。通常は短いのが有難い、2時間を超えると耐えるのが困難に感じるが、今回はなぜかもう少し長く汽車に乗っていたい気がした。主要登場人物が十人を超えるので一人一人の言動・表情を眺める時間がもっとふんだんにあるといいということだろうか。1974年版も2時間を少し超えるくらいなのだが。
鉄道ファンは必見。ミステリーファンも必見(この独参湯的作品の優れた「独創的解釈の映画=劇=上演」を見ておかねば)。1930年代の西洋社会に興味ある人も、ケネス・ブラナーのファンも。
(池田康)
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2017年12月20日

浅草の探偵

近ごろ、2014年のテレビドラマ「リバースエッジ大川端探偵社」を見ていた(DVDを借りて)。主演は村木探偵役のオダギリジョーだろうが、同じくらいの重要さで石橋蓮司演ずる所長が活躍する。昭和の小劇場黄金期の歴史にも名前が刻まれる、伝説中の人というイメージの強いこの俳優をたっぷり見られる作品。脇役では数多くの映画やドラマに出ているのだろうが、ここまで主役級の出演は貴重だろう。出自を知っていると魂の魔界を背負っているかのようにも錯覚される。腰の座った江戸っ子弁も愉しい。かわいそうな男たちの案件が多いのは監督(大根仁)の志向か、それとも世の中はそうしたものなのか。殺伐とした事件が描かれがちな探偵物や刑事物には派手なアクションシーンがつきものだが、浅草界隈の探偵は肉体的にはいたって非力らしく、そこもずっこけていて、面白くじんわりとくる。
(池田康)
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2017年12月11日

河原修吾詩集『のれん』

kawaharanoren.jpg河原修吾さんの詩集『のれん』が洪水企画から出た。A5判80頁、本体1800円+税。強烈なカバーの絵はお孫さんが描いたもの。
まず、丸ゴシックで本文を組みたいという打合せ時の希望に面食らったのに始まり、こちらの既成概念を外れるところが相当にあって刺戟的だった。「一筋縄ではいかない」という表現があるが、河原さんの詩はまさにそういう面が多く、しらばくれるというか、この詩は本当のところ何が言いたいのだろうかとテキストと睨み合うことが度々だ。たとえば「洪水」という短い詩は

 花にホースで水をやる
 鉢の近くにあった蟻の穴にも
 水をやった
 あわてて逃げまどう蟻で
 穴はパニックだ
 溺れる蟻 流されてゆく蟻
 草でもなんでも掴もうともがいている

の7行だが、この詩をもって詩人が何を語ろうとしているかを把捉するのは簡単ではない。エロスの企みがひそんでいる作品も幾篇か。帯文で村野保男氏はこう語る。「河原さんは天然のオプティミストである。「のれん」を読めばそれがわかる。また普段着のユーモリストであって「となりの奥さん」や「クリップ」などを読めばそれもわかる。「ランチ」や「蜥蜴」では氏が小声のレアリストであることがわかるし、「洪水」はタフなユマニストが日常のごく身近にいることを何気なく教えてくれる。」多面性をもった詩作をしているのはたしかだろう。しかし「あとがきに代えて」というサブタイトルのついた「楽曲」は素直に読め感銘を受ける作品だ。

 タクトが振られた
 ゆっくりと地平線を引いて
 天と地を分けた
 天に音が立ち上がる
 地に語頭が流れ出る
  (中略)
 ぶつかりながら
 傷つきながら押し合いながら
 黎明を背負って
 泳ぐように競うように
 世界が沈み世界が生まれる
 ぼくはぼくの心音より
 一オクターブ高い神話に向かって
 突き進む

(池田康)
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2017年12月09日

天翔る楽器たち

昨夜、東京文化会館小ホールで「四人組とその仲間たち室内楽コンサート 調和の原点U ─単色と双色の狭間で─」を聴いた。全曲世界初演。プログラム順に記録を留めると、
1.池辺晋一郎「バイヴァランス XIII 2本のフルートのために」(fl)小泉浩&織田なおみ。オーケストラの中に入ったり室内楽で他の楽器と一緒のときのフルートはどこか窮屈そうだが、今作では足枷から逃れてのびのびと奔放に天翔っていた。妖しさも豊富。
2.金子仁美「歌をうたい…(II)リコーダーのための」(rec)鈴木俊哉。この作曲家は求道者でいつもとてもきびしい。ハードボイルド、ハードロックの「ハード」。鋭い音の棘をたくさん身につけた小動物のイメージ。しかし解説には聖書の詩篇をベースにしたと書かれており、恐縮。
3.酒井健治「エーテル幻想 ギターソロのための」(gtr)鈴木大介。狙いを今ひとつ掴みきれないところがあったが(演奏のオーラの喚起を求めて、と解説にはある)ギターの響きには酔った。とくに低音弦を鳴らすときや全弦をかきならすときなど、魅力的。ここまでが前半。
4.西村朗「無伴奏ヴィオラ・ソナタ第3番〈キメラ〉」(va)伊藤美香。苦虫を噛みつぶした表情から朗々と高唱するところまで、この楽器の可能性の最大限が示される。とくに重音を奏するときの迫力は空間がねじ曲げられるよう。ヴァイオリンのヒステリックな感じはないが、無意識の鬱の気配を秘めた楽器。
5.新実徳英「ピアノのためのエチュード ─神々への問い─ 第3巻 A.E.69」(pf)若林顕。このピアニストの打鍵の強さが、これがピアノだろうかと驚くような輝かしさを生み出す。“スーパーピアノ”がステージ上に出現した。新実さんの近年の作品は古典的論理性を感じさせるものも多い記憶があったが、この作品はパッショネートな音のうねりや爆発の面がより強く出ているように思われた。若林氏の演奏の絢爛さ豊麗さに客席は問答無用に圧倒された観があった。個人的には「エチュード」という曲名でイメージされるストイックさとちょっとずれるような気もしたのだが...新実さんによれば、音楽の歴史においてピアノ曲のエチュードという種目は決してストイックなものではないとのこと。創造の新しい形を目指す“挑戦”の意味でのエチュードなのだろう。
(池田康)
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2017年11月24日

2017年11月22日

清原啓子展など

ここ数日の催しや出来事の見聞録。
作曲家の新実徳英さんの古稀の祝賀会が早稲田のトーキョーコンサーツラボで開かれ、参加。大盛会。『合唱っていいな!』(燈台ライブラリ2)の制作にご協力いただいたすべての方(和合亮一さんを除いて)に会うことができたのはよかった。諸々の合唱団の団員たちの歌声を間近で聴く、指揮者に近い位置に立ち歌声の海に身を浸す至福。合唱指揮者は(団員が優秀なときは、という留保つきで)この世で最も祝福された職業かもしれない。
某所で行われた某句会に参加。わがヘボ句でかろうじて点が入ったのは「信州の手紙と思え林檎ジャム」と「満天の星の生る樹を見つけたり」。前者はKさんから林檎ジャムを送ってもらったことが種になっている。Kさん、毎朝トーストにつけて食べています、very goodです、ありがとう。後者の「満天の星」については、このブログの10月27日の項を参照下さい。
八王子市夢美術館で開催中の「清原啓子展」を観る。この二十年ほどわが草臥れた心魂にしぶとく憑いている版画家(1955-87)。はじめてこの人を知ったのは、久生十蘭の本のカバー絵だったか。展覧会のチラシには「短い生涯の中で残した作品は僅か30点」「精緻で神秘的、耽美的な銅版画」とある。その全貌が余すところなくこの展覧会で観られる。この種の幻想的版画としては圧倒的(“圧倒的”という強調の語をなんのためらいもなく使える)。エッチングの最終的作品はもちろん、その下絵となった鉛筆画もみごとで、並べて展示されているから興味深く見比べることができる。几帳面な字で書かれた制作ノートもガラスケースの中に見ることができ、この美術家の日々の創造作業の一歩一歩がうかがえ、熱く感じるものがある。ファンにとっては感無量の展覧会。出版物としては阿部出版から『清原啓子作品集』増補新版が出ている。
版画と言えば、神奈川県立近代美術館で先頃行われたマックス・クリンガー展も観た。1857年ライプチッヒ生まれ、1920年没。やはり物語的なものを含み持つ幻想性に強く惹かれた。展覧会のサブタイトルも「19世紀末の幻想世界」となっていて、夢の深さに酔わせるものがある。
(池田康)
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2017年11月19日

「リュミエール!」

「リュミエール!」はフランスのルイ&オーギュスト・リュミエール兄弟が19世紀から20世紀への端境期に自ら発明した〈シネマトグラフ〉で撮った1422本もの掌編映像作品から108本を選んで編集し90分にまとめたもの。当時は1本50秒しか撮れなかったので、短歌のような一口サイズの作品で、その限界が生み出す独特の味がある。消防馬車、蒸気機関車、子供曲芸団、水泳や登山、鉄球遊び、油田火災、カメラを動かしてのパノラマ撮影、大きな船の進水式、洗濯女、自転車、子供の表情、コメディ寸劇など題材は多岐にわたり、当時のフランスの生活風景がよくわかる。エジプト、メキシコ、ベトナム、中国や日本など世界各地に赴いての撮影も好奇心が動いていて面白い。ナレーションが構図の良さを力説していたがなるほどたしかにと納得する、絵心とエンタテイナー気質を具えた撮影者たちだ。ファインダーもなかったとのことで、それでこんなに上手に撮れるのかと驚く。サン=サーンスの音楽も柔らかくしなやかで、合理主義を眠りに誘うような曲線の蠱惑があり心地よい。映画の元祖の称号をめぐるエジソンとの確執もあったようだが(それをテーマにして笑いのめした一編もあった)、映画史の原点を確かめる驚異(百二十年前に初めて映画を目にした人々のそれに通じる)と意義深さはしかと感じられた。監督と編集はティエリー・フレモー(カンヌ国際映画祭のエラい人らしい)。
この映画は先日横浜のシネマ・ジャック&ベティで見たのだが、そこでそう言えばと思い出し、この映画館発行の映画雑誌『ジャックと豆の木』2号を購入した。前に作曲家の佐藤聰明さんがこの雑誌のインタビューを受けたと話しておられたその記事がこの号に載っていたので。映画作品のきらびやかな面よりも、映画館事情など、産業を成立させている日陰の部分にも目を向けているのが特色か、「映画と映画館の本」という副題もついている。現在4号まで出ているらしいが、この2号には佐藤さんのインタビューの他に、ATG映画特集(佐藤忠男×篠田正浩の対談ほか。さほど遠くない過去に制作費一千万円で歴史に残る名作映画を作っていた時代があったのだ!?)とか、杉野希妃インタビューとか、ドキュメンタリー映画についての座談会とか、横浜のミニシアターの紹介などなどの記事が載っている。カラーページもふんだんにある立派な作りで、多数掲載されている映画のポスター、ちらし、パンフレットの魅力が目を引く。
(池田康)
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