2020年06月24日

山本萠詩集『猫たちは 風に吹かれ』

前項から猫つながりで、山本萠詩集『猫たちは 風に吹かれ』(書肆夢ゝ)を紹介する。猫たちとともに過ごす日々をつづった詩を集めた詩集。冒頭に置かれた「猫のうたたね」を引用する。

 人が座ると ギィと悲鳴を上げる
 古ぼけた椅子に
 軽業のごとく 飛び乗って

 老猫が 惰眠をむさぼる
 前肢をていねいに揃え
 尖った顎を その上にそっと
 のせる
 それから
 大事なことを忘れていた!
 というふうに 突如起き上がり
 ぶるん と身震いをひとつ

 (瞬間 この世のチリアクタは霧散し)

 そうして
 再び 穏やかにおだやかに
 細い顎を そおっと
 地球の上 にのせる
 その〈平和〉
 の上に

内容的にはなんてことない一篇だが、抑えられた手数のデッサンが冴えていて、ちょっといい音楽を聴いた気持ちになる。このような淡々とした作品から、思念の濃密なものまで色合いの多様な詩が集まっているが、もっとも濃く悲哀のこもった作品は猫の死を悼んだ「宇宙の野へ」「これ以上なく透き通り」だろうか。「アフガン・グラス」は「みらいらん」2号の表紙に載った散文詩をタイトルを付けて行分けにしたもの。なつかしい。詩集最後に置かれた「ひとつの丸い塊になって」も引用したいところだが、長くなるのでやめておくが、作者の命と猫の命とがひとつになる感覚がよく表現されていて、この詩人の死生観を一幅の絵にしたようで、もしこの詩集を手に取ることができたら是非お読みいただきたい。
(池田康)
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2020年06月21日

禁断のネットフリックス

昨年来、志田未来作品を追跡している者としては、新しい主演作は見逃せない。劇場公開が中止になりネットフリックスで先日公開されたアニメーション映画『泣きたい私は猫をかぶる』(監督=佐藤順一・柴山智隆)を見た。少女が魔法の仮面をかぶって猫になるという設定のファンタジー。志田熱演、変転し変幻する声の技で“リードボーカル”として躍動していた。主人公ムゲとその友だち頼子との琴瑟とも称したくなるマブダチぶりはじーんとくる。物語は、主人公の家の猫(義母が連れてきた)が本格的に筋にかかわってくるあたりからぐっと面白くなる。祭りの夜の猫世界はすばらしく凝っていて悪夢風にマジカル。最後は厭世的な幻想文学ならばムゲも日之出(ムゲの恋の相手)も猫になってしまって終わるというエンディングも展開の選択肢としてあり得るのだろうが、健全な商業作品としてはそんなあらぬ方向のお話は子供に向かって差し出しにくいだろう。舞台となっているのは常滑。小生の郷里の近くで少し懐かしさを覚える。しかし行ったことはなかったはず(瀬戸なら行ったことあるのだが…)。常滑焼きの里はこんなふうに窯の煙突が林立しているのかと実際の町を見てみたくなった。
ネットフリックスという「禁断の苑」はそこに所蔵されるタイトルなら簡単に視聴できる竜宮城のような場所で、うかうか過ごしているとあっという間に時間が経過して外の世界に戻ったら百年経っていたなんてことにもなりそうだ。思案するに、劇場にわざわざ足を運ぶとか、テレビでやっと放映されたのを逃さずに見るとか、レンタル店で探して借り出すとか、視聴するのに若干の手間や負荷がかかるほうが現実感を伴った苦労が下敷きになっていてよいと思うのだが、今はこういう無重力の恐ろしくストレスフリーな鑑賞サービスの場が主流になりつつあるのだろう。映画やテレビドラマのほか、音楽作品もあり、宇多田ヒカルの2018年のコンサートも視聴できるのはラッキーな気がした(アルバム『Fantome』の曲がいろいろうたわれるほか、又吉直樹との恐怖コント対談も挿入されている)。アメリカのミュージシャンのコンサートやドキュメンタリーはたくさんあるようだ。
(池田康)
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2020年06月18日

みらいらん6号編集完了

「みらいらん」6号の編集が完了し、印刷所に入れた。今号の特集は「吉岡実」。4号の田村隆一特集同様、城戸朱理さんの導きによる企画だ。朝吹亮二・城戸朱理両氏の「対話」のほか、8本の批評エッセイ、20名の方々にご回答いただいたアンケートなど。
野村喜和夫さんの対談シリーズについては、6月8日の項に記した通り。
また今号の巻頭には谷川俊太郎さんに詩作品を御寄稿いただいており、そちらも楽しみにしていただきたい。来月上旬完成予定。
(池田康)
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2020年06月08日

霧にとざされた日々を抜けて

「みらいらん」次号の「対話の宴/詩歌道行」のための対談を先日世田谷の詩とダンスのミュージアムで行った。野村喜和夫さんがホストとなるこの連載企画の今回のお相手は、小誌に連載で批評文を寄せて下さっている歌人の江田浩司さん。詩と短歌のかかわりについて、吉岡実や岡井隆について、江田さん自身の近年の詩歌の仕事について、そして現在のコロナウイルスパンデミックの状況について、細やかに語り合っていただいた。感染の危険性を考慮してこのたびは無観客で実施した(これは少々残念)。5月中旬に一度日程が決まっていたのだが、緊急事態宣言が出たので、それを白紙に戻し、状況が落ちついてから再設定して、ようやく実現にこぎつけることができた次第で、ほっとした。次号をご期待いただきたい。
野村さんは今、白水社のウェブマガジン「ふらんす」で詩の連載をしている。コロナ危機の不安にみちた日々の想念を主に綴る形で、なんと週に一回の更新とのこと。詩・野村喜和夫×音楽・小島ケイタニーラブ×写真・朝岡英輔「花冠日乗」、というコラボ作品になっている。

 さかのぼるが
 3月6日
 愛犬ガブリエル旅立つ

 だがいまも霊獣ルーアッハとなって
 深夜、私を護るように
 家のまわりをまわっている、みえないが
 遊星のように、錆びた自転車
 薔薇のための土
 らとともに

 3月31日
 告別の儀式も許されないまま
 世界中で
 柩が発ちつづけている

という哀切で戦慄すべきフレーズも出てくる。URLは次のリンクから。
雑誌ふらんす:
https://webfrance.hakusuisha.co.jp/
詩のページ:
https://webfrance.hakusuisha.co.jp/posts/3516
(池田康)
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2020年06月02日

マリス・ヤンソンス その2

マリス・ヤンソンスはライブ演奏でのエネルギーの凝縮爆発を重視していたようで、コンサートライブをそのまま収めたCDをたくさん残している。これらのライブ録音は表面で運動する音の奥にあやしい神秘の闇がうずくまっていて、艶かしい空気を作り、去来するすべての瞬間に魔法をかけ、輝かせるのであり、歪みまで魅力と化すその本物感がたまらない。とにかく生彩があり、単純な旋律やパッセージを管弦が朗々と奏しているだけでも、茫然、陶然としてしまう。一曲毎に拍手で区切られるから気づかないうちに次の曲に移っていたということがないというメリットもあるがこれは蛇足だろうか。晩年の本拠地となっていたバイエルン放送交響楽団とロイヤル・コンセルトヘボウのそれぞれのライブ録音を集めたボックスセットが一枚当たりにすると数百円という廉価で販売されている。そういうものを入手して聴くと、ブラームスからマーラー、ストラヴィンスキー、シェーンベルク等々、19世紀後半から20世紀前半にかけての音楽がレパートリーの中心になっていることがわかる。しかし戦後の作曲家の曲も積極的に手掛けていて、たとえばルチアーノ・ベリオの「4 Dedicaces」はまさしく現代音楽ぽい曲だが、脈絡がよくつかめなくても音が生々しく輝くからそれを眺めているだけで新鮮な時間になる。ソフィア・グバイドゥーリナの「Feast during a Plague(ペスト時の酒宴)」という変な曲も入っていた。曲の後半はとくに不気味に変。印象的な打楽器の四つ打ちのリズムモチーフは三つめにアクセントがあり、ロックのリズムを想起させる。調べると、この曲の日本初演が今年の2月に行われていた(下野竜也指揮、読売日本交響楽団)。偶然の成り行きからそうなったのだろうと思うが、このウイルスパンデミックの時期にどんぴしゃの出現だったと言えそうだ。以上はロイヤル・コンセルトヘボウのCD収録曲だが、もう一つ書き置くなら、マーラーの交響曲7番はこれまで楽しく聴けたためしがなかったが、今回は楽しく面白く聴くことができてありがたいことだった。
バイエルン放送交響楽団との演奏でのベートーヴェン交響曲全集(2013年)は2012年に来日してサントリーホールで行ったベートーヴェンチクルスをベースに、ミュンヘンでのコンサートを織り交ぜて構成したもので、シチェドリン、望月京など現代音楽6曲(ベートーヴェンをテーマに作られたもの:Reflection)も一緒に収録されていて、現実のコンサートに近づけるという意図なのか、風変わりな「全集」だ。中ではカンチェリの「Dixi」が〈荒野の電気〉を感じさせて印象的だった。またこれはベートーヴェンの交響曲セットの収録曲ではなく別のセットの収録になるが、シチェドリンのピアノ協奏曲5番(ピアノ:デニス・マツーエフ)は異彩を呈してとても面白く聴ける。
さて、この指揮者については、重大な見落としに気づいた。以前、ショスタコーヴィチの交響曲をまとめて聴いたときに、お世話になったボックスセットの全集が、マリス・ヤンソンス指揮のものだった。ただしライブではない(小生としては残念)。オーケストラはバイエルン放響、ベルリンフィル、ロンドンフィル、オスロフィルなどさまざまで、全集としてはややとりとめないか。付録の小冊子には短いインタビューもあり、子どもの頃、指揮者だった父親(Arvid)とムラヴィンスキーがショスタコーヴィチの音楽について議論するのをはたで聞いていたのだそうだ。英才教育そのもの。この交響曲全集の恩恵を受けていたからには、5月6日の項とこの項はやはり追悼文ということになるだろうか。
(池田康)
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2020年05月26日

食べ物の話、SFから地産まで

緊急事態宣言が解かれて、一息つくような気持ちのゆるみ加減がなにやら心地良い。
一番緊張感が高まっていたころ、心配して下さったある方から食料の支援をいただいた。届いた箱にはレトルトカレーから生の野菜までいろいろ入っていたが、その中にインスタントの味噌汁もあり、個包装をあけるとおもちゃの煉瓦のような茶色の固形物が入っており、これをお椀に入れ、湯を注ぐとたちまち広がって溶けて味噌汁になる。卵スープなどではこういう形のドライ加工の即席食品を経験していたが、近頃は味噌汁もこれになったんだと一通り感心したあと、「しじみ味噌汁」というのを試してみてびっくり。本物の貝殻に入ったシジミが十個ほども出現した。あらあら、あの固形物のなかにこいつらが入っていたのかと、おったまげる。とうとう味噌汁までSF化する時代なのだ。
食べ物と言えば、最近感心したものに茨城産の野菜がある。某日、ほうれん草を買って食べてみたら味がしっかりしていて非常においしいので、どこの産かと見直すと、茨城産とあった。ピーマンについては、近年この野菜は彩りのほかに食材としてどんな存在意義があるのだろうと疑わしく思っていたが、茨城産のピーマンを食べてみると、非常に味が濃くて、むかし子どもの頃感じたような「ピーマンの味」がして、嬉しいことだった。土とか風土とか栽培法とか、なにか違いがあるのか。果物や米と違って、野菜はブランドものが少ないように思うが、「茨城野菜」は私のなかでは一つのブランドとなりつつある。
一方これはブランドにはなり得ないが、スーパーマーケットには近隣の農家が栽培する少々ぶかっこうな野菜を置いたコーナーがあり、トマトや胡瓜を買うときなどよく利用する。商品という感じがしない不揃いな形状と利幅とか考えてないようないかにも率直な安さに、細かいことは気にしない、近所付き合いのような親近感を覚えるのだ。
ベランダで冬から育てていた空豆が実をつけた。一株につき一粒という貧しさ。植木鉢では限界があるのか。病気になったものや小さいままのものもあり、まともに食べることができたのは、一粒だけ。残念というべきか、めでたいというべきか。
(池田康)
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2020年05月22日

『八重洋一郎を辿る』の書評3

「図書新聞」3449号(2020年5月30日号)に、鹿野政直著『八重洋一郎を辿る』の書評が出た。評者は葛綿正一氏。これだけ周到な紹介・批評はなかなかないのではないか。とくに終盤、「かくして、詩人論は思想史研究において危険な位置を占めるといえる。詩の言葉は「毒」となってしまう可能性が残るからである」以降の部分、「衝く」という言葉をめぐっての考察は深く鋭く、心に刻まれる。是非ご覧いただきたい。
なお、同号には詩歌関係では原成吉著『アメリカ現代詩入門』の書評もある。
(池田康)
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2020年05月06日

マリス・ヤンソンス

ここ三日ほど、寸暇を活用して、録ったまま未整理だったMDを調べ直して整理していた。現在の住所はラジオの電波がいまいちきれいに入らないのでやめてしまったが別の土地で暮らしていた頃はよくFM番組をエアチェックしていたのだ。作業をしながら、シューマンの交響曲を聴きたくなり、4曲をでたらめな順番で聴いていたのだが、最後に追加でかけた彼のピアノ協奏曲の次に、ベートーヴェンの交響曲第7番が録音されていて、ついでに聴いた(ライブだが演奏日不明)。力強い、非常に説得力のある演奏で、心動かされ、演奏者の名前を見たら、バイエルン放送交響楽団で指揮者はマリス・ヤンソンスとなっていた。この名前、最近ニュースで聞いたような気がして、ネットで検索したら、昨年11月死去と出ていた。一流の指揮者と目されていることは知っていたが、ひょっとしたら本当に素晴らしい才能なのかもと思い、この人の演奏を録ったMDがほかにあるか調べてみると、三つほど出てきたのでそれらも聴いてみた。
まず、シベリウスの交響曲1番とブラームスの交響曲1番、これはウィーン・フィルの演奏で、2005年3月6日にウィーンから国際生放送されたもの(NHKFM)。それからブラームスのヴァイオリン協奏曲(Vn:ジュリアン・ラクリン)と交響曲3番、R.シュトラウスの交響詩「ティル・オイゲンシュピーゲルの愉快ないたずら」。これはロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団の演奏で、2008年11月12日NHKホールにて(NHK音楽祭2008)。さらにマーラーの交響曲5番、これはバイエルン放送交響楽団の演奏(2006年3月10日、ミュンヘン)。
ライブ演奏だからより強く印象づけられるのかもしれない。ヤンソンスの指揮は、すべての音やフレーズを「科白」のように立て、楽想の流れの理を繊細に見きわめ活かしながら劇的に音楽の世界を作っていくところ、ちょっとオペラのような趣きがあり、それが魅力と説得力になってくるようだ。丁寧で、緻密で、聞き逃さず、弾き流さない。神経をともなった卓抜な展開力で、何度も聴いたはずの曲がとても面白く聴ける。楽譜の音を実際の歌声にするために、ヤンソンスは「必要な人」だった、と言えそうだ。
略歴を見ると、1943年ラトヴィア生まれ。この小国はバルト海に面したバルト三国の一つで、リトアニアとエストニアにはさまれ、ロシアにも隣接している。カラヤンとムラヴィンスキーに師事したとあるから本流の人のようだ。私の所有するCDでは、五嶋みどりのメンデルスゾーンとブルッフのヴァイオリン協奏曲の演奏でベルリン・フィルとともに共演している(ライブ録音)。ただしこれは、ヤンソンスが晩年率いることになる二つの名門オケ、バイエルン放送交響楽団とロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団の指揮者に就任する以前の録音。逆に貴重か。
生前この指揮者に特別の思い入れはなかったからこの一文は追悼文という種類のものではないが、今後はこの人の残した演奏は意識して聴くことになりそうだ。
(池田康)
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2020年04月29日

詩素8号

詩素8表紙.jpg緊急事態宣言下のゴールデンウィークはどんなものになるだろうか。部屋の中から窓ごしに外を眺める分には、春の日がみごとに輝いているが……
さて、「詩素」8号が完成した。今回の参加者は、小島きみ子、山本萠、大家正志、南原充士、坂多瑩子、沢聖子、吉田義昭、たなかあきみつ、山中真知子、二条千河、酒見直子、平野晴子、野田新五、菅井敏文、南川優子、八覚正大、八重洋一郎、高田真、海埜今日子、平井達也、大仗真昼のみなさんと小生。「まれびと」コーナーに詩作品を寄せて下さったのは、冨上芳秀さん(「樹木幻想」)と松尾真由美さん(「身近な危機とその渦中と」)。巻頭トップは山本萠さんの「夢の川へ」。88ページ、定価500円。まだ残部ありますので、ご希望の方はご注文ください。
(池田康)
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2020年04月23日

疫の奔流の行方2

今回のウイルスの嵐から、行政に携る人々や医療関係者は無数の貴重な教訓を引き出すのだろうが、誰でも思いつく最大の教訓はこれだろう:
「疫病の脅威は国や為政者のプライドよりも百倍も重大だ」
台風や地震と同じくウイルスも情け容赦がなく、やさしい斟酌や好意的な政治的取引などしてくれないのだ。さてこれを少し普遍的な方向にパラフレーズすれば、こんなふうになるだろうか:
「われわれの生命は国や為政者の利益よりも百倍も重要だ」
なんだか当り前の、きれいな教科書的オピニオンになったが、生命と言ってもいろいろあって広大だから、さらにこれを細かく敷衍して書くなら、こうだろうか:
「国民個々の心身の健康は国や為政者の思惑よりも百倍もリアルだ(このリアリティが侵害されるとき、前者は後者を疑う)」
肉体以上に、心、精神が、おかみの意向に沿ってプラスチックに成形される危険性は常にあり要注意だが、ぼんやりしていると気づかないままうかうか暮らしがちで、こういう稀な危機の季節にしっかりと気づいておけるならそれにこしたことはない。だからというわけではないが、最後の捨て台詞じみた変奏はこうだ:
「床屋談義は国や為政者の歴史よりも百倍も真実だ」
これまたありきたりな寸鉄かもしれない。やり直そう:
「巷の与太は国や為政者の嘘よりも百万倍も白だ」
これは少なくとも数学的正確さを誇れる。
(池田康)
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