この世で一番居心地のいい場所はどこだろうか?
自分の家、自分の部屋、という回答が多いと思われるが、それを省くとしたら、どうだろうか。
思いつくままに挙げてみよう。たとえば由緒ある温泉の露天風呂。あるいはハイキングで2時間歩いてちょっとした山頂に到達して岩に腰かけ水筒の水を飲んで景色を見渡すとき。あるいは気のおけない友達数人との会食(隣のテーブルの声がうるさくないことは絶対条件)。あるいは快適なライブハウス、アルコールを少し体に入れて音楽を聴くとき。あるいは昔の和風の家で大きな庭があって縁側に坐って日向ぼっこをしながら鳥の鳴き声を聴くとき……
いずれも悪くないが、正解は、空豆の莢の中、なのではないかと昨日今日空想している。
数日前、食料品店で特売の莢入り空豆一袋を買ってきて、茹でて食べているのだが、空豆の莢の中はとても上等な白い綿状のクッションが敷き詰められていて、心地良さそうなのだ。この中に入って、空豆の木の枝にぶらぶら揺れるのは、とても気持ちいいのではないだろうか。馬鹿なことを言うなと言う人は一度空豆の莢を裂いて中を見てみるといい。気持ちが落ち込んだときなど、自分は空豆の莢の中にいる、宙で風に揺れている、あったかくて雨にも濡れずとても静か、と空想したら、少し気が楽になりそうだ。
ちなみに、子どもの頃はおいしさがよくわからない、どちらかというと苦手、という食材がいくつもあるものだが、私にとって空豆はその一つだった。今はうまいうまいと食べている。
(池田康)
2022年05月20日
一番居心地のいい場所
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2022年05月16日
愛敬浩一著『草森紳一の問い』

2008年3月に70歳で亡くなった草森紳一は元来は中国文学者であるが、マンガや写真、デザインや広告の批評など、ジャンルにとらわれない〈雑文〉のスタイルを確立したとされる。その文業の全体像、そして根本にある「問い」をつかむべく、著者は散歩論、写真論、中国の詩人・李賀論を取り上げて、あるいは植草甚一との比較を試み、謎めいた草森紳一の核心を遠目に目指しながらゆっくり巡り歩く。
本書冒頭に置かれたプロローグに「私が追い求めたのは、ただ草森紳一の文章の可能性だけであり、むしろ、彼が書こうとしながら、ついに書かなかった何かであるような気もする。私はただ、草森紳一の問いの上に、私の問いを重ねただけに過ぎない。」とある。それは結局は、なぜ読むのか、なぜ書くのか、という単純な問いに還元されることなのかもしれない。しかしそこに留まるのではなく、著者と草森紳一はほぼ同時代を生きてきたわけで、その時代とはなんだったのか、精神的になにを課され、どうくぐり抜けてきたのか、という無限に複雑で解剖が面倒な諸相がまとわりついてくる。
通読してみると、散歩論での永井荷風、写真論でのウジェーヌ・アジェ、そして詩人李賀の像がとりわけ強く脳裏に焼きつくように感じる。草森紳一論を組み立てながらより豊かで多彩な文学文芸のうねりを誘い出し、読者はそれに巻き込まれるというわけで、これはありがたい読書体験だろう。
私は愛敬さんから一昨年刊行の『詩人だってテレビも見るし、映画へも行く。』をいただいて、ドラマ論・映画論を集めたこの書を拾い読みしているのだが、氏の眼差しは細やかで鋭く、独自色の強い論立てで書いていて、はっとさせられることも多く、気持よく読める。そんな愛敬氏のやわらかさと鋭さが今回の『草森紳一の問い』でも全編にわたり発揮されていて、それがこの評論の個性的な濃密さにつながっていると言えるだろう。
(池田康)
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2022年05月05日
柏餅と『西脇順三郎全詩引喩集成』


葉が大きな役割を果たす和菓子はほかに桜餅と草餅がある。桜餅は桜の葉の代わりにプラスチックで作った模造葉で餅が包まれてあるものも時々あるが、言語道断だろう。桜の葉を一緒に食べるあのしゃりっじょりっとした食感がよいのに。
昨日は伊勢原市立図書館に赴き、新倉俊一著『西脇順三郎全詩引喩集成』を閲覧した。この本を所蔵している図書館は少ないかもしれない。わりと近くの図書館で見ることができて幸運だった。西脇の詩に出てくるあやしげな有象無象について実に多くのことを教えられる。
さて、ここに掲げたチラシは、最近吉増剛造さんからいただいたもの。そういえば、先日対談の収録でお会いしたときには、新しい映画のことを語っておられた。八十代にしてこの八面六臂の活躍は驚きだ。
(池田康)
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2022年04月26日
世はつねに変貌する
昨日は国分寺のくるみギャラリーでの山本萠さんの個展を見にいったのだが、東京の街の変貌を経験する一日だった。往路、渋谷で途中下車すると、中央改札あたりの駅構内の様子がすっかり変わっていて、どこをどう歩いて地上に出たら目的地に好都合かさっぱりわからない。今はまだ改築の途中なのだろうか。迷路の街渋谷に迷路の駅、これはナゾナゾとしてはふさわしいのかもしれない。帰りは新宿に寄ったが、ここでは紀伊國屋書店が大掛かりに模様替えを果していて驚かされた(1Fはまだ工事中)。エスカレーターがある!……なんて今時びっくりするほどのことではないが、この店としては画期的だ。降りるときは階段を使うことになるけれど。店頭にはなばなしく並べられていた『左川ちか全集』(書肆侃侃房)などを購入。
(池田康)
(池田康)
posted by 洪水HQ at 11:10| 日記
2022年04月24日
西脇順三郎の特集をやります

私自身は西脇についてはこれまで代表作とされるものを読んだ程度だったが、特集を組むということで、この3〜4月に詩作品をあらかた通読してみた。ようやく西脇順三郎の初心者となったようなかんじで、バケモノのような大きさに言葉もなく圧倒されている。
以前から、昭和38年刊の『西脇順三郎全詩集』を所持していたが、この本には晩年の四詩集が入っておらず、その『禮記』(1967)『壤歌』(1969)『鹿門』(1970)『人類』(1979)は個別に古書店で手に入れて揃えた。すべて筑摩書房。『人類』に付録の栞がはさんであり、そこに吉岡実も文を寄せているのだが、「詩集《鹿門》が刊行されてから、約十年の歳月が流れている。今度もまた私が造本・装幀を任せられた」とある。すると『鹿門』と『人類』は吉岡実の装幀なのだ。『禮記』『壤歌』はどうなのかわからないが、筑摩書房の本ではあるし、吉岡実装幀の可能性はあるだろう。
茫洋とした桁外れの詩人・西脇順三郎に今回の特集でどれだけ迫れるか、期待していただきたい。
ここに載せたチラシは吉増さんからいただいた、来月から開催のもの。
(池田康)
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2022年04月22日
詩素12号


ゲスト〈まれびと〉は、伊武トーマさんをお招きした。
巻頭は、高田真「交差点で」、山本萠「草の日々であるそのひと」、吉田義昭「風景病」、大橋英人「(りんごとロープのラプソディ 2編)」。
表紙の詩句は、T・S・エリオットの“The Song of the Jellicles”の第3連。裏表紙のほうもご覧いただきたい。野田新五さんが描いた絵で、マスクになにか文字が書いてあるが、「ウクライナに平和を」という意味だとのこと。
ぜひご覧下さい。
(池田康)
posted by 洪水HQ at 09:07| 日記
2022年04月10日
春の(ばかされた?)一夜
昨日は東京グランドホテルで日本詩人クラブ賞ほかの授賞式があり、二条千河詩集『亡骸のクロニクル』(洪水企画)が新人賞を受賞した関係で出席、二条さんの紹介スピーチをした。二条千河さんの自作品朗読と受賞のことばは、若いころ演劇をやっていたからか、舞台人のパフォーマンスのような力強さ、覇気があり、驚かされた。なお、クラブ賞は草野信子氏(詩集『持ちもの』)が受賞。式の後は大門付近の店で近しい者たちが集まりささやかな祝宴、終えて店を出たら、西の方角におばけのように東京タワーが輝いていた。
(池田康)
posted by 洪水HQ at 15:21| 日記
2022年04月02日
「東京人」5月号書評ページ
「東京人」5月号の書評ページで小池昌代さんが宇佐美孝二著『黒部節子という詩人』(洪水企画/詩人の遠征11)を紹介・批評して下さいました。是非ご覧下さい。
(池田康)
(池田康)
posted by 洪水HQ at 09:30| 日記
2022年04月01日
「現代短歌」5月号
「現代短歌」5月号(90号)の特集は「アイヌと短歌」で、まずバチェラー八重子(1884〜1962)が紹介され、「ふみにじられ ふみひしがれし ウタリの名 誰しかこれを 取り返すべき」「亡びゆき 一人となるも ウタリ子よ こころ落とさで 生きて戦へ」等のアイヌの悲運を表現する代表歌が掲出される。「ウタリ」とは「同族」の意という。他に違星北斗、森竹竹市、江口カナメといった歌人たちもしっかりスペースを取って紹介されている。
まず第一に感じるのは、国や民族の危急存亡のときには詩歌は民族の歌声を汲み上げるものだということ。これは独特の調子の高さを生み出す(ヘルダーリンもいくらかそういうところがあるだろう)、と同時に、戦時中の日本の詩歌のように、危うさを帯びてしまうこともありうる。詩歌は「民族の歌声」をできれば過度に孕まない方が安全で幸福なのだろうが、どうしても噴き上げてくる時もあるのは否定できない。今のウクライナの詩歌人は、なにか書いているとしたら、どのようなものを書いているのだろう。
横道にそれるが……「戦時中の日本」で思い当たるのだが、ウクライナでの戦争が始まった時点で、日本にできることが一つあったのではないか。それは「疎開」という概念を伝授することだ。激しく砲撃・空襲される都市に子供たちを残すのはよろしくない。可能ならば、比較的安全な田舎の地域へ集団疎開させるべきだろう。「生きて戦へ」はスピリットとしてはわかるし感銘を受けもするが、子供を現実の戦いの最前線に置くのは無茶だ。わが亡父も、戦時中の集団疎開の経験をひどく辛くひもじかったとよく語っていたが、辛いとしても命を落とすよりはましだ。概念があれば実行できることも、それがないと全く思いつかず実行されない、ということもあり得るだろう。「アメリカンドリーム」という言葉がなければアメリカで成功を夢みて努力することは少し余計に骨が折れるだろうし、「津波てんでんこ」という思想語彙がなければ津波のとき他人にかまわずてんでんこに逃げづらい。
アイヌに話を戻せば、アイヌ語を話せないアイヌ人という境遇も出現しているとのことで、これは政治、統治のあり方がからんでいるのだろうと思われるが、悲痛だ。
バチェラー八重子歌集『若き同族に』より。
野の雄鹿 牝鹿子鹿の はてまでも おのが野原を 追はれしぞ憂き
寄りつかむ 島はいづこぞ 海原に 漂ふ舟に 似たり我等は
古の ヌプルクイトプ 知らせけり ポイヤウンペの 行くべき道を
石のごと 無言の中に 力あれ ふまるるほどに 放て光を
逝し父を まだ帰らずやと 思ひつつ 家中さがしつ 幼なかりし日
霊にだに 会ひたきものと 暗闇に 目を大きくも 開けて見しかな
有珠コタン 岩に腰かけ 見てあれば 足にたはむる 愛らし小魚
オイナカムイ アイヌラックル よく聞かれよ ウタリの数は 少くなれり
(池田康)
追記
英語に「evacuate」という言葉があったことを思い出して、辞書を引いてみたら、
The children were evacuated to the country (during the war).
という例文が複数の辞書に出ていた。
してみるとこれは常識とされている事柄なのだろうと考えられる。
posted by 洪水HQ at 12:06| 日記
2022年03月29日
「現代詩手帖」4月号
「現代詩手帖」4月号に寄稿しましたのでご覧下さい。「詩人はオペラである」という変なタイトルのエッセイです(「横断する表現」というリレー連載のコーナー)。なお、この号の特集は「新鋭詩集2022」となっています。
(池田康)
(池田康)
posted by 洪水HQ at 12:17| 日記