2016年09月13日

秋元千惠子著『地母神の鬱』

jibosinnoutsu.jpg歌人の秋元千惠子さんの環境詠に関する論考やエッセイを集めた本『地母神の鬱 ─詩歌の環境─』が〈詩人の遠征〉シリーズの第8巻として洪水企画から出た。長年にわたり書き継がれた、環境問題を短歌の詠に組み入れることに関する思考の集積であり、己自身の真率で偽りのない抒情を基本とする詩型である短歌にどうやってポエジーをそこなうことなく環境問題の議論を取り入れるかは難しい問題があるわけだが、あえて〈社会〉に目を向けようとする秋元さんの半世紀近くにも及ぶ努力の継続は非常に重い。
この課題をより抽象的に(次元を高くして)言えば、詩歌に文明論的思考を取り入れるということであり、これは戦後詩が当然のことのように行ってきたことであって、この時代に生きる人間としてなんの不思議もない営為だ。短歌でも前衛短歌あたりでは高度な仕方でこの試みがいろいろなされており、本書後半の、他の歌人たちの作品を鑑賞する章ではその構築が丹念に読み解かれている。秋元さんはこの文明論的思考の方法論を故玉城徹から学んだそうだ。抒情を旨とする上田三四二の教えと、そして玉城徹の思想性とが、自分の二つの基礎になっていると語る。
ということで問題意識がはっきりしており、真摯な、非常に考えさせられるエッセイ集と言える。終戦直後のころ、DDTまみれのトマトを食べてひどい腹痛にみまわれた忘れられない経験をし、後年荻窪で自然食品の店を営んだ人間としての実際的知識、経験、感覚の蓄積が独自の重みを創りだしているのではないだろうか。
自選百首も含まれていてこの歌人の歌業のエッセンスを味読することができる。
書名は
 うらうらと揚がるひばりの空の鬱 孵らぬ春に地母神の鬱
という短歌からきている。
地母神はわれわれの近現代のある歪な部分を衷心から憂いているのだ。
(池田康)
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2016年09月10日

絵魔術に会う

夏のはじめに購入した青春18きっぷを期限ぎりぎりであまらかしていたので、それを使いながら昨日、案内をいただいていた名古屋ボストン美術館開催の「ボストン美術館所蔵 俺たちの国芳 わたしの国貞」展の内覧会におじゃましてきた。ボストン美術館は浮世絵をなんと五万点以上持っているそうだが、そこから精選した170点ほどが展示される。歌川国芳と国貞の二人は江戸時代の晩期に生涯を送った絵師(歌川豊国門下)だが、二百年の太平の文化・風俗の爛熟の中で研ぎ澄まされた浮世絵の精妙奇抜な構図学が実現させる“絵魔術”の面白さを堪能した。物語絵の入魂の凝縮、ポートレートの鮮やかな切り取り。「江戸の「俺たち」を熱くした、国芳が描く英雄や任侠の世界。江戸の「わたし」が憧れ夢見た、国貞が描く歌舞伎役者に美人たち」と展覧会ちらしは説く。現代のポップカルチャーに通じるものがあるという解説もそのとおりだろう。二度三度とリピートして通いたくなる強烈な魅力がある。
帰途、浜松でご当地のおいしいものを食べて胃袋のほうも満足させて帰ってきた。
(池田康)
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2016年09月04日

毎日新聞ご覧下さい

本日の毎日新聞の書評欄MAGAZINEコーナーに「洪水」18号が取り上げられ、佐藤聰明さんのエッセイが詳しく紹介されています。ぜひぜひご覧下さい。
(池田康)
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2016年09月03日

虚の筏17号

「虚の筏」17号が完成しましたのでご覧下さい。
http://www.kozui.net/soranoikada17.pdf
今回の参加者は、久野雅幸、二条千河、海埜今日子、たなかあきみつ、小島きみ子、平井達也、酒見直子の皆さんと、小生。
(池田)
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2016年08月23日

悲願幻想の最重量

台風も直撃のような形でやってくると油断できない。高いところにある常設拡声器からの注意報が耳を脅す、この夏一番の大荒れの日だった。
リオ・オリンピックが終わった。ときめく瞬間や心揺さぶられる場面がいろいろあったが(女子柔道・田知本遥のあしたのジョーみたいな極限の戦いぶり、陸上男子400mリレーの鮮やかな走りっぷり、など)、言語上のカルチャーショック的なときめきの第一は、女子マラソンのメダリスト三人の名前。スムゴング、キルワ、ディババ。響きがあまりに新鮮、完璧な異質さにどきりとした。四年間有効の必勝祈願のおまじないの文句にするといいかもしれない。ケニアとバーレーンとエチオピアの選手で、アフリカの方角の空気がさっと広がるように感じられた。男子マラソンも、キプチョゲ、リレサ、ラップ、と三位にアメリカ選手が入っているが、なかなか刺激がある。二位の選手は自国に抗議するデモンストレーションをやったことでも注目を浴びていた。
また、これは新聞で読んだ話だが、ブラジル・サッカーチームのネイマールは決勝の試合で「エオ・エスト・アキー(俺はここにいる)」と叫んだとか。これも言葉の角張ったフィギュアが印象に残る。試合の最後のPKで、彼の上にのしかかったブラジル国の悲願の重さは、かつて円谷幸吉が感じたものに匹敵するだろう、大変なものだったに違いない。この伸るか反るかをサヴァイヴできたのはラッキーだった。大会を通しての悲願幻想の最重量をもちあげた金メダル。
(池田康)
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2016年08月17日

新実徳英著『A.E.あるいは希望をうたうこと』

この夏、作曲家の新実徳英さんの上記エッセイ集が刊行された(ARTES、本体2200円)。毎日新聞九州版に2007年から2013年まで月一回で連載されていたもので、九州の話題も所々に挟み込みながら、作曲のこと指揮のこと合唱のことなど、自ら職業とする音楽に関するあらゆる現象や経験を思いつくまま、独特の軽やかにダンスするような口調で語ってゆくので、読者は楽しく読みながらいつの間にかたくさんのことを学んでいるはずだ。多くの場所で表されるバッハに対する敬愛の念は、そこまでなのかと、ちょっと驚くほどだし、仏教関係の特別の曲を含む近年の新作創作の破格の多忙ぶりも、知りませんでしたと恐れ入るばかりだ。
このエッセイ集のもっとも重要な点は、2011年の東日本大震災をはさんでいることで、連載にとっては図らずものことだったろうが結果的にこの本の貴重な意義となっている。タイトルの「A.E.」というのは「After the Earthquake」の略であり、新実さんは忘れてはならないの心から大震災以後の自作に「A.E.番号」をつけているのだ。2011年3月以降の章ではしたがってその関連の話が多くなっている。巻末に収められている、詩人の和合亮一さんとの対談ももちろん大部分は大震災をめぐってのやり取りであり、おおいに考えさせられる。
こう書くと深刻そうに聞こえるが、全体を通して感じられるのは新実さんの楽しそうな声の明るさ、心映えの明朗さであり、「希望をうたう」というタイトルの言葉はぴったりと言える。新実さんの音楽を聴いたことがある方は(ない方も音楽に興味があれば)ぜひ本書を手にとってこの作曲家の思考と感性の柔軟な動きに接していただきたい。
(池田康)
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2016年08月13日

ポール・サイモン DUNCAN

ポール・サイモンの新しいアルバム『STRANGER TO STRANGER』のボーナストラックに、かなり昔の作品「Duncan」が入っている。最近のライヴで演奏されたものの収録。この曲は2002年のベスト盤『The Paul Simon Collection / On My Way, Don't Know Where I'm Going'』でも本編にこそ入ってないがやはりボーナスディスクにロンドンでのライヴ演奏版が収録されている。かなり大切な曲なのだろうか。もともとは1972年のアルバム『Paul Simon』の2曲目。
「洪水」18号のエッセイでこの歌手の仕事に触れたこともあり、この際彼のオリジナルアルバムのすべてを聞いておこうと、『THE COMPLETE ALBUMS COLLECTION』というボックスセットを手に入れたら、有難いことにその中に2枚のライヴ盤も入っていて(1974年と1991年のもので、どちらも感涙級の演奏)、1974年の方ではこの曲が「El Condor Pasa」と「The Boxer」の間に挟まれて5曲目に演奏されている。この位置は正確にこの曲の性格を表している。フォルクローレの響きと調べのなかで虐げられた人間の声を聞くという点で「コンドルは飛んでゆく」に通じ、心理的&物質的に無一文の情況をうたうという点で「ボクサー」に通じている。「Holes in my confidence/Holes in the knees of my jeans...」故郷を離れ貧窮する若者が聖書を説く娘と出会い……『PAUL SIMON LYRICS 1964-2016』の序文でDavid Remnicは「Duncan」を挙げ、ポール・サイモンは複雑な物語を信じ難いスピードで構築する、と指摘している。その通りだが、第一に、どうして〈無一文の孤独の生〉にこんなにも迫真的に憑依できるのかということに驚く。「ボクサー」も同様で底辺を歩むきびしい生の姿が描かれる。自身の経験もなにかあるのかもしれないが、もっと奥のアメリカの原点、移民として無一文でこの地にやってきた祖達の途方にくれた絶望の声が響いているような気もする。アメリカにはどこかにそのような生活の底のアナーキーなまでの無一文の感覚があって、それが彼の歌に染み出てくるのではないだろうか。
「ボクサー」の第4連ではrolling、rockingという言葉が出てくる。年月が経とうと、根本のもの(…just a poor boy…)はなにも変わらない…。これが彼のロックンロール観につながっているとすれば、かなりもの悲しい傾きのものと感じられる。そしてそのような無一文の感覚がworld musicへの道を拓いているような気もするのだ。
アルバム『Paul Simon』にはボーナストラックに「Duncan」のデモ版も収録されていて、完成されたものと相当違っており、興味深い。最新アルバム所収の「Duncan」は声の深さが嬉しい。
(池田康)

追記1
アルバム『STRANGER TO STRANGER』本編は『グレースランド』ほどの強烈な斬新さはないものの、各曲で音楽の新しい調子や形を追求しており、その手掛かりとしてサイモンは付属冊子の自作解説で独自の楽音システムを考案した作曲家ハリー・パーチとフラメンコの演奏(手拍子足拍子つき)を挙げている。ラブソングでありながらラブソングの構造そのものをクリティカルに省察したり(タイトル曲)、伝説の野球選手の話が究極の宗教の問題に展開したり(COOL PAPA BELL)、詞の動き方が意表をついていて、聴き込むほどに興が深くなる。

追記2
今回いろいろ聴いた中で、「Take Me To The Mardi Gras」(アルバム『There Goes Rhymin' Simon』1973 所収)が気になった。曲の最後の方で、マルディグラの祝祭の音楽なのだろうか、輪郭がぼんやりとした、いろんな色の雲が遊んでいるような、とても不思議なかんじの音楽が出てくる。なんとも魅力的。こんな音楽をやるバンドがあるなら、ぜひ聴いてみたいものだ。
『The Paul Simon Song Book』(1965)から…「A Church Is Burning」、「A Most Peculiar Man」は聴き逃してはならない。心して聴くべし。そして「Kathy's Song」はこの世で最も美しい歌の一つだろう。なにを今更と言われそうだが。

追記3
『LIVE IN NEW YORK CITY』(2012)を聴く。うーん、やはりこの人は聴かない方がいいのかもしれない!? 他の人の大概の曲が凡庸に思えてくる。
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2016年08月07日

蜂の巣

 蜂はとんでもないところに巣をつくる
 たとえば男のアパートのベランダ
 其処がとんでもないのは たんに
 男の都合にすぎないのだが

 特別に歓迎はしない
 無理矢理追い出しもしない
 刺さないでね
 ひらにお願いするだけだ

 蜂よりも燕の巣のほうがいいのにと
 贅沢を言うものではない
 蜂には蜂の幸福がある
 巣は幸福の象

 散歩の途中サルビアの周りを飛ぶ
 一匹の蜂 あれはウチの蜂だ
 と考える はや身贔屓の
 蜂の家の一員になりたがっている男

ついでにもう一つ、日常生活の独り言のような零墨詩。ベランダに蜂の姿をときどき見るようになったのはかなり前だから春の早い頃から巣はあったのかもしれない。存在を確認したのはつい最近。彼らはどういう条件でロケーションしたのだろう。空き家になっているアパートメントもあるのに。
(池田康)
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2016年08月06日

スモモ頌

 貴陽を今夏の楽しみとする
 紅く熟れて高慢ちきに醇なれば
 成敗してやると歯を立てて齧るに
 果実は快を叫び果汁を迸らせる

 暑熱は生命臨界の高い山脈を造り
 朦朧として登り行く陽炎の影
 朱夏 大きな果実 光の童話
 登場人物はすべて裸で光彩を読む

 夏の光 夏は光り 彩に重なる彩
 ほのかに歪な楕形に凝結する枝先
 光の実をもぎ取る手 太陽の巨人
 夏は神々の真昼の正餐の大皿だ

 蝉たけり 草むし 雷雨あらう夏
 李の季は甘い酸いただ一語に熟れて
 その光身を口にふくむとき一語溶け
 仮象の〈内〉と〈外〉をつなぎ合わせる

貴陽というのはスモモの一品種、比較的新しい種類だろうか、食べてみるととても美味いので感激のあまり、スモモ頌を書きつづり深甚の謝意を表した次第。一種の機会詩なのでタイミングを考慮したく、旬のうちに、ただちにここに紹介した。冒頭の「貴陽」には「あなた」とルビしたいところ。
アイスクリームやかき氷も風物だし桃もスイカも勿論おいしいが、このところ私はもっぱらスモモビトとなって貴陽に専念執心している。
(池田康)
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2016年07月31日

吉増剛造展 声ノマ

昨日上京の用事についでに、かねて林浩平さんから勧められていた吉増剛造展「声ノマ」(竹橋・東京国立近代美術館)を観た。タイトルは「声の真」「声の間」「声の魔」を意味するらしい。詩の草稿・生原稿、日誌や書簡、多重露光写真や映像作品、さまざまな音源を収めた数百本のカセットテープ、銅板打刻オブジェ、などなど、詩人という地味な存在が作り出すものとしては例外的に華やかな景観となっている。最新の詩集『怪物君』(みすず書房)が会場に無造作に置かれていて自由に頁をめくれるのはありがたい。最後の部屋では舞踏家の大野一雄とのコラボレーションの映像作品を上映していて、大野の芸を目の当たりにすることができる。これを自己解釈として見るならば、「私の詩は“暗黒舞踏”である」と言っているのであろうか。
近著『我が詩的自伝』(講談社現代新書)は詩人自らがざっくばらんに語る、生きてきた時代のドキュメントのようで、おもしろそうだ。
(池田康)
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