2021年11月04日

『亡骸のクロニクル』が北海道新聞文学賞詩部門佳作に

二条千河詩集『亡骸のクロニクル』(洪水企画)が第55回北海道新聞文学賞・詩部門の佳作に選出され、今日の紙面に発表された。選考委員は、阿部嘉昭、工藤正廣、松尾真由美の三氏。今回本賞は該当無しだったようだ。以上、速報として。
(池田康)
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2021年10月30日

「詩素」11号

詩素11002.jpg「詩素」11号が完成した。今回の参加者は、海埜今日子、大仗真昼、大橋英人、小島きみ子、酒見直子、沢聖子、菅井敏文、大家正志、高田真、たなかあきみつ、七まどか、南原充士、新延拳、二条千河、野田新五、八覚正大、平井達也、平野晴子、南川優子、八重洋一郎、山中真知子、山本萠、吉田義昭のみなさんと小生。
巻頭トップは、酒見直子さんの「種」。これは、雑誌完成後の酒見さんからのメールでの裏話によれば、菊田守さんとの思い出をベースに書いたとのことだ。
そのほかに、野田新五・新延拳の両氏の作品が巻頭に入っている。
〈まれびと〉コーナーは山田隆昭さんをお招きした。
また、南原充士さんの企画で、詩の推敲についての、谷川俊太郎さんへの書簡インタビューを掲載している。
表紙は、11号から第二ラウンドということで色調をあらため、外国詩の詩句を載せることにして、今号はイエイツの「He wishes for the Cloths of Heaven」より引用している。
まだ残部ありますのでご注文下さい(500円)。
(池田康)
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2021年10月23日

この秋のはまりごと

この秋は、紀州有田産のみかんを試している。たまたまこの産地のSサイズのみかんを買ったら、よかったので。外皮をむけば、あとは薄皮ごと食べられる。薄くて脆い、あるかなきかの薄皮なので、これをいちいちむいて食べる方が難しい。というわけで、この産地のMサイズのもの、Lサイズのものと、順に試しているが、大きくなるにつれ薄皮も存在感が出てくるようで、上記の体験をより理想的な形で期待するなら小さめのものを選ぶのがよさそうだ。みかん三昧の季節がくる。
また、最近なぜか、米国のTVドラマ「ツイン・ピークス」(1990年。デイヴィッド・リンチが監督している。タイトルは日本語でいえば二上山のような意味か)を見返し始めている。なぜか……特別なきっかけがあったということでもないのだが、前世紀の末頃に見ていて、背筋が凍るようなシーンに出くわして、怖くなって途中で見るのを止めたようにおぼろげに覚えていて、それがどういうことだったか、「みらいらん」次号で恐怖を特集することもあり、確かめてみようという考えなのかもしれない。まだエピソード3まで見ただけだが(見たことのない人のために付言すれば、エピソード1の前に一時間半のパイロット版というものがあり、これから見ないと話がわからない)、登場人物がいずれも生彩があって魅了される。影のつけ方が巧み。余談になるが、映画「ノマドランド」で使われていたシェークスピアのソネット(あなたを夏の日にたとえようか…)がこのドラマでも出てきて(町の大立者が悪所で口ずさむ)、おやおやと思った。この詩は英語圏では誰でも知っている有名なものなのだろう。
もう一つ、夏から秋にかけて秋元千惠子作品集『生かされて 風花』の制作にかかりきりになっていて、それが終わった後も、蝦名泰洋・野樹かずみ両吟歌集『クアドラプル プレイ』、福島泰樹歌集『天河庭園の夜』、加藤治郎著『岡井隆と現代短歌』と、短歌に向かい合う時間が続いている。これらの本のことは「みらいらん」次号に書くと思うが、最後の『岡井隆と現代短歌』で歌人独特の言語感覚を感じた箇所があったので紹介したい。岡井隆の歌、

 ホメロスを読まばや春の潮騒のとどろく窓ゆ光あつめて

について、「この歌の核心は、ホメロスでも春の潮騒でもない。「ばや」という助詞の明るい音韻とほのかな願望が一首の要なのである」と解説している。専門家はそんなところに目がいくのかと驚いた。一般読者としては、ホメロスぐらい読もうじゃないか視野の狭い諸君よ見えない監獄の中のわれわれよ、と教養人岡井隆がやさしく慫慂している面は確かにあるように思うわけだが。もう一首、

 蒼穹は蜜かたむけてゐたりけり時こそはわがしづけき伴侶

「蒼穹」には「おほぞら」とルビがある。この歌については(宮沢賢治の詩との関連が指摘されたあとで)「この豊かで複雑な「蒼穹は蜜かたむけて」という像は「ゐたりけり」という強烈な韻律に引き絞られる。「ゐたりけり」こそ一首の要であり、短歌の存在証明なのである。風景は鋭くえぐり取られ、下句に手渡される。」と語られる。イメージより措辞に注目するところ、短歌の専門家は違うなと痛感するのだ。
(池田康)
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2021年10月13日

秋元千惠子作品集『生かされて 風花』

生かされて風花帯付きs.jpgこの一夏かけて制作していた秋元千惠子作品集『生かされて 風花』が完成した。発行=現代出版社、発売=洪水企画。A5判上製、776ページ(!)、発行日10月5日、定価税込8800円。
歌人・秋元千惠子の主要な文業の集大成であり、既刊歌集を網羅した全歌集のほか、主要評論、小説作品を収め、この歌人の世界を一冊で展望する。
帯には、
「時代の傾斜を幻視する、悲憤の祈りの行である歌と散文。
半世紀を超える短歌・評論・エッセイ・小説の多彩な文業がここに集結して一冊となり、鏡のように互いに照らし合うことで、自分の道を生き切る文学者の全貌が示される。文明の病いと戦う孤高の母性、昭和の生き証人の自負と責任は、言葉の重さ、調べの高貴さ、想の深さとなって短歌に凝縮され、散文においては切なる生命論として雄弁に語られる。比類なく真率なエレジーがここにはある。」
とある。
全歌集は歌集『吾が揺れやまず』、『蛹の香』、『王者の晩餐』、『冬の蛍』、『鎮まり難き』に加えて2016年以降の歌集未収録作品も収録する。評論集3冊『秋元千惠子集 自解150歌選』、『含羞の人 歌人・上田三四二の生涯』、『地母神の鬱 詩歌の環境』もすべて完全収録。そして若い頃に書いた短篇小説の中から5篇「霧の中」「ぶらんこ」「白い蛾」「すず虫」「花影」を収める。ほかに、上田三四二論の拾遺、山崎方代を論じた諸文章、エッセイ、書評の類で構成される。

昨年末から今年にかけての秋元貞雄作品集『落日の罪』の編集も大変だったが、今回の本は膨大なページ数のこともあり更に二倍も三倍も難儀だった。制作期間がおよそ3ヵ月半しかなく、その中で歌集5冊、評論集3冊、短篇小説5篇、その他のたくさんの既発表文章をまとめ上げる編集作業は、時間的余裕がまったくなく、ほかの用事は棚に上げてこれに全力集中するよりなかった。なんとか予定日付近に完成に至ることができて、胸をなでおろしている。
全歌集を編集するのは神聖さを帯びた特別な経験で、この本の中でも一番重要な部分であり、間違いがないか、何度も校正したが、どうだろうか、誤字などが残っていないことを祈るのみ。
巻末には、秋元千惠子年譜と、酒井佐忠氏の批評文「環境詠から宇宙的文明論へ」(「ぱにあ」104号掲載のもの)、そして小生が書いた解説「終末を幻視する歌」を収めてある。その解説の最後の部分を紹介する。(すこし前のところで「私はこの歌人の最終到達点を終末思想の歌に見出したいと考える。もっとも真正な終末観を示す歌人、それが秋元千惠子だと言ってみたい。」と書いていて、そのことを念頭においてお読みください)

「甲村下黒澤の沢の蟹 われら人類ほろぶとも生きよ

歌集『王者の晩餐』所収。これは終末歌の絶唱だろう。故郷を蟹に託す。この「愛」をどう形容したらよいのだろう。終末歌が望郷歌でもある未踏の境地だ。

まぼろしか 水清からぬ川の辺の茅の枯葉に冬蛍ひとつ

歌集『冬の蛍』のタイトル作。これは「まぼろし」である。冬に蛍はあり得ないのであってみれば、あえて反語的に描かれた幻想画。『秋元千惠子集 自解150歌選』にはこの歌の項に「終末を思わせる冬枯れの川、そこに光る一匹の蛍に、私はまだ望みを託している」と記されているが、望みというよりも、蛍の姿を借りた〈生命〉の霊が大地の死に対して読経しているかのような印象を受ける。世界像でもあり自画像でもある。初句の疑問形の微妙さが歌全体の虚実を揺動させる。秋元千惠子は初句で鋭い切れを作るような歌をときどき書くが、これはその中でも最高作だろう。

老い扨ても冬こそ相応うこのわれに地磁気狂えと烈火もたらす

これは歌集未収録の、二〇一九年の作。予言者の裂帛の気が感じられる。秋元千惠子の終末観をうたう歌は、レトリックの一環として、あるいは珍しい味付けとして、あるいはおどろおどろしい影をつけたいがために、終末的要素を用いるといったような表層的なものではなく、真正の終末図・終末歌たり得ている。それはこの歌人が自分のやむにやまれぬ文明論的思考を愚直にひたに貫いてきて、同時に「故郷」への愛を普遍的なまでに育んできた、その結果だと思われるのだ。峻厳な終末を詠む権能を獲た希有な歌人である。」

そして著者・秋元さんのあとがき(─蘇れ詩魂─)から、最後の部分を。

「夫の生れた満州でも、私の山梨でも、風花は儚いが懐かしい。希有にして出会った二人の先祖をおろそかにしてはならない。感謝を込めて両家の家紋、秋元の「揚羽蝶」、輿石の「左三つ巴」を、この秋元千惠子作品集『生かされて 風花』の表紙の装丁に戴いた。秋元貞雄作品集『落日の罪』と「比翼作品集」にした。ふたりの、ささやかな文学の営為も、父母、兄弟、友人の声援あってのことであり、感謝の念はつきない。
余談になるが、胃ガンの手術直後「いくつになってもお母さんは恋しいものですね」と看護師さんに言ったとか…記憶にない。

わが洞に羽音とよもすは始祖鳥か声ありて詩魂の蘇りたり   千惠子」


大冊で値段も張るが、是非入手してゆっくり繙いていただきたい。
(池田康)
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2021年10月02日

『ビザンチュームへの旅』の新聞記事

新倉俊一詩集『ビザンチュームへの旅』が9月19日の神奈川新聞にて紹介されました。「西脇順三郎に師事しただけに、本書の題材も幅広い」「全編に海の香りが漂う」「好奇心や遊び心がさりげなく表出している」など。巻末に収められたエッセイ「詩人の曼荼羅」への言及も嬉しい。ぜひご覧下さい。
また、城戸朱理氏も共同通信の記事「詩はいま」にて紹介して下さったようで、幾つかの新聞に掲載されたはずだ。城戸さんに見せて頂いたテキストによれば、二十世紀のアメリカ詩の源流とされるエズラ・パウンドを日本に紹介してきた業績から追悼を始め、本詩集所収の「ニケ」を引用した上で、「新型コロナウイルス禍についての言及も目につくのだが、最後にたどり着くのは「ニケ」に見られるような絶対的な自由であったことに注意しよう。それこそ詩の力にほかならない。」と結ばれる。
広く読まれることを期待したい。
(池田康)
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2021年09月10日

新聞の記事のこと など

宇佐美孝二著『黒部節子という詩人』(詩人の遠征シリーズ11巻)が、8月23日の中日新聞夕刊〈中部の文芸/詩〉と、8月30日の同紙夕刊〈中部の文芸/小説・評論〉にて紹介、論評された。
また、秋元貞雄作品集『落日の罪』が6月24日山梨日日新聞にて紹介された。ぜひご覧下さい。
さらに。神泉薫著『十三人の詩徒』(七月堂)が刊行されたが、これはかつて「洪水」誌に連載された詩人論に2篇を加えて一冊としたもの。こちらもご注目下さい。
(池田康)
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2021年09月08日

支配される恐怖

ようやく夏も終焉、ひぐらしと入れ替わり秋茜が飛ぶようになった。
今年も内外に騒擾が少なくない。ミャンマーのクーデターが世界中に憂慮の声を沸き上がらせたのは2月だったが、この8月から9月にかけてアフガニスタンで米軍撤退とともに軍事力による政権交代が起こって、蜂の巣を突くような騒ぎになっている。
これらの動きをどう受け止めたらよいのか、正直なところ、受け止めようがない、狂った現実として傍観するほかないのだろうが、なにがどうであれ、まず基本的な指標は、国民の承認を得ているか、だろう。どんなに奇妙な政治形態でもその国の人々がよしとしているのであれば外からとやかく言っても仕方がない。しかしデモ隊を兵士が火器で制圧したり、メディアを理不尽に抑え込もうとしたり、国外へ逃れようとする人が数多くいるという事実があるなら、国民の承認を十分に獲得しているとは言い難い。そもそも武力によって政権を奪取するというやり方は(20世紀を終えた人類の歴史物差しで言えば)百年前二百年前の国盗り物語の作法であり、そんな時代の支配者層の政治感覚は、民草は上手に支配すればよいという考え方であろうから、承認を得るという必要性は感覚できないのではないか。たまたま国政の手綱を握った者が真の統治者になるためには、国土の生命から、そして世界の理性からのフィードバックは必要であるはずだ……制御工学で言うところのフィードバックの機能は、機械が安定して作動するために重要な要素であり、フィードバックを軽視、除去するならば、システムは暴走して地獄の沙汰へと赴いても不思議ではない。
「みらいらん」次号では「恐怖」をテーマにした特集を考えているが、「支配される恐怖」は、われわれが経験する恐怖の無数の可能性のうちでももっとも深刻なものだろう。
(池田康)
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2021年09月01日

高橋馨詩集『それゆく日々よ』

それゆく日々よ002.jpg高橋馨詩集『それゆく日々よ』が洪水企画より刊行された。A5判並製、88ページ、定価税込1980円。この本は春から編集を開始していて夏に入る前にすでに仕上がっていたのだが、予定していた発行日(9月8日)に合わせて印刷しようと、一ヵ月ほど寝かせていたのだ。そうやって思考の連続が途切れると、どの紙をどう使って一冊を構成するかという思い描いていたバランスの感覚を忘れかけてしまい、再開するときに少々慌てたが、完成してみると割合うまくいっており、ほっとした次第。
1938年生まれの著者はすでに傘寿を越えており、老年の日々に浮かぶ切実な(ときにとりとめのない)詩想を書きとめた26篇が集められている。帯文には、
「招かざる客のあてどなき彷徨
詩を重いものにしない精神の軽やかさ、ささやかなことを面白がる好奇心。ユーモアと諦念の混ざり合う老境の心象は日常的で彼岸的な絵をえがく。生まれてくる奇妙にこんぐらがった描線を真の自画像として読み解く鍵をさがしながら。エッセイ「映画〈異端の鳥〉と戦後少年」が付される。」
とある。自らの存在を「招かざる客」と見定めているところに、感じておられる刻々の危うさ、世界との関係の覚束なさが表出されている。
装丁(装画も含め)は高橋さん自身の手によるもので、シンプルに美しくまとまっているように見えるが、相当な試行錯誤を経ている。本文中には詩と連繋する形で著者撮影の写真が数葉はさみ込まれていて、この詩集の特色になっている。
帯の裏側には作品「アブストラクトな散歩」の末尾の部分が引用されているが、その同じ部分をもう少し前から長めに引用紹介しよう。

 川の名は知らない
 橋の名も知らない
 ひっきりなしに行き交う
 産廃ダンプやライトバンや乗り合いバス
 国道の名も知らない。
 川沿いの散歩道
 ときどき足を止めて川面を眺めている
 この男は何者
 澄んでいるとはいえない川を遡って
 どこまでやってきたのか
 どこにも通りの名は見あたらない
 無名の街に
 無名のものであふれかえっている。
 八一の男は相変わらず
 水藻の揺らぐ川底を眺めている
 どこまで来たのか
 迷っているのかも知れない。
 亀のような塊を胸に抱え
 鴨の詠嘆の響きはなく
 まして鯉は
 遠くで尾びれが 微かに揺れている。
 しかし、なぜ
 流れはいつも一方通行なのか
 明日は逆に流れないのか
 呼気と吸気が
 いつもセットなのに。
 亀も水鳥も鯉も
 生きとし生けるものは
 流れに逆らって生きている
 力尽きたものだけが
 女の髪のような水草から
 しがみつく手を離して
 悲鳴もあげずに流れていく
 男は知らずにため息をつき
 何時までも
 川面を見つめている
 もうそろそろ
 巣穴に引き返す コロあいかナ
 ひろった石を
 ぽとんと投げてみる
 ピリオドのように。

(池田康)
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2021年08月28日

訃報・新倉俊一さん

新倉俊一さんが8月23日に逝去された由、八木幹夫さんが知らせて下さった。享年91。(新倉家への電話はしばらくの間おひかえ下さいとのこと)
7月に弊社で詩集『ビザンチュームへの旅』を作ったばかりだったので、驚き、茫然とした。詩集が完成したとき電話でお話ししたのだが、お元気そうで、とても喜んでおられたのが思い出される。詩集制作の打合せのとき、自分の最後の詩集だからということを言われて、どういう気持ちでそんなことをおっしゃるのだろう、半分は冗談なのだろうかといぶかしんだのだったが、結果的にその通りになった。清らかな詩の奥津城をご自身で用意して逝かれた、みごとと言うほかない。コロナウイルス感染症の社会事情で直接お会いすることが叶わなかったのが残念だ。
6篇を集めた組詩「ヘレニカ」から「ニケ」を引用紹介する。

  ニケ

 鴎は風に翼を任せて
 自由に空を翔けていく
 もし風が私の運命なら
 風の力が駆るままに
 水半球を自在に私も
 駆け巡るだろう
 私は風の器または竪琴
 たとえば天界に昇る
 ベアトリーチェのように
 体と離れた霊を知らない
 風が好むところに吹く
 ように私の霊もまた
 気ままに私の体を駆って
 四海を支配する
 自然はいつも豊かな
 神の祭壇であり私は
 その自由な巫女だ
 私には過去と未来はない
 つねに生気に満ちた
 現在があるだけだ
 今日も風は私を駆って
 新たな海と立ち向かう


(池田康)
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2021年08月23日

訃報・蝦名泰洋さん

歌人の蝦名泰洋さんが7月26日逝去されたとのこと、兄妹のように親しかった野樹かずみさんから知らされた。昨年後半から病気に苦しんでおられたのは知っていたが、これは早すぎる、と恨み言をいいたい気分だ。
「洪水」の時代には毎号批評文を書いていただき、とてもお世話になった。鏤骨の走り書き、とでもいうべき独特の文章で、携帯電話を使って苦心惨憺書いておられたようだ。時々一緒に食事をして近況を聞いたり、それなりの友達付き合いも許してくれたのだが、一番の思い出は競馬だろうか。彼はそうとう好きだったようで、G1レースの感想などメールで交換したりもしていたが、一度だけ一緒に馬券を買ったことがある。2015年5月3日、この日は天皇賞があり、私はすみだトリフォニーホールでのコンサートを聴きに行く予定があったので、開演前の時間に錦糸町駅の近くで落ち合って、馬券売場(ウイング)で購入したのだ。私はゴールドシップの単勝を買って当たり、蝦名さんはキズナに賭けて負けていたことを思い出す。主に三連単を買うバクチの人で、当たることは少なかったのではなかったか。
今年1月に出した「みらいらん」7号に巻頭の短歌作品を依頼していたのだが、結局、病気で苦しくて書けないという返事だった。すでにそうとう進行していたのだろう。したがって小誌に最後に寄稿していただいたのが、5号の小特集・童心の王国のためのエッセイ「僧ベルナール ─季語の誕生」で、以下にそれを部分的に引用紹介する。

 * * * * *

  古池や蛙飛び込む水の音

松尾芭蕉の有名な俳句ですが、あまりいい句ではないのにどうして有名なのかなとずっと思っていました。
同じように考える人が少なくないらしく、いろいろな人がいろいろの解釈をしてきたようです。何か深い意味があり何か謎めいた意図が想像され、それがわかれば句の魅力が理解できるというような何かを探して。
どんな池なのか、ほかに人はいるのか、かえるは一匹なのか二匹なのかもっとなのか。いなかったのか。かえるは一度飛び込んだのか。飛び込まなかったのか。最近の流行は、飛び込まなかったという解釈らしい。
  〈〈中略〉〉
ならばどう読めばいいのでしょう。
この句に息づいているものはなんなのか、と思うのです。芭蕉がなにを意図したのか。どんなものを大事にして書いたのか。ふだんから俳諧に求めていたもの、ひるがえって俳諧が詩人に求めているものはなにか。そのように考えますとフォーカスは春の季語「蛙」に合焦します。
  〈〈中略〉〉
芭蕉は、俳諧は三尺の童にさせてみたらいいと述べています。おおまかに言って素直な五感でものを感じるのがいいということでしょう。芭蕉の想いが蛙に凝縮したとき三尺の童が発動した。ベルナールのようにわたわた走り回って叫びたいんだけれども、そこは黒船来航前の日本人のこと、抑えたのです。しかももの言えば唇が寒い。この句はわびさびに通じる地味な表現になっていますが、詩人の心は逆にうれしく晴れがましさが勝っていたと想像されます。それを季語に託してみようという詩人の動作に見えます。
出光美術館に「古池や」の句が書かれた懐紙があります。ところがその懐紙にはもう一句
  永き日も囀り足らぬ雲雀哉
という作品も並べて書かれています。古池の句よりわかりやすく直接的に春の喜びが表現されており、二句を並べたところに芭蕉の意図が見えるようです。どちらも十中八九フィクションでしょう。しかし、とうとう春が到来したといううれしさは写実的に表現されていると感じます。死生観は考えなくてもいいんじゃないかな。
芭蕉たちは、季語が大切なんだと想いつづけたのだろうと思います。季語の背後には巨大な季節が控えている、そのことを忘れないでいようと想いつづけたのではないでしょうか。俳諧からの詩人への期待もまたそうだと私は考えます。
季語は歳時記に載っているだけでは季語として十分だと言えません。季語はある言葉が俳句作品の中で季語として生まれ変わったときにはじめて季語と呼ばれるべきです。季語の誕生日と該当の俳句の誕生日は、一致します。
あまり良い句ではない、いいではないですか、蛙という季語が生まれ芭蕉の童心に春が来たのですから。

 * * * * *

5号のこの小特集を編集していた当時は、この原稿をもらって、何が言いたい文章なのだろうと首をひねった覚えがあるが、今読み返すと、少しわかる気もする。
詩歌人の玄人式の良し悪し判定の批評眼とは違う種類の、作品の重量(生きる風景の中の山となり川となるような重さ)をなさしめる軸があるのであり、その軸の一方の端は童子の感性が輝き、他方の端は言葉の営みが織り上げる人間の歴史=文化=季の世界の生成に向うのもであり、「芭蕉の童心に春が来た」とはある刹那この軸を握ることを得た詩人の「真実」なのだろう。この文章を書いた蝦名さんは晴れ晴れとしているように感じられる。
(池田康)
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