とても奇妙な味の、ふざけちらすような賑やかさに満ちたトマス・ピンチョンの小説『ブリーディング・エッジ』(新潮社、佐藤良明+栩木玲子訳。帯に「膨大なトリビア」「怪しげな陰謀論」とあるとおりの物語)とつき合い、とても奇妙な味の、うきうきと痛痒とがくんずほぐれつするドラマ「大豆田とわ子と三人の元夫」を見守り、とても奇妙な味の、詩の課題の本丸を急襲するかのような野村喜和夫詩集『妖精DIZZY』(思潮社。函入りの二冊になっていて、一冊は詩のテキスト、もう一冊はそのテキストを使った、山本浩貴+hによる過激なレイアウトデザインの試みとなっている)をおずおずと目撃し……といったかんじで過ごしたこの晩春から初夏にかけての日々だったが、最近はなんの気まぐれからか、ビートルズ・チクルス、ビートルズのアルバムをすべて(すべて持っているかどうか確信がないが)通して聴くという遊びごとをしていた。彼らの曲にもとても奇妙な味のものが多く、さまざまに刺戟を受けるなかで、今回もっとも深いいやな引っかき傷のようなものを残していったのが「NOWHERE MAN」だった。定見を持たず、なにかやっているのだと思い込み、方向感覚を失った人間、それがあなたであり私であるとうたわれる。これが妙に痛く響いてくる。
平凡な日々を送る、平凡な生活にかけがえのない幸せを認める、そのこと自体になんら悪い点はない。しかしその〈平凡〉も時代が用意し規定したものであり時代の好むお手軽さ浅薄さを免れないとしたら、どうだろうか。平凡というNOWHEREは、迷子であることに目をつぶり隠蔽するための平凡だとしたら、やはりいくぶんか堕落の面を具えているのではないだろうか。(失礼、この解釈はこの曲の本来言いたいことと外れるかもしれない)
だからこそ、その〈平凡〉の不可視のバリアを破る〈奇妙〉の槍がときに求められるのであり、そんな狂おしい切先に出会いたいと、根っから平凡な我々はつねに心の底で願っているのだ、たぶん。
(池田康)